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2021年12月6日月曜日

青井哲人 群衆と祭典の空間 戦時下の神社境内: 歴史の渦の中で 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年6月号

 歴史の渦の中で  日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年6月号

群衆と祭典の空間 戦時下の神社境内


青井哲人(あおい・あきひと)

●都市生活の戦時体制

 『写真週報』という雑誌がある。1938年、内閣情報部により創刊され、1940年以降はこれを改組した内閣情報局が出していた。言論・マスコミの統制にあたった機関だ。要するに『写真週報』は、戦時下の国家が国民に提供した情宣グラフ誌だった。

 誌面を埋める記事と写真を眺めていると、そこには一種の遠近法ともいうべき構図が透けて見えてくる。まず、はるか彼方の戦線の光景。1944年といえば、3月に開始されたインパール作戦が7月に中止。すでに守勢に転じていた南方戦線も次々に米軍勝利に帰し、10月のレイテ沖開戦以降は米軍の本土直接攻撃と日本の絶望的抗戦という段階に突入する。にもかかかわらず『写真週報』は戦争を楽天的に伝えるほかなかった。それに対し、日常生活に直接かかわる記事が誌面をつくる一方の基調となっている。残飯を使った食用豚の飼育とか、芋の栽培方法などなど。

 しかし、223日付『毎日新聞』の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事に東条首相が激怒するといったお寒い状況にあって、国民一人一人のなかに日常と戦線とが直結しているのだという疑いなき「実感」をつくり出すのは難しかっただろう。だから、総動員体制を支えるこの「実感」をつくる何かが、遠近両極のあいだに位置づけられねばならなかった。それは、膨大な数の兵士や群衆を集めておこなわれる集団的儀礼、あるいは大衆祭典ともいうべき行事の数々だったろう。様々な訓練、集会、出征壮行会、国家的祭日など。『写真週報』の一枚一枚の写真はどこかコミカルな調子すら帯びているが、こうした遠近法に気づくと戦慄を覚える。では、建築や都市の状況はどうだったか。

 日常の極には、むろん住宅がある。たとえば燈火管制の問題。夜間に室内の光が漏れぬよう、縁側に雨戸をはめ、欄間にも何らかの覆いをするよう指導された(図3)。空襲警報発令時の行動マニュアルのなかには、障子や襖をすべて取り外す、とする項目がある。家族の避難行動をスムースにするためだ(図4)。これらはいずれも日本住宅の特徴を反映していて興味深い。

 一方には深刻な住宅不足があった。低コストの規格化住宅を大量に供給することが内外地にわたる共通の課題となり、その方法的特質は終戦後の住宅供給にもそのままつながっていく。

 他方、最前線はともかくとして、内外の要地には軍需工場や格納庫などの構造物が大量につくられ、女子や学徒も動員された。国民徴用令は1944年から朝鮮にも適用されている。37年からの鉄鋼使用の制限は都市景観を木造バラックに塗り替えていったが、軍需施設でもその大架構を木造トラスに頼らざるをえなくなった。44年には、建物疎開と称して、延焼防止の空地創出のために都市内の建物が強制的に撤去されはじめるが(これが戦後の大幅員街路になる)、その古材を使って木造架構をつくり、そのうえに土を被せて地下工場とする、などという何とも頼りない提案すら見られる(図5)。

 こうした住宅供給や工場建設、都市防災などが、建築学者の専らの研究課題となった。研究の多くには極端な視界の狭さと高度な技術主義とが共存していた★1

 そして、日常と戦争とを媒介する大衆祭典。明治以降整備されてきた公園や運動場が、群衆の劇場と化した。学園紛争を経験した世代の人々がいうように、空間とは、あるいはその規模とは、たしかに怖ろしいものなのかもしれない。

●戦時期の神社造営

 群衆を集める機能を担ったもうひとつの空間に、神社の境内がある(図1)。明治政府によって、神社はあらゆる宗教に超脱した国家祭祀としての地位を占め、国の管理下に置かれていた。しかし、大衆の身体に直接働きかけるという意味での実効的な機能を、国家が神社に期待していくようになるのは戦時期になってからであるといってよい。日本の総建設量が下降しはじめる頃から、神社の建設量はむしろ増大しはじめる。1937年は日中開戦の年でもあり、この頃から膨大な数の参列者を集めた神社祭典が活発化し、むしろ日常化していくのだが、それにふさわしい空間的しつらえをもった神社が、この頃から内外地で大量につくられるようになるのである。筆者が資料をもとに追跡した台湾・朝鮮では、両者をあわせた数で、37年から45年までの神社創建数は68。これは植民統治期全体の総数の実に45パーセントに及ぶ。さらに、それ以前につくられた神社の社殿や境内も、この頃からの機能的要請に応えられるよう、大々的に改築や整備がなされていくから、神社の建設量は戦中期に極度に肥大化したことになる★2。内地でも神社造営の活発化は同様であり、こうして戦中期に創建ないし改築整備された神社境内が、戦後に受け継がれるのである。

●群衆の空間、国民的イベント

 1940年代の建築家の足跡としては、わずかの実作の他にコンペや計画案の提示がある。丹下健三がデヴューを飾った「大東亜建設記念営造計画」も、神明造風の建物の前に膨大な数の大衆を集めるもので、それが戦後の広島の計画にもつながる。また当時建築家たちの創作意欲の数少ないはけ口となった各地の忠霊塔の場合も★3、あまり論じられないが、垂直のモニュメントの前には茫漠たる地面が拡がっていた。参列した兵士や大衆は塔を見つめただろうが、それは自分と同じようにその場を埋める無数の人々の頭越しにであった(図6)。

 もちろん神社でも、時局の影響は避けられず、資材や人夫に大きな不足が生じていた。しかし、そうした状況はむしろ大衆を巻き込む理由にすら転化された。この時期の神社造営では、日本国政府や各植民地総督府、あるいは地方庁などが国庫や地方費から総工費のいくらかを補助し、残りについては大々的に寄付を募るのが一般的だった。工事も、土地造成などに大衆の「勤労奉仕」が投入され、学校や役所もその組織的動員に協力した。こうしたプロセスそのものが、国ぐるみの、あるいは地方をあげての大イベントであったし、新聞もこうした勤労奉仕を美談として報じた。

●官僚技術者のモダニズム

 1944年時点でも、史上最大級といってよい神社造営事業が進行中だった。この点では国内より植民地の方が華々しく、創建では扶余神宮(朝鮮扶余)、関東神宮(関東州旅順)、改築では台湾神社(台湾台北)などが筆頭にあげられよう。これら三社はいずれも国家神道体制下の最高の格付にあたる官幣大社であったが、これにつぐ社格の造営事業はさらに多かった。三社のうち関東神宮は4410月に盛大な鎮座祭を挙行しているが、他の二社は完成にいたらず終戦を迎える。

 ここでは台湾神社の場合をみておく。この神社は元来、日本が初の海外植民地として台湾を獲得した際、その全島の守護神社として1901(明治34)年に創建されたものである。設計は平安神宮(1893年)の時と同じ伊東忠太と木子清敬(指導)のコンビで、武田五一も共同設計者であった。台北市街をのぞむ丘陵地の稜線上に、奥行き方向に細長い敷地をとり、これに伊勢神宮風の社殿が配置された。しかし1930年代も半ばを迎える頃になって改築計画が浮上する。境内は隣接する谷筋のなだらかで広い傾斜地へと移され、創建時とは全く異なる、横の拡がりをもった敷地がとられた。そこに大きな外部空間を組み込んだ新しいタイプの社殿および境内がつくられる。残念ながらその全体を示す写真がないが、すでに内地で1940(昭和15)年に竣工していた近江神宮(滋賀県)や橿原神宮(奈良県)がほぼ同様の空間構成を持つので参考に掲げよう(図7・8)。先にあげた関東神宮や扶余神宮も、大きくは同じ型に属す。

 台湾神社改築の工事は、日本人・台湾人民衆の勤労奉仕を大量に動員して、1944年秋までにほぼ完成をみる。ところが、遷座祭を数日後に控えて、旅客機の墜落により社殿を焼いてしまう。このニュースは内地にも伝えられたが、翌日の『朝日新聞』をみてもその扱いはまことに小さい。不吉な徴として忌避されたに違いない。

 ついに竣工することのなかった二代目台湾神社の設計は、台湾総督府の技術者たちによって行われた。伊東忠太の名も、創建時設計者への敬意からか、いちおう顧問格に並んでいる。しかし、実質的な指導者だったのは、神祇院(情報局設置と同じ1940年に、内務省から外局として独立)の造営課長、角南隆(1887-1980)だった。角南と彼の傘下の組織的コネクションがつくり出した神社については、その特質を論じたことがある★4

