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2022年2月28日月曜日

住居/土間式住居/米倉,『東南アジアを知る事典』,平凡社,198607:池端 雪浦 監修, 桃木 至朗・クリスチャン ダニエルス・深見 純生・小川 英文・福岡 まどか・石井 米雄・土屋 健治・立本 成文・高谷 好一 編集,東南アジアを知る事典,改訂版,平凡社,2008年

 住居/土間式住居/米倉,『東南アジアを知る事典』,平凡社,198607:池端 雪浦 監修, 桃木 至朗クリスチャン ダニエルス深見 純生小川 英文福岡 まどか石井 米雄土屋 健治立本 成文高谷 好一 編集,東南アジアを知る事典,改訂版,平凡社,2008

住居

 

[鞍形屋根と高床式住居]

東南アジアには実に多彩な木造建築の伝統がある。中でも、棟がゆるやかに反り上がった鞍形屋根(舟形屋根)と呼ばれる独特の屋根形状が、島嶼部を中心にミナンカバウ族(西スマトラ)、バタク諸族(北スマトラ)、サダン・トラジャ族(南スラウェシ)などの住居に見られ、世界的に見ても注目される。

伝統的住居のあり方を歴史的に明らかにする資料は少ないが、ドンソン銅鼓など考古学的出土品に描かれた家屋紋や家型土器にこの鞍形屋根がみられることや、雲南の石寨山で発見された貯貝器の取っ手は今日のミナンカバウ族の住居にそっくりであることなど、ある程度共通の住居形態が古来より存続してきたと考えられる。ドンソン銅鼓は、ベトナムのみならず、中国南部からニューギニア東部のサンゲアン島でも発見されており、相当広範囲に鞍形屋根の形態が分布していた可能性がある。言語学的な復元によると、東はイースター島から西はマダガスカル島までの広大な海域に居住していたのがオーストロネシア語族で、共通の居住文化を保持していたとされ、その源郷は台湾(あるいは中国南部)という説が有力である。

鞍形屋根とともに、東南アジア(さらにオーストロネシア世界)の住居のもう一つの特徴が高床式である。ボロブドゥールやプランバナンのレリーフに描かれた家屋紋も例外なく高床式である。ただし、いくつかの例外があり、ベトナム南シナ海沿岸部、ジャワ、マドゥラ・バリ・ロンボク西部、マルク諸島のブル島は高床式の伝統を欠いている(ジャワ島でもスンダ地方は、バドゥイの住居のように高床である)。ベトナムの場合は中国の影響が考えられるが、ジャワ・マドゥラ・バリが地床(土間)式である理由については、南インドのヒンドゥー住居の影響、イスラームによる高床の禁止など諸説ある。バリの住居は基壇の上に建てられ、煉瓦造と木造の混構造であること、分棟形式をとることなどを特徴とする。また、ヒンドゥーの世界観に基づく、一貫する配置原理、寸法体系の維持で知られる。ジャワの住居は、屋根形式によって、ジョグロ(寄棟高塔)、リマサン(寄棟)、タジュク(方形)、カンポン(切妻)などに類型化される。ジョグロは、4本柱の中央を高く突き出す形態で、興味深いことにスンバワ島によく似た形式がある。ジャワにもプリンボンと呼ばれる建築書(家相書)が伝えられる。

高床式の系譜として注目されるのが、倉型住居(高倉)である。倉が鼠返しのついた高床の形式で建てられるのはごく自然であり、地床式のジャワ・マドゥラ・バリ・ロンボクでも米倉は高床式である。日本の神社、貴族住宅(寝殿造り・書院造り)も高倉から発達したとされるが、倉そのものが住居の原型となる。フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯には、高倉の屋根をそのまま降ろして壁で囲う入れ子状になった住居があり、日本の南西諸島の高倉との関連をうかがわせる。また、インドネシア東部にも、同じように小さな倉型住居が分布する。今のところ、高床式住居は稲作が行われる以前から存在すると考えられるが、稲の東南アジアへの伝播とともに、この倉型の建築形式が伝播していったことは大いに考えられる。

多様であるにもかかわらず、共通の要素や系譜をもつのが東南アジア木造建築の興味深い点であるが、その根拠となるのが木造架構の原理である。すなわち、木材の組み合わせは無限ではなく、とりわけ構造力学的制約によって、架構方法はいくつかに類型化される。G.ドメニクの構造発達論は、日本の竪穴式住居の架構から様々な形の鞍形住居の架構ヴァリエーションをうまく説明する。湿潤熱帯を中心とするため、木を横に使ういわゆる校倉造り、井籠組(ログ)は少ないが、北スマトラのカロ高原の南に居住するバタク・シマルングン族の住居などなくはない。トロブリアンド島のヤムイモの収納倉が高床式の校倉造りであることはよく知られる。形態として興味深いのは、円形もしくは楕円形の住居で、ニアス島からチモール島にかけて分布する。ニアス島の住居は床下に斜材を用いるのがユニークである。

[住居の集合形式]

住居の集合形式としては、まずロングハウス(長屋)がある。東南アジア大陸部ではカチン族など、島嶼部ではカリマンタンからニューギニアにかけての地域に分布する。タイ北部では屋敷地に分棟形式で住居を建てて親族が住む形態がみられ、「屋敷地共住結合」と呼ばれる。東南アジアでは、大陸部でも当初部でも一般に双系制の親族原理が支配的であるとされ、世界で最大の母系制社会を形成するミナンカバウや父系的であるバタク諸族は、むしろ例外である。これらの場合、一室の大空間に複数の家族が居住する形式をとる。

バタク・トバやサダン・トラジャが典型的であるが、住居と倉を平行に配置する集落形式はマドゥラ島など他にも見られる。スンバワ島には、広場を円形に囲む形式も見られる。時代は下るが、都市住居として、南中国で成立したと考えられる店屋(ショップハウス、街屋)の形式が港市都市に成立する。

西欧列強の進出によって、いわゆるコロニアル住居が建てられ始める。西欧列強の拠点となったマラッカ、オランダ東インド会社の拠点であったジャカルタをはじめスマラン、スラバヤなどジャワの諸都市、英国の海峡植民地となったペナン、シンガポールなど数多くの都市の都市核に植民地建築の遺産が残されている。西欧の住居形式がそのまま導入される一方、土着の空間形式や架構方法が様々に取り入れられ、新たな住居の伝統を形成することになったのである。(布野修司)

 

 

2021年3月24日水曜日

現代建築家批評10  時の流れに身をまかせ  伊東豊雄の軌跡

 現代建築家批評10 『建築ジャーナル』200810月号

現代建築家批評10 メディアの中の建築家たち


時の流れに身をまかせ

伊東豊雄の軌跡

 

布野修司

 

日本のリーディング・アーキテクトとして、安藤忠雄と肩を並べるのが伊東豊雄である。同じ1941年生まれで、今年、67歳を迎えるとは思えない、二人とも実に若々しい。とりわけ、伊東豊雄は、相も変わらずカッコイイ。

この1941年-真珠湾攻撃による日米開戦の年―生まれの世代には、他に、長谷川逸子、毛綱毅曠(1941-2001)、六角鬼丈(1941-)、仙田満(1941-)らがいる。黄金の世代である。

この黄金の世代の中で、伊東豊雄は、一貫して「建築状況」を意識し、「建築状況」と渡り合ってきた建築家である。安藤忠雄が愚直なまでに打ち放しコンクリートに拘るワンパターンであるとすれば、伊東は、自在にそのスタイルを変えてきたように見える。「中野本町の家」から「シルバーハット」へ、「シルバーハット」から「せんだいメディアテーク」へ、そして「台中メトロポリタン・オペラハウス」へ、常に「最先端」を走り続けている。

伊東豊雄は、これまで二冊のクロニカルな論集『風の変様体』(1989年)『透層する建築』(2000年)[i]をまとめているが、これは磯崎の『空間へ』(1971年)[ii]のスタイルの踏襲である。磯崎のクロニクルは、1960年に始まり1969年で終わる。伊東のクロニクルは、1971年に始まり1988年、そして2000年へと書き継がれる。この三冊を続けて読むと日本の建築界の「最先端」がどう動いてきたかを身近に理解することが出来る。

