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2021年10月3日日曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅲ 建築家と都市計画 第6章 「建築家」とまちづくり

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅲ 建築家と都市計画

第6章 「建築家」とまちづくり


 6-1 住宅=まちづくり・・・ハウジング計画ユニオン(HPU)

 一九八二年、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな集まりが呱々の声をあげた。当初のメンバーは、石山修武*、大野勝彦*、渡辺豊和*、そして布野修司の四人。その前々年あたりから会合を重ね活動を開始していたのであるが、一九八二年の暮れも押し詰まった一二月に至って、『群居』という同人誌の創刊準備号を出すに至ったのである。編集には当初から野辺公一があたり、準備号は当時はまだ珍しいワープロによる手作りの雑誌であった。活字は一六ドットで、ガリ版刷りの趣であった。これからに小さなメディアを予見すると、流行の雑誌の取材を受けたりした。隔世の感がある。

 その『群居』の創刊のことばは次のように言う。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア「群居」を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」

 「住宅=町づくり」というのがキーワードであろうか。四人それぞれに「建築家はもっと住宅の問題に取り組むべきだ」という思いがあった。戦後まもなく住宅復興は建築家の共通の課題であった。前川國男*の「プレモス」*をはじめ、浦辺鎮太郎*の「クラケンハウス」*など建築家は工業化住宅の開発に取り組んだ。また、住宅のプロトタイプを提案する「小住宅コンペ」*に数多くの建築家が参加した。しかし、戦後復興が軌道に乗り出すと住宅への関心は次第に薄れていく。その経緯は『戦後建築論ノート』(相模書房、一九八一年)に書いた。戦後建築の流れを振り返りながら、建築家による住宅運動の再構築は如何に可能か、などと考えている矢先のHPU結成の誘いであった。

 リードしたのは、既に「セキスイハイムM1」*の設計者で知られ、内田祥哉研究室の流れを汲んで住宅開発に取り組んでいた大野勝彦である。また、「幻庵」*など地下埋設用のコルゲート管を用いた一群の住宅で知られ、『バラック浄土』(彰国社、一九八一年)を書いたばかりの石山修武であった。そして、関西から渡辺豊和が加わるが、彼もまた「ロマネスク桃山台」で果敢に「建売住宅」に挑戦し、「標準住宅001」などの作品をものしていた。

 『群居』創刊準備号(●)には「群居考現行ーアクション・レポート:あるき・乱打夢」と題した活動報告がある。長崎、富山、高知、大阪、台北などシンポジウム活動が中心であるが、「熊谷・子供大工祭」「秋田材住宅開発」「山形・部品化木造住宅」「左官連合会との交流」「DーD方式」「東南アジア住宅調査」など活動は既にアジアへも拡がりつつあった。当初から日本のみならず、「フリーダム・トゥー・ビルド」●(マニラ)「ビルディング・トゥゲザー」●(バンコク)などアジアのグループとの連携を模索する「アジア・ハウジング・ネットワーク」の構想があった。日本の住宅や都市をアジアの拡がりにおいて捉える視点は当初からのものである。

 一九八三年四月に出された創刊号の特集テーマは「商品としての住宅」●である。住宅の問題をその生産、流通、消費の具体的な構造において考える視点も一貫するものである。『群居』は、さらに松村秀一、高島直之、小須田広利、秋山哲一らを加えて、発行が続けられ、二〇〇〇年に五〇号になる。この間のハウジング計画ユニオン(HPU)の軌跡は、『群居』の誌面に記録されてきた通りだ。

 大野勝彦のまちづくりへの取組みは、『地域住宅工房のネットワーク』*『七つの町づくり設計』*にまとめられている。大野は、セキスイハイムM1の設計者として、一般には「工業化住宅」の推進者として知られる。そのシステム志向は一貫する。しかし、そのシステムは工業化構法といったビルディング・システムに限定されない。その最初の著書『現代民家と住環境体』*が示すように、彼が再構築しようとしているのは「現代民家」のシステムである。そして、彼の追及するのはいわゆるシステムのためのシステムではない。あくまで問題とするのは現実の住宅生産システムである。その根にはリアリズムがある。

 まず『都市型住宅』において大野が示したのは、それぞれの地区で、地価に見合った住宅の型が成立する、ということである。その追及は、九〇年代の中高層ハウジング・プロジェクト*に引き継がれている。

  一方、八〇年代の大野が目指したのが、地域住宅生産システムの再構築である。その「住宅=町づくり」という方向はHPU結成のモメントになっている。地域に住宅の設計をベースにしながらまちづくりに関わる工房があり、それがネットワークを組む、というのが構想である。ここでいう「タウン・アーキテクト」構想のひとつの源泉はこの「地域住宅工房」である。

 具体的な展開としては、豊里、喜多方●、檮原・・・・など「七つの町づくり設計」である。そのほとんどは、後に見る「地域住宅(HOPE)計画」(建設省)として展開され、それをリードするものであった。

 石山修武の建築家としてのデビューは「幻庵」である。地下埋設用のコルゲート・シートを用いたパイプ住宅のモデルは河合健二*自邸であるが、傑作「菅平の家」に至るまで石山は執拗にパイプ住宅を試みている。一見奇を衒った「ポストモダン」のデザインに見えるが、その意図は明快である。すなわち、安く大量生産された素材を住宅用に転用しようというのである。そこには既存の住宅のイメージや生産システムに囚われない発想がある。また、徹底した合理精神(真の経済合理主義!)があるといえるだろう。

 その石山流住宅システムは、住宅部品を直接ユーザーに供給するダム・ダン空間工作所のダイレクト・ディーリング(D-D)方式●として展開される。そして書かれたのが『秋葉原感覚で住宅を考える』*である。要するに、電気製品に安売り市場があるように、住宅部品にも安売り市場が考えられないか、ということである。

 同じように住宅部品を市場価格より安く供給するという理念をもとに活動するグループがマニラのW.キースをリーダーとするフリーダム・トゥー・ビルドである。HPU結成間もなく石山をその工房に案内したことがあるが、日本に限定せず広くアジアを見渡せば、より安価な住宅材料、部品が手に入るという直感があった。石山の戦略には台湾(石材)やカトマンズ(家具)が置かれていた。大野勝彦があくまで全体のシステムを問題にするのに対して、石山はシステムの隙間を利用することを目論んでいたといえる。

