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2021年12月29日水曜日

労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義

 労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義,望星,東海教育研究所,199012 (布野修司建築論集Ⅱ収録))山谷労働者福祉会館の竣工


労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義

                           布野修司



 

 山谷労働者福祉会館が一〇月一三日竣工した。建設に関わった多くの仲間たちが集まり、盛大な宴(落成祝い)が夜遅くまで開かれたのであった。翌、一四日には、日本キリスト教団日本堤伝導所としての献堂式(けんどうしき)も行なわれた。建設の母体となった日本キリスト教団関係者をはじめ、カンパした人びと、釜ケ崎や名古屋の笹島の仲間たちも駆けつけて完成を祝った。その竣工は、奇跡に近い。

 鉄筋コンクリート造、地上三階建てで、延床面積は百坪に足りない。超高層の林立する大都市のなかでは、ささやかな建物にすぎないかもしれない。しかし、その建設に込められた思いはとてつもなく大きい。一階には、医務室と食堂が置かれている。二階には、多目的の広間と事務スペース、相談室、三階には、宿泊もできる和室、印刷室、図書室などが配される。屋上は、休憩スペースである。夏には屋上ビアガーデンともなる。期待される機能の割にスペースが足りないのはいかんともしがたいが、福祉活動、医療活動など労働者のための多彩な活動の拠点として構想されたのが山谷労働者福祉会館である。

 一見、ただの建物ではない。手作りの不思議な味がある。ファサードは、A.ガウディーには及ばないけれど、砕いたタイルで奇妙な文様が描かれている。みんなでひとつひとつ張りつけたのである。また、ファサードには、様々なお面が取り付けられている。笠原さんという女性彫刻家の作品で、人物にはそれぞれモデルがある。山谷の人たちだ。さらに、みんなが思い思いのメッセージを刻んで焼いた瓦がところどころに使われている。カンパを募って開いたコンサートのときに粘土に描いて、淡路島の山田脩二さんのところで焼いたものである。

 山谷に労働者のための会館を建設しようという話が出て、募金活動が始められたのは三年ほど前のことである。山谷に自前の労働者会館を建設するというのは、もともとは、映画「山谷(やま)ーーやられたらやりかえせ」を撮影制作中に虐殺された(一九八六年一月)山岡強一氏の発想であった。その遺志をついで山谷労働者福祉会館設立準備会が設立されたのである。完成された山谷労働者会館のエントランス上部には、一対のお面が掲げられている。山谷に住む夫婦のレリーフなのであるが、山岡氏と同じく虐殺された(一九八四年一二月)映画監督佐藤満夫氏を祈念してのものである。

 八九年一月、山谷の中心に土地を確保することができた。建設そのものが具体的なものとなり、募金活動に拍車がかかった。しかし、それからが長かった。一年半、建設にかかって一年余り、竣工に至った過程は波乱万丈である。設計を行い、設計施工の監理を行ったのは宮内康建築工房である。僕自身は、その身近にいて全プロセスを見守っていたにすぎない。また、「日本寄せ場学会」の一員として募金活動に協力したにすぎない。実際の建設については、学生たちとともに、タイルや瓦を張るのを少しばかりお手伝いしただけである。しかし、それでもその困難性はひしひしと感じることができた。ほんとに奇跡に近いと思う。

 まず、建築の確認申請の問題がある。また、近隣への説明もある。それ以前に建設の主体をどうするか、施設の内容をどうするかが問題であった。近隣の理解も得、諸手続きもクリアした段階で、最大の問題となったのは施工者の問題である。いろいろあたっても引受け手がないのである。三つの建設会社にかけあったのであるが、いずれも断わられた。無理もない。お金は、わずか三千五百万円しかありません、あとはカンパでなんとかします、というのである。また、山谷の労働者を使って下さいというのも大変な条件であった。紆余曲折の上、最終的に採られたのが、直営という方式である。日本キリスト教団を建設主として、一切、労働者自身による自力建設を行うことにしたのである。

 直営方式というのは、建築主が建築材料を支給し、職人さんたちを手間賃で雇って建設する方式で、木造住宅ならそう珍しくはない。今でも行われている地域はある。しかし、大都市で、しかも鉄筋コンクリート造の建築で、直営方式というと極めて特異である。その上、自力建設ということになれば、全く例がない。実に希有なプロジェクトとなったのであった。

 住宅でもいい、全く自分一人で建築することを考えてみて欲しい。ほとんど無数に近いことを考え、決定し、手配をしなければならない筈だ。実際は、トラブルの連続であった。山谷には労働者が沢山いるとはいっても、働きながらのヴォランティアである。また、得手、不得手の仕事もある。スケジュール通りに進むのがむしろ不思議である。ましてやカンパを募りながら、資金調達もしなければならない。ハプニングも起こった。例えば、ある運送会社は、「山谷」というだけで、建築資材である瓦の搬送を拒否したのである。ひどい差別である。

 そうした気の遠くなるような困難を克服し、ともかく完成にこぎつけたのは驚くべきことだ。僕自身、こんなに早くできるとは思っていなかった。正直言って予想外である。未完成の美学もある、永遠に造り続けるのがいい、なんて言い続けて現場の人たちからは顰蹙を買い続けてきたのであった。

 

 山谷といえば、「寄せ場」である。日雇労働者の町として知られる。日本でも有数の「ドヤ街」である。いま山谷は空前の建設ブームの中で仕事は多い。路上で酒盛りする労働者の様子は一見活気にみちているようにみえる。しかし、抱える問題は極めて大きい。

 第一、好況にも関わらず、必ずしも、労働者の賃金は上がっていないのである。職安で日当一万一千円、路上で一万二千円ぐらいが平均であろうか。型枠大工であれば、人手不足で三万円も五万円もすると言われるのであるが、山谷には落ちない。あいも変わらず、中途で抜かれる構造があるのである。高い労務費を支払ってもリクルートの費用に消えてしまう。建設業界の重層下請けの構造、高労務費・低賃金の体質は変わってはいない。山谷はその象徴である。

 第二、生活空間としての山谷はいま急激に変容しつつある。地価高騰の余波は山谷にも及び、再開発のプレッシャーが日増しに強くなりつつあるのである。例えば、ドヤは、次第にビジネスホテルに建て替わりつつある。宿泊費は、当然上がる。宿泊費があがれば、労働者の生活にも大きな影響が及ぶ。日雇労働者も、ドヤ住まいとビジネスホテル住まいとに二分化されつつあるのだ。また、山谷から追い立てられる層もでてきている。

