植民都市遺産とアジア都市の伝統,大阪市立大学文学研究科編(2009)[文化遺産と都市文化政策]大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,2009年12月20日
植民都市遺産とアジア都市の伝統
Colonial
Urban Heritage and Asian Urban Traditions
布野修司
現代アジアの都市と建築を広く見渡すと、まず、1,000万人にも及ぶ人口規模をもつ大都市が思い浮かぶ。ムンバイ、ニューデリー、チェンナイ、コルカタ、バンコク、ジャカルタ、マニラ、北京、上海、ソウル、東京・・・。いずれも中心部には超高層ビルが林立する。そして、その周囲に住宅地が形成され、延々と郊外へ向かって広がっている。俯瞰すれば、アジアの大都市は極めてよく似ている。
一方、大都市から離れた田舎の光景も思い浮かぶ。はるか昔から同じように家をつくり続けて来たヴァナキュラー建築の世界がある。しかし、その世界にも亜鉛塗鉄板(トタン)のような近代的な工業材料が浸透し、家の形態は変容しつつある。各地域の中核都市には、ショッピング・センターのような現代的な新しい建築が増えつつある。
アジア各地を旅すると、各地域が次第に似かよってくるという印象を受ける。建築生産の工業化を基礎にする近代建築の理念は大きな力を持ち続けているということであろう。工場でつくられた同じような建築材料が世界中に流通するから、住宅地の景観が似てくるのは当然である。
現代アジアの都市と建築について、いくつか共通の問題をあげると、まず三つが思い浮かぶ。
第一にあげるべき問題は住宅の問題である。今日猶、大多数の人々はヴァナキュラーな建築の世界、すなわち「建築家なしの世界」で暮らしている。上述のように工業化の進展とともに、その秩序が崩れつつあることは大問題であるが、それ以前に危機的なのは、住宅そのものの数が足りないこと、あるいは、時として生存のためにぎりぎりとも言える劣悪な条件にあることである。そうした大都市の住宅問題にどのような建築的解答を与えるかは共通の課題であり、各地でユニークな試みがなされている。
第二は、歴史的な都市遺産、建築遺産をどう継承、発展させるかという問題である。開発、あるいは再開発圧力の中で、歴史的な建築遺産をストックとしてどう活用するかは発展途上国、先進諸国を問わない共通の課題である。とりわけ、アジアの諸都市においては、宗主国の建設した植民建築をどう評価するかが大きなテーマとなっている。
第三は、「地球環境問題」という大きな枠組みが意識される中で、どのような建築形式が相応しいか、という問題である。エコ・シティ、エコ・アーキテクチャー、あるいは「環境共生」ということがスローガンとされるが、真に「地域の生態系に基づく建築システム」を生み出すことができるかどうかは、これからの課題であると言っていい。
1 カンポンの世界
まず、大きな問題は大都市の居住環境である。アジアの大都市には世界の人口の過半を占める人々が住む。そして、その環境は多くの場合劣悪である。生存のためにぎりぎりの条件にある地区もある。人口問題、住宅問題、都市問題は21世紀のアジアの大都市にとって深刻である。
しかし、アジアの大都市の居住地は必ずしもスラムなのではない。フィリピンはバリオbarrio、インドネシア、マレーシアではカンポンkampung、インドではバスティーbustee、トルコではゲジュ・コンドゥgeju conduなどとそれぞれ独自の名前で呼ばれるように、物理的には貧しくても、社会的な組織はしっかりしているのが一般的である。
カンポンとは、マレー(インドネシア)語でムラのことである。インドネシアでは、行政村はデサDesaという。カンポンというともう少し一般的で、カタカナで書くムラの語感に近い。カンポンガンkampunganと言えば、イナカモン(田舎者)、というニュアンスである。このそれぞれの居住地のあり方が第一にそれぞれの都市遺産である。
インドネシアで、ジャカルタ、スラバヤといった大都市の住宅地をカンポンというのは、都市の居住地でありながら、ムラ的要素を残しているからである。この特性は発展途上地域の大都市の居住地に共通である。英語ではアーバン・ヴィレッジ(都市村落)と言う。
まず、第一に、カンポンでは、隣組(RT:Rukung Tetanga),町内会(RW:Rukung Warga)といったコミュニティ組織は極めて体系的である。すなわち、様々な相互扶助組織はしっかりしている。アリサンarisanと呼ばれる講(頼母子講、無尽)、ゴトン・ロヨンGotong Royongと呼ばれる共同活動が居住区での活動を支えているのである。
第二に、カンポンの居住者構成を見ると極めて多様である。カンポンには多様な民族が居住する。植民都市としての歴史が大きいけれど、インドネシアはそもそも多くの民族からなる。多民族が共住するのがインドネシアの大都市である。また、カンポンは様々な所得階層からなる。どんなカンポンでも低所得者と高所得者が共に住んでいて、土地や住宅の価格によって、階層が似通、先進諸国の住宅地とは異なっている。
第三に、カンポンは単なる住宅地ではなく、家内工業によって様々なものを造り出す機能をもっている。また、様々な商業活動がカンポンの生活を支えている。住工混合、住商混合がカンポンの特徴である。
