このブログを検索

ラベル 1991 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1991 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年8月12日土曜日

2023年7月29日土曜日

女性と建築,周縁から66,産経新聞文化欄,産経新聞,19910128

 女性と建築,周縁から66,産経新聞文化欄,産経新聞,19910128

 66 女性と建築             布野修司

 

 女性の建設労働者がこの間話題になっている。男女雇用機会均等法と現場の労働者不足を背景にしてのことだ。女性の鉄筋工のチームをつくったある工務店は応募者が殺到しているのだという。

  女性は建設現場には向かないというのが定説であったが、実際やってみるとそうでもない。作業能率は男性にまさるともおとらない。現場の機械化で、力仕事が必ずしもいらなくなったせいだ。大型クレーンを自在に扱う女性オペレーターも出現し始めている。実に格好いい。

 女性が現場に入り出すことによって現場は変わりつつある。まず、現場がきれいになる、喧嘩が減る、無茶が減って事故が少なくなる、そんな変化はすぐに現れるのだという。現場の魅力がないのは、現場の環境が快適でないことも大きいのである。

 労働者不足問題の解決を、外部にもとめること、すなわち、これまで現場の戦力と考えられなかった外国人や高齢者に期待することはいささか安易である。女性についてもそうだ。労働者不足の問題は、もう少し本質的である。問題の本質は若い人たちの新規参入であり、出生率が低下する中で、職人不足の問題は構造的だからである。

 しかし、労働者不足の問題と離れて、女性の建築界への進出はもっと歓迎されていい。もともと大学の建築学科は工学部のなかでは女子学生の数が多いのであるが、各大学ともこのところいっそう増えつつある。好ましい傾向だ。住まいの設計を考えても、女性の視点は欠かすことはできないのである。

 しかし、例えば、女流建築家というとまだまだ少ない。女性の社会進出を阻む一般的な社会環境に加えて現場が女性を排除してきたからである。数が少ないから、特定の女流建築家には光があたるのであるが、女性が建築界で活躍する裾野は全体的にみるとまだ狭い。建築界は、ここでも二重、三重に閉じているのである。




2023年7月28日金曜日

東京フロンティア,周縁から65,産経新聞文化欄,産経新聞,19910121

 東京フロンティア,周縁から65,産経新聞文化欄,産経新聞,19910121

65 東京フロンティア            布野修司

 

 さしもの不動産マネーブームも終息しつつあるのであろうか。不動産による財テクに走った企業の倒産が目立ちはじめている。しかし、一方、必ずしも予断を許さないという見方も依然として根強い。骨抜きになったかにみえる土地保有税案がなにやら暗示的である。

 そうした中で注目されるのが「東京フロンティア」である。東京湾のまん中、東京テレポートタウンを主会場として、一九九四年に開かれる博覧会である。「世界都市博」として構想されたものだ。

 二一世紀の世界都市にふさわしい開かれた都市像を都民及び国の内外に示すこと、快適性と利便性の高い開発を進め、早急に東京の抱える課題の解決に役立てること、世界の英知を集め、人間と技術と自然が融合した都市フロンティアのモデルを示すこと、その成果を内外の諸都市に発信し、世界の都市問題の解決と未来都市の形成に貢献することを目的にうたう。

 その目的や壮大である。その目的が実現するとすればすばらしいに違いない。しかし、まてよと思う。まず、何故、博覧会なのか。問題は二百日程度の博覧会でお茶を濁してすむようなことではないはずだ。もし、すばらしい未来の都市像が示しうるのであれば、むしろ、東京そのものがモデルとなるようなそうした方向を示すべきではないのか。

 東京フロンティアというのもいささか興味深い。何故なら、東京がその発展のフロンティアを失いつつあることが背景にあるからである。東京のウオーターフロントが主会場とされるのもまさにそうだし、大深度の地下や超々高層の開発が主題になるのもそうだ。未来の都市を語る場合、いつまでも同じようにフロンティアを求める発想で果していいのか。