 まず機能主義。祭典にかかわる人々の動作がスムースに演出され、かつ膨大な参列者が祭典の成り行きの一切を見守れるよう、社殿と境内の空間構成が検討された。神社はいわば劇場として捉え直されたのである。この明確な目標の下で、プランの標準型とバリエーションが開発されていった。なお、戦時期には各府県や植民地で一斉に護国神社が整備されたが、これは神話上の神でも天皇・皇族でもなく、膨大な数の戦没者、つまり一般民衆を神として祀る神社であり、遺族や兵士など均質な群衆を数千人のオーダーで集めることが必要な施設であった。この護国神社には、「コ」字型平面で群衆を抱え込む、一種の標準プランが用意されていた(図1)。

 しかし一方で、神社は建てられる場所から自然に生え出たようなものであるべきだとする一種の自然(じねん)の論理を、角南は繰り返し主張した。実際には、地域の建築的特徴が調査・採取され、設計に積極的に採用された。

 角南の思想にあっては、こうした論理は海外にもまったく同じように延長されるべきものであった。プランは地域に左右されないが、たとえば満洲ならば鎮守の森など不要で、土の壁で囲まれた閉鎖的で構築的な社殿をたちあげ、防寒の設備を施し、凍り付いてしまう手水のかわりに清めの香を焚くのがよい、というのが角南の考えだった。実際には保守的な政府や軍部の賛同を得るのは容易でなかったようだが、朝鮮江原道に、社殿様式をことごとく朝鮮建築風とし、床にオンドルを用いたという江原神社(1942、図2)がつくられ、これは、扶余神宮(前出)など後続の神社の実験台として想定されていた。

 戦時下にこうした思想が官僚機構の内部に確立され、しかも実現に移されていたことは実に興味深い。これは従来ほとんど知られてこなかった事実と言ってよいが、40年代論のみならず、日本の近代建築史全体にとっても重い意味を持つのではないか。

 1944年といえば、浜口隆一のデヴュー論文「日本国民建築様式の問題」が発表された年でもある。浜口はこの論文のなかで、ウィーン学派の始祖アロイス・リーグルなどを参照しながら、西洋の構築的な建築のあり方から、日本本来の行為的な建築のあり方へと我々の「建築意欲」をシフトすべきだとした。人々の行為が自ずと規定し生成させていく空間。角南らの神社は、「行為的空間」に通ずる志向性を持ちながら、モニュメンタルな形式性を同時に求め、しかも具体的な建築がたちあがるプロセスには地域の特性があずかって力を発揮するべきだと考えた。機能性と形式性と、そして地域によって姿を変える驚くべき柔軟性。そのすべてを肯定する角南ら技術官僚たちの方法は、前川国男の「苦渋」をらくに飛び越えて新しく、強靱であり、むしろ若き丹下健三のそれに近かった。

●何が遺されたか

 さて、国家神道体制そのものは、GHQによって間もなく解体される。しかし表向き野に下った角南も神社界との結びつきを維持し、官民にわたる戦中期の彼のコネクションもほぼそのまま戦後に生き続ける。護国神社のプランも、戦没者の遺族という社会的集団が残る以上、そのコンセプトを改める必要はなく、むしろ戦後復興期には同じ方向で洗練すらされていく。

 一方、旧植民地に遺された神社境内はどうなったか。ごく一部の例外をのぞき、建築はやはり失われている。しかし、雛壇状の地形や石段、燈篭などが残るケースは意外に多く、脱植民地下の地域環境のなかで場所の機能や意味を転じている。それは、「植民地とは何だったのか」という問題に対する人類学的あるいは社会学的なアプローチの素材たりうる。いずれ機会をあらためてレポートしてみたい。

1 日本建築学会編『建築学の概観(19411945)』(日本学術振興会、1955)などが参考になる。

2 植民地の神社造営については、青井哲人『神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究-台湾・朝鮮を事例として-』(京都大学博士論文・私家版、2000年)を参照。

3 忠霊塔については、井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987)の検討を参照されたい。忠霊塔では設計競技そのものが国民的イベントとしてファッショ的宣伝効果を持ったことが指摘されている。また、本稿の冒頭にふれた戦時体制と建築のかかわりについても同書は示唆するところ多い。

            なお、少なくとも現時点では同書を踏まえずに40年代論を考えることは不可能だろう。ありうべき40年代論は、井上の帝冠様式-キッチュ論を抱え込んだうえで日本様式論を発展させるか、従来のような視野の狭い「建築家の軌跡」的史観を離れて40年代的テーマを多角的に掘り下げるしかないだろう。神社の問題は、その双方に接続する批評的なテーマたりうるように思われる。

4 青井哲人「角南隆-技術官僚の神域」(『建築文化』20001月号)

1 日本建築学会編『建築学の概観(19411945)』(日本学術振興会、1955)などが参考になる。

2 植民地の神社造営については、青井哲人『神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究-台湾・朝鮮を事例として-』(京都大学博士論文・私家版、2000年)を参照。

3 忠霊塔については、井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987)の検討を参照されたい。忠霊塔では設計競技そのものが国民的イベントとしてファッショ的宣伝効果を持ったことが指摘されている。また、本稿の冒頭にふれた戦時体制と建築のかかわりについても同書は示唆するところ多い。

            なお、少なくとも現時点では同書を踏まえずに40年代論を考えることは不可能だろう。ありうべき40年代論は、井上の帝冠様式-キッチュ論を抱え込んだうえで日本様式論を発展させるか、従来のような視野の狭い「建築家の軌跡」的史観を離れて40年代的テーマを多角的に掘り下げるしかないだろう。神社の問題は、その双方に接続する批評的なテーマたりうるように思われる。

4 青井哲人「角南隆-技術官僚の神域」(『建築文化』20001月号)

図版キャプション

図1 台湾護国神社の例祭

『台湾日日新報』より

図2 江原神社の神門・手水舎

『朝鮮と建築』より。木部を朱塗りとし、朝鮮瓦を葺いた。社務所にはオンドルが採用されたという。

図3 灯火管制マニュアルの一例

『写真週報』より

図4 空襲警報発令時の行動マニュアルの一例

『写真週報』より

図5 建物疎開古材を使った地下工場建設の提案

『写真週報』より。この後屋根を葺いてから、土を被せて地下工場とする。

図6 新京忠霊塔の大祭

『満洲の記録』(集英社、1995)より。満映フィルムの映像。茫漠たる空間を膨大な数の群衆が埋め尽くしている。

図7 近江神宮の境内平面図(一部)

『官幣大社近江神宮御造営写真帖』(1944)より。

図8 橿原神宮の境内


青井哲人

1970年生まれ。’92年、京都大学工学部建築学科卒業。95年、同大学院建築学専攻博士課程中退。神戸芸術工科大学助手を経て、現在日本学術振興会特別研究員、近畿大学・京都造形芸術大学・神戸芸術工科大学非常勤講師。

共著:「アジア建築研究」(村松伸監修、INAX出版)など。

論文:「神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究」(京都大学博士学位論文・私家版)など。

2021年12月5日日曜日

山田脇太 孤高の建築家あるいは虚構の建築家 - 白井晟一の視界 1941年 白井晟一 嶋中山荘

歴史の渦の中で  日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年3月 

孤高の建築家あるいは虚構の建築家 白井晟一の視界

1941年  白井晟一  嶋中山荘

 山田協太

1.曖昧な建築

嶋中山荘は軽井沢に中央公論社社長、嶋中雄作の別荘として建てられた。一面白の壁面を持ち上に茅葺屋根をのせた平屋寄棟造のつつましい作品であり、かわいらしい民家のように見える。しかし時は1941年。白壁はモダニズムをあらわす当時の先端だったことをふまえるならば、それがどうして茅葺民家風の造形とつながるというのだろうか。

内部のプランニングを見るとき、その困惑はいっそう増すことになる。民家型の外観とは裏腹に内部は和風の構成をとるでもなく、かといってモダニズムの直線を強調するプランニングでもない。洋室と和室がまさに詰め込まれたといった風情で配されている。各室は同じ縮尺とは思えないほど大きさがいびつで、室と室の境界はことごとくゆがめられている。ユーティリティーは北側の突起部に収まらずだらしなく主屋まで広がっているし、第一、木構造だというのに柱の立つラインが不明瞭である。嶋中山荘はモダニズムの建築ではないし、いわゆる日本の様式と呼べるようなものでもない。見ていてすっきりしないとらえどころのない建物である。茅葺と壁面の曲線を見て一番しっくりくるのはむしろ表現主義かもしれない。しかし、嶋中山荘では全体として単純な形態をとっているが各室が外観に表出することはなく、表現主義の主要な傾向ともいえる、内部の各要素を外観にそのまま表出させようとする意図は微塵も感じられない。嶋中山荘の持つ曖昧さは表現主義といってもうまく説明できない。嶋中山荘をとらえる鍵は一体どこに求められるのだろうか。その手がかりを戦前の白井の作歴に求めてみたい。

