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2021年3月7日日曜日

壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居 House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes

 traverse18 2017 新建築学研究18


House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes
壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居

Shuji Funo

布野修司

 

東南アジアの住居―その起源・伝播・類型・変容

東南アジアを歩き出しておよそ40年、その最初の成果である学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究-ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)-そのエッセンスをまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)である-を書いてからも既に30年になる。東南アジアの民家(ヴァナキュラー建築)については、『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究』(主査 布野修司) (Ⅰ: 1981年,Ⅱ:1991年,住宅総合研究財団)以降、『アジア都市建築史』(布野修司編、アジア都市建築研究会,昭和堂、2003年:『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009)、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年:『世界住居』胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年)などによって概観はしてきたけれど、ようやく独自に、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』(布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット、京都大学学術出版会、2017年)をまとめることができた。「壁」を念頭に、そのエッセンスを紹介しよう。

 

顔のない家

R.ウォータソンは、その名著『生きている住まい-東南アジア建築人類学』(Waterson, Roxana (1990), 布野修司監訳(1997))で1章を割いて、ヨーロッパ人が、東南アジアの住居を見て如何に嫌悪感に近い違和感を抱いたかについて書いている[1]。住居は暗くて、煙たく、混雑しすぎで、天井や壁はすすで汚れ、隅には蜘蛛の巣がはり、床は鶏の糞やビンロウの実のカスで覆われ、アリやゴキブリやムカデやサソリが這いまわっており、床下には豚や鶏が飼われていて平気で残り物が捨てられ、不潔だ・・・云々は、さもありなんであるが、興味深いのは、住居そのものが死んだようにみえた、ことである。

 タニンバルの住居の「足の上に屋根がかぶさるというというその形態」(Drabbe(1940))が「死んでる」ように思えたというのであるが、建物が「足」を持っていること、すなわち高床であることに違和感があった。そして、足すなわち高床の杭(基礎)柱であるが、それ以外は頭(屋根)だけで、顔と胴体すなわち壁がない、眼(窓)がない、というのが気持ち悪いのである(図①)。

 「彼らの住居は、床と屋根以外なにもないが、とても巧妙な構造をしている…ほとんどすべてのものが、素晴らしい趣味と驚くべき技術でつくりあげられる彫刻によっていかに精巧に覆われているかをみたあと、…彼らが野蛮人であるのか。…野蛮人とは何か」(Forbes(1885))という極めて高い評価もあるけれど、ヨーロッパ人には、東南アジアの住居には壁がなく、従って窓もないことは、実に奇妙に思えたのである。


 

オーストロネシア世界

われわれが人類の地球規模の居住の歴史と世界中のヴァナキュラー建築を総覧することができるのは、P.オリヴァーの『世界ヴァナキュラー建築百科事典EVAW』全3巻(P. Oliver (ed.) 1997))を手にしているからである。一線の研究者・建築家によるA4版で全2384頁にも及ぶこの百科事典は,今のところ世界中の住居についての最も網羅的な資料である[2]

煉瓦造と木造(図②)の分布図をみれば、壁の文化圏は一目瞭然である。大きくみれば、東南アジアは木造の軸組(柱梁)構造の文化圏に属する。そして、高床式住居が一般的である(図③)。高床式住居は、さらに、西はマダガスカルから東はイースター島まで,東南アジア諸島全体,ミクロネシア,ポリネシア,そしてマレー半島の一部,南ヴェトナム,台湾,加えてニューギニアの海岸部にまで分布する。この広大な海域に居住する民族はプロト・オ-ストロネシア語と呼ばれる言語を起源としており、その語彙の復元によって、住居は高床式であり,床レヴェルには梯子を用いて登ること,屋根は切妻型であり,逆ア-チ状に反り返った屋根をしており,ヤシの葉で葺かれていたこと,炉はたき木をその上に乗せる棚と共に床の上につくられていたことなどが明らかになっている。



 東南アジアの住居の起源については,ドンソン銅鼓(図④)と呼ばれる青銅鼓の表面に描かれた家屋紋やアンコール・ワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像によって窺うことができる。さらに,中国雲南の石寨山などから発掘された家屋模型や貯貝器(図⑤)がある。日本にも家屋文鏡(図⑥ABCDAは、いわゆる竪穴式住居であるが、屋根だけで壁はない),家屋模型が出土している。 



原始入母屋造

 東南アジアの伝統的住居は、以上のような図像に描かれた住居とよく似ている。木材を用いて空間を組立てる方法は無限にあるわけではない。荷重に耐え,風圧に抗するためには,柱や梁の太さや長さに自ずと制限があり、架構方法や組立方法にも制約がある。歴史的な試行錯誤の結果,いくつかの構造方式が選択されてきた。興味深いのはG.ドメニクの構造発達論[3]である。G.ドメニクによれば,実に多様に見える東南アジアの住居の架構形式を,日本の古代建築の架構形式も含めて,統一的に理解できるのである(図⑦)。


G.ドメニクは,東南アジアと古代日本の建築に共通な特性は「転び破風」屋根(棟は軒より長く,破風が外側に転んでいる切妻屋根)であるという。そして,この「転び破風」屋根は,切妻屋根から発達したのではなく,円錐形小屋から派生した地面に直接伏せ架けた原始入母屋住居とともに発生したとする。この原始入母屋造によれば基本的に(構造)壁は要らない。東南アジアのような熱帯・亜熱帯の気候であれば、断熱のために密封する必要はないのである。北スマトラに居住するバタック諸族の住居の壁は垂木と床の側板で挟んだ板パネル(カーテン・ウォール)にすぎないのである(図⑧)。


 

タイ系諸族の住居

 「東南アジアの住居」というタイトルを冠しているけれど、特に焦点を当てているのは、タイ系諸族の住居であり、都市住居としてのショップハウスである[4]

タイ系諸族の起源については諸説あるが,最も有力なのは長江の南部から雲南にかけての地域を起源とする中国南部起源説である。タイ系諸族はもともと長江南部地域において稲作を生業基盤としていた。中国の史書に「百越」「越人」と記される民族がその先人と考えられている。前漢時代に,福建に「閩越」国,広東,広西,ヴェトナム北部に「南越」国を建てたのが「百越」「越人」である。中国でタイ系諸族が集中的に居住しているのは雲南である。

タイ系諸族は,やがてインドシナ半島へ下り,稲作技術を東南アジアに伝える。このタイ系諸族の移動には,安南山脈の東側を下る流れと,メコン河の渓谷と盆地およびさらに西のサルウィン川に沿って下る流れの二つの大きな流れがあるが(図⑨)稲作が可能な低地を居住地としてきたことから,タイ系諸族は「渓谷移動民」と呼ばれる(Heine-Geldern, Robert1923)13世紀までに,タイ系諸族は,西はインドのアッサムにまで居住域を拡げている[5]


言語のみならず他にも「タイ文化」と呼びうる同じ文化を共有してきた。タイ研究者の所説を合わせると,伝統的なタイ系諸族は,①タイ語を話し,②仏教を信仰し,③一般に姓をもたない,④低地渓谷移動の稲作農耕民で,⑤「封建的」統治形態をもつ人々の集団といった共通の特性をもつ。①~⑤以外にも,⑥伝統的には高床式住居に住むこと,⑦親族名称について祖父母名称が4つあること,両親の兄弟について5つの名称があることなどもタイ系諸族の特色として挙げられる[6]

 このタイ系諸族がそれぞれ居住する住居は同じではない。その起源地における形態と移住していった各地域の形態はそれぞれ異なっている。その環境適応の諸形態、その諸要因についての解明が『東南アジの住居』の主要なテーマのひとつである。

 

西双版納(シプソンパンナー)の住居

タイ系諸族の原型と一般的に考えられるのは,その起源地と考えられている西双版納のタイ・ルー族の住居である。それは入母屋屋根の高床式住居で,一棟で構成され(「版納型」),屋根がある半開放的なヴェランダ(前廊),炉が置かれる居間(堂屋),寝室(臥室),そして高床下の4つの空間から構成される(図⑩)。そして,この4つの空間は,明快な連結関係をもっており,入母屋屋根の1棟を構成している。桁行方向と梁間方向のスパン数によってヴァリエーション (図⑪)があるが,ひとつの型として成立している。しかも,1棟からなる原型に加えて,複数の棟で構成される住居形式(「孟連型」)も西双版納で見られる。住居単位とその組合せのシステムが成立している。

この空間構成システムはタイ系諸族の中でも極めて高度であり,タイ系諸族が,これを原型として,南下していったとは考えられない。「原型Architype」として考えられるのは,もう少しプリミティブな、もともと「竹楼」と呼ばれた簡素なつくりの,炉のある一室空間であった。「原型」に近いのは,ミャンマーのシャン族の住居(図⑫)である。「原型Architype」が1棟の住居のかたちで具体化した住居形式,「基本型Prototype」のひとつが「版納型」そして「孟連型」である。     


