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2022年1月3日月曜日

宮内康『怨恨のユートピア---宮内康の居る場所』紹介

 宮内康『怨恨のユートピア---宮内康の居る場所』、れんが書房新社、2006

君は宮内康を知っているか?

 


布野修司

 

宮内康という建築家=批評家を知る人はもう少ないであろう。前川国男、白井晟一といった大建築家ですらそうだから当然である。木島安史、宮脇壇など同世代の建築家も既に鬼籍に入った。去るもの日々に疎しである。時代は常に若い世代のものだ。

しかし、若い世代が常に先人を超えうるかどうかは別問題である。どんな時代にも時代を見通し深く考え抜いた人はいる。先行世代を超えるためには、少なくとも先人の経験に学ぶことが必要だろう。 宮内康の考え抜いたことは反芻するに値する。そういう思いが本書を編ませた。刊行のことば次のように言う。

 「宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。

 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。

 決して追悼論集でも、記念論集でもない。

 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。

 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。

 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。」

 

宮内康(本名は、康夫)は、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。

 宮内康のデビューは「建築批評」である。六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。

 多くの若い建築家や学生に読まれた。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。

 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉が魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。庶民の建築、住宅についての言及が大きなウエイトを占めているのも特徴だ。何故「建造物宣言」なのか、是非読んでみて欲しい。磯崎新、松山巌、渡辺武信による鋭い宮内康論も収められている。

 裁判闘争の経緯については『風景を撃て』に詳しい。彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた教官達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。

 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、死の数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。

 作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も宮内康らしい。天井輻射冷暖房を取り入れるなど地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。

 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」である。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが本人の希いであった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。宮内康は結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。

 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する何かを一瞬のうちに感じとったからであろう。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。

 

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