 

2.白井の住宅に遍在するもの

白井が初めて建築に携わったのは1935年、義兄近藤浩一路の住宅設計においてであった。当時白井は建築の本格的な修練を積んでいなかったため、住宅の設計は近藤の知りあいの建築家平尾敏也の支援のもと進められた。学生時代から、哲学や運動を通して政治と現実が結びつく場を求めてきた白井にとって、平尾を通じての建築との出会いは決定的なものとなった。以後、白井の建設現場への執着には驚くべきものがあり、建設の際に決まって現地にとどまり、現場の工事から建築を徹底的に学びとるという作業を繰返した。

平尾が英国式住宅の専門家であったため、その補佐を得て西洋式住宅として河村邸を完成させた白井は、二作目の歡歸荘(1937)でも西洋様式を基本とした建築に取り組んでいる。この住宅では奇妙なことに、小さなヴォリュームのなかに東側から順にレンガ造、木造の上から白壁塗り、木と白壁のハーフティンバーという3つの異なる様式が並列するかたちで結合されている。プランは1階が主に和室、2階が洋室であり、外観にあらわれる三つの様式は室の性格とは無関係に決められている。さらに和室がレンガ造の部分にあったり、1つの室が異なる様式にまたがるなどしており、内部と外観は連動していないことがわかる。細部に至っては奇妙な点を挙げればきりがないが、極めつけは北壁面にくりぬかれた、上部の屋根を変形させるほど巨大なアーチ窓であり、ここにいたって歡歸荘はもはや何の様式とは呼べないものとなっている。

振り返って河村邸について当時の雑誌※1を読んでみると「今迄の洋館とか日本館とか茶室とか云ふ純粋さはなく共「近藤浩一路氏を中心とした生活の家」として完全なものであると信じる。」と述べられており、玄関はレンガ造、主屋の他の部分は木造に白い大壁、それに木と白壁によるハーフティンバー造というふうに、この住宅もで何の様式というのではなくさまざまなつくりが折衷されていた。内部には障子が使われている部分や一部和室があるなど、こうした「日本館」的なものも「茶室」の手法も、「台所に於て朝食等簡単なる食堂に兼用さる」といった当時の文化的生活の場面を手がかりに「浩一路氏を中心とした生活」を主眼として組みあげられていた。

続く近藤浩一路旧邸(1940)で白井は一転して日本的な様式を採用する。しかし純粋に伝統的な日本の様式を採用するのではなく(そもそも純粋な日本の様式というもの自体疑わしいが)、大壁による大きな壁面やガラスの一枚板を用いた開口部の簡略化などに見られる簡明さの追求、構成要素の単純化はむしろ吉田の新興数寄屋の試み※2に近いといえる。そして全体が数寄屋風の外観をとりつつ内部には洋間が包摂されている。こうした日本様式とモダニズムを混ぜ合わせる試みは関根邸(1941)でも踏襲された。

1941年、嶋中山荘と同時期の清沢山荘では施主の要望が強く、思うように仕事ができたかは疑問だが、白井は大胆にも建物外観の東半分が構成主義的な雰囲気を持つ日本様式の漆喰真壁で西半分が彩色されたアメリカ風の板張壁という住宅をつくっている。構造的には分裂したまま、棟のずれにも頓着せずに白井はいとも簡単に2つの様式をつぎはぎしてみせる。プランを見ると、和風の外観を持つ部分の内部に板張りの書斎があるなどやはりここでも内部と外観とは一致していないのである。

こうした流れのなかで嶋中山荘はつくられたわけだが、今までの実作を振り返ると白井の住宅には共通して3つの特徴がみられる。1つには、白井は建築の内部と外観の関連に無頓着であるということ。2つ目は内部にしろ外観にしろ時代に関わらず様式というものの一貫性を重要視していないということ。そして最後に、建物はそれが使用された文脈を無視した、断片化した様式のつぎはぎからなるように見えるということである。

 

3.生活世界全体としての建築

しかし嶋中山荘を読み解くにはまだ手がかりが不足している。鍵は1956年に書かれた「豆腐」※3という文章にある。

その中で白井は、「かく「用」は「常」と善において一体となることを示唆する」と言う。

ここで「用」とは「体系をもって直接生活にとけている」ものであり、「常」とは「日々の生活」を指し、「善」は「永続性のある普遍な」原理といいかえることができる。多少乱暴にいうと、日々の生活に永続性のある普遍的な原理が見いだされるときにはじめて生活の中に直接とけている完全な体系=「用」が実現されるということである。「用」は美も機能も、論理もすべてをその体系の中に含みこむという。「用」とは生活世界全体を構成する体系そのものである。そして白井が「地方の建築」※4において「建築すなわち生活なのだから」というとき、それは直ちに、建築は日々の生活の中から普遍的な原理=「善」をすくい取ることによって生活世界全体を構成する体系=「用」となりうる、ということを意味する。そしてまた、「善」は頭ではとらえられず、「理性は不可欠でありながら、しかもつねに不十分」であり、「用」とはわずかに「経験と習慣を超え」たところにある「生活意志」にあらわれるのであるならば、いかにして建築を生活の中に直接とけている完全な体系=「用」たらしめることができるのだろうか。白井はそのことについてはっきりと述べてはいないが、白井が建築に取り組む姿勢、そこに顕著な現場への執拗なこだわりを見るにつけ、建築が「用」に到達できるとすればそれは「融通無碍の原型」たる日々の生活の現場から「生に順応する尺度」たる生活意志の幻影をすくい取りそれが普遍的原理に至る強度を持ちうるものであるのかを繰り返し試し続けるしかないように思われる。そして白井は言う「概念から逆算されるコンパス・モデュロールと異なり生活の意志は作為をかりず、「用」の中から純粋な均衡を生む」と。以上の観点を総合すると、これまでの住宅に共通して見られる3つの特徴の意味、白井の目指していたことが明確に理解される。白井が目指していたのは建築を生活世界全体を構成する体系=「用」と一体化させることであり、そのために有効なのは生活の中で「用」とかみ合う手段なのであって、様式を現実に照らすことなく演繹的に適用することは全く無意味なことであった。であるから白井の建築ではさまざまな様式が通常では考えられないような仕方で、易々とつなぎ合わされたわけである。白井は断片化された手段のつぎはぎによって建築のあらたな姿をつくり出そうとしていた。建築と「用」との同一化を成し遂げるために様式を一旦分解した後、有効と思われる手法のみを生活に即して統合しなおすことは白井にとって必然の過程であった。そして生活世界全体の体系化を使命とする建築にとって、外観(それは構造から導かれるものであり構造は内部を拘束する)とは生活世界たる建築をアプリオリに規定する無意味なものでしかなく、互いに「矛盾する両方の要求」をつなぎ合わせなければならない建築にとって内部と外観が一致することにいったいどのような整合性があるというのだろうか。

 

4.「用」への挑戦

嶋中山荘はそのような白井の建築観の一つの帰着点といえる。あらゆる活動に統制が加えられ先行きのわからない日々の中で、意を決して白井はモダニズムを民家風の容貌に託すことによりこれと日本的なものとの統合を果たし、建築による生活の全的体系化に挑んだのではないか。見方によっては、清沢山荘では和と洋の形式が水平に並置されたのに対し嶋中山荘においてはそれが垂直に積み重ねられていたといえるかもしれない。モダニズムの多くの建築家がプランニングの率直な表出による内部と外観の一致、直線によるプランニングのシャープさを追い求めていたのに対し、嶋中山荘における「箱形」、「白い壁」、「連続窓」といった表層的な要素だけが全く異なる文脈で民家の形態につぎはぎされ、サッシュの太さなどディティールの甘さも白で塗り隠せば大丈夫といわんばかりの造形を目のあたりにすると、思わず白井はどの程度モダニズムというものを理解していたのだろうかと愕然としてしまうが、歡歸荘で3種の西洋様式を平然と繋ぎあわせ、清沢山荘では日本の様式と西洋の様式を並置してみせる白井にとって、多少のディティールの甘さや文脈の無視など一体なんだというのであろうか。

嶋中山荘では外観はかつてないほど統一された形態を示し、一方プランニングも洋室、和室をはじめ、室同士の接続部が極端に肥大化することによって、相互の融着を果たしている。そして、それぞれの室が白井の思い入れに連動するかのように肥大化あるいは縮小化し、通常あり得ないような比率を見せながら相互の結合を促進し、内部を移行する者に一つの物語を感じさせる予感をはらむとき、そこからは白井が嶋中山荘にかけた明確な意志、「用」の無垢な原型である日々の生活=「常」の中から「用」の幻影を見いだすことによって生活世界を体系化しようとする決意が伝わってくる。白井は生活の中から普遍性を持って体系化された物語を紡ぎだそうとしていた。

