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2022年4月23日土曜日

”建築学科”の崩壊と職人大学, 建築年報1999, 日本建築学会, 199907

 ”建築学科の崩壊と職人大学, 建築年報1999, 日本建築学会, 199907 

”建築学科”の崩壊と職人大学

布野修司


 「”建築学科”の崩壊」とは、また、随分刺激的な題を頂いたものである。””とあるから、”建築学科”にも色々あって崩壊するものもあれば、そうでないのもある、ということか、などとと考えてしまう。確かに、この間理工学系部の再編成に伴って、日本中の大学から”建築学科”という学科名が消えていくという事態が続いている。大学院重点化ということで、新しい専攻の名が求められたということもある。やたらに増えているのが、「環境」(「文化」「国際」)という名のつく学科である。因みに、筆者の属する専攻も「生活空間学専攻」と変わった。

 ”建築学科”という名前が消えていくのは寂しいことではあるが、日本における”建築”を取り巻く環境が大きく変わり、建築界が構造改革せざるを得ないこと、また、それに伴い”建築学科”も変貌せざるを得ないことは否定できないことである。

 右肩上がりの成長主義の時代は終わったのであり、建設活動はスローダウンせざるを得ない。フローからストックへ、は趨勢である。農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の2割を超えるまでに至る。”建築学科”は1960年代初頭から定員増を続け、各大学に第二の建設系学科がつくられた。しかし、今や、”建築学科”はさらには必要ないだろう。建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、半減してもおかしくない。”建築学科”の崩壊(定員割れ)と呼びうる現象の背景には、日本の産業構造の大転換がある。

 しかし、”建築学科”の崩壊は、より深いところで進行しているのではないか。単に量(建設量、建設労働者数、学生数)の問題であるとすれば、淘汰の過程に委ねるしかないだろう。時代に対応できる人材とそれを育てうる”建築学科”のみが生き残る。ストック重視となれば、維持管理の分野がウエイトを増すであろう。需要に従って建設業界が再編成されるのは必然である。”建築学科”のカリキュラムも見直しが必要となる。しかし、問題はそれ以前にある。

 端的に言って、”建築家”(建築士)の現場離れの問題が本質的である。現場の空洞化、”職人”世界の崩壊の問題である。さらに、建設技術における専門分化の徹底的な進行の問題がある。建築という総合的な行為があらゆる局面で見失われつつあるのである。

 ”建築学科”における教育研究の問題が以上のような日本の建築界が抱える問題と密接に結びついていることはいうまでもない。日本の”建築学””建築学科”は「工学」という枠組みの中で育ってきた。学術、技術、芸術の三位一体をうたう日本建築学会は工学分野ではかなり特異である。しかし、建築の設計という行為が学術、技術、芸術の何れにも関わる総合的な行為であることは洋の東西を問わない。大きな問題は”建築学科”の特質がなかなか一般に理解されないことである。例えば、”建築学科”のカリキュラムにおいて、総合的トレーニングの場であるべき”設計教育”は各大学において必ずしも中心に位置づけられているわけではない。教員の資格については専ら学術的業績(論文の数)が問題にされる。建築教育は専ら座学で、実習や研修は位置づけが低い。

 大きく視野を広げれば日本の教育体制の全体が関わっている。いわゆる偏差値社会の編成である。高校、大学への進学率が高まり、ペイパー・テストによって進学と就職が決定される、そんな一元的な社会が出来上がった。建設産業の編成としては、”職人”世界から”建築家(建築士、建築技術者)”世界への流れが決定的になった。学歴社会は、大工棟梁になるより一級建築士になる方がいい、という価値体系に支えられている。結果としてわれわれが直面するのが建設産業の空洞化である。

