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2022年1月24日月曜日

ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

 

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

ジベタリアン

布野修司

 

 二、三年前からだろうか。もっと前からだろうか。地べたにベターッと座り込む若者の姿が目立つ。膝を抱いて屈み込む姿もあるが、お尻をつけて足を投げ出すのが奇異に映る。一体これは何なんだ。

 満員の地下鉄に乗り込んでいきなり座り込みペチャクチャしゃべり続ける。ただの行儀の悪い連中かと思っていたら、そこら中にそんな若者がいる。この現象が相当広範だ。日常的に接する学生たちもそうだ。教室の前にベターッとしゃがみ込む。廊下を足で塞いで平気である。

 授業(講演)をしていて、一番やりにくいのは私語をされることである。エジプト学者が成人式の講演に招かれ、マナーの悪さに腹を立てた。落語家が寄席で居眠りをした客を追い出した。よくわかる。寝ててくれた方がまだいい。学生の頃、くだらない授業にはぶつくさ文句を言って騒いでいた口であるから、あんまり文句は言わない。しばらく、沈黙するのが効く。それでも一回だけ白墨を投げたことがある。

 最近の学生の態度はさすがの僕でも頭に来ることが多い。ペットボトルの水を飲むのはまだましな方だ。缶ジュースやサンドイッチを持ち込んで平気で食事をなさる。携帯電話が鳴って度々部屋を出入りする。一体これはなんだ。

 そんなにも話が面白くないのかと、こちらにも多少の負い目がある。よその大学の非常勤だったり、不特定の聴衆を相手にする場合だと、遠慮もある。ただ、呆然と佇むのみ、である。

 若い世代にとてつもない何かが起こっている、というのが実感だ。地べたに座る若者のことをジベタリアンというのだとある学生のレポートが教えてくれた。ただ、何故そうするのか教えてくれない。ただ、流行なのだという。

 授業中に食事をするなど論外だけど、時と場所を選ばず何かを口にするのは当たり前のようである。地下鉄の中で弁当を食べる人がいるのだ。これは単にマナーの問題ではないのではないか。文化的基盤が大きく崩壊してきている。地面との接触感が失われてきている。地に足をつけてという地がない。ジベタリアンは、地を失った若者の欠如感の表現ではないのか。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

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