第四に、カンポンの生活は極めて自律的である。経済的には都心に寄生する形ではあるが、生活自体は一定の範囲で簡潔している。
第五に、カンポンは、その立地によって、地域性をもつ。多様な構成は、地区によって異なり、それぞれの特性を形成している。
カンポンは、独自の特性をもった居住地といえるだろう。
英語のコンパウンドcompoundの語源は、実はカンポンである。オクスフォード英語辞典(OED)にそう説明されている。コンパウンドというと、インドなどにおける欧米人の邸宅・商館・公館などの、囲いをめぐらした敷地内, 構内、南アフリカの現地人労働者を収容する囲い地、鉱山労働者などの居住区域、捕虜や家畜などを収容する囲い地を指す。しかし、もともとはバタヴィアやマラッカの居住地がそう呼ばれていたのを、英国人がインド、アフリカでも用いだすのである。カンポン=コンパウンドが一般的に用いられ出すのは19世紀初頭であるが、カンポンが西欧世界と土着社会との接触がもとになって形成されたという事実は極めて興味深いことである。アジアは全般的に都市的集住の伝統は希薄なのである。
カンポンのような都市の居住地に対して、この間、各国で行われてきたのは、スラム・クリアランスによる西欧モデルの集合住宅の供給である。しかし、住宅供給は量的に足りず、価格が高くて低所得者向けのモデルとはならなかった。それぞれの生活様式と住宅形式が合わないのも決定的であった。それに対して大きな成果を上げたのは、上下水道、歩道など最小限のインフラストラクチャーを整備する居住環境整備である。イスラーム圏のすぐれた建築活動を表象するアガ・カーン賞が与えられたインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)がその代表である。また、コア・ハウス・プロジェクトなど、スケルトンだけを供給して、居住者自ら住居を完成させる、興味深い手法も試みられてきた。
しかし、アジアの大都市はさらなる人口増に悩みつつある。そこで各都市共通の課題となるのが、新しい都市型住居のプロトタイプである。カンポンのような都市村落の形態とは異なった、高密度の居住形態がそれぞれに求められているのである。カンポンに対しては、カンポン・ススンという、廊下(居間)、厨房、トイレなどを共用するコレクティブ・ハウス型集合住宅の提案がある。
イスラーム圏にはそれぞれに都市組織をつくる伝統がある。インドにはハヴェリ、中国には四合院という都市型住宅の伝統がある。また、ショップハウスの伝統は東南アジアに広がっている。そうした伝統をどう新しく引き継ぐかがテーマである。
2 都市遺産の継承と活用
植民都市としての起源をもつアジアの諸都市にとって、もうひとつ共通の課題となるのは、植民地期に形成された都市核の保存あるいは再開発の問題である。もともと都市の中心的機能を担っていた地区であるが、その機能をはるかに超える都市の膨張によって、再開発を余儀なくされる。また、新都心への移転が測られるのが一般的である。
そこで、都市核に残された植民地建築をどう評価するかがそれぞれに問われる。第二次世界大戦後に次々と独立、新たに形成された国民国家にとって、植民地時代は否定すべきものである。ボンベイ、マドラス、カルカッタといった世界史に名を残すインドの大都市が次々に改称され、各都市においても英領時代の通り名が混乱を厭わず改称されているのはナショナリズムの現れである。また実際にも変化は激しい。例えば、ガーデン・ハウスが建ち並んだかつてのカルカッタの中心地区、チョウリンギーは、超高層ビルやアパートが建ち並ぶ現代的な中心業務地区に転換しつつある。英国がつくったシンガポールや香港も、歴史的な街区への配慮はあるにしても、超高層の林立するアジアを代表する現代都市へと変貌している。オランダを宗主国としたインドネシアでも同じような事情がある。ジャカルタのコタ地区はかつてのバタヴィアの栄光を記憶する場所であり、オランダは保存復元を提案する。1619年から1949年(正確には1942年の日本占領)まで、330年、数多くのオランダ人が居住してきたのである。しかし、ジャカルタにとってコタ地区は今では必ずしも重要な地区ではない。日本植民地期に建てられたかつての朝鮮総督府である国立博物館を、戦後50周年を期に解体した韓国のような例もある。
一方、都市遺産の保存継承、活用を主張する動きもある。提案されるのは、相互遺産mutual heritage、あるいは両親(二つの血統)double parentageという理念である。300年もの植民地支配の過程は、それぞれの国の建築文化や都市の伝統に深く染み込んでいる。それはかけがえのないものとして評価すべきだという主張である。マニラのイントラムロスは見事に復元されている。インドでも、ムンバイのフォート地区などでは保存建物が指定されている。必ずしも大きな流れにはなっていないけれど、各都市に保存トラスト(INTACH)が組織され、チェンマイでも、歴史的遺産のリストアップは進められつつある。スリランカのゴール、北ルソンのヴィガンなど、世界文化遺産に登録された都市もある。続いてマレーシアのマラッカ、ペナンも世界遺産登録を準備しつつある。