伊東豊雄は、遂に、プロフェッサー・アーキテクト(常勤の大学建築教授)になることはなかった。この点でも、磯崎新[iii]の後継者と言っていい。二人とも、世界的なリーディング・アーキテクトとして、母校東大にプロフェッサーとして招かれてしかるべき建築家であったが、そうはならなかった。結果として、既成の団体や組織の原理からは自由であり続けたことになる。伊東豊雄が一貫して「最先端」の建築を目指し続けるのは、そうした軌跡と無縁ではないと思う。

いささか唐突であるが、スマートなイメージと、どうにも結びつかないのが、伊東豊雄の演歌である。記憶によれば、無類のカラオケ好きで、十八番(おはこ)は鶴田浩二である。かなりうまい、というか、プロ級である。その後、次々にレパートリーが増えているのであろうか、あるいは十八番は十八番であり続けているのであろうか。

「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン、作詞 :荒木とよひさ 作曲 :三木たかし)というのは、伊東豊雄が行き当たりばったりのオポチュニストだという意味ではない。伊東が建築家として真摯に時代を生きていたことは僕も証言できる。演歌好きの伊東豊雄が多分愛唱しているのではないか、という僕の思い込みのタイトルである。

 

デビュー前夜:

伊東豊雄とは、この連載の初回[iv]で書いたように『建築文化』誌(彰国社)の「近代の呪縛に放て」シリーズで出会った。以降、その颯爽たる軌跡を仰ぎ見てきたことになる。

1969年、菊竹清訓設計事務所をやめて、「アーバンロボット」を設立する(1971年)。その命名に時代の雰囲気と伊東の意気込みが表されていると思う。そして、『都市住宅』誌上でのデビュー作「アルミの家」(1971年)は鮮烈であったー繰り返し書くけど、僕らの学生時代の『都市住宅』[v]は実に刺激的だったー。しかし、「千ケ滝の山荘」(1972年)を経て次の飛躍のステップとなる「中野本町の家」(1976年)まで、クロニクルには空白がある。

独立して事務所設立まで、伊東豊雄は、東京大学吉武研究室の研究生となっている。けれども、当時の東大建築学科は「設計」どころか「研究」どころでもなかった。その年の1月、「安田講堂」が「落城」し、東大闘争は終息に向かい出すことになるが、誰も予測できない混乱が続いていたのである。当時、吉武研究室では、「設計」「研究」の根底が問われており、研究室をベースに行ってきた設計活動そのものが批判(産学協同批判[vi])に晒される状況にあった[vii]

そして、オイルショック(1973年)だ。

日本列島がパニックとなった。イラン革命(1979年)で第二次オイルショックに見舞われ、1970年代は若い建築家にとってバブル世代には想像できないほど厳しい時代であった。

伊東は、独立以降、実現する作品はほとんどなかったけれど毎日製図板に向かったのだという。それでも、事務所を開いて2,3年もすると、親戚や友人の伝手で仕事の輪が広がっていった。しかし、「ようやくスタッフにボーナスを払えるかと思ったのも束の間、オイルショックでほとんどすべてのプロジェクトは一夜の夢に終わった」のである。

議論だけが残されていた。不況になれば「建築運動」が起こるというが、仕事はなくても考えることはできる。「近代の呪縛」シリーズは、そうした議論のひとつの場であった。

「何処かで建築家達の集まりがあり、二次会となると、同世代の顔ぶれが自然に十名ばかり飲み屋のテーブルを囲むことになる。・・・最近の建築雑誌の話題作に関する批評、と言ってもほとんどは悪口雑言、身近な建築家達の噂話に始まり、少々酒が廻り出すと、同席している者相互の間にジャブが飛び交う。正確なストレートパンチはほとんどなく、ローブローばかりの応酬である。背後からも真横からも飛んでくる。全く油断もすきもなく、常に身構えていないととんでもないことになる。微差に縞を削り、足を引っ張り合う。」[viii]

伊東豊雄は、この間、自らの行方を見定めるように、ターゲットとする三人の建築家(菊竹清則[ix]、磯崎新[x]、篠原一男[xi])について書いている。

 

 下諏訪―中野本町

京城(ソウル)生まれで諏訪育ちという。若い頃に出会い、最近も京都大学でも非常勤講師として来てもらっていて会う機会はなくはなかったけれど、その生い立ちについて直接聞いたことがない。

「下諏訪町立諏訪湖博物館」(1993年)は、少年時代を過ごした町に建つ。それも諏訪湖に面していた。「学校から帰ってくるなりカバンを放り出しては庭先から釣糸を垂らしてエビや小魚を釣り上げ、自作のモーターボートを走らせていたものである」[xii]。庭先から釣り糸である、なんとも羨ましい!と絶句する環境である。「石を投げる場所、釣りをする場所、トンボを捕る場所、舟に乗る場所、花火を見る場所、さまざまな場所があり、それらはそれぞれに違った風景をつくっていた」、そして「小学生の頃毎日眺めていた湖はもっと大きくて美しかった」けれど、「設計しながら眺める湖は、どこも同じで小さかった」[xiii]

「大きい湖だった」というのは、確かにそうだろう。少年時代の身体空間は長じた「眼」に移る「空間」とは明らかに違う。面白いのは、藤森照信と伊東豊雄が育った環境を共有していることである。年の差5歳。テルボ(藤森)少年の育った諏訪郡宮川村高部[xiv]よりは拓けていたかもしれないが、諏訪湖博物館の敷地の周辺にも背後の山の中腹に一軒だけ掘っ建て小屋があり、炭焼きで生計を立てている状況だった。同級生の子が青大将をぶら下げて登校して、担任の教師がとまどったという。トンボやチョウを食べたりする世界、そして炭焼きと青大将、同じような環境で育った伊東豊雄と藤森照信が全く異なった方向へ向かう建築家になったことが実に興味深い。

伊東豊雄は「当時の湖や山々の風景のみを想い描きながら、この建築(「下諏訪町立諏訪湖博物館」)を考えた」といい、「場所性を喪った土地に建築をつくることによって、場所の持っていた力を回復したい」というけれど、藤森の解答と明らかに違うのである。後に触れるように、伊東が依拠するのは都市であり、東京である。

生まれ育った環境が建築家を育てるというテーゼからすると、中野本町の方が大きいかもしれない。諏訪で育って東京へ移って住んだ家は、「ハーバード留学より帰国して間もない若い建築家、芦原義信氏の設計になる三十坪ほどの平屋葺きローコスト住宅」[xv]であった。高校生(日比谷高校)になったばかりの伊東は棟上げに立ち会ったのだという。僕は、芦原義信先生とは縁あって親しく?つきあったけれど[xvi]、この事実を知らずに経緯詳細を聞き逃した。というより、伊東豊雄はデビュー前であった。芦原義信先生にしても自分が設計した住宅から伊東豊雄が育つとは夢にも思わなかったであろう。そこには「シルバーハット」(1984年)の土地であり、その土地に隣接して「中野本町の家」があった。

日比谷高校→東京大学というエリートコースであったという以外に、僕が知っているのは、これまた磯崎新同様、野球選手でサウスポーだったことぐらいだ。

 

 同級生

東大建築学科の同窓会「木葉会」[xvii]の名簿を開いてみる。1965年卒業に伊東の名前があるが、同学年に月尾嘉男がいる。そして、コーリン・ローの『マニエリスムと近代建築』(彰国社、1981年)を共に訳した建築家・松永安光(近代建築研究所)がいる。さらに日本建築学会の会長を務めた村上周三(慶応義塾大学)、日本建築家協会会長を務めた大宇根弘司(大宇根建築設計事務所)の名前がある。東大闘争で安田講堂に立て籠もって逮捕された内田雄三(東洋大学教授)も同じ学年だ。すごい学年である。