 しかし、こうした危惧を並べてもはじまらないだろう。新年の夢にもふさわしくない。しかし、もう少し、「東京フロンティア」をめぐって議論が巻き起こっていい。東京問題にはみんなもうしらけっぱなしなのだろうか。



2023年7月27日木曜日

違反建築,周縁から64,産経新聞文化欄,産経新聞,19910107

 違反建築,周縁から64,産経新聞文化欄,産経新聞,19910107


 64 駅前再開発              布野修司

 

 普段よく利用するJRの駅の駅前に違反建築がある。気づかない人も多いのであるが、建築基準法の用途地域制を知っている専門家であればすぐわかる。容積率および建ぺい率違反だ。通りかかる度に釈然としない。

 問題は、まず、その駅前が、駅前であるにも関わらず第一種住居専用地域ということにある。その駅ができたのは七三年のことだが、再開発を見越しての乱開発を避けるために市当局は用途地域を変更しなかったのである。

 それにも関わらず、スーパーなどが入る明らかに違反の二つのビルが建てられたのは何故か。建主にもおそらく言い分がある。駅前だから商業地域であってもおかしくない、いずれ用途地域が変更されるのであれば、先に建てたっていいではないか、ということなのであろう。

 しかし、違反は違反だ。建築基準法がザル法といわれてもしかたがない。実はこんなケースは多いのだ。何故、違反が黙認されているのか。駅前全体に再開発構想があるからである。皮肉なことに、その違反建築の隣に市の駅前周辺整備室があることから窺える。再開発をめぐって、もう随分もめているのである。再開発後に用途変更されれば違法性はなくなる。難しいところだ。

 これまたよく利用するとなりの駅の再開発も遅々として進まない。駅前の混雑が誰の眼にも明らかなのに、そのケースは何人かの地権者のゴネ得ねらいがみえみえだ。駅前の再開発はどこでも難しい。権利変換がスムースにいかないのだ。

 駅前という空間は、極めて公共性の高い空間である。単なる商業空間ではない。駅前が同じ様な表情につくられるのは、私の利益のみの追求がその背後にあるからかもしれない。それにしても、私利私欲のために再開発が遅れるとすればいささか不愉快だ。違反建築を毎日のように見ながら、釈然としない気分になるのは、駅前の一等地に対するやっかみもあるかもしれない。


2023年6月11日日曜日

難波和彦著 建築的無意識 書評、産経新聞、19910528

難波和彦著 建築的無意識 書評

                布野修司

 

 先端技術(ハイテクノロジー)を積極的に用い、表現しようとする建築をハイテック・スタイルの建築という。ポストモダンのデザインと言えば、様式や装飾の復活を唱う歴史主義的なデザインが主流となってきたのであるが、ハイテック・スタイルもその一翼を占めている。しかし、ハイテック・スタイルといっても、それこそスタイルだけ、形態だけがもてはやされてきただけのような気がしないでもない。世にばっこするのは、きらきらと金属パネルを多用しただけの「ハイテック」風・デザインである。

 著者は、そうした風潮を批判しながら、建築とテクノロジーの関係を基本的に問おうとする。建築生産の技術、設計計画の技術、生活環境の技術と、いくつかの回路について考察が深められるのであるが、著者の力点は、感性や意識、あるいは身体のありようとテクノロジーの関係に置かれているようにみえる。SF映画と建築をめぐる論考が生き生きしている。

 「建築的無意識」というのは、無意識が言語によって構造化されているように、空間やモノによっても構造化されているという前提に基づいた著者の造語である。建築と人間との相互作用のシステムを深層において明らかにし、設計計画の方法論として展開するのが著者のプログラムである。

 極くわずかな例外を除いて、建築家の書く文章はわかりにくいとよく言われる。文章の能力はそれぞれのものとして、どうも、専門の枠の内に議論を閉じる癖があるのである。あるいは、建設の仕事に追われて忙しく、あまり考える暇がないのを糊塗するために、ことさら難しく書くという説もある。