 1990年11月27日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。建設現場で働く、サイト・スペシャリストの社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関としてSSFは設立された。スローガンは当初から’職人大学の設立’であった。主唱者は日綜産業社長小野辰雄氏。中心になったのは、専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。いずれも有力なサブコンであり、”職人”の育成、待遇改善に極めて意欲的であった。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初から筆者はSSFの運動に参加してきた。それからかなりの月日が流れ、その運動はいま最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学」が開学(2001年4月予定)されようとしているのである。筆者は、その母胎となる国際技能振興財団の評議員を勤めさせて頂いている。バブルが弾け「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった。ある感慨がある。

 SSFの主唱者小野辰雄氏はもともと重量鳶の出身である。その経験から足場メーカーを設立、その「3Mシステム」と呼ばれる支保杭と足場を兼ねる仮設システムを梃子として企業家となった。その活動はドイツ、アメリカ、アジア各地とグローバルである。その小野氏がどうしても我慢がならないことが現場で働く職人が大事にされないことである。当時はバブル経済華やかで職人不足が大きな話題であった。3K(きたない、きつい、給料が安い)職場ということで若者の新規参入がない。後継者不足は深刻であった。そうした中で、職人が尊敬される社会をつくりたい、そのために”職人大学”をつくりたい、というのが小野氏以下SSF参加企業の悲願であった。

 最初話を聞いて大変な何事かが必要だというのが直感であった。そこで藤沢好一(芝浦工業大学)、安藤正雄(千葉大学)の両先生に加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。この間のSSFの活動はSSFニュースなどにまとめられている。

 議論は密度をあげ、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られない。そこで兎に角何かはじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は佐渡(真野町)での一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで一週間のスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。現場校、地域校、拠点校と職人大学のイメージだけは膨らんでいった。カリキュラムを考える上では、並行して毎夏、岐阜の高根村、加子母村を拠点として展開してきた「木匠塾」(一九九一年設立 太田邦夫塾長)も大きな力になった。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(一九九六年一月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。

 「産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。」

 ”職人大学”設立はやがて自民党の選挙公約になる。

 その後、めまぐるしい動きを経て、(財団)国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、その設立大会が行われた(一九九六年四月六日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学というのが仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たられることが決まっている。一九九七年にはキャンパス計画のコンペも行われ、用地(埼玉県行田市)もあっという間に決まった。今は、文部省への認可申請への教員構成が練られているところである。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科(機械プロセスコース、機械システムコース、設備メンテナンスコース)と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

①ものづくりに直結する実技教育の重視

②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視

③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視

④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視

⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視

⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

 具体的な教育システムとしては、産業現場での実習(インターンシップ)、在職者の修学、現場のものづくりを重視した教員構成をうたう。

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。

 もちろん、設立される”職人大学”がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。

  何故、文部省認可の大学なのか。”職人”の技能””工芸”を日本の教育システムのなかできちんと評価してほしい、という思いがある。人間の能力は多様であり、偏差値によって輪切りにされる教育体制、社会体制はおかしいのではないか、という問題提起がある。だから、ひとつの大学を設立すれば目標達成というわけにはいかない。実際、続いて各地に”職人大学”を建設する構想も議論されている。

 ただ、数が増えればいいということでもない。問題は”職人大学”がある特権を獲得できるかである。具体的に言えば、”技能””工芸”に関わる資格の特権的確保である。”職人大学”の構想もそうした社会システムと連動しない限り、しっかり根づかないことは容易に予想される。例えば、日本型のマイスター制度が同時に構想される必要があるのではないか。

 しかしそれ以前に、現場を大事にする、机上の勉強ではなく、身体を動かしながら勉強するそんな教育が何故できないのか、”建築学科”の再生がそれぞれの現場で問われていることは言うまでもないことである。





2022年4月9日土曜日

シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07

 シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,1999110607





2022年2月10日木曜日

J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

  14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

J.シラスのこと

布野修司

 