月尾嘉男と言えば、現在、「月尾嘉男・未来世紀日本」(北海道テレビ放送、毎月最終土曜25:3026:00)など[xviii]TV・ラジオ番組で知られるキャスターだ。また、改革派知事を束ねる(地域自立戦略会議)仕掛け人としても著名だ。さらに、カヤックやクロスカントリースキーを愛好し、全国各地で仲間とともに私塾を運営して環境保護に尽力する[xix]。東大建築学科が産んだマスコミで活躍するユニークな人材としては、女優菊川怜がいるが、月尾はそのはるかに先輩である。

伊東豊雄は、「アーバンロボット」(ウルボットURBOT)の頃、月尾嘉男と一緒に仕事をしていたことがある。僕は大学院にいて、月尾嘉男が立ち上げた「都市システム研究所」(72-75年)でアルバイトしていたことがある。翻訳などの仕事もしたけれど丹下健三の松江の仕事を手伝ったのが想い出深い。僕は、松江に誘致する大学の立地選定のプログラムを書いた。パンチカードの時代に磁気テープを使い、国際電話回線でアメリカのコンピューターとつないだ。『神殿か獄舎か』で激しい丹下健三批判を展開していた同郷(玉造温泉出身)の長谷川堯さんから丹下の手伝いをするとはけしからんと怒られた記憶がある[xx]

「都市システム研究所」には時々伊東豊雄が訪ねてきていた。伊東建築事務所を仕切る泉洋子は、もともとは「都市システム研究所」でのアルバイト仲間である。

 
 菊竹清訓建築設計事務所 1965-69

東京オリンピックの余韻の残る1965年、伊東豊雄は菊竹清訓建築設計事務所に入所する。世界デザイン会議を契機とするメタボリズム・グループの結成(1960年)から大阪万国博Expo701970年)まで、日本建築の黄金時代の中心に菊竹はいた。内井正蔵、土井鷹男、武者英二、仙田満、長谷川逸子、富永譲など多くの建築家を輩出することになる。

伊東豊雄が入所した時、菊竹は日本建築学会賞を受賞した「出雲大社庁の舎」(1963年、島根県簸川郡大社町)、そして、「東光園」(1964年、鳥取県米子市)を竣工させたばかりであった。そして、在所中に、「都城市民会館」(1966年、宮崎県都城市)、「島根県立図書館」(1968年、島根県松江市) 、「国鉄久留米駅」(1968年、福岡県久留米市)、「久留米市民会館」(1969年、福岡県久留米市)、「島根県立武道館」(1970年、島根県松江市)が手掛けられる。

菊竹清訓の初期作品は、生まれ故郷の久留米・九州から山陰を日本神話を辿るように駆け上っていく。山陰に菊竹作品は実に多い。当時の島根県知事田部長衛門に気に入られるのである。「田部美術館」(1979年、松江市)も菊竹の設計である。既に書いたが[xxi]、松江市役所にいた親父の元に本が送られてきたこともあって、その名前は中学生の頃から知っていた。出雲(知井宮)で生まれ、松江で育った僕は、「島根県立博物館」(1960年)以降の山陰に建った菊竹作品に日常的に触れることになった。「島根県立図書館」にはよく通ったものである。「島根県立武道館」は富永譲の担当と聞いた。

長じて、今宍道湖畔に建つ「島根県立博物館」(1999年、松江市)の審査委員を務めて、感慨深いものがあった。大高正人委員長の「各案の問題点、疑問点については全て布野が担当して聞け」という命令で高名な建築家の先生に「意地悪な」質問をさせられたのにはまいったが、文句無い満票の決定であった。「江戸東京博物館」が建設中であったが、同じ建築家の作品とは思えない出来栄えである。

伊東豊雄にとっての菊竹については後に触れよう。

 

 RIBAロイヤル・ゴールドメダル2006

 「中野本町の家」で本格デビュー[xxii]した伊東豊雄は、「中野本町の家」への「酷評」(?)に耐えながら次なる方向を模索することになる。一般には「酷評」とは思えない。しかし、伊東はその後方向を変えていくことになる。結果として「中野本町の家」は伊東にとって得意な作品となることになる。その方向を大きく左右したのが、篠原一男、そして多木浩二との出会いである。伊東によれば、「曖昧で気まぐれな私に、厳密さを教えてくれたのが篠原スクールであった」。

 しかし、伊東は篠原スクールに留まることなく、「篠原スクールの劣等生」を自認しながら、転進に転進を重ねていくことになる。「中央林間の家」「小金井の家」(1979年)を経て「笠間の家」(1981年)で「日本建築家協会新人賞」を受賞する(1984年)。そして、次の転機になるのが「シルバーハット」(1984年)による建築学会賞受賞(1986年)である。安藤忠雄に遅れること7年、45歳での受賞は早いわけではない[xxiii]。建築界のみならず、一般の関心を集めるのも、「「東京遊牧少女の包(パオ)」(1985年)「レストラン。ノマド」「横浜風の塔」(1986年)の頃からである。「シルバーハット」による転換については藤森照信が面白いことを書いている。みんなが「中野本町の家」の話ばかりして、分かってくれないので怒った、そしてみながシーンとしたというのである[xxiv]。確かに、僕はその場にいたが「シルバーハット」については、ほとんど何も見なかった。後にNHKの解説委員を務める律子夫人と建築と関係ない話を長々としていたことを覚えている。

そして、1991になって、初めて公共建築を手掛ける(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」、同年毎日芸術賞)。50歳だからこれも早いわけではない。しかし、その後数々の公共建築を手がけることになった。「大館樹海ドーム」では、芸術選奨文部大臣賞(1998年)と日本芸術院賞1999年)を受賞する。数々の受賞[xxv]がその評価を示している。そして、伊東豊雄自身が次の大きな転機になったというのが「せんだいメディアテーク」(2000年)である。確かに、「せんだいメディアテーク」以降、伊東豊雄は、憑き物が落ちたようである。「トッズ表参道ビル」や「MIKIMOTO Ginza2」を見ると、その変貌ぶりにギョッとする。

還暦を過ぎて、世界建築のトップランナーに躍り出た伊東は、何者にも縛られず、新奇な形態を自在に追い求め始めたように見える。瀧口典子による密着ドキュメント『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(TOTO出版、2006年)を読むとその自在な心境と仕事ぶりがよくわかる。

伊東豊雄は若い頃から、海外を飛び回ってきた。ほとんど知られていないが航空会社の海外拠点のチケット・カウンターのデザインをしていたことがある。そして、1989年頃から、海外での会議、レクチャー、そして仕事に世界を股にかけて飛び回ることになる。伊東豊雄がRIBA王立英国建築家協会)のロイヤル・ゴールドメダルを受賞するのは2006年である。

 冒頭に書いたように、また、別のところで書いたように[xxvi]、数々の大学で非常勤講師や客員教授をつとめた伊東も、常勤のプロフェッサー・アーキテクトになることはなかった。安藤忠雄が東大教授にならなかったら伊東がなっていただろう。伊東は、かなり早く(50歳になった頃)から大学のデザイン教育を憂えている。実際、教えることには極めて熱心である。

「我が国の大学では、学部の最終学年でもはやデザインを専攻しない学生たちも設計製図が必修科目になっていたり、逆に大学院ではほとんど設計製図が行われていなかったりするところに問題がありそうである。・・・一体いまの大学は本当に真剣に建築家を育てようとしているのだろうか、とさえ思いたくなる。」[xxvii]

伊東は多くの建築家を育てつつある。伊東事務所出身の建築家には、石田敏明妹島和世、佐藤光彦、曽我部昌史ヨコミゾマコト、松原弘典、平田晃久らがいる。



[i] 両書とも青土社刊。

[ii] 美術出版社刊

[iii] 磯崎新の場合、短い期間、芦原義信教授の下で武蔵野美術大学の助教授であったことがある。

[iv] 拙稿、「メタボリズム批判の行方 ポストモダン以後・・建築家の生き延びる道」 「建築ジャーナル」、20081月号

[v] 植田実、『都市住宅クロニクル』上下、みすず書房、2007

[vi] この点、産学連携をうたう昨今の大学をめぐる状況には隔世の感がある。

[vii]僕は、1971年に卒論生として吉武研究室に配属されたからすれ違いであるが、後輩になる。最初に会って吉武研究室当時のことを聞かされたが、実は、石井和紘の「直島小学校」を手伝ったのだという。「直島小学校」の設計を頼まれていた吉武先生は困り果てるが、やむなく、設計作業を若い石井和紘、難波和彦に委ねることになった。丁度研究生として戻ってきた伊東豊雄に「面倒をみてやってくれ」ということになったらしい。

