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2022年7月30日土曜日

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903


 『建築雑誌』200903「建築家資格の近未来――大学院JABEEは何を目指すのか」

 

 真のフィールド・ワークとは

 布野修司(滋賀県立大学教授、建築計画委員会委員長)

 

「実務」経験というけれど、「実務」の中身が問題である。インターンシップというけれど、インターン先の「実務」の中身が問題である。「現場」を知らずして建築の仕事が成り立たないことははっきりしている。また、建築家を育てるとしたら「現場」である。しかし、「現場」とは何か、が問題である。

インターンシップと称して、CADや模型製作、打ち合わせや様々な仕事の流れに接することが「実務経験」なのであろうか。また、「現場体験」とは、工事現場で働くことなのであろうか。

 建築系の大学院の大半が「実務」経験とか「現場」教育といった観点を欠いてきたことは認めざるを得ない。事実今回の実務経験年数の取得のために大半の大学院がカリキュラムの変更を余儀なくされているのである。

大学院は研究と称する論文生産の技術しか教えていないではないか、というのが実業界の声という。確かにそうだ。しかし、そうした声を聞くにつれ、また、議論が「資格」に集中するなかで、「実務」と「現場」の中身こそが問題だと、つくづく思う。そもそも建築という創造行為の全体を見失った実務のシステムが問題を起こしたのではなかったか。

 枠組みを固定された「現場」でいくら「実務」を積んでも、建築家としての能力は身につかない。「現場」とは、建築現場に限らない。新たに発生する問題に瞬時に対応するするトレーニングをするのが「現場」である。新たな問題を発見する能力、創造的な種を発見する眼がそこで養われるし、全体として解答する力が必要とされるのが「現場」である。法制度でがんじがらめになった実社会より、大学院の方がまだしも可能性をもっているのではないのか。大学院の方は大学院の方でがんじがらめになりつつあるのだけれど。 




2022年5月27日金曜日

植民都市遺産とアジア都市の伝統,大阪市立大学文学研究科編(2009)[文化遺産と都市文化政策]大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,2009年12月20日

植民都市遺産とアジア都市の伝統,大阪市立大学文学研究科編(2009[文化遺産と都市文化政策]大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,20091220

 

植民都市遺産とアジア都市の伝統

Colonial Urban Heritage and Asian Urban Traditions

布野修司

現代アジアの都市と建築を広く見渡すと、まず、1,000万人にも及ぶ人口規模をもつ大都市が思い浮かぶ。ムンバイ、ニューデリー、チェンナイ、コルカタ、バンコク、ジャカルタ、マニラ、北京、上海、ソウル、東京・・・。いずれも中心部には超高層ビルが林立する。そして、その周囲に住宅地が形成され、延々と郊外へ向かって広がっている。俯瞰すれば、アジアの大都市は極めてよく似ている。

一方、大都市から離れた田舎の光景も思い浮かぶ。はるか昔から同じように家をつくり続けて来たヴァナキュラー建築の世界がある。しかし、その世界にも亜鉛塗鉄板(トタン)のような近代的な工業材料が浸透し、家の形態は変容しつつある。各地域の中核都市には、ショッピング・センターのような現代的な新しい建築が増えつつある。

アジア各地を旅すると、各地域が次第に似かよってくるという印象を受ける。建築生産の工業化を基礎にする近代建築の理念は大きな力を持ち続けているということであろう。工場でつくられた同じような建築材料が世界中に流通するから、住宅地の景観が似てくるのは当然である。

現代アジアの都市と建築について、いくつか共通の問題をあげると、まず三つが思い浮かぶ。

第一にあげるべき問題は住宅の問題である。今日猶、大多数の人々はヴァナキュラーな建築の世界、すなわち「建築家なしの世界」で暮らしている。上述のように工業化の進展とともに、その秩序が崩れつつあることは大問題であるが、それ以前に危機的なのは、住宅そのものの数が足りないこと、あるいは、時として生存のためにぎりぎりとも言える劣悪な条件にあることである。そうした大都市の住宅問題にどのような建築的解答を与えるかは共通の課題であり、各地でユニークな試みがなされている。

第二は、歴史的な都市遺産、建築遺産をどう継承、発展させるかという問題である。開発、あるいは再開発圧力の中で、歴史的な建築遺産をストックとしてどう活用するかは発展途上国、先進諸国を問わない共通の課題である。とりわけ、アジアの諸都市においては、宗主国の建設した植民建築をどう評価するかが大きなテーマとなっている。

第三は、「地球環境問題」という大きな枠組みが意識される中で、どのような建築形式が相応しいか、という問題である。エコ・シティ、エコ・アーキテクチャー、あるいは「環境共生」ということがスローガンとされるが、真に「地域の生態系に基づく建築システム」を生み出すことができるかどうかは、これからの課題であると言っていい。

 

1 カンポンの世界

まず、大きな問題は大都市の居住環境である。アジアの大都市には世界の人口の過半を占める人々が住む。そして、その環境は多くの場合劣悪である。生存のためにぎりぎりの条件にある地区もある。人口問題、住宅問題、都市問題は21世紀のアジアの大都市にとって深刻である。

しかし、アジアの大都市の居住地は必ずしもスラムなのではない。フィリピンはバリオbarrio、インドネシア、マレーシアではカンポンkampung、インドではバスティーbustee、トルコではゲジュ・コンドゥgeju conduなどとそれぞれ独自の名前で呼ばれるように、物理的には貧しくても、社会的な組織はしっかりしているのが一般的である。

カンポンとは、マレー(インドネシア)語でムラのことである。インドネシアでは、行政村はデサDesaという。カンポンというともう少し一般的で、カタカナで書くムラの語感に近い。カンポンガンkampunganと言えば、イナカモン(田舎者)、というニュアンスである。このそれぞれの居住地のあり方が第一にそれぞれの都市遺産である。

インドネシアで、ジャカルタ、スラバヤといった大都市の住宅地をカンポンというのは、都市の居住地でありながら、ムラ的要素を残しているからである。この特性は発展途上地域の大都市の居住地に共通である。英語ではアーバン・ヴィレッジ(都市村落)と言う。

まず、第一に、カンポンでは、隣組(RTRukung Tetanga,町内会(RWRukung Warga)といったコミュニティ組織は極めて体系的である。すなわち、様々な相互扶助組織はしっかりしている。アリサンarisanと呼ばれる講(頼母子講、無尽)、ゴトン・ロヨンGotong Royongと呼ばれる共同活動が居住区での活動を支えているのである。

第二に、カンポンの居住者構成を見ると極めて多様である。カンポンには多様な民族が居住する。植民都市としての歴史が大きいけれど、インドネシアはそもそも多くの民族からなる。多民族が共住するのがインドネシアの大都市である。また、カンポンは様々な所得階層からなる。どんなカンポンでも低所得者と高所得者が共に住んでいて、土地や住宅の価格によって、階層が似通、先進諸国の住宅地とは異なっている。

第三に、カンポンは単なる住宅地ではなく、家内工業によって様々なものを造り出す機能をもっている。また、様々な商業活動がカンポンの生活を支えている。住工混合、住商混合がカンポンの特徴である。

第四に、カンポンの生活は極めて自律的である。経済的には都心に寄生する形ではあるが、生活自体は一定の範囲で簡潔している。

第五に、カンポンは、その立地によって、地域性をもつ。多様な構成は、地区によって異なり、それぞれの特性を形成している。

カンポンは、独自の特性をもった居住地といえるだろう。

英語のコンパウンドcompoundの語源は、実はカンポンである。オクスフォード英語辞典(OED)にそう説明されている。コンパウンドというと、インドなどにおける欧米人の邸宅・商館・公館などの、囲いをめぐらした敷地内, 構内、南アフリカの現地人労働者を収容する囲い地、鉱山労働者などの居住区域、捕虜や家畜などを収容する囲い地を指す。しかし、もともとはバタヴィアやマラッカの居住地がそう呼ばれていたのを、英国人がインド、アフリカでも用いだすのである。カンポン=コンパウンドが一般的に用いられ出すのは19世紀初頭であるが、カンポンが西欧世界と土着社会との接触がもとになって形成されたという事実は極めて興味深いことである。アジアは全般的に都市的集住の伝統は希薄なのである。