しかし、一なる形態として明確な形を保ち続ける原理が内在していない限り、生活からすくいだされた幻影を詰め込むことによって肥大化あるいは縮小する室同士が融着してできる系では、それぞれの室は互いに自律性をもって変動し、全体としてはもはや制御不能に変形・膨張を繰返す他ない。形態を決定しているのは外形という枠をあたえる、民家風茅葺屋根と白い壁による外在の恣意的原理であり、白井は自身が育て上げた系を建築として現実の世界に定位するにあたって窮極において外からの原理に頼らざるを得なかったのである。嶋中山荘は内部からの膨張力と、それを封じ込める外部からの拘束力との衝突の上に生み出された、一つの統一された系としては成立し得ていないアンビバレントな存在である。嶋中山荘で白井に突きつけられたことは内部と外観の統一が図られない限り普遍的「用」には達し得ないということであり、白井は未だ内在的な統合の原理を持ち得ておらず、結局は自身が拒絶していると思っていた概念的な規定に頼って建築を形づくっていたということである。嶋中山荘は時代にせかされた、あまりに早産な子供であったのかもしれない。白井の試みは脆くも砕かれたのであるが、内部から膨張する生活世界は外観という建築を外から規定する最後の表皮にまで肉薄し、白井は嶋中山荘での矛盾によって自身に不足していた系全体を形成する普遍的な原理である、「善」たりうる内在的な秩序としての構成(構造を含み空間全体を組み立てる体系。モデュールと言い換えることもできるだろう。)を発見するのである。ここにおいて構成はアプリオリなものではなく生活世界全体とつながった内在的で普遍的な構成手法となった。戦後の白井の帰趨は『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』※5に詳しいが、戦後白井はまるで自由な手足を得たかのように、一連の住宅を通して構成を「善」として生活世界全体の体系たる「用」を検証・探求してゆく。「華道と建築 日本建築の伝統」※6において建築の構成自体を強調し、「日本の建築の仕事は構成そのものに美的効果を内在させることであり…」付け加えたものである装飾の意味と役割を要求していないと表明することによってその端緒を見せ、「試作小住宅」※7において自身が手がけた建築を、「この構造・衣裳を一体とする「システム」」と言いあらわすとき、1950年代前半の一連の小住宅で構成による「善」の獲得を確信した白井にもはや迷いはない。嶋中山荘は白井にとって重要な転換点であり、白井はその相矛盾する不安定な静寂の中で、外的規定によって建築を形成するという、自身に内面化された偽りの「善」を暴き、不完全な「用」を償却したのである。嶋中山荘には、白井の未だ自覚し得ない「用」の姿が眠っていた。

 

5.「用」は実現されたのか

白井は構成を手に入れることによって各要素を自覚的に結合して体系化する手法、いうなれば物語を建築に持ち込む手法を見いだした。そのような手法が建築界で一般化するのはポストモダンを待たねばならなかったことを考えるならば、白井と教条主義的なモダニズムを追求する当時の建築界の間に距離が生じるのはいわば必然であったといえる。白井が孤高の建築家と呼ばれる所以である。

しかしそれは白井が「用」に達し得たということとは別の話である。確かに戦後白井がつくり出す建築は破綻なく整っているが、同時に表現に切実さがなくなり、時に意図することが目につき付加的な操作と感じられる危ういものではなかったか。戦後‘孤高’という位置に据えられた、白井の「用」に対する姿勢には油断がなかったといえるのか。自覚的な体系化と「用」は紙一重であるが、恣意的な操作は「用」とは相容れないものである。そして「用」の理論によるならば、自覚的操作は生活世界に育まれたものであることによってのみ恣意性から脱し得るはずである。後の白井が生活世界から離れて日本的特質、伝統的なるもの、あるいは純粋・本質・根茎に対する探求の色を強めてゆくとき、それは果たして「用」へ向かっての表現の成熟であったのか、それとも恣意的な観念性に凝り固まってゆく自壊の過程であったのか。そこでは窮極において、戦後の白井とポストモダンの建築家とを隔てる違いは存在するのだろうか。これらの疑問は非常に興味深いものであり、その考察はまたの機会に試みたい。

  

※1『建築知識』(19365月号)近藤浩一路氏邸

※2数寄屋における近代的な簡明性の獲得を目標とした吉田は1935年に書かれた論文「近代数寄屋住宅と明朗性」で大壁を採用することによる構造と表現の分離を主張し、構造としての柱は壁のなかに隠し表現はもっぱら表の壁面でおこなう近代数寄屋の道を開いた。

※3「豆腐」『リビング・デザイン』(195610月号)

※4「地方の建築」『新建築』(19538月号)

※51998年、布野修司著。戦後の白井晟一、丹下健三、西山夘三、前川國男ら著名な建築家の動きを追うとともに、運動としての昭和建築の全貌を明らかにしようとする。自身の建築論をまとめた3部構成からなる著作の最終部。

※6「華道と建築 日本建築の伝統」(19525月)国学院大学華道学術講座における講演

※7「試作小住宅」『新建築』(19538月号) 

2021年12月4日土曜日

公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949年

 公営住宅の胎動建築士の誕生1949,歴史のうずの中で 空白の10年!?ー建築の1940年代,最終回,ひろば200112


 公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949

  

 1949年

 1949年は僕の生まれた年である。しかし、『仮面の告白』(三島由紀夫)の作者のような天才ではないから、生まれた年の記憶なぞない。年表をめくると、何の縁だか既に20年以上もつき合うことになったインドネシアが独立したのがこの年だ。インドネシアは817日が独立記念日である。西欧列強の植民地はそれぞれ独立へ向けて動き始めている。インド、パキスタンが分離独立したのが1947年、ビルマ共和国、セイロン自治国が成立したのが1948年だ。そして、この年、中華人民共和国が成立している。昭和24年生まれは中華人民共和国と同い年ということになる。また、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が分かれて成立したのがこの年で、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の分離成立は前年だ。翌1950年には朝鮮戦争が勃発する。北大西洋条約機構(NATO)が条約調印されたのが1949年である。世界は冷戦体制へ向けて、東西対立を決定的にしつつあった。

 日本では、敗戦から4年経たけれど、下山、三鷹、松川事件など列車転覆事故が相次いで起こり、世相は未だ騒然としていた。しかし、19463月から行われていた都会地への転入抑制制限がこの年11日解除されるなど、戦災復興は軌道に乗りつつあった。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、フジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍など明るい話題もある。法隆寺金堂の壁画が焼失したのがこの1949年であり、日本にも旧石器時代の存在を確認する岩宿遺跡(群馬県)が発見されたのがこの年である。

 

戦後住宅地の原風景

建築界は復興へ向けての助走を開始しつつあった。

まず、住宅の復興がある。3月、戸山ハイツ(東京・新宿)が竣工している。米軍兵舎用の払下げ資材による木造二戸一タイプ全1052戸の住宅団地だ。また、前年の東京都営高輪アパートについで、戦後、東京で二番目の鉄筋コンクリート(RC)造集合住宅、4階建て14棟の戸山ケ原アパートが竣工したのが8月である。この年の代表作を上げるとすれば、こうした公営住宅の胎動をまず上げるべきであろう。木造平屋の公営住宅は全国各地に建設され、戦後住宅地のひとつの原風景となった。





僕が育ったのはまさにこの1949年に建てられた公営住宅である。この我が公営住宅は増改築を繰り返して今日に至っている。当初は、4畳半に6畳、板の間に台所の最小限住宅で、風呂はなかった。ダイニング・キッチンを提案し、戦後日本の住宅モデルとなる1951年の公営住宅標準設計51C型の登場前である。物心ついた頃、父が庭先にセルフビルドで風呂場を建てるのを手伝った記憶がある。僕の住宅遍歴については、『住宅戦争』にさりげなく書いた[1]。つい最近も、「すまいの原風景は、都市を変えるか」と題したミニ・シンポジウム[2]に呼び出され、再び、自らの戦後住居史を振り返る機会があったが、四間取りの民家で生まれ、市営住宅、寮、下宿、アパート、民間マンション、公団住宅、官舎・・よくもまあ色んなタイプの住宅に住んできたなあ、と思う。しかし、なんともヴァリエーションがない、とも思う。戦後日本の貧しい住宅史を自ら身をもって体験してきたという実感がある。


 

