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2022年2月10日木曜日

J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

  14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

J.シラスのこと

布野修司

 

 インドネシアに最初に行ったのは一九七九年一月のことだ。そして、その後毎年のように通うきっかけとなったひとりの男に運命的に出会った。

 ある建築家を訪ねてバンドンの研究所へ出かけた時、たまたま居合わせたのが彼だった。ひょろっとして目が鋭いのが印象的だった。彼はカリマンタン(ボルネオ)出身の陸ダヤク族である。ガリガリなところは僕と似ている。まるで兄弟のようだと松山巌さんは評した。とにかく妙に気があって親しくつき合ってきた。というより師事してきたと言った方がいい。一回りも年は違うのだ。スラバヤの彼の下で実に多くのことを学んだ二〇年間である。

 彼はこの二〇年の間に随分有名になった。スラバヤのカンポン改善事業でイスラーム圏のすぐれた建築を顕彰するアガ・カーン賞を受賞するなど数々の賞を手にしている。インドネシアだけでなくアジアの住宅問題、都市問題に関するエキスパートとしてひっぱりだこだ。

 昨年、そうした彼を京都大学の東南アジア研究センターが、半年間、客員教授として招いた。僕が恩返しをする番である。毎週のように研究室に招いた。びっくりしたのは、中国の留学生と和気合々と中国語をしゃべることだ。オランダ語、フランス語もペラペラで語学の天才なのだ。来日するや日本語の学習を始めた。研究室の学生たちが家庭教師だ。六〇歳を超えて猶真摯に学ぶ姿勢に撃たれた。

 半年の滞在期間にインドネシアの都市の未来について英語の本を一冊書いた。朝から夕刻まで規則正しく仕事をしていた。呼ばれたシンポジウムにもきちんとペーパーを書いた。超真面目である。怠惰な我が身を恥じるばかりだった。

 インドネシアはこの一年大変であった。経済危機に政変が続き、後ろ髪を引かれる思いの来日である。研究室の山本直彦がスラバヤに留学していることもあって日々刻々と情報は入ってきていた。随分議論した。離れてかえって冷静に情勢が分析できたのかも知れない。インドネシアで建築・都市計画分野のプロフェッサーは四人しかいない。彼の同僚はハビビ政権の閣僚を勤める。彼は帰国に際して何かを決断したようであった。

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

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