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2023年4月2日日曜日

2023年1月9日月曜日

朝鮮文化が日本建築に与えたもの,雑木林の世界40,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199212

 朝鮮文化が日本建築に与えたもの,雑木林の世界40,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199212


雑木林の世界40

朝鮮文化が日本建築に与えたもの

第二回出雲建築フォーラム

                       布野修司

 

 距離的に近くなったせいであろうか。このところ出雲、松江に赴くことが頻繁になった。島根県景観形成マニュアル作成委員会、松江市景観対策委員会、出雲市まちづくり景観賞審査委員会、・・・景観関係の委員会が多い。一一月末には、仁多町の景観シンポジウムがある。日本中景観ばやりである。

 加茂町の文化ホールの公開ヒヤリング方式によるコンペは一五〇人が集まる盛況であった(一〇月八日 雑木林の世界36 八月号)が、渡辺豊和氏が設計者に決まった。出雲のことだけはお手伝いしなければと思うのであるが・・・。

 そうした出雲で、一一月一日、第二回出雲建築フォーラム・シンポジウムが開かれた(大社町商工会館)。今年のテーマは「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」という大変なテーマである。去年に続いてコーディネーターの役をおおせつかった。伊丹潤著『朝鮮の建築と文化』、鄭寅國著『韓国建築様式論』、安瑛培著『韓国建築 外部空間』、野村孝文著『朝鮮の民家』、ハウジング・スタディー・グループ著『韓国現代住居学』・・・、にわか勉強もそこそこに厚かましく出かけたのであるが、実に楽しい、刺激的なフォーラムとなった。

 出雲建築フォーラムについては、本欄で二度ほど紹介してきた(雑木林の世界09 一九九〇年五月、雑木林の世界28 一九九一年12月)。全国から神々が集う神在月(かみありづき)に毎年建築フォーラムを開こうというので結成されたのが出雲建築フォーラムである。最初は構想だけの紹介だったののであるが、昨年第一回目が行われ、今年二年目が続けられた。出雲建築フォーラムはなんとなく元気がいい。

 今年は韓国から一線の建築家を招いた。張世洋(チャン・セー・ヤン)氏である。張氏は、日本でも著名な、ソウル・オリンピック・スタジアムの設計者、金寿恨(キム・ス・グン 一九八六年死去)亡き後、空間総合建築士事務所を率いる。「空間社」は総勢百二十一九四七年、釜山に生まれ、ソウル大学校工科大学を卒業した若きリーダーである。

 パネラーは、韓国建築に造詣の深い、伊丹潤氏、日本で慶州の都市史を研究する韓 三建氏、同じく住居学を学ぶ姜恵京氏、密教建築を中心とする建築史の藤井恵介氏、そして高松伸氏である。百人近い参加者があった。会場には、昨年に続いて、長谷川尭氏、渡辺豊和氏の顔も見えた。

  第一回目は「大和建築」に対して、「出雲建築」というものが果して考えられるか。出雲に独自の空間のあり方、自然と人間との独自の関わり、スケール感覚等々が果してあるのか、等々をめぐって議論が行われたのであるが、それならば韓国・朝鮮との関係はどうか、というのが今回のテーマである。

 日本文化と朝鮮・韓国文化が密接につながりを持つことは明らかである。ことに古代においては、その関係は無視し得ない、というより一体で考えた方がいい程だ。古代出雲は特に朝鮮・韓半島との関係が深い。近代には、植民地化の歴史という不幸な関係もある。

 日本の中の朝鮮文化、あるいは朝鮮の中の日本文化をみる視点は日本文化を考える上で欠かすことのできないものである。

 よく、日本で韓国・朝鮮は近くて遠い国といわれる。確かに我々は韓国・朝鮮についてあまりに知らない。しかし一方、近いからわかるということもある。西欧vs日本の構図を超えて、深く理解し合う基盤は日本と朝鮮・韓国の間にある。

 「朝鮮文化が日本建築に与えた影響」といっても、我々はあまりにも朝鮮・韓国の建築について知らない。まずは断片的でもいいから朝鮮・韓国の建築について知ろうというのがシンポジウムの最初の目的となるのは当然の成りゆきであった。

 まず、張氏が、オリンピック・スタジアムなど空間社の作品をスライドで説明した。つくづく思うに、現代建築の動向について我々はほとんど知らない。ソウル・オリンピックの際、体操競技が行われた体育館は、香港上海銀行を差し置いてハイテック技術を顕彰する賞を受賞したと言うのであるが、出雲ドームとよく似ている。傘を広げるその構造もテフロン幕を用いることも、彼は既に試みていたのである。

 彼の作品をめぐっては、シンポジウムでもコメントが出されたのであるが、極めて良質のモダニズムを突き詰めようとする姿勢に好感がもたれた。韓国建築の伝統を現代建築にどう生かすかがひとつの焦点となった。特に、マダン(庭)のスケールをめぐって議論が起こったのが興味深かかった。

 続いて、韓三建氏は、日本の神社と韓国の廟をめぐって、特に廟における儀礼を詳しく説明してくれた。ソウルの宗廟、そして新羅の古都、慶州における廟の事例が中心であった。神社と廟そのものを比較することの問題点はある。しかし、神宮という言葉が朝鮮の方が早いという事実や出雲大社の儀礼と廟での儀礼がよく似ているという事実など考えさせられるテーマが沢山提起された。

 宗廟というと、かって建築家、白井晟一が東洋のパルテノンと呼んだ建築である。宗廟に惹かれて韓国を歩くようになったという伊丹潤氏の吐露もあった。

 朝鮮・韓国建築の特性というと、一方、民家の特性がよく問題とされる。先のマダンもそうだが、すぐ想起されるのがオンドル温突である。高句麗起源ということであるけれど、今では全国で一般的である。また板間としてのマル(抹楼)も特徴的である。このマルをめぐっても議論となった。日本の板間はマルからきたのかどうか。また、マルは南方起源なのか、北方起源なのか。今回初めて知ったのであるが、既に戦前期に、マルの起源をめぐって、藤島亥治郎、村田治郎の両碩学の間で論争があるのである。

 伊丹潤氏が強調したのは、自然観の微妙な違いである。彼によれば、坪庭とか中庭という形で自然を取り込むのが日本であるとすれば、内部も外部もない、あるがままなのが韓国だ。韓国には鑑賞するための空間はない。自然を観る感覚はなく、自然に観られる感覚が強い。儒教の自然観が根底にあるという。

 風水地理説、図讖(としん)思想についての話題も当然出た。風水地理説が韓国に入ってきたのは新羅時代後期のことだという。

 また、床座の問題もでた。日本も韓国・朝鮮も上下足を区分し、床座なのである。さらに茶室韓国起源説もちらりと出た。

 とてもまとめきる能力はなかったのであるが、少なくともテーマの広大な広がりは確認出来たように思う。

 来年はどうするか。テーマは沢山ある。毎年の神在月が楽しみになってきた。神在月にはみんなで出雲へ、ということになりそうな気がしてくるではないか。

  






2023年1月5日木曜日

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング,雑木林の世界39,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199211

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング,雑木林の世界39,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199211


