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2023年4月29日土曜日

コインシャワー,周縁から30,産経新聞文化欄,産経新聞,19900312 

 コインシャワー,周縁から30,産経新聞文化欄,産経新聞,19900312 

 30 コインシャワー                     布野修司

 

 都内のターミナル周辺の住宅地を歩いてみる。所々にコインシャワーと呼ばれる施設がある。ビルの一角にある場合もあるが、ユニットバスを庭先にいくつか並べた形態もある。要するにそこでシャワーを浴びられる最小限の施設である。三〇分三百円といった看板がでている。

 最初に思いついたのは主婦だという。そもそも銭湯がなくなりつつあるということがある。それに夜が遅い仕事の場合、銭湯の開いている時間と生活時間の合わない層がかなり存在するという背景があった。また、朝シャン族が話題になるように、いつでもどこでも汗をかいたらシャワーを浴びるという清潔好きの若者もターゲットにしたのだという。

 銭湯がなくなっていくのはそれぞれの住まいに風呂があるのが当り前になったからである。あるいは、銭湯をコミュニケーションの場としてきた地域社会の質が変わってきたからである。若い人たちの間の温泉ブームなどというのは、裸のつきあいを旨とする銭湯コミュニティーへのノスタルジーと思えなくもないのであるが、一方、ワンルームでも朝シャンの出来る設備がないと借り手がない時勢である。

 しかし、コインシャワーのヒットは、またしても、日本の住まいの貧困を浮き彫りにしているように思える。なぜなら、風呂のない住宅が依然としてかなりの量存在していることを示すからだ。コインシャワーが多く分布するのは、木賃アパートが密集する地区である。いま、そうした地区には外国人居住者が増えつつある。彼らにとってはコインシャワーは極めて重宝である。銭湯の習慣はなじまないからである。

 コインシャワーは、都市にとって必要な施設であり、必要性があるから定着しつつある。ただ、気になることがあるとすれば、今のままでは、そこがかつての銭湯のような、人々が集う場には決してならないことである。



2023年4月28日金曜日

鉄筋コンクリート,周縁から29,産経新聞文化欄,産経新聞,19900305

 鉄筋コンクリート,周縁から29,産経新聞文化欄,産経新聞,19900305

29 鉄筋コンクリート               布野修司

 

 鉄筋コンクリートは建築になくてはならない素材である。自由に形態が創れる可塑性、防火性能、強度など、近代建築はその素材としての可能性の上に成り立ってきた。鉄筋コンクリートという建築材料がなければ建築の歴史は全く違ったものになっただろう。

 ところで、その鉄筋コンクリートは果して万能だろうか。この頃時々、老朽化した建物からコンクリートの破片が落ちてきて怪我をするという事故が起きる。鉄筋コンクリートといえども耐用年限はあるのだ。それも場合によると驚くほど短い。少し前、新幹線や高速道路を支える柱梁の劣化が大問題となった。塩分を含んだ海砂を使ったせいである。アルカリ骨材反応というやつだ。

 どうも鉄筋コンクリートという素材は増築とか改築、修復といったことには不向きなようだ。耐用年限がくると壊すしかない。コンクリートを再生する試みもなされるのであるがうまくいかないらしい。解体して捨てるしかないのだが、解体がやっかいだ。二年前に高島炭坑(長崎県)で日本の最初期の鉄筋コンクリートアパートの解体実験がようやく行われたのであるが、これからの検討課題である。そして、膨大に廃棄されるコンクリートの固まりはどうなるのか。気が遠くなりそうな課題もある。

 何故、こうした課題が放置されてきたのか、無理もないかもしれない。一八五〇年頃、フランスのランボーという人がボートを造ったのが鉄筋コンクリートの始まりである。鉄とコンクリートとの熱膨張率がほとんど同じという偶然が生んだ発明だった。そして、建築に応用する計算法などが考案されたのはようやく一八八〇年代の終わりの頃である。鉄筋コンクリートの歴史は高々一世期のことなのである。

 ライフサイクルコストということが言われ始めている。建設時のコストだけでなく、それが維持管理され、やがて解体されるそうした全体において建築を考えねばならないことを鉄筋コンクリートが教え始めている。