シアム族の住居

炉のある11室の「原型」が,寝室が分化することで一定の形式「基本型」が成立すると,様々な「変異型Variant」が派生する。

「基本型」からさらに炉のある居間から厨房が分化していくことになる。一般に見られるのは「基本型」の増築というかたちで厨房部分を分離していくパターンである(V1)。そして,やがて厨房棟として独立することになる。すなわち,厨房棟を別に設けて2棟(母屋棟と厨房棟)からなる住居形式が成立する(V2)。この2棟からなる分棟型は,東北タイのタイ系諸族に見られる。また,寝室の拡張や付加も「基本型」を増築すること一般的に行われる(V3)。そして,さらに多くの住棟で住居を構成するパターンが成立する(V4)。その代表がシアム族の住居形式である。一定の住居類型というのではなく,地域によって様々な住居類型を生み出す一次元上の空間構成システムがシアム族の住居形式である。

シアム族の住居では、高床上の大きなテラスを中心に生活が展開される。基本的に、ルアン・ノーンRuean Non住棟,寝室棟)、ラビァーンRabeang ヴェランダ)、チャーンChan(テラス)、ルアン・クルアRuean Krua(厨房棟)、という4つの空間から構成される(図⑬)。


多くの事例を省略したのでいささか舌足らずであるが,第一に指摘できるのは,炉を居室に置く「原型」に近い住居形式が山間部,5つの大河川の上流部のみに見られることである。また,西双版納においては,現在も炉を置く居室が維持されていることである。そして,丘陵部からデルタ部にかけては,寝室棟と厨房棟を分離する住居形式がみられることである。すなわち,ヴェランダ,テラスが増え,住居がより開放的になることである。言うまでもなく,この変容は寒冷な気候から蒸し暑い気候に対応するためである。第二に指摘できるのは,山間部に比べて,下流部では建築材料として小径木の樹木しか利用できないことである。それ故,1棟の空間単位が小規模で,「基本型」のような住居形式を1棟では実現し得ず,1棟の空間を連結させたり,複合化したりする方法が採られるようになるのである。

タイ系諸族の住居形式の原型,伝播,変容(地域適応),地域類型の成立の過程はおよそ以上のようであるが、「壁」のウエイトは総じて軽い。バンブーマットがしばしば用いられることがそれを示している。ポーラスで大きな気積の住居が成立したのは熱帯・亜熱帯の環境が大きい。精緻な開口部のディテールを発達させる必要はなかったのである。



[1] 2 建築形式の知覚:土着とコロニアル」(布野修司監訳:生きている住まい-東南アジア建築人類学(ロクサ-ナ・ウオ-タソン著,アジア都市建築研究会,The Living House An Anthropology of Architecture in SouthEast Asia,学芸出版社,1997).

[2]『世界ヴァナキュラ建築百科EVAW』全3EVAW(P. Oliver (ed.)1997)))は,地球全体をまず大きく7つに分け,さらに66の地域を下位分している。下敷きにされているのは,スペンサSpencerとジョンソンJohnsonの『文化人類アトラスAnthropological Atlas』,ラッセルRussellとナイフェンKniffenの『文化世界Culture World』,G.P.ドックMurdockの『民族誌アトラスEthnographical Atlas』,そしてD.H.プライスPriceの『世界文化アトラスAtlas of World Culture』である。加えて,ヴァナキュラ建築の共通特性を考慮すべく,地政分と分を重視している。そして,北から南へ,東から西へ,世界から新世界へ,というのが配列方針である。念的には,文化の散,人口移動,世界の張を意識している。地中海南西アジア()を中核域と考え,いわゆるヨロッパ(),そしてアジア大陸部(),島嶼部オセアニア()を別した上で,ラテンアメリカ(),北アメリカ(),サハラ以南アフリカ()を別する構成である

[3] G.ドメニク:構造達論よりみたび破風屋根入母屋造の伏屋と高倉を中心に-」(杉本次編(1984)。

[4] 本書を「東南アジアの住居」と冠することにしたのは,この間一貫してお世話になってきた京都大学学術出版会の鈴木哲也さんの,個別専門分野でのみ通用する議論ではなく、骨太の議論が欲しいという示唆が大きい。また、東南アジアの住居集落に関する著作として今のところ最も優れたと思われる上述のR.ウォータソンの『生きている住まい東南アジア建築人類学』が大陸部についての記述が薄いというのも大きい。

[5] 現在は,主にブラフマプトラBrahmaputra流域(インド),サルウィンSalween流域(ミャンマー),メコン流域(中国・タイ王国・ラオス),紅河流域(ヴェトナム),チャオプラヤChao Phraya流域(タイ王国)5つの流域に居住している。

[6] しかし,以上は必ずしも全てのタイ系諸族にあてはまるわけではない。姓()に関しては,1930年代までのタイ系諸族に関しては妥当であるが,今日,タイ王国やラオス国に住むタイ系諸族は姓を用いている。統治形態()についても,タイ,ラオスのような国家形態をとるタイ系諸族に対してはもはや当てはまらない。仏教()についても,タイ系諸族の中には非仏教徒が多数存在する。ラオスの北部山地,ヴェトナム山脈以東ないしは以北に住むタイ諸族(黒タイー,白タイー,トー,ヌンなど)および中国南部のタイ系諸族のほとんどは仏教徒ではない。南タイのタイ人の多くはムスリムである。

2021年3月6日土曜日

アレクサンドロスの都市 Cities of Alexander the Great

traverese17 2016 新建築学研究17 


 Cities of Alexander the Great 
アレクサンドロスの都市 
Shuji Funo
 布野修司 

アジア三部作(『曼荼羅都市-ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容』(2006年)『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』(2008年)『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』(2015年))を上梓して、『世界都市史』も射程に入ったなあと思っていたところ、『世界都市史』(仮)執筆の依頼があって一気に書き出した。そして、世界中の都市にそれぞれの歴史がある、本の骨格を彩る形でコラムとか、囲み記事で都市を紹介したらどうかと思いついたのが運のつきであった。編集部にいっそのこと『世界都市史事典』(仮)にしようと言われて、総計2000頁近くなる企画になってしまった。2分冊になるという。その全体構想を紹介したいのだけど、紙数が限られるというから、ひとつの都市だけ紹介しようと思う。つい最近(20162月)訪れる機会があったエジプトのアレクサンドリアである。アレクサンドリアを設計したのは、言うまでもなくアレクサンドロス大王である。彼の名を冠する都市は一説に拠れば数十に登るという。それを追いかけてみよう。彼に匹敵するほど多くの都市を建設した建築家は世界史上何人いるのであろうか[1]

 

アレクサンドリア

アレクサンドロス大王(356323BCE)が建設したアレクサンドリアは、プルタルコス『対比列伝』「アレクサンドロス伝」は70以上といい,ストラボン(紀元前63年頃~23年頃)(『地理書(誌)』全17巻)は8,ローマ帝国の歴史家ユニアヌス・ユスティアヌス(『ピリッポス史』)は12という。N.G.L.Hammond(1981)18というが、Fraser, P.M.(1996)は,諸文献から57の候補を挙げた上で12の場所を同定する[2]

アレクサンドリアは,アレクサンドロスの軍事拠点であり植民都市である。既存の都市を拠点とした場合も少なくないし,70という場合は当然それを含んでいる。しかし,アレクサンドロス自ら計画した都市となるとそう多くはない。滞在は1年を超えることはなかったから,建設を見届けるということはなかった筈だ。森谷公俊(2000a)は,新たに建設されたアレクサンドリアは,①エジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンダレーヤ,②アレクサンドリア・アレイアAria(na)(アリアナ:現ヘラート),アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラーFarah),アレクサンドリア・アラコシアArachosia(アラコシオルム:カンダハル近郊シャル・イ・コナ),⑤アレクサンドリア・カピサ(カウカソス(コーカサス):現ベグラム?),⑥アレクサンドリア・オクシアナ(オクソス:現アイ・ハヌム?),⑦アレクサンドリア・エスカテEschate(最果てのアレクサンドレイア,ホジェント,現レニナバード),アレクサンドリアアケシネスアレクサンドリア・オレイタイ(旧ランバキア:現ソンミアニ),⑩スーサ南部のアレクサンドリア(スパシヌ・カラクス)の10都市という(図a)。


アレクサンドロスが13歳になった時,父フィリッポスⅡ世が帝王教育のためにアリストテレスを教師に招いたことはよく知られる[3]。マケドニアの王になるのは20歳の時であるが、それ以前,16歳の時に,自らの名を冠した都市アレクサンドロポリスを建設している。アレクサンドロスが軍事に優れ,あらゆる技術に精通した政治家であり,さらに建築,都市計画の才があったことは疑いがない。先のリストに、マケドニアに設計したというアレクサンドロポリス(を加えると11となる。

 

エジプトのアレクサンドリア

 アレクサンドロスの東征は, 紀元前334年の遠征開始から紀元前330年夏のダレイオスⅢ世の死亡によってハカーマニシュ朝ペルシアが滅亡するまで(Ⅰ),紀元前330年秋の中央アジア侵攻から紀元前326年にインダス川を越え,遠征を中止し反転を決定するまで(Ⅱ),紀元前326年末から紀元前323年のその死まで(Ⅲ)の3期に分けられる。

