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2022年2月14日月曜日

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 コンペもいや審査もいや百家争鳴,室内,199702

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 

コンペの審査なんかやるもんじゃない

布野修司

 

 コンペ(設計競技)の審査委員なんかやるもんじゃない。ひとりの当選者には喜ばれるかもしれないけれど、落選した建築家には必ずうらまれる。あることないことをいいふらされるのは全くもって頭にくる。

 建築家というのは実に自惚れが強い。自分の案が一番いいと思い込んでいる。また、そうでなくては建築家なんかになっていないのであろう。それはそれでいいけれど、自分が落とされたのは何か不正があったに違いない、と思い込むのはいいかげんにしてほしい。少なくとも僕が審査委員として参加する場合は、審査経過を公表することが原則である。さらに可能な限り、密室で質疑するのではなく、市民にも判断の情報を提供する公開ヒヤリング方式をとるようにつとめている。それでも怪文書の嫌がらせの類が横行するのである。

 ひとつには、日本のコンペの風土の問題がある。公共建築の設計者選定の制度としては、未だに設計入札が横行しており、首長などの特命入札の形が多い。特定のコネクションが巾を効かしているから、スター建築家も水面下では暗躍することになる。また、コンペといっても、結果の決まっている疑似コンペが少なくない。全てのコンペが勘ぐられる、そういう土壌があるのである。

 また、建築家が審査委員となるのも、常に勘ぐられる要因である。建築家がある時は審査員になり、ある時は応募者になる。建築家の間に貸し借りの感覚が生まれるのは当然だろう。仕事のやりとりをしているように見える。審査委員の資格と審査委員会の構成についてルールが全く確立していないのである。

 以上のような風土の中で、なんで審査員をやるかというと(求められるからにすぎないのであるが)、偉そうに言えば、なんらかのルールづくりに寄与したいと思うからである。ヴォランティアである。それなのに文句ばかりでは割に合わない。

 いきなり審査の依頼が来る。聞いてみると、当日出かけていって札入れをするだけである。全てが決められており、応募要項や審査方式、当該建築のプログラムについて意見をいう余地がない。こういう場合は断ることにしている。実は一度、全く以上のような、総工費百億円を越える公共建築の審査員になったことがある。指名料にしろ、審査のやり方にしろ、プログラムにしろ、唖然とすることばかりであった。事前に固辞したけれど、それなら欠席してくれと言われ、癪だから出かけて言いたいことだけは言ったけれど、収まらない。

 全て決定済みの場合は仕方がないのであるが、少しでもルールづくりにつながるものは引き受けるようにしてきた。ヴォランティアだけれど意地でもある。それでも建築家には不満だらけで意地の張り甲斐がない。

 公平、公正、公開という基本原則を主張するだけである。審査経過の透明性を高めていけば自然に悪徳審査員?も淘汰され、ルールもできるだろう。ある審査員がどういう判断をするのかが公開される必要があるのである。文学賞の場合を見ていればいい。水面下で色々あっても(全ての賞はコネクションである)、作家が作家生命を賭けた判断をすればそれでいい。審査員は、審査員生命を賭けて判断すればいいのである。問題があれば、次から審査員失格である。ところが、建築界には不思議なことが多い。

 ある県の公共建築の二段階の公開コンペだけれど、いわゆる大手の組織事務所の参加がほとんどなかったのである。五〇〇〇㎡以上の実績が応募条件にされていたから、組織事務所に有利である。忙しすぎて人員を割けないというのであろうか。審査委員の顔ぶれによって当選可能性を読むというのは当然のことである。しかし、組織事務所が敬遠する審査委員会の構成とは一体なんだろう。建築界に奇妙な棲み分けがあるのだろうか。もしそうだとすると、ほんとに審査員なんかやっていられないのである。

 





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