現場に学ぶ 木匠塾の楽しい実験, sylvan no.11,200306 15
現場に学ぶ:木匠塾の楽しい実験
布野修司(京都大学大学院)
伝統的な木造建築の職人技の伝承ということは容易なことではない。第1に木造建築そのものが建てられなくなっている。第2に、建築そのものが職人の技を必要としなくなっている。プレファブ住宅を思い浮かべればわかるように、建築は工業製品にますます近くなりつつあるのである。需要がなければ、技は衰える。必要がなければ、技を教え、伝承することも必要ない。大学の建築教育が木造建築を排除したから、すなわち、建築生産の工業化の方向を専ら推進してきたから、木造建築の技術が衰弱したというが、一面の真理でしかない。需要があれば、自ずとそれに必要な職人技は伝承されていくはずである。それが道理である。
だがしかし、職人技には拘りたいと思う。職人技とは、要するに、現場の知恵だ、と思うからである。建築の場合、現場の軽視は困る。建築は100%工場で生産されるということはないのだから、すなわち、どんなプレファブ建築であれ、現場、具体的な場所に据えられて初めて建築になるのだから、現場の作業は最後まで残る。場所が違えば、建築のあり方も異なるのだとすれば、現場こそ大切である。
木材という生物材料は、地域の生態系と密接に関わっている。いわば、木は、地域を、現場をよく知っている。棟梁大工をはじめとする職人さんたちは、そのことをよく知っており、木に学ぶことで現場を知ってきた。・・・等々、あとから考えた理屈はあるけれど、とにかく、現場に学ぼう、木のことを学ぼう、と始めたのが、「木匠塾」であり、「サイト・スペシャルズ・フォーラム」である。開始年はいずれも1991年である。後者は、野丁場中心の職人さんたちの集まりである。ここでは「木匠塾」のことを振り返ってみたい。
職人技の伝承などという大それたことではない。だれもが木造なら建てられるという、そんな実践が目標である。
加子母村研修センター:2002年から木匠塾の拠点となる。
1991年の1月末、微かな夢を抱いて、飛騨の高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄の両先生と僕の3人だ。新幹線で名古屋へ、高山線に乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。久々野駅で出迎えてくれたのは、上河(久々野営林署)、桜野(高山市)の両氏。飛騨は厳しい寒さの真只中にあった。暖冬の東京からでいささか虚をつかれたが、高山は例年にない大雪だった。久々野営林署は80周年を迎えたばかりであった。頂いた、久々野営林署80周年記念誌『くぐの 地域と共にあゆんで』(編集 久々野営林署)には、「飛騨の匠はよみがえるか」、「森林の正しい取り扱い方の確立を」、「木を上手に使って緑の再生を」といった記事があった。
木の文化、森の文化を如何に維持再生するのか。高山行は、大きくはそうした課題に結びつく筈の、ひとつのプログラムを検討するためであった。使わなくなった製品事業所を払い下げるから、セミナーハウスとして買わないか、どうせなら「木」のことを学ぶ場所になるといいんだけど、という話である。
京都造形大学 2002年度作品
雪の道は遠かった。寒かった。長靴にはきかえて、登山のような雪中行軍であった。中途で道路が工事中だったのである。野麦峠に近い、抜群のロケーションにその山小屋はあった。印象はそう悪くない。当りを真っ白な雪が覆い隠している中でひときわ輝いているように見えた。
それから、12年、拠点を加子母村に移して今日まで「木匠塾」の活動は続いている。当初の構想は以下のようであるが、そう変わったわけではない。
飛騨高山木匠塾構想
設立の趣旨:わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランス良くつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。
学習の方法:設立に参加した研究者・ゼミ学生と飛騨地域の工業高校生が棟梁をはじめ実務家から木に関する様々な知識と技能を学ぶ。基本的には参加希望者に対してオープンであり、海外との交流も深める。
京都大学 2000年度作品 農機具置き場兼茶室
ここでの学習成果は、象徴的な建造物の設計・政策活動に反映させ、長期間にわたり継続させる。例えば、営林署管内の樹木の提供を受け、それの極限の用美として「高山祭り」の屋台を参考に、新しい時代の屋台の設計・製作活動を行うことも考えられる。製作に参加した塾生たちが集い、製作中の屋台曳行を行うなど毎年の定例的な行事とすることも考えられる。また、地元・高根村との協力関係による「施設管理業務委託」やさまざまな「地域おこし」も可能である。
京都大学 2002年度作品 富士見台
京都大学 2001年度作品 神社の拝殿
この年、8月8日には加子母村の渡合(どあい)キャンプ場に移って、第1回のかしも木匠塾の開塾式を行った。加子母村は、東濃ひのきの里として知られる。神宮備林も営林署の管内にある。また、産直住宅の村として知られる。その加子母村が、木の文化を守り育てる拠点づくりの一環として、木匠塾を誘致したいということであった。以降、加子母村が拠点となって活動が続く。
極めてユニークな仕組みとなったのは、村民のリクエストに各チームが応えるという方式である。村民がクライアントで、各チームは設計施工者になる。そして、素晴らしいことに、村の大工棟梁が技術指導についてくれる。短い期間だけれど、設計から施工まで一通り木造建築の工程を学ぶことができるのである。自力建設が基本だ。バス停、農機具置き場圏茶室、神社の拝殿、富士見台、ゲートボール場ベンチ、家畜小屋など、数多くの実作が村に建っている。
ままごとのような実習だけど、参加者は延べ千人を超える。こういう活動を支えていただいている加子母村の粥川村長以下、村民の皆様、とりわけ、工務店、大工さんのご尽力には頭が下がる。手前味噌だけれど、木造建築や職人技への関心はこうした活動からこそ生まれるのではなかろうか。関心がなければ、何も起こらないだろう。実際、村役場や村の工務店に就職した学生も何人かいるのである。
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