Ⅰ期に建設されたのがエジプトのアレクサンドリアである(b)。アンキュラ(現アンカラ)から南下,フェニキア地方の大半の都市を開城、ガザも破ってエジプトへ侵攻,さらに聖都ヘリオポリスを経てメンフィスに至り,川を下ってナイル・デルタの西端のカノボスに到達して都市建設を決定する。自ら計画図を引いたとされるが、選地などに神意を問うた占師としてアリスタンドロス、また,建築家の名としてディノクラテスが知られる[4]。紅海,地中海を繋ぐ絶好の場所に位置したアレクサンドリアは,ヘレニズム世界最大の都市に成長していくことになる。ただ、完成するのは,プトレマイオス朝になってからである(図c[5]。現在のアレクサンドリアは、点々と歴史的遺構が残されているが、周辺地域を合わせれば1000万人を超える、カイロに次ぐ大都市である(図d,e)。

 

 
  


バクトアリアのアレクサンドリア

アレクサンドロスは,紀元前3314月にエジプトを発ち,ダレイオスⅢ世をエクバタナに敗走させる。ユーフラテス川、ティグリス川を渡ってバビロンに入城,さらにスーサ,続いてペルセポリス(図f)を占領,帝国の財宝を略奪接収して,ペルセポリスに火をつけ、廃墟とする。


以降,アレクサンドロス独自の進軍が開始される[6]。アレクサンドリアが各地に建設されるのはこれ以降である。その建設は一般に東西融合政策の一環とされるが,一方で,傭兵としてきたギリシャ兵の処遇が問題であり,植民都市建設の第1の目的は,彼らを住まわせ支配拠点とすることであった。アレクサンドリアの住民となったのは,地元住民の他,退役したマケドニア人,そしてギリシャ人傭兵であり,アレクサンドロスに反抗する不満分子を隔離する機能もあった。

紀元前330年末、冬のヒンドゥークシュ山脈に入り,カーブルに到達して冬を越すが,この間建設したのがカウカソス(コーカサス)のアレクサンドリアである()。ハカーマニシュ朝ではカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建したとされる。アレクサンドリア・カピサは,後にグレコ・バクトリア王国,そしてクシャーナ朝の都となる。アリアノス(2001)は記述しないが,バクトリアのアレクサンドリアとされるのが,ヘラート([7],ファラー([8],カンダハル(④)である。ガズニーそしてバルフ(バクトラ)にもアレクサンドリアが建設されたとされるが,カンダハル,ヘラートも含めて,アレクサンドリアの当初の痕跡は残されていない。

そうしたなかで,当初の様子がうかがえるのが,ヒンドゥークシュ山脈の北に位置し,アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus)(⑥)に比定されるアイ・ハヌムAi-Khanoum, Ay Khanum)遺跡である[9]。様々な工芸品や建築物,ギリシャ様式の劇場,ギュムナシオン,ポルティコに囲まれた中庭のあるギリシャ様式の住居の遺構などが見つかっている。

 

最果てのアレクサンドアリア

アレクサンドロスは,紀元前329年春,カワク峠を越えてバクトリア地方に入り,ソグディアナへ向かい、タナイス(ヤクサルテス,現シルダリア)川に「アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)(⑦)」を建設する。シルダリア川は当時アジアの果てと考えられていた。現在のタジキスタンのホジェンドに比定される[10]

最果てのアレクサンドリアの後、アレクサンドロスはインドに向かう。紀元前326年にインダス川渡ってタキシラに入り、川の両岸にニカイア(現モング付近)とブケバラ(現ジャラルプール)という2つの都市を建設する。これがアケシネス河畔のアレクサンドリア()である。そしてさらに進軍するが,部下に造反され,ついに進軍を断念、退却する。インダス川を河口まで大船団を仕立てて下り、デルタの先端部のパタラに着いたのが紀元前325年,ここからはネアルコスを指揮官とする沿岸探索航海[11]を別立てとし,自らの本隊は沿岸を陸行し、アレクサンドリア・オレイタイ([12]を建設したとされる。アレクサンドロスは,紀元前3241月ペルシア帝国の旧都パサルガダイ[13]に到着,さらにスーサに至る。スーサ南部にもアレクサンドドリア(⑩)を建設したとされるが詳細は不明である。帰還したアレクサンドロスは,帝国をペルシア,マケドニア,ギリシャ(コリントス同盟)の3地域に再編し,同君連合の形をとる。そして,アラビア半島周航を目前に熱病に倒れたのであったる。

 

紀元前5世紀には確立していたギリシャのグリッド都市の伝統は,アレクサンドロス大王の長征によって,東方に伝えられた。その具体的な形態は知られないが,ギリシャ風の都市計画,すなわちヒッポダミアン・プランが伝えられたことは大いに想定される。中央を幹線大路が南北に走り,それに直交して東西に小路を設ける魚骨(フィッシュ・ボ-ン)型の街路構成をとるパキスタンのタキシラにある都市遺構としてシルカップが知られるが,ヘレニズム期に属し,ギリシャ人の影響のもとに建設されたとされている。グリッド都市は敵国の領土に新たな都市を短期間に建設するのに適した形式であり,軍事都市の性格をもっていたアレクサンドリアは,おそらくシルカップ(図g)のモデルとされたのである。


 

主要参考文献

アッリアノス(2001)『アレクサンドロス大王東征記』上下、大牟田章訳、岩波文庫。

N.G.L.Hammond(1981), “Alexander the Great; King, Commander and Stateman”London

P.M. Fraser(1996), “Cities of Alexander the Great”, Clarendon press Oxford.

森谷公俊(2000a)『アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像』講談社選書メチエ

森谷公俊(2000b)『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館

 



[1] ホセ・デ・エスカンドンが、ヌエヴォ・サンタンデール入植地(メキシコ、タマウリパス)に建設したのは25都市である(布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会)

[2] 最も信憑性が高いとされるアリアノス(2001)を邦訳で読んでみたが、辛うじて8つを確認できた。

[3] アリストテレスは,王位についたアレクサンドロスに『王たることについて』と『植民地の建設について』という諭説を送ったとされる。

[4] 「彼は自分でも,アゴラは町のどのあたりに設けるべきか,神殿はいくつ程,それもどんな神々のために神殿を建立すべきか…,それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は,どのあたりに築いたらよいかなど,新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどした。」,そして,「これから築造される周壁のおおよその線引きを,自分の手で現場の技術者に残したいと考えたが,地面にその印をつけてゆく手段が身近になかった。そこで…大麦をあるだけ容器にとり集め,先に立ってゆく王が道々指示する場所には,その大麦を地面に撒いていく・・・」方法がとられた(アリアノス(2001)))。そして,エジプトの最高神アモンAmon(アメンAmen)を祀る神殿のあるリビア砂漠のシーワ・オアシスに参詣,神託を受けた後,メンフィスに戻る途中にアレクサンドリアの起工式を行っている。

[5] プトレマイオスⅠ世(紀元前323より太守。位:紀元前304282)は,シーワ・オアシスのアモン神殿に運ばれるアレクサンドロスの遺体を略奪し,大十字路の交点に埋葬する。そして,学問,音楽,芸術の都とすべく大事業に着手する。プトレマイオスⅡ世(紀元前282246),Ⅲ世(紀元前246221)と引き継がれて,アレクサンドリアは絶頂期を迎える。ファロス島の東端には高さ120mを超えるファロス大灯台が建設された。新都の位置を示すランドマークであり,監視塔であり要塞でもある。建築家としてソストラトスが知られるが,彼は,エラトステネスとユークリッドの同時代人である。西の沿海部に宮殿群,官庁群のコンプレックスとして王宮があり専用の港をもっていた。広大な敷地に図書館,観測所,動物園,講堂,研究所,食堂,講演などが建ち並ぶ学園ムセイオンは,カノポス通りとソマ通りの交点,アレクサンドロ大王の廟の向かい側にあったとされる。中心神殿であるセラピス神殿は南西部に建てられ,劇場と競馬場は王宮のある北東部にあった。ディノクラテスの設計計画は,1世紀かけて完成するのである。

[6] 東征開始からハカーマニシュ朝滅亡までの進軍経路において,アレクサンドロスの名に因む都市に,アレクサンドリア・ニア・イッサス 後の時代にアレクサンドレッタと改称,イスケンデルン,トルコ),そして,バグダードの南にあるイスカンダリア(イラク)がある。イスカンダル Iskandar は,アラビア語・ペルシア語で,もともとアリスカンダールAliskandarであったが,語頭のアルal-が定冠詞と勘違いされ,イスカンダルとなった。アラビア語では定冠詞をつけてアル・イスカンダル al-Iskandar と言うのが普通である。ksが入れ替わった理由は不明とされる。この2つの都市は命名のみで新たに建設されたものではない。

