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2022年2月13日日曜日

僕たちの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)

  僕らの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)


僕たちの内なるアジア建築

布野修司

 

 ジャカルタのホテルでこの原稿を書き始めた。インドネシアの社会科学院(LIPI)主催の「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」*1と題された国際会議(ワークショップ)に出席するためジャカルタに一週間滞在することになった。その機会を捉えて、ジャカルタからの視点で、「日本の建築家にとってアジアとは?」という与えられたテーマを考えようというのである。何も忙しがって格好をつけてみようというわけではない。僕らに必要なのはそういう視線なのだ、と思うからである。

 まず言いたいのは、東アジアや東南アジアの国々は既に身近であるということだ。そして、その諸問題に無知であることは許されないということだ。

 このシンポジア●ママムに、先進諸国の都市計画の経験を導入しようなどという構えは最早ない。建築や都市の問題について、同時代の共通の課題を同じ次元で考えようとしている。そうした場所から見ると、ずいぶん日本での議論は閉じている。そして、日本の建築家や建設会社が東南アジアに出かけて実施するプロジェクトがひどく危なっかしいものに見えてくる。

 

 デザインの輸出!?

 まず、一、二、例をだそう。前から不思議に思っているのであるが、ジャカルタの中心街に建つビル(FOA)のファサード・デザインは東京の新橋駅前のあるビルのデザインと同じである。どうしてこんなことが起こるのか。時代は下って、最近ほぼ同じ時期に建った、設計者も同じ、シンガポールのある超高層ビルと東京新都庁舎の外装材は同じであるように見える。そこにはどんな関連性があるのか。何も同じファサード・デザインや同じ外装材を使うのが悪いといおうというわけではない。ある企業がコーポレート・アイデンティティのために店舗やオフィスビルのデザインを統一することはあり得ることである。僕にとっては不愉快であるが、ジャカルタとスラバヤに全く同じようなある銀行のオフィスビルがある。これは同じアメリカ人の建築家による例だが先の日本人建築家の例と少し次元が異なる。気候風土、文化歴史を全く異にする場所で、何故、デザインや素材が同じなのか。

 それこそモダニズムの論理だというのであれば、そこら中同じデザインが繰り返されなければならないはずだ。しかし、理論以前に、東南アジアの建築家たちがこの事実を知ったら、どう考えるのか、という想像力は働かないのだろうか。さらにひどいのは、こうしたことが全く日本の建築界で議論されないことである。日本の超高層ビルが、皆アメリカのどこかでみたことがあるように、日本のデザインをそのまま輸出すればいいとどこかで考えられているのであろうか。

 

  「ポスモ」の森

 ジャカルタは、今、急速に変わりつつある。シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風(ポスモ)の高層ビルが林立する。その建築家はほとんどがアメリカ、イタリアの外国人である。彼らは「ポスモ」を発展途上国の首都で実現しているのである。日本の設計事務所、ゼネコンもその新たな都市景観の創出に関わっている。ポール・ルドルフの名前もその中にある。どうしてポール・ルドルフがジャカルタなのかと思っていたのであるが、90年代になって林立しだした「ポスモ」の森の中ではかえってそれらしく好ましく見えてくる。最近の超高層ビルがすべてミラーグラスのカーテンウオールで頂部だけ(帝冠様式!あるいはニューヨーク・アールデコ!)デザインされるのに対して、彼のは庇が出たり構造が露出したり、かっての面影を引き摺っているし、熱帯の気候もそれなりに考慮したのかもしれない。

 たった今テレビのニュースでインドネシア建築家協会が「理想の家96」というコンペとシンポジウムを行ったと伝えている。様々なモデル住宅が紹介されている。住宅を購買する層が確実に育ってきたことを示している。