カンポンのような都市の居住地に対して、この間、各国で行われてきたのは、スラム・クリアランスによる西欧モデルの集合住宅の供給である。しかし、住宅供給は量的に足りず、価格が高くて低所得者向けのモデルとはならなかった。それぞれの生活様式と住宅形式が合わないのも決定的であった。それに対して大きな成果を上げたのは、上下水道、歩道など最小限のインフラストラクチャーを整備する居住環境整備である。イスラーム圏のすぐれた建築活動を表象するアガ・カーン賞が与えられたインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)がその代表である。また、コア・ハウス・プロジェクトなど、スケルトンだけを供給して、居住者自ら住居を完成させる、興味深い手法も試みられてきた。

しかし、アジアの大都市はさらなる人口増に悩みつつある。そこで各都市共通の課題となるのが、新しい都市型住居のプロトタイプである。カンポンのような都市村落の形態とは異なった、高密度の居住形態がそれぞれに求められているのである。カンポンに対しては、カンポン・ススンという、廊下(居間)、厨房、トイレなどを共用するコレクティブ・ハウス型集合住宅の提案がある。

イスラーム圏にはそれぞれに都市組織をつくる伝統がある。インドにはハヴェリ、中国には四合院という都市型住宅の伝統がある。また、ショップハウスの伝統は東南アジアに広がっている。そうした伝統をどう新しく引き継ぐかがテーマである。

 

  都市遺産の継承と活用

 植民都市としての起源をもつアジアの諸都市にとって、もうひとつ共通の課題となるのは、植民地期に形成された都市核の保存あるいは再開発の問題である。もともと都市の中心的機能を担っていた地区であるが、その機能をはるかに超える都市の膨張によって、再開発を余儀なくされる。また、新都心への移転が測られるのが一般的である。

 そこで、都市核に残された植民地建築をどう評価するかがそれぞれに問われる。第二次世界大戦後に次々と独立、新たに形成された国民国家にとって、植民地時代は否定すべきものである。ボンベイ、マドラス、カルカッタといった世界史に名を残すインドの大都市が次々に改称され、各都市においても英領時代の通り名が混乱を厭わず改称されているのはナショナリズムの現れである。また実際にも変化は激しい。例えば、ガーデン・ハウスが建ち並んだかつてのカルカッタの中心地区、チョウリンギーは、超高層ビルやアパートが建ち並ぶ現代的な中心業務地区に転換しつつある。英国がつくったシンガポールや香港も、歴史的な街区への配慮はあるにしても、超高層の林立するアジアを代表する現代都市へと変貌している。オランダを宗主国としたインドネシアでも同じような事情がある。ジャカルタのコタ地区はかつてのバタヴィアの栄光を記憶する場所であり、オランダは保存復元を提案する。1619年から1949年(正確には1942年の日本占領)まで、330年、数多くのオランダ人が居住してきたのである。しかし、ジャカルタにとってコタ地区は今では必ずしも重要な地区ではない。日本植民地期に建てられたかつての朝鮮総督府である国立博物館を、戦後50周年を期に解体した韓国のような例もある。

 一方、都市遺産の保存継承、活用を主張する動きもある。提案されるのは、相互遺産mutual heritage、あるいは両親(二つの血統)double parentageという理念である。300年もの植民地支配の過程は、それぞれの国の建築文化や都市の伝統に深く染み込んでいる。それはかけがえのないものとして評価すべきだという主張である。マニラのイントラムロスは見事に復元されている。インドでも、ムンバイのフォート地区などでは保存建物が指定されている。必ずしも大きな流れにはなっていないけれど、各都市に保存トラスト(INTACH)が組織され、チェンマイでも、歴史的遺産のリストアップは進められつつある。スリランカのゴール、北ルソンのヴィガンなど、世界文化遺産に登録された都市もある。続いてマレーシアのマラッカ、ペナンも世界遺産登録を準備しつつある。

 植民地遺産の評価は、朝鮮総督府の例が示すように、政治的な問題に直結しうる。しかし、かつての日本植民地でも台湾のように総督府を大統領府として使い続けているケースもある。ニューデリーは、結果としてインド独立への最大の贈り物になった。遺産をどう活用していくかはケース・バイ・ケースである。いずれにせよ、都市核の保存継承か再開発かをめぐって問われているのは、それぞれの都市の今後の大きな方向である。

 

3.アジア都市の伝統

 都市の歴史を大きく振り返る時,それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり,急激な都市化,都市膨張によって,「都市問題」が広範に引き起こされることになった。この「都市問題」にどう対処するのか,都市化の速度と都市の規模をどうコントロールするかが近代都市計画成立の背景であり,起源である。

「都市化」は,しかし,「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」,「過大都市化」と呼ばれる現象が,工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られるのである。結果として,世界中に出現したのは数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)である。

「発展途上地域」におけるそうした巨大都市は,ほとんど全て,西欧列強の植民都市としての起源,過去を持つ。「植民地化」の歴史が,巨大都市化の構造的要因となったことは明らかであろう。植民都市が支配―被支配の関係を媒介にすることにおいて,先進諸国とは異なった,「奇形的」な発展過程を導いたと考えられるのである。すなわち,「植民地化」もまた都市の歴史における極めて大きなインパクトである。

『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,20052月刊)で追及したのは,現代都市の構造,その孕む諸問題の遡源である。近代世界システムの成立と近代植民都市の建設は不可分である。

近代植民都市を可能にしたものは何か。造船技術であり,航海術であり,天文観測術であり,世界についての様々な知識である。要するに,通俗的な理解であるが,近代的科学技術である。

その一つが火器であり,それを用いた攻城法,また,それに対応する築城術である。都市の歴史において,遡って大きな画期となるのが,新しい火器,大砲の出現である。それ以前は,攻撃よりもむしろ防御の方が都市や城塞の形態を決定づけていた。

火薬そのものの発明は中国で行われ,イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたが,火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである。最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦である。もっとも,戦争で火器が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことで,決定的なのは,15世紀中頃からの攻城砲の出現である。

ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は,戦車,装甲車が考案され機動戦が展開された,ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱フス戦争(14191434)で,グラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が絶大な威力を発揮する。レコンキスタが完了した1492年は,クリストバル・コロン(コロンブス)がサン・サルバドル島に到達した年であり,コンキスタ(征服)が開始された年である。こうして火器による攻城戦の登場と西欧列強の海外進出は並行する。近代植民都市建設の直接的な道具となったのは火器なのである。

火器の誕生による新たな攻城法に対応する築城術とそれを背景とするルネサンスの理想都市計画は,西欧列強の海外進出とともに,「新大陸」やアジア,アフリカの輸出されていくことになるのである。

それでは,「西欧世界」が「火器」によって,「発見」「征服」していった「世界」における都市の伝統とはどのようなものであったのか。具体的に,アジアに固有の都市の伝統とは何か。西欧中心主義者は,ギリシャ・ローマの都市計画の伝統をルネサンスの理想都市計画に直属させ,さらに植民都市計画理論と近代都市計画理論を一直線につないで,「アジア(非西欧)」を顧慮するところがない。