 部品が揃うとするとあとはそれを組み立てる職人が問題になる。石山にとって最初のきっかけになったのは左官職人との関係であり、その団体「日本左官組合連合会」との接触である。『群居』創刊準備号には、既に「伊豆の長八記念館」●の模型が提示されている。伊豆の長八*とは、伊豆の松崎出身の鏝絵で有名な左官職人である。頼まれもしないのに、そのプロジェクトを提示することから伊豆松崎のまちづくり●が始まる。D-D方式とは位相を異にした、ひとつの施設の設計から、橋や商店の暖簾のデザインへ、という建築家らしいまちづくりの展開である。伊豆の松崎のまちづくりは『職人共和国便り』*にまとめられている。

 小さなものでも具体的にデザインすることによってまちづくりが展開しうる。「鯛をつる恵比寿」を象った貯金箱を置くことから始めた気仙沼のまちづくり●は、まさに石山流である。石山の一連のまちづくりの活動をまとめたものに『世界一のまちづくりだ』*がある。

 渡辺豊和の場合、住宅への拘りは必ずしもない。しかし、都市計画への関心は一貫している。もともとRIA*の山口文象*に学ぶのであるが、独立後しばらく再開発の仕事をしていたことはあまり知られていない。権利変換に手間暇かかる再開発事業におけるヴィジョンの役割を主張するのが渡辺である。阪神淡路大震災後に発表された「庭園曼陀羅都市ー神戸2100計画ー」●は、現代都市への痛烈な批判でもある。計画の具体的内容は以下の7原則を骨子としている。

 ・癒しの都市風景と庭園曼陀羅。

 ・自動車交通の全面廃棄と高速道路跡地による列島縦断連鎖住居の設定。

 ・土地公有化と一戸建住戸の全面禁止。

 ・家庭全エネルギーのソーラー化。

 ・グリーンベルトによる地区の隔離と自給体制。

 ・地区同士による経済的支配、被支配を生じさせないため地区人口を均等化するー都市人口の均質配置。

 ・残余旧市街の緑地返還。

 基本的に自動車を排除した京都グランドヴィジョンコンペの佳作入選案●もその延長にある。建築家の提案スタイルとしては、ある理想、ユートピアを提案する近代建築家のそれである。その限界は様々に指摘されてきたところだ。しかし、ヴィジュアルな提案こそ力をもつのであり、それこそ建築家の役割だ、というのが渡辺の信念である。基本原理の重要性こそ渡辺が主張するところである。

 布野は専らアジアをフィールドとして調査を展開してきた。最大の関心は西欧と異なる都市型住宅の発見である。具体的な実践活動としては、スラバヤのJ.シラス*との共同研究がある。それをベースにしたプロジェクトがルーマー・ススン(積層住宅)プロジェクトである。一言で言えば、共用空間を最大限にとった共同住宅である。広めの廊下は共用の居間(コモン・リビング)の扱いである。様々な用途に使われる。バス・トイレ、台所も一箇所にまとめられている。各階に礼拝室が設けられ、店舗なども自由に設置していい。その活動は「J.シラスと仲間たち」(『群居』●●号、●●年)にまとめた。

 二〇年に及ぶ交流をベースに「スラバヤ・エコ・ハウス」●と呼ばれる実験住宅を建てる機会を得た。小玉祐一郎の仕掛けによる。プランニングの基礎にしたのは上のルーマー・ススン・モデルであるが、省エネルギー技術などによって環境工学的な改良を加えようというプロジェクトである。導入した技術は、

 ①ダブルルーフによる屋根断熱

 ②地域産材としてのココナツ椰子の繊維の断熱材利用

 ③吹き抜け、越屋根による煙突効果利用の通気

 ④クロスヴェンチレーション

 ⑤井水循環による床輻射冷房

 ⑥太陽電池利用

 などである。

 屋根の断熱材としてココナツの繊維で編んだマットを用いたところ、グラスウール並みの性能があることがわかった。ひとつの成果である。

 『群居』の会員は千人程度である。紙面に反映されてきたとおり、地域で活躍する「建築家」が主体である。「地域の眼」という常設の欄があり、地域の問題を継続的に特集してきた。タウン・アーキテクトの実践は既に各地域にある。『群居』はそうした各地の活動をつなぐメディアとして生き続けるであろう。

 

 6-2 地域住宅(HOPE)計画(●資料写真)

 大野勝彦らがドライビング・フォース(駆動力)となって展開された「地域住宅(HOPE)計画(HOusing with Proper Environment)」は、建設省の施策としては画期的なものであった。まず、住宅政策について、地方自治体(市、町)のイニシアチブがある程度認められたということがある。また、何戸供給するかという戸数主義から脱却する方針がとられたことがある。さらに、地域の伝統への関心や地域産材利用というような地域の固有性への視点がある。そしてなによりも、何をやっていいかわからない、それ故創意工夫が問われるという魅力があった。HOPE計画については『群居』●●号にまとめた。

 HOPE計画が開始されて一〇年、ひとつの報告書がまとめられた。そこに、「地域の味方ーーわからなさの魅力」と題して次のように書いた。 


 「HOPE計画に直接関わったことはほとんどないのですが、いくつか身近に見てきました。また、当初より、多大な関心を寄せてきました。何故かと言うと、第一に、何をやったらいいかわからない施策だからです。直感的なのですが、このわからなさがたまらなく魅力的に思えたのです。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやるのか、考えねばなりません。考えて計画を立てるのは当たり前のことなのですが、中央で想定した基準やマニュアルに従って仕事をするのが身についてると戸惑います。その戸惑いと自分でたどたどしく考えようとする出発点にまず意味があると思いました。地域を素直に見つめ直すことそれがHOPE計画の原点です。地域の見方、味方が最後まで問われます。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやってもいいということにつながります。積極的に独自の施策を打ち出すには好都合です。「何処にもないもの」がHOPE計画では問題です。また、予算は限られているのですが、いろいろなお金を組み合わせると結構使えます。このルースさがまたいいところです。またそこで、色々のやりくりの上手さが問われます。

 HOPE計画は、その基本に「地域の個有性」をうたいます。地域地域で独自の住宅計画を展開するというヴェクトルは、中央で計画立案され、中央から戸数を割り当てられる戸数主義とは全く逆のものです。HOPE計画が中央の施策でありながら、ルースさを持たざるを得ないのはそれ故にです。住宅政策として、HOPE計画を打ち出さざるを得なかったのは、ある見方からすれば、方向性が見えなくなったからだということもいえます。あまりにも安上がりな施策だという批判もあります。しかし、地方自治体に方針を委ねるというのは画期的な施策転換であったことは間違いないところです。住宅というのは、本来、ローカルなものです。