 一方、窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポンの風景が拡がる*2。都心に聳える超高層の森と地面に張り付くカンポンの家々は実に対比的である。それぞれの地域で、どのように風景がつくられていくのかを説明するのは簡単ではないけれど、その構造を抜きにして、外の論理を持ち込むことの問題(少なくとも、様々な軋轢を産むであろうということは)は明かなことではないか。

 

 「スラム」クリアランスと日本の援助

 会議の二日目、第Ⅲセッション「東南アジアの都市計画」において、「地域の生態バランスに基づく自律的都市コミュニティ」と題して、たどたどしくしゃべった。阪神大震災の経験と日本のニュータウンの歴史と問題点を指摘した上で、カンポン型コミュニティモデルの重要性を力説したのである。手前味噌であるが、反応はかなりのものであった。少なくとも、インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポールおよびオーストラリア、フランス、オランダからの社会科学者やプランナーたちが僕の関心をそのまま受けとめて議論してくれたのである。しかし、問題はこのように簡単ではない。というより、日本の問題なのだ。

 矢のように次々と質問が飛んできた。地震で日本はどう変わったのか、東京についてはどう考えているのか。最もシビアなのが日本が援助する都市開発のケースだ。ジャカルタの都心にあったクマヨラン空港の跡地にいまニュータウン計画が進行中である。そのプロジェクトは、「都市の中の都市(タウン・イン・タウン)」計画として、また、既存のカンポンをクリアランスしないで、様々な社会政策と合わせて住宅供給を行う点で興味深いものである。J.シラスがスラバヤで実験してきたルスンの理念も生かされている。ルスンとはルーマー・ススン(積層住宅)の略であるが、共有空間を最大化する共同住宅である。カンポンの構造を替えない新たな都市型住宅モデルでカスン(カンポン・ススンの略)と呼ばれ始めている*3。そのプロジェクトについて、「何故、日本の専門家チーム(建設省、住宅都市整備公団などから派遣される)のレポートはカンポンをクリアランスしろと書いたのか」というのである。また、「同じく日本の専門家の関わったクボン・カチャンの団地開発のケースをどう思うか」というのである。

 クボン・カチャンというのは、ジャカルタの中心地区、日本大使館のすぐ裏にあるカンポンで、クリアランスが行われ、倉庫のような団地が建った件である。これについては、当事者であった横堀肇氏の真摯な総括がある*4。ジャカルタで大きな議論になり、日本でも僕らが議論したのであるが、どれだけ知られているであろうか*5

 同じ日、クマヨランの現場に参加者全員で見に行った。二度目である。最初の時はまだ建設当初でデザインの拙さだけが目についたのであるが、印象は一変した。実に生き生きと空間が使われている。詳しい紹介は省くけれど、一方で高級住宅がならび、日本の企業がそれを買い占めている一方で、カンポンのためのユニークな実験が行われていることは記憶されていい。

 

 日本のサテライトタウン

  次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛ぶ。「FUNO、これは日本のサテライト・タウンなのかい」。「ワールドカップより一足先に、日韓のジョイント・ベンチャーかい」。

 「直接、僕は関わっているわけではないのだよ」というのは簡単である。それぞれ同じような構造の中で生きているのである。しかし、そんなことは分かった上で、お前は何をしているんだという、そういう問いが共有されている。日本産業の空洞化の最先端がジャカルタのニュータウンにある。そして、それは様々な軋轢を生んでいる。どう考えるのか。

 インドネシアのニュータウン開発にあたっては「1:3:6」規則がある。住宅供給を高所得者層1:中所得者層3:低所得者層6にするというルールである。低所得者層向けの住宅はRSS(ルーマー・サガット・スデルハナ 簡易住宅)という。18㎡~36㎡のワンルームと60㎡の敷地の最小限住居である。ところがRSSはどこにも建設されていない。日本の工場で働く労働者はどこに住むのか。周辺のカンポンである。カンポンの人たちはRSSにも入ることはできないのである。