雑木林の世界39

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング

スラバヤ・ソンボ・ハウジング計画

                       布野修司

 

 九月に入って、三週間弱の短い期間であったが、インドネシアに出かけてきた。今回は、バリ→ロンボク→スラバヤ→ジャカルタという行程である。バリ、ロンボクでの住居集落調査の継続とセミナー出席、研究交流が目的であった。

 それぞれに収穫があったのだが、三年振りのジャカルタが新鮮であった。数回訪れているのだけれど、前回の滞在が一日程度だから実際には数年振りの訪問になったからであろう。

 高層ビルが随分と増えた。ベチャ(輪タク)が一掃された。タクシーが随分使いやすくなった。表通りは綺麗になって、清掃車が目立つ。ジャカルタという都市は日々スマートになりつつある、そんな印象である。

 インドネシアに発つ直前、「アジアの都市 その魅力を語る」というシンポジウム(九月四日 於:東京都庁舎 司会 饗庭孝典 パネラー 石井米雄 土屋健治 大石芳野 布野修司 九月一九日 NHK放映)に参加したのであるが、その時に議論のために用意されたジャカルタについてのレポート・ビデオにはいささか半信半疑だった。ディスコやファッションショー、若者文化の洗練さは東京や西欧大都市とそう変わりはないというトーンだったのである。

 しかし、そんなファッショナブルな雰囲気が確かになくもなかった。コタ(下町の中心)のグロドック・プラザに行ってみると、最新のAV機器やコンピューターなど電器製品だけを売る店を集めた超近代的なビルがある。もちろん、周辺には昔ながらのチャイナタウン、問屋街もあるのであるが、一歩足を踏み入れると、東京と言われてもニューヨークと言われても区別がつかないそんなきらびやかさなのである。

 仰天したのは、ジャカルタ湾に面した一大リゾート地風高級住宅地である。入り江には白いクルーザーが並んでいる。それこそ、インドネシアとは思えない別天地の趣であった。もちろん、そのすぐ近くにはバラックが密集する地区がある。昔ながらの貧困の風景もここそこにある。しかし、刻一刻変わって行くのが都市である。ジャカルタも随分変わった。

 そうしたジャカルタで、住宅問題に対するアプローチも少しづつ異なった展開を取り始めているようだ。例えば、新しい形の集合住宅建設が本格化しようとしているのである。

 その先端をきっているのは、スラバヤ工科大学のJ.シラス教授である。十年来の旧知というか、僕のインドネシアにおけるカウンターパートというか、恩師といっていい先生の、その活躍ぶりは実に頼もしい限りである。

 昨年、彼個人は国際居住年記念松下賞を受賞したのであるが、今年はスラバヤ市が一九八六年のアガ・カーン賞に続いて、国連の人間居住センター(ハビタット)の賞を受賞することが決まったという。今回スラバヤ訪問は、その受賞式のため市長以下の一行がニューヨークへ出発する直前のあわただしい時機であった。

 そのJ.シラスがスラバヤのみならず、ジャカルタでもプロジェクトを手掛けている。そのスラバヤでの活動が評価を受けてのことである。また、インドからも声がかかっている。その実績からみて、その活動が注目を集めるのは当然といえるであろう。

 ジャカルタでのプロジェクトはプロガドンPulo Gadongのプロジェクトである。今回、建設中のプロガドンを見てきたのであるが、基本的なコンセプトは、もちろん、スラバヤのデュパッDupakとソンボSomboと同じであった。今のところデュパッが完成、ソンボがほぼ完成といったところである。何がその特徴なのか。

 J.シラスは、何も特別なことはない、自然に設計しているだけだ、どうしてこうしたことが、ジャカルタやタイやインドでできないのかその方が不思議だ、というのであるが、実際はそうでもない。

 そのハウジング・プロジェクトの特徴は、共用スペースが主体になっているところにある。具体的に、リビングが共用である、厨房が共用である、カマール・マンディー(バス・トイレ)が共用である。もう少し、正確に言うと、通常の通路や廊下に当たるスペースがリッチにとられている。礼拝スペースが各階に設けられている。厨房は、各戸毎に区切られたものが一箇所にまとめられている。カマール・マンディーは二戸で一個を利用するかたちでまとめられている。まとめた共用部分をできるだけオープンにし、通風をとる。その特徴を書き上げ出せばきりがないけれど、およそ、以上のようである。

 このハウジング・システムをどう呼ぶか。立体コアハウス、マルチプル・コアハウスはどうか、というのが僕の案であった。コア・ハウスが立体化している、という意味である。しかし、J.シラスは問題はシェルターとしての住居だけではない、ことを強調したいという。

 J.F.ターナーはマルチ・パラダイム・ハウジングを提案しているらしい。J.F.ターナーとは、『ハウジング・バイ・ピープル』、『フリーダム・トゥー・ビルド』の著者で発展途上国のハウジング理論の先導者として知られる。昨年、ベルリンで会った時に、スラバヤの計画を見てそういう概念が話題になったのだという。

 マルチ・ディメンジョナル・ハウジングと呼ぼうと思う、というのがJ.シラスの答である。多次元的ハウジング、直訳すればこうなろうか。

  デュパッやソンボを訪れてみると随分活気がある。コモンのリビングというか廊下がまるで通りのようなのである。そこに、カキ・リマ(屋台)ができ、作業場ができ、人だかりができるからである。二階であろうと三階であろうと、すぐにトコ(店舗)もできる。カンポンの生活そのままである。

 シェルターだけつくっても仕方がない、経済的な支えもなければならないし、コミュニティーの質も維持されなければならない。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングというのは、経済的、社会的、文化的、あらゆる次元を含み込んだハウジングという意味なのである。

 何も難しいことではない。カンポンがそうなのだ。カンポンでの生活を展開できるそうした空間、そして仕組みを創り出すこと、そのモデルはカンポンである。というのがJ.シラスの持論である。

 J.シラスの場合、経験を積み重ねながら、よりよいデザインを目指すそうした姿勢が基本にある。デュパッの経験はもちろんソンボに生かされている。特に、共用のキッチン、カマール・マンディーのありかたにはもう少し試行錯誤が必要だ、というのが今回も話題になった。

 赤い瓦の勾配屋根を基調とするそのデザインは、カンポンの真直中にあって嫌みがない。素直なデザインの中に力強さがある。

  

2023年1月3日火曜日

高根村・日本一かがり火まつり,雑木林の世界37,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199209

 高根村・日本一かがり火まつり,雑木林の世界37,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199209

雑木林の世界37

飛騨高山木匠塾・第二回インターユニヴァーシティー・サマースクール報告

高根村・日本一かがり火まつり

                        布野修司

 五月号でご案内した飛騨高山木匠塾・第二回インターユニヴァーシティー・サマースクール(七月二五日~八月二日)をほぼ予定どおり終えた。参加者は、ピーク時で八〇名、合わせて九〇名近くにのぼった。この「雑木林の世界」を読んで参加した人たちが十二名、感謝感激である。