 HOPE計画の策定にあたって、まず興味深いのは組織編成です。コンサルタントを含めて、計画組織の編成にまず地域差がでます。また、持続的にしぶとく展開が行われる地域と一過性のイヴェントで終わってしまう地域とその地域差も興味深いところです。さらに、成功したと思われるある地域の事例がマニュアルとして全国をめぐるのも面白い現象でした。調査研究、シンポジウムや各種イヴェント、様々な顕彰制度、設計競技、公営住宅の設計、挙げてみれば、HOPE計画の手法といってもそう豊かなわけではありません。それでも、地域によって相違が出ます。やはり、人の問題が大きいでしょう。同じ手法でも、集まる人の顔ぶれで表現は全く変わるからです。

 警戒すべきはステレオタイプ化です。地域型住宅として、全国画一的に入母屋御殿が普及していく、そんな事態は避ける必要があります。HOPE計画が年数を重ねてマンネリ化していくのは、ステレオタイプ化が起こるからです。そこには、ルースさがありません。考えるということがありません。創意工夫がありません。」*(『十町十色 じゅっちょうといろ HOPE計画の十年』、HOPE計画推進協議会 財団法人 ベターリビング 丸善 一九九四年三月)。


 「HOPE計画」は、建設省の施策として一九八三年に開始され、この10年で、200に迫る自治体がこの施策を導入してきた。地域にこだわる建築家やプランナーであれば、おそらく、どこかの計画に関わった経験がある筈である●リスト。「バブル建築」の隆盛の中で、あまり注目されてこなかったのかもしれないが、その意義は決して小さくない。

 HOPE計画の内容と各市町村の具体的な取り組みは『十町十色』にうかがうことができる。実に多彩だ。

 「たば風の吹く里づくり」(北海道江差町)、「遠野住宅物語」(岩手県遠野市)、「だてなまち・だてないえー生きた博物館のまちづくりー」(宮城県登米町)、「蔵の里づくり」(福島県喜多方市)、「良寛の道づくり」(新潟県三条市)、「木の文化都市づくり」(静岡県天竜市)、「春かおるまち」(愛知県西春町、「鬼づくしのまちづくり」(京都府大江町)、「ソーヤレ津山・愛しまち」(岡山県津山市)、「なごみともやいの住まいづくり」(熊本県水俣市)等々●○、思い思いのスローガンが並ぶ。「たば風」とは、冬の厳しい北風のことである。「もやい」とは、地域の伝統的な相互扶助の活動のことである。地域に固有な何かを探り出し出発点とするのがHOPE計画の基本である。

 「○○の家」と呼ばれる地域型住宅のモデル設計が各地で行われ、これまでの公営住宅の標準設計をそれぞれの地域で見直す大きなきっかけになった。また、可能な限り地域産材を用いる方向性も各地で共有されるものであった。そして、住民参加、住民の創意と工夫をベースとするのも地域計画の大きな柱である。建設省の住宅政策としてみると一大転換といってもいい。従来の戸数主義、すなわち、中央から建設戸数を各自治体に割り当てるやり方とは百八十度異なり、地域(地方自治体)が住宅建設の主体となる契機を含んでいたのである。

 個人的には、智頭町(鳥取県)のHOPE計画に少しだけ関わった。「智頭杉日本の家コンテスト」の審査委員をした縁である。いささかほろ苦い経験だった。行政主導のプロジェクトは必ずしもうまくいかず、一三戸全て住戸規模が異なる不思議な集合住宅が智頭の駅前に建っている●。智頭には寺谷篤が率いる「智頭町活性化プロジェクト集団」(CCPT)がある。「ログハウスの杉の子むらづくり」「杉下塾」など遙かに行政的な枠組みを超えた運動を展開している。郵便局員が地域を巡回するその「ひまわりシステム」は全国的に話題を呼んだ。

 地域住宅計画の意義は、繰り返せばこういうことだ。

 まず第一に、計画の基本に「地域の固有性」へのこだわりが置かれていることがある。住宅は本来ローカルなものであり、ローカルに多様であることが前提なのである。

 第二に、施策の枠組みがリジッドでないということがある。中央で用意した基準やマニュアルに従って計画するのではなく、創意工夫が前提である。これこれをやれというのではなく、やることを地域で決める。基本的に何をやってもいいのである。何をやってもいいというのは、施策としては、曖昧である。この曖昧さ、融通無碍なところがまずいい。住宅政策としては、方向性を見失ったからである、あるいは、地域の智恵に頼る安上がりの施策だ、といった批判は可能だけれど、計画のフレキシビリティーと地域主体の原則は画期的なのである。

 第三に、計画のための組織づくりがユニークである。というより、各地域で様々な形のまちづくり組織が形成されたのが興味深い。まちづくりの基本はひとであり、人のネットワークこそが計画の質を決定するということである。HOPE計画といっても色々で成功したものばかりではない。一過性のイヴェントとして終わってしまった地域もある。計画が持続性をもつかどうかはやはり人によるところが大きいのである。

 とはいえ、HOPE計画の意義が問われるのはこれからだといえるかもしれない。様々な計画が具体的な街の景観として定着していくのにはさらに時間がかかるからである。十年たって、いくつかの限界が見えだしたのも事実である。大きいこととして計画の手法がそう豊富化されてこなかったということがある。公営住宅の設計、各種シンポジウム、講演会の開催、各種顕彰制度の創出、コンペ、・・・手法は限られ、ステレオタイプ化する傾向もないではないのである。「○○の家」も、地域の固有性をうたいながら、なんとなく似ているといったことも指摘されるところである。

 「地域」の成立根拠がさらに揺り動かされる中で、HOPE計画の可能性はさらに追求される必要がある。しかし、バブル経済の高波は、地域住宅計画の小さな動きを飲み込んでしまったのであった。今、その動きは蘇りつつあるのであろうか。

 HOPE計画が蒔いた種が生き続けているとすれば、それを担い続けている人こそタウン・アーキテクトと呼ぶに相応しい。


 6-3 保存修景計画(●資料写真)

 HOPE計画を立案する上で手掛かりとなるのは、地域のもっている資源である。資源にはもちろん人的資源が含まれる。というより、人こそが第一の鍵だ。うまくいったHOPE計画の背後には必ず仕掛け人がいる。市町村にオルガナイザーとしての人材がいるかいないかはその成否に関わる。そうした人材こそタウン・アーキテクトと呼ばれるに相応しい。