全日本造船労働組合会館と新日本文学館



鉄筋コンクリート造のアパートが立ち始めたものの、多くの作品は木造である。清家清の「うさぎ幼稚園」(目黒区洗足)など木造のシェル屋根を使ってつくられた。基準などなく、実物大の模型で実験した上での建設であった。この連載で取り上げたMID同人によるプレモスも池辺陽ら一連の最小限住居も木造である。そうした中に、NAU(新日本建築家集団)による全日本造船労働組合会館(設計:今泉善一)がある。また、新日本文学館(設計:東京建築設計事務所)もこの年である。翌年の八幡製鉄労働組合会館(設計:池辺陽、今泉善一)もNAUのデザイン部会による。

戦前大森ギャング事件に連座したことで知られる今泉善一の全日本造船労働組合会館は、2階建て片流れ屋根の木造であるが、いかにも初々しいモダニズムを感じさせる瀟洒なデザインだ。前川国男・丹下健三の岸体育館(1941年)を思わせる。

 戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)については7月号で触れた[3]。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つことになる主要メンバーは参加している。丹下健三もまたNAUのメンバーであった。この大組織が一方で具体的な設計を展開したこと、また、それを目指そうとしていたことはあまり知られていないかもしれない。

 NAUの設計グループの流れは、「所懇」(建築事務所員懇談会、1952年)に受け継がれ、「五期会」の結成(1956年)に結びつくことになる。

 

 農村建築研究会

NAUを中心とする戦後の建築運動の評価、また、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』を中心とする戦後建築の指針をめぐっては他に譲ろう[4]。様々な綱領、スローガンは確認済みである。問題は、既に、戦後建築の初心がどう生きられたかである。

NAUは、1951年には活動を停止してしまう。関西に、NAUKがつくられ、さらにその流れを汲む「新日本技術者集団」が結成されるのであるが、NAUが結成まもなく崩壊したのは事実である。以降、NAUが孕んでいた方向は拡散して行ったと見ていい。もちろん、その背景には、GHQの圧力によるレッド・パージがあり、日本共産党内における路線対立があった。また、朝鮮特需によるビル・ブームが建築家の時間と関心を奪ったという見方も核心をついている。

ところで、この194912月にNAUの下部組織として「農村建築研究会」が設立されている。今和次郎、竹内芳太郎など戦前の民家研究の流れを踏まえながらも、若手研究者が中心となって活動を開始するのである。この研究会から、青木正夫、浦良一、持田照夫など多くの農村建築研究者や民家研究者が育っていくことになる。

戦後の公共建築の設計指針に大きな影響を及ぼすことになるLV(エル・ブイ Le Vendredi(金曜日)に由来する)(東京大学吉武研究室を中心とする研究会)が始動するのは翌年であり、研究者の運動は、建築研究団体連絡会の発足(1954年)に結びついていく。

この時機に何故「農村建築」か。戦後まもなく、日本の全人口の6割は農業人口であった。「山村工作」という日本共産党の革命戦略もその背景に指摘されるけれど、農村復興も大きな課題として意識されていたのである。

こうした農村への関心の流れの中で、例えば、稲垣栄三の「山村住居の成立根拠」が書かれる。農村の変化、その自立の根拠を見続ける眼が存在したことは記憶されていい。日本の戦後は、農村を蹂躙し、日本列島を大きく「土建屋国家」へと改造することになるのである。

 

建設業法の公布

この年の出来事でもうひとつ、建築界の基盤に関わるのが建設業の公布である。

建設業界もまた波乱万丈の1940年代であった。明治以降、殖産興業のための基盤整備によって成長を続けてきた建設産業は、第二次世界大戦によって決定的な打撃を受けた。建設投資は1938年にピークを迎え、以降減少し続ける。1940年代は右肩下がりの時代であった。

敗戦が建設業界に未曾有の大混乱をもたらしたことは言うまでもない。戦時中の建設ブームを支えていた軍施設工事の全面的停止による配給資材の闇ルート流出などの問題に加えて、戦災復旧の応急工事、進駐軍家族のための住宅団地建設、軍接収ビルの修理工事などの膨大な建設需要が混乱に拍車をかけた。ひとり建設業界の好景気に新規参入業者が相次いだ。「雨後の筍のごとく“建設業者”は誕生して、戦前から名の通った大業者を尻目に、俄仕立ての業者が数億円の工事を簡単に獲得するという事態も生まれた」(全建史)のである。1949年の『建設白書』によれば、194711月ごろの進駐軍住宅工事の常時入札参加者101社のうち47社が、また、19485月現在の建設業者472社のうち42.4パーセントの200社が、いずれも、1945年以後創業の新興建設業者で占められていたのである。

 そうした混乱状況にGHQによって建設業界の民主化要求が出される。戦時体制下の「建設工業統制組合」が「建設工業会」として改組発足(1947年)するのであるが、即閉鎖機関に指定される。とりわけ問題になったのは、建設業の親方制度、徒弟制度、下請制度である。GHQの担当官コレットは全国の現場を回り、手厳しい指摘を続けた。要するに、直傭制を執拗に求めたのである。これを「コレット旋風」という。

 そうした背景の中で成立したのが建設業法であった。NAUが「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」(綱領三)とうたい、丹下健三が論文[5]で、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあると書いていたように、建設業界の積年の課題は充分意識されていた。果たして戦後の建設業界はこの課題を克服し得たのであろうか。疑問なしとしない。

 

 建築士の誕生

 日本の建設業は、しかし、驚異的な復元力を示した。1950年代初めには戦前の経済水準を回復した日本の経済復興の進捗とともに、1955年までには戦前の水準を確保するのである。

1940年代から1950年への変わり目は、日本の近代建築史の流れにおいても大きな閾とみていい。そのいくつかの指標が、建設業の公布であり、翌年の、1919年以来の市街地建築物法を抜本改定する建築基準法の制定そして建築士法の制定である。とりわけ、建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的意味をもつことになる。

 近代日本における建築家の職能をめぐる歴史の詳細は他に譲るが[6]、歴史的な議論の果てに、職能法ではなく資格法として建築士法が成立したのである。

 1949年はまさにその決着がついた年である。争点は、戦前における、いわゆる「第六条問題」、兼業禁止をめぐる問題であった。西欧における建築家像を理念とし、職能(プロフェッション)の確立を支える法・制定を目指す、当時の日本建築士会が兼業の禁止を主張し続けたのは当然である。GHQのプレッシャーもあり、戦後の混乱を反映するように、議論は右へ左へと揺れ動いた。歴史に「たられば」はないにしろ、万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築家のあり方そして建築のあり方は大きく変わったということは出来る。建築士の公布は1950年の524日、施行が7月1日だから、1949年にはその決着はつけられたのである。

 

 おわりに

 当初、この連載を1950年代へ向けて2年間続けるつもりであったが、編集委員会の意向で打ち切られることになった。いささか残念である。

成功したかどうかは読者の判断に委ねられているが、一年一作品によって一月ごとに歴史を振り返る試みはアイディアとして面白いと今でも思う。

 もうひとつ、編集委員会との約束として、出来るだけ分かり易く、具体的な設計に即して書くという方針があった。可能な限り、これまであまり知られなかった作品を取り上げたい、という希望もあり、期待もあった。

 この希望と期待について、約束を果たし得たかというと、はっきりそうは言えない。監修者の怠慢といっていいが、新しい作品を充分に発掘し得たかどうかは疑問である。特に、関西圏から新たな発掘をという期待に答えることが出来なかった。

 それでも、と言い訳を二つお許し頂きたい。ひとつは、海外神社や防空壕など新たな視点で取り上げたものがあるということ。また、どの建築家のどの作品をどの年にとりあげるかの工夫もそれなりにしたつもりであること。実はこの組み合わせの妙が楽しい。ふたつめの言い訳は、そもそも1940年代には、残された、論ずるに足る作品が決定的に少ない、ということである。1950年代以降であれば、もっと組み合わせの妙が楽しめるであろう。

 若い書き手に期待したこともあって、分かり易く、という点については、編集委員各氏に度々研究室に足を運んでいただくことになった。誠に恐縮至極である。身近な書き手の原稿には全て眼を通し、書き直してもらった原稿もあり、監修者としては全体に自信はあるが、難しいと言われれば、そうかもしれない。編集部から、東京方面では存外評判がいい、と聞いたのが救いである。

 いずれにせよ、自前の足で,自前の写真で、設計する立場からという点については力不足であった。取材に関わる費用や時間については言うまい。見に行けるものが少なかったのである。編集委員会では、来年一年かけて1940年代を再度見直す方針である。以上の点をリカヴァーして頂けることと思う。連載の機会を与えて頂いた編集委員会には感謝したい。また、楽しみに読んでいただいた読者諸氏にはお礼を申し上げたい。