 第三、山谷地区に居住する日雇労働者は八千人から一万人と言われる。その日雇労働者は、どんどん高齢化しつつある。日本の社会全体が高齢化しつつあるから、当然とも言えるのであるが、単身者を主とする寄せ場の場合、また、日雇という不安定な雇用形態が支配的な地域の場合、高齢化の問題はより深刻である。山谷労働者福祉会館が構想されたのは高齢化の問題が大きな引金になっているといえるだろう。

 山谷にも山谷の地域社会がある。日雇労働者だけでなく、その存在を支え、共存する地域社会がある。二年程前、日雇労働者ではなく、地域住民を対象とした調査を「日本寄せ場学会」で行なったことがあるのであるが、ドヤの経営者にしろ、酒屋や飲食店にしろ、日雇労働者に依拠して成立したきた構造がある。日雇労働者を差別する構造もあるけれど、日雇労働者と共存してきた構造もあるのである。しかし、再開発の波が及び、そうした構造そのものが大きく崩れつつあるのが現在の山谷である。

 

 こうして、山谷労働者福祉会館の自力建設の意味が明らかになってくる。再開発によって、地域の生活空間が大きく変わりつつあるのはなにも山谷に限らないはずだ。東京の下町では、地上げによって壊滅してしまった地区がいくつもある。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すだけで果していいのか、自分の住む町をどうするのか、どう考えるのかは、決して人事ではないのである。

 この間の、東京大改造の様々な動きはいまだとどまることをしらないかのようである。膨大な金余り現象の生んだこの首都の狂乱が意味するのは、都市のフロンティアが消滅しつつあることである。東京の改造が大きなテーマとなったのは、少なくとも、都市の平面的な広がりが限界に達したことをその背景にもっていた。都市のフロンティアがなくなることにおいて、新たなフロンティアが求められる。ひとつは、ウオーター・フロントである。海へ、水辺へ伸びて行く発想である。ウオーター・フロント開発は、既にすさまじい勢いで進められている。数々のプロジェクトが進行中である。山谷の立地する隅田川沿いにも再開発プロジェクトが目白押しである。東京湾岸の風景は既に一変しつつある。産業構造の転換で未利用地が多く、都心に近接しながら地価が安かったせいもある。埋め立てによって広大な土地がまとまっていることも大きい。

 さらに新たフロンティアとして眼がつけられるのは、空であり、地下である。二千メートルもの超高層ビルのプロジェクトや数十万人を収用する地下都市開発のプロジェクトが次々に打ち上げられているのがそうである。こうした巨大なプロジェクトは、もちろん、必ずしも具体化されつつあるわけではない。実際に進行しつつあるのは、様々な再開発である。まず、眼がつけられたのが未利用の公有地であった。公務員宿舎や国鉄用地が民間活力導入を口実に次々に払い下げられ、地下狂乱の引金になったことはまだ記憶に新しい筈である。

 東京の再開発の動きはあっという間に全国に波及することになった。投機目的の東京マネーが日本列島全ての土地をそのターゲットにしたのである。リゾート開発ブームもまた資本にとってフロンティアが消滅しつつあることを示すのである。

 こうして日本列島全体がバブル経済に翻弄され、かき回される中で山谷に労働者福祉会館が全くの自前で建設された。余程地に足のついた試みといえるのではないか。この間の地価高騰で、一般庶民にはとても住宅がもてない、という悲鳴が聞こえてくる。しかし、一向にその声は一つにまとまらない。豊かさの幻影のなかで階層分化が進行しているからであろう。資産を持つ層はちっとも困っていないのである。また、資産を持たないサラリーマン層だって、ワンルーム・リース・マンションに投資したりして、住テク、財テクに走っている。目先の、私の利益を求めて争うところには町づくりもなにもないのである。

 東京大改造、再開発を支えるのは言ってみれば山谷の労働者たちである。一度に数多くの建設労働者を集め、職人不足を加速した、東京改造の象徴である新都庁舎にしても、山谷の労働者がいなければできないのである。しかし、山谷のような空間の存在は常に無視され、差別されてきた。若い労働者たちはまだしも、歳をとって病気になり、仕事もままらなくなると、追い立てられ、ボロ雑巾のように捨てられる。そうした、労働者たちが自前の拠点を全くの自力建設でつくった。つくづく、すごいと思う。

 一見豪華に装われた新都庁舎と一見手垢にまみれた山谷労働者福祉会館、実に対比的である。日本の町づくりの方向をその二つのどちらにみるのか、いまひとりひとりに問われているのだと思う。

 

附記

 山谷労働者福祉会館は竣工したといっても、その内容をつくっていくのはこれからである。土地の代金や工事費(材料費)の支払いにもまだまだ苦慮している。また、施設を維持し、福祉活動や医療活動を展開するのに月々かなりの費用がかかる。会館では、その主旨に賛同し、活動を支えてくれるヴォランティアや賛助会員(月額二千円)を求めている。援助の手を差し伸べて頂ければと思う。

 

山谷労働者福祉会館 東京都台東区日本堤1~25~11

          電話 03-876-7073 

郵便振替口座 東京2-178842 山谷労働者福祉会館設立準備会





 

2021年12月28日火曜日

室内室外 12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

 再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011



室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

03国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905

04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

2021年12月27日月曜日

2021年12月25日土曜日

室内室外 11 秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

 

秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

インター・ユニヴァーシティー・サマースクール 張天に想う

 

                            布野修司

 

 秋田県能代に行ってきた。総勢四八人。芝浦工業大学(藤澤好一研究室)、千葉大学(安藤正雄研究室)との合同合宿である。恒例となりつつあるインター・ユニヴァーシティーのサマースクールだ。今年は五大学に拡大しようと思っていたのだけれど、残念ながらスケジュールの調整がつかなかった。

 市営球場で野球大会をしたり、法被を借りて飛び入りで祭りの山車を曵いたり、充分楽しんだ。遊んでばかりいたわけではない。秋田杉の森林(仁鮒水沢スギ天然生林)を見たり、工場見学(相澤銘木 大高銘木)もやった。市役所の人たち(能代市役所自治研部)と能代と秋田杉をめぐるパネルディスカッションもやったし、もちろん、ゼミもやった。ロシアン・ルーレット方式のゼミだ。大勢だから、全員の発表を聞く時間がない。皆レジュメを用意しておいて、それを見ながら多数決で聞きたいテーマと発表者を決める。教師は横着だけれど、学生にはスリルがある。時間がくれば終わりだけれど、それまでいつ当たるか気が気でない。それで、誰かが恐怖のロシアン・ルーレット方式と呼び出したのだ。