今日の「世界」が「世界」として成立したのは,すなわち,「世界史」が誕生するのは,「西欧世界」によるいわゆる「地理上の発見」以降ではない。ユーラシア世界の全体をひとつのネットワークで繋いだのはモンゴル帝国である。火薬にしても,上記のように,もともと中国で「発明」され,イスラーム経由でヨーロッパにもたらされたのである。本書で触れたように,モンゴル帝国が広大なネットワークをユーラシアに張り巡らせる13世紀末になると,東南アジアでは,サンスクリット語を基礎とするインド起源の文化は衰え,上座部仏教を信奉するタイ族が有力となる。サンスクリット文明の衰退に決定的であったのはクビライ・カーン率いる大元ウルスの侵攻である。東南アジアにおける「タイの世紀」の表は「モンゴルの世紀」である。

こうして,本書が焦点を当てたヒンドゥー都市(インド都城)の系譜が浮かび上がるだろう。それを,チャクラヌガラ(あるいはマンダレー)という実在の都市に因んで「曼荼羅都市」と名づけたのである。

それでは,他の伝統はどうか。インド都城と対比しうる伝統として中国都城の伝統がある。本書でも,東南アジアの諸都市をめぐって二つを問題にしてきた。大元ウルスが,『周礼』孝工記をもとにして中国古来の都城理念に則って計画設計したのが大都(→北京)である。中国都城の理念が,朝鮮半島,日本,ベトナムなど周辺地域に大きな影響を及ぼしたことはいうまでもない。日本の都城は,その輸入によって成立したのである。

この中国都城の系譜を,ほとんど唯一,理念をそのまま実現したかに思われる大都に因んで,「大元都市」の系譜と仮に呼ぼう。「大元」とは,『易経』の「大いなる哉,乾元」からとったと言われる。「乾元」とは,天や宇宙,もしくはその原理を指す。

ユーラシア大陸を大きく見渡すと,こうして,都城の空間構造を宇宙の構造に見立てる二つの都市の伝統に対して,都市形態にコスモロジーカルな秩序を見いだせない地域がある。西アジアを中心とするいわゆるイスラーム圏である。少なくとも,もうひとつの都市の伝統,イスラーム都市の伝統を取り出しておく必要がある。具体的に焦点とすべきは,「ムガル(インド・イスラーム)都市」である。イスラーム都市の原理とヒンドゥー都市の原理はどのようにぶつかりあったのかが大きな手掛かりとなるからである。ムガルとはモンゴルの転訛である。ここでもモンゴルが絡む。モンゴル帝国は,その版図拡大の過程で,どのような都市の伝統に出会ったのか,13世紀の都市がテーマとなる。

 

4 地域の生態系に基づく都市建築システム

 アジアに限らず世界中で問われるのは地球環境全体の問題である。エネルギー問題、資源問題、環境問題は、これからの都市と建築の方向を大きく規定することになる。

 かつて、アジアの都市や建築は、それぞれの地域の生態系に基づいて固有のあり方をしていた。メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の大きな影響が地域にインパクトを与え、仏教建築、イスラーム建築、ヒンドゥー建築といった地域を超えた建築文化の系譜が地域を相互に結びつけてきたが、地域の生態系の枠組みは維持されてきたように見える。インダスの古代諸都市が滅亡したのは、森林伐採による生態系の大きな変化が原因であるという説がある。地球環境全体を考える時、かつての都市や建築のあり方に戻ることはありえないにしても、それに学ぶことはできる。世界中を同じような建築が覆うのではなく、一定の地域的まとまりを考える必要がある。国民国家の国境にとらわれず、地域の文化、生態、環境を踏まえてまとまりを考える世界単位論の展開がひとつのヒントである。建築や都市の物理的形態の問題としては、どの範囲でエネルギーや資源の循環系を考えるかがテーマとなる。

 ひとつには地域計画レヴェルの問題がある。各国でニュータウン建設が進められているが、可能な限り、自立的な循環システムが求められる。20世紀において最も影響力をもった都市計画理念は田園都市である。アジアでも、田園都市計画はいくつか試みられてきた。しかし、田園都市も西欧諸国と同様、田園郊外を実現するにとどまった。というより、田園郊外を飲み込むほどの都市の爆発的膨張があった。大都市をどう再編するかはここでも大問題である。どの程度の規模において自立循環的なシステムが可能かは今後の問題であるけれど、ひとつの指針は、一個一個の建築においても循環的システムが必要ということである。

 アジアにおいて大きな焦点になるのは中国、インドという超人口大国である。また、熱帯地域に都市人口が爆発的に増えることである。極めてわかりやすいのは、熱帯地域で冷房が一般的になったら、地球環境全体はどうなるか、ということがある。基本的に冷房の必要のないヨーロッパの国々では、暖房の効率化を考えればいいのであるが、熱帯では大問題である。米国や日本のような先進諸国では、自由に空調を使い、熱帯地域はこれまで通りでいい、というわけにはいかない。事実、アイスリンクをもつショッピング・センターなどが東南アジアの大都市ではつくられている。

しかし地球環境問題の重要性から、熱帯地域でも様々な建築システムの提案がなされつつある。いわゆるエコ・アーキテクチャーである。スラバヤ・エコ・ハウスもその試みのひとつである。自然光の利用、通風の工夫、緑化など当然の配慮に加えて、二重屋根の採用、椰子の繊維を断熱材に使うなどの地域産財利用、太陽電池、風力発電、井水利用の輻射冷房、雨水利用などがそこで考えられている。マレーシアのケン・ヤンなどは、冷房を使わない超高層ビルを設計している。現代の建築技術を如何に自然と調和させるかは、アジアに限らず、全世界共通の課題である。

 

2022年4月26日火曜日

2022年3月15日火曜日

『図書新聞』読書アンケート 2009上半期 下半期

『図書新聞』読書アンケート 2009上半期 下半期 


2009年上半期

布野修司

 

 ①内田祥士、東照宮の近代 都市としての陽明門、ペリカン社 ②渡辺豊和、バロックの王 織田信長、悠書館③野沢正光、パッシブハウスはゼロエネルギー住宅、農文協。①は、近代における「東照宮」評価をめぐる大作、労作である。B.タウトが「桂離宮」を褒め称え、「東照宮」をこき下ろした一九三〇年代以前から、「東照宮」評価には賛否、好悪を相乱れる葛藤があった。多くの言説を引いてその葛藤を跡づけながら、それは何故かを執拗に問う。日本建築の評価をめぐる「固定観念」を問うという意味では、井上章一の『伊勢神宮』と合わせて読まれるべきだろう。本書が文句なく面白いのは、「東照宮」評価を建築技術のあり方、都市=東京のあり方と重ね合わせて読み解いている点である。②は、どっぷり歴史にはまり込んだかに見える建築家の最新刊。例によって建築家的想像力が信長を素材に踊っている。③は、低炭素社会へむけて、これまで取り組んできた経験をもとにカーボン・ニュートラルな住まいのあり方を示す好著。

布野修司(建築批評・アジア都市研究・環境問題)


2009年下半期

布野修司


    伊東豊雄・藤本壮介・平田晃久・佐藤淳『02 20XXの建築原理へ』(INAX出版)

    角橋哲也『オランダの持続可能な国土・都市づくり』(学芸出版社)『オランダの社会住宅』(ドメス出版)

    久保田裕之『他人と暮らす若者たち』(集英社新書)

    早川和雄『早川式「居住学」の方法』(三五館)

①は、建築家伊藤豊雄が、「青山病院跡地」を具体的な敷地として設定し若手建築家とともにつくりあげた東京都心の再開発プロジェクトの記録。建築が社会的な地位を低下させていく状況の中での真摯な思考と議論を見ることが出来る。②は、日本の都市計画、社会計画の分野で長年オランダ研究を続けてきた著者の提言。ワークシェアリングなど様々な先進的取り組みで知られるが、都市計画分野でも多くの学ぶべきものがある。③は、日本でも本格的に実体化しつつあるシェアハウス(ルームシェア)の問題を提起する。日本社会が大きく変動しつつある断面を的確に捉えた論考が目立つ。他に、小伊藤亜季子・室崎生子『子どもが育つ生活空間をつくる』(かもがわ出版)もある。



2022年2月27日日曜日

災害を「学」にするということ!?,すまいろん,住宅総合研究財団,2009春号

 災害を「学」にするということ!?,すまいろん,住宅総合研究財団,2009春号

 

 災害を「学」にするということ!?

