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2022年2月20日日曜日

さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思うー,共同通信,20051226

 さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思うー,共同通信,20051226



 
 さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思う


司直の手が入った耐震強度偽装事件に対して、建築界からの声が聞こえない。

あってはならないことが、白日の下にされつつあるのに「建築家(建築士)」が沈黙しているのはどういうわけか。
 今回の問題を契機に「構造建築士」の社会的地位、職能の確立、顕名による透明性の確保が主張されるのは当然のことである。しかし、それ以上に建築家の能力、職能こそ厳しく問われる必要がある。阪神淡路大震災に際してあらわになった建築界の無責任体制について「裸の建築家」という本を書いた。「建築家」というと全てに通じている万能の芸術家というイメージが古来あるが、ますます複雑化する現代社会においてそれは幻想に過ぎない。現場を知らず、全体を把握できない、責任もとれない「裸の建築家」があまりにも多すぎるのではないか、という指摘である。事態はまさに建築家が「裸の建築家」であることを示しつつあると思えてしかたがない。
 建物をつくる場合、施主は建築家、建築事務所に設計を依頼する。施主との契約上、全責任を負うのは当該の建築家である。実際には、建物の強度については構造建築士の下請けにゆだねられる。構造建築士という存在の社会的地位の低さ、そのモラルの欠如が大々的にクローズアップされたが「構造建築士」という資格はそもそもない。日本にあるのは、「一級」「二級」「木造」の「建築士」資格である。
 全責任を負った建築家の役割は施主、施工者の利潤追求の論理に対して、第三者として、社会的合理性の基盤の上にすぐれた質の空間をよりゆたかな町並みの形成を目指して設計することである。下請けの構造建築士のせいにして、口をつぐんでいることは許されることではない。
 利潤追求を専らとする施主、施工者、それと一体化した設計事務所の問題は論外である。問題は「建築確認」という制度そのもの(許可制ではない)、そして今回クローズアップされた第三者検査機関による「確認」業務の代行システムにある。自治体の多大な事務量を減らすことを口実に、官から民へ、というけれど、実態は、官僚の天下りの受け皿システムが用意されただけであり、自治体にも検査機関にも検査能力がない。空前のマンションブームの中で、その限界はあらかじめ見えており、それがはっきりしたといっていい。
 そもそも、耐震強度「1・0」というのは最低限守る基準である。それを順守した上で豊かな空間をつくり出すのが建築家の役割である。また、基準をクリアすればいい、というものでもない。今回、多くの国民を不安に陥れるのは、強度「0・5」以下の建物に退去命令が出されたことである。一九八一年の建築基準法改正で、それ以降の建物は大丈夫とされてきたが、今回の事件でその神話は崩れた。自分のマンションは果たして大丈夫なのか。建築家は、この不安に答えるべきだ。
 地震があっても、決して死者を出さない仕組み、耐震診断、耐震補強も含めて、建築家の役割は大きい。それとも建築家は、またしても大騒動が過ぎ去るのをじっと待つだけなのだろうか。(滋賀県立大教授・建築学)
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 ふの・しゅうじ 1949年島根県生まれ。東大卒。京大助教授を経て現職。著書に「」など。

 共同通信 井手和子

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