 学生はどう思ったのか知らないけれど、なかなかに充実した合宿だったと思う。僕が最も強烈な印象を受けたのが張天(はりてん)である。つくづく考えるのはまたしても木のことであった。

 張天とは何か。本誌の読者であればご存じの方も多いであろう。「目透かし張り天井板」のことだ。というより、誰でも知っている。部屋の天井を仰いでみればいい。和室の天井は、ほとんどが張天である。他にも業者がいるのであるが、能代で七割はつくられているという。この張天には、「内田賞」という賞(建築における実績として、構法技術開発に関して影響が顕著であったものを評価する賞)が与えられている。いつか工場を見たいと思っていたのだが、今度初めて全工程を見ることができたのであった。

 張天が登場したのは四〇年ほど前のことだというのであるが、それまでの天井板というのは昔ながらの無垢の板である。二分三厘(約七ミリ)に一枚一枚鋸で挽いてつくった。かってあちこちで見かけた外壁の杉の下見張りの厚さが二分三厘である。しかし、張天というのは、ベニア板の上に薄い杉の板というか皮というか、紙のような杉を貼ったものを使う。その薄さたるやすごいものである。現在では、一分厚(約三ミリ)の単盤材から最高二五枚の「杉紙」をスライスできるのだという。一枚の厚さが〇・一二ミリである。

 紙といえば、印刷した杢目だってある。それはラミ天(ラミネート天井)という。もちろん安い。木が紙になって、ラミネート印刷されてベニア板の上に貼りつけられる、変な気がしないでもない。それに比べて、張天は、いくら薄くたって本物の秋田杉だ。限りなく無垢天井の素材感に近づける、というのが唱い文句である。中杢、中板目、笹杢、上杢、源平、純白と一応そろっている。知ったかぶりして、書いているのであるが、もちろん、どう木取りをすればそうなるのかも含めて、今度能代でならったのである。純白というのは樹皮近くを木取りする。源平杢というのは、その次を取る。両端に白味がでて、中央の赤味と紅白になるからそう呼ばれるのだ。

 この張天があっという間に普及したのは、目透かし張りという構法による。それまでの天井というのは、天井板を載せるために竿縁が必要であった。しかし、目透かし構法というのは目板でつないでいくだけであっという間に施工できる。三六(さぶろく 三尺六尺)のベニアをつないで二間(にけん)の天井板ができたのも大きい。普通の部屋なら並べていけばいいのだ。かなりの省力化なのである。

 だがしかし、驚いたのはその見事な構法にではない。驚くのはなんといっても、表面材である「杉紙」の薄さにである。何故、こんなにも薄くしなければならないのか。それだけ沢山の天井板がつくれるからである。しかし、それだけではない。なんと省資源のためだという。一瞬耳を疑ったのであるが、このまま伐採を続けていくと、あと九年で、天然の秋田杉はなくなってしまうというのだ。

 工場の倉庫で在庫をみるたびに聞いてみた。国産材の割合は、せいぜい数パーセントである。張天の主材料といっていいベニアは、ほとんどカリマンタンのサマリンダから送られてくる。木の都(みやこ)、木都(もくと)を標榜する能代においてこうなのだ。

 秋田杉というのは、つくづく思うに、造作材である。決して構造材ではない。柱もそうだ。工場をみて痛感するのは、木材が工業材料となったということだ。木などもうどこにもない。木片のみが存在するという感じである。木片が、しかも、ほとんど輸入材である木のピースが、フィンガージョイントとよばれる接合法で(両手を組み合わせるように端部をギザギザに切った木を組み合わせる)、次々につながれる。そして、接着剤で張り合わされる。そうすると大きな断面の木材ができあがる。木のモザイクである。そして、再び必要に応じて、その木の塊を切り分けるのだ。

 なんでこんな面倒なことをするのか。その方が強いし、狂わないのである。木を切ったり貼ったりして固めたものを製品の寸法に再び裁断する。それでできるのが芯材である。そして、その上に化粧が施される。すなわち、薄い「杉紙」がはられるのだ。

 僕らが木と思っているのは、いまや、ほとんどがこうだ。木の香とか、本物の木というけれど、みんな中は木のパッチワークである。木というのは、不均質で、強度もバラバラでしょうがない、本当は工業材料を使いたいのだけれど資源がない、と木造亡国論が主張された戦後まもなくのことを思う。まさに隔世の感がある。木材はついに工業材料になったのである。森林浴天井板「森の精」という商品がある。臭いまで人工的につけられるのだ。集成材というと一般の人は嫌う。偽物のような気がするのである。しかし、性能的には集成材の方が遥かに上なのだ。

 木都の悩みは大きい。人口は減りつつある。木材産業が製造業全体に占める割合は異常に高い。従業員数で六割、出荷額で七割を超えるのだ。それが振るわないのだから当然だろう。秋田木材通信社の薩摩さんに頂いた、加賀要次郎さんの『秋田杉とともに』を読むと能代の町の歴史は秋田杉とともに波乱万丈である。戦前においても原木不足の時代があり、樺太材やシベリア材、沿海州材、さらに米杉も輸入されているのだ。関東大震災直後のことである。しかし、そうした歴史の中でも、天然杉がなくなろうとする今、能代という町は最大の転機を迎えつつあるようである。

 パネルディスカッションで明らかになったことがいくつかある。ひとつは、町が秋田杉のブランドに頼りすぎてきたということだ。また、外材に頼っている体質も問題とされる。さらに張天に代表されるような、和室回りの造作材の生産に偏っていることも指摘される。

 九月二三日には、そうした能代の抱える問題をめぐって、「木の住宅部品と地域産業ーー木都・能代の過去・現在・未来」と題したシンポジアム(第一五回木造建築研究フォラム能代)が開かれるという。限られた製品だけを出荷するだけで、地域産業になっていない、問屋に流すだけでエンド・ユーザーの顔がみえない、それ以前に、木材産業というのは加工業なのか流通業なのか、つくるのか流すだけなのか、実に多くの問題が議論されそうだ。もちろん、熱帯降雨林の破壊の問題、地球環境の問題を木材の流通を通して考えるという問題もある。