 布野修司

 特集の意義は、編集責任者である中谷礼仁先生が自負するとおりで、異議なし、である。しかし、災害をテーマとする「実践的」研究集団をつくりたいというのはどういうことか、と、ちょっと首を傾げた。以下は、各論考へのコメントというより、全体を読みながら思い起こしたことである。

 20041226日朝、僕はスリランカのゴール・フォートにいて、インド洋大津波を経験した。などと呑気に書くけれど、フォート周辺で数百人が亡くなり、15分違いの命拾いであった。帰国後、NHKテレビの特集でゴールのバスターミナルでみるみる溢れる水になすすべもなく巻き込まれていく人の映像をみて、心底ぞっとした。ツナミが到達するのがもう少し遅ければ同じ目にあっていたのである。この時のことは、求められるままに『みすず』(「スリランカ「ツナミ」遭遇記」2005年3月)に書いた。

その瞬間何が起こったのか皆目分からなかった。スリランカには、『マハーヴァンサ』という「古事記」があって、2000年前に女王が波にさらわれたとある、だから2000年ぶりだと、翌日のTV番組で学者がしゃべるのを聞いた。スリランカには地震はない。牧紀男先生の示す地震ハザードマップもスリランカは真っ白である。そして、ツナミなど誰も考えなかった(と思う)。満月の日の高潮か、水道管が破裂したか、僕の頭にも浮かんだのは全くトンチンカンな妄想である。目の前にひっくり返っているバスや車、サッカー場に乗り上げている船を見て、ようやくツナミと理解したのは、同じく命拾いした応地利明先生から、インド洋プレートの滑り込みとヒマラヤの造山活動、ツナミの速度(ジェット機より早い)についての説明を聞いてからである。事態を理解するまでに2時間近くかかった。家族を突然失った人にとってこれは神隠しと思うしかない。これは全く、林勲男先生のいう「災害」人類学の対象である。

何かの因縁を感じて、翌年、翌々年とスリランカに通った。モラトゥア大学の友人が復興計画に携わるというのでその手伝いをするというのが口実である。一年後、コロンボからゴールへ走って驚いた。やたらに眼に入るのが各国NGOの看板なのである。これみよがしに復興援助をうたうけれど、車を降りてみると何もない。スリランカ出身の構造デザイナー、セシル・ベルモンドの復興プロジェクトも大々的に喧伝された。翌々年だったと思う。日本政府は、80億円を投じて(援助して)、復興団地の事業コンペを行う。アチェでもそうだけれど、災害援助が明るみにするのは、第一に国際援助の巨大なブラックボックスである。

ゴール周辺に被災者のためのテントは残っていたけれど、バスターミナルは、全く何事もなかったようであった。NHK特集のビデオを撮ったカメラ屋の前に多くの新聞記事と亡くなった人の写真が貼られており、唯一ツナミの記憶を伝えていたが、その様子を写真に撮ったら、金をせびられ、思わず手をあげそうになった。大災害も飯の種にする(観光化する)したたかなあるいは切羽詰った人々がいる。これも「災害」人類学のテーマだろう。

亡くなった人たちを除けば、最も多くの被害を受けたのは、コロンボに近い海岸部に居住していたスコッターたちである。ツナミの直後に、行政当局は、これ幸いに、海岸線から100mを建設禁止区域とし、杭を打った。その決定を下した責任者と直接議論したけれど。海岸は共有地だ、この際、スコッター問題に手をつけるのだ、と強硬であった。もちろん、スコッターたちもしたたかであり、すぐさまバラックを建てて棲み続けた。このせめぎあいは日常社会に内在していたものだ。

災害は、地域の文化の再発見に結びつくというけれど、社会の亀裂をさらに顕在化させ、激化させもする。スリランカの場合、ツナミは、住宅問題、都市問題を直撃したのである。そして、さらに政治問題も大きく後退させた。知られるように、スリランカは長年、南北、シンハラータミルの両民族間で内戦といっていい状態にあった。実は、ゴールで命拾いする直前、初めてタミル解放の虎が実効支配する北部に行くことができ、陸路アヌラーダプラに抜けて、コロンボに至りゴールに向かったのである。確かに、一国内に別の国家があり、パスポートも入出領域税も取られた。しかし、雪解けの雰囲気は感じられた。だから外国人も旅行できたのである。しかし、ツナミ後、再び、対立は深まったように見える。援助物資の配分がうまく行われなかったのが一因だと思う。一方、アチェの場合、本特集の報告からは伺えないけれど、武装対立から融和へうまく?動きだしたのではないか。

災害は、危機的対立を強化する方向へも、さらに対立を緩和する方向へも作用する。大災害を好機とすべきとすれば明かに後者の方向である。ピナツボ火山の噴火以降、アエタが先住民族として誕生したことは、そうした評価を超えた問題であるけれど、ある種の共生の契機になったと理解したい。

・・・等々、特集を自らの経験にひきつけて考え始めるととても紙数が足りない。阪神淡路大震災にしても、集集大地震にしても、それなりに歩き回って考えたけれど、要するにはっきりするのは、災害が明るみに出すのは、日常が拠ってたつ基盤(インフラストラクチャー、地域社会、・・・)である、ということである。大災害が起こるたびに現地に出かけて行って、何がしかの教訓を得るのもいいけれど、日常が拠って立つ基盤の脆さを見通す眼が獲得されなければその教訓は活かされることはない、そのことを本特集は教えてくれているように思う。フィールドワークが目指すのは、そうした眼の力を鍛えることである。そうした意味では、青井・陳論文には好感をもった。佐藤滋先生のいう「事前復興」もそういうことだろう。ただ問題は、災害を「学」にすることではなくて、日々の暮らしの安心安全であろう。空地は震度8にもマグニチュードいくつでも耐えると唐山市長が言ったというけれど、本当にそう思う。肝心なのは、建造物が潰れても、人命が失われないことである。

「災害」に関する実践的研究というのは、・・・・。






2021年4月7日水曜日

現代建築家批評24  地球に根ざして・・・周縁から  象設計集団の作品

 現代建築家批評24 『建築ジャーナル』200912月号

現代建築家批評24 メディアの中の建築家たち


地球に根ざして・・・周縁から 

象設計集団の作品

 

樋口裕康,富田玲子は既に古希を迎えた。「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(杜甫曲江詩)という。樋口さんなどとっくにこの心境であろうか。富田さんが『小さな建築』(2007年)をまとめたのもひとつの区切りが意識されている。ふたりとも,最近は講演で忙しそうである。十勝の拠点では,町山一郎さんが「象精神」溢れるブログを書き続けている。

象設計集団は,集大成の時期を迎え,世代交代というべきか,第二期象設計集団のスタートというべきか,さらに新たな展開が期待される段階に入っているといっていい。

 『空間に恋して』が「いろはカルタ」に見立てて編集されているのは象らしい。「笠原小学校」の外廊下の柱一本一本には、「江戸いろは」の句が刻み込まれているし,ナントのワークショップ(2001)でも,「いろは」47文字を使って作品や考え方を掛け軸にしていた。『空間に恋して』には,長文も短文もある。視点も視野もばらばらである。体系を嫌うといってもいい。しかし,「決して気まぐれではない。どの言葉にも私たちの思いが込められている」のである。

