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2022年2月1日火曜日

ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

 05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

ヤン・ファン・リーベック

布野修司

 

 オランダとインドネシアに行って来た。オランダは専ら大学、研究所巡り。インドネシアは建設中の実験住宅についての打ち合わせ。なんでそんな旅を思いつくかというと、インドネシア往復とヨーロッパ往復がほとんど同じ値段だからだ。近頃の航空運賃はわけが分からない。

 時差があって大変と思われるかもしれないが、飛行機の中ではどうせ飲みっぱなしで夢うつつだからどうということはない。今回の三〇時間を超える缶詰時間には、鈴木光司の『リング』『らせん』『ループ』の三部作を読んだ。

 ところで、オランダーインドネシアー日本は細からぬ歴史の糸で結ばれている。司馬遼太郎『オランダ紀行』を読んでみて欲しい。ライデン大学の一角に、壁一杯に芭蕉の句が書かれている建物がある。日本学は今でも盛んだ。シーボルトが太いパイプとなっている。

 歴史の綾は面白い。昨年、ケープ・タウンに行って、ひとりの興味深い人物を知った。ヤン・ファン・リーベックという。二〇歳で外科医の免許をとり、東インド会社の船にのった。一六三八年のことだ。バタヴィアに着いて、方向転換。商才があったらしい。一六四二年、会社の幹部とともに長崎の出島を訪れている。鎖国へと動き始めていた徳川幕府の動向を調査するのが目的であった。

 その後、トンキンで単独で絹貿易に従事するが失敗したらしい。再び出島に拠点を移したりしている。ところが、事件勃発。不正蓄財が発覚し、帰国命令をくらうのだ。かなりのやり手であったのだろう。運命と言うべきか、その帰途、彼はケープに短期間上陸している。そのことが、ケープ・タウンの建設を指揮することに繋がるのだ。

 アムステルダムに戻った彼は復活の機会を待ち続けた。そして、一六五一年、ケープの補給基地建設の指揮官に任命され、その機会をつかんだ。相当の才能があったのは間違いない。

 こうしてファン・リーベックというひとりの男によって、アムステルダム、ケープ・タウン、バタヴィア、出島が繋がる。ファン・リーベックは、再びバタヴィアに移り、オランダに帰ることなく没したのであった。

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

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