 能代の人たちの真面目さと暗さ、そして、空前の売り手市場でにこやかな学生達の明るさが妙に対比的であった。この暗さと明るさは一体どう共有されるのだろう、なんて思った合宿であった。

 さて、恒例のサマースクールをどうしよう。来年は、飛騨の高山でやろう、という話がでた。毎年通って、山車をセルフビルドでつくって欲しい、というプログラムである。なかなかに魅力的だ。議論より実際やってみた方がいいのに決まっている。

 その話をロンドンでも一緒だった相澤銘木の網(あみ)さんに話すと、能代はどうするんだ、という。毎年場所を変えるのではなく、もう少し、通ってくるべきではないか、ゲスト・ハウスを建てるからそれも学生達と自力建設でやってみないか、という提案だ。

 はて、困った。サマースクールだけではなく、春休み、冬休みにも合宿をやらないと、間に合わないではないか。面白そうだけど、大変なことになりそうだ。体力と気力が続くかなあ。

 





室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

03国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905

04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

2021年12月24日金曜日

室内室外 10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007


宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

 住宅一揆のすすめーーー住宅無策を笑う前に

           われらのうちなるじゅうたくもんだい

                            布野修司

 

 誘われて、柄にもなく、「こんにゃく座」のオペラ『ハムレットの時間』(林光・萩京子作曲 加藤直台本演出)を見に行く日の午後、時間がぽっかり空いたので、ふと日仏会館で開かれているシンポジウムを覗いてみる気になった。土地・住宅市民フォーラム主催の〈緊急フォーラム〉「日米構造協議と土地・住宅問題のゆくえ」である。タイトルにひかれたのかもしれない。二人の若い友人が事務局にいて、熱心にフォーラムを準備しているのを知っていたのも大きい。なかなかに盛況であった。住宅・土地問題となると興奮を誘うのであろうか。いささか脱線気味の熱気にみちた主張が飛び交っていた。

 ハムレットの方は、それこそ関曠野さんの『ハムレットの方へ』(北斗出版)がある。「こんにゃく座」の公演でも、なんらかの形で、関流のハムレット解釈が参照されたのであろう。関さんがパンフレットに期待の一文を寄せていた。「エリザベス朝時代という英国史上最大の転換期に生きたこの地球座の座付き作者は、呑兵衛で歌と踊りが大好きな陽気なイングランドが、偽善と虚栄と規律と権勢欲にみちた大英帝国へと変貌してゆく過程の、悲しみと怒りにみちた証人だった。」と、いかにも関さんらしい。

 何を隠そう、その昔、僕はできの悪い演劇少年であった。しかし、それなりに数だけは見たし、とある場所で、黒テントとか大駱駝鑑のプロデュース(?)をしたこともある。それに驚くなかれ、日本シェイクスピア学会というたいへんな学会主催の、「地球座の謎」をめぐるパネル・ディスカッションにパネラーとして出て、つるしあげられたこともある。時ならぬシェイクスピアブームにひとこととも思ったのであるが、「こんにゃく座」の熱演にその気は失せた。劇場論はできても、劇評はやっぱりおこがましい。加藤直台本の『ハムレットの時間』は、ハムレットの時間と日常の時間を入れ子にした劇中劇の構成であった。日常のどうしようもない時間を問題とするのがやっぱり似合ってる。『住宅戦争』などという本を書いたことでもあるし。

 日本の住宅政策の駄目さ加減にはいい加減愛想がつきる。住宅問題、土地問題、都市問題をめぐっては多くの提言がなされてきている。しかし、いずれも実行を伴わない。結果として無策である。無策のままで何もしないでいるうちに、土地と住宅は、バブル経済の渦の中で蹂躙され続けている。民間活力導入、規制緩和に始まった空前の地価狂乱、地上げ騒動、住テクブームの狂騒はとどまることを知らないかのようだ。あきれながらも頭にくる。頭にきながらあきれてしまう。

 そうした中での日米構造協議である。日米構造協議において、貿易不均衡是正のために主に問題となっているのは、およそ五つ、流通機構の問題、談合など排他的取引慣行の問題、重層的下請構造など企業の系列化の問題、投資と貯蓄のギャップの問題、そして住宅土地問題である。そのうち、最も重要なものが住宅土地問題だという。米側は、一体何を要求し、何が争点となっているのか。

 土地の税制を改革し、ニュートラルで合理的なものとしなさい。公有地や農地など大都市圏の空間を高度利用するため規制緩和しなさい。十を超える省庁にまたがって体系をもたない土地住宅行政を一元化しなさい。住宅建設のための都市基盤整備にもっと公共投資をしなさい。先のシンポジウムを覗いて理解したところによれば、米側の主張はおよそ以上のようである。

 農地の宅地並み課税を実施し、買い換え特例を廃止する。土地の公的評価のシステムを実状に合うように合理化し、譲渡税や固定資産税を明快なものとする。容積率をアップするよう、建築基準法や都市計画法を改正する。要するに、最も効率的に土地を配分するために、各種規制や保護策を全て撤廃し、完全に自由な市場原理に宅地の供給を委ねればいいというのが米の主張らしい。とにかく、日本には不合理で不透明な慣行や規制や組織が多すぎる。極めて素朴には、ニュートラルに、透明に、合理的に、ということである。

 この米側の主張に対する日本側の反応が面白い。期待と疑念が相半ばするのである。余計なお世話だ、内政干渉だという、反射的な反発がまずある。民族主義的心情がくすぐられると、すぐさま排外主義が醸成されるのだ。あるいは、理念としておかしい、住宅土地はローカルなものだから、ローカルに解決するのがよいという主張もある。一方、日本が変わるためには外圧が必要だ、という期待がある。アメリカは、日本の野党の役割を果たしている、という評価もそうだ。また、アメリカの言っている規制緩和、民間活力導入は、日本政府を後押しするものに過ぎないという説もあれば、実は、日本の官僚が外圧とみせかけて勢力争いをしているのだという説がでる。アメリカは、日本の企業を弱体化させようとするのが本音だろうというものがあれば、市場原理に委ねれば企業が優遇されるだけだというものがいる。市場原理に委ねたってうまくいかない、やはり規制は必要である、都市計画がなくては駄目だ、という声もあがる。先のシンポジウムのみならず、TV討論など実に議論だけは喧しい。