 「7つの原則」があるから,それ以上の整理はいらない,具体的作品[i]の多様性にゆだねるということであろう。

僕は,『戦後建築論ノート』(相模書房,1981年)の最後に,日本建築界の行方を論ずる中で(「閉じつつ開く」),次のように書いた。それから30年近く経つ。今もその期待は変わらない。しかし一方で,象設計集団のこの間の活動が一段落するのを振り返るとき,中心,すなわち,都市を果敢に攻めることこそいまや問題ではないか,と思い始めている。

「一つの指針は,その場を中心的なるものと周縁的なるものとの境界に設定することである。制度と空間とのヴィヴィッドな空間を見つめうる場所に設定することである。そして,さらに,そこでの具体的な活動を,少なくとも,時間軸としての昭和,空間軸としてのアジアによって張られる時空の広がりのなかで,繰り返し位置づけていくことである。

具体的な試みも,すでに多様に開始されているといっていい。たとえば,象グループの沖縄での仕事や内田雄造,大谷英二等の土佐・高知の被差別部落の計画は,もっとも先鋭にその方向性を示すものであったといっていい。市民社会から疎外された被差別部落,本土から疎外され続けた辺境の地,沖縄,いずれも,われわれにとって周縁の世界であった。」

 

 コミュニティ・アーキテクトの可能性―地域と建築家―

 地域と象設計集団というと,まずは「沖縄」である。そして,「宮代」であり,「宜蘭」であり,「十勝」である。70年代,80年代,90年代,そして2000年代とオーヴァー・ラップしながらも地域との関わりの密度は移行してきている。

地域と建築家の関わりといっても,いくつかのレヴェル,アプローチの位相がある。第一に,地域と建築家の持続的関わりの問題がある。また,建築家の居る場所,依拠する場所としての地域がある。タウンアーキテクト,コミュニティ・アーキテクトとして地域に関わるのと,「世界建築家」として地域に関わるのかは決定的に異なる。第二に,地域づくりと建築との関係の問題がある。たとえ,一個の「小さな建築」であれ,その設計を都市計画,地域計画の一環として捉えるか,自己表現の機会ととらえるか,あるいは新規の技術あるいは新奇な形態の実験ととらえるかは決定的に異なる。そして,第三に,地域性をどう表現するか,地域の中から,どのような建築言語を引き出すのか,という建築の方法のレヴェルがある。

コミュニティ・アーキテクトあるいはタウンアーキテクトのあり方を問題とする中で,コミュニティ・アーキテクトは「地」の人なのか,「風」の人なのか(あるいは「火」の人か)ということが問題となる。すなわち,コミュニティ・アーキテクトは,地域に住み地域の生活者であり続ける必要があるのか,「風」のように地域を吹き抜けながら,地域の価値を発見する役割を担うのか,という問題である。「火」の人というのは,マッチポンプのように火をつけるけれど,あとは地域を顧みない,あるいは,建築作品を建てるだけで地域を顧みない(「やり逃げ」)建築家のことである。

地域にとっては,「地」の人も,「風」の人も,場合によっては「火」の人も必要である。しかし,建築家としては,常にそのスタンスが問われる。象設計集団が十勝を拠点にして20年になる。その仕事の多くが十勝を中心とした北海道となるのは必然である。廃校を事務所に転用することを皮切りに,広々とした土地,厳しい冬を背景にしながら,「北海道ホテル」(1995-2001)「森の交流館」(1996)「十勝ビール」(1997)「高橋建設」(1998)・・・と場所の表現が追求されつつある。帯広には,五百もの建築を建てた五十嵐正[ii]のような建築家がいるけれど,象設計集団の場合,最終的にローカル・アーキテクト(地方建築家)になろうというわけではないであろう。

地球に根ざしているかどうか、それが問題なのである。

 

 発見的方法

 沖縄に先だって,吉阪研究室における大島計画がその原点と言われるが,象の方法の出発点はフィールドワークである。「一刻一刻が発見」であり,「こんな面白いことが他にあろうか」というフィールドワークが「建築そのもの」であるというのは,「発見のための視点と視野,実現のための手段と工夫,どれがいいのかそれをみんなで見つけよう」(吉阪隆正)という行為だからである。

 沖縄でのその実践は鮮やかであった。今でも,象の沖縄の仕事を特集した『建築文化』[iii]のコピーを持っているほどだ。折に触れて学生たちに配るのである。

 「山原(ヤンバル)」の土地利用,自然生態の分析,「環境構造線」と名づける景観分析,方言地名の分析,「ウタキ(御獄)」「アサギ」といった場所の意味を読み解く集落の空間構造の解析,水系の分析,「ヒンプン」「シーサー」といった建築的要素,街のディテールの発見といった地域の自然文化社会の生態空間を捉える手法が既に示されている。その地域空間へのアプローチは,ひたすらその古層へ向かい,歴史的空間の型をステレオタイプ化するのではない。コンクリート・ブロック(花ブロック)も発見されるのである。戦災を受けた沖縄に,米軍が戦後持ち込み一般的に用いられてきたコンクリート・ブロックが「今帰仁村中央公民館」「名護市庁舎」に積極的に用いられることになる。照明,時計塔,鐘つき塔,風見・方位塔,パーゴラなどがブロックでデザインされることになる。すなわち,建築生産体制もまたフィールドワークによって発見されるのである。

 インドネシアを歩き始めた(1979年)頃のことを思い起こす。日本も戦後まもなくはこんな状況ではなかったかという住宅問題,都市問題を目の当たりにして,建築家はどうするのか,何をどう組み立てるのか,ということを随分考えた。直感的に自明であったのは,何か理念的なモデル(平面型)を呈示するだけでは何も動かない,ということである。すなわち,地域(場所)で調達可能な建築材料,職人集団が継承してきた技能,建築生産体制を前提とすることが出発点になると言うことである。

 

 新しい村

 沖縄での方法は,今日喧伝されるエコロジカル・プランニング,エコロジカル・デザインの手法をはるかに先取りするものであったと言っていい。沖縄という,本土から疎外され,その戦後復興,高度成長から取り残されてきたが故に,場所のポテンシャルを維持してきた地域だから成功したということではない。台湾という中国本土からみれば「化外の地」であった場所だから象流のアプローチが成功したということではない。その第一原則である「場所の表現」は,あらゆる場所で有効であるのが前提である。

 そのアプローチが首都圏においても可能であることを示したのが宮代町である。宮代町は,富田玲子の疎開先でその後も夏休みを過ごした町であり,「世界のどこにもないものを」といった宮代町の町長,齋藤甲馬は富田玲子の叔父(父の兄)であるという縁があった。建築家を育てるのはこうした縁であり,自治体に一人のすぐれた人物―コミュニティ・アーキテクト―が居れば,公共建築については思い切った挑戦ができる。「進修館」(1980)は,「低層建築でいい」「議会を円卓でやる」「使わないときは町民ホールとして開放する」という町長の提案が大きかった。

 設計については,「宮代の風景をつくる」「街の軸づくり」という方針が意識されている。環境構造線を意識的に創り出そうというのである。「進修館」を街中の屋敷林と見立て,世界の中心として,街の軸としての南北軸,筑波山―富士山をつなぐ軸に,同心円を重ねるプランは,コスモロジー派の方法を思わせる。「遠い宇宙,南極,北極,富士山,筑波山をこの場所に呼び寄せてしまおうと欲張ったのです」と富田はいう。

 「進修館」とともに「笠原小学校」(1982)の設計も町から委託される。「教室は住まい」であり,「学校は街である」という象の一連の学校作品の最初の作品であり,代表作といっていい。象設計集団にとって宮代での仕事が大きいのは,その後も持続的な関わりを維持してきているからである。「笠原小学校」の南にあった老朽化した町役場の代わりに,「進修館」の南に地元の建築家たちによって木造新庁舎が建てられ,町役場の跡地に,「農のあるまちづくり」計画のシンボルとして「新しい村」が計画されつつある。地産地消の流通システム作り,「メイド・イン宮代」の商品開発,市場,工房,集落農園,育苗温室,機械化センターの整備など農家をサポートする施設が集中するのが「新しい村」である。