 一方物理的な資源にもいろいろある。まず、自然とその恵みがある。また、その土地に暮らす人々がつくりあげてきた環境がある。さらに、歴史的な出来事とその記憶がある。要するに、地域において歴史的に形成された文化は資源になりうる。その資源は必ずしも固定的ではない。ある日突然埋蔵文化財が発見されたり、突然隕石が落下してきたり、新たな資源が加わることもあれば、人と人の関わりが新たな資源として何か(施設)を産む場合もある。

 一般にわかりやすいのは街並み保存の分野である。歴史的環境の保存を梃子にしたまちづくりの展開に先鞭をつけたのは太田博太郎*、小寺武久*、小林俊彦*らによる妻籠の保存計画である。また、地域文化財という概念のもとに、街並みの保存修景計画を展開したのが西川幸治*とそのグループ(保存修景計画研究会●○)である。

 この運動はやがて文化財保護法における伝統的建造物群保存地区*の指定という制度を産む。また、全国街並み保存連盟という組織の設立(一九七四年)によって全国規模の運動として展開されることになる。妻籠、有松(愛知県)、今井町(奈良県)の三者で結成され、「第一回町並みゼミ」を開催した足助(愛知県)以下、近江八幡(滋賀研)、角館(秋田)、知覧(鹿児島)など七〇団体が加盟する。

 その展開はいくつかの段階を経てきた。妻籠がまさにそうであるように、当初は、歴史的街並み保存と観光開発が関連づけられた。歴史的な景観が失われていくなかで、古き美しき日本の原風景が回顧される、その流れをうまく捉えたのである。

 一般に、歴史的街並みが残る地区というのは、開発圧力から取り残された地区である。あるいは、自ら更新していく活力を失ってきた地区である。経済的開発と保存を両立させるのは容易ではない。そこで、制度的な裏付けによる公的補助の仕組みがつくられることになった。ところが、制度化によって、新たな問題も出てくる。

 伝統的建造物群保存地区の場合、あくまでも文化財としての位置づけが前提である。街並みのファサードはある時代の様式に統一する必要がある。現代的生活には合わないことが多々ある。空調機の室外機や自動車の駐車の問題など共通の問題である。

 例えば、京都の町家街区のようなより一般的な町の場合、文化財としての規定は馴染まない。以下に見てみよう。


 6-4 京町家再生論(●資料写真)

 伝建地区指定による歴史的環境保存は基本的には文化財としての環境保存である。歴史的な街区といっても全てが伝建地区に指定されるわけではない。

  京町家再生研究会が発足したのは一九九二年の祇園祭の日である。当初からメンバーに加えて頂き、いきなり、京町家の再生手法について考えさせられた。すぐさま理解したのは、京町家の再生が容易ではないことだ。特に既存の制度的枠組みがネックになっている面が大きいのである。そこで集中して調べてみたのが制度手法である。以下に基本的な問題をみよう。


 a.町家再生の目的

 『新京都市基本計画』(*1)は、「第3章第1節住宅・住環境の整備(1)京都らしい良質な住宅ストックの形成」において、京町家・街区の再生(ウ)をうたう。「良好な京町家が連坦し伝統的な雰囲気を残す街区については、京都らしさの継承等を目的として新たな地区指定を行い、積極的な防災措置や改善助成などにより、その保全と再生を図る。また、京町家の居住や商業・業務機能への活用を誘導する。」ことが目指されている。具体的な施策としては、京町家の街区の指定と改善助成、および京町家活性化事業(地・家主、民間事業者等と連携しながら町家、長屋等を改修し、居住機能や商業・業務機能として再生・活用を図る事により、京都らしい町並みを整備し、町の活性化を目指す事業)が挙げられる。

 また、「第8章第2節歴史的風土・景観の保全と創造(3)市街地景観の保全と創造」において、歴史的市街地景観の保全(ア)をうたう。また、市街地景観の調和と創造(イ)をうたう。具体的な施策としては、(ア)美観地区制度の指定地区拡大、(イ)景観形成地区制度、(ウ)共同建替、協調建替が挙げられる。

 一方、京都市住宅審議会の答申「京都らしい都市居住を実現する住宅供給のあり方について」(*2)は8つの基本施策のなかに(3)京町家ストック改善の推進(市民文化の継承、都心定住)を挙げ、①居住機能の更新を図るストック改善、②商業機能等の更新を図るストック改善を目標としている。

 何故、「町家再生」なのか。以上からは、大きく二本の柱が浮かび上がる。

 第一は、町家の町並みの再生である。「京都らしい」「伝統的な」京町家の町並みの再生という目的である。京町家が次々に建て替えられ、町並みが崩れてきた現状に対して、京町家の町並みが維持してきた景観を再生していこうというのである。

 第二は、町家の再活用である。ストックとして存在してきた京町家を改善し、他の機能に転換することも含めて、再生・活用し、町を活性化しようという目的である。特に、都心地域のブライト化(人口減少)に対して、町の活力を再生しようというのである。

  第一、第二の目的のための施策展開が、京都にとって、特に、都心地区にとって、極めて大きなものであることは言うまでもない。しかし、第一、第二の目的を実現することが必ずしも容易なことではないことも予め意識されるところである。現実のメカニズム(建造物や土地の更新メカニズム)は、むしろ、目指すべき方向とは逆の方向を推し進めてきたのであり、それだからこそ以上が大きな課題として意識され出したという経緯があるからである。地価の問題や相続税の問題など、様々な問題が絡み合っており、「町家再生」という課題は極めて多様な側面からアプローチすべき総合的な課題である。


 b.木造町家の再生

 それでは、何を課題とし、何を目的とするのか。焦点となるのは、既存の京町家、そして、京町家が連坦し「伝統的な雰囲気を」残す街区である。今、存在する町家あるいは木造の町家をどうするかというテーマである。

 ここで、町家再生というときの再生の概念を大きく区別して考えておく必要がある。「町家再生」の第一の目的として、京町家らしい町並みの再生をうたうが、必ずしも、かっての町並みのそのままの再生(復元)が目的とされているわけではない。どちらかと言えば、新しい町家をどう創っていくかに力点がある。ビルに建て替わった街区を元に戻すというのはいかにも非現実的である。新しい町家(都市型住宅)をどう創っていくかは、それ自体別途大きなテーマとされねばならない。