20世紀後半は既に教科書として書かれる時代に達しているのではないか。監修者としては、いつかどこかにまた機会があれば、同じ方式で、1950年代、60年代と続けて一冊の本をものしたいと思う。



[1] 拙著、『住宅戦争』、「第2章 欲望としての住まい」「3それぞれの住宅事情」、彰国社、1989年。

[2] 住宅総合研究財団『すまいろん』主催。陣内秀信、布野修司、中嶋節子。2001101日。

[3] 拙稿:戦後建築のゼロ地点:1945年8月15日:原爆ドーム、『ひろば』、2001年7月号

[4]  拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[5]  丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、194811月号

[6] 日本建築学会編:第12篇「職能」、『近代日本建築学発達史』、丸善、1972







2021年12月2日木曜日

大東亜建築様式  1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代

 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代,ひろば,200104


 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」

                                    布野修司

 

   太平洋戦争に突入した日本は、この年戦線を南方へと一気に拡大する。前年128日の真珠湾攻撃と英領マラヤ、コタ・バル奇襲作戦によって英米戦艦群に大打撃を与え、太平洋の制海権、制空権を掌握すると、1月2日マニラ、2月15日シンガポール、3月8日ラングーン、9日ジャワと破竹の勢いで占領する。6月のミッドウエイ海戦、8月のガダルカナル海戦以降、後退戦を強いられていくのだが戦況は伏せられた。占領地は次々に地図上で赤く塗られ、日本の領土がアジアに拡大していくイメージが共有された。11月、大東亜建設の遂行を目的とする大東亜省が発足する。大東亜共栄圏建設の理想が戦争遂行を支え、「欲しがりません勝つまでは」と国民意識が大いに昂揚したのが1942年である。

 この年建てられた伊東忠太の俳聖殿については既に触れた1。見るべき作品はそうない。坂倉準三の飯箸邸、今井兼次の航空碑、吉田五一八の青木邸などが数えられるのみだ。東京市内の大工がバラックの建設訓練を行い、各住戸の窓ガラスの補強検査や灯火管制時の住宅換気方法が問題になる時代である。いささか意外な気がするが、関門海底トンネルがこの年開通している。この年を代表する作品となると、やはり丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」案だろう。

 

 南方建築ブーム

 『新建築』は、2月号から「南方の建築」という連載を始める。また、「南方建設へ」というコラムを開始している。「泰国の寺院と塔 バンコック・アユチアの古寺」「浮屋と高床家屋のデテール・チェンマイの家」「アンコールの建築装飾・チャムの建築」「ジャワのボロブドウル仏蹟」「バリー島」といった記事だ。南方への戦線拡大が、南方建築への関心を沸き立たせたのがよくわかる。『建築世界』も7月号を南方建築特集号とし、9月号からは南方圏グラフを連載している。『建築と社会』には大東亜建設をめぐる記事は比較的少ないが、それでも「「南方事情を語る」座談会」(3月号)などが組まれている。

日本建築学会の『建築雑誌』は、大東亜建築グラフ(フィリピン篇8月号、マレー、スマトラ、ジャワ、バリ篇9月号)を掲げ、記事も南方建築、大東亜建設一辺倒の感がある。とりわけ9月号は「大東亜共栄圏に於ける建築様式」という座談会、大東亜共栄圏に於ける建築的建設に対する会員の要望(投稿及回答)を含め、「大東亜建築様式育成の一案」(年岡憲太郎)「大東亜建設の根本理念」(笹森巽)「大東亜建築の指導理念」(山田守)「南方共栄圏建設の構想」(大倉三郎)といった記事がずらっと並んでいる。この『建築雑誌』の「大東亜建築特集」は繰り返し読まれるべきだ。建築と政治、建築と国家、建築と民族・・・建築表現の根源に関るテーマが多くの建築家によって考えられ、語られている。最後に見よう。

 

「大東亜建設記念営造計画」コンペ

  全国民の眼が南方に注がれ、南方建築への関心がる中で、日本建築学会は大東亜建設委員会(佐野利器委員長)を設置する(3月)。そして、第16回建築学会展覧会を日本橋高島屋(11月4日~8日)を皮切りに、広島、福岡、大阪、名古屋の百貨店を巡回する形で行う。大東亜共栄圏の具体的な建設は建築家の任務である。展覧会は「恰も大東亜戦争の赫々たる戦果に伴って我国威が南方へ弥が上にも大発展を遂げた。この現実の問題に対し、建築技術を通じて大東亜共栄圏建設と云ふ曠古未曾有の鴻業に翼賛せんとするの意図を以て計画」されたのであった。

展覧会第1部のテーマは「南方建築」で、南方建設に携わるものが知悉すべき事柄として「一般統計」「気象統計」「宗教建築」「民家」「現代建築」という分類に従って展示がなされた。第2部は会員作品、そして、第3部が設計競技「大東亜建設記念営造計画」応募案の展示であった。

展覧会の背景、その意図は明らかであろう。設計競技を情報局が後援したのも翼賛体制確立のための情報宣伝活動の一環と見なしたからである。南方建設は具体的な課題としてあり、南方事情を探求する必要があった。そして、もうひとつ大きなテーマとされたのが大東亜の建築様式をどう考えるかであった。

設計競技は、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」のであれば「計画ノ規模、内容等ハ一切応募者の自由」であった。応募者の中には30枚を超える図面を提出したものもいる。審査委員長は佐藤武夫。審査委員は、今井兼次、川面隆三、岸田日出刀、蔵田周忠、谷口吉郎、土浦亀城、星野正一、堀口捨己、前川國男、村野藤吾、山田守、山脇巌、吉田哲郎。川面は情報局からの委員で、病欠の堀口とともに二日(10月6日、15日)とも審査に参加していない。最終審査には村野も参加していない。最初の審査で入選佳作圏内19、B級20、C級24が選別された。応募総数は63である。

丹下の一等当選案は、富士山を左肩に仰ぎ見る霞たなびく山麓に神域を描いた透視図でよく知られている。「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画:主として大東亜建設忠霊神域計画」というのが正式な名称だ。

 二等は、田中誠、道明栄次、佐世治正の「大東亜共栄圏建設大上海都心改造計画案」、三等は中善寺登喜次の「大東亜聖地の計画 富士山麓」、佳作に荒井龍三「民族の碑」、吉川清「忠霊の庭」、伊藤喜三郎、泉山武郎、金忠國「大東亜首都開門計画」、本城和彦、中田亮吉、薬師寺厚、小坂秀雄、佐藤亮「大東亜聖域計画」、百瀬保利「大東亜戦争記念祭典場」が入った。審査員の参考作品として、岸田日出刀の「靖国神社神域拡張並整備計画」、前川國男の「七洋の首都」、蔵田周忠の「或る町の忠霊塔」が展覧会に出品された。

 このコンペを含め戦前期の設計競技については井上章一の『戦時下日本の建築家』2が詳しい。井上の主張は、このコンペのこれまでの評価の否定(大衆性の欠如、時勢からの遊離)、丹下健三批判の不当性をめぐって執拗である。また、コンペの当落、建築におけるモダニズムとナショナリズムの抗争を学閥や学会内のミニポリティックス、正統と異端の葛藤を絡めて面白可笑しく書いて読ませる。この井上の論考については、「国家とポストモダン建築」3で触れた。ひとつだけ付け加えるとすると、坂倉準三、丹下健三というラインが何故モダニスト陣営から距離を置かれたかはもう少し掘り下げる必要がある。坂倉準三が事務所を拠点に国粋主義的文化人を組織し、西澤文隆らをマニラに送るなど具体的な文化工作運動を展開したことはこれまで必ずしも明らかにされていないのである。

 しかし、ここでの問題は丹下の応募案である。これをポストモダンの先駆けと見るか、モダニズムの挫折転向と見るかが争点である。後者が従来の見方であり、建築のポストモダンの時代に到ってその転倒を試みたのが井上である。

 入選佳作案をじっくり見よう。丹下健三案は確かに目立つ。ひとり切妻の大屋根を用い、しかも九本の鰹木風の突起がある。興味深いのは、ピラミッド状(四角錐台)のモニュメント案が二つある中で、丹下が「上昇する形、人を威圧する塊量、それらは我々とかかわりない」と書いて予め高塔形のモニュメント案を予想し、牽制していることである。「西欧の所謂「記念性」をもたなかったことこそ神国日本の大いなる光栄であり」「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓をもって。一すじの聖なる縄で囲むことに、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受取られた」と丹下は主旨に記している。

 