[viii] 『風の変様体』p128-129

[ix] 「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」『建築文化』197510月号

[x] 「シンメトリーのパラドックス(磯崎新の身体的空間とマニエラ)」『新建築』19757月号

[xi] 「ロマネスクの行方」『新建築』増刊、197611

[xii] 「変様体としての環境」『住宅建築』19857月号

[xiii] 『透層する建築』p242-243

[xiv] 「建築探偵から建築家へ:藤森照信の軌跡」、7月号

[xv] 伊東豊雄「風の建築をねざして」『建築文化』19851

[xvi] 本連載04参照。『建築ジャーナル』2008年4月号

[xvii] 東京大学建築学科の同窓会組織。第1回卒業(1879年)に、逝去会員、片山東熊、佐立七次郎、曽禰達蔵、辰野金吾がある。

[xviii] 「ドクター月尾 地球の方程式」(TBS系、毎週月曜金曜5:20-5:25)「月尾嘉男、地球再生」(テレビ東京系 奇数月第2日曜16:00-16:55)、「日本全国8時です」(TBSラジオ系 毎週木曜8:00-8:12)「月尾嘉男ホットライン」(FMもえる 毎週土曜8:00-8:30)など。

[xix] もちろん、初心として目指したのは建築家である。磯崎アトリエを経て(Expo70のお祭り広場のロボットを担当した)、都市システム研究所を設立し(72-75年)、名古屋大学工学部建築学科助教授になる(76-88年)。ところがコンピューターが得意で、情報社会の台頭を予感して情報処理や情報通信の研究にのめり込み、世界最初ともいうCGによるアニメーション「風雅の技法」を制作、以後、人工知能、仮想現実など情報科学の先端分野に挑戦することになる。東京大学工学部産業機械工学科に招かれ(91-02年)さらに定年前に総務省総務審議官も務めた(02年)。

[xx] 槇文彦事務所にも夏休み1ケ月通ったことがある。また、吉武研究室の助手であった、下山慎司・曽田忠広梁先輩の事務所「設計計画研究所」と、なんとなくそりが会わなかった石井和紘・難波和彦の事務所(ランディウム)に掛け持ちでアルバイトしていたこともある。「直島幼稚園」「54の窓」の図面を引いたし、模型をつくった。

[xxi] 「02 誰もが建築家でありうるポストモダン以後    ・・・建築家の生き延びる道02」20082月号

[xxii] 伊東自身は、「惨憺たるデビュー」という。

[xxiii] 槇文彦が「平和な時代の野武士たち」と呼んだ建築たちが受賞するのは、・・・・・・・・・・・である。

[xxiv] 伊東豊雄の「藤森さん、教えて下さい。近代建築の矛盾を見てしまった建築家に、でも頼るべき田舎も自然もないことを知ってしまった建築家に、この先のあるべき建築を・・・」という質問に答える文章の中で、「石山、毛綱、布野、藤森で見に行った。・・・なんでこんなパネル張りというかヒラヒラスカスカした折り紙みたいな建物を伊東がやったのか全員がわからなかったのだ」。『ザ・藤森照信』『エクスナレッジムック』20068

[xxv] 1984 - 日本建築家協会新人賞(笠間の家)

1986 - 日本建築学会賞(シルバーハット)

1990 - 村野藤吾賞(サッポロビール北海道ゲストハウス)

1991 - 毎日芸術賞(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」)

1993 - BCS(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」)

1994 - 日本建築学会北海道支部北海道建築賞(ホテルP

1997 - ブルガリア・ソフィア・トリエンナーレグランプリ BCS(八代広域行政事務組合消防本部庁舎)

1998 - 芸術選奨文部大臣賞(大館樹海ドーム)

1999 - 日本芸術院賞(大館樹海ドーム)BCS賞(大館樹海ドーム)

2000 - 国際建築アカデミーアカデミシアン賞

2001 - グッドデザイン大賞(せんだいメディアテーク)

2002 - World Architecture Awards Best Building(せんだいメディアテーク) BCS賞(せんだいメディアテーク)ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞

2006 - RIBAゴールドメダル王立英国建築家協会ロイヤル・ゴールドメダル賞

[xxvi] 拙稿、「建築ジャーナリズムの中の伊東豊雄::伊東豊雄論のためのメモランダム」、本誌20067月号

[xxvii] 「大学のデザイン教育を憂慮する」『新建築』19918月号

2021年3月23日火曜日

現代建築家批評09 人類の建築を目指して 藤森照信の作品

 現代建築家批評09 『建築ジャーナル』20089月号

現代建築家批評09 メディアの中の建築家たち


人類の建築を目指して 

藤森照信の作品

 

 建築家としてデビューした藤森照信をめぐって、様々な反応が表明されている。

 磯崎新は「乞食宗旦みたいだな」[i]という。鈴木博之は「藤森一休説」[ii]を唱える。二人が示し合わせたように藤森を茶人にたとえるのは、「一夜亭」(2003年)「矩庵」(2003年)「高過庵」(2004年)「徹」(2005年)といった茶室作品が立たて続けにあり、そこに「数寄の精神」を直感するからであろう。そして、その振る舞い全体が、かつての初期茶人たちの世界を想起させるからである。

 「織理屈、奇麗キッパ遠江、於姫宗和ニ。ムサシ宗旦」という狂歌を引いて、磯崎は、藤森を「ムサシ宗旦」、すなわち、「むさ苦しい」=千宗旦だという。

その見取り図が面白い。かつてブルーノ・タウトを珠光、堀口捨己を利休、丹下健三を織部に喩え、自身を「奇麗キッパ(立派)」すなわち「奇麗さび」の遠州に喩えたというのが伏線である。日本の建築状況を茶人の世界に見立てると、遠州亡き後、将軍指南役となった片桐石州が安藤忠雄で、宮廷や大徳寺の和尚たちに愛された、「お姫宗和」こと金森宗和が伊東豊雄、そして藤森が宗旦というのである。そして、見取り図に本阿弥光悦が欲しいという。また、宗二、ノ貫、庸軒などのポジションを用意できるという。

 

 ヘタウマ:プロフェッショナルな日曜大工

日本の戦後のモダニズム建築の初心を生きてきたと言っていい高橋青光一は、「藤森さんの作品は安心して見ていられるんだよ。僕のライバルじゃないから。」という。「彼が僕の領域を侵すことはない。だから平和に付き合える。みんなそう思っているんじゃない?」

「専門家を超えた素人」(初田亨)「プロフェッショナルな日曜大工」(鈴木明)といった評もある。一体、藤森はプロなのか、素人なのか。

藤森が稀代の目利きであることは疑いない。藤森を支えているのは、少なくとも近代日本の建築に関しては、誰よりも見た、という自負である。しかし、彼の作品は、そうした近代建築の歴史とは無縁であり、あまりにもプリミティブに見える。

安藤忠雄の問いが面白い。

「藤森先生の建築はいわゆる現代建築史の流れと意図的にはずされているように見えます。ご自身の建築は歴史の<外>にあると思われますか、それとも<内>にあると思われますか?」

藤森本人は<内>だと思ってきたとさらっと答えるけれど、近代建築こそが自分の育ってきた母胎だと思い込んでいる安藤には藤森は理解できない。彼の学んできた近代建築の歴史の教科書に藤森は位置付かない。

藤森は、それではトリックスターか。

磯崎は、いつものように自らを常に特権的な位置において、藤森を位置づけて見せる。藤森が注目されるのは、クリティカルであることが先鋭的である時代が過去のものになり、ポスト・クリティカルとなったから、なのである。

