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2022年2月6日日曜日

ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

ヴィガン

布野修司

 

 この夏スペインを訪れたのは、ヴィガンというフィリピンの町(北ルソンの南イロコスの州都)の存在を知ったからであった。実際ヴィガンを訪れて驚いた。煉瓦造の住宅が建ち並ぶ、一見ヨーロッパ風の、世界文化遺産に登録されようかという町なのである。

 フェルナンディナと呼ばれたこの町の名は、4歳にして死んだフェリペ二世の息子に因んでいる。そしてフィリピンという名がそもそもフェリペ二世に由来している。そんな興味に導かれてのスペイン行であった。

 マドリッドの北西、電車で一時間ほどの所にエル・エスコリアルという静かな町がある。フェリペ二世のつくった離宮がある。今年は没後丁度四〇〇年ということで大規模なフェリペ二世展が開かれていた。離宮は驚くべき建築である。スペイン・ルネッサンスを代表する建築であり、その威容を誇るが、異常なほど簡素である。要するに装飾的要素がほとんどない。窓など単に穿たれているだけだ。

 この几帳面な建築をデザインしたのはエレーラといい、トレドのアルカサル、セヴィリアのインディアス古文書館も彼の手になる。エレーラ様式と呼ばれるその美学を支持し、登用したのがフェリペ二世だ。エル・エスコリアルのプランはひとつのマンダラである。正方形の繰り返しの中に理想都市の理念が込められているようにも思える。そして、一九七三年、フェリペ二世は、植民都市の計画原理を示す勅令を出した。

 建築家には評判が悪い。全ての中南米の植民都市を画一的なグリッド・パターンにした原因と考えられているからだ。丁度フェリペ二世が王位を継いだ頃から征服(コンキスタ)は原則として禁止され、本格的な都市建設が開始される。スペイン的な生活様式がストレートに持ち込まれる契機となったのが勅令である。

 勅令が出されたその年(あるいは前年)、スペインはヴィガンに上陸、都市建設を開始する。ヴィガンにフェリペ二世の勅令は届いたに違いない。フェリペ二世の臭いを嗅ぎつけるのが今回の目的だ。しかし、別の臭いも充分嗅いだ。その中に、この町が爆撃を逃れたのは、日本の軍人のおかげであるという話がある。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

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