2023年4月27日木曜日

違反建築いたちごっこ、周縁から28,産経新聞文化欄,産経新聞,19900226

 違反建築いたちごっこ、周縁から28,産経新聞文化欄,産経新聞,19900226

28 違反建築いたちごっこ               布野修司

 

 地価狂乱の余波が依然として続いている。じわじわと庶民の生活を直撃しつつある。何もしなくても、路線地価の値上がりが固定資産税や相続税として跳ね返ってきつつあるのだ。そうしたなかで目立ちはじめているのが違反建築の増加である。どういうことか。

 相続をきっかけとして住宅が建て替えられる場合、必ずしもこれまでの住戸面積より広く建てられるわけではない。建築基準法などの法的規制があるからである。法の改正で前のままではそもそも不適格だったという例も多い。また、こう住宅取得が困難になると、同じ敷地に二世帯で住もうという例も増えてきた。そうすると、むしろ狭くなるということも少なくないのである。

 建築家も住み手も限られた敷地に目一杯の容積を確保しようと工夫する。住まいに対する要求水準も全体的にあがってきており、当然といえば当然であろう。いきおい、違反も多くなる。信じられないかもしれないけれど、狭くてやむにやまれず意識的に違反するという例もでてくる。大都市圏の平均住戸面積はむしろ減っているのだ。

 やむにやまれぬ違反建築でも、当然、建築指導の対象である。ひどい場合は取り壊される。しかし、黙認される場合も実際にはなくはない。場所によっては少しの違反は無理もないケースがあるのだ。市街地の急速な変化で用途地域制や建築規制が実情に合わず、杓子定規な法規の適用が不合理と思えることも多いのである。

 しかし、違反は違反というので、各自治体の建築確認申請の窓口では、毎日、攻防が繰り広げられている。いたちごっこが続いている。こう建築ブームだと行政窓口の手も足りない。実情に合わない規定は手がつけられないままだ。

 いかに規制をくぐり抜けるか、いかに規則を杓子定規に適用するか、という、違反建築をめぐるいたちごっこだけでは、日本の町づくりはいかにも貧しい。

 




2023年4月25日火曜日

公共施設のあり方,周縁から26,産経新聞文化欄,産経新聞,19900205

 公共施設のあり方,周縁から26,産経新聞文化欄,産経新聞,19900205

(26 選挙と建築ーーー○○センター)    布野修司

 

 選挙である。選挙と建築というと想い浮かぶのが各都市の○○センターという施設である。今度の選挙は国政選挙であるからまさかそんなことはないであろうが、地方選挙だと○○センターがしばしば争点になる。すなわち、公共施設の建設が業績としてうたわれたり、税金の無駄使いといって非難されたりするのだ。

  公共施設の建設は選挙と切っても切れない関係にある。首長は任期中にその業績を眼に見える形で示すために施設の建設を最も重視するのだ。補助金を沢山国から引出し、できるだけ大規模な建物を建てることが評価につながると考えられてきた。○○センターは首長の名と密接不可分である。首長が変わると前の首長の建設計画そのものが中止されることはむしろ普通である。

 さすがにそうした業績主義、施設主義は影を潜めつつあるのではなかろうか。ただ施設さえつくればいい、ただ立派に見える物をつくればいい、というのでは余りに問題が多い。大きなオーディトリアムをつくったけれど何に使うかプログラムがない、美術館をつくったけど、学芸員などの予算措置がない、といった問題が続出なのである。

 ○○センターというのがそもそも問題である。規模を大きくするために、あるいは施設用地の取得難から、また各種の補助金を得るために、様々な施設が複合化されるのであるが、その結果、施設の性格がはっきりしなくなる。それで全国同じような○○センターができる。何にでも使えそうで全てに中途半端ということもある。

 公共施設の建設にはまずなによりもそれを支える活動が必要である。どんな傑作な建築でもそれを使いこなす活動とシステムがなければ宝の持ちぐされである。施設は死んでしまっている。死んだ○○センターが日本のあちこちにありはしないか。そんな施設は地域にいらない。選挙のたびに景気よく打ち上げられる施設の計画はその具体的な内容こそを問うべきである。