 主な参加大学は、芝浦工業大学、東洋大学、千葉大学、京都大学、大阪芸術大学の五校。もちろん、単独の一般参加もあった。教師陣は、太田邦夫塾頭以下、秋山哲一、浦江真人、村木里絵(東洋大学)、藤澤好一(芝浦工業大学)、安藤正雄、渡辺秀俊(千葉大学)、布野修司(京都大学)。それに今年は、大阪芸術大学の三澤文子、鈴木達郎の両先生が若い一年生(一回生)を引き連れて参加下さった。三澤先生には、特別にスライド・レクチャーもして頂いた。

 極めて充実した九日間にわたるスクールの内容のそれぞれはとても本欄では紹介しきれない。いくつかトピックスを振り返ってみよう。

 なんといってもハイライトは足場丸太組み実習である。講師として、わざわざ藤野功さん(日綜産業顧問)が横浜から来て下さった。藤野さんは重量鳶の出身である。特攻隊の生き残りとおっしゃる大ベテランなのだが、若い。今でも十分現役が勤まる。外国にもしばしば指導に出かける大先達である。そうした大先生が二十歳の若者に負けない体力、気力を全面にたぎらせて、精力的に指導にあたって下さった。

 塾生のノリは明らかに違う。単なるレクチャーだと眠くなってしまうのであるが、実習となると生き生きしてくる。現場で学ぶことはやはり貴重である。

 藤野さんが到着した夜、早速講義である。四時間でも、五時間でも話しますよ、聞かないと損ですよ、というわけである。まずは、ロープ術である。キング・オブ・ノットと言われる、世界共通の基本の結び方から、「犬殺し」など数種の結び方を教わった。まるで手品のような早業なのであるが、よくよく理解すると、成るほど知恵に溢れた縛りかたである。ヨットや山登りをやるのならともかく、ロープの使い方など日常生活では習うことがない。極めて新鮮であった。

 ロープの結び方をマスターした翌日は、いよいよ、足場丸太組実習である。全員参加でステージをつくったのであるが、まずは丸太の皮剥きである。柄の長い鎌とナタ出で皮を剥いでいくのであるが、結構時間がかかる。そして、一方、丸太を縛る番線をみんなで準備した。これはなれるとそう難しくない。準備ができると、いよいよ組立である。

 番線を締めるシノの使い方が難しい。きちんと締めないとガタガタである。いっぺん失敗するとその番線は使えない。番線をいくつも無駄にしながらも、皆だんだん慣れてきた。うまく行き出すと一人前の鳶になった気分である。階段もつけ、梯子もつくってしまった。完成はしなかったものの、筏つくりに挑戦しようとしたグループもいる。

 藤野さんは、安全と集団の規律には厳しい。朝はラジオ体操で始まり、決められた時間と場所でしか喫煙は駄目である。当たり前のことだけれど、なかなかできない。若い諸君のだらしなさにはイライラされっぱなしであった。それでも、皆が一生懸命だったのを認められたのか、来年も来てやるとおっしゃった。何をつくろうか、今から楽しみである。

 測量実習では、敷地の測量を行った。来年以降の施設整備のためのベースマップとするためである。二つの棟をどう改造するか、また、どう結びつけるか、いささか不自由している風呂の問題をどうするか、バイオガス利用はどうするか、様々な意見が出始めている。来年は、大工仕事も実習になるかもしれない。

 今年は、切り出し現場および「飛騨産業」に加えて、製材所(安原木材)の見学を行った。また、オークヴィレッジと森林匠魁塾にもお世話になった。見学だけでは何かがすぐ身につくということではないけれど、木への関心を喚起するには百聞は一見に如かずである。飛騨の里というのは、木のことを学ぶには事欠かない、実にふさわしい場所である。

 渓流が流れ、朝夕は寒いぐらいに涼しい。森に囲まれ、飛騨高山木匠塾の環境は抜群である。野球大会や釣りなどリクレーションも楽しんだ。まだ、まだ、ハードスケジュールであったけれど、昨年よりはスケジュールの組み方はうまくいったように思う。食事の改善は見違える程であった。リーダーの工夫でヴァラエティーに富んだ食事を楽しむことができた。

 何よりも、学生にとってはそれこそインターユニヴァーシティーの交流がいい。特に、日本の東西の大学が交流するのはなかなか機会がないから貴重である。日本の臍といわれる飛騨高山はそうした意味でもいいロケーションにある。

 飛騨高山木匠塾は、実に多くの人々に支えられて出発しつつある。わが日本住宅木材技術センターの支援はいうまでもないのであるが、実際には久々野高山営林署(新井文男署長)の支援が大きい。また、地元、高根村の御理解が貴重である。

 ところで、その高根村で毎年八月の第一土曜日、「日本一かがり火まつり」が開かれる。昨年はみることができなかったのであるが、今年は最後にみんなで出かけて楽しんだ。

 とにかく、すごい。勇壮である。高根村と営林署の御好意で松明行列に残った全員で参加したのであるが、滅多にない体験である。火を直接使ったり、見たりする経験は、日常生活においてほとんどなくなりつつあるのであるが、原初の火に触れる、そんな感覚を味わうことができたような気分であった。わずかな時間であったが、高根村の企画部の人たちと飛騨高山木匠塾の塾生とささやかな交流をもつことができた。来年は、是非、飛騨高山木匠塾で店を出して欲しい、という要望があった。また、祭の出し物を何か出して欲しいという、要望もあった。

 「かがり火祭」は村を挙げての大イヴェントである。考えてみれば、大変忙しい時期にお邪魔して迷惑をかけているわけである。来年からは少しはお手伝いをしなければ申し訳ない。時間がかかるかも知れないけれども、飛騨高山木匠塾が根づくために、高根村の皆さんとの交流をさらに深めていくことは不可欠なことである。

 







2022年12月28日水曜日

エスキス・ヒヤリングコンペ公開審査方式,雑木林の世界36,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199208

 エスキス・ヒヤリングコンペ公開審査方式,雑木林の世界36,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199208

雑木林の世界36

エスキス・ヒヤリングコンペ・公開審査方式

加茂町文化ホール(仮称)

 

                         布野修司

 

 七月に入って、飛騨高山木匠塾の第二回インター・ユニヴァーシティ・サマースクールが近づいてくる。準備は例によって、藤澤好一先生にお任せなのであるが、今年も賑やかになりそうである。京都大学からは十人が参加、これだけでも昨年の規模を超えるが、一人、二人と問い合わせがあるから、反響もまずまずである。足場組立実習、屋台模型(1/5)製作が楽しみである。

 しかし、それにしても六月は忙しかった。手帳を見直すといささかうんざりする。

 六月一日 中高層ハウジングコンペ、ヒヤリング(長谷工コーポレーション) 東京

 六月三日 日本建築学会近畿支部発表会 大阪

 六月四日 アジア都市建築研究会題 京都

 六月五日~六日 松江市景観シンポジウム「まちの景観を考える」基調講演 松江

 六月一二日 中高層ハウジングコンペ、ヒヤリング(旭化成工業他) 東京

 六月一三日~一四日 NHK教育テレビ特集「C.アレグザンダーの挑戦」収録 東京

 六月一五日~一六日 加茂町文化ホール(仮称)設計者選定委員会。 加茂町(島根県)