建築世界は、公認の共通言語を失い、デザイン言語のみならず建築批評も支離滅裂になっている、「建築家たちは、理屈抜きで、マネーの流れにのることを競いはじめた。走るのに忙しくなり、語る言葉を失った。」「マネー絡みの噂話かお笑い番組風の駄洒落話になってしまった」。

 そうした中で、藤森は、大真面目である。

 

 自然素材の使い方

 藤森は、自ら建築家としてデビューしたころ、日本の建築家を「赤派」と「白派」の二つに分けて見せた。物の実在性を求めるのが「赤派」であり、抽象性を求めるのが「白派」である。「白派」の代表は伊東豊雄であり、自身は「赤派」の代表というわけである。色分けするのであれば、もう少し多彩に(ヘルメットの色のように)分ければいいと思うけれど、ポストモダン以後、建築シーンを支配したのは、確かに「ヒラヒラスカスカ」のモダン回帰建築である。ローコストと単純性の美学を口実としたバラック建築の復活であった。

そうした中で、出現したのが「タンポポハウス」である。

この出現に最も敏感に反応を示したのが伊東豊雄であることは興味深い。「人工物の美的洗練のみに夢中になっていた現代建築家達のすべて」―要するに伊東豊雄自身―を、藤森は「タンポポ」というワンワードでノックアウトしてしまったといい、「アイランドシティ・ぐりんぐりん」(2005年)などを実際に作り出すのである。伊東のめまぐるしい変転については続いて詳細に見よう。

藤森は、「神長官守矢資料館」に続く「タンポポハウス」「ニラハウス」という、屋上に「タンポポ」や「ニラ」を植える奇想天外な発想でまず注目を惹いたのであるが、そのどこかで見たことのあるようなないような不可思議なかたちとともに強烈なメッセージとなっているのが、自然素材への拘りである。

 枯木や藁や土を使うのは、なるほど、数寄の世界である。しかし、見るところ、自ら「野蛮ギャルド」という作品群に洗練されたところも、その気配もない。「自然素材を荒々しく」使うのが藤森流である。

 『藤森流自然素材の使い方』(彰国社、2005年)を見ると、「鉄平石葺き屋根自然仕立て」「外壁左官荒壁仕上げ」「外手割り板カーテンウォール」「内藁入り着色モルタル塗り」・・・・・・・・実際に試みたディテールが並んでいる。楽しい創意工夫である。

 

 日本建築学会賞

 処女作「神長官守矢資料館」から、藤森照信は、日本建築学会賞に自ら応募してきたのだという。それだけ自信があったということであるが、「賞」が力を持つ、ということを熟知しているからだとも思う。論文の本数で評価される「学会」の体質を超越するには賞が一番である。

「タンポポハウス」に続く第三作「ニラハウス」で「日本芸術大賞」(第29回)を受賞する。赤瀬川源平邸ということが寄与したのかもしれない。とにかく、「学会賞」ではなく「芸術大賞」である。「あらゆる賞はコネクションである」というのは山本夏彦の名言である。

 建築学会賞には続けて応募し続け、ついに第6作「熊本農業大学校学生寮」で受賞する。実は、僕は、10人の審査委員のひとりであった。

 藤森のそれまでの作品は見ていない。しかし、「面白い」とは思ってきた。

 誰もが建築家でありうる。

 しかも、稀代の建築史家が本気で設計するというのである。

 野次馬的好奇心などとはまったく違う次元で真に期待もあった。

 「熊本県立農業大学校学生寮」を見て、正直「ヘタウマ」だと思った。「下手くそ」とも書いた[iii]。一箇所、食堂は「すごい」と思った。まるで「林」のように柱が「自在」に立っているのである。しかし、構造はどうなってるんだろう、という「疑い」も瞬時に持った。プランニングは一々気になった。バットレスが飛び出して、ただの光庭と化した空間には心底首を傾げた。構造分野を代表する委員であった渡辺邦夫さんが、これは20年たったら「バランバランになる」と言ったのが、ずしりと僕の評価に効いた。

 賞というのはポリティカルなバランスというものがある。熊本アートポリスの一環であるこのプロジェクトであることを最大限考慮して一票を投じた。当然、共同設計者(藤森照信+入江雅昭+柴田真秀+西山英夫共同体)の役割を大きく評価してのことである。しかし、受賞者は藤森一人ということになった。経緯は省くが、不満であった。次のように総評を書いた。

 「最終判断には委員会全体のある種のバランス感覚が働いていると思う。そういう意味では妥当な選考であった。

 ただ個人的評価は異なる。第一次選考で残った8作品の中で最後まで押したのは「上林暁文学記念館」「三方町縄文博物館」「中島ガーデン」の3作品である。前2作品は第一次選考で最も多い票を集めたが、現地調査で支持を失ったのが残念である。細かい収まりより大きな構想、新しい空間の予感、薄くてぺらぺらの建築ではなく存在感のある建築を評価基準としたけれど、眼につく欠陥の指摘を圧倒し返す言葉を持ち得なかった。

 「熊本県立農業大学校学生寮」は、豪快で、さすが当代の目利きの作品と、好感が持てた。特に食堂の空間が不思議な魅力がある。ただ、平面計画にしろ構造計画にしろ素人そのものなのは買えなかった。特に木造の扱いはこれで時間に耐え得るかと思う。また、旧態たる奇妙な設計施工の体制も気になった。「東京国立博物館法隆寺宝物館」は完成度において文句はないが、この作品によって「重賞」問題を突破するのをやはり躊躇(ためら)った。「中島ガーデン」は、日本型都市型住宅のプロトタイプ提出の試みとして「茨城県営長町アパート」とともに評価した。」

 

 丹下健三論

長谷川尭が『神殿か獄舎か』でターゲットとしたのは丹下健三である。

長谷川堯の弟分を任じ、モダニズム批判の路線―近代建築史再考、様式建築再考―を仕事のベースにしてきた藤森が何故丹下健三なのか。『丹下健三』(新建築社、2002年)の序によると、藤森の方が「近代建築史家として、後世の人のために丹下先生の業績をまとめておきたいのですが、いかがでしょうか」と持ちかけたのだという。

 「近代建築家として」という職業的使命は理解できないわけではない。藤森が丹下健三論を執筆している最中、上述のように、広島大学で年に何回か会う機会があり、未発表の「戦没学徒記念館」(1966年)の存在を教えられて、すぐさま見に行ったことを思い出す。丹下健三をめぐる数々の「発見」を夢中になって語る藤森は活き活きとしていた。藤森も間違いなく「建築少年」である。

 むしろ、丹下健三がなぜ藤森を指名したのか、というべきかもしれない。丹下健三は、長谷川堯の『神殿か獄舎か』による一撃以降、日本から消えた。東京大学を定年退官になって丹下健三・都市・建築設計研究所を設立して(1974年)以降、その活躍の舞台は海外となる。

 丹下の‘不在’あるいは‘留守’と藤森は言うが、まさにその期間に藤森の仕事の出発点がある。その出発点を確認し、自らの設計の方向を再確認するのが『丹下健三』である。

 藤森は、次のように書く。

 「1971年から数年間の長谷川堯の言論活動の衝撃はまことに大きいが、しかし、不思議なことに、建築界の方向は大して変わらなかった。味わい深く目の滑らないような仕上げを試み、人を優しく包むような空間と取り組み、建築と自然のことを本気で考えるような建築家は結局現れなかった。」

 自らこそが「本気で考える建築家」たらんとしていることは明白である。復刻された『神殿か獄舎か』(2007年)のあとがき(「長谷川堯の史的素描」)を、「私の処女作は、長谷川さんの言ってたことを建築として実現したのではないか。部分的にはそういう面がある、と、今も確信している。」と結ぶのである。

 

 人類と建築の歴史

『丹下健三』によって、『日本の近代建築』を戦後にまで書き継いだ藤森は、一気に建築を始源にまで遡行する。それが『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、2005年)である。