植民地遺産の評価は、朝鮮総督府の例が示すように、政治的な問題に直結しうる。しかし、かつての日本植民地でも台湾のように総督府を大統領府として使い続けているケースもある。ニューデリーは、結果としてインド独立への最大の贈り物になった。遺産をどう活用していくかはケース・バイ・ケースである。いずれにせよ、都市核の保存継承か再開発かをめぐって問われているのは、それぞれの都市の今後の大きな方向である。
3.アジア都市の伝統
都市の歴史を大きく振り返る時,それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり,急激な都市化,都市膨張によって,「都市問題」が広範に引き起こされることになった。この「都市問題」にどう対処するのか,都市化の速度と都市の規模をどうコントロールするかが近代都市計画成立の背景であり,起源である。
「都市化」は,しかし,「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」,「過大都市化」と呼ばれる現象が,工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られるのである。結果として,世界中に出現したのは数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)である。
「発展途上地域」におけるそうした巨大都市は,ほとんど全て,西欧列強の植民都市としての起源,過去を持つ。「植民地化」の歴史が,巨大都市化の構造的要因となったことは明らかであろう。植民都市が支配―被支配の関係を媒介にすることにおいて,先進諸国とは異なった,「奇形的」な発展過程を導いたと考えられるのである。すなわち,「植民地化」もまた都市の歴史における極めて大きなインパクトである。
『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,2005年2月刊)で追及したのは,現代都市の構造,その孕む諸問題の遡源である。近代世界システムの成立と近代植民都市の建設は不可分である。
近代植民都市を可能にしたものは何か。造船技術であり,航海術であり,天文観測術であり,世界についての様々な知識である。要するに,通俗的な理解であるが,近代的科学技術である。
その一つが火器であり,それを用いた攻城法,また,それに対応する築城術である。都市の歴史において,遡って大きな画期となるのが,新しい火器,大砲の出現である。それ以前は,攻撃よりもむしろ防御の方が都市や城塞の形態を決定づけていた。
火薬そのものの発明は中国で行われ,イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたが,火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである。最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦である。もっとも,戦争で火器が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことで,決定的なのは,15世紀中頃からの攻城砲の出現である。
ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は,戦車,装甲車が考案され機動戦が展開された,ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱フス戦争(1419~1434)で,グラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が絶大な威力を発揮する。レコンキスタが完了した1492年は,クリストバル・コロン(コロンブス)がサン・サルバドル島に到達した年であり,コンキスタ(征服)が開始された年である。こうして火器による攻城戦の登場と西欧列強の海外進出は並行する。近代植民都市建設の直接的な道具となったのは火器なのである。
火器の誕生による新たな攻城法に対応する築城術とそれを背景とするルネサンスの理想都市計画は,西欧列強の海外進出とともに,「新大陸」やアジア,アフリカの輸出されていくことになるのである。
それでは,「西欧世界」が「火器」によって,「発見」「征服」していった「世界」における都市の伝統とはどのようなものであったのか。具体的に,アジアに固有の都市の伝統とは何か。西欧中心主義者は,ギリシャ・ローマの都市計画の伝統をルネサンスの理想都市計画に直属させ,さらに植民都市計画理論と近代都市計画理論を一直線につないで,「アジア(非西欧)」を顧慮するところがない。
今日の「世界」が「世界」として成立したのは,すなわち,「世界史」が誕生するのは,「西欧世界」によるいわゆる「地理上の発見」以降ではない。ユーラシア世界の全体をひとつのネットワークで繋いだのはモンゴル帝国である。火薬にしても,上記のように,もともと中国で「発明」され,イスラーム経由でヨーロッパにもたらされたのである。本書で触れたように,モンゴル帝国が広大なネットワークをユーラシアに張り巡らせる13世紀末になると,東南アジアでは,サンスクリット語を基礎とするインド起源の文化は衰え,上座部仏教を信奉するタイ族が有力となる。サンスクリット文明の衰退に決定的であったのはクビライ・カーン率いる大元ウルスの侵攻である。東南アジアにおける「タイの世紀」の表は「モンゴルの世紀」である。