 六月一八日 二一世紀日本の国土を考える研究会(建設省官房政策室) 東京

 六月二〇日 東南アジア学研究フォーラム 京都

 六月二三日 特別講義「東南アジアの木造デザイン」(神戸芸術工科大学) 神戸

 六月二五日 アジア都市建築研究会「インドネシアの伝統的民家」(佐藤浩司) 京都

 六月二六日 シンポジウム「バブルが創る都市文化」(中筋修 隈研吾他)コーディネーター 大阪

 六月三〇日 松江市景観対策懇談会 松江

 一体何をやってるんだと叱られそうである。もう少し腰を落ちつけてと思うのであるが、何か得体の知れない流れに流されているというのが実感である。まあ、走りながら考えるしかない。秋にはまた東南アジアのフィールドへ出かけてこの間を振り返る時間をとろうと思う。

 

 さて、加茂町の文化ホールである。

 出雲建築フォーラム(IAF)については、これまで何度か触れた(雑木林の世界09「出雲建築フォーラム」一九九〇年五月、雑木林の世界28「第一回出雲建築展・シンポジウム」一九九一年一二月)。京都には、京都建築フォーラム(KAF)が既にあるし、今年は沖縄建築フォーラム(OAF)とか、東北建築フォーラム(TAF)とかが発足するという。各地域で面白い試みが展開されていく期待があるのであるが、出雲は想像以上の展開である。

 岩國哲人(出雲市長)効果であろうか、出雲では、次々に若い首長が誕生しつつある。加茂町の速水雄一町長もその一人だ。四〇台半ばである。「遊学の里・加茂」をキャッチフレーズに果敢にまちづくりに取り組み始めたところである。

 その一環として、文化ホールの建設を核として新しい何か試みができないか、という相談を受けたのは五月頃のことであった。きっかけは出雲建築フォーラムである。首長が文化施設を施策の目玉にする、というのはどこでもあるパターンである。だから、それだけでなく、その運営も含めて、また、建設のプロセスも含めて、ひとつのイヴェントとしてまちづくりにつなげられないか、というような意欲的な話だった。

 同じく相談を受けた錦織亮雄(JIA中国支部副支部長)、和田喜宥(米子高専)の両先生と相談してやることになったのが、エスキス・ヒヤリングコンペの公開審査方式である。

 いま、建築界では、コンペ(設計競技)のあり方をめぐって、様々なガイドラインが設けられようとしている。日本建築学会や新日本建築家協会(JIA)、建設省で独自の指針がつくられつつあるのである。そうした中で、例えば、林昌二(日建設計)による「採点方式」の提案もある。環境への配慮、使いやすさ、安全への配慮、魅力の度合い、維持費と寿命といったクライテリアで各審査員が採点し、総合点で決めようというのである。若い審査員が他の委員の顔色をうかがわずに採点できるメリットがあるという。

 私見によれば、何をクライテリアにするか、果たして点数化できるか、単に足し算でいいのか、等々、採点方式にはかなりの疑問がある。建築はなによりも総合性が一番だと思うからである。問題は公開性である。公開性の原則さえ維持されれば、異議申し立ても可能になる。審査員も厳しくチェックされる筈である。今回の加茂町文化ホールでは、とにかく審査のプロセスを公開してしまおう、せっかくすぐれた建築家にアイデアを出してもらうのだから、町の人にもどんな文化ホールが欲しいのか一緒に考えてもらおう、というのが素朴な主旨である。うまくいくかどうか、これからの問題である。審査員も大変な能力が要求されるが、とにかくやってみようということになった。当事者ながら、興味深々である。

 エスキス・ヒヤリングというのは、建築家にできるだけ負担をかけないように、最小限のプレゼンテーションのみでいい、という方式であるが、実際は、模型やビデオを用いたプレゼンテーション競争になりがちである。建築家の熱意はそうしたプレゼンテーションに自ずと現れるものであるが、プロの審査員としては当然、実現する建築そのものをきちっと評価できる目が必要である。一方、裏の事情としては、小さな自治体としては指名料をそんなに用意できないという事情がある。今回は、A1版の図面2枚程度で八〇万円という設定になったのであるが、どうであろう。

 加茂町といっても知る人は少ないのだが、宍道湖に面した宍道町に接し、奥出雲の入り口に位置する。その名が暗示するように、京都の上加茂神社の荘園があったところであり、宇治、嵯峨といった京都を見立てた地名がある。それに町内の神原神社から、全国二番目に景初三年銘三角縁神獣鏡が出た土地柄である。すぐ裏は、銅剣が一挙にこれまでに出土した数を超える三百数十本出土して考古学会を驚かせた例の荒神谷である。

 とにかく、出雲と京都に縁のある、出雲建築フォーラムのメンバーおよび第一回出雲建築展への出展者から選んだらどうかというのが僕の意見であった。結果として、指名建築家と決定したのは、亀谷清、高松伸、古屋誠章、山崎泰孝、山本理顕、渡辺豊和の六人である。みな快く引き受けて頂いた。公開ヒヤリングは、十月初旬である。




 


2022年12月27日火曜日

望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

 望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

雑木林の世界35

望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会

 

                         布野修司

 

 昨年暮れから今年の五月にかけて「望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会」という数回の集まりの座長をつとめた。建設省の小さな研究会でほとんどノルマのない自由な放談会の趣があったが、「景観問題」について随分と教えられることの多い研究会であった。

 京都は今再び「景観問題」で揺れている。およそ事情が呑み込めてきたのであるが、解れば解るほど難しい。そうしているうちに、松江市(島根県)から「景観対策懇談会」に加わるようにとの話があった。「まちの景観を考える」シンポジウム(6月6日)にも出てきて意見を言って欲しいとのこと。なんとなく、というより、否応なく、「景観」について考えざるを得ない、そんな羽目に陥りつつあるのが近況である。

 何故、景観問題か

 この十年、景観問題が方々で議論されてきている。各地でシンポジウムが開かれ、様々な自治体では、条例や要綱がつくられつつある。全国で半数以上の自治体に都市景観課、都市デザイン室、景観対策室などが設けられたと聞く。景観賞、都市デザイン賞など、顕彰制度も既に少なくない。建設省でも、都市景観形成モデル都市制度(一九八七年)、うるおい・緑・景観モデルまちづくり制度(一九九〇年)などの施策を打ち出してきている。何故、景観なのであろうか。

 まず、素朴には、古き良き美しい景観が失われつつあり、破壊されつつあるという危機感がある。もちろん、自然景観や歴史的町並み景観をめぐる議論はそれ以前からある。しかし、一九八〇年代のバブルによる開発、再開発の動向は、危機感を一層募らせてきた。また、日本の都市景観は美しくない どうも雑然としている 西欧都市に比べて日本の都市は見劣りがする、という意見もある。

 しかし、おそらく一番大きいのは、経済大国になったというけれど生活環境は果たして豊かになったのか、という疑問であろう。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すのみで、ちっともストックにならない。歴史的に町並みが形成されていくプロセスがない。望ましい建築・まちなみ景観を形成維持して行くためにはどうすればいいのか、少なくとも建築の世界においては大きなテーマになってきたのである。