 自ら「片寄ったというか」「破天荒というか」というけれど、その建築史観に大いに驚く。全六章のうちの四章が新石器時代までの歴史で、第五章が「青銅器時代から産業革命まで」、六章が「二十世紀モダニズム」なのである。

 そして、恐ろしく単純である。

 「人類が建築を作った最初の一歩は、世界どこでも共通で、円形の家に住み、柱を立てて祈っていた」などと書かれると、『世界住居誌』(昭和堂、2005年)の編者としては違和感を持つ、と言わざるを得ない。

 しかし、藤森の言いたいことははっきりしている。「一九一九年開校のバウスによって世界は一つのところに行きついた。以後、白い箱に大きなガラス窓のあくデザインは、戦前いっぱいを通してヨーロッパや日本に広がり、さらに戦後にはいると、ナチスに追われてアメリカに渡ったグロピウスとミースのリードのもと、ガラスの箱としての超高層ビルが作られ、世界中の都市へと広まってゆく。」という乱暴な断言であれば、違和感はないのである。

 「厚い壁より薄い壁を、太い柱より細い柱を、より軽く、より透明な空間を」求める抽象的な造形世界が中心にあり、その周りに「物としての存在感の回復を夢想する、バラバラでクセの強い少数者が散らばって叫んでいる」というのが、藤森の現代建築の構図である。上述の赤派と白派との対立構図である。

 藤森は、そこで、素手で自然素材に帰ろうとする。縄文の昔に回帰するのだという(縄文建築団)。「課外授業へようこそ 家は自分で建てよう」(NHK2001年)では、縄文式住居を実際に建てて見せた。縄文へ拘る建築家と言えば、渡辺豊和であるが、藤森の処女作「神長官守矢資料館」を唯一評価したのが渡辺だったというのも、何かの因縁であろう。

 

 未だ見たことのない建築

ヴァナキュラー建築の世界への関心は、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築』(Architecture without Architects)以来、広く、建築界に存在している。日本でも、伊藤ていじの『民家は生きてきた』など、民家への関心は一貫するものとしてある。1960年代後半のデザイン・サーヴェイ、原広司の世界集落研究については、前に触れたとおりである。安藤忠雄も民家や伝統的な集落の魅力を語っている。しかし、藤森の場合、少し違う。ヴァナキュラー建築への関心は、普通、それを支えてきた『驚異の工匠たち』の世界へ向かう。歴史の中で育まれてきた技、創意工夫に学ぶ姿勢があるが、藤森は、裸で、素手で、原始の自然に向かおうとするところがある。まさに「野蛮ギャルド」である。

藤森には、無数の工匠は眼中になさそうである。あくまで関心をもつのは、以下のように「新しいかたち」なのである。

「歴史を偽造してまでも根本的に新しいかたちを見てみたい、なんなら歴史の後もどりだってしよう。物としての手ざわり感を建築から失いたくない。多様な形の面白さを味わいたい。」

「未だみたことのない建築」をつくりたい、という藤森を突き動かしているは、新奇性を後ろ向きに追求する、裏返しの近代のオリジナル信仰なのであろうか。枯木や泥壁や藁が「思想」だ、と藤森は主張すると、磯崎は深読みをする。そこでは、確かに、藤森はポスト・クリティカルの時代の旗手だ。

しかし、僕には、藤森は、素朴にテルボ(建築少年)であった世界を夢見続け、実現したいだけのような気もしないでもない。 

 



[i] 「乞食照信を論ず」『ザ・藤森照信』pp8687

[ii] 「高過庵の茶会―藤森一休説序説―」『ザ・藤森照信』pp8991

[iii] 共同通信配信「見聞録」。「全体は懐かしい木造校舎のようだ。工事の時の残土を積み上げた小さな丘の割れ目を抜けると、生木の皮を剥がしただけの木が5本、入口の庇を突き抜けて建っていて、不思議な雰囲気を醸し出している。手作りの雨樋が楽しげだ。仕上げ材料は基本的に木と土、布と縄である。照明器具など、随所に手作りの味がある。自然(生物)材料を徹底的に用いる、というのがこの建築の方針である。

 設計者は建築探偵、藤森照信をチーフにする地元の建築家共同体だ。熊本アートポリス事業として藤森が選ばれ、この建築のために地域の精鋭が招待されたユニークな試みだ。自宅「タンポポ・ハウス」の設計で建築家としてデビューして以来、藤森の作品は数作になるが、自然材料を基本とするのは一貫している。

 工業材料が溢れ、世界中が同じような建築物で埋め尽くされる中で、可能な限り生の素材を使おうという単純な主張は、素朴な共感を呼んでいるように思う。しかし、実際は大変である。生木は捻れ、割れ、容易に人の言うことを効かないのである。現場は悪戦苦闘である。普通の建築家であればクレームに耐えられないかもしれない。

 しかし、出来上がった空間は絶妙だ。圧巻は食堂である。無骨な生木が林立して森のようだ。さすが当代の目利きの作品だと唸った。建築がうまくなるためにはとにかく建築を見てまわることである、とつくづく思う。

 建物を上から見ると、インベーダーゲームのキャラクターのようで、異世界から舞い降りたかのようだ。建築の訓練は受けたといえ、藤森の本領は建築史であって、建築のプロから見れば素人である。この建築はおよそ洗練とか、熟練とかからは遠い。下手くそといってもいい。しかし、出来上がった空間には建築の原点に関わる迫力がある。素朴に建てよ、誰でも建築家であり得るのだ、そんな藤森の声が聞こえるような気がしてくる。」

2021年3月22日月曜日

現代建築家批評08 建築史学という呪縛  藤森照信の建築史観

 現代建築家批評08 『建築ジャーナル』20088月号

現代建築家批評08 メディアの中の建築家たち


建築史学という呪縛 

藤森照信の建築史観

 

布野修司

 結局、藤森照信の建築史家としての仕事は、『明治の東京計画』(1982年)『日本の近代建築』(1993年)『丹下健三』(2003年)ということになろうか。しかし、『明治の東京計画』は、都市(計画)史であり、『丹下健三』は卒業論文以降数多くものしてきた評伝である。『明治の東京計画』にしても、扱われるのは制度設計を含めたプロジェクトであり、それに関与した人々の人物群像が基本になっている。『日本の近代建築』を書いて、「日本近代建築研究をはじめた時からの目的を果たす。これで歴史研究から離れても許される、と思った」という(藤森照信年譜)。あとがきには、「この本以後については、子供の頃から文を書くよりは好きだった、物を実際に作る仕事に手を広げられれば、と願っている」とはっきり書いているから、『日本の近代建築』が集大成ということであろう。

 管見の範囲であるが、これまで書かれた藤森照信論の中で最も鋭いと思われる一文[i]の中で、中谷礼仁は、次のように言う。

 「藤森の指導教授は村松貞次郎(1924-1997)だった。日本近代建築における西洋建築技術移入の変遷をいち早くまとめた人物であり、その他大工技術の研究の研究にもすぐれた業績を著していた。そしてそのまな弟子である筈の藤森が、なぜか様式研究者なのである。それも本人が唱えるように「看板」様式主義者。そして、提出した博士論文は『明治の東京計画』であり、こちらは綿密な都市史ときている。なんだ?・・・なぜそんな後者の領域(技術史、生産史、工学的領域:引用者註)に属しながら、藤森が建築を探偵し、様式を主張し、都市を語り、あげくのはてにはゲージュツ(路上観察、トマソン)までを伴とするのか、外野からは全くもってわからなかったのであった。かなりいかがわしい!」

 建築生産史研究(渡辺保忠研究室)の系譜を引き「歴史工学者」を名乗る中谷は、この一文において、「建築学」という体系からこぼれ落ちた「歴史意匠」と「建築」の本質を「藤森照信のいかがわしさ」に見るのであるが、藤森の「建築観」そして「建築史観」を以下に見よう。

 