 首都圏の町とは言え,江戸時代に新田開発(ほっつけ(堀上げ田))によって拓かれた場所である。市街地の近くに位置しながら未だかつての農村風景を残している。ほっつけの再生と森の拡充が「新しい村」の中心テーマである。  

 

 社区総体営造

 前述のように,台湾での仕事も,郭中端という吉阪研究室のかつてのメンバーを通じての縁である。「冬山河親水公園」以降宜蘭で次々に懸の行政中心の建築を次々に設計してきたことも上述の通りである。1988年に設立された象設計集団の台湾事務所には今では,かなりのスタッフがいる。東京事務所とともに,南北から日本を挟撃する鮮やかなシフトを敷いていることも,既に触れた通りである。

 台湾には,東南アジアに通い始めて(1979年)以降,その行き帰りに度々訪れる機会があった[iv]。李登揮が初代大統領に選ばれる時も,次の再選の時も,さらに民進党の陳水扁が大統領になった選挙の時も,1999921集集大地震の調査で台湾に居た。だから,台湾の街づくりについては,それなりによく知っているつもりである。もともと移民社会であり,しかも国民党の相互監視システムにおいて,1980年代末まではコミュニティーなど存在しないに等しい状況であった。

38年間続いていた戒厳令が解除された1987に象設計集団の宜蘭行きも開始されるのであるが,翌年蒋経国が死去し,李登輝副が本省人として初めて総統に就任して以降,社会の基礎としての地域社会の構築(再建)を目標に掲げ,運動の先鞭をきったのは行政院文化建設委員会の陳其南である。彼の発案,主導の元に開始されたのが「社区総体営造」運動(1994)である。並行してノーベル化学賞受賞者の李遠哲中央研究院(SINICA)院長を会長に「社区営造学会」も立ち上げられた。その中心にいたの,早稲田大学で重村力らと「生活集積としての都市研究」を展開してきた陳亮全(台湾大学)である。

陳其南とは何度か「社区総体営造」をめぐって話をしたことがある。彼が言うにはアメリカ流のCBD(Community Based Development)ではなく日本の「まちづくり」に学んだのだという。もしそうだとすれば,象設計集団の台湾での影響力はわれわれの想像以上といっていい。

 昨年(2008年),陳其南も招いて,「社区総体営造 (台湾まちづくり)の課題」(日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建,社區營造與地域建築師(Town Architects))(日本建築学会建築計画委員会春季学術研究集会)というシンポジウムを台北で開催したのであるが,そのシンポジウムで黄聲遠という若い建築家に出会った。そして,その宜蘭での一連の仕事を見て驚いた。イエール帰りだというけれど,現場に模型を吸えてあれこれ検討したり,いかにも泥臭い。その方法は,まるで設立当初の象設計集団なのである。台北から遠く離れた宜蘭のオフィスビルに30人もの若者が寝泊りして,駅前の倉庫の改造,バス停の設計,遊歩道の整備などありとあらゆる仕事を手がけている。台湾で黄聲遠は既に有名でTV特番もつくられている。象の遺伝子が地域に根づいていく,確かな道筋が見えたと思った。

 

 石・土・瓦・竹・木・・地・水・火・風・空

 あまりにも「ぺらぺら」「ひらひら」「すかすか」の建築が多すぎるなかで,象設計集団の作品群の存在感は際立っている。石・土・瓦・竹・木・・・とにかく,自然材料,生物材料を使う。そして,地・水・火・風・空,自然の中に建築空間を成立させる。象設計集団の作品群から,様々な素材の使い方,ディテールを学ぶことが出来る。「高野ランドスケーププランニング」との一貫するコラボレーション,「カワラマン」山田脩二の「淡路かわら房」との連携などがそれを支えてきた。

 藤森照信が,日本の建築家を,物の実在性を求める「赤派」と抽象性を求める「白派」の二つに分けたことに前に触れたが,象設計集団の場合,正真正銘の「赤派」である。藤森の「自然素材への拘り」がどこか「遊び」(数寄)のように思えるのに対して,象設計集団は,自然素材,生物材料を本来的なあり方に即して使う迫力がある。それは,ヴァナキュラー建築の世界に通ずる創意工夫の世界である。

 象設計集団の作品群に,何故か(どういうネットワークなのか),能都町・縄文真脇温泉(1993,草津温泉・白旗の湯・湯畑広場(1994,かんなべ湯の森・ゆとろぎ(1994,丹後宇川温泉・よし野の里(2001)など温泉シリーズがある。十勝の一連の仕事にしても,雄大な自然の中に佇む建築が象設計集団にはふさわしいように思える。「仕事と遊びの日々を堪能する異能の集団」[v]にとっては,何よりも,自然が前提である。「野外パーティーを開ける庭付きの空間」が欲しくて十勝に引っ越したのである。

 

 都市へ

十勝を拠点として,北海道を中心に仕事をしていくのはいい。沖縄,台湾,十勝に限らず地域再生の課題はそこら中に転がっている。しかし,一方,われわれが直面しているのは都市再生という課題である。象の都市再生も見たいと思う。問題の根は「都市と農村」の関係にあるのである。

抜き刷りをもらって読んだのだけれど、重村さんの神戸大学退任記念の講演は「生命循環都市へ」と題されている。そして、「物質循環から生命の循環へ」向かう都市のあり方を展望している。重村さんもまたチーム・ズーの一員として地域(農村計画)をベースに仕事をしてきたのであるが, 「持続型社会」「循環型社会」「低炭素社会」といった言葉が軽やかに流布するなかで,問題の根が,都市と農村との関係の根源にあることを指摘しているように思えた。

富田さんの『小さな建築』に,「樹木のような高層建築」「穴あきチーズのような建築」「集落的建築」のスケッチがある。象設計集団にしてみれば余計なおせっかい,ということになるかもしれないけれど,そうした建築を都市(東京)で見たいと思う。住宅作品を除くと,東京での仕事は少ない。そうした中で,「葛飾の家」(1998)「武蔵野の家」(2001)という特別養護老人ホームの仕事がある。これは集合住宅といっていいけれど,住宅が一戸一戸集まって,街になり,都市になっていく,そんな象の作品を見たいと思う。



[i] 象設計集団の主な受賞:1977・芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門)今帰仁村中央公民館/都市計画学会石川賞 沖縄における一連の都市計画:1979・名護市庁舎公開設計競技 最優秀賞:1982・日本建築学会賞/甍賞 銀賞/労働福祉事業団山口保養所 錦グリーンパレス:1987・甍賞 金賞 /安佐町農協生活文化会館
1990・日本デザイン賞 大賞 ドーモ・チャンプルー/横浜市街並み景観賞 磯子アベニュー:1991・RACコンテスト グランプリ/みちのく杜の湖畔公園インフォメーションセンター/・台湾 カマラン賞/冬山河風景区親水公園における価値観と仕事上の態度/たちかわ市デザイン賞 市長賞 /昭和記念公園こどもの国インフォメーションセンター:1994・石川県景観賞 大賞 能都町縄文真脇温泉/ドイツ Frankfurter Zwilling 賞/北海道立釧路芸術館公開設計競技 最優秀賞
1996・フランス バール樹木園指名設計競技最優秀賞:1997・全税共地域文化賞 /地域における芸術文化の振興に資する活動:1998・多治見市立中学校指名設計競技 最優秀賞/広島街づくりデザイン賞大賞 矢野南小学校:2000・台湾「公共工程品質賞」金賞受賞 宜蘭縣議会:2001・台湾「公共工程品質賞」金賞受賞 土牛小学校
2002・文部科学大臣奨励賞賞受賞 多治見中学校/第8回公共建築賞優秀賞受賞 矢野南小学校:2003・北海道赤レンガ建築奨励賞 高橋建設/エコビルド賞受賞 高橋建設/台湾「優良緑建築設計賞」 宜蘭県庁舎:2004・第10回石川県景観賞 石川県九谷焼美術館