 インドネシアに最初に行ったのは一九七九年一月のことだ。そして、その後毎年のように通うきっかけとなったひとりの男に運命的に出会った。

 ある建築家を訪ねてバンドンの研究所へ出かけた時、たまたま居合わせたのが彼だった。ひょろっとして目が鋭いのが印象的だった。彼はカリマンタン(ボルネオ)出身の陸ダヤク族である。ガリガリなところは僕と似ている。まるで兄弟のようだと松山巌さんは評した。とにかく妙に気があって親しくつき合ってきた。というより師事してきたと言った方がいい。一回りも年は違うのだ。スラバヤの彼の下で実に多くのことを学んだ二〇年間である。

 彼はこの二〇年の間に随分有名になった。スラバヤのカンポン改善事業でイスラーム圏のすぐれた建築を顕彰するアガ・カーン賞を受賞するなど数々の賞を手にしている。インドネシアだけでなくアジアの住宅問題、都市問題に関するエキスパートとしてひっぱりだこだ。

 昨年、そうした彼を京都大学の東南アジア研究センターが、半年間、客員教授として招いた。僕が恩返しをする番である。毎週のように研究室に招いた。びっくりしたのは、中国の留学生と和気合々と中国語をしゃべることだ。オランダ語、フランス語もペラペラで語学の天才なのだ。来日するや日本語の学習を始めた。研究室の学生たちが家庭教師だ。六〇歳を超えて猶真摯に学ぶ姿勢に撃たれた。

 半年の滞在期間にインドネシアの都市の未来について英語の本を一冊書いた。朝から夕刻まで規則正しく仕事をしていた。呼ばれたシンポジウムにもきちんとペーパーを書いた。超真面目である。怠惰な我が身を恥じるばかりだった。

 インドネシアはこの一年大変であった。経済危機に政変が続き、後ろ髪を引かれる思いの来日である。研究室の山本直彦がスラバヤに留学していることもあって日々刻々と情報は入ってきていた。随分議論した。離れてかえって冷静に情勢が分析できたのかも知れない。インドネシアで建築・都市計画分野のプロフェッサーは四人しかいない。彼の同僚はハビビ政権の閣僚を勤める。彼は帰国に際して何かを決断したようであった。

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月9日水曜日

ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

ダム成金の家

布野修 

 出身だからという縁で、島根県の出雲でいくつかの仕事をさせて頂いている。なかでも「出雲市まちづくり景観賞」「しまね景観賞」の審査は毎年楽しみだ。前者は今年で九回目、後者は六回目になる。毎年出かけていって、故郷各地を見て回る。役得というべきか。

 年々新しい建物ができる。また、年々土木工事が進む。地域の景観を変えるのが公共事業であることがよくわかる。多くの自治体が、この間景観条例をつくり、景観賞という名の顕彰制度を設けたのはバブル経済による「景観破壊」に対する危機感であった。しかし、その主犯は多くの場合公共事業なのである。

 評判が悪いのが、崖面や法面をコンクリートで固める工法である。三面貼りと言われるコンクリートで河岸と河床を固める河川の改修、高速道路や高架鉄道の足桁もそうだ。でも、確実に変化は起こりつつあることもわかる。親自然型、多自然型と呼ばれる河川改修が大流行である。お金をかけて自然を壊して、お金をかけて見かけだけもとに戻す。何をやっているかわからない。

 農村の景観にとっては、耕作放棄が決定的である。人の営みがなければ景観が荒れるのは当然だ。気になるのが山間に突如現れる御殿群である。ダム建設のための移転補償による住宅群だ。あからさまな欲望を表現していて見る方が恥ずかしい。自分の中にもそうした欲望が蠢いているせいか。固定資産税が払えなくて手放したという悲喜劇もある。

 景観賞の応募作にダム成金の家が多いのはうんざりだけれど、今年の一件はひと味違った。自分の住んでいた家をそのまま移したのである。二倍の費用がかかったという。

 正直言って、写真のみの一次審査では何の興味も沸かなかった。たまたま、視察に行く担当になって、百年以上は経ったずいぶん立派な民家だと知った。使われている柱や梁の太さはすごい。今建てようと思っても無理だ。家主の拘りも「一瞬にして了解」である。

