このブログを検索

2022年2月2日水曜日

秦家,おしまいの頁で,室内,199806

 

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

「秦家」

布野修司

 

 

 山本夏彦先生が戦後初めて京都にお見えになったと聞いて心底驚いた。そして一力へ行かれたと知って、さすがだ、と思った。僕なんか、京都に移住して七年目になるけど、一力など行ったことがない。一生住んでも縁がないだろう、と思うとなんとなく情けない。

 「夏彦先生、また、是非京都に来て下さい。お願いします。「一力」連れてって下さい、というのは冗談ですが、一軒お店というか、京町家を紹介します。「秦家(はたけ)」といいます。」

 以下「秦家」の宣伝である。

 「秦家」は、祇園祭に「太子山」(たいしやま)を出す太子山町(油小路仏光寺下ル〇七五ー三五一ー二五六五)にある。表構えに「奇應丸」の看板が上がっていて、ひときわ目立つ。江戸時代から一二代にわたって続いた、「太子山奇應丸」という漢方薬で知られた老舗である。

 表の店の部分の建設が明治二年。元治元年(一八六四年)の京都大火(どんどん焼け)で京町家の大半は焼けているから、最古の町家のひとつと言っていい。表構えのみならず、随所に洒落た意匠が仕組まれており、京町家の精髄を味わうことができる。京都市登録有形文化財に指定されているのもその意匠の水準の故にである。

 一〇年ほど前に廃業ということになって「秦家」は大きな転機を迎えた。税金、修繕費など町家を維持していくのは大変である。現代生活に合わない面もある。

 「秦家」の隣に一〇階建てのマンションが建つ。実に奇妙な感覚に陥る。どちらに未来があるのか。京都には、今なお数多くの京町家が残るけれど、その運命や如何に。小さな会合で「秦家」に寄せて頂く度に思うのは、その行く末である。

 京町家(木造住宅)を残せ、などというのは不自然だ。消え去るべきものは消え去るのみと、夏彦先生なら言うんじゃないか。「秦家」の空間とお料理を心から味わって頂くのはもちろんであるが、その後で、ひとこと聞いてみたい。

 京都に来てずっと考えているのだけれど、僕にはなかなか答えが見つからない。

 夏彦先生、もう一度は京都へいらして、山鉾町あたりも歩いて下さい。祇園祭の頃は如何ですか。

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

0 件のコメント:

コメントを投稿