[ii] 建築家五十嵐正帯広で五百の建築をつくった文:植田実,写真:藤塚光政,西田書店)

[iii] 19779月号

[iv] また,京都大学の布野研究室にもかなりの台湾からの留学生がいて,彼らとともに何度かフィールド調査をする機会があった。黄蘭翔(台湾大学)と若くして亡くなったが,闕銘宗が布野研究室の台湾研究の中心であった。闕銘宗,布野修司,田中禎彦:新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997月/闕銘宗,布野修司,田中禎彦:台北市の寺廟,神壇の類型とその分布に関する考察,日本建築学会計画系論文集,526,p185-192,199912月/闕銘宗,布野修司:寺廟,神壇の組織形態と都市コミュニティー:台北市東門地区を事例として,日本建築学会計画系論文集,537, 219-225,200011月。

[v] 『空間に恋して』帯








2021年4月6日火曜日

現代建築家批評23 現場(フィールド)から  象設計集団の7つの原則

 現代建築家批評23 『建築ジャーナル』200911月号

現代建築家批評23 メディアの中の建築家たち


現場(フィールド)から 

象設計集団の7つの原則

 

 象設計集団の著作は極めて少ない。作品集として編まれた『象設計集団』(鹿島出版会,1987)と『空間に恋して』(工作舎,2004年),そして,富田玲子の自分史といっていい『小さな建築』(みすず書房,2007)がほとんど全てである[i]。「メディアの中の建築家たち」というにはふさわしくないのが象設計集団である。

 そして,言葉だけの理論とか方法論,体系化から遠いのも象設計集団である。

 建築は理屈ではない!建築は言葉だけではない!

 「方法論を場所にもち込むのではなく,場所がもつ初源的な力を発見し,それらを収斂させること」[ii]が重要である。

確かにそうだ。

もちろん、建築設計に言語は不可欠であるし,その建築思想を伝え広げていくためにはメディアが必要である。ただ、設立メンバーであるTHOには,そうしたメディア戦略が希薄であったといえるかもしれない。裏返せば,そうした戦略など必要としない,恵まれたネットワークが象設計集団を支え続けたということであろう。象設計集団のすごいところは,沖縄から北海道までフィールドに収めて,チーム・ズー(動物園)という組織(ネットワーク)を一気に創り上げたことである。まちづくりと建築,地域おこし(再生)と建築を逸早く鮮明につなげて見せてくれたのが象設計集団である。

一方,これはまさにメディアの問題と言っていいのであるが,象が北海道(十勝・帯広)へ移転してから,地域をベースに活動する建築家のあり方が建築ジャーナリズムから消えていったように思う。重村さんが「俺は象のスポークスマンだ(った)」というのを何度か耳にしたような気がするけれど,象設計集団の方法をより拡大していく批評家なり理論家なり、メディア戦略がさらに必要だったかもしれない。もしかすると,日本のまちづくりの四半世紀の後退に繋がったのかもしれないのである。しかし、象設計集団が早すぎたと言ってもいい。まちづくりと建築,地域おこし(再生)と建築が本気で追及されだすのは、阪神淡路大震災(1995年)以降であり、地球環境時代が意識され出すのは今世紀に入ってからなのである。

チーム・ズー(動物園)というかたちの鮮やかな集団ネットワークもその継承が問題となる。そのときに必要なひとつが塾やワークショップを含めた持続的な教育機関であり,理論,方法,体系ということかもしれない。しかし,現場(フィールド)でしか伝えようのないものが「建築」である。

 

 小さな建築

「小さな建築」と富田玲子はいう。「小さな建築」というのは,均質で画一的な空間をただ積み重ねただけの超高層ビルの林立する都市,地下に閉鎖的な空間がアメーバのように広がる都市への批判である。しかし,「小さな建築」は,もちろん,「小さな」建築ということではない。もちろん,人間や樹木の大きさに基づくヒューマン・スケールは極めて大切である。しかし,ただ単純に規模が小さければいいというのではない。だから,「小さな建築」という言葉だけではいささか弱い。超高層建築が最も効率的で経済的であるというのが現実を支配する圧倒的な価値観なのである。「空間に恋して」というのがぴったりするのであるが,この「空間」というのが一般に伝わらないもどかしさがある。そこで象が掲げるのが7つの原則である。

 

 生き方の指針

7つの原則とは,1場所の表現,2 住居とは何だろう?学校とは?道とは?,3 多様性(多様であること),4五感に訴える,6 あいまいもこ,7 自力建設の7つである。

何故,この7つの原則なのか。極めて具体的な項目もあれば,抽象的な項目もある。この7つの原則の全体性や体系を詮索するのは意味がないかもしれない。何しろ,「あいまいもこは,限定されないで,どっちつかずで,はっきりしないことです。建築か庭か街か,内部空間か外部空間か,建物か衣服か,遊びか仕事か,今か昔か未来か,完成か未完成か,株序があるのかないのか,部分か全体か,本気か冗談か,生徒か先生か,誰がデザインしたのか,‥‥‥私たちはこのようなことがらについて,あいまいもこな世界に住み続けていきたいのです。」(「6 あいまいもこ」)を原則としているのである。

経済論理が支配するなかで,また,ますます管理社会化が進行する中で,こうした曖昧模糊に耐えるのは容易ではない。象の7原則は,われわれの生き方そのものに関わっているのであって,しかも,誰もが遵守できるとは限らないのである。 富田玲子の『小さな建築』には,7つの原則を含めて,その生き方そのものが活き活きと表現されている。

 

 場所の表現

 原則の第一に挙げられるのは「1.場所の表現」である。

私たちは,建築がその建つ場所を映し出すことを望んでいます。デザインが場所や地域の固有性を表現するよう努めます。村を歩きまわり,景観を調査して,土地が培ってきた表情を学びます。人々の暮らしを見つめ,土地の歴史を調べます。このようにして,デザインのなかにその場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こしてゆきます。

われわれが既に共有してきたはずの指針がここに簡潔に示されている。問題は,地域の固有性とは何かである。象設計集団は,作品を通じて,その問いに解答し続けてきた。作品に即してわれわれは象設計集団の「場所の表現」を問うことになる。地域を超えるものとは何か,地域をつなぐものとは何か,も同時に問われることになる。地域を通じて,あるいは,地域を超えて一貫する「象らしさ」というものは,おそらく拒否されている。それが「あいまいもこ」の原則であり,協働設計の原則でもある。そして「3.多様であること」という原則でもある。

問題は,歩き回り,土地の景観や表情,歴史,場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こす方法,吉阪隆正のいう「発見的方法」である。

 

 制度と空間

続いて,「2 住居とは何だろう?学校とは?道とは?」という原則が疑問形で書かれていて,いささかとまどう。しかし,全くもってオーソドックスな原則であることが理解できる。

「コミュニティー,学校,家族の基本的な生活のありさまをよく観察して,人々がつくろうとしているものの根本的な要求を知ることが出発点になります。時に人々は,自分たちの欲求や希望をはっきりとは自覚していないことがあります。そこで,人々と共に考え,新しい生活のしかたを提案していくことが,象の仕事の重要な部分となります。私たちの目標は,人々の今日の要求を満たす空間を創り出すこと,と同時に,その人たちの生活の地平を広げるための新たな機会を提供することです。」

後段[iii],「1.場所の表現」とダブっているから省略するが,この原則は,第一に,われわれの生活の拠点としての住居,学校,コミュニティ(近隣社会)を原点に置くということである。この原則は,大都市であれ地方都市であり,過疎の農山村漁村であれ,共通な指針となりうる。