 審査会では「古い民家をただ移築した、それだけです」と報告しただけだ。しかし、なんと大賞をとってしまった。僕ももちろん一票投じたけど一寸驚いた。

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

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10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

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14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

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23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

  

2022年1月24日月曜日

ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

 

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

ジベタリアン

布野修司

 

 二、三年前からだろうか。もっと前からだろうか。地べたにベターッと座り込む若者の姿が目立つ。膝を抱いて屈み込む姿もあるが、お尻をつけて足を投げ出すのが奇異に映る。一体これは何なんだ。

 満員の地下鉄に乗り込んでいきなり座り込みペチャクチャしゃべり続ける。ただの行儀の悪い連中かと思っていたら、そこら中にそんな若者がいる。この現象が相当広範だ。日常的に接する学生たちもそうだ。教室の前にベターッとしゃがみ込む。廊下を足で塞いで平気である。

 授業(講演)をしていて、一番やりにくいのは私語をされることである。エジプト学者が成人式の講演に招かれ、マナーの悪さに腹を立てた。落語家が寄席で居眠りをした客を追い出した。よくわかる。寝ててくれた方がまだいい。学生の頃、くだらない授業にはぶつくさ文句を言って騒いでいた口であるから、あんまり文句は言わない。しばらく、沈黙するのが効く。それでも一回だけ白墨を投げたことがある。

 最近の学生の態度はさすがの僕でも頭に来ることが多い。ペットボトルの水を飲むのはまだましな方だ。缶ジュースやサンドイッチを持ち込んで平気で食事をなさる。携帯電話が鳴って度々部屋を出入りする。一体これはなんだ。

 そんなにも話が面白くないのかと、こちらにも多少の負い目がある。よその大学の非常勤だったり、不特定の聴衆を相手にする場合だと、遠慮もある。ただ、呆然と佇むのみ、である。

 若い世代にとてつもない何かが起こっている、というのが実感だ。地べたに座る若者のことをジベタリアンというのだとある学生のレポートが教えてくれた。ただ、何故そうするのか教えてくれない。ただ、流行なのだという。

 授業中に食事をするなど論外だけど、時と場所を選ばず何かを口にするのは当たり前のようである。地下鉄の中で弁当を食べる人がいるのだ。これは単にマナーの問題ではないのではないか。文化的基盤が大きく崩壊してきている。地面との接触感が失われてきている。地に足をつけてという地がない。ジベタリアンは、地を失った若者の欠如感の表現ではないのか。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

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08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

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14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

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19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

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21日光,おしまいの頁で,室内,199909

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2022年1月23日日曜日

西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

 西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904


 西成まちづくり大学・・・・捜索中




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

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14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

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20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

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2022年1月22日土曜日

スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905


 スラバヤ・ヤマトホテル






『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16 西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

2022年1月21日金曜日

京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

 18 京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906


京都デザインリ-グ構想


 京都に移り住んで七年半になる。身近な町だから色々考えることがある。しかし、どうアクションを起こせばいいか未だにわからない。様々な議論はあり、様々な集団のそれなりの活動はあるけれど全体の仕組みが見えて来ないのである。極端に言うと、議論ばかりで何も変わらないのではないかという気さえしてくる。

 第一にステレオタイプ化された発想の問題がある。景観問題というと、建物の高さのみが争われる。しかし、事後、議論は停止する。開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、議論は二者択一の紋切り型である。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。

 第二に、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックには、京都ホテルや京都駅のようなモニュメンタルな建築物、山鉾町や祇園のようなハイライト地区に議論は集中して、他は常に視野外に置かれる。