 景観とは何か

  ところで景観とは何か。このところ「景観」とか「風景」をテーマにした本が目につく。そのこと自体、「景観」が一般にも大きな関心事となっていること示すのであるが、内田芳明氏の『風景とは何かーーー構想力としての都市』(朝日新聞社 一九九二年 他に 『風景の現象学』 中公新書 一九八五年 『風景と都市の美学』 朝日選書 一九八七年など)によれば、「景観」とは「風景」を「観」ることである。「景観」が自己中心の主観的な身勝手な見方、対象の部分を断片化する見方であるとすると「風景」は土地土地で共有された見方である。ヨーロッパでは、風景(landscape landchaft)とは「土地」、「地域」のことだという。中村良夫氏の『風景学入門』(中公新書 一九八二年)によれば、「風景とは、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である」。

 「風景」とは、風情=情景であり、心情(なさけ こころ)が入っている。風土、風、風化、景色、光景、・・など類語をさぐりながら「風景」の意味を明らかにするのが内田氏であるが、景観問題とは、そうした地域=風景が破壊されつつあることにおいて意識され始めた問題であるということができるであろう。

 景観問題を引き起こすもの

 景観問題を引き起こすものは何かというと、例えば、全国一律の法制度がある。大都市も小都市も、同じ規制という日本のコントロール行政は大いにその責任があるだろう。建築家だってかなりの責任がある。やたら新奇さを追うだけで、風景の破壊に荷担してきた建築家は多いのである。

 そもそも近代建築の論理、理念と風景の論理は相容れない。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱型の建築は、もともとどこでも同じように成立する建築を目指したものである。国際様式、インターナショナルスタイルがスローガンであった。合理性、経済性の追求は、結果として、色々なものを切り捨ててきたことになる。その論理に従えば、本来地域に密着していた風景が壊れるのは当然のことなのである。

 近代建築は面白くないといって喧伝されてきたポストモダニズムの建築もかえって都市景観の混乱を招いたようにみえる。徒に装飾や様式を復活すればいいというものではない。地域性の回復ということで全国同じように入母屋御殿が建つというのも奇妙なことである。

 景観形成の指針とは

 景観、ここでいう風景を如何に形成していくかについては少なくとも以下のような点が基本原則となろう。

 ●地域性の原則 地域毎に独自の固有な景観であること

 ●地区毎の固有性 地区毎に保存、保全、修景、開発のバランスをとること

 ●景観のダイナミズム 景観を凍結するのではなく、変化していくものとして捉えること

 ●大景観 中景観 小景観という区分 景観にも視点によって様々なレヴェルがある

 ●地球環境(自然)と景観  自然との共生

 具体的にどうするか、ということで、まず、前提となるのは、どのような景観が望ましいかについて常に議論が行われ、地域毎に、あるいは地区毎に共通のイメージが形成されることである。地域の原イメージを象徴するものとはなにか、その地域にしかないものとは何か、その地域には要らないものは何か、等々議論すべきことは多い。

 次に原則となるのは、身近かな問題から、できることからやるということである。議論ばかりでは進展しないし、景観というのは日々変化し、形成されるものである。清掃したり、花壇をつくったり、広告、看板を工夫したり、といったディテールの積み重ねが重要である。

 建築行政としては、いいデザインを誘導することが第一であるが、地区モニター制度、景観相談、景観地区詳細提案など制度として検討すべきアイディアが色々ありそうである。






 

 


2022年12月25日日曜日

土木と建築,雑木林の世界34,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199206

 土木と建築,雑木林の世界34,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199206

雑木林の世界34

土木と建築

「土建屋国家」日本の変貌

 

                         布野修司

 

 茨城県木造住宅センターハウジングアカデミーの開校式が華々しく行われた。第一期入校生八名。定員通りである。紆余曲折はあったものの、とにかく開校にこぎつけたのはめでたい。長い間、そのお手伝いをしてきたものとしてはひとしお感慨深いところだ。その発展を心から期待したい。

 SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は、2年目を迎えて模索が続く。SSA(サイト・スペシャルズ・アカデミー)設立を大きな車輪の軸にして、その基盤づくりが当面の目標となるが、その推進役として新たに日本大学理工学部の三浦先生(交通土木)を理事として迎えた。最初の一年は建築の分野を中心に講師を招いてフォーラムを続けて来たのであるが、今年は、土木の分野も含めた展開がはかられることになる。

 今年に入って、フォーラムが既に二度開かれたのであるが、一回目(三月二四日)は、鈴木忠義(東京農大)先生、二度目(四月二二日)は花安繁郎(労働省産業安全研究所)先生が講師であった。

 「今、なぜ「技」なのか」と題した鈴木忠義先生の講演は、長年の経験を踏まえて「芸」と「技」の重要性を力説され、「職人大好き人間」の面目躍如たるものがあった。面白かったのは「飯場リゾート論」である。飯場をリゾート施設としてつくり、工事が終わった時に地元に運営を委ねたらどうかというのである。一石二鳥にも三鳥にもなる。なるほどと思う。

 「建設工事労働災害の発生特性について」と題した花安繁郎先生の講演は、いささか深刻なものであった。建設工事において事故は一定の確率で起こっているというのである。様々なデータをもとにした実証的な研究がもとになっていて迫力があった。建設業界に置いて安全の問題が極めて重要である実態を今更のように思い知らされたのである。

 

 土木と建築というと近いようでいて遠い。僕なども土木の世界というと全く縁がなかった。土木と建築ではまず第一にスケールが違う。ということは扱う金額が違う。それだけでも話が合わないという先入観がある。しかし、今度、SSFを通じて土木の世界の一端に触れてみて思うのは、土木というのが気の遠くなるような手作業を基本としていることである。少なくとも、同じ土俵で考え、取り組むべきことが多いということはSSFに参加して痛感するところである。

 土木と建築とは本来相互乗り入れできる分野は少なくない。しかし、両分野には、様々な理由から、歴史的、社会的に壁が設けられてきたようにみえる。縄張り争いもある。都市や国土の基盤整備を担当する土木の分野と、そうした基盤を前提にして空間をデザインする建築の分野には発想や方法の上で違いがあることも事実である。

 そこで問題となるのは都市計画や地域計画を考える場合である。全体として考えられ、検討さるべき都市が全く連携を欠いた形で計画されることが多いのである。日本の都市の景観が雑然としてまとまりがない原因の一端は土木と建築の両分野が連携を欠いてきたことにもあるのである。

 そうした歴史への反省からであろう。都市景観の問題をめぐって新たな動きが展開されつつある。そのひとつが橋梁のデザインがコンペ(設計競技)によって決定される例が増えてきたことである。はっきりいって、デザインについては、建築の分野に一日の長がある。建築家が橋梁や高速道路のデザインに大いに腕を奮ってもおかしくないし、大いに可能性のあることである。また、デザインのみならず、両分野が連携をとることによって都市に対する新たなアプローチが様々に見つかる筈である。

 

