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2022年5月1日日曜日

百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

 百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

百年計画            

布野修司

 

 「奈良町百年計画」というプロジェクトに研究室みんなで参加したことがある。大学の研究室の他、建築家や企業の研究所など数グループが、決められた地区の百年後の姿を提案するのである。一種のコンペティション(設計競技)であるが、一等二等が決められるのではなく、それをもとにまちづくりについて議論しようというのである。

 求められたのは八〇〇分の一の縮尺の立体図である。畳二畳程の大きさになった。八〇〇分の一というと、住宅一軒一軒がどうなるのか描く必要がある。とにかく大変な作業であった。

 何故、百年計画なのか。都市計画というと、現実の柵(しがらみ)があって、なかなか思い切った提案ができない。しかし、単なる計画案(絵)を描くというのでは、それこそ画瓶だ。現実の条件を長い目で評価した上で、百年後の姿をできるだけリアル(と思えるように)に描いてみようというのである。

 百年後は誰も生きていないのだから、誰も正解を知らない。何も予測を競おうというのではないけれど、多少思い切った提案が可能ではないか、というねらいである。

 それに、自分の住宅が一軒一軒具体的に描かれるのだから、住民も無関心ではいられない。展覧会やシンポジウムを開いて議論する大きな材料になるのではないかという期待もあった。

 やってみるととても面白い。まず、現存するコンクリートの建物はすべて百年後には無くなっていると仮定できるのである。逆に、木造の町家は、建て替えによって更新していけばそのまま残っている可能性が高い。これは実に、奇妙な感覚であった。

 何が残り、何が残らないかという判断にまず計画理念が問われることになる。わが研究室は、奈良町=仏都、仏教の世界センターという基本コンセプトを軸にまとめたのであるが、各テーマはグループごとにさまざまである。まちづくりをそれこそ立体的に考える貴重な体験であった。

 理想的な計画案でも地獄絵でもない。百年後を想定するということは、逆算して五〇年後、二〇年後も問われることになる。逆に計画するやり方は、思考実験としてかなり有効ではないか、と思う。

 建都一二〇〇年を経過したばかりであるが、これを機会に、「建都一三〇〇年」の京都についても、百年計画を立ててみたらどうか。開発か保存か、といった二者択一の思考で判断停止するのではなく、地区ごとにその百年後の姿を詳細に描いてみるのである。もしかすると、後に続く世代へのそれは義務でもあるかもしれない。

 などというと気が重くなるのであるが、まちづくりのための議論のために、全国の自治体も気軽に百年計画を立ててみたらいいと思う。もっとも、作業は大変であり、とても気楽にとはいかないのであるが。

 


 

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