既存不適格,現代のことば,京都新聞,19961224
既存不適格 11
布野修司
既存不適格。何となく嫌な言葉である。既に存在することがよくない、というのである。人間失格といったニュアンスがこの言葉にありはしないか。
法律が改正(改悪?)されたとする。以前の法律であれば適法であるが、条件が厳しくなって新法だと不法になる。新法は旧に遡って適用しないというのが法理論上の原則ということで、つくり出されるのが既存不適格である。
この既存不適格という言葉を一躍現代のことばにしたのは、阪神・淡路大震災である。新耐震基準導入以後の建物は比較的被害が少なかった。問題は、旧基準の既存不適格だった建造物である、という。あるいは、マンションが倒壊し、再建しようとすると元の通りには建てられない。建蔽(ぺい)率や容積率が厳しくなっていたためである。既存不適格建物に住んでいたことを震災にあって初めて知らされた人も少なくない。
既存不適格の建物をどうするのかということは、もちろん、震災以前から問題であった。しかし、公的な施策としてはほとんど手だてが講じられてこなかったように思う。再開発が必要とされる木造住宅密集地区、すなわち、既存不適格の建物が集中する地区は、合意形成に時間がかかり、都市開発における投資効果が少ないということで置き去りにされてきたのである。
既存不適格が問題であり、何らかの対応が必要とされていることは言うまでもない。しかし、既存不適格が問題だ、だからすぐにでも建て直す必要がある、ということではないだろう。不適格にもいろいろ次元がある。容積率の問題など都市計画次第である。既存不適格だから即建て直せ、という発想に対してはいささか違和感が残る。
例えば、京都の町家を考えてみる。古い町家が残る京都は日本一既存不適格の建造物が多い都市である。しかし、だからといって、京都が日本一既存不適格な都市ということになるであろうか。仮に、それを受け入れざるを得ないにしても、既存不適格などとレッテルを貼られない、もっと積極的なまちづくりの展開はありえないのか。防災の問題は、必ずしも、個々の建造物の強度の問題ではないであろう。その維持管理の仕組みを含めた社会的なシステムの構築こそが問題なのではないか。
逆説的に言えば、京都は既存不適格であるから京都らしいのである。あんまり誉められたことではないけれど、京都は全国的に見て違反建築も多いのだという。違反建築が多いのは既存不適格が多い現状ともしかすると関係があるのかもしれない。そこには全国一律の法律によっては統御されない原理がまだ生きていると言えるからである。建て替えによって全国一律の法律に従うことは、京都が京都らしくなくなることである。京都のジレンマである。
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