 しかし、実にもどかしい。なんか本音が隠されているような気がしてならない。議論だけで一向に事態が進行しないところをみると、誰も何も困っていないのではないか、本気で頭にきてはいないのではないか、と思えてくるのだ。あるいは、本当は、どうしたらいいのかわからないのではないかと思えてくるのである。

 宅地の供給のためには、土地税制が問題である。市街化区域内の農地に対する宅地並課税の問題など、譲渡益課税、土地保有税の強化をめぐって、アメリカに指摘されなくたって、もうかなり以前から議論だけはある。しかし、現実の力関係、政治力学のなかでいっこうに手がつけられない。現実を支配しているのは金融政策であり、金融機関である。そこで、土地債権の発行、土地の証券化なども提案されるけれど、果してどうか。市場メカニズムを税制によってコントロールしようという手法で、地価の抑制や宅地の供給増加がどのように可能か、これぞという法制について国民的合意はない。シュミレーションなんてものより、自分の資産にとって何が有利なのかという思惑だけだ。都市の空間をどの様に配分し、利用するのか、基本的な合意がない。基本的合意がないところに、ラディカルな変革などできるわけがない。

 韓国の土地公概念関連四法案をみよ、わが国の土地基本法は題目だけだ、などという前に、住宅問題は自らの問題である。住宅土地問題に対して、国の無策を一方的に非難することは誤りだと思う。アメリカに期待するのも同じことである。住宅を手にすることができない、ひどいといいながら、その怒りの声は何故ひとつの声として結集されないのか。年収の十倍を超える価格に、大規模な「住宅よこせ」のデモンストレーションが起こっても不思議はないのに何故起きないのか。ローン地獄というのであれば、ローンの支払いの一斉拒否といった事態が何故起きないのか。空前の住テクブームを見よ。不動産マネーゲームを支えているのは誰か。土地住宅の取得を財産形成の手段と考え、その値上がりを前提としてきたのはわれわれ一般庶民も同じではないか。

 日本の住宅土地問題は、資産を持つ層と資産を持たない層とではっきりと二分化されつつある。階層毎に問題が異なりつつある。一方で、低所得者、高齢者、障害者など社会的弱者に対する施策の貧困は、徹底的に批判しなければならない。無策のつけは、社会的弱者に大きく、その声が封殺されていることは大きな問題だ。即実施すべき施策は多い。しかし、ワンルーム・リース・マンションへの投資や買い換えのブームは、資産を持つか持たないかに必ずしも関わらない。そこにまず問題の根がある。住宅問題の根は自らの内にもある。そうした視点がなくて、ただ住宅政策の貧困を嘆くだけでは片手落ちなのだ。

 私的で個別的な利益を争うところに糸口はない。住まいについての個別の欲望が無限に実現することはあり得ないことだ。社会資本として、住まいの環境をどう編成するのか。公と私の空間をどのように配分していくのか。公平、公正な論理、共有共用の論理は確かに求められている。住宅政策はあまりにも理念と体系に欠けており、ずさんである。土地や住まいを投機の対象とみることをやめること、土地や住宅を一個の商品とみるのをやめること、ごく当り前に生活の場として都市を考え直すこと、住宅問題、都市問題を考える都市生活者の素朴な出発点であり、原点である。しかし、そう思っているだけでは埓があかない。あとは住宅一揆しかないではないか。果してターゲットは、銀行か、大企業か、国家政府か、あるいはそれとも、自分自身なのか。 


室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

03国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905

04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007


11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

2021年12月23日木曜日

室内室外 09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

 こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

公共建築はなぜ駄目か 

                            布野修司

  今回はいささか支理滅裂である。今回も、というべきか、いささかでいいのか、よくわからない。屈辱的な思いにかられながら、その怒りを誰にぶつければいいのか、考えがまとまらないまま筆をとったところである。予感としては、またしても天に唾することになりそうだ。

 今年になって早々、ある市のある公共建築の建設のためにコンペ(設計競技)が行われ、様々な経緯があって審査員を引き受けることになった。屈辱的な思いは、その顛末の故にである。最初の打診の段階でいったんは断わったのであった。断わっておけばという後悔の念が強い。しかし、断わっていたとするとこの原稿はもう少し気楽に書けたかもしれない。そう思うとまず複雑である。

 最初の段階で断わった理由は、まず、あまりにも指名料が安いからである。そして、あまりにも設計期間が短いからでもある。総工事費十数億円の建築の設計案を求めるのにも関わらず、設計者に対する指名参加報酬がたったの六〇万円である。設計のプログラムを提示されて、設計案を提示するまでがわずか一ケ月である。こんな馬鹿なことはない。心底そう思って即座に断わったのである。

 というと格好いいのであるのであるが、実際格好つけたのである。これほどひどいとは思わなかったけれど、そうした実態があるのは聞いて知っていた。だから、もう少しどうにかならないのか、こんな条件では審査員やるのも格好悪いと格好つけたのである。

 聞けば、これでも精一杯だという。この市では、コンペをやるのは二度めで、最初の体育館の場合は、指名参加料は三十万円だったのである。これじゃああんまりだというので、事務局としては百万円を要求したのだけれど、議会で六十万円に削られたのだという。慌てて各地のいくつかの自治体に確認してみると呆然である。どうもこんなものらしいのだ。

 設計期間については、自治体の場合、予算年度があって、実にどうしようもない。決まるのが遅く、年度内に執行しなければならない。そのくせ、年度末になると、予算消化のためにそこら中の道路をほじくり返すのである。腹がたつ。長期的なプログラムは、選挙のサイクルもあってたてにくい。日本の地方自治と公共建築は、拙速を尊しとする、そんな仕組みの上に成り立っているのである。

 問題はもちろん以上の二点だけではなかった。誰を指名するのか、審査員の構成はどうするのか、という問題がある。さらに最も重要なのは、どういうコンペとするか、建築の内容、プログラムをどうするかである。今回の場合、結果的に何もタッチできるわけではなかった。いろいろ意見を言おうにも、時間がまったくないのである。

 誰を指名するのか、というのは指名者の勝手といえば勝手である。指名者というのは、この場合、市民を代表する市長ということになろうか。しかし、指名者の勝手であるとすれば、なにもコンペをやる必要はないのだ。はっきり言って、僕はコンペ主義者ではない。とにかくコンペをやればいいのだとはとは決して思っていない。疑似コンペならやらない方がいいのはあきらかだろう。匿名のほうがすっきりする。事実、こんな条件であれば、指名コンペより匿名のほうがいいのではないか、指名料や審査員料を含めたコンペの費用を基本設計料に回したほうがまだいいのではないか、という意見を述べた。問題は、いい建築をつくることであって(いい建築とはなにか、誰にとっていい建築なのかが常に問題なのだけれど)、手続きの公正さを装うことではないのである。