  金的の狙い打ち・・・見事に外された核心

審査委員長を務めた佐藤武夫によれば、第16回建築学会展覧会のスローガンは「日本国民建築様式の創造的探究」であった4。前川國男を始め、日本の建築家が真摯に問おうとしたのがこの主題である。浜口隆一の論考「国民建築様式の問題」5が戦前期の水準を示している。大きな焦点は明らかに前川國男である。彼はこの「大東亜建設記念営造計画」コンペに自ら「七洋の首都」と題する超高層ビルの林立する首都計画を示している。しかし、その前川が、翌年行われた(1031日締切)在盤谷日本文化会館コンペ(1944年発表)には丹下様の切妻和風建築で応募(2等入選)したのである。

この転換、あるいは転向についてはあまりにもよく知られているから省略しよう。審査委員長を務めた伊東忠太の、平安神宮以降の150を超える作品を見ると実に様々である。築地本願寺や俳聖殿はむしろ例外といえるかもしれない。伊東にとって建築様式は自らの外にあった。帝冠様式は断固退けたが、それぞれの様式は採用しえた。しかし、内なる様式の一貫性に拘ったのが前川國男を代表とする近代建築家たちである。木造建築であれば勾配屋根となるのは自然だ。屋根の在る無しは枝葉の問題だと前川は当時書いている6。しかし、在盤谷日本文化会館コンペには国際主義的な手法をもって応募したものもいたのだから、前川の転換が転向と写っても致しかたない。事実そう見られてきた。

「大東亜建設記念営造計画」コンペとの違いについて指摘しておくべきは三点である。これは実施コンペであったこと、「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とし、チークを主要軸部構築材とする木造建築であったこと、そして、審査委員会が文化勲章受賞者伊東忠太を委員長とし、横山大観ら芸術院会員ら建築関係者以外を含む構成であったことである。

前川は「第16回建築学会展覧会競技設計審査評」7で、「創造一般が伝統よりの創造であるという命題」を掲げた上で二つの誤謬を予め問題にしている。すなわち、擬古主義の誤謬と「日本建築の伝統精神と謂われる材料構造の忠実な表現に出発する構造主義的所謂「新建築」」の誤謬である。そして、丹下案をこの二つの「錯誤を比較的自然に避け得られる「幸福な場合」であった」という。具体的にはこうだ。「歴史に確認されたる形」である「木造神社建築の母型」を「拠り所」とするが、「聳え立つ千木」も「太敷立つ柱」もなく「勝男木」は天窓に変貌しており、単なる擬古主義ではない。「神社は木造に限るべきもの」という意見もあるが、「祭の形式」が国民的規模で行われる将来には棟高60mの神社も可能である。前川の不満は、丹下が神社建築そのものを対象としたことで「今日日本建築の造形的創造一般のはらむ普遍的な問題の核心も亦相當見事に外らされてゐる」ことにあった。また、敷地計画、都市計画の全体の問題点については妥当な指摘をしている。丹下は前年前川事務所の作品として岸体育館を完成させたばかりであった。前川には心底はぐらかされた思いがあったのだろう。

「よく申せば作者は賢明であった、悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせ此の作は金的の狙い打ちであった・・・」というのが有名な科白だ。

 

世界史的国民建築

   前川國男には「世界史的日本の建築的創造はまさに伝統の具体的把握によって、世界史的国民個性に鍛え上げられた建築家の実践によってのみ行はれる」という思いがあった。そして「此の事の中には日本伝統建築の創造的な復興の面と外来異質文明の摂取同化との二つの面のある事を否むわけには行くまいと思ふ」のである。前川についてここで詳細に触れる余裕はないが、そのキーワードは「ホンモノ建築」である8。「日本精神の伝統は結局は『ホンモノ』を愛する心」であり、重要なのは「一にも二にも原理の問題」9であった。

日本の近代建築史において繰り返し現れる「日本的なるもの」をめぐっては繰り返さないが、依然として今日の問題でもある。「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とする規定は風致地区指定や国立国定公園の建築規定、景観条例の中に潜んでいる。

 帝冠様式に代表される擬古主義を否定しながら、近代建築の理念につながる手法を日本建築の伝統的手法に見出す、あるいは日本建築の空間手法、建築的比例を近代建築の技術によって実現する、簡単に言えば、議論はこんなところに落ち着いてきた。しかし、問題は日本である。前川の言う「世界史的国民建築」とは何か。「外来異質文明の摂取同化」に関るのが「大東亜建築様式」をめぐる議論である。

 『建築雑誌』の「大東亜建築特集」の中には実に多様な回答がある10。建築は「其地方の住民即ち土民に対して」「其地方が自国の勢力下にあることを具体的に表示する象徴」であるという伊藤述史(「大東亜共栄圏の建築形式」)は、神社風、寺院風、欧州風の三つが並存するなかで「大東亜式建築を考究し特別形式を案出したい」という。山田守は「創造的進化」という。堀口捨己は「大東亜共栄圏では日本様式でありたいと誰もが思っている」が、「日本様式とはどう云うことかということになりますと」「大きな多くの問題がある」という。佐藤武夫は「欧米の直接の継承」でもなく「一時流行しました国際的な共通のものを目指しても居ない」といって「日本の過去の造形文化の遺産をそのまま復古しようと言ふものでもない」、「大東亜共栄圏内に独自な一つの新しい造形文化を創造していこう」という。「神様の表現」「神様の建築」をしようと紙がかった発言をするのが谷口吉郎である。

 そして、丹下健三の解答はこうだ。

 「神の如く神厳にして簡頚、巨人の如く雄渾にして荘重なる新日本建築様式が創造されねばならぬ。英米文化は勿論、南方民族の既成の文化を無視するがよい。アンコール・ワットに感歎することは好事家の仕事である。我々は日本民族の伝統と将来に確固たる自信をもつことから出発する。さうして新しい日本建築様式の確立は、大東亜建設の必然と至上命令に己を空しうした建築家の自由なる創造の賜として與えられる。」

 そして、その表現が「大東亜建設忠霊神域計画」であった。

 

1  拙稿、「強迫観念としての屋根」、hiroba2001年1月号

2 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995

3 拙著、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998

4 佐藤武夫、「競技設計の審査所感」、『建築雑誌』,194212月号

5 浜口隆一、『新建築』,1944

6   前川國男、「1937年巴里萬国博日本館計画所感」、『国際建築』、1936年9月号(『前川國男文集』、而立書房、1996年所収)

7 『建築雑誌』、1942年12月号

8 拙文、「Mr.建築家 前川國男」、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』所収、彰国社、1998

9 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、193611月号

10 拙稿、「近代日本の建築とアジア」、『布野修司建築論集Ⅰ 廃墟とバラック』、彰国社、1998






2021年12月1日水曜日

強迫観念としての屋根 歴史のうずの中で❶ 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代

歴史のうずの中で  日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代,ひろば,200101

 

強迫観念としての屋根

布野修司

 

 はじめに

 21世紀である。

 新たな世紀を展望するために、この1年かけて、歴史を振り返ってみよう。

 京都グランドヴィジョン・コンペ(1998年)に「京の遺伝子」という面白い提案があった。京都に遷都が決まった794年から順に1年に起こったことを想い起こす。1ヶ月に1年を想い起こすとすると、1年で12年振り返ることができる。21世紀にかけて、100年で1200年分の遺伝子を確認しようというプログラムである。

 それに倣ってみよう。とりあえず、この1年で10年を振り返るのはどうか。焦点を当てるのは1940年代だ。

 日本の近代建築は、一般には、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(1920年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す1930年代後半にかけて成立したとされる。

 しかし、それに続く1940年代には、未だ語られないことが多い。焦点を当てる大きな理由だ。60年というのは還暦である。1930年代は、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』*[1]で振り返ったことがある。その確認によれば、1940年代には今日につながる重要な問題が隠されているという予感がある*[2]

 

 書かれた歴史

 1940年代は、日本の近代建築の歴史の「空白の10年」と言われる。その前半は太平洋戦争のために、その後半は敗戦による混乱のために、ほとんど建設活動が行われなかったからである。日本の建設活動(建設投資)は1938(昭和13)年にピークを迎え、以降下降し、戦前期の水準を回復するのは戦後の1953年頃である。

 しかし、全く建設活動が停止したわけではない。建築雑誌を振り返ってみると細々とではあれ作品は発表し続けられている。空白というのは嘘である。

 「空白の10年」には別の理由がある。「空白」とする、ある意思が働いてきた。戦後を全く新たな出発と見なす「戦後民主主義」のイデオロギーにとって、戦前期は暗い、否定すべき過去なのである。

 日本の近代建築の歴史を初めて体系的に書いた稲垣栄三の『日本の近代建築』*[3]の最終章は「一五 合理主義の方向転換」と題されている。

 「戦争が逼迫するにつれて、建築家自身のなかに近代建築の造形に対する深刻な疑問が萌しはじめた。・・・近代建築をささえるものがそれを標榜する建築家だけとなり、建築家が完全に孤立したとき、これまで近代建築のたどってきた道は一挙に崩壊したのである。」*[4]