[7] 。ハライヴァと呼ばれていたヘラートの地に建てられたのはアレクサンドリア・アレイアである。ハライヴァはギリシャ語でアレイアAreia,ラテン語でアーリヤAriaである。セレウコス朝の支配下になり,パルティアを経て,サーサーン朝ペルシアに併合される。652年にイスラームの支配下に入り,ウマイヤ朝そしてアッバース朝のもとでは,東方イスラームを代表する交易都市として栄えた。12世紀後半,ゴール朝がヘラートを奪取し,事実上の首都となる。1221年と翌年,モンゴル軍が2度にわたってヘラートを襲い,徹底的な破壊を受けてほとんど廃墟と化したが,フレグウルスの地方政権となったクルト朝が首都とすることによってめざましい復興を遂げる。その後,ティムールが征服(1380年),ティムール朝の首都となったことでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。16世紀に入ると,ウズベクのシャイバーン朝とサファヴィー朝の争奪に翻弄され,衰退していくことになる。

[8] アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)は,ヘラートからカンダハルへ回り込む道筋に位置するが,遺構の詳細は不明である。カンダハルの名前は,アレクサンドロスAlexandorosxandorosが転訛したとの説がある。ペルシア帝国の属州アラコシアに建設され(アレクサンドロス・アラコシア),分裂後セレウコス朝の支配下に入り,マウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲された。アショカ王在位紀元前268~前232年)の法勅碑文も残され,クシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えるが,7世紀にはイスラームの支配下に入る。9世紀から12世紀にかけて,サッファール朝,ガズナ朝,ゴール朝に支配され,1222年にはチンギス・カンによって大モンゴルウルスの版図に組み入れられる。1383年以降,ティムール帝国に支配下に入るが,16世紀初頭にティムール朝の王子バーブルが南下してきて,カーブルを拠点とするムガル帝国を建てると,サファヴィー朝との抗争の最前線となる。18世紀末サファヴィー朝に変わってアフシャール朝が建つと,アレクサンドロス以来のカンダハルは徹底的に破壊される。18世紀半ば,ドゥッラーニー朝が建って,旧市の東5km離れた位置に新たな城塞都市が建設され,18世紀末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。

[9] アイ・ハヌムは,長さ約3kmの城壁に囲われており,中央の丘に城砦と塔が建っていた。また,数千人収容可能な直径約84mの円形劇場があり,ペルシアの宮殿を思わせる巨大な宮殿があった。ギュムナシオンも100m四方の巨大なものであった。セレウコス朝とグレコ・バクトリアの主要都市として存続したが,紀元前145年ごろに破壊され,その後再建されなかった。1964年から1978年までアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し,ロシアの科学者も発掘を行ってきたが,アフガニスタン戦争で発掘は中断し,その地は戦場と化したために遺跡はほとんど原形をとどめていない。

[10] その後,8世紀にイスラーム化され,ホジェンドと呼ばれるようになる。10世紀には,中央アジアでも有数の都市となったが,大モンゴルウルスの版図に入り,14世紀にはティムール朝の支配を受けた。

[11] この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に,ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され,貴重な記録となっている。

[12]アレクサンドロスⅢ世が,当時のオレイタイ地方にあった大集落ランバキアを拡充させ,アレクサンドリアと命名したとされる。ランバキアの所在地は不明である。

[13] ペルセポリスの北東87キロメートルに位置する,ハカーマニシュペルシアの最初の首都であり,キュロスによって紀元前546年に建設された。キュロスⅡ世の墓と伝えられる建造物,丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞,そして2つの庭園から構成される。建造物は2004年,庭園は2011年,世界文化遺産に登録された。


2021年3月5日金曜日

大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデルA Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital

traverese16 2015 新建築学研究16 

 Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital
 大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデルA 
Shuji Funo
 布野修司 

 

 『大元都市-中国都城の理念と空間構造,そしてその変遷』“Dà Yuán CityThe IdeaSpatial Formation and Transformation of Chinese Capital Cities”(京都大学学術出版会、20152月)を上梓することができた。「おわりに」に記したけれど、本書のきっかけになっているのは、村田治郎先生の『中国の帝都』(村田治郎(1981))である。その現代版をまとめることが最低限の目的であった。19919月に京都大学に赴任した時に与えられた部屋に村田治郎先生の様々な資料が残されていた。廃棄された資料のようであったけれど,直筆のゲラや写真など興味深いものが少なくなかった。1995年に「世界建築史Ⅱ」(「東洋建築史」を改称。Ⅰは西欧建築,Ⅱは非西欧建築)を担当することになって(~2004年),村田先生の仕事についてにわか勉強することになった。まさか本書を上梓することになるとは夢にも思わなかったが,その最初のきっかけは村田先生の雑然と積まれた資料であった。最低限の目標は果たせたと思う。『大元都市』には、いくつかの新たな視点を盛り込んだが、ここでは、平安京など日本の都城のモデルとなったとされる隋唐長安の設計計画について独自の案を提起したい。

 誰が設計したのか、ほとんど知られていない。宇文愷という。天才建築家である。そのドラフトマンになったつもりで、復元案をつくった。批判を乞う。

 

はじめに

隋の文帝(楊堅)(位581604年)が北周の後を承けて帝位につくと,開皇2582)年,高潁,宇文愷等に命じて新都を築き,大興城と号した。建設は,まず全体計画が立てられ,宮城,皇城,郭城の順に行われた。中国都城の建設がこれほど計画的に,白紙に図面を引くかたちでそのまま実施に移された例は大興城以前にはない。鄴にしても,北魏平城にしても,北魏洛陽の外郭城にしても,それぞれ作成されてきた復元図は,むしろ実際に建設された長安(あるいは平城京,平安京)をモデルとして,それを当て嵌めた理念図である。

 『隋書』巻68「宇文愷伝」は「及遷都。上以愷有巧思。詔領営新都副官。高熲雖総大綱。凡所規画。皆出於愷」という。すなわち,宇文愷は,新都造営の副官として,巧みな構想(「巧思」)を持っており,あらゆる所を計画し(「凡所規画」),全ては宇文愷から出たものである(「皆出於愷」)。大袈裟ではないであろう。

文帝は(てん)(りん)(じょう)(おう)(チャクラヴァルティン)[1]を任じたという。クビライ,洪武帝,乾隆帝…みな転輪聖王を認じた。いずれも、優れた建築家であった。

都城建設について文帝には明確な理念があったと考えられる。北方遊牧集団である鮮卑拓跋部のそれまでの都城建設経験を踏まえ,その理念型を具体化することである。すなわち,漢化政策をとった北魏孝文帝の平城の改造,北魏洛陽再建の経験を踏まえて,理想の国土「中国」の核となる都城を建設しようとした。その永遠の仏国土の設計をゆだねられたのが宇文愷である[2]

大興城は,宇文愷(555612年)という一人の建築家の頭脳の中で設計された。そして,ほぼその設計図通りに建設された,中国都城史上類例のない事例である。

 

 

1 宇文愷

宇文愷(字安楽)は,西魏恭帝の元廓2555)年に代々武将の名門の家に生まれた[3]。宇文氏は,もともとは,北朝胡族,鮮卑系に属するが,西魏=北周を起こした宇文氏とは別系統に属しており,文帝が即位して宇文氏を誅した際には,愷自身も危うく死罪を免れている。宇文愷は,文帝のもとで官僚建築家としての道を歩むことになる。まず,宗廟造営の際に、営宗廟副監,太子庶子,大興建設に関して営新都副監を拝せられている。続いて,広通渠開鑿を総督した後,萊州刺史を拝せられ,仁寿宮建設に当たって検校将作大匠に任ぜられる。煬帝による東都建設に当たっては,営東都副監をつとめ,ついには工部尚書を拝せられるに至る。

隋朝は2代わずか37年にすぎないが,この間の土木建築工事は,煬帝の大運河の開鑿が象徴するように,大規模で広範に及ぶ。長城の修築、広通渠・山陽瀆の開鑿、通済渠の開鑿、御道(馳道)の建設などのインフラストラクチャーの整備と並ぶ造営事業となったのが、大興城の造営、そして東都の造営である。そして、その2つの都城の設計を行ったのが宇文愷である。

隋唐長安城の設計については続いてみることとして、宇文愷の設計活動AK)を順にみていくと、以下のようになる。圧巻は、H 大張I 観風行殿、J 観文殿の、奇想天外ともいうべき、建築家の才である。

 A 北周旧長安城・宗廟

開皇元(581)年2月乙丑,すなわち,大興城営造に先立って,宇文愷は,北周旧長安城に宗廟の設計を命じられる。その形式についてはわかっていない。

B 大興城宮殿

開皇2582)年6月丙申に営造の詔を下し,左僕射高熲,将作大匠劉龍,鉅鹿郡公賀婁子幹,太府少卿高龍叉等に命じて新都を創造し,10月辛卯,営新都副監の賀婁子幹を工部尚書とし,12月丙子に新都を大興城と命名する(『隋書』巻1高祖帝紀)。宇文愷の名はここにはないが,宗敏求『長安志』巻6「宮室・唐上」には,左僕射高熲が総領し,太子左庶子宇文愷が制度や規模を創造したとある。また,中心的役割を果たしたのが宇文愷であったことは,上述のように『隋書』宇文愷伝に記されている。太子左庶子宇文愷が,宮城,皇城の主要な建築の設計に関与したことは間違いないが,その詳細はわかっていない。玄都観の配置,苑池の設定,禅定寺の木塔の設計,官署の門などが知られる。