 現在、存在する町家や町家群をどうするかという時に、その保存、あるいは保全がまずテーマとなる。「町家再生」の第二の目的であるストックとしての京町家の改修・再活用に照らせば明らかにそうである。京町家を全く新たに建て替えてしまうとすれば、上記の別のテーマになるだろう。一方、第一の目的に照らして、町家の保存、保全を計ることについてはどういう位置づけが可能か。この点は、必ずしも自明ではない。新しい町家の町並みが時間をかけて造られていくとすれば、かっての町家は当然新しい形に建て替わっていくものとする考え方も成り立つからである。しかし、ここで前提とするのは、「現存する京町家は可能な限り、町並みの核として、あるいはその記憶として、あるいはすぐれた都市生活文化の空間装置として保存、保全さるべきものである」ということだ。第一、第二の目的に照らしても、まずは既存の町家の保存、保全の諸方策を検討することは大きな意味を持つと考えるのである。

 既存の町家の保存、保全をテーマとする時、大きな問題がある。極端にいうと、現行の諸制度の中にそのための方策が全くないのである。例えば、居住者が自ら居住する町家を修繕して住み続けようとすると「建築基準法」による防火規定などのためにそれが不可能なのである。もちろん、こうした言い方には補足が必要である。建築基準法の規定に従ってしかるべき措置を行えば、町家を修繕、改修することは可能である。しかし、その措置において京町家の町家らしい佇まいは失われるのではないかという問題が派生する。再生すべき町家とは何か、町家の何が保存されねばならないのか、という問題が本質的である。

 そこで、既存の制度的な枠組み、特に、現行建築基準法の枠組みに従って、「町家再生」、町家の保存、保全を考えていく以前に、「京町家本来の木造のままで保存、保全する」ことができないか、というテーマを考えてみよう。また、その延長拡大として、「木造町家を新たに建設していく方策はないのか」というテーマを考えてみよう。後者をテーマとすれば、必ずしも、既存の町家や町家群に限定されない。もちろん、現代において「木造町家が可能かどうか」という点は、「町家再生」という大テーマにとってもキーである。


 c.町家再生という行為内容

 京町家の保存・継承の具体策については、チェントロ・ストリコ研究会(代表 三村浩史)による「歴史的都心地区における町家・町並みの保存と継承の具体策(1)(2)」*(住宅総合研究財団 1993年 以下、チェントロ・ストリコと略)に包括的に示されている。ここでは、基本的にそれを前提としよう。ただここでは、町家再生のための具体的な行政手法の検討が主題である。町家再生のための制度手法を検討するために、町家再生という行為内容を分類しておこう。分類の基礎となるのはおよそ以下のような軸である。

 ①保存行為か建築行為か

 ②単体か群(地区)か

 ③木造かその他の構造か

 ①については、下位分類として、全体的保存か部分的保存か、何を保存するのか(ファサード保存、様式保存、・・・)を考えることができるが、建築基準法上の建築行為となるかどうかがポイントである。②については、単体の立地条件や地区の大きさとか特性による下位分類が可能だが、大きくは単体かどうかがポイントである。③については、木造を問題にすることが前提だが、今日木造の定義は必ずしも明快ではない。ここでは、防火構造かどうかが分類のポイントである。

 以上を念頭に置いて、町家再生という行為を分類してみると以下のようになる。

 A.単体保存

 B.地区保存

 C.単体再生

 D.地区再生

 A、Bは、既存の町家が存在するケース、C、Dは、新たに町家を建設するケースである。ここで保存について、もう少し、細かく規定しておこう。建築行為とならない「保存」は、極めて限定的であり、制度的対応は文化財保存という形に限られる。通常、保存行為は以下のような幅をもって考えられている。

 ①保存   Preservation   原形・凍結保存

 ②保全   Conservation   現状保存・維持管理

 ③復原   Restoration Remodelling  

 ④改修   Repair Improvment Rehabilitation 

 ⑤増改築 Enlargement Modification

  ⑥建替   Reconstruction Renewal

  問題はA、Bである。ただ、A、Bの場合も、ここでは「新築」に等しい「建替」も含めた行為も場合によっては含み得る。町家を復元したり、新たに創るケースもありうるからである。

 チェントロ・ストリコは、保存・継承のパターンとして、

イ.原型保存(1)

ロ.変化形活用(2)

ハ.継承的創作(3)

の三つのモードを分け、(A)外観、(B)内部空間の組み合わせとして、以下の三つを区別している。

 ①伝統的木造様式保存・復元(原型保存、内部空間活用)

  A1B1 A1B2 (A1B3)

 ②伝統様式の活用(変化形活用、内部空間創作)

  (A2B1) A2B2 A2B3

 ③継承的創作(原理継承、創作デザイン)

  (A3B1) A3B2 A3B3

 この分類も、既存の町家との関係において考えると以下の三つに整理される。

 ①すぐれた町家の伝統木造様式の外観をできるだけ完全に保存する、あるいは一部保存する。内部空間についても同様であり、その用途にもよるが、できるだけ原型の様式を残す。A1B1 A1B2

 ②すぐれた町家の外観を保存または修復し、住居および事業所として持続的に活用する。内部空間も同様であるが、現代的創作も期待する。敷地によっては、通りに面した部分を保存し、奥を改築する。A1B2 A2B2 A2B3

 ③新しい創作の場合に、伝統的町家・町並みが有してきた空間構成原理を適用する。A2B2 A2B3 A3B2 A3B3 

  主として①②、また、制度手法を考える上では、A1、A2、A3の区別が重要である。


 d.町家再生のための制度手法

 考えられる制度手法を検討してみよう。現行の制度的枠組みは極めて限定的であり、町家再生のための手法も限られるからである。

 チェントロ・ストリコは、京町家の保存・継承施策として、①モデル・カルチャー型、②動態保存・伝統尊重型、③動態保存・改造活用型、④新町家・伝統様式引用型、⑤新町家・創作志向型、⑥断絶型の6つを挙げる。しかし、具体的制度手法との対応を考えると①~③と④~⑥とでは大きく異なる。ここで主として問題とするのは①~③となる。同じく、都市計画的な対応のひとつとして、チェントロ・ストリコが挙げるのが、保存指定のパターンである。具体的には、以下のようである。

 指定1 単体保存

  指定2 連坦指定:一軒以上の伝統的町家の徹底保存。一世紀前の京都の風情の再現。映画のセットとなる界隈。

 指定3 混合創作:外観の伝統を忠実に維持していなくても、京町家の雰囲気をとどめた建築が集まっていて、低層建築の町並み維持している界隈。

 その力点は、指定3にあるようだが、具体的な検討はなされていない。また、指定1、指定2についても、具体的にどのような制度手法を用いるかは不明である。本研究では、その具体的検討がテーマである。