 第三に、取組みに持続性がない。学者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希だ。

 ・等々それなりに真剣に考えて、これしかないかな、と思うのが、以下にイメージを示す京都デザインリーグ(仮称)構想である。関係者の皆様、乞うご検討。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などのデザイン系の研究室チームが母胎となる。もちろん、各地からの参加も歓迎である。各チームは、それぞれ地区を担当する。地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 各チームは、年に最低一日、担当地区を歩き一定のフォーマットで記録する。そして、年に一回集い、様々な問題を報告する。以上、一年最低二日、京都について共通の作業をしようというのが骨子だ。もちろん、各地区についてプロジェクト提案を行ってもいい。様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに競えばいい。ただ、持続的に地区を記録することがノルマだ。

 研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。実は、この秘かな構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションでもある。 




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月20日木曜日

ジャングル, おしまいの頁で,室内,199907

 19 ジャングル,  おしまいの頁で,室内,19990

ジャングル

布野修司

 


 その昔手伝いをした縁で「黒テント」の公演用パンフの原稿を頼まれた。出し物はブレヒトの『都会のジャングル』(下北沢ザ・スズナリ五月二七日~六月六日)で、その舞台、一九一〇年代のシカゴについて書いて欲しいという。

 戯曲は、マレー人材木商シュリンクとガルガという若者の奇妙な闘いを描く。演出の佐藤信によると、現代のイジメの問題にも通ずる。テーマは「ジャングルとしての都会」だ。大都会をジャングルと形容し出したのはこの頃かららしい。

 ところで何故シカゴなのかが僕のテーマである。台本を追うと、全一一場とも、必ずしも具体的な場所ではない。猥雑なスラムやいかがわしい盛り場は出て来ない。ブレヒト自身は背景としてアメリカを選んだだけだという。人間というものは、奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をするものだ、という主題のためにベルリンから距離を置きたのだ。

 芝居が初演された一九二二年、シカゴで近代建築の行方を左右するコンペが開催されている。当時世界最大の日刊紙発行を誇るシカゴ・トリビューン社新社屋のコンペだ。また、一九一九年には人種暴動が起きている。アル・カポネらギャングの跋扈する腐敗と無法の暗黒街は一九二〇年代のシカゴだけれど、一九世紀末のシカゴは、労働運動の中心地であり、既に血なまぐさい事件の絶えない町であった。シカゴは既に大都市の象徴になりつつあったとみていい。当時のシカゴについて俄(にわか)勉強して書いた。

  面白かったのが「チャイナホテル」という場面設定である。また、シュリンクが横浜生まれであることである。さらに、子供の頃「揚子江で手漕ぎ船に乗っていた」などとある。おそらく、チャイニーズ・マレーだと踏んだ。もちろん、当時のシカゴにチャイナタウンは既にあった。ほとんどがサンフランシスコ経由でシカゴに入り、鉄道関係で職を得た。ドイツからの移民も多い。建築家ミースなど亡命者を受け入れたのはこうしたドイツ移民のコミュニティである。ブレヒトがシカゴについて様々な情報を持っていたのは間違いない。当時、シカゴと横浜とベルリンは一人天才的戯曲家の頭の中でとにかくつながっていたのである。










『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

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10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月19日水曜日

大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

20 大工願望,  おしまいの頁で,室内,199908

大工願望

布野修司

 

 美山(京都府)の木匠塾に行って来た(六月一八~二〇日)。美山は茅葺き民家が群として残る町だ。今回は塾といっても半ば押しかけで、学生たちが勝手にこんなことやりたいと提案するフォーラムである。新たに福井大学、京都建築専門学校などが参加した。「茅の里サミット」と称して加子母村(岐阜県)の粥川村長も応援に駆けつけて下さった。

 僕が司会をしたシンポジウムは実にレヴェルが高かった。村長、助役、森林組合長、茅葺き職人、林業経営者、各界を代表するパネリストはそれぞれ百戦錬磨であった。内外から多くの人が常に訪れる観光地だ。にも関わらず、一万人の人口が半減して回復しない現実がある。日常的に真剣な議論が積み重ねられているのだ。学生の青臭い提案はまさに児戯に思えたに違いない。