C 明堂復元案

文帝は,大興城建設に際して,皇城前方,左(東)に宗廟,右(西)に社稷壇を造営する。宗廟は,同規模の4つの親廟(皇高祖・太原府君廟,皇曽祖・康王廟,皇祖・献王廟,皇考・太祖武元皇帝廟)によって構成されていた。文帝は,即位後祭祀制度の整備を行い,南郊に円丘,北郊に方丘,五郊に壇を築く。そして、明堂の復元計画に当たったのが宇文愷である。宇文愷は,『東都図紀』20巻,『明堂図議』2巻,『釈疑』1巻を撰著し(『隋書』宇文愷伝),『東宮典記』70巻を著した(『隋書』経籍志2)とされるがいずれも残されていない。文帝の勅命に対して,宇文愷は明堂の木様(木造模型)を提出したが議論に決着がつかず建設に至らなかった。そして,大業年間に至って,宇文愷は再び『明堂議』と様を造って上奏している。煬帝はその評議を命じたが結局は沙汰やみになる(『隋書』礼儀志)。

D 太陵:寿2602)年,独孤皇后が死去すると,文帝は宇文愷・楊素らに命じてその陵墓の設計を命じている。

E 広通渠

開皇4584)年6月壬子,大興と黄河を結ぶ広通渠が,開皇7587)年4月庚戌,淮河と長江を結ぶ山陽瀆(山陽―揚子)が開鑿された。渭水を黄河に連絡する広通渠開鑿工事の現場監督者として郭衍が知られるが(『隋書』郭衍田),文帝が宇文愷に広通渠の建設を命じたことが記録されている(『隋書』宇文愷伝,食貨志)。

F 仁寿宮

開皇13593)年2月丙子,文帝は,大興城の西北に仁寿宮を造営している(595年竣工)。この建築物の設計にも,総督楊素のもと,宇文愷が検校将作大匠として関わっている(『隋書』宇文愷伝,『資治通鑑』)。

G 東京城宮殿

仁寿四(604)年7月,文帝が崩御し,即位した煬帝は洛陽へ行幸,11月癸丑,新都建設を表明,直ちに長塹を掘らせている。翌大業元(605)年3月丁未,予(洛)州旧城下の住民を移し,同月戊申,新都東京営造の詔を発して天下の富商・大賈数万戸を東京に移させた。大業2606)年正月辛酉に完成,5月丙子,東都と改称された。宇文愷は,東都の造営に営都副官として関わり,乾陽殿,顕仁殿など主要な宮殿の設計を行っている。

以上の他に、煬帝は,宇文愷に命じて,「大張」を設計させている(「令愷為大帳」)。

H 大張

「大張」は,巨大な天幕建築で数千人が座ることができた(「其下坐数千人」)。北方巡行の際に,戎狄に誇示するために(「時帝北巡。欲誇戎狄。」『隋書』宇文愷伝)というから,移動式,組立式の大規模なゲルとみていい。大業3607)年,城東に「大帳」を建て,突の啓民可汗と部落3,500人を招いて宴会をしたという記事がある(『隋書』煬帝紀城)。

宇文愷はまた「観風行殿」なる建築を設計している。

I 観風行殿

「又造観風行殿。上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。推移倏忽。有若神功。戎狄見之。莫不驚駭。帝弥悦焉。前後賞賚不可勝紀。」(『隋書』宇文愷伝)という。「上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。」とはどういう建築か。上に数百人が居て,下の輪軸で回るのである。他に,間口3間で,両方に厦(庇)があり,1日で建て挙げられたという記事(『大業雑記』3年)がある。回転式スカイラウンジである。回り舞台のような人力あるいは畜力を利用した仕掛けは想像できるにしても,数百人を乗せたまま回転するというのは,しかも1日で組み立てられるというのは,相当の仕掛けである。大業5609)年に,高昌国の王を「観風行殿」に招き,30国以上の蛮夷の出席を得て宴を行った記事がある(『隋書』煬帝紀上)。

「大張」「観風行殿」は,『太平広記』に,それぞれ「七宝張」「大行殿」として引かれており,煬帝の奢侈と不祥の兆しとして触れられている。そして、組立,機械装置による建築として,もう1つ宇文愷設計になるとされるのが観文殿である。

J 観文殿

「観文殿」は,宮廷の書室すなわち図書館であるが,自動扉,自動開閉式の書架を装備していたという(『太平広記』引『大業拾遺記』)。

K浮橋

宇文愷は,煬帝の高麗遠征の第1次出兵(大業8611)年)に従軍,遼水を渡る際に三本の浮橋を造っている。ただ,ここで煬帝は高麗軍に大敗している。宇文愷はこの7か月後に死去している。

以上のように,宇文愷は,あたかもルネサンスのダ・ヴィンチやミケランジェロのような万能人にも比すべき存在のように思える。與服制度や車輦制度にも関わり,漏刻(水時計)の製作にも参画している(大業2606)年,『隋書』煬帝伝上)。

 

2 大興城

大興城の規模,門,里,市の数については,『隋書』巻29地理志京兆郡条には「東西一八里一百一十五歩。南北十五里一百七十五歩。東面通北春明延興三門。南面啓夏明徳安化三門。西面延平金光開遠三門。北面光化一門。里百六。市二」とあるのみである。

大興城を踏襲した長安城については,韋述(生年不~至德2757)年)『両京新記』(722),宋敏求『長安志』(1079),呂大防(10271097年)『長安図碑題記』(1080),程大昌撰『雍録』(116589),李好文撰『長安志図』(134446)などの史料があり,それらを元にした徐松(17811848))『唐両京城坊攷』の考証がある。徐松は,『全唐文』の編纂(180914)に携わる中で『永楽大典』(1408)の中に「河南志図」を発見,散逸してしまった宋敏求の『河南志』の図であることを突き止め,関係資料を拾い出して『元河南志』を編纂するとともに,『唐両京城坊攷』を著したのである。長安の形態については,以上のような史資料をもとにした多くの論考が積み重ねられている。隋唐長安をめぐる研究史については,妹尾達彦に委ねたい[4]

『唐両京城坊攷』の記述に従って、主な施設の配置と寸法関係に着目して大まかにその形態を確認すると以下の様である。宮城、皇城の内部構成に関わる記述は省略する。

宮城の規模は,東西4里,南北2270歩,城周13180歩,城高35尺とされる。北は御苑,南は皇城,東に東宮,西に棭庭宮が配置される。南に5門,北に2門,東に1門,西に2門開かれている。宮城の正殿は太極殿で,正門である嘉徳門,殿門である太極門を経て太極殿に至る。太極殿の両廊に左右延明門があり,左に門下省,右に中書省が配置される。中央軸線上には,太極殿の北には,朱明門,両儀門を経て両儀殿が置かれ,さらにその北には甘露門を経て甘露殿が配される。甘露門の前には東西に横街が走る。甘露殿の北には,延嘉殿,さらに承香殿があり,玄武門に至る。承天門以南が外朝,太極殿が中朝,両儀殿が内朝という三朝構成である。

 皇城の規模は「東西五里百十五歩,南北三里百四十歩,周十七里百五十歩」とされる。南面に3門,東西は,それぞれ2門ある。宮城との間に横街が走り,宮城へ5門が開かれている。皇城内は,「城中南北五街,東西七街」という。南北5街というのは,皇城南面の含光門(西),朱雀門(中央),安上門(東)と宮城南面の広運門(西),承天門(中央),長楽門(東)をそれぞれ結ぶ3街と東西城壁沿いの環塗2街である。全体は東西4×南北624街区に分割される。横街は幅300歩,その他は全て幅100歩とされる。「左宗廟,右社稷」,東南隅に宗廟,西南隅に社稷が割り当てられ,皇城には,百官の官署,6省,9寺,1台,4監,18衙が配置される。東宮の官署は,1府,3坊,3寺,10率府である。

大明宮は,太極宮後苑の射殿のあった龍首山丘陵に貞観18644)年に永安宮として建設され,その名に改称された。規模は「南北五里,東西三里」という。南面には5門が開かれており,正南門は丹鳳門である。東面には2門,西面には3門,北面には3門が開かれた。丹鳳門内の正殿を含元殿といい,その東西に翔鶯閣とその棲鳳閣があり,閣下に東西朝堂が置かれる。