 既存の町家の保存・再生を考える場合、次のような手法がある。既存の制度的枠組みの大幅な変更を伴わないとすれば、以下のいずれかを用いるのが基本である。

 ①文化財保護法98-2および83-3による方法

 ②建築基準法3-1-3によるその他条例の制定による方法

 ③建築基準法38(大臣特認)による方法

 ④都市計画区域の変更による方法

 チェントロ・ストリコの指定1、指定2については①によることが考えられる。すなわち、文化財としての保存(手法Ⅰ)、伝統的建造物群の指定(手法Ⅱ)という手法である。しかし、文化財としての町家の保存のみでは、「町家再生」という目的のためには不十分である。そこで②を用いることが如何に可能かがひとつの焦点になる。②を①の拡大適用と考えて、町家保存再生を計る手法である。しかし、①は、凍結保存、原型保存、様式保存が原則で、狭義の保存が主となる。伝統的建造物群の保存地区の指定も地区は限られてくる。特に、ストック活用を考える場合、①の拡大適用だけでは不十分である。そこで、①は①として、②は、現行法規の解釈では、文化財に準ずるものを条例で指定することが想定されている。しかし、ここでは新たな可能性として、より一般的な町家について「その他条例」を考えるのが適当である。景観資源としての価値を重視した、その他条例になり得る条例の立法化を新たに考えるのである。「京町家保存再生条例」、「京町家群保存再生地区指定」という総合的な立法化もありうるし、景観条例、特別保存修景地区や美観地区等の指定を整備していくことが考えられる(手法Ⅳ)。

 ②による場合、単体の指定は、場合によるとなじまない。そこで単体保存の場合に③が考えられる。両側をビルで囲われているケースなど防火上の規制緩和が可能なケースがある。両側のビルをどう担保するかは問題であるが、ケース毎に③を用いることは原理的にありうる。ただ、町家を一戸ずつ認定するのは行政的に煩些だということがある。より地域に密着した形で、「日本建築センター」*のような評定機関が設置されることが考えられる。③によって、単体保存が可能になれば、それを面に広げていくことも可能となる筈である(手法Ⅲ)。

 ④は、目的に忠実に「京町家保存再生地区」制度を新たに設定する都市計画の変更を伴う手法である(手法Ⅴ、手法Ⅵ)。

 以上を整理すると、検討すべき手法は以下のようになる。

  

 手法Ⅰ 文化財指定・登録による保存

     単体保存:文化財もしくはそれに準ずる町家

 手法Ⅱ  伝統的建造物群保存地区指定による保存

     地区保存:伝統的町並みが残されている地区

 手法Ⅲ 「京町家保存再生認定」による保存(建基法38大臣特認)

     単体保存再生あるいは新町家創生:伝統的町家および新町家

 手法Ⅳ 「景観条例」(「特別保存修景地区」、「美観地区」等)による京町家保存再生地区指定による保存(建基法3-1-3その他条例適用)

     地区保存再生あるいは単体保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅴ 「京町家群保存再生地区制度」(仮)による保存再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅵ 「新町家景観形成地区制度」(仮)による再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区創生:一般住宅地


 手法Ⅰ、Ⅱは既存の手法、手法Ⅲ、Ⅳは、条例等の新設によって、規制緩和をしようとする手法、手法Ⅴ、Ⅵは、都市計画による手法である。

 具体的に、例えば、手法Ⅲは以下のようにイメージされる。

 ①保存すべき町家の形式(ファサードの様式)が予め景観審議会等デザイン・コミッティーによって、デザイン・コードとして決定される。

  ②規制緩和、適用除外を認定する機関を条例で定める(建築センターに準ずる機関を設置する)。

 ③認定機関は、個別事例毎に規制緩和の評定を行なう。

 手法Ⅳは、手法Ⅱの拡大適用としてイメージされる。


 最も可能性のある結論は、しかし、手法Ⅴ、Ⅵであることは明らかである。しかし、阪神・淡路大震災が全ての議論と提案を振り出しに戻した。

 木造町家の生き延びる条件はますます厳しい。日本の伝統的な町並みが木造町家によって形成されてきたとすれば、木造町家をどう成立させるか、という方法論が無い限り、文化財としてのファサード凍結保存意外に選択の余地がない。ほんとに日本の町はそれでいいのか。


 6-4 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

 一九九八年五月、ヘンリ・サノフ*が京都の出町柳商店街にやってきた。大学のすぐ近くということなので何人かの学生をそのいわゆる「まちづくりゲーム」と呼ばれるワークショップに送り込んだ。題して「ほれぼれ出町づくり ワークショップin出町商店街」(五月二七日~二九日)。プログラム第一日は、講義「コミュニティづくり」と「街並み保全と街並み合わせスライド尺」(町並みに相応しいファサードデザインを用意されたいくつかの中から選択する)、第二日は、講義「建物と遊び場のデザイン」と「アートセンターと遊び場」、第三日は、まち歩きと「デザインゲームづくり」(●資料)。僕自身は、最後の日の、商店街の人々を前にした各グループのプレゼンテーションと懇親会に参加しただけなのだが、およその雰囲気をつかむことはできた。通訳兼任で全体を指導していたのは日本のまちづくり伝道師林泰義*である。

 まずは町を歩く。そして、様々な問題点を議論する。さらに、何事かを提案する。出町柳でのワークショップの手法は、極めてオーソドックであった。そのブレーン・ストーミングによる合意形成の過程は、誤解を恐れずに言えば、KJ(川喜多次郎)法*である。模造紙に参加者の意見を次々に書いて、それをグルーピングしていく。付箋もよく用いられる。

 川喜多次郎*の方法については、地域研究の方法を主題とする極めてアカデミックな国際シンポジウムの基調講演として聞いたことがある。学問と実践の関係、フィールド・サイエンスの基本的なあり方を問うその講演は随分と刺激的であった。演壇一杯に張り出された模造紙にびっしり書き込まれていたのは、東北の過疎の村のむらおこしの事例だった。

  現場で徹底的に議論すれば合意形成は必ずなる。

 信念に充ち、経験に裏打ちされた断言は迫力に充ちていた。帰納法でも、演繹法でもない。現場の共有による解決である。

 C.アレグザンダー*がいう「センタリング・プロセス」*を思い出した。ただ、C.アレグザンダーの場合、もう少し普遍的な価値や理念を前提にしているように思える。ともあれ、そのパターン・ランゲージ以降の展開は、建築家によるまちづくりの方法として検討すべきものである。ヘンリ・サノフの出町柳商店街のワークショップはあくまで「ゲーム」であった。というか「まちづくりゲーム」のオルガナイザーの養成訓練といった趣であった。ほとんどの参加者は居住者ではなく、他所者である。面白かったのは、参加者の提案と商店街の人達のリアクションである。商店街の人達がよりラディカルな提案を切り返したりしたのである。建築家あるいはプランナーがどうまちの人達と関わるのかはまちづくりの基本的問題である。