 そうした建築論が氾濫する中で、本書はいささか趣を異にする。決してわかりやすいというのではないけれど、建築とテクノロジーの関係を真摯に考え抜こうとした本だ。好感がもてる。

 



 

2022年12月4日日曜日

第一回出雲建築展・シンポジウム,雑木林の世界28,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199112

 第一回出雲建築展・シンポジウム,雑木林の世界28,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199112

雑木林の世界28

第一回出雲建築展・シンポジウム

                        布野修司

 

 京都はまだ右も左もわからない。当り前である。

 研究室で雑用をしていると、全建連の吉沢健さんから電話が入る。京都府にも建築技能者養成のプログラムがあるから宜しくとのこと。一時間もしないうちに、京都府建築工業協同組合の専務理事、高瀬嘉一郎さんが部屋にお見えになった。心底驚いた。日本は狭い。短い時間であったけれど、少しは京都の職人さんの世界のことを教えて頂いた。

 「京都の景観保存というけれど、町家や社寺仏閣を建て、維持修理する職人がいなくなったらどうなるのか」

 「京都で職人が育たなくなったら、全国どこでも駄目なんじゃないか」

 いちいちうなづいた。京都でも建築技能者養成のプログラムが開始される。「木の文化研究センター」構想と連動する可能性もあるという。楽しみなことである。

 また、過日、京都府建設業協会を訪ねた。サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の国際シンポジウムのために「ユニフォーム」をお借りするためにである。

 全く知らなかったのだけれど、京都府建設業協会では、もう三年も前から、「SAYプロジェクト」を実施中である「SAY」とは、ストレート・トゥー・ザ・ヤングの略だ。建設現場のイメージアップのために、作業服のデザインを公募し、実際入選作を制作した上でファッション・ショーを行うなど大キャンペーンを展開中なのである。多くの力作を応募したのは高校生である。何故、現場が魅力がないか、どうすればいいか、をめぐって先生と高校生が討議したCDもつくられていた。プロジェクトのビデオを見せて頂いたのであるが、熱気に圧倒されるようであった。古都に、全国に先駆けて新しい動きが起こっているのである。

 とにかく学ぶことは多いのだ。そんな中、「布野修司関西移住歓迎会」(十月一八日)などという本人にとって気恥ずかしくなるような会を開いて頂いた。そんな厚かましい態度をいつもしているのであろうか。どうせ、酒の肴と思うものの、照れくさい。随分と盛会であった。今をときめく高松伸との対談というスタイルが効を奏したのであろう。アトラクションは、実際、高松先生のワンマンショーのようであった。高松伸と僕とは、すぐ後で触れるように、出雲出身で同郷である。同郷のよしみで一肌脱いでくれたのである。

 とにかく、多くの人に会った。東孝光、有村桂子、安藤忠雄、磯野英生、遠藤剛生、柏木浩一、京極迪宏、久保田晃、重村力、永田祐三、鳴海邦磧、人長信昭、平山明義、本多友常、山崎泰孝、渡辺豊和、・・・デザイナー、建築家が多かったのかもしれない。とにかく大変なネットワークで、感謝感激である。実に心強い。

 