 今度の場合、指名者は指名願いの出ている業者から選んだという。この指名願いというのがくせものである。設計者の側から言わすと、出入り業者を選んでやるという感覚である。全国三千数百の自治体があるのである。設計者がすべての自治体に予め指名願いを出しておくのは不可能だ。いちいち出向かなくてはならないのである。断わって置くけど、僕自身は、地方のことをよく知りもしない中央の建築家が地方の仕事をするより、むしろ、タウン・アーキテクトというかたちで各地にすぐれた設計者が生活している方がいいと思っている。しかし、指名についてはもっとオープンであっていいではないか。人口数万の市に常にすぐれた設計者がいるとは限らないのである。仕事を秘かに配ってやるという感覚ではなく、日頃から各自治体のことを考えてくれる設計者を育てていく姿勢がむしろ必要なはずだ。指名の条件はというと、実績という。実績とはなにか。これまで、そうした規模の工事を手掛けたことのある設計者でなければならないとすると、若い設計者に公共建築の仕事の機会は永久にない。組織事務所だけがその対象とされるのが一般的である。しかし、口をすべらして言うと、こうしたどうしようもないシステムの上に安住(?)しながら、実態としてはおそらく文句を言えずに、くだらない(?)公共建築を設計しつづけているのはむしろ組織事務所なのである。短期間に仕事を流す感覚で指名コンペに参加する業者(これは業者である)が大問題なのだ。

 審査員の構成については、過半数は建築家とするというのが新日本建築家協会(JIA)の原則である。ほんとに、そう思う。しかし、あわてて脱線すれば、建築家とは何か、が問題である。新日本建築家協会であれば、その会員が過半数とすればすっきりするだろう。しかし、そうはいかない。僕にいわせれば、そんなことを言いながら、会員の多くがその条件に合わない指名コンペに参加しているような協会なんて信頼は置けない。「建築家」については、かねてから、「施主と施工者の間にあって施主の利益を養護する」というプロフェッションの理念やフリーランスのアーキテクトの理念が、現実的には多くの場合破綻しており、そうした幻想を振りまいてきたことが事の本質を覆い隠し、欺まんをはびこらしてきたことにおいて、むしろ有害だと思ってきた。しかし、多数決で決めるのであれば、「建築を理解するもの」(?)が少なくとも過半数いるべきだと思う。このあたりから頭はますます混乱してくる。

 具体的に審査の様子を書いたほうがいい。以上のような問題が事前にわかっていたにも関わらず結局審査員をなぜ引き受けたのかは言い訳になる。できるだけ指名料に見合うよう(?)設計者の負担を軽くし(模型の作成や過度のプレゼンテーションを求めない)、プロポーザルに主体を置くコンペとするという条件が受け入れられたことと、以上のような問題点を審査の席で指摘してもらわないといつまでも変わりません、というひとことにふとその気になったのである。

 三案あった。五社指名したのだけれど二社は辞退したのだという。建築界は忙しすぎるのか、あまりの条件に拒否したのか、後者であれば救いである。困った。三案とも建って欲しくないのである。三案を見て瞬間に思ったことは、過去のコンペの不祥事である。審査員長が結局実施設計をしてしまった例とか、規定違反の作品が選ばれたりという例である。建って欲しくない案は阻止すべきだ、という悪魔のささやきが聞こえたのである。

 しかし、もちろん、阻止する程、度胸があるわけはない。審査員を引き受けたからには次善の策を選ぶしかない。これは、比較的たやすかった。建築的なまとまりという点で、破綻が少なく、また、面接における柔軟な対応能力をみて、まあ選んでもいいというのが一案だけあった。後は駄目である。学生の製図でも、少なくともわが大学では絶対「優」はつけない。しかし、屈辱的な結果は、僕がこれしかないという案が多数決で圧倒的に敗れたことであった。 

 もちろん、その結果を云々しようとは思わない。その点は、自らの意見を説得力をもって展開できなかった僕の批評家としての能力を恥じるしかない。全面的に押せる案がなく、発言に迫力が欠けたことも事実である。しかし、それにしても、「どの案でも一緒なんですよ」、「予算内で管理がしやすければいいんです」、「三階建ては駄目です」、「○○は、絶対一階でないとだめです、それは○○学の常識です」、「平らな屋根は雨が漏るから駄目です」、もうのっけから有無をいわさぬ断定的な、以上のような発言が相次ぎ、うんざりなのである。

 しかし、問題は、どの案でも一緒だと平気で言うような、建築を理解しない審査員が多かったということだけにあるわけではない。公共建築の設計が実にイージーに決定されていくプロセスと仕組みに今さらのように驚くのだ。恥ずかしながら、僕は、戦後公共建築の設計に大きな影響を与えたとされる研究室をでた。しかし、これは何なんだ。学校、病院、図書館、等々、建物種別にモデルとなる案は提案されてきたかもしれない。しかし、公共建築の設計が決定されるプロセスについては、ほとんど、手つかずではないか。一体、先輩達は何をしてきたのであろう。標準設計という思想がそもそもこのシステムと無縁ではないのではないか。設計者も設計者だ。黙って、このシステムを容認し続けるのか。審査員の先生方もそうだ。イージーに決定されるプロセスに安易にも偉そうに参加し続けていらっしゃるのではございませんか。



室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

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2021年12月22日水曜日

室内室外 08 職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

 

職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

大工殺しの共犯者たち

                        布野修司

 

 今、建築界で何が問題かというと忙しさである。忙しすぎて考えたり、議論したりする暇がないことである。仕事が多くて多くて建築家はみんな稼ぐのに一所懸命である。稼げるときに稼ごうと、冬場に備えるアリさんをきめこむかのようだ。一段落してみたら、駄作の山ということにならなきゃいいが、と余計な懸念をしてしまう。じっくり考える時間がなくて、じっくり建てる時間がないのだから、いいものなんかできるわけはない、なんて思うのはおかしいのであろうか。ひらめきとセンスで設計し、あっという間に建てる、そして、あっという間に壊してしまう、そんな繰り返しが続いているのだけれど、困ったものだ。