 美山へ行く何日か前、本欄担当の鈴木さんから「大工さんになりたいが一番ということ、職人さんたちはどう思ってるんですか」というファックスを頂いた。ピントこないまま、「天うらら(NHK番組)の影響じゃないか」などと返事した。意識調査にテレビの影響は大きいと直感したのである。主人公は結局二級建築士になってしまったと後で気がついた。

 建築界の就職戦線は厳しい。身近に見ている京都大学の学生も例外ではない。特に女子学生、高学歴(大学院卒)が嫌われている。一時期のデスクワークじゃなきゃいけない、という雰囲気はない。現場でもどこでも、と切羽詰まっている。大工願望が本当であるとすれば、とにかく手に職を!ということであろう。

 僕の研究室はいささか変わっていて、大文(田中文男)さんのところで大工(親方)修行に入った竹村君がいるし、京都の朝原さんのところで左官修業に入った森田君がいる。彼らには先見の明があるのかもしれない。

 しかし、現実は厳しい。大工さん、職人さんの世界が深刻な後継者不足に悩みながら、必ずしも、新たなライバルの新規参入を歓迎しているわけではないのである。木造建築の需要が増えない限り、大工職人が豊かに生きていく条件は生まれない。美山での議論の底にそうしたクールな見方があった。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

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10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16 西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

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2022年1月17日月曜日

ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

 22 ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

ヴァーラナシ

布野修司

 

 今夏は、インド、イランをめぐった。ムンバイ、カルカッタの喧噪がまだ耳に残る。強烈だったのは炎のバンダール・アッバースだ。世界史の帰趨を度々握ったホルムズ海峡に昔日のポルトガル要塞を実測しにいったのだが、熱いのなんの摂氏四〇度である。そして、最後がヴァーラナシ(ベナレス)の迷路であった。

 近郊には、釈迦が最初に説教をしたという「初転法輪」の地、サールナート(鹿野苑)がある。仏教伽藍の初期の様子がわかる。しかし、遺跡は遺跡である。法輪寺他、タイ寺院、中国寺院、チベット寺院などが立地して、修行僧の姿は見られたが、一三世紀にはインドから消えた仏教の影は薄い。収穫はアショカ柱の獅子の柱頭を眼の当たりにしたことか。

 もちろん、主目的は街だ。いくつかヒンドゥー都市を歩いてきたが、いよいよその聖地にねらいをつけたのである。

 ヴァーラナシは五重の巡礼路で取り囲まれている。しかし、その秩序は地図を見る限り明快ではない。イスラーム支配が長かったせいだろう、実に入り組んでいる。中心寺院ヴィシュヴァナートの背中合わせにアウラングゼーブ(ムガール帝国第六代皇帝)のモスクがある。イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の鬩(せめ)ぎ合いはここでもすさまじい。

 街は魅力的だ。しかし、汚い。そこら中に牛糞が落ちている。牛がいなければヴェニスだ、と思う。でも、ヴァーラナシはヴァーラナシだ。

 この汚い、という感覚が曲者である。死生観、不浄観が全く異なっている。ガート(火葬場、沐浴場)には死体が置かれている。蠅がたかっているものもある。毎日いくつかの死体が生木で焼かれ、煙がたつ。灰はガンガに流され墓はつくられない。人々はガンガの水で口を濯ぎ身を清める。牛の糞は乾かして燃料にする。

 そうした聖なる秩序を破っているのが迷路を引き裂く車道である。そして、何万とある寺院、聖祠を埋め尽くしてしまった高層住居である。

 半日手漕ぎボートでガンガに遊んだ。滔々たるガンガの流れに悠久の時間を感じたけれど、ガンガからの街の眺めは聖地の名に値しない、と秘かに思った。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

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10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

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13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912