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2022年1月2日日曜日

『怨恨のユートピア』刊行委員会編:怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000年6月30日

 『怨恨のユートピア』刊行委員会編:怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000630


刊行のことば

 宮内康という「建築家」が居た。『怨恨のユートピア』『風景を撃て』『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』『現代建築---ポストモダニズムを超えて』という、四冊の本を遺して逝った。本書はその全著書の復刻である。宮内康が酔夢の中で考え、活字にしたことをそのまま復元するという実に単純な意図において本書は編まれた。宮内康の文章を繰り返し読みたい。あるいは繰り返し読んで欲しい。ただそれだけが出発点である。

 宮内康とは何者か。高倉健のような人である。嘘ではない。本書に収められた磯崎新の宮内康論にはそう書いてある。磯崎新はまた別のところで次のように発言している。

 

 「一九二〇年代にスタートした日本の近代建築が、終戦を経て現在までに、すでに四分の三世紀を経過している、その歴史を何かを切り口として語ろうとした場合、僕はその前半を堀口捨己さんを一枚の陰画として見ると戦前までの動きがよく分かると考えています。それから戦後の六〇年代の終わりぐらいまでは丹下さんをそれに当てればよく分かります。この場合は陽画でしょうね。そしてもう一人、六〇年代後半にいろいろ発言し、大きなターニングポイントになる一九六八年を象徴的に生きた人として宮内康君がいます。一九九二年に亡くなるまでの宮内君の活動を考える時、彼を堀口さんと同じような陰画として見ると、そこに日本の別な面が見えてくるように思います。」(「戦後建築の陽画と陰画」、『戦後建築の来た道行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年三月)

 

 宮内康という建築家は、少なくとも磯崎新にとって丹下健三、堀口捨己に匹敵する建築家なのだ。

 もちろん、宮内康という具体的な人間像をめぐっては様々な論がありうるだろう。しかし、まずはテキストに集中してみて欲しい。「宮内康の世界」はそのテキストのうちにある。宮内康論を最小にとどめたのは、そのテキストを可能な限り開いておきたいと考えたからである。

 

 宮内康の身近にいたごくわずかなものが集まって刊行委員会が組織された。もちろん、このささやかな刊行は、かって「宮内康の世界」を共有した世代への大きなメッセージが含まれている。しかし、それ以上に、宮内康をもはや知らない世代への贈り物であることがより強く意識されている。そして、さらに遠い未来の読者が想定されている。繰り返し読まれるべき、「怨恨のユートピア」という「聖典」の再結集というべきか。 

 





まえがき

宮内康『怨恨のユートピア』刊行委員会                                          

 宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。
 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。
 決して追悼論集でも、記念論集でもない。
 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。
 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。
 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。

未完の『建築ゆうとぴあ』






宮内康『怨恨のユートピア』あとがき
                                             布野修司

 宮内康さんが亡くなったのは、一九九二年一〇月三日、午後八時のことだ。享年五五才。
バブルの崩壊も、阪神淡路大震災も、オウムの引き起こした様々な事件も、二〇〇〇年問題も、・・・・康さんは知らない。しかし、康さんならこういうのではないか、ということをいつも思う。時代を深いところで見続けた康さんの言葉とともに常に時代を透視していたい、それが本書を編んだ最大の思いである。 

 宮内康(本名は、康夫)は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。康さんは、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。しかし、みるところ、康さんがオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。
 何故、建築を選んだのか、本人に聞いたことが無い。康さんは、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに康さんは語っていた。
 康さんの建築界におけるデビューは「建築批評」であった。その批評あるいは建築論の展開は、六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。
 『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。もちろん、建築の分野に限らない。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。
 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、必ずしもアジテーターであったわけではない。文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。
 六八年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的裂け目を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新である。磯崎新は、宮内康の偉大な位置を本書のために書いてくれた。
 それに対して、裂け目を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかったように思う。
 極めて、大きかったのは裁判闘争である。その経緯については、『風景を撃て』に詳しい。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。彼は、その後のかなりの時間を救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。
 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。議論を肴に酒を飲むのが何よりも好きであった。また、そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。
 作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。この「作品」という言い方を康さんは嫌ったが宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も康さんらしい。近年の代表作といっていい出来映えを示している。天井輻射冷暖房を取り入れるなど他に先駆けた工夫もある。地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。しかし、それは先取りなどではなく、彼の建築観に根ざした建築への極く自然なアプローチであった。
 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないか。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。康さんは結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。
 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する臭いを一瞬のうちに感じとったからであろう。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。しかし、遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。
 康さんが亡くなって『ワードマップ現代建築』がまとめられた。一方、『怨恨のユートピア』は読み継がれ、書き継がれる必要がある、という思いが生前康さんと親しくつきあったものたちにあった。何はともあれ、その著書を復刻し、より若い世代も含めてその思いを共有したい、というのが本書の企画であった。
 企画から今日に至るまで多くの年月が流れた。第一にこうした企画を引き受けてくれる出版社がなかった。そうした中で本書の出版に興味を示され、最終的に引き受けて頂いたのが、れんが書房新社の鈴木誠さんである。鈴木さんは生前に康さんに会ったことがあり、『怨恨のユートピア』の読者でもあった。それが決め手になったと思う。出版環境の悪い昨今、ここまで漕ぎ着けて頂いたことを心より感謝したい。
 企画を立案して以降、最後まで本書の刊行をリードしたのは立松久昌さんである。理科大闘争以降、康さんの最大の理解者であった。その康さんへの強烈な思いが本書を成立させたといっても過言ではない。
 諸般の事情から、出版は遅れに遅れた。しかし、全ての責任は布野にある。原稿を執筆して頂いた皆様にはお詫びの言葉もない。本書の刊行を背後で支えたひとたちは数知れない。とくに康さんの東洋大学時代の教え子を中心とした「鯨の会」の存在は大きい。彼らの世代が、本書とともに、それぞれの現場で「宮内康の居る場所」をさらに若い世代とともに確認してくれることを大いに期待したい。

 





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