 ところで、この忙しさのなかで深刻なのが職人不足である。あっという間にデザインされても、あっという間に建設することはできないのだ。官公庁の工事は入札不調が続いている。単価が安くて建設会社もやってられないのである。もう一年後の仕事の予定が決まっている建設会社も少なくないのだ。職人不足だから、職人の手間賃は上がる。最も不足しているといわれるコンクリート打設の型枠をつくる型枠大工の場合、日当が数万円にのぼる。それでも足りない。建設費は当然あがる。次から次へと設計しても実際に建設する職人がいない。工事費が予算をオーバーする。日頃、職人を大事にしてこなかった設計事務所や建設会社は大変である。職人を確保できず、工事がストップしてしまったという例も少なくないのだ。 

  東京の場合、新都庁舎の建設が職人不足にさらに拍車をかけたとされる。ひとつの工事現場とはいえ巨大な工事現場である。千五百億円にのぼる建築物としてはこれまでで最大といっていい工事が優先的に職人を確保することによって労働力市場は大きな影響をこうむったのである。しかし、建設労働者の不足はもっと広範で慢性化しつつあるとみてよい。労働省の「技能労働者需給状況調査」によれば、建設業の不足率は一九八六年、六・三㌫、一九八七年、一三・五㌫、一九八八年、二六・七㌫とうなぎのぼりなのである。開国か鎖国かなどという以前に外国人労働者が参入するのは極当然の状況なのだ。

 何故、こんなに深刻な職人不足の事態を迎えたのか。

 もともと建設業界というのは、その日暮しで場当り的である。長期的な視点にかける。好況になるとわっと人買いに走り、不況だと全く求人しない。大学で就職状況をみているとよくわかる。こう求人難だと大きな建設会社の人事部長クラスが美人秘書をつれて日参である。しかし、少し不況になると、こちらがいくら頭をさげても、ふんぞりかえって見向きもしない、そんな体質が業界全体にある。他の産業でも同じようなものだといえるかもしれないのであるが、二重三重の下請けシステムを構造化し、日雇いの労働者を「寄せ場」という形で定常的にプールする仕組みの上に成り立っている建設業界の、その場当り的な体質は本質的なのだ。

 そうしたなかで建設業界もようやく職人不足の対策にのりだしたかのようだ。各企業が、それぞれに職人養成の学校を設立し始めたのである。入社すると給料を払いながら一年ないし二年研修を受ける。それを条件に求人を行うのである。これも場当り的で遅すぎるかもしれないのであるが、やむにやまれずといったところである。しかし、すさまじい。そうした企業の学校の研修生はすぐに引き抜かれるのだという。職人になろうという意志さえあればいいということで高賃金でスカウトするのである。ある建設会社が女性の現場監督を採用したら応募者が増えたという。あの手この手で職人の確保に懸命なのだ。あるいは、一夜にして仕上げる百人からなる石貼り職人の集団が大活躍だといううわさも聞こえてくる。建築家の忙しさも、そんな危うい職人不足の構造の上でのことである。

 3K。汚い、きつい、危険。あるいは6K。上に加えて、給料が安い。気持ちよく働けない、休日がすくない。外食・飲食、製造、建設という業種で求人難が続く。職人不足なのに職人の賃金は安い。賃金が高騰したといってもどこかにピンはねされてしまう構造があるのだ。労働時間は長く、休日も少なく、労働条件は悪い。若者が職人になりたがらないのも無理はない。大学の建築学科の学生も、現場に行きたがらない。設計事務所だって希望者は既に前から少ない。証券会社や銀行、広告代理店が人気の的だ。机上で書類をつくって、物件を動かすだけでもうかるのである。不動産売買の仲介をするだけで三㌫+六万円プラス三㌫+六万円が手にはいる。何枚もの設計図書をつくり、面倒な手続きをして現場を管理する、それでそれだけの設計料をもらえはしない。

 職人がいなくなる、大工がいなくなる、建築界にとって実に大きな問題である。しかし、こうした事態を招いたことの根は深い。建築界全体が職人を軽視し、抹殺する、そういう仕組みを自らつくりあげてきたからである。天に唾することを覚悟で、大工殺し、職人殺しの犯人を挙げてみよう。

 まず、最初に挙げるべき犯人は、大学の建築学科であり、その教師であり、その教育である。最初に頭を下げておいた方がいい。日本の大学の建築学科において教育理念とされるのはアーキテクト教育である。実態と理念はずれるのだが、教育内容はアーキテクトを育てるための設計教育がその中心である。職人を育てるといった理念は亳もない。というより、アーキテクトと職人は対立的とみなされ、後者から前者へと職能を脱皮することが目指されてきたのだ。科目の種類も内容もそのように編成されている。わかりやすい例をだせば、木造建築に関する講義は、大半の大学で今でも無視され続けているのである。

 具体的には、一級建築士とか二級建築士とかいう資格制度が全てを規定している。大学のカリキュラムもそれらに受かることを目指してつくられるのである。一級建築士の試験というのは全くもって机上の試験である。すぐれた現場マンや職人のほうがむしろ通りにくい問題になっている。机上で勉強するほうが、それ故大学に行った方が通りやすいのだ。先頃、工業高校をいくつかまわって、建築科の先生にいろいろと話を聞く機会があったのであるが、いまさらのように驚いた。全く一緒なのだ。大工や職人の育成とは工業高校も無縁である。工業高校をでて、専門学校へ入り、資格をとるという、一本のコースが全体を支配していることは変わりがないのである。職人不足、大工不足を嘆く工務店主は多いのだけれど、そういう工務店主の息子が後を継がない。息子は建築業を選択しても、大学に入って一級建築士をとって親父のやれなかった鉄筋コンクリート造をやりたい、というのが普通なのである。

 さらに驚くのは、職業訓練校(産業技術学院)のような職人養成機関で、大工や左官など建築関連コースが次々に閉鎖されようとしていることだ。志願者がいないからである。さらに、実に問題なのは、大工技能のような分野は遅れており、これからはコンピューターを使う技能者を育成すべきだという考え方が支配的になりつつあるからである。要するに、大工の育成は戦後も一貫して町場の棟梁大工のもとでの徒弟制度に委ねられてきた。大工など建築職人の育成は建築教育の視野外に置かれてきたのである。それどころか、職人の徒弟制度は前近代的で遅れているから解体すべきものと考えてきたのだ。