 サノフは、著書の中で自身が試みたいくつかのゲームを挙げている*1。遊び場、児童センター、野外キャンプ場といった施設の計画、商店街の再生構想、省エネルギー計画などである。そして、「形容詞さがし」(場所の雰囲気を形容詞で表現する)、「ルート選び」(目的に従って歩く道を選ぶ)、「街並みあわせ」(街並みに相応しいファサードを選ぶ)など、ゲームを行う上での具体的な手法を挙げる。

 サノフは「まちづくりゲーム」を所詮シミュレーションにすぎないという。「学習」「経験」に意味があるという。一方、「まちづくりゲーム」を具体的なまちづくりの過程に用いようとするのが林泰義である。彼が一貫して関わってきたのが自らの住む「世田谷区のまちづくり」である。その活動に対して、一九九八年度の都市計画学会賞が授与された。そして、ほぼ同時に、建築フォーラム(AF)がAF賞*を贈った。そのAF賞記念シンポジウムの行事の一環としてJ.シラス*とともにその活動の一端を案内してもらった。

 東京工業大学の土肥真人研究室が企画してくれた「世田谷まちづくりツアー」のコースは、三軒茶屋→太子堂(太子堂まちづくり協議会)→梅ヶ丘→羽根木プレーパーク→深沢→ねこじゃらし公園→玉川まちづくりハウス→東工大百周年記念会館(シンポジウム会場)であった。

 世田谷区で住民参加型のまつづくりが始まったのは区長公選が実施された一九七五年からである。最初の活動が大村虔一・彰子夫妻の主導による「冒険遊び場」*である。「水道道路」を借りて始められた冒険遊び場運動は、羽根木公園に今日に至る拠点を見出す。様々なグループが子どもの遊びを核として広がりを見せる。ヘンリ・サノフのデザイン・ゲームとの出会いは一九八八年のことで、世田谷区の研修プログラムとして取り入れられるのが一九九〇年春である。

 見せて頂いたのは、いずれも極くささやかなプロジェクトである。例えば、三軒茶屋のヴェスト・ポケット・パークは、住民の発意で、住宅一戸分の土地を区が買い上げて公園になった。以後、住民たちによって維持管理されている。あるいは、小学校前の歩道。ちょっと拡幅してフェンスをデザインする。さらに、公衆電話ボックスの設置。身障者や子どもの利用を考えてみんなに使いやすいようにデザインする。「ねこじゃらし公園」と名付けられた一見何の変哲もない公園。住民たちの合意で、かってどこにもあった雑草がぼうぼうはえる公園とした。使われていない公共空地。色々なイヴェントに使わせてもらうことにした(コミュニティ・ガーデン)。J.シラスはしきりに共感を示していた。彼がインドネシアで進めてきたカンポン改善事業(KIP)に相通ずるものを感じたからである。

 身近な環境をみんなで考え、デザインする。まちづくりの原点である。


 6-6 X地区のまちづくり

 O市N区X地区は実在する地区である。X地区全体にはおよそ人口二万人が居住する。大都市の都心に近い居住地だ。といって、歴史はそう古いわけではない。母都市の発展とともに人々が蝟集してきた地区で昭和の初めに耕地整理が為されていて街区は割と整然としている。

 整然とした格子状の街区にT商店街が東西に走っている。南北道路で仕切られ、八番街ぐらいまであるから結構な規模である。一キロは悠にあろうか。しかし、近年商店街は活気がない。シャッターを閉じたままの店が目立っている。

 近くに日本でも有数の「寄せ場」があって、X地区にも、ちらほらホームレスの姿が見られる。X地区を歩けばと町の雰囲気はすぐわかる。ところどころに銭湯があって、下宿屋スタイルのアパートがある。下宿屋スタイルというのは、玄関が共通で靴を脱いで上がるアパートである。トイレ、流しは共通で、風呂はない。地区に銭湯が必要な由縁である。戦前に遡る長屋もまだ残っている。居住環境は、一般的に言えば、そう豊かでないということになろう。

 整然としているけれど路地は細い。街路に樹木はほとんどないが、ここそこに地蔵堂がある。それに目立つのは工場である。特に靴工場など革製品を扱う家内工業が多い。また、日本の各種の店がやたらに多い。市場の一画にはキムチなど韓国の食材が並ぶ。在日アジア人が多く居住するのである。

 しかし、そうした地区の特性や背景はここではおこう。紹介したいのはX地区で多彩なまちづくりが開始されつつあることである。K同盟を中心とするまちづくり組織がしっかりしているのがこの地区の特徴である。もちろん、自治体のサポートもある。そして、住民組織と自治体をつなぐ仕掛け人がコーディネーターとしている。タウン・プランナー、タウン・アーキテクトといっていい。

 T商店街のここそこに目立つ空店舗をリフォームセンターに改造した。店舗や住宅の改修、改造を手掛ける。地域の職人さんを組織し、手伝ってもらう。閉鎖になった保育園を「いきがい学習センター」とした。高齢者、障害者の訓練センターである。木工と陶工分野がある。ただの職業訓練ではない。陶工部門は、素焼きから釉薬・陶器、アートクラフトへとステップアップした。そして、公園の遊歩道や花壇のタイルを制作しだした。まちづくりへの直結である。木工部門も、公園に船の形の遊具をつくった。近所の小学校で絵のコンクールをして、入選作を船のここそこに描いた。京都市立芸術大学や京都造形大学の学生たちもヴォランティアで参加している。

 社会教育センターの中にコンピューター教室もできた。優秀なインストラクターが招請された。小学生から九〇歳までコンピューターを扱う。小学生のCG(コンピューター。グラフィック)作品など馬鹿に出来ないかなりの出来映えだ。おじいちゃん、おばあちゃんも年賀状のデザインに凝っている。

 その社会教育センターの庭に直径数メートルほどのビオトープ*がつくられた。小さな自然が蘇った。

 アイディアが浮かべばすぐ実行である。こうして活動が軌道に乗ってきて、まちづくりの拠点として「Nまちづくりプラザ」がやはりT商店街に開設された。こうなるとまちづくりはさらに広がりを見せる。Jカードという地域で流通するカード・システムが既に開始された。カードには様々な情報がインプットされ、福祉や医療行政とも連携が計られている。生協活動も大きくまちづくりの輪に位置づき始めている。