 興慶宮は,外郭城の東壁に接し,皇城南の横大路東門,春明門の北に位置する。規模は1坊分あり,南に2門,西に2門,北に3門が開かれている。

御苑は,3苑あり,いずれも都城の北に置かれている。宮城の北に接する北苑は,南北1里,東西は宮城と同じ4里である。東内苑は,東内(大明宮)の東北隅にあり,南北2里,東西は1坊分の幅がある。禁苑(隋・大興苑)は,東西27里,南北22里,周囲120里,南は都城と接し,北は渭水,東は滻水に境界づけられ,西は前漢長安城を含み込んでいる。

 外郭城の立地について,前(南)は子午谷に当り,後(北)は龍首山を枕とし,左(東)は灞水に臨み,右(西)は澧水に至る,と徐松(「巻2西京」)は述べる。規模について,「東西一八里一一五歩,南北一五里一七五歩,城周六七里,城高一丈八尺」という。続いて,南面に3門,東面に3門,西面に3門,北面に3門,門名が列挙される。外郭城内には,東西大街が14本,南北大街が11本あり,皇城の正南面の朱雀門から延びる南北大街,朱雀大街の幅は100歩で,朱雀大街によって,東西は,万年県と長安県に分かれ,それぞれ54坊と市を管轄する。計108坊と2市からなることになるが,『隋書』は「里百六。市二。」としていた。市は2坊分占めるから必ずしも計算は合ってはいない。

坊数は,万年県,長安県,それぞれ9×213×357坊(区画)となる。東市,西市それぞれ2坊分を占めるから,それを引けば各県55坊(区画)である。計110坊であるが,東南の2坊が曲江・芙蓉園となって欠けているから,坊は108坊(万年県53坊,長安県55坊)である。また,大明宮の重修(662)に伴い,丹鳳門から南に丹鳳門街が造られ,大明宮前の善坊と永昌坊の2坊は東西に分割される。すなわち,東街は結果的に55坊になっている。

愛宕元(徐松撰・愛宕元訳注(1994))は,城内を108坊に区画したのは,中国全土を意味する「九州」と,秩序正しい時間の繰り返しである112月の9×12から得られる数である。つまり統一帝国としての全空間と時間を支配する皇帝の居所としての都城を象徴する数字である。また,宮城・皇城の東西では南北に13坊が配されるのは,112月と閏月を加えた13月を,皇城の南では東西4列に坊が配されているのは,春夏秋冬の四季を象徴したものとされる,という。出典は不明であるが,上述のように,分割される坊数は110であり,108という数字が予め意識されているのであれば,東南角が2坊欠けることが前提されていたことになる。112月としながら,閏月を加えた13という数字を問題にするのはちぐはぐでもある。

以上の情報と実測を踏まえて、設計図を復元しよう。

3 長安の設計図

長安城の設計図については,平岡武夫(1956)の開元・天宝年間の盛唐期を中心とする復元があって定説とされてきた(図①)[5]平岡武夫は,東西6600歩(9702m),南北5575歩(8195.25m)を前提として、1歩=146.9cm5尺(1尺=29.4cm)という尺度換算をもとにして復元図を示した。中国でもその復元図は影響力を持ってきた。


復元案は,街区(坊)の形状・規模に5種あるとする。東西方向の街区(坊)幅は,650歩,450歩,350歩の3種,南北方向の街区(坊)幅は,400歩,550歩,325歩の3種である。そして,街路幅員については,南北大街は環塗も含めて全て100歩幅,東西街路(街道)については,皇城南は全て47歩幅,宮城・皇城の東西は,横街に繋がる開遠門-安福門・延喜門-通化門の東西大街は100歩幅,他は環塗を含めて60歩幅とする。そして,市については600歩四方,東西の坊との距離すなわち市に接する東西の大街の幅は125歩,南に接する大街の幅は100歩とする。

この復元案については,東西街路幅が47歩というのがすっきりしない。また,南北街路が全て幅100歩というのも疑問である。さらに,南北325歩というのは,『三礼図』の記述にはない。そして実際,その後の発掘調査によると,南北の全長が実際は315歩ほど長く,坊間幅は平岡の想定(47歩)より短い,また,南北街路の幅員の大半は50歩前後である。全長を考えると,皇城南の坊は,南北350歩とした方が寸法的にも合う。


街区の規模と形については、徐松撰・愛宕元訳注(1994)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩(一部325歩)×650歩, 350歩(一部325歩)×450歩,350歩(一部325歩)×350歩の5種としている。陝西省文物管理委員会[6]・中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊[7]は,東西9721m6617.43歩=33087.1尺),南北8651.7m5885.51歩=29447.6尺)とする。そして宿白[8]らによって復元図がつくられている(図②)。復元案の中で,各部分の寸法を示しているのが傳熹年(2001)である(図③)。この復元図に示される実測値を出発点としよう。


 

1)基準グリッド-設計寸法

傳熹年(2001)の復元図からは,直ちには明快な街区寸法,街路幅員の体系は窺えないが,注目すべきは,宮城・皇城の左右(東西)の東西幅(B)が等しく(左右対称),また,皇城・宮城の南北幅(B)に等しいこと,さらに,皇城南の街区の南北はこの皇城宮城・宮城の南北幅(B)の1.5倍(3×1/2B)という指摘である。

1に手掛かりとなるのが,宮城の東西幅(A)である。『唐両京城坊攷』は,宮城は東西4里(1440歩),南北は2270歩(990歩)そして,皇城(子城)は東西5115歩(1915歩),南北3140歩(1120歩)という。宮城・皇城合わせた区域の東西は1915歩,南北は2210歩となる。実測値は,宮城皇城の東西長さ(A)は内法で2820.3m=1918.6歩である。そして,宮城・皇城合わせた南北長さ(B)は,3335.7m2269.2歩である。また宮城部分の南北幅は1492.1m=1015.0歩である。因みに,平岡武夫(叶驍軍(1986))は,東西幅を1900歩,南北幅を宮城960歩+皇城幅1220歩(横街300歩含む)=2180歩とする。

こうした寸法は,芯々制(シングル・グリッド)をとるか,内法制(ダブル・グリッド)をとるかで大きく異なる。また,歩を単位とすることは前提であるとしても,実測値(メートル)の歩への換算単位次第で異なる。歩の値も時代や地域によって異なる。傳熹年(2001)の実測図をもとにした復元図には,街路の幅員と街区(坊)の規模が分けて記されており,内法制が前提とされているようにみえる。しかし,その数値にはかなりのバラつきがあり,一定の体系は直ちには見いだせない。傳熹年が見出したのは,上述のように,A,Bという単位である。ということは,設計計画にあたって,まず,大きな区画が単位として設定されていたことを推測させる。

そこで宮城の寸法を見てみると,南北幅は960歩~1015.0歩,東西幅は1900歩~1950歩である。1,000歩×2000歩が予め設定されたのではないか。両端に接する南北大街の幅を100歩とすれば,芯々で2000歩という寸法となるからである。そして,宮城・皇城の左右の街区の東西幅を見ると,傳熹年(2001)の実測図に基づけば,3334.23458.5m2268.22352.7歩)(2268.8歩(3335.7m=B)である。3分割されることから,750歩×32250歩という設計寸法が考えられる。環塗と城壁部分を50歩として加えると2300歩となる。東西全長は6600歩で実測値に合致する。

そもそも傳熹年のB2268.8歩は,宮城・皇城の南北長さである。『唐両京城坊攷』は2210歩(宮城:南北2270歩(990歩)+皇城:3140歩(1220歩))というから,これも2250歩が設定寸法であると推定される。すなわち,傳熹年(2001)が示唆するように,宮城・皇城区域の左右街区の全体については2250歩×2250歩という寸法が設定されていたと思われる。宮城と皇城の間に横街があり,その幅を250歩とすれば(叶驍軍(1986)は300歩としている),宮城,皇城とも南北長さは1,000歩となるのである。皇城南の街区について見ると,傳熹年(2001)の想定によれば,南北の長さは3375歩(15B)である。南北は9分割されるから,均等に分けるとすると,芯々375歩(750/2)の坊に区分される。

 すなわち,宇文愷は,基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系を設定したことが明らかになる(図④)。ただ問題がある。南北の全長が実測値と合わないのである。以上の単純グリッドだと,南北長さは2250歩+3375歩=5625歩となるが,南北の環塗・城壁分50歩×2100歩加えても,実測値5889.52歩より164.52歩短いのである。この差は無視しえない。


そこで第2の手掛かりとなるのが,建設プロセスである。妹尾達彦(2001)によれば,

最初に、

 ①南北の中軸線(朱雀門街)と宮城の位置を決め,

 ②宮城を囲む禁苑と皇城をつくる,合わせて

 ③宮城を基点に,外郭城に6つの主要道路,六街をつくる,そして,

 ④六街を基準に,六街を含む東西12,南北9の街路をつくる,そして最後に,

 ⑤外郭城の城壁をつくる、

というのが建設プロセスである。

もちろん,建設プロセスであって,予め全体計画はなされていたことは前提である。

注目すべきは③である。六街とは,中軸線となる朱雀門街と宮城東西に接する南北大街,そして東西の主要門を繋ぐ3つの東西大街である。城外へ通ずる街路と門の位置はまず設定されたと考えられるのである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして,延平門-延興門を結ぶ東西大街が予め設定されることで,皇城南の街区は北の四街と南の五街が分けて設計されたことが考えられる。すなわち,そこでも基準線が南にずらされた可能性がある。六街の幅員を100歩とすると,75歩ほどずらして設定された可能性がある。さらに,実測図を見て気がつくのは,最南端の街区(坊)の南北長さのみが長いことである。南城壁の建設に関わって拡張された可能性が考えられる。