 ところで、「出雲建築フォーラム」については、本欄(「雑木林の世界ー9」 一九九〇年五月号)で触れたことがある。その最後はこう締めくくられている。

「・・・・とりあえず、神有月に全国から建築家たちが出雲へ参集する、そんなフォーラムのプログラムでも考えてみようかと、出雲の仲間達と考えはじめたところだ。」

 その後、どうなったか。自分でもびっくりするほどだ。あっという間に「出雲建築フォーラム(IAF)」が組織され、第一回出雲建築展が催されるに至ったのである。

 出雲建築フォーラムは、設立趣旨に次のようにいう。

 「豊かな建築文化を目指し、「出雲」に住む、あるいは「出雲」出身の、さらには「出雲」になんらかの縁のある建築家、評論家、建築愛好家により、「出雲」の都市、建築、住まい・街を考える出雲建築フォーラムを設立する。古代、「出雲」は、大和とは異なるもう一つの文化圏として、また中国、朝鮮からの文化の受け皿として、「日本文化の原点」たる役割をもっていた地域である。出雲建築フォーラムの設立は、環境問題、都市問題が痛切に叫ばれる現代日本において、町づくり、地域開発等、建築が関わる問題を原点に立ち返って考える試みであり、同時に「出雲」の「町起こし」、「地域起こし」である。「地方の時代」といわれて久しいが、現実には多くの地方都市で「開発」の名のもとに東京のコピー化が進んでいるばかりである。また、建築界に目をやれば、景観保存、伝統建築の存在を無視した建築ラッシュが続いている感がある。このような現状を見据え、出雲建築フォーラムは、伝統文化、伝統建築、景観保存の問題を踏まえながら、各自の研讃を積み地方都市創生のあり方に一石を投じる場とする計画である。

 ※「出雲」とは、地域としての出雲の国であると同時に、「大和」に対するもう一つの日本文化の発祥地としての「出雲」でもある。具体的地域としては「石見」を含む「島根」、さらに「鳥取」を含めた「山陰」までの地域的広がりを持たせる。」

 出雲出身の建築評論家、長谷川尭さんにも喜んで賛同して頂いた。また、出雲建築展の審査委員長も務めて頂くことになった。

 出雲建築展というアイディアは、高松伸の発案になる。展覧会を毎年(今のところ二年に一回の予定?)開催していくことにおいて、出雲の建築文化を考える恒常的な場にしたい、地域の建築家にとっても、出雲で仕事をする建築家にとっても、共通の場をつくりたい、というのが目的である。

 第一回のテーマは、「出雲の建築的表現」である。いささか抽象的である。一回目と言うことで、少し、構えすぎたかも知れない。「出雲」というときの建築的イメージはなにかを考えてみようということである。大社造りの巨大木造建築、荒神谷の青銅器、玉鋼の鉄の文化、歌舞伎の発祥等々、「出雲」はどのようにイメージされるか、そしてどう建築的に表現されるか、最初のテーマとしたのである。賞金百万円も用意された。大変な組織力である。

 十月一二日には、審査会(審査委員 長谷川尭、藤間享、和田嘉宥、高松伸、布野修司)が行われた。展覧会は一一月三日~四日、元JR出雲大社駅駅舎(赤字ローカル線というので廃止されたが、和風のユニークな駅舎)で開かれた。相田武文、菊竹清訓、渡辺豊和、毛綱毅曠、山崎泰孝、高松伸、新居千秋、竹山聖、宇野求といった招待作家も、力作を寄せてくれ、大いに盛り上がった。また、一一月四日には、表彰式とシンポジウムが出雲大社社務所で賑やかに開かれた。

 「大和建築」に対して、「出雲建築」というものが果して考えられるか。出雲に独自の空間のあり方、自然と人間との独自の関わり、スケール感覚等々が果してあるのか。なかなかに興味深い。僕自身色々と突き詰めて考えてみたいことがでてくる、そんな刺激的なシンポジウムであった。毎年、神在月が楽しみである。

 





 

 


2022年12月3日土曜日

茨城ハウジング・アカデミ-,雑木林の世界27,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199111

 茨城ハウジング・アカデミ-,雑木林の世界27,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199111

雑木林の世界27

茨城ハウジングアカデミー

                        布野修司

 

 九月一日付けで京都大学に転勤となった。不思議な縁である。東洋大学には本当にお世話になり、育てていただいたのであるが、「面白いから行ってこい」と追い出された次第である。それほど気負いはなく、行ってみるか、の心境である。

 京都は一九九四年に建都千二百年を迎える。それを記念する事業の一環として京都駅が建て替えられる。そのコンペは、知られるように原広司案が一等当選、その高さをめぐって大きな議論が巻き起こりつつある。この間の再開発ブームで、町は急速に変化した。古都の景観問題は大きな問題であり続けている。難しそうだけれど、面白そうではある。