 建設業界はどう対応しようとしてきたのか。外国人労働者に頼らざるをえないという状況はますます強まりつつあるのであるが、それはイージーといえばイージーである。できるだけ職人、特に大工を使わない工夫をする、というのが一方での発想である。事実、戦後の建設業界は一貫してそういう方向で動いてきた。工業化路線である。住宅を考えてみればわかりやすいだろう。プレハブ住宅やツゥー・バイ・フォー住宅がシェアを伸ばしてきたのも、在来木造住宅を支える大工職人が少なくなり、あるいは変質してきたからである。言うまでもなく、工業化の進展は、すなわち、現場で職人や大工をできるだけ使わないようにすることは、職人をますます追放することにつながる。それを目指しているのだから当り前である。そこにはある循環がある。職人不足に悩む建設業界こそが職人を徐々に抹殺してきたといってもいいのである。

 大工、職人の世界は、今、ほぼ解体されつつある。戦前に修行した大工棟梁は既に高齢であり、戦後修行して大工となった層も高齢化しつつある。いまなら、まだ後継者が育てられるというのであるが、肝心の後継者たらんとするものがいない。まあ、嘆いても、泣きわめいてもしかたないことであろう。大工や職人を生きられないようにしてきたのはわれわれ自身だからである。もし、大工、職人の世界が必要と思うならば、なによりもその職業が魅力的でなければならない。端的にいって、高給を取ることが出来、優雅に暮らせ、尊敬されるものでなければならない。日本がいくらポストモダン建築の最先端を誇ろうともそれは仇花だ。建築を造り上げる人々をないがしろにするようなそんな社会に建築文化の華が咲くわけがない。



 

室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

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2021年12月21日火曜日

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2021年12月20日月曜日

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2021年12月19日日曜日

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2021年12月17日金曜日

『室内』から「世界」を斬る  室外からみた『室内』

 『室内』から「世界」を斬る,(『『室内』の52年 山本夏彦が残したもの』,INAX出版所収),室内、200609

室外からみた『室内』 

『室内』から「世界」を斬る

布野修司

「百家争鳴」など折に触れて書かせて頂いたが、八九~九〇年の「室内室外」、九八~九九年の「おしまいの頁で」の連載がなつかしい。「僕はインドで牛になりたい」(九四年六月)、「桟留(サントメ)」(九八年九月)―江戸で流行った着物の縦縞模様インドのチェンナイ(マドラス)のサン・トメ(聖トーマス)に由来する―など、アジアを歩き回りながら考えたことが昨日のように蘇ってくる。

『室内』に書く、ということは、「山本夏彦」の眼を通すことであり、文章修行の趣があった。一般の「建築雑誌」に書くよりも肩に力が入った記憶がある。『室内』の魅力は、とにもかくにも「山本夏彦」(的なるもの)だったと思う。核に据えられていたのは、鋭いというか、洒脱なというか、皮肉っぽいというか、醒めたというか、本音というか、要するに「夏彦」的批評精神である。

わかりやすさと庶民感覚、専門や業界に囚われない自由の雰囲気が『室内』にはあった。欠陥住宅問題(「売建住宅に御用心」八六年四月)、設計競技問題(「公開してはどうかコンペの審査記録―面白いのは決定までのプロセス―」八九年一月)、東京論(「語りのこされた場所「皇居」―昭和が終って浮かんできたもの」同三月)、森林資源と割箸問題(山を見あげて木をおもう―どうして割箸なんか持ちだすの?―)九月)など、建築(業)界について、思う存分書いて気分がよかった。「夏彦」的なるものに載せられていたのだと思う。部数の違いもあるが、反響は一般の「建築雑誌」とは比べられないほど大きかった。

職人さんを大事にしたのが『室内』であった。「職人不足は誰のせい」(九〇年三月)を書いた頃、呼び出されてご馳走になった。現場で何が起こっているのか、何が真の問題なのか、とことん問いつめるのが、夏彦さんである。しかし、文章となると軽妙である。「職人不足は誰のせい」というタイトルは編集部につけて頂いたものである。「大工殺しの共犯者たち」というのが僕のセンスであった。人にものを伝え、揺り動かす、それには壷がある。銀行業界批判は痛烈であったが、極めて具体的に読者に向かって一斉にキャッシュ・ディスペンサーから引き落とせ、と書いた、その鋭さには舌を巻いた。夏彦さんは実にラディカルなのである。

『室内』は、誰にとっても身近である。身近なことから世界が見えるし、語れる。身近な問題を縦横無尽に、伸縮自在に扱うのが『室内』の魅力であった。

 

『室内』布野修司原稿 

 売建住宅に御用心,室内,工作社,198604

◎じゃぱゆきくん、百家争鳴、室内、198802 

室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

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04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

 

◎僕はインドで牛になりたい百家争鳴室内工作社199406

 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

◎旧朝鮮総督府の解体と日帝断脈説,室内,199602

◎序説の人生,室内,200001

◎世界一周,室内,工作社,200012

◎『室内』から「世界」を斬る,(『『室内』の52年 山本夏彦が残したもの』,INAX出版所収),室内、200609

 

室内室外

公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901 

語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

2021年12月16日木曜日

インド・サラセン様式

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810


インド・サラセン様式

布野修司

 

 

 再びチェンナイ(マドラス)に戻ってきた。五週間の旅となるといささか長い。毎日が日曜日だが、異国の事物に刺激されて欲張ってつい見に行ったり、食べに行ったりするから休息日がない。疲れが身体の芯に蓄積される感じだ。ぜいたくというべきか。見知らぬ土地を見てその土地のことを学ぶのは無上の歓びである。問題は刺激が多すぎて脳味噌の許容量を情報が溢れてしまうことだ。

 チェンナイではジョージタウンの調査に手をつけた。英国がインドで最初にその拠点を置いたところだ。ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)のせいか。

 ジョージタウンを歩き回っていて日本語の堪能な老人に会った。船乗りで日本に何度も行ったのだという。チェンナイは国際都市だ。彼によると、テルグ語、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。

 

『室内』布野修司原稿

 

 売建住宅に御用心,室内,工作社,198604

◎じゃぱゆきくん、百家争鳴、室内、198802

 

室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

03国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905

04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

 

◎僕はインドで牛になりたい百家争鳴室内工作社199406

 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

◎旧朝鮮総督府の解体と日帝断脈説,室内,199602

◎序説の人生,室内,200001

◎世界一周,室内,工作社,200012

◎『室内』から「世界」を斬る,(『『室内』の52年 山本夏彦が残したもの』,INAX出版所収),室内、200609

 

室内室外

公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

 

語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001