こうして,本書が焦点を当てたヒンドゥー都市(インド都城)の系譜が浮かび上がるだろう。それを,チャクラヌガラ(あるいはマンダレー)という実在の都市に因んで「曼荼羅都市」と名づけたのである。
それでは,他の伝統はどうか。インド都城と対比しうる伝統として中国都城の伝統がある。本書でも,東南アジアの諸都市をめぐって二つを問題にしてきた。大元ウルスが,『周礼』孝工記をもとにして中国古来の都城理念に則って計画設計したのが大都(→北京)である。中国都城の理念が,朝鮮半島,日本,ベトナムなど周辺地域に大きな影響を及ぼしたことはいうまでもない。日本の都城は,その輸入によって成立したのである。
この中国都城の系譜を,ほとんど唯一,理念をそのまま実現したかに思われる大都に因んで,「大元都市」の系譜と仮に呼ぼう。「大元」とは,『易経』の「大いなる哉,乾元」からとったと言われる。「乾元」とは,天や宇宙,もしくはその原理を指す。
ユーラシア大陸を大きく見渡すと,こうして,都城の空間構造を宇宙の構造に見立てる二つの都市の伝統に対して,都市形態にコスモロジーカルな秩序を見いだせない地域がある。西アジアを中心とするいわゆるイスラーム圏である。少なくとも,もうひとつの都市の伝統,イスラーム都市の伝統を取り出しておく必要がある。具体的に焦点とすべきは,「ムガル(インド・イスラーム)都市」である。イスラーム都市の原理とヒンドゥー都市の原理はどのようにぶつかりあったのかが大きな手掛かりとなるからである。ムガルとはモンゴルの転訛である。ここでもモンゴルが絡む。モンゴル帝国は,その版図拡大の過程で,どのような都市の伝統に出会ったのか,13世紀の都市がテーマとなる。
4 地域の生態系に基づく都市建築システム
アジアに限らず世界中で問われるのは地球環境全体の問題である。エネルギー問題、資源問題、環境問題は、これからの都市と建築の方向を大きく規定することになる。
かつて、アジアの都市や建築は、それぞれの地域の生態系に基づいて固有のあり方をしていた。メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の大きな影響が地域にインパクトを与え、仏教建築、イスラーム建築、ヒンドゥー建築といった地域を超えた建築文化の系譜が地域を相互に結びつけてきたが、地域の生態系の枠組みは維持されてきたように見える。インダスの古代諸都市が滅亡したのは、森林伐採による生態系の大きな変化が原因であるという説がある。地球環境全体を考える時、かつての都市や建築のあり方に戻ることはありえないにしても、それに学ぶことはできる。世界中を同じような建築が覆うのではなく、一定の地域的まとまりを考える必要がある。国民国家の国境にとらわれず、地域の文化、生態、環境を踏まえてまとまりを考える世界単位論の展開がひとつのヒントである。建築や都市の物理的形態の問題としては、どの範囲でエネルギーや資源の循環系を考えるかがテーマとなる。
ひとつには地域計画レヴェルの問題がある。各国でニュータウン建設が進められているが、可能な限り、自立的な循環システムが求められる。20世紀において最も影響力をもった都市計画理念は田園都市である。アジアでも、田園都市計画はいくつか試みられてきた。しかし、田園都市も西欧諸国と同様、田園郊外を実現するにとどまった。というより、田園郊外を飲み込むほどの都市の爆発的膨張があった。大都市をどう再編するかはここでも大問題である。どの程度の規模において自立循環的なシステムが可能かは今後の問題であるけれど、ひとつの指針は、一個一個の建築においても循環的システムが必要ということである。
アジアにおいて大きな焦点になるのは中国、インドという超人口大国である。また、熱帯地域に都市人口が爆発的に増えることである。極めてわかりやすいのは、熱帯地域で冷房が一般的になったら、地球環境全体はどうなるか、ということがある。基本的に冷房の必要のないヨーロッパの国々では、暖房の効率化を考えればいいのであるが、熱帯では大問題である。米国や日本のような先進諸国では、自由に空調を使い、熱帯地域はこれまで通りでいい、というわけにはいかない。事実、アイスリンクをもつショッピング・センターなどが東南アジアの大都市ではつくられている。
しかし地球環境問題の重要性から、熱帯地域でも様々な建築システムの提案がなされつつある。いわゆるエコ・アーキテクチャーである。スラバヤ・エコ・ハウスもその試みのひとつである。自然光の利用、通風の工夫、緑化など当然の配慮に加えて、二重屋根の採用、椰子の繊維を断熱材に使うなどの地域産財利用、太陽電池、風力発電、井水利用の輻射冷房、雨水利用などがそこで考えられている。マレーシアのケン・ヤンなどは、冷房を使わない超高層ビルを設計している。現代の建築技術を如何に自然と調和させるかは、アジアに限らず、全世界共通の課題である。
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