 四月に入って、京都大学で授業を始めたのだが、最初の講義が「建築工学概論」という土木の四年生向けの授業だったせいであろうか、なんとなく、建築と土木の関係について考えさせられる。今、全国の大学の工学部ではその再編成の問題が議論されつつあり、土木、建築の建設系を統合しようという動きも現実にある。

 土木の学生に話すのに土木のことを全く知らないというのでは心許ないからと、高橋裕先生の『現代日本土木史』(彰国社 一九九〇年)をざっと読んでみた。「現代日本」というのだけれど、明治以前の記述も三分の一を占めており、しっかりした歴史的パースペクティブに基づいたいい教科書である。近年、各大学で「土木史」の講義が行われ始めたという。土木の世界が変わりつつあるひとつの証左かもしれない。

 『現代土木史』を通読してみてつくづく思うのは土木工学がその出自において工学の中心であったという今更のような事実である。シビル・エンジニアリングが何故「土木」と訳されたのかは不明であるが、シビル・エンジニアリングと言えば「土木」のことであったのである。イギリスなどにおいても、シビル・エンジニアの職能団体や学会の設立は建築の場合よりはるかに早い。

 お雇外国人のリードで始まる近代日本の土木の展開は、建築の場合とよく似ているが、明治国家にとっての重要度という点では土木の方がはるかに高かった。殖産工業のための産業基盤整備に大きなウエイトが置かれるのは必然である。鉄道、道路、ダム、トンネル、治水、上下水、・・・土木技術が日本の「近代化」を支えてきたことは紛れもない事実である。『現代土木史』がその軌跡を跡づけるところである。

 ところが、そうした土木の分野も大きな転換点を迎えつつあるようである。「職人不足」に関わる問題もその転換のひとつの要因である。また、土木技術が自然環境を傷つけ乱してきたという反省もその一因となっている。土木技術に内在する問題が真剣に問われ始めているのである。高橋裕先生は「土木工学は本来土木事業を施工することによって新たな環境を創造するための工学であった。開発行為が拡大し巨大化するにつれ、その行為自体が原環境に与える影響が大きくなると、開発と自然環境との共存を深く考慮することが、土木工学の基本原理として顕在化してきたのである。環境創造の基礎としての土木技術は新たな段階に入ったといえる」と書く。

 土木学会は、「地球工学」、「自然工学」、「社会基盤工学」などその改称を考えたのであるが、結局、土木の名を残す事になったという。土木景観への関心から土や木など自然材料が見直されているからでもあろう。

 地球環境全体が問われるなかで「土建屋国家」日本は変貌しつつあるし、また、変貌して行かざるを得ない。そのためには、建築、土木の両分野は、垣根をとっぱらう前提としても、まず基本原理を共有する必要があるだろう。景観、自然、サイト・スペシャルズ、・・・キーワードは用意されつつある。

 


2022年12月21日水曜日

2022年12月19日月曜日

第二回インタ-ユニヴァ-シティ-・サマ-スク-ルにむけて,雑木林の世界33,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199205

 第二回インタ-ユニヴァ-シティ-・サマ-スク-ルにむけて,雑木林の世界33,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199205

雑木林の世界33

飛騨高山木匠塾 

第二回 インターユニヴァーシティー・サマースクールへ向けて

 The 2nd Inter-University Summer School

 

                         布野修司

 

 一九九二年二月二七日、大阪のメルパルクホールで、AF(建築フォーラム)主催のシンポジウム「闘論・建築の世紀末と未来」(磯崎新・原広司 コーディネーター・浅田彰)が開かれた。壮々たるタレントを配したせいであろうか。千人の聴衆を集めた。これには主催者の一員である僕もびっくりである。開演は一八時半だったのであるが、なんとお昼過ぎには列ができた。建築のシンポジウムでこんなことはそうそうないのではないか。少なくとも僕にとって初めて経験であった。

 議論は、日本を代表する両建築家と天才・浅田彰の名司会で実に刺激にみち、充実したものとなった。内容については、今年の秋には刊行される『建築思潮』創刊号に譲るとして(AFでは現在会員募集中 連絡先は、06-534-5670 AF事務局.大森)、なぜ千人もの聴衆が集まったかについて、色々な意見が出た。なんとなく思うのは、バブル経済に翻弄されて忙しく、建築界に議論が余りにも少なかったために議論への飢えがあるのではないか、ということである。東京でなく大阪だったのもいいのかもしれない。スライド会のような講演会ばかりではなく、ちゃんとした議論を行なう場を今後ともAFは続けて行きたいものである。

 

 さて議論の場といえば、飛騨高山木匠塾の第二回「インターユニヴァーシティー・サマースクール」の開催要領案が出来上がった。以下にメモを記して御意見を伺いたいと思う。主旨はこれまでに二度ほど本欄(雑木林の世界23 飛騨高山木匠塾一九九一年七月。雑木林の世界25 第一回インターユニヴァーシティー・サマースクール 一九九一年九月)に書いてきた通りである。気負わずに言えば、建築を学ぶ学生、若い設計者ににできるだけ木に触れさせよう、そうした場と機会を恒常的につくりたいということである。今年も前途多難なのであるが、うまく行けば、秋口に全国から関心をもった人々を募ってシンポジウムが開けたらいいとも考え始めているところである。

 

  ●期間 1992年7月25日(土曜)~8月2日(日曜)

  ●場所 岐阜県高根村久々野営林署野麦峠製品事業所

 ●主催 飛騨高山木匠塾(塾長 太田邦夫)

 ●後援 名古屋営林局・久々野営林署/日本住宅木材技術センター/高山市/高根村/AF(建築フォーラム)/サイトスペシャルズフォーラム/日本建築学会/日本建築セミナー/木造建築研究フォーラム(以上 予定)

 ●1992年度スケジュール(予定)

 7月25日(土) 13:00 現地集合

                施設整備

 7月26日(日)       会場設営

          13:00 オープニング・パーティー

                              オープニング・レクチャー①

 7月27日(月)  9:00 山林見学 伐採 製材 

                フィールド・レクチャー A

            夜          レクチャー②

 7月28日(火)  9:00 オークヴィレッジ    B

                森林魁塾        C

            夜          レクチャー③

 7月29日(水)  9:00 高山見学・屋台会館   D

                飛騨産業(家具工場)  E

            夜          レクチャー④

 7月30日(木)  9:00 実習          F

            夜   ロシアン・ルーレット・ゼミ

 7月31日(金)  9:00 実習

            夜          レクチャー⑤

 8月 1日(土)     野球大会(オケジッタグラウンド)

                ます釣り 他

            夜   日本一かがり火祭り

                フェアウエル・パーティー

 8月 2日(日)       清掃

          10:00 解散     

●プログラム

○レクチャー ① 太田邦夫(塾長 東洋大学)  世界の木造建築/② 藤沢好一(芝浦工業大学) 木造住宅の生産技術/③布野修司(京都大学) 日本の民家の特質/④ 安藤正雄(千葉大学) 木造住宅のインテリア計画/⑤ 秋山哲一(東洋大学) 木造住宅の設計システム

 A 中川(久々野営林署次長)/B 稲本(オークビレッジ主宰)/C 庄司(森林魁塾)/D 桜野(高山市)他/E 日下部(飛騨産業)