 出雲生まれの田舎者にとって、京都は京都であって、所詮他所者である。他所者の眼で京都の町もウオッチングして行こうと思う。そのうち、何かゴソゴソやりたくなるかもしれない。この半年は単身赴任で、東京と京都を行ったり来たりである。まだ、三度往復しただけで、何も報告することはないのであるが、いずれ京都や関西の様々な動きも紹介して行くことになろう。乞う、御期待である。

 以前、本欄で書いた(雑木林の世界14「カンポンの世界」 一九九一年十月)『カンポンの世界』(パルコ出版 九〇年七月)がようやく上梓の運びとなった。書き出したのが、昨年の八月だから、丁度一年である。まあ、早く出来た方ではないか。本をつくる過程を結構楽しんだ。

 その『カンポンの世界』を書くきっかけになった、スラバヤ工科大学のJ.シラス先生がこのほど日本住宅協会の国際居住年記念松下賞(第四回)を受賞された(十月四日)。実に嬉しい。久しぶりに会って、議論をした。相変わらず精力的で鋭い。いい先生に巡り会えてつくづく良かったと思う。

 

 京都へ赴任して、一度東京京都を往復した後、茨城へ赴いた。九月一一日。日本住宅木材技術センターの技能者養成プログラムのためである。茨木の「地域職人学校」(雑木林の世界12「地域職人学校ーーー茨城県地域木造住宅供給基本計画」 九〇年八月)もいよいよスタートである。名称は、まだ確定してはいないのであるが、仮に、「茨木ハウジングアカデミー」と称す。京都からだと水戸も遠くなるのであるが、折角の縁なので、可能な限りお手伝いしようと思っている。

 二百名もの高校生の前で話すのは難しい。一体何を話せば茨木ハウジングアカデミーの魅力を訴えられるか全く自信が無かった。僕のは、日本で初めての試みである、日本中が注目している、という一点だけをただただ強調するだけの気の抜けたアジテーションとなった。現場で何かを見ながら、しながらというのなら、もう少しなんとかなるのにと思いながら、そうもいかない。来年に向けてはプロモーション・ビデオをつくる必要があるかもしれない。

 僕のことはともかく、日本住宅木材技術センターの征矢さんはじめ、懸命になって木造住宅の魅力について訴えることになった。

 藤澤好一 「木造住宅の技術と生産について」

 谷 卓郎 「木造住宅の技術者について」

 布野修司 「木造住宅のデザインについて」

 安藤邦広 「木造住宅の技術とデザイン」

 以上が主なプログラムであったが、メインは、安藤邦広先生のスライド・レクチャーである。一度の研修では無理があろうが、木造住宅を自分の手でつくる楽しみが少しでも伝わればとの思いであった。

 「茨木ハウジングアカデミー」は、職業訓練大学の谷卓郎委員長を中心に来年四月開校を目指して急ピッチで準備作業を進めることになる。とりあえず、高卒者を対象にした認定職業訓練校を目指すのであるが、なかなか準備が難しい。幸いに「中小企業若年建設技能労働者育成援助事業」ということで労働省の補助がついたのであるが、それに従えばおよそ以下のような検討項目がある。

 A.職業能力開発実施のために必要な準備事業

  a.建設技能者育成方針の策定事業

      1.建設技能者育成推進委員会の開催

   2.各企業のニーズ調査

   3.情報収集(先端企業視察)

   4.建設技能者育成方針の策定

     ・職業訓練実施方針

     ・施設及び設備の整備方針、運営方針

   5.各企業のニーズ調査結果及び実施方針説明会の開催 

  b.建設技能者育成実施計画作成事業

      1.建設技能者育成推進委員会の開催

   2.職業訓練実施計画の策定

     ・対象者、訓練期間、教材、訓練時間、訓練カリキュラム、指導員、試験

   3.職業訓練施設、設備の整備計画の策定

     ・名称、所在地、面積、設備の構造、設備の内容及び規模

   4.職業訓練設備運営計画書の策定

     ・訓練開始後二ケ年の運営収支計画

   5.実施計画報告書説明会の開催 

  c.建設技能者育成実施準備事業

   1.職業能力開発推進者研修会の開催

   2.職業訓練指導員及び外部講師名簿の作成

   3.職業訓練マニュアルの作成

   4.職業訓練指導員及び担当者の研修会の作成

 B.認定職業訓練のプログラム

     ・括弧内は茨木ハウジングセンターの内容)