 ワークショップ参加者の視線を痛く感じるのは、余程の鈍感でなければ当然ではないか。安価な労働力を求めて生産拠点を移し、社会各層の格差を拡大する資本の論理の体現者が日本人なのである。雇用機会を与えるというのは全くの口実である。日本の企業などなくてもきちんと自律的に生活してきた地域が破壊されてしまう。ワークショップの議論は、もちろん、インドネシアのニュータウン開発をめぐる問題が中心であるが、集中砲火を浴びているのは専ら日本なのである。言葉の不如意を理由に場を繕うのは実につらいことである。

 

  歴史との遭遇

 1979年に初めてジャカルタを訪れて以降、東南アジアを歩き回ってきた。レヴェルは異にするけれど、必ず以上のような場面に遭遇する。

 インドネシアでベチャ(輪タク)ーベチャは大都市の都心からは追放されたーーに乗る。日本人と解ると、突然、ベチャの運転手さんが「海ゆかば」を謡い出す。一緒に唱うべきか。

  カンポンの調査をしている。突然、「ハンチョウサン」「キンロウホウシ」「ケンペイタイ」と話しかけられる。どういう顔をして何を答えればいいのか。ジャワの山奥の村を尋ねる。いきなり、「ラジオ体操第一!」である。一緒に体操をはじめるのかどうか。インドネシアは、僕の経験だけに基づけば、まだいい。もっとクリティカルな国々はある。従軍慰安婦の問題を見ても明らかなように、戦後半世紀を経て、未だに日本は第二次世界大戦の重い歴史を引きずっている。にも関わらず、僕らはあまりにも無神経である。

 スラバヤの知事公舎に招かれる。広間の壁一杯に油絵が飾られている。日本兵が竹槍で突き刺される場面がある。その前で、僕らは何を話せるのか。オランダの研究者が同じ場にいる。その絵を見て、僕を笑う。日本軍がやられる絵より、オランダ人がやられる絵の方が圧倒的に多いにも関わらずである。どう答えればいいのか。

  スラバヤのチャイナタウンの南にはクンバン・ジェプン(日本の花)通りと名づけられた通りもある。どういう意味か。繁華街トゥンジュンガンにあるマジャパイト・ホテルは元ヤマトホテルである。デュドック(分離派)風の綺麗な建物だ。そのヤマトホテルにはかって、日本の憲兵隊本部が置かれていた。ヤマトホテルは、オランダ軍に対するインドネシア独立戦争の発端となり、その象徴となった場所でもある。そのロビーにはその時の写真が三葉掲げられていた。焼けて赤茶けた白黒写真である。その写真の一枚は屋上のポールに掲げられたオランダの三色旗を一人の男が引き裂いている瞬間の写真だ。その時の模様を描いたのがイドルスの『スラバヤ』(1947年)である。オランダの三色旗を引き裂くと赤と白のインドネシア国旗になる。

 東南アジアを歩けば至る所、日本の侵略の歴史に出会う。こういう歴史に無知であることは、許されないのではないか。

 

 「大東亜建築」

 近代日本の建築にとってアジアとはどのようなものであったのか、日本の建築家にとって「アジア」はどのような意味をもつのかについてはそれなりに振り返ってみたことがある*6。伊東忠太の軌跡を軸としながら、戦前の東洋史学の展開、あるいは「大東亜建築様式」をめぐる議論などが、どう今日の問題につながっているかを問うた。基本的には、戦前戦中期における建築のアジアをめぐる議論の構図が繰り返されつつあること、否、旧朝鮮総督府(韓国中央国立博物館)の解体撤去問題のように今日まで問題は引き継がれていること、などを指摘した上で、「アジアはひとつ」といったイデオロギーや「西欧VSアジア」といった対立構図が最早無効であることを確認したにとどまる。しかし、それは前提ではないのか。

 