 講師陣(予定)   浦江真人 村木理絵(東洋大学)、松村秀一(東京大学)、古阪秀三、東樋口護(京都大学)、大野勝彦(大野建築アトリエ)、古川修、吉田倬郎(工学院大学)、大野隆司(東京工芸大)、谷卓郎、松留慎一郎(職業訓練大学)、野城智也(武蔵工業大学)、深尾精一、角田誠(東京都立大学)他

○実習

 1。屋台模型制作実習 1/5および原寸部分/2。家具デザインコンペ /3。家具制作/4。足場組立実習/5。施設全体計画立案/6。野外風呂建設 /7。バイオガス・浄化槽研究/8。竈建設/9。測量実習 /10。型枠実習                       ●参加資格 木造建築に関心をもつ人であれば資格は問わない

 ●参加予定 芝浦工業大学・東洋大学・千葉大学・京都大学・東京大学・工学院大学・都立大学・東京工芸大学・職業訓練大学・武蔵工業大学

 ●参加費 学生 3000円/日(食事代、宿泊費含む)/一般 5000円/日(食事代、宿泊費含む)/但し、シーツ、毛布、枕カヴァーは各自持参のこと。

●連絡先 芝浦工業大学 藤澤研究室(tel 03-5476-3090)/京都大学  西川・布野研究室(075-753-5755)/千葉大学 安藤研究室(0472-51-7337)/東洋大学 太田・秋山・浦江研究室(0492-31-1134) 





2022年12月10日土曜日

技能者養成の現在,雑木林の世界31,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199203

 技能者養成の現在,雑木林の世界31,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199203

雑木林の世界31

 技能者養成の現在

 茨城木造住宅センター・ハウジング・アカデミー開校

                        布野修司

 

 年が明けて、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の運営委員会が京都で開かれた。一周年記念の国際シンポジウム「明日のサイトスペシャリスト」は大成功であったのであるが、活動二年目の方針をどうするか、がテーマである。

 ●支部設立を軸に定例フォーラムを開催する

 ●「職人大学」構想の実現化へむけたプログラムを具体的に実  施する

 ●SSFニュースの充実

 ●報告書の出版

  マイスター制度視察報告

    国際シンポジウム報告など

 ●調査研究、技術開発

  実態把握をもとにして情報公開のシステムを構築する。

  技術開発、研究開発を行なう

 ●出版、ビデオ制作など、SSFの存在をアピールするための  諸方策を検討し、事業化を図る。

 ●その他、各種イヴェント、事業の可能性を追求する

などが検討事項であった。

 

 続いて、「楔の会」が同じく京都で開かれた。「楔の会」というと知る人ぞ知る、日本の木造住宅行政に先鞭をつけたグループである。建設省建築研究所の第一研究部長の鎌田宣夫氏が組長(会なのに何故か組長という)をつとめられる。十年ほど前、たまたま本誌に書いたことがあるのであるが(「木造住宅歳時記 熊谷うちわ祭り」 一九八三年八月)、木造住宅研究会と居住文化研究会が合同して結成されたのが「楔の会」である。偶然、その発足の会に立ち会った経緯があって、名前だけの会員にして頂いてきた。今回は、セキスイハウス総合研究所の「納得工房」の見学を中心プログラムとして初めて関西で開かれたのであった。

 この十年、木造住宅をめぐる状況の変化は隔世の感がある。随分と一般の木造住宅への関心は高まったといっていい。しかし、木造住宅はどんどん減りつつある。どんどん減るから、関心は高まる、そういうことだ。この流れは如何ともしがたいのであろうか。抜本的な施策はまだないのである。

 

 このところの業界の焦点は技能者養成である。木造住宅の振興を計ろうにも、技能者がいなくなるのであればどうしようもない。例えば、京都の町家を保存しろといっても、修理や改築を行う大工さんをはじめとする職人さんがいなくなればどうしようもないではないか、そんな声がある。一方、「木造住宅、木造住宅」というけれど、木造住宅を建てる人がいなくなれば、木造関連の技能者など必要なくなるではないか、という声がある。木造住宅の需要が増えるのであれば職人は自然と育つ、減るのであれば職人はいらなくなる、議論を乱暴に単純化すれば、根底にはそうした需要と供給の問題がある。ただ単に、職人を養成すべきだ、木造住宅を増やすべきだ、といっても始まらないことである。

 しかし、技能者の養成の問題、木材生産の問題はもとよりそんなに単純ではない。第一に言えるのは、時間がかかるということである。特に、技能者養成は一朝一夕でできるものではない。木材生産についても、外材に頼らず、国産材主体で考えるということになれば、言うまでもなく、長期的な視点とプログラムが必要である。その時々の需給関係に委ねればいいというわけにはいかないのである。

 第二に言えるのは、人の育成というのは社会の編成そのものに関わるということである。林業や建設業に入職する若者が少ないというのは、何も若者のせいではない。木造住宅を支える世界全体、業界や社会全体の問題である。技能者教育の問題である以前に学校教育の問題であり、ひいては社会全体の問題である。偏差値によって一元的にその能力が判断される学歴社会において、職人社会は評価されない。社会的に評価も薄く、報酬も少ないとすれば、若者が参入しないのは当然のことである。

 こうした中で何がなされなければならないのか。社会の編成を問題にする以前に業界の体質改善の問題がもちろんある。建設業界には解決すべき問題がまだまだ数多い。というより、問題は構造的であり、構造そのものの改善が必要である。

 職人養成については、既に様々な取り組みがなされている。それなりの資本力をもった民間企業が技能者養成に力を入れるのは、その死活に関わる以上、当然のことである。しかし、技能者養成は決して民間企業にまかせおけばいいわけではない。

 問われているのは全体システムである。深刻なのは中小の工務店の方である。問題は、徒弟制によって職人の養成を全体として引き受けてきたそうした世界なのである。徒弟制の復活を試みることはアナクロであるとしても、地域地域で新しい仕組みをどう再構築するかがテーマとなる筈である。

 行政の役割があるとすれば、地域における職人養成の仕組みをどう支援するかであろう。この欄で二度触れた(九〇年八月、九一年一一月)「茨城木造住宅センター・ハウジングアカデミー」の試みはそのひとつである。

 「茨城木造住宅センター・ハウジングアカデミー」も、この間紆余曲折があった。しかし、どうにか四月開校にこぎつけそうである。インドネシアに出張していて、肝心の時には、谷卓郎先生、藤澤好一先生に全てお任せであったのであるが、細部をつめるに当たっては難しい問題が続出した。まだまだ、クリアしないといけない問題は山積しているのであるが、なんとか出発できる、そんな段階に至ったことは実に快挙といえるのではないか。

 まず指摘できるのは、住宅行政の側から投じられた施策が商工労働行政との調整連携によって実現しようとしていることである。全国でも珍しいことではないか。技能者養成のプログラムは、社会全体の編成に関わる以上、各省庁の施策は当然関連してくる。特に、地方自治体のレヴェルでは緊密な連携が必要となる。茨城は、そのささやかな先例となるのではないか。