  a.訓練科目(養成訓練建築科)

  b.訓練課程(普通課程)

  c.対象者(高校卒業者)

  d.訓練内容(木造住宅技能者の育成)

  e.訓練期間(二年間)

  f.訓練時間(三二〇〇時間) 

  g.定員(一六人)

 随分と面倒臭い。しかし、既に三年の蓄積があるので、基本方針はほぼ固まっている。問題は具体化へ向けての実施計画である。それも多くは既にクリアしつつあるのであるが、最大の問題は、施設、設備である。どうせなら、どこにもない魅力的なものをつくりたい。しかし、いきなりはそうはいかないから、いろいろ工夫がいるのだ。続いて問題なのが指導員である。座学はなんとかなるにしても、OJTを担当するのにも資格がいる。しかし、なんとかスタートできる、そんな自信が茨城県木造住宅センターの推進グループとともに沸きつつある。







 

 


2022年11月29日火曜日

涸沼合宿SSF,雑木林の世界26,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199110

 涸沼合宿SSF,雑木林の世界26,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199110

雑木林の世界26

涸沼合宿SSF 

                        布野修司

 

 八月二三日から二四日にかけて、茨城県の涸沼(ひぬま)へSSF(サイトスペシャルズ・フォーラム)の合宿のために出かけた。涸沼といっても知らない人も多いのかもしれないが、水戸から大洗鹿島線で四つめの駅が涸沼だ。電車で二〇分程、車で三〇分程であろうか。茨城町、旭村、大洗町にまたがる小さな湖である。大洗海岸へ通じでて太平洋へ至る。真水と塩水が混じり合い、蜆(しじみ)が採れる。川の幸と海の幸を嗜める絶好の地だ。

 涸沼へは二度目であった。最初訪れた時から親近感がある。同じように真水と海水が混じり合う、宍道湖と中海をつなぐ大橋川のほとりで育ったからである。大橋川というのは、時に右から左に流れ、時に左から右に流れる世にも不思議な川なのだが、大橋川は知らなくても宍道湖はご存じであろう。七珍味、中でも蜆は有名な筈だ。宍道湖の淡水化反対の理由のひとつは蜆が採れなくなるというものであった。関東へ送られる幼蜆というか種蜆の大半は宍道湖のものである。涸沼は宍道湖よりもちろん小規模なのだが、なんとなく雰囲気が似てもいるのだ。

 さて、SSFの涸沼合宿の目的とは何か。「職人大学」、「SSA(サイト・スペシャルズ・アカデミー)」の構想を煮つめようというのである。内田祥哉理事長以下、総参加人数二八名*1の大合宿となった。大合宿というのは人数だけではない。現地視察の後、夕食をはさんで前後四時間に及ぶ大議論は、真に合宿の名に値するものであった。

 藤澤好一SSFアカデミーセンター長によって用意された、当面の検討内容は以下のようであった。

 

 ①名称と形態 サイト・スペシャルズ・アカデミー(仮)

  当面は制約のない業界自前の機関として、自由で新しい育成方針を確立する。将来展望のある魅力的でユニークなものとする。「職人大学」という「大学」名に拘る必要はないのではないか。近い将来大学そのものの機能が危ぶまれる。