以上,確認したのは,

Ⅰ 基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている,すなわち,

Ⅱ 街区(坊)には,芯々で500歩×750歩(A),625歩×750歩(B),375歩×750歩(C), 375歩×550歩(D),375歩×450歩(E)の5種がある。すなわち,長安城は宮城,皇城とAEの街区(坊群)および東西市からなる,そして,

Ⅲ 南北は大きく2ないし3つの区域に分けて計画されている,

ことである。

 

2)街路体系と街路幅員

通説によれば,街区(坊)の形状と規模には5種類ある。これは隋『三礼図』に「朱雀街第一坊東西三百五十歩。第二坊,東西四百五十歩。次東三坊,東西各六百五十歩。朱雀街西准此。皇城之南九坊,南北各三百五十歩。皇城左右四坊,従南第一,第二坊,南北各五百五十歩。第三坊,第四坊,南北各四百歩。両市各方六百歩,四面街各広百歩。」とあることを根拠にしており,復元の前提となっている。

 この5種類の街区(坊)を前提とし,さらに傳熹年(2001)の復元図の実測値を基にする復元案として王暉(「日本古代都城城坊制度的演変及与隋唐長安里坊制的初歩比較」王貴祥(2008))の復元案がある。王暉案は,平岡同様,南北街路幅は全て100歩とするが,皇城南街区の南北幅は350歩とし,坊間街路幅を40歩とする。図は『大元都市』に譲るが、東西街路幅の47歩を不自然とみて,街路幅員として40歩,60歩,100歩という完数(ラウンドナンバー)を想定する。しかし,この復元案では南北の全長は5790歩となり,実測値に100歩ほど足りない。そこで,王暉は,南北を実測値5885歩に合わせ,実測図に合わせた修正を試みているが、街路幅は、29歩、43歩、73歩…などてんでばらばらになる。設計街路幅について考えるのであれば、王暉の復元案を前提として,東西坊間街路幅を40歩でなく50歩とすれば,全長は90歩増えて5880歩となり,かなりすっきりとした体系になる。皇城・宮城の東西についても坊間街路幅は50歩として復元案を示すことができるから,坊間街路の幅員は,南北街路については全て100歩,東西街路は(東西のそれぞれ三門を繋ぐ三街(幅100歩)を除いて)全て50歩という案になる。まず、間違いない、のではないか。

Ⅳ 通説とされている復元案は,南北街路幅は100歩,東西街路幅は六街(100歩)を除いて50歩であり,街区(坊)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種(『三礼図』)からなる。

問題は,この通説の寸法と実測値が大きくずれていることである。街路幅員には大きなばらつきがある。南北街路幅が全て100歩ということは想定できない。六街と他の街路との間には区別を設定したと考えられるし,実際,大街,小街のヒエラルキーがある。傳熹年(2001)によれば,宮城・皇城に接する東西横街,朱雀門街を除けば,坊間の南北街路幅は4268m28.646.3歩),東西街路幅は3955m26.537.4歩)である。小街は大街の半分程度である。また,坊の大きさもまちまちで,以上の前提(Ⅳ)より総じて大きい。宮城の東西は,400歩×650歩とされるが,483歩×694歩~765歩,皇城の東西は,550歩×650歩とされるが,508歩~561歩×694歩~765歩である。さらに,皇城南,東西の街区は350歩×650歩とされるが,340歩~391歩×694歩~765歩,皇城直南の街区は,350歩×450歩,350歩×350歩とされるが,340歩~391歩×465歩~476歩,340歩~391歩×380歩~382歩である。

Ⅴ 通説(Ⅳ)は,否定される。

基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されていると考えるのは,実測値にばらつきがあるからである。そこで,実測値に近い街路体系,街路幅員について試案を示すと以下のようになる。

Ⅵ 長安城の街路体系設計試案(図⑤)


①六街の幅員を100歩とする。

そして,

②環塗と城壁を合わせて50歩とする。

宮城・皇城の左右の街区の東西幅は2200歩(2250歩-50歩)となる。各坊の東西幅を700歩とすれば,南北小街の幅員は50歩となる(700歩+50歩+700歩+50歩+700歩)。また,宮城皇城の南北幅は,450歩+50歩+450歩+100歩+550歩+50歩+550歩+50歩=2250歩に,すっきり分割できる。すなわち,

③宮城の東西の坊は450歩×700歩,皇城の東西の坊は550歩×700歩とする。坊間街路幅は東西,南北とも50歩とする。

南北街路(小街)幅は,単純に朱雀門街など六街の半分という設定が行われたのではないかと考えられる。そこで,

④南北街路(小街)幅は全て50歩とする。

皇城直南の東西幅は,100歩+475歩+50歩+375歩+100歩+375歩+50歩+475歩+100歩に分割される。皇城直南の坊の南北幅については,以下の坊の分割に関わる議論が必要であるが,通説に従って350歩としよう。すなわち,

⑤皇城南の東西街路幅を25歩とする。

すなわち,

⑥皇城直南の坊は,350歩×475歩,350歩×375歩とする。

⑦皇城南東西の坊は,350歩×700歩とする。

問題は,基準グリッドと六街との接続をどう考えるかである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして延平門-延興門を結ぶ東西大街と基準グリッドをどう重ねるか,という問題が残る。100歩の幅を厳密に設定すると,基準線からのずれを,それぞれ,α=37.5歩,β=75歩とすればいい。なお,南北全長の実測値とのずれは,南端に残る(γ=97.5歩+50歩)。

 

3街区(坊)の構成

各街区(坊)の構成を考えよう。出発点とするのは基準グリッド(Ⅰ)である。

皇城南左右の街区の各坊は,最南端の一列を除いて,基準グリッドとして設定した芯々375歩×750歩のグリッドに収まっている。坊間の南北街路を30歩,坊間の東西街路幅を15歩とすれば,丁度,各街区は内法で南北1里(360歩)×東西2里(720歩)となる。街区規模は単純におよそ1里(360歩)×東西2里(720歩)と設定した可能性が高いのではないか。「同じ宇文愷の設計になる洛陽の場合,1里(360歩)×1里(360歩)(300歩×300歩)のグリッドが採用されている。

  基準グリッド(Ⅰ)を前提として,通説の400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種の坊は,坊間街路幅の設定(100歩,75歩,25歩)によって導き出される。南北街路は全て100歩幅,東西幅は,Aについては100歩幅,Bについては75歩幅,C,D,Eについては25歩幅とすればいい。こうした指摘はこれまでないが,数字の体系として一貫性のある提案となる[9]

しかし,基本は面積の単位である。街区(坊)の分割を考える場合,1里=360歩を長さの単位とするのは極めて自然である。250歩×250歩というグリッドの単位も,1畝=240歩×1歩が意識されていると考えていい。周回に坊墻と環塗合わせて5歩の幅をとれば240歩四方となるのである。

Ⅶ 面積配分の単位は,方1里(360歩×360歩),1畝=240平方歩である。

そして,坊の分割単位,構成単位が問題となる。

 史資料から各坊は十字街によって,あるいは東西横街によって分割されることが明らかにされている。韋述『両京新記』の建物の記述をもとにその区画を詳細に検討した妹尾達彦によれば,A,B,C4×416分割,DE4×312分割される

Ⅷ 宮城皇城の東西の坊は,大小の十字街によって,1/4,1/16に分割される,また,皇城直南の坊は,横街によって,1/2,さらに1/6に分割される。

  王暉[10]は,350歩×650歩,そして350歩×450歩という坊を,それぞれ4×416分割(A,B,C), 4×312分割(DE)のモデル街区(坊)として,宅地分割のパターンを示している。基本的には24歩×10歩=1畝を単位として,大十字街の幅を10歩,小十字街の幅を4歩,宅地列間の路幅を3歩とする。

 唐代の坊肆,住宅などの遺址として確認されているのは,永嵩坊道路遺址,平康坊滲井遺址,長楽坊窯址(碑林区),普寧坊窯址(蓬湖区),崇化坊建築遺址(雁塔区)である。もちろん,その他に,多くの寺観,園林の遺址があり,坊の復元の根拠とされる。朱雀門街以東の全ての坊を調べ上げた先述の王貴祥は,唐長安里坊内部分住宅基址の規模を列挙している。どう計測したのかが不明で,1畝以下の宅地も多く,必ずしも明快な面積単位は見出せないが,坊が大小の十字街によって,1/4,1/16に分割されること(また,横街によって,1/2,さらに1/6に分割されること)は前提となる。