 訓練科目、訓練課程、訓練内容、訓練機関、訓練時間など研修内容、施設整備の他にも実施に向けて検討すべき課題もまだまだ多い。雇用条件も、組合員で同一に決定しなければならない。新入生の宿舎などもきちんと確保しなければならない。教授人のリストアップはできたのであるが、生活指導体制の確立も急務である。OJTのプログラムも具体的に組む必要がある。

 しかし、本当の問題は運営費用をどう捻出するかである。住宅請負契約額の一%を組合でプールするとか、恒常的な運営基金を考える必要があるのだ。個々の工務店が養成の費用を個々に負担するのは大変である。そのコストを組合全体で、また地域の業界全体でプールする仕組みはないか。困難な試みの行方に次のステップが見えてきた。

 


2022年12月8日木曜日

ロンボク島調査,雑木林の世界30,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199202

 ロンボク島調査,雑木林の世界30,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199202

雑木林の世界30

ロンボク島調査

                        布野修司

 

 昨年の師走は実に忙しかった。といっても、贅沢な忙しさだ。一二月六日に日本を発って、帰国したのがクリスマスの二五日、ほとんどを暖かいインドネシアで過ごしたのである。随分と優雅に思われるに違いない。忙しい最中、周囲の迷惑を顧みず出かけるだけでも我が侭である。真っ黒になって帰国したから、スキー焼けに間違えられて、言い訳も大変であった。帰国した翌日、東京には初雪が降った。常夏の島から雪の島へ、その落差はさすがに身に応えた。

 今回のインドネシア行はロンボク島の住居集落についての調査が目的であった。ロンボク島と言えば、バリ島のすぐ東に接する島だ。間にウオーレス線が走り、動植物の生態ががらっと変わるので知られる。話はそれるが、A.R.ウオーレスの『マレー諸島』の翻訳(宮田彬訳 思索社)が昨年出たのだが、それを読むとダーウィンの進化論のアイディアはもともとはウオーレスによるらしい。

 調査研究の方は、住宅総合研究財団の研究助成で、いささか大げさなのだけれど、研究題目を「イスラーム世界の住居集落の形態とその構成原理に関する比較研究ーーインドネシア(ロンボク島)の住居集落とコスモロジー」という。以前この欄で触れたのであるが(雑木林の世界25 一九九一年五月)、「イスラムの都市性」に関する研究が母体となった研究である。メンバーは、応地利明(京都大学文学部 教授  地域環境学)、堀 直  (甲南大学文学部 教授  中央アジア史)、金坂清則(大阪大学教養部 助教授 都市・歴史地理学)、坂本 勉(慶応大学文学部 教授 イスラム社会史)、佐藤浩司(国立民族博物館 助手  建築史)である。残念ながら、堀先生は参加できなかったのであるが、他分野の先生との本格的な共同調査は初めての経験である。実に刺激的な三週間であった。

 白状すれば、どのような方法で、どのような調査を行うかについて、きちんと議論をつめて出かけたわけではない。実際に、都市や集落をみて、具体的な方法を考えようという、そうした意味では予備的な調査の構えであった。しかし、結果的にかなり本格的な調査を行うことになったのは、チャクラヌガラ(Cakranegara)という極めて興味深い都市に出会ったからである。チャクラヌガラというのは、実に整然としたグリッド・パターンの都市であった。明らかにヒンドゥー都市のパターンをしている。バリにも、あるいはインドにも、こうきれいなパターンはないのである。

 知られるように、ロンボク島は、その西部はバリの影響でヒンドゥー教の影響が強く、東部はイスラーム教が支配的であるというように、インドネシアでも特異な島である。イスラームとヒンドゥーの違いによって、集落や都市ののパターンはどう異なるか、平たく言えば、そうした関心からロンボク島を調査対象として選択したのであった。

 「住居はひとつのコスモスである。あるいは、住居にはそれぞれの民族のもつコスモロジーが様々なかたちで投影される、といわれる。しかし、必ずしもそうは思えない地域も多い。つまり、コスモロジーは、必ずしも、幾何学的な形態や物の配置に示されるとは限らない。宇宙観が形象として強く現れる場合と極めて希薄な場合がある。

  本研究は、住居集落のフィジカルな構成原理を明らかにすることを大きな目的とし、住居集落の形態とコスモロジーの関係について考察する。すなわち、住居集落の構成原理に関わる思想、理念を問題とし、その具体的内容、地域における差異などを明らかにする。具体的に焦点を当てるのは、インドネシアであり、比較のための圏域としてイスラム圏を選定する。

 一般に、インドネシア、とりわけ、ジャワ、バリ、東インドネシアにおいては、住居集落の構成とコスモロジーの強い結び付きを見ることができる。一方、一般に、イスラーム圏においては、住居集落の構成とコスモロジーとの結び付きは希薄であるように思える。その差異は何に起因するのか考察したい。インドネシアは、今日、イスラーム圏のなかで少なくともそのムスリム人口の比重において大きな位置を占めるのであるが、住居集落の構成を規定するコスモロジーはより土着的な基層文化である。住居集落の形態は多様な原理によって規定される。自然環境、社会組織、建築技術、などの差異によって住居集落の形態は地域によって多様である。本研究は、住居集落の形態とそれに影響を与える思想や理念、すなわちコスモロジーに焦点を当てることによって、その多様性について考察を深めるねらいをもつ。すなわち、住文化の複合性について明らかにすることが大きな目的となる。」

 と、研究目的にうたったのであるが、具体的に対象となる都市や集落が存在するかどうかについては、事前の文献調査では必ずしも検討がついてはいなかった。チャクラヌガラの発見で、議論ははずみ、調査に熱がはいったのである。毎日、手分けをして、町を歩測しながら歩いた。全歩行距離数はかなりのものになる。

 われわれにはひとつの仮説があった。それはおよそこうだ。

 都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。都市の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向が強い。

 チャクラヌガラをどう解釈するかはこれからの課題なのであるが、バリ・ヒンドゥーのコスモロジーを基礎にしているのはまず間違いが無い。ここでも、バリ文化の周辺により理想の都市モデルをみることができるのである。

 チャクラヌガラの南北東西の大通りの南は右京、左京(仮にそう名づけた)とも四×四の一六ブロックからなる。一ブロックは一辺約二百メートル、南北に四分割され、各区画は背割りの形で十づつの宅地に分けられていたと思われる。個々の宅地は東西からアプローチがとられるている。東北の角には、サンガ(屋敷神)が置かれ、ヒンドゥーの住まいとすぐわかる。ムスリムは今では都市周縁部に居住する。そのかっての骨格はきちんと保存されているのである。

 ロンボク島での調査は、チャクラヌガラが中心となったのであるが、その外港であるアンペナンについても若干の調査を試みた。カンポン・ムラユ、カンポン・ブギス、カンポン・アラブ、カンポン・チノなど、植民都市の歴史を残して、いまでも棲み分けがみられる。また、南部の山間部、北部の山麓には、ワクトゥー・ティガと呼ばれる(それに対して、厳格にイスラームの教えを守るムスリムをワクトゥー・リマという)、ムスリムでも土着の文化も保持する人々の集落がある。小さな島だけれど、様々な文化の重層をみることができる。実に興味深い島である。