 ②設立運営主体

  設立運営の主体となる組織、SSA教育振興財団(仮)の検討。設立のための調査、交渉、調整、手続きなどを担当する設立準備委員会を早急に設立する。

 ③用地の確保

  適切な設置場所の選定。用地の確保。最低二万平方㍍は必要か。用地確保の時期、資金、財団への委譲手順の検討。

 ④施設配置計画

  教育研修施設、SSネットワークセンター、実習施設、研究開発施設、宿泊施設、リクリエーション施設等の検討

 ⑤研修課程と年限 入学定員と募集方法

  例えば、以下のような構成案についての検討。

  初期課程(高卒 二年課程)   一〇〇名

  専攻課程(実務五年 一年課程)  五〇名

  特別課程(実務十年 一年課程)  二五名

 ⑥学科

  例えば、以下のような二学科で開校してはどうか。

  a専門技術学科・伝統技能学科

  bサイトマネジメント学科

 ⑦修了者の処遇、資格

  公的な資格取得より、業界内で資格を設定し、価値あるものとしていく方向を検討する。

 ⑧ネットワークの構築

  国内外の関連施設(例えば、筑波研究学園都市)との提携、大学、研究機関との交流、教育スタッフ、学生の交換、既往の養成機関との連携などの検討。

 

 多岐にわたる検討内容を大まかに整理すれば、「職人大学」の内容をどうするか、用地をどう考えるか、財源をどうするか、という三つのテーマとなる。いずれも大きな課題である。前半部の司会を務めさせられたのであるが、いきなり問題となったのは、財源の問題であった。

 財源の問題がはっきりしないと全ては絵に描いた餅である。いきなり、財源の問題に議論が集中したのは参加者の真剣さを示していよう。職人の養成、結構、職人の社会的地位の向上、大賛成、しかし、お金は出せない、出したくない、というのがこの業界の常なのである。

 一体幾らかかるのか。内容とも関係するのであるが、みんなプロである。およそ検討はつく。プロが自力建設でやれば、相当安くつく筈だ。建設の過程を実習にすればいい、集まった資金でやれる範囲で施設をつくっていけばいいのではないか、等々色々なアイディアも出て来る。

 資金について議論の焦点となるのは、本当に自前で資金を用意できるかどうかということである。また一方で、サブコンだけでなく、ゼネコンにも協力を求めるべきではないか、結局ゼネコンにとっても重要な課題なのだから、という意見もでる。SSFは、主旨に賛同するあらゆる人や組織に開かれたフォーラムであるから、もちろんゼネコン(に限らずあらゆる機関)を排除しようということはもとよりないのであるが、やはりゼネコンの手を借りなきゃ、という意見と、どうせなら自前でやろうという意見が交差するのである。

 また、広く賛助金を募るためには、建設省など、公的機関のお墨付きが欲しいという意見がある。建設省が支援すれば、ゼネコンもお金が出しやすいし、沢山基金も集まるのではないか、という意見である。それに対しては、お墨付けをもらうといろんな制約が出て来るのではないか、という意見もある。

 内容についても、一方で、初期養成を中心にすべきだという意見と、もっと高度な機関にしたい、という意見がある。これについては、初期養成も無視しないけれど、全国の養成教育機関の拠点になるような高度な内容としたいということでまとまりつつあるところだ。問題は、そうした実力をSSFがもてるかどうかである。

 用地については、様々な意見がでた。さすがプロ集団である。引続き調査検討することになった。懇親会で深夜まで続いた議論で、最初期のイメージが出てきたように思う。早速、計画書の作成にかからなければならない。一一月初旬には、SSFのメンバーで、ドイツのマイスター制度を視察にいく。その旅行において、設立趣意書がまとめられることになっている。

 

 

*1 主要な参加理事は次の通り。小野辰雄(日綜産業、副理事長)、田中文男(真木 運営委員長)、斉藤充(皆栄建設)、入月一好(入月建設)、藤田利憲(藤田工務店)、曽根原徹三(ソネコー)、青木利光(金子架設工業)、黒沼等(越智建材)、上田隆(山崎建設)、富田重勝(内田工務店)、今井義雄(鈴木工務店)、深沢秀義(西和工務店)、伊藤弘(椿井組)、辰巳裕史(日刊建設工業新聞社)、田尻裕彦(彰国社)、安藤正雄、藤澤好一、布野修司