 日本の近代建築は、稲垣によれば、戦争によって奇形化し、その道は崩壊した、のである。そして、引き合いに出されるのが「大東亜建設記念営造計画」(19429月)と「在盤谷日本文化会館」(19439月)という二つの設計競技である。いずれも「戦後建築」をリードすることになる丹下健三が一等当選を果たした。

 「もはやかつて前川らの推進しようとした近代主義----国際建築という名のコスモポリタンな造形は認めることができない。多かれ少なかれ、日本や東洋の建築の歴史的な様式が復活し、全体もしくは部分をおおうようになっていた。ここに現れた作品の群は、近代建築の信条をむりやりねじまげた苦渋の姿である。」*[5]

 日本の近代建築の成立の過程は、こうして、しばしば前川國男の軌跡に即して語られる。

 一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けた。この過程が、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。

 しかし、その栄光の歴史は1940年代に入って挫折する。もっともらしく語られてきた物語はこうだ。敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(1937年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペ案は、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。


 排泄物=キッチュとしての帝冠様式

 こうして、日本の近代建築は定着した途端に挫折したことになる。確かに奇妙な歴史のエアポケットだ。1940年代は、あるべき歴史の不在であり、挫折であり、奇形化であり、方向転換である。

 1960年代末から70年代にかけて極めて明快に近代建築批判を展開したのが長谷川堯である。彼は、「昭和建築」=近代合理主義の建築と規定し、それに先行する「大正建築」を再評価する構えを採った*[6]。しかし、困ったのが昭和戦前期の建築である。「建築の「昭和」の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「「昭和建築」を戦後建築に顕著な合理性に基づく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、ひとつのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」からである。

 そこで長谷川がひねりだしたのが「排泄物」理論だ。「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義運動のなかで、特にそれが後発工業資本主義国において展開するとき、ある歴史的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか。」

 こうして1940年代の大きなテーマは、「歴史様式」あるいは「帝冠様式」の評価である。フラット・ルーフvs帝冠様式(あるいは勾配屋根)という対立構図は確かにわかりやすい。

 「帝冠様式」はもともと「帝冠併合式」という。下田菊太郎が帝国議事堂の競技設計(1918年)において具体的に提示し、自ら命名した建築様式が「帝冠併合式」である。簡単には、躯体は西欧式、屋根は日本の伝統建築、社寺仏閣の様式を併用する様式だ。より一般的に、架構形式とは別に屋根の形だけを考える様式、もう少しストレートに、鉄筋コンクリート造のラーメン構造の躯体に切妻や寄せ棟など勾配屋根を王冠のように載せる様式を「帝冠様式」という。

 この「帝冠併合様式」についての近代建築家、当時の新興建築家の評価は低い、というか無視に等しきものであった。既に、大正期はじめから虚偽構造(シャム・コンストラクション)の是非をめぐる議論があり、構造と意匠を別に考える立場は批判されている。構造は素直に表現する、という近代建築の理念にとって「帝冠併合式」は受け入れがたいものであった。にもかかわらず、前川圀男ですら「勾配屋根」を採用するに至った。だから敗北であり、挫折である、というわけだ。長谷川堯も、「排泄物」にすぎないと言い切った。

 ところがこの「帝冠様式」を日本の近代建築史の流れのなかに「正当に」位置づけようとしたのが井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク---大東亜のポストモダン』である*[7]。「帝冠様式」の建築は、競技設計のみ追っかけてみても、明治神宮宝物殿(1915)、日清生命保険会社(1916)などをはしりとして、神奈川県庁舎(1928年)、名古屋市庁舎、日本生命館、軍人会館(1930年)、東京帝室博物館(1931年)、日本万博建国記念会館(1937年)・・・と続く。井上は、「帝冠様式」の問題を軸に、忠霊塔(1939年)と大東亜記念営造計画(1942年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(1943年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題としている。建築の1940年代の問題を正面から取り上げた書物は、そう他にはない*[8]

  井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないことなどである。要するに「帝冠様式」はキッチュであって、ことさらファシズム体制と結び付ける必要はない、というのである。「大東亜のポストモダン」というサブタイトルが暗示するように、この一書はポストモダンの建築が喧伝されるなかで書かれた。戦時体制下における帝冠様式をポストモダン建築の源流とさえいう。

 帝冠様式は日本ファシズムの建築様式である、という暗黙のテーゼを転倒する意識のみが透けて見え、戦時下における建築表現への強制力(「屋根の強制力」といってもいい)についての過小評価が気になってコメントしたことがある*[9]。いたくお気に召さなかったらしい。そのコメントについての批判は、復刻された『戦時下日本の建築家』のあとがきに長々と書かれている。

  ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはこれまで指摘されてきている。しかし、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないだろう。戦時下、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」*[10]を書いて、日本の近代建築の孕んだ問題を指摘していたことはよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているのである。記念建造物や市庁舎建築のデザインを単にキッチュといってすまされるのか。また、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。といったところがコメントの真意だ。

 

 俳聖殿 

 こうして予め大きな問題を確認できる。「帝冠様式」の問題は現代でも決して無視し得ない問題だ。発展途上国には「帝冠様式」もどきの建築を数多く見ることができる。否、ポストモダン建築を賞揚した先進諸国にも「帝冠様式」もどきの建築は跋扈している。

 そして、屋根の問題は完全に今日的テーマだ。景観問題が大きくクローズアップされるなかで、屋根の形態を規制する動きが方々で見られる。公共建築の競技設計に勾配屋根を条件とする例もある。屋根のシンボリズムはわかりやすいが故に力をもつ。地域の、町のアイデンティティの表現として、伝統的建築の形を模すやり口は至る所にある。

 建築の問題は決して屋根の問題、様式(スタイル)につきるわけではない。前川國男も「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」*[11]とはっきり書いているのである。

 日本の近代建築史は、あまりにも様式史に偏している。日本の近代建築の大きな問題は、木造建築をフラットルーフにしたように(「白い家」)、近代建築の理念をまずスタイルとしてのみ導入したところにある。様式選択史観は捨てた方がいい。幸か不幸か、建築のポストモダニズムが全てを白紙還元してくれた。

 1940年代の建築として、これまで全く注目されてこなかったひとつの作品をあげよう。伊東忠太が設計指導した俳聖殿である。松尾芭蕉の生誕300年を記念して、川崎克が私財を投じて、出身地の三重県上野市に建設した八角二層の木造建築だ(194292日竣工)。余談であるが、川崎は西洋建築の席巻を憂え、伊賀上野城を再建した人物である。

 異形の屋根は編笠をイメージした、という。キッチュと言えばキッチュだ。しかし、帝冠様式とは言わないだろう。俳聖殿は、日本の近代建築史の流れのなかにどう位置づけられるのか。少なくとも、フラットルーフvs帝冠様式といった構図とは異なった系譜が必要とされるのではないか。

 伊東忠太(1867-1954)の数多くの作品には様々な様式があり、いくつかの系列が認められる。様式が外にあるか、内にあるか、という区別をすれば、すなわち様式を選択すべきものと考えるか一貫すべきものと考えるかを区別するとすれば、伊東にとって様式は外にあったと言えるかもしれない。しかし、この俳聖殿や築地本願寺のような作品は単純にそうとは言い切れないのではないか。インド・サラセン建築の影響を受けたJ.コンドルのいくつかの作品にしてもそうだが、西欧の建築文化とは別の脈絡をアジアに求めたのが伊東忠太である。彼の進化主義なるものは再度検討されていい。伊東忠太を軸に日本の近代建築史を読み直すとするとどうなるのか。

 伊東忠太が建築界で初めて文化勲章を受けたのは、俳聖殿が竣工した翌年(1943年)のことだ。 


 俳聖殿 伊東忠太 194292日竣工 三重県上野市

 

*1 同時代建築研究会編、現代企画室、1981

*2 同時代建築研究会 「国家と様式 一九四〇年代の建築と文化」、『建築文化』、19849月号

*3 SD選書、鹿島出版会、1979年。初版、丸善、1959年。

*4 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p368-369

*5 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p369-371

*6 長谷川堯、「大正建築の史的素描」、『建築雑誌』、1970年1月号、『神殿か獄舎か』所収。

*7  青土社、1987年、『戦時下日本の建築家』、朝日選書、1995

*8 西山卯三の『戦争と建築』頸草書房、1983年があるぐらいである。

*9 拙稿、「国家とポストモダニズム建築」、『建築文化』、19844月号、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年所収

*10 『新建築』、1944年。

*11 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、19369月号