「神殿か獄舎か」

 何故、都市計画史なのか。藤森は、その経緯を様々に語っている。村松貞次郎、稲垣栄三、桐敷真次郎らによって昭和三十年代に、日本近代建築研究はスタートし、一定の成果をみた後の停滞期に研究をはじめた藤森にとって、テーマの選択が大きな問題であった。「幕末、明治初期の実証的研究に引きつづいて、明治十年代以後のコンドルや辰野金吾といった本格的建築家について実証主義研究をするか」、「通史的研究によって概略は知られた分離派はじめその頃のことをもっと深く調べ論ずるか」[ii]、考えている最中に長谷川堯の『神殿か獄舎か』が出た。

 『神殿か獄舎か』にまとめられることになる論考が『近代建築』誌に連載されている時から僕らはそれを読んでいた。磯崎新の『建築の解体』(1975)についても同様で、そのもとになった『美術手帖』の連載は必読論考であった。これは、いわゆる「全共闘世代」あるいは「団塊世代」に共通だったと思う。『神殿か獄舎か』と『建築の解体』は、若い世代に圧倒的に影響力を持ち、その後の日本の「建築のポストモダン」を方向付ける二冊となった。

 『神殿か獄舎か』のわかりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきた流れを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が称揚されている。続いて出版された『都市廻廊』『雌の視角』も同様で、中世か近代か、「雄」か「雌」か、という明快な二分法が論法の基軸になっている。「雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 僕自身、「昭和建築」を近代合理主義の建築と規定し、「大正建築」を救う、という長谷川堯の歴史再評価の試みには大きな刺激を受けた。1976年の暮れ、堀川勉、宮内康らとともに「昭和建築研究会」という研究会を設立したのだが、長谷川堯の一連の著作のインパクトが大きいことは、その名に示されているだろう。要するに、「昭和建築」を全面否定するのではなく、その中に可能性を見いだそうという対抗意識があったのである。「昭和建築研究会」は、まもなく「同時代建築研究会」と改称、宮内康の死(1990年)まで活動を存続する[iii]

 僕は、1981年に、処女論考『戦後建築論ノート』(相模書房、改訂版『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995))を出すが、その中で長谷川堯の歴史評価についてかなりのスペースを割いている。長谷川堯の近代建築批判の内容には大いに共感しながらも、歴史を遡るだけのように思えたその方向性には不満だったのである。若い世代が「戦後建築」をどう乗り越えるか、が問題ではないか、という思いが強かった。この点では、磯崎新の『建築の解体』の、「近代建築」の流れを前提にした「近代建築」批判の試みの方に、むしろ共感していたと言っていい。全く方向を異にしているように思える二つの著作が同時に読まれた背景は、近代建築の乗り越え方にかかっていたのである。

 ひとつの大きなテーマは、戦前戦後の連続・非連続の問題、なかでも「帝冠(併合)様式」の評価の問題であった。長谷川堯は、「帝冠様式」を日本の近代建築が成立するに当たって必要な「排泄物」のようなものだと片づけてしまうのであるが、日本ファシズムと表層的なデザイン規制をめぐる問題はもう少し根が深いと思えていた。この問題は、「ポストモダニズムの建築」が跋扈するに従って「同時代的」な問題となったし、現在も「景観問題」が大きく浮上するなかで未だに継続している決して小さくない問題である。結局、近代建築批判が安易に見いだしたのは、様式や装飾の復活を素朴に標榜する「ポストモダン歴史主義Postmodern Historicism」の流れである[iv]

 

「看板建築」

 『戦後建築論ノート』は、建築イデオロギー批判の書であって歴史書でも研究書でもない。しかし、歴史研究を志す藤森にとって、長谷川堯が超えるべき大きな存在であったことは自ら書いている。

「私がひそかに考えていた文学的な歴史叙述を長谷川堯がやっているのだからますますたまらない」

藤森にとって、大きな敵は、実証主義史学であった。

「大学の研究室で建築史を学んでいると、アカデミズムの常として、実証性を強く言われる。」

 直接聞いたこともあるが、藤森が度々触れるのが「看板建築」事件である。「看板建築の概念について」を日本建築学会で発表。前年からの発掘調査の「実証的」成果であったが、ジャーナリスチックとの批判が多発」(1975年、藤森照信年譜)。

 その場に居なかったからやりとりは不明であるが、批判のコメントは稲垣栄三からのものであった、と聞いた。僕自身は、稲垣栄三の『日本の近代建築』に大きな影響を受けた。『戦後建築論ノート』で書いているが、「近代日本の建築」か「日本の近代建築」か、という視点においては、稲垣の方が他の建築史家よりも懐が深いと思えていた。

アカデミズムかジャーナリズムかをめぐっては、稲垣栄三、町家の成立を大きなテーマにしていた故野口徹と鼎談したことがある[v]。一般の読者への表現も力になる、積極的に一般メディアにアプローチすべきではないか、という僕に対して、二人はしっかりした論文が残る、という。

 「昭和3年より、本格的に震災復興が行われるが、その中で、かつての街や形式に代わるものとして、独自な洋風ファサードを持った都市住居形式が成立した。それは、隣棟計画、平面計画、構造技術においては先行の町家形式を基本的に踏襲しながら、ファサードにおいては決定的に異なり、あたかも、建築躯体の前面に、衝立てを置いた如くに扱われている故に、看板建築と呼称する。」

 問題は、「看板建築」というネーミングがジャーナリスティックかどうかであったのではない。「看板建築」が新しい都市住居の形式かどうかが問題であったのだと思う。稲垣・野口は、そしてイタリアからティポロジア(建築類型学)の手法を持ち帰る陣内秀信ら稲垣研究室にとって、敷地の型と建築の型が問題であり、「看板建築」は、大きな要素と認められない、ということである。

フィールドワークに基づいて「看板建築」群を発見し、名付けた藤森の功績は大きい。街並み景観をかたちづくるのは、「看板建築」なるものである。ポストモダンを標榜した建築の多くもまた「看板建築」であった。

問題は、藤森の眼がファサードという表層に留まったままかどうかである。

 

「明治の東京計画」

 藤森の拘る(気にする)「実証主義」の問題は、もちろん、一般的な問題としてある。ただ、建築学というアカデミズムの制度においては、「論文」(を書く)という制度、あるいはその形式の問題と言ったほうが分かりやすい。「建築」を論文にするアポリアは、建築学の分野では大きな問題であり続けているのである。建築史学が歴史学に赴こうとすればそのパラダイム(「実証主義史学」)に拘束されるのは当然である。建築を工学的な技術の枠内で考えようとすれば、工学というパラダイムに拘束される。

 工学という枠組みで出発した日本の建築学の歴史についてここで書く余裕はないが[vi]、日本建築学会は学術、技術、芸術の三位一体をうたう、世界でも極めてユニークな「学」の殿堂である。一方、日本の大学のほとんどは、プロフェッサー・アーキテクトに博士の学位を要求する。安藤忠雄の東京大学教授就任について触れたが、京都大学の場合は、内井昭三、高松伸といった建築家を招くに当たって学位論文を書くことを求めている。藤森が渡辺豊和や竹山聖といった建築家に博士(東京大学)の学位を出したのは、建築学というアカデミズムのなかでは、特筆すべき快挙である。快挙というよりも何よりも、藤森にとっては、自らの建築学における存在基盤に関わっているのである。

 とにかく、学位論文を書くに当たって、藤森は、「明治の東京」を選んだ。群を抜いた大学位論文となった。

 都市計画史というと、第一に、制度史あるいは法制史に留まるものが多い。今日に至るまでそれが主流である。第二に、藤森以前に、近代日本の都市計画史に関する仕事はほとんどない。石田頼房[vii]、渡辺俊一[viii]らの著書が一般向けに上梓されるのはむしろ後である。日本を問題するにしても、欧米の都市計画制度の導入に関心が払われるのが一般的である。そうした中で、藤森は、都市計画制度に関わるひとつのプロジェクトが成立する過程の議論、政治的力学をダイナミックに描き出す。

 扱われるのは、「銀座煉瓦街計画」「明治一〇年代東京防火計画」「市区改正計画」「官庁集中計画」である。昭和戦前期までの東京を決定づけた「明治の東京計画」が見事に描き出されている。