象設計集団のホーム・ページを覗くと「象の住宅」「象の学校」「象の福祉施設」という3つの「営業分野」として立てられている。

この原則の平易な文章を読みながら,否応なく「建築計画学」の原点を思い起こす。また,先に触れたが,象設計集団の設立者である富田玲子がわずかの期間吉武泰水研究室に所属して,丹下健三研究室に移籍したエピソードを思い出す。「基本的な生活のありさまをよく観察して」,「人々がつくろうとしているものの根本的な要求を知ること」は,「建築計画学」に限らず,全ての建築家にとって基本的な姿勢である筈である。しかし,そうしたアプローチが次第に受け入れられなくなる状況がある。そしてそれ以前に,公共住宅,学校,病院,図書館・・・という施設=制度(インスティチューション)毎の空間体系に社会空間を編成する役割を「建築計画学」が担ったことは否定できないように思えるのである。

 

 自力建設

 具体的は建設方法として,7原則の最後に自力建設がうたわれる。確かに,象は,「名護市庁舎」にしても,用賀プロムナード」「冬山河親水公園」にしても,市民,住民など建築の使用者に建築の施工に直接参加を求めている。十勝に移っても,「まいまい井戸」をみんなでつくったり,雪でドーム建築や野天風呂をつくるワークショップを開いたり,廃材を用いて自力建設(「ひかり保育所」)をしたりしている。

C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」論や石山修武の「セルフビルド論」に通底する,建築の設計施工の密接なつながりに関する象の基本的な構えが「7.自力建設」の原則である。しかし,全ての建築を自力建設することが可能なわけではない。「自力建設」が大切だから,超高層建築や大規模建築ではなくて「小さな建築」なのだ,というわけでもない。

「自力建設とは,・・・自らの地域を,自らの手でつくり上げてゆく哲学です。近代の制度を超え,地域を超える生命の叫びです」

地域を自らの手でつくり上げながら地域を超える,実に困難な課題である。そして,「機械よりは多くの雑多な人々,知識よりは知恵,速さよりは持続力,理性よりは情熱,狂気,妥当よりは過剰,規範よりは埓外のものごと,結論よりは終わりのない問いかけ」と続いて,「形姿に求められるものは魔力」,そして「最後に,空間の緑化がもっとも大切です。」とくる。制度あるいは秩序からあくまで逸脱,逃走しながら「空間の形姿」の力そして「緑化」に賭けるということか。

 

 自然と身体

「自力建設」という原則は,すなわち,直接建築の施工過程に直接参加するという指針として,「4.五感に訴える」という原則と関連するものとして理解できる。また,「5.自然を受けとめ,自然を楽しむ」という原則とも密接に関連する。この2つの原則はわかりやすい。

地球環境時代といいながら,ますます人工環境化しつつあるのが,われわれが生きている空間である。雨が降ろうが風が吹こうが気候を自由にコントロールできるドーム球場のような空間がその象徴である。そして,そうした空間をつくり続けているのが一般の建築家たちである。

象は,そうした建築を拒否して,「風,水,太陽,星,そして遠くに見える山を直接的に導入」しようとする。「気候を楽しむためには,厳しい暑さや寒さや,湿気を和らげるための工夫が必要となります。深い庇,土に覆われた屋根,風の道,防風林,パーゴラ,木陰などは,私たちがよく用いる装置です。」これはわかりやすい。もっと単純な指針が「緑化」である。

人工環境化によって,われわれの身体感覚も衰えていく。象が目指すのは,「人々の情感に強く訴える環境」である。「人々が,光と影,音,香り,手ざわりや足ざわり,運動感覚を通じて空間の特性を感じ取り,さらにその外の世界とのつながりに心を向ける」建築である。「建物の中で暑さや寒さを感じたり,季節の移り変りを感じたりできることは,大切な要素です。自然と共に暮らしてきた永い時間の中で,人間の身体は体内で時間の流れを感じるように進化してきました。私たちは,体内時計のリズムを守りながら,季節の移ろいに対する感受性を高めるような空間をデザインしたいのです。」

そのために,象は自然素材,,,,雪にこだわる。また,自然の要素の表現にこだわる。それ故,身体を基礎にした技能,手作りの技術が基本に置かれるのである。

 

 多様性

 原則の3番目「多様であること」は,以下のようである。

「建築とは人々の出会いです。多様な空間特性が総合的に組み立てられた環境の中では,その環境を媒介にしてさまざまな出会い人と人の,あるいは人と物のが生まれます。私たちは計画する空間の中に形態,素材,スケールの多様性とそれらを結び付ける秩序を用意します。そこにやってくる個々の人が,強く引きつけられる部分や全体を発見し,それを共有する人の存在に気づき,そして共に平和を信じることができるよう願っているのです。これは均質で画一的な空間の中では期待できないことです。」

「建築とは人々の出会いです」。しかし,人々が出会えば建築になるとは限らない。象設計集団が目指すのは,単なる形式的な,コミュニティ・ベイスト・デザイン,住民参加による建築,プロセスとしての建築,いわゆるワークショップ方式,なのではない。コミュニティー派の建築家たちの仕事が往々にして単なる手続きに終始して,凡庸な空間しか生み出さないことである。象設計集団の場合,あくまで多様な人々が出会う媒介としての環境が問題である。「空間の中に形態,素材,スケールの多様性とそれらを結び付ける秩序を用意」することが目指される。象設計集団は,人々の出会いを愛する。そして,人々の出会いを誘起する空間の力,建築の力を信じるのである。

 

 フィールドワーク

 原則は原則である。何をどうすればいいのか。出発はフィールドワークである。象設計集団の原点である1971年の沖縄について樋口裕康は次のように書いている。

 「沖縄は好奇心を激しく刺激した。カッカッ興奮した。闇雲にフィールドワークに走る。持ち物はカメラ,スケッチブック,村の地図,ひもの付いた画板,コンベックス,四色ボールペン。日々,一刻一刻が発見である。こんな面白いことが他にあろうか?フィールドワークは調査ではない,記録することではない。これこそ建築である。身体のダイナミズム,衝動。まぶしく,くそ暑い,ニカワ質の大気の中で,身体が形を捉えていった。言葉が形を生み出していった。」[iv]

 未だにフィールドワークの魅力に取り憑かれてアジアを歩き回っている僕にとって感動的な文章である。

 そして,地域の中で何をやるか。

 「行動:まず行動することーゲリラの段階。情熱:恐いもの知らずの突撃,素人の恐ろしさ。夢:夢は人々を結束させる。楽天家。ねばり:一つの地域でねばること。冷静:暴れた後は頭を冷やして考える。行動の後は整理する。悩む:建築設計をとおして地域を見る。好奇心:好奇心にみちみちて,感動しなければならない。信念:プロとしてではなく,素朴に人間としてみて,いいというものはよいのである。信念を持って,よいものはよいという。闘争心:クビをかけたり,ケンカをしなければならない。」[v]




[i]  『世界建築設計図集 29 宮代町進修館』土井 鷹雄/ 出版:同朋舎/ 発行年月:1984。『冬山河親水公園 建築リフル 009象設計集団/ 出版:TOTO出版』『特集:象設計集団あいまいもこ』建築文化199310月号。

[ii] 象の「7つの原則」 7.自力建設

[iii] 「・・・私たちは,建築がその建つ場所を映し出すことを望んでいます。デザインが場所や地域の固有性を表現するよう努めます。村を歩きまわり,景観を調査して,土地が培ってきた表情を学びます。人々の暮らしを見つめ,土地の歴史を調べます。このようにして,デザインのなかにその場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こしてゆきます。」

[iv] 『空間に恋して』p23

[v] 『空間に恋して』p25