21 日光,おしまいの頁で,室内,199909
日光
布野修司
松山巌さんと初めて対談した。『GA(グラス・アーキテクチャー)』誌(旭硝子)の企画で「百年前の一年」という特集を組むことになり、それなら松山さん(巖ちゃん)だ、対談がしたいと申し入れたのである。松山さんには『世紀末の一年』(朝日新聞社、一九八七年、朝日選書として復刻予定)がある。一緒にこの百年を振り返って見たかった。
というのは半ば口実だ。松山さんとは学生のころからのつき合い。『TAU』という雑誌で知り合った。七〇年代初頭、「コンペイトー」(松山・井出建)と「雛芥子」(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)で勉強会を重ね、「同時代建築研究会」(一九七六年~)でも一緒だった。京都に移ってなかなか会う機会がなく、久々会って話したかったのだ。
この間松山さんは批評家として大きく飛躍した。江戸川乱歩賞、サントリー学芸賞、伊藤聖賞、読売文学賞という受賞歴がその輝かしい軌跡を示している。小説も今度の『日光』で二作目だ。いささか眩しい。ばたばたと走り回るだけで深く蓄積することのない身を恥じるばかりだ。しかし、それだからそのじっくりした思索の積み重ねはいつも心強い。頼もしい兄貴分だ。
『日光』は実に傑作だ。様々な物語、事件、イメージが縦横に入れ子状に重ねられるその方法は松山さんに一貫する。『日光』では「人生不可解」と華厳の滝に身を投げた藤村操がハムレットとともにもつれあって登場するが、『世紀末の一年』にも藤村以降自殺者が相継いだ話が書かれている。藤村の生まれ変わりと思しき青年(フランケンシュタイン)に「百年たっても何も変わらない」といった科白を吐かせている。
対談の枕はその科白であった。「外国人」「女」「公害」「鉄道」「東京」「教育」「マスメディア」「アール・ヌーボー」「アジア」「都市と農村」「戦争」「天皇」と話は一九〇〇年の一年の事件を一月から一二月までを追った。対談というよりインタビューだ。確かに金太郎飴の百年だ。しかし決定的な違いも明らかとなる。主として科学技術の進歩(?)に関わる。対談を終えて痛飲。翌日は心地よい宿酔いであった。(ムンバイにて)。
『室内』おしまいの頁で199801~199912
◎01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801
◎02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802
◎03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803
◎04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804,
◎05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805
◎06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806
◎07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807
◎08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808
◎09桟留,おしまいの頁で,室内,199809
◎10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810
◎11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811
◎12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812
◎13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901
◎14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902
◎15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903
16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904
17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905
◎18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906
◎19 ジャングル,
おしまいの頁で,室内,199907
◎20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908
◎21日光,おしまいの頁で,室内,199909
◎22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910
◎23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911
◎24群居,おしまいの頁で,室内,199912
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