 建築探偵団として東京を這いずり回った経験がテーマを支え、「論文らしからぬ」文章に活き活きと息づいている。藤森が焦点を当てたのは、必ずしも、東京という都市の歴史ではない。都市を計画しようとした人々の意志とその現実化の過程である。建築家の評伝を書く手法と同じである。ウォートルス、エンデ&ベックマンなどの仕事に関心が集中するのは変わらないのである。

土地の側から都市を描く、例えば、陣内秀信の『東京の空間人類学』とはヴェクトルが異なる。ほぼ同じ頃、松山巌が『乱歩と東京』を書いた。松山は、江戸川乱歩の探偵小説を読み解くことにおいて東京の近代に迫った。人とその表現、集団の作品としての東京へのアプローチである。こうしてわれわれは、東京論の核となる三部作をもった。1980年代中葉から1990年代初頭にかけて、東京論ブームが起こるが、建築の分野からのこの三作が火付け役になるのである。

多くの東京論は、その時間的パースペクティブに関して大きく三つに分けることができた。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の3つである[ix]。この3つは実は同根であり、背景にあるのは「東京(一極集中)問題」と総称される諸問題であった。17世紀初頭には小さな寒村にすぎなかった江戸が一九世紀半ば過ぎに東京と名を変えて1世紀あまり、東京は、その歴史的形成の過程において幾度かの転機をもつ。藤森が焦点を当てたのは、江戸から東京への転換における空間の再編成の時期である。そして、関東大震災後の近代都市への編成、第二次世界大戦時における一瞬の白紙還元と戦後復興、東京オリンピックを契機とする高度成長期の大変貌、そして、東京という都市は明らかに過飽和状態に達し、都市のフロンティアが消滅しつつあることが強く意識されたのが1980年代末である。

 

『日本の近代建築』

 稲垣栄三の『日本の近代建築』が書かれたのは1959年のことである[x]。藤森が同じタイトルの本を書いたのは1993年、34年後のことである。村松貞次郎の『日本建設技術史』(1959年)『日本近代建築史ノート』(1965年)も含めて、先行して書かれた日本の近代建築の歴史についての評価は、『戦後建築論ノート』にかなりのスペースを割いて書いた通りである。

 稲垣・村松らの歴史叙述の基軸に共通に据えられていたのは、日本建築の近代化である。最も包括的構えをとった稲垣の『近代建築』の叙述は、日本の近代文化の特質から建築生産の機構、デザインの特質からそれを支える技術、都市計画から住宅、また職能の問題へと多岐にわたっている。大きく整理すれば、近代デザインの確立、建築家という職能の確立、建築技術、建築生産機構の近代化という3つの軸があり、近代日本の形成そのものを建築の領域に即して問うのが稲垣であった。

 藤森の『日本の近代建築』に対する第一の不満は、その叙述が稲垣栄三の『日本の近代建築』と全く同様、第二次世界大戦までで終わってしまっていることである。

 戦後既に半世紀を経ているにもかかわらず、何故、戦後の過程は書かれなかったのか。しかも、その記述の過半は幕末・明治編である。むしろ、歴史を遡行する構えが採られている。実証主義建築史学の史学史観からは評価が薄いかもしれないが、伊東忠太が担ったような、日本の建築の行方を大きく指し示す役割が藤森にはあるのではないか。『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)では戦後の住宅作品に触れられるが、少なくとも、戦後のある段階までは叙述する必要があったのではないか。

 それよりも大きな問題は、日本の近代建築の歴史が様式の変遷史に還元されてしまっていることである。藤森照信『日本の近代建築』の冒頭に「日本近代建築系統図―1238派―」なる年表が示される。師である村松貞次郎の『日本建築家山脈』を思わせるが、こうした系統図によって整理される歴史とは一体何か。「様式選択史観」と書評[xi]をしたのであるが、38派の中に「社会政策派」、「歴史主義建築論」とかがあり、正直、とまどわざるを得ない。唯一評価するとすれば、冒頭、「ヴェランダコロニアル建築」という章を設けて、アジアへの視点を示唆していることである。実は、藤森の修士論文『日本人居留地洋風建築の研究』は、この視点に関わっている。ここで触れる紙数がないが、ザビエル、そして平戸商館から説き起こし、釜山倭館、日本人居留地に触れる修論は、出来はともかく、アジア建築史へ向かう先駆的なものと言っていい。『全調査東アジア近代の都市と建築』 (汪坦・藤森照信監修、 筑摩書房、1996年)には、その後の成果がまとめられている。ただ、さらに日本の近代建築をさらに大きくグローバルに位置づける視点が欲しい。

 結局、藤森にとって、歴史研究とは、歴史的建造物のインヴェントリーをつくって、その様式とそれを支える諸関係を整理することに留まるのであろうか。

 藤森は、自ら建築の行方を示すべく、建築をつくる現場へ赴いたように思える。



[i] 「歴史意匠という言葉を知っていますか」(『ユリイカ』「特集*藤森照信 建築快楽主義」)

[ii] 「長谷川堯の史的素描」(長谷川堯『神殿か獄舎か』復刻版、2007年解題)

[iii] 宮内康の遺稿集『怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)は、『神殿か獄舎か』の時代をよく伝えている。「同時代建築研究会」は、長谷川堯と磯崎新をゲストとするシンポジウムも行っている(『悲喜劇・1930年代の建築と文化』、同時代研究会編、現代企画室、 1981年)。

[iv] 長谷川堯の仕事は、そうした表層デザインの流れとは無縁であったと思う。しかし、その主張はその流れと明らかに重なって受容れられていった。結局は、『神殿か獄舎か』は深いところでは読まれなかったのかもしれない。「獄舎づくり」の伝統は遙かに長く深い流れをもっている。その後の長谷川堯の仕事は歴史をさらに大きく見つめ直す方向へ向かい、ポストモダニズム建築をめぐる喧騒から遠のいていくことになるのである

[v]

[vi] 拙稿、「近代日本における建築学の史的展開」(『新建築学大系01 建築概論』、大江宏編,彰国社, 1982年)

[vii] 『日本近代都市計画史研究』 柏書房日本近代都市計画の百年』 自治体研究社 1987年     『未完の東京計画』  筑摩書房 1992年

[ix]拙稿、『早稲田文学』、一九八九年七月。『イメージとしての帝国主義』(青弓社 一九九〇年)所収。以下のように書いた。「路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というように視線の置き方によって分けたり、イメージとしての東京論、景観としての東京論、形態としての都市論、というように対象やレヴェル、次元によって分けたりできようが、およそ以上の三つであったレトロスペクティブな東京論においては、ひたすら、東京の過去が掘り起こされる。東京の過去とは江戸であり、一九二〇年代の東京である。また、地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そして、そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。また、現在の東京に、失われたものや価値が対置される。一方、ポストモダンの東京論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界でも最もエキサイティングな都市「東京」というわけだ。路上観察、タウンウォッチングに、パフォーマンスである。しかし、この二種類の東京論は、実は根が同じとみていい。ポストモダンの建築デザインを考えてみればわかりやすいだろう。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。すなわち、すでに都市の表層を支配するのは、皮相な歴史主義のデザインである。近代建築に対して、それを批判すると称して(ポストモダンを標榜して)装飾や様式が実に安易に対置されたのであった。過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 そして、この二種の東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造のさまざまな蠢きである。レトロスペクティブな東京論は東京が変わっていくことへのある意味では悲鳴であった。東京の変貌、その再開発や改造の動きと過去の東京へのノスタルジーが東京論という形でブームとなったことは、言うまでもなくストレートにつながっている。過去への郷愁は、それだけでは無力かもしれない。しかし、それは、すなわち、都市の過去や自然、水辺の再発見は巧妙にウォーターフロント開発や、都市の再開発へと接続されるのである。こうして仮に三つに分けてみた東京論はひとつの方向を指し示す。東京という空間はいままさに再編成されつつある。東京のフィジカルな構造はいまドラスティックに変わりつつある。」

[x] 丸善、1959年。SD選書、1979年復刻。

[xi] 『共同通信』配信、『岩手新聞』他、19931214