 「超級 アジア・モダン」

 アジアの現代建築について、僕らが何を知っているのか、あるいは、どう向き合おうとしているのか。村松伸の『超級 アジア・モダン 同時代としてのアジア建築』*7がそのひとつの地平を示している。アジアへの「通勤」と称する建築行脚の報告という形をとったアジアの現代建築紹介なのであるが、アジア各国の建築界の一端は垣間みることができる。そこでの村松の視線と戦前期に「東洋建築」あるいは「大東亜建築」に向かった建築家たちの視線と比較してみることは興味深いことである。また、そのアジア建築情報の水準は、穂坂光彦の『アジアの街 わたしの住まい』*8と比べればはっきりしよう。読み比べて欲しい。

 僕は、村松のセンスを愛するけれど、彼の視線が届かない地平にいらいらする。僕らは一体どこにいて何のために仕事をしているのか。村松の本が、日本人の仕事に触れないのはアンフェアである。黒川紀章のアユタヤの美術館はともかく、日タイ交流センターについては触れるべきではないのか。在盤谷日本文化会館をめぐる議論は解かれずに、半世紀続いているのである。ナショナリズムとそのシンボリズムについて、僕らはもう半世紀以上考え続けているのである。

 

 誰のための慰霊碑

 痛い話をもうひとつ思い出す。僕ら(アジア都市建築研究会)は、中国でひとつの本を企画し、編集し、出版しようとしている。この7月には出る筈だ。下らないと笑うなかれ。「当代日本建築家百選」ということで百人の日本の建築家に協力頂いた。紆余曲折があったけれど、最大の問題は、戦没者記念の施設であった。僕らは、余りにも鈍感である。シーラカンスの「大阪ピースセンター」にしても、各地にピースセンターが建つ。僕らは何を記録し、展示しようとしているのか。中国から当然の如くチェックが入った。掲載しようとしていた、靖国神社前の作品は差し替えである。差し替えない限り、出版そのものを取りやめるという。作品の選定は各建築家に委ねたとはいえ、編集者としての僕らは、一体、何を考えていたのか。

 東南アジア各地に慰霊碑が建ちつつあるという。デザイン以前の問題である。どういう思いでデザインができるのか。建築家に聞いてみたいものである。

 旧朝鮮総督府の解体問題については、既に触れた。その保存を訴えるナイーブな建築家を僕は愛するけれど、どんなにすぐれた建築作品でも解体さるべきケースはある。それがPC問題(ポリティカル・コレクトネス)である。救いは、その建設に疑問を投げかけた今和次郎であり、柳宗悦である。「やっちゃあいけない」建築はあるのである。

 僕の尊敬するオランダ人建築家T.カールステン*9は、インドネシア日本の捕虜収容所で死んだ。彼の功績は、今日のインドネシアの建築界にとって掛け替えのない宝である。彼が生きていれば、オランダとインドネシアの建築界は確実に変わったであろう。『建築文化』が一冊特集を編み、『錯乱のニューヨーク』の日本語訳も出た、今をときめくコールハウスだって、バタビア生まれだ。僕らは、こうした歴史のコンテクストにもう少し敏感であるべきではないのか。

 

 僕らの内なるアジア

 インドネシア、ジャワ、スラバヤとの往復運動をベースに、しかも、ハウジングあるいは都市計画の問題を中心に東南アジアと関わってきた僕にとって、その経験は限定されている。しかし、もう問題がグローバルであることは明かなことだ。しかし、ボーダレスというのは嘘である。資本の論理が国境を越えるけれど、一方が一方的に差異を利用して、ボーダーを越えるのであって、それは新たなボーダー(階層差)を生み出すのである。そうしたコンテクストに日本の建築家たちは余りにも無防備である。少なくとも、無防備であることを意識して欲しい。

 ワークショップは、僕にとって最高であった。しかし、この経験を共有してくれる建築家がいないのは実に寂しいことである。

            ジャカルタ 1996年6月29日 













 

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