  以上をもとに,坊の分割パターンのモデルを提示したい。

Ⅸ 方一里坊モデル

  240歩=1畝制は実にフレキシブルな分割を可能にする。1畝の土地の形状の全てを検討する必要はないだろう。住居(四合院)の空間構成(間口)を考えれば,40歩×6歩,30歩×8歩,24歩×10歩,20歩×12歩,16歩×15歩といった単位を考えればいい。

②方一里,360歩×360歩の正方形の坊を,坊墻壁を含めた環塗(幅10歩)で取り囲むとすると,340歩×340歩が区分される。それを幅10歩の十字街で4分割し,さらに幅5歩の小十字街で4分割すると,80歩×80歩が街区の基本単位となる(坊の1/16)。

すなわち,80歩×80歩を基本単位としたというのが,本書が提起する新たな説である。

 そして考えられるのは,X,Y2案である

Xは,1/16坊=25畝(5×5),1/4坊=100畝,坊=400畝という構成になり,Yは,1/16坊=24畝(3×8),1/4坊=96畝,坊=384畝という構成になる。

中国の研究者たちは,Y説とするが,宇文愷の設計図はX図⑥)であったと考える。1/4坊=100畝という設定は極めて単純である。


Ⅹ 坊の類型モデル(図⑦)

  Xを基本として,坊の類型毎に分割パターンを示しておこう皇城南,東西の坊は360歩×720歩でいいであろう。皇城直南は,360歩×360歩と360歩×420歩とすればいい。


 

隋唐長安都城モデル

隋唐長安の設計図,その寸法関係は、以上のように明らかにできた。残された問題は『周礼』「考工記」「匠人営国」条との関係である。『周礼』考工記「匠人営国」条考については、traverse14号(2013)で独自のモデル図を示した。

『周礼』「考工記」「匠人営国」条の都城モデルと比較すると以下のようである。

①「方九里」については,「方」(正方形)ではなく,東西が長く,規模もほぼ倍(東西183里,南北15.5里)である。

②「傍三門」については,ほぼ従っていると見ることができる。が,北辺の門は七門ある。そして,東西南辺の門の配置は等間隔ではない。

③「国中九経九緯」については,徐松『唐両京城坊攻』の記述に従えば,10×13グリッドからなるから,環塗を含めなければ,9経×12緯,含めれば,10経×14緯となるから,従っているとは言えない。

④「経塗九軌」については,上の検討に基づく南北街路(小街)幅50歩,東西街路(小街)幅25歩(15歩,35歩,50歩)に合っているわけではない。

⑤「左祖右社」については,従っているといっていい。

⑥「面朝後(后)市」については,宮城の後方(北)と解釈すれば,「後市」となっていない。

⑦「市朝一夫」には従っている。

総じて,『周礼』「考工記」モデルと関係なさそうに思われる。だからと言って、既に確認したように,全体を108坊に区画したのは,中国全土を意味する9州と112月,9×12から得られる数であるとか,南北13坊が配されるのは,112月と閏月を加えた13であるといった説には説得力はない。

最大の問題は,「北闕」型であることである。既に北魏平城,あるいは曹魏鄴で「北闕」型の形式が見られるが,隋唐長安ほど形式的に整然とした例はない。応地利明(2011)の隋唐長安の形態解釈において最も興味深いのは,「北闕」型の空間構成についての指摘である。すなわち,北闕左右の構成は,鮮卑軍団の軍営組織に由来するという。依拠するのは,テュルク系遊牧集団に共通する「オグス・カガンの軍団編成」である(杉山正明(2008))。

中国都城の理念というけれど,北魏平城以降,「北闕」型都城を造営してきたのは遊牧民族である鮮卑拓跋部である。まず,遊牧民の集団編成の原理と都城の空間構成を関係付けるのは極めて自然である。「北闕」型が本来の中国都城であるという村田治郎の主張は否定される。

杉山正明のいう「オグス・カガンの軍事集団」は,ユーラシアにおけるスキタイ・匈奴に始まる遊牧国家の歴史的展開の基礎に関わる重要な空間編成原理である。その基本モデルは,ラシードゥッディーンの『集史』(131011)第1部第1章「テュルク・モンゴル諸部族志」の始祖説話(オグズ・カガン伝説)に示される。オグスには,右翼に「日」(キュン)「月」(アイ)「星」(ユルドゥズ),左翼に「天」(キョク,蒼天)「山」(タク)「湖」(デンギズ)という6人の子がいて,6人には,さらに4人ずつの息子がいる。左右にそれぞれ3×412,計24の集団を配するのである。

モンゴル帝国においてもこの左右両翼24軍の体制がとられる。チンギス・カーンを中央に,右翼の3人の息子ジョチ,オゴデイ,チャガタイにはそれぞれ4つの千人隊,左翼の3人の弟カサル,オッチギン,カチウンには,順に1,8,3の千人隊が割り当てられた。左翼の配分は均等ではないが,左右両翼はそれぞれ12の千人隊からなる。

そして,女真族が建てた後金,そして大清国の都盛京が実に興味深い。ヌルハチが建てた宮城は大政殿(八角殿)を北に置いて東西に十王殿が並ぶ。十王殿は八旗と右翼王,左翼王である。これは軍団編成そのものである。ヌルハチが採用した八旗制は清北京の空間構成原理となる。

このように,南面する中央と左右両翼の三極体制,十・百・千・万の10進法による軍事・社会組織は,ユーラシア東半に共通の国家システムである。応地利明は,宮城・皇城とその東西の空間構成は,この左右両翼24軍体制を空間化したものだという指摘は,これまでに全くない新説であるが,上にあげた事例に照らせば極めて説得力がある。上に解析したように,左右は,それぞれ3(東西)×4(南北)=12の坊,合わせて24坊からなるのである。杉山正明の図について,宮城,皇城,そして,東西の街坊がまず建設されたことを考え合わせると,「宮闕」と左右両翼の街坊を1つのセットと考えるのは自然である。建設過程が明らかにするように,まず,宮城・皇城と左右両翼部分が設定され,北区域と南区域が分離される。宮城に接して設けられる禁苑を含めて考えると,宮城・皇城は中央に位置するという見方もあるが,「北闕」型,すなわち宮闕区域を北に置くことがまず選び取られている。これは『周礼』都城モデルと決定的に異なる点である。

しかし,次に「六街」の配置が設定されていることは,『周礼』「考工記」「匠人営国条」の「傍三門」が意識されていることを示すであろう。そして,金光門と春明門を繋ぐ横大街より南の街区が東西183里,南北9.375里であること,すなわち「方九里」2個分であることも,『周礼』と無縁ではないと思われる。南の条坊区域のみについてみれば,環塗を除くと「九経」であり,金光門-春明門の横大街を加えれば「九緯」でもある。「

都城のかたちとコスモロジーとの関係についての議論は残るが,宮城区域の形式(三朝五門制),南面する中央と左右両翼の三極体制の空間化,体系的な土地班給システムに基づく坊墻制,南北中軸線と左右対称の空間構造の確立など,隋唐長安はいくつかの空間構成のシステムを総合化した都城モデルとなるのである。



[1] 古代インドの理想的帝王を「転輪聖王」(チャクラヴァルティン Cakravartinあるいはチャクラヴァルティラージャ Cakravartirāja)という。この王が世に現れるときには天のチャクラ(車輪)が出現し,王はそれを転がすことによって武力を用いずに,すなわち法という武器によって,全世界を平定するという。「転輪聖王」は,七宝を有し,32相を備えているとされる。32相と言えば釈尊がそうであるが,その誕生に際し,出家すれば仏となり,俗世にあれば「転輪聖王」になるという予言を受けたという話はよく知られる。

[2] 隋大興城,東京城の設計とそれを建設した宇文愷をはじめとする建築家たちについては,田中淡(1995)「第三篇 隋朝建築家の設計と考証」がある。この詳細な論考にほとんど何もつけ加えることはないが,田中淡(1995)は明堂復興計画を中心とする建築設計に重点を置いている。

[3] 以下『隋書』宇文愷伝をもとにした田中淡(1995)による。

[4] 妹尾達彦「唐長安史研究と韋述『両京新期』」(田村晃一編(2005))他。

[5] 平岡武夫編(1956)『長安と洛陽・地図』唐代研究のしおり第七,京都大学人文研究所。これには北宋・呂大防「長安城図」(残図)も含まれている。

[6] 陝西省文物管理委員会「唐長安城地基初歩探則」(『考古研究』3期,1958年)

[7]中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊「唐代長安城考古記略」(『考古』第11期,1963年)

[8] 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』19786

[9] ただこの場合,A,Bの間,BC,D,Eの間で調整が必要になる。街路幅員はA,Bの間については,100/2+75/287.5歩,B,Cの間については,75/225/250歩といった寸法になる。特に,金光門と春明門をつなぐ横街の幅が50歩というと,南北大街の100歩に比べて狭い(平岡武夫・叶驍軍(1986)は47歩としている。実測図傳熹年(2001)は82歩とする。)からここで南へグリッド全体がずらされたと考えると南北の全長は実測値に近くなる。

[10] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))