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2022年2月28日月曜日

住居/土間式住居/米倉,『東南アジアを知る事典』,平凡社,198607:池端 雪浦 監修, 桃木 至朗・クリスチャン ダニエルス・深見 純生・小川 英文・福岡 まどか・石井 米雄・土屋 健治・立本 成文・高谷 好一 編集,東南アジアを知る事典,改訂版,平凡社,2008年

 住居/土間式住居/米倉,『東南アジアを知る事典』,平凡社,198607:池端 雪浦 監修, 桃木 至朗クリスチャン ダニエルス深見 純生小川 英文福岡 まどか石井 米雄土屋 健治立本 成文高谷 好一 編集,東南アジアを知る事典,改訂版,平凡社,2008

住居

 

[鞍形屋根と高床式住居]

東南アジアには実に多彩な木造建築の伝統がある。中でも、棟がゆるやかに反り上がった鞍形屋根(舟形屋根)と呼ばれる独特の屋根形状が、島嶼部を中心にミナンカバウ族(西スマトラ)、バタク諸族(北スマトラ)、サダン・トラジャ族(南スラウェシ)などの住居に見られ、世界的に見ても注目される。

伝統的住居のあり方を歴史的に明らかにする資料は少ないが、ドンソン銅鼓など考古学的出土品に描かれた家屋紋や家型土器にこの鞍形屋根がみられることや、雲南の石寨山で発見された貯貝器の取っ手は今日のミナンカバウ族の住居にそっくりであることなど、ある程度共通の住居形態が古来より存続してきたと考えられる。ドンソン銅鼓は、ベトナムのみならず、中国南部からニューギニア東部のサンゲアン島でも発見されており、相当広範囲に鞍形屋根の形態が分布していた可能性がある。言語学的な復元によると、東はイースター島から西はマダガスカル島までの広大な海域に居住していたのがオーストロネシア語族で、共通の居住文化を保持していたとされ、その源郷は台湾(あるいは中国南部)という説が有力である。

鞍形屋根とともに、東南アジア(さらにオーストロネシア世界)の住居のもう一つの特徴が高床式である。ボロブドゥールやプランバナンのレリーフに描かれた家屋紋も例外なく高床式である。ただし、いくつかの例外があり、ベトナム南シナ海沿岸部、ジャワ、マドゥラ・バリ・ロンボク西部、マルク諸島のブル島は高床式の伝統を欠いている(ジャワ島でもスンダ地方は、バドゥイの住居のように高床である)。ベトナムの場合は中国の影響が考えられるが、ジャワ・マドゥラ・バリが地床(土間)式である理由については、南インドのヒンドゥー住居の影響、イスラームによる高床の禁止など諸説ある。バリの住居は基壇の上に建てられ、煉瓦造と木造の混構造であること、分棟形式をとることなどを特徴とする。また、ヒンドゥーの世界観に基づく、一貫する配置原理、寸法体系の維持で知られる。ジャワの住居は、屋根形式によって、ジョグロ(寄棟高塔)、リマサン(寄棟)、タジュク(方形)、カンポン(切妻)などに類型化される。ジョグロは、4本柱の中央を高く突き出す形態で、興味深いことにスンバワ島によく似た形式がある。ジャワにもプリンボンと呼ばれる建築書(家相書)が伝えられる。

高床式の系譜として注目されるのが、倉型住居(高倉)である。倉が鼠返しのついた高床の形式で建てられるのはごく自然であり、地床式のジャワ・マドゥラ・バリ・ロンボクでも米倉は高床式である。日本の神社、貴族住宅(寝殿造り・書院造り)も高倉から発達したとされるが、倉そのものが住居の原型となる。フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯には、高倉の屋根をそのまま降ろして壁で囲う入れ子状になった住居があり、日本の南西諸島の高倉との関連をうかがわせる。また、インドネシア東部にも、同じように小さな倉型住居が分布する。今のところ、高床式住居は稲作が行われる以前から存在すると考えられるが、稲の東南アジアへの伝播とともに、この倉型の建築形式が伝播していったことは大いに考えられる。

多様であるにもかかわらず、共通の要素や系譜をもつのが東南アジア木造建築の興味深い点であるが、その根拠となるのが木造架構の原理である。すなわち、木材の組み合わせは無限ではなく、とりわけ構造力学的制約によって、架構方法はいくつかに類型化される。G.ドメニクの構造発達論は、日本の竪穴式住居の架構から様々な形の鞍形住居の架構ヴァリエーションをうまく説明する。湿潤熱帯を中心とするため、木を横に使ういわゆる校倉造り、井籠組(ログ)は少ないが、北スマトラのカロ高原の南に居住するバタク・シマルングン族の住居などなくはない。トロブリアンド島のヤムイモの収納倉が高床式の校倉造りであることはよく知られる。形態として興味深いのは、円形もしくは楕円形の住居で、ニアス島からチモール島にかけて分布する。ニアス島の住居は床下に斜材を用いるのがユニークである。

[住居の集合形式]

住居の集合形式としては、まずロングハウス(長屋)がある。東南アジア大陸部ではカチン族など、島嶼部ではカリマンタンからニューギニアにかけての地域に分布する。タイ北部では屋敷地に分棟形式で住居を建てて親族が住む形態がみられ、「屋敷地共住結合」と呼ばれる。東南アジアでは、大陸部でも当初部でも一般に双系制の親族原理が支配的であるとされ、世界で最大の母系制社会を形成するミナンカバウや父系的であるバタク諸族は、むしろ例外である。これらの場合、一室の大空間に複数の家族が居住する形式をとる。

バタク・トバやサダン・トラジャが典型的であるが、住居と倉を平行に配置する集落形式はマドゥラ島など他にも見られる。スンバワ島には、広場を円形に囲む形式も見られる。時代は下るが、都市住居として、南中国で成立したと考えられる店屋(ショップハウス、街屋)の形式が港市都市に成立する。

西欧列強の進出によって、いわゆるコロニアル住居が建てられ始める。西欧列強の拠点となったマラッカ、オランダ東インド会社の拠点であったジャカルタをはじめスマラン、スラバヤなどジャワの諸都市、英国の海峡植民地となったペナン、シンガポールなど数多くの都市の都市核に植民地建築の遺産が残されている。西欧の住居形式がそのまま導入される一方、土着の空間形式や架構方法が様々に取り入れられ、新たな住居の伝統を形成することになったのである。(布野修司)

 

 

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