 まちづくりの主体がしっかりとしていること、その仕掛け人が創意工夫に富んでいること、その二つはまちづくりの鍵である。X地区のまちづくりは大きな可能性を孕んでいるように見える。

 

2021年10月2日土曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅲ 建築家と都市計画  第5章 近代日本の建築家と都市計画

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅲ 建築家と都市計画

 第5章 近代日本の建築家と都市計画

 5-1 社会改良家としての建築家

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の『建築雑誌』*や『建築世界』*といった雑誌を見ると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めている(註1)。

 「国家を如何に装飾するか」*をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)で明け暮れていた明治末年から大正期に入ると日本建築学会の合同講演会のテーマはがらりと変わる。「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心たるやそう広がりをもったものではなかった。稲垣栄三(註2)が「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」*と「都市計画法」*が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている通りである。

 水野錬太郎(内務大臣)、田尻稲次郎(東京市長)、藤原俊男(東京市参事会員)、池田宏*(内務書記官都市計画課長)、関一*(大阪市助役)、福田重義(東京市技師)など、一線の行政責任者、担当者を講演者に含む先の日本建築学会の合同講演会には、大正期における建築家の住宅、都市に対するアプローチの水準がほぼ反映されていると考えられるが、欧米の現況についての情報の報告と建築条例の制定が話題の中心である。当時、建築条例の制定については、建築家として、内田祥三*が最も包括的に整理を行っている。用途地域制については笠原敏郎*がまとめている。池田宏、片岡安*の膨大な論文がまたこの時期のひとつの成果である。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」と稲垣は総括する。

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館*○、大阪中之島公会堂○*などの設計で知られる岡田信一郎*である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註3)。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註4)という理念があった。

 「建築家は美術家の一であると、すまし反って居るのには、建築其物があまり社会的で在り過ぎる。而して私の考えて居る建築と云ふのは、其んな高踏的態度を許さない、もっと人生に密接の連関したものである。・・・吾々が建築家として実際に建築の事を考へる時に、其美を独り他の社会活動と離して考える必要はない。安寧実用に基く建築の性質上他の社会活動と連関して考えらるべきである。而して美術が、個人の表現であるならば、又其が社会の表現であると見る事も不合理では無くなって来る。此点から、美術の改進は社会改良の一面である。併し、私は、家にはもっと卑近な、現実的な問題を取扱いたいのである。」

 大正期の建築論の、美術か技術か、用か美か、という二元論的議論*の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していた。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註5)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だったのである。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたようにみえる。


  5-2 近代日本の都市計画

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであり、都市計画というジャンルが「建築学」の領域として位置づけられるのは少し後のことであるが、都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例*の公布と翌年の同条例施行および市区改正の告示が日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。   

 その歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註6)。石田による時代区分を前提として、今日に至る日本の都市計画の歴史を区分すれば以下のようになる。


 第一期 欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)

 第二期 市区改正期(一八八〇~一九一八年)

 第三期 都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)

 第四期 戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)

 第五期 戦後復興都市計画期(一九四五~一九五四年)

 第六期 基本法不在・都市開発期(一九五五~一九六八年)

 第七期 新基本法期(一九六八~一九八五年)

 第八期 反計画期(一九八二年~一九九五年)

 第九期 地域まちづくり計画期(一九九五年~)


 第一期の欧風化都市改造期は、銀座煉瓦街建設*(一九七二年)○、日比谷官庁集中計画*○(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信*の『明治の東京計画』(註7)が詳しく光を当てるところだ。第二期が一八八〇年からの区分とされるのは、既にその動きが始まっていたからである。以下についても同様だ。こうした時代区分はある年を閾として截然と区切れるものではない。

 第三期において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされるのである。

 一五年戦争下の第四期は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みが行われた時期であり、戦後へ直接つながるものを残している。極めて大きな経験となったのは、後に触れる植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正*が画期になる。第五期の戦後復興都市計画期を経て、日本は高度経済成長期を迎える。この十数年で日本の町や村は大きくその姿を変えることになる。第六期は、基本法不在の都市開発期である。東京オリンピック*で首都東京が大きく変貌し、大阪万国博*(エキスポ七〇)の会場設計に未来都市の姿が夢見られたそうした時代である。大都市近郊には、数多くのニュータウン建設*が開始されたのが一九六〇年代である。 

 七三年、オイルショックが起こった。建築、都市計画に関わるパラダイムが転換する。量から質へ、新規開発から既存市街地の再開発へ、高層から低層へ。第三次全国総合開発計画(三全総)*は、大規模河川の流域を単位とする定住圏構想をうたった。しかし、八〇年代に入って、風向きが変わる。

 中曽根内閣のもとで、米国ではレーガノミックス、英国ではサッチャーリズムと呼ばれた既成緩和策(デレギュレーション)が取られた。そしてバブル経済の狂乱が日本列島を襲った。石田によれば反計画期(第八期)である。

 バブル崩壊後、今日に至る時代は模索期である。環境問題、エネルギー問題、資源問題などが顕在化することにおいて、明らかにバブル期とは異なる。地球環境計画の時代ということになるかもしれない。また、地域社会をベースとするまちづくりの時代ということになるかもしれない。阪神淡路大震災(一九九五年)が決定的な画期となる。願望を込めて予測すれば、タウン・アーキテクトが根付く時代になるであろう。


 まず問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたが、残されている課題は依然として多い。否、もしかすると、建築家が独自の行動原理を都市というフィールドから引き出してきたかどうかは大いに疑問なのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマン*のパリ改造*と市区改正、ナチスの国土計画理論*と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プラン*と首都圏整備計画*、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)*と地区計画制度*(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政機関なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。また、ほとんどの施策は中央で発想されている。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 都市計画の組織の問題も以上から窺えるように曖昧である。もちろん、その根底には日本の地方自治体の問題がある。ジョブ・ローテーションということで都市計画を担当する部署に一貫性がない。また、都市計画の決定に様々な主体が絡み合い、その決定プロセスを不透明にする構造は変わらず存在してきたのである。


 5-3 虚構のアーバン・デザイン

 戦後復興から今日に至る過程をまず一気に振り返ってみよう。建築家にとっての都市と建築をめぐる問題は、上述のように一向に解かれていないのである。

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華*が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄*が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。

 また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。新宿復興コンペで一等当選したのが内田祥文*、祥哉*兄弟のグループである。この新宿地区計画は淀橋上水場を含んでいたのであるが、東京都庁舎を含むオフィス街を計画しており、今日の新宿新都心の姿を先取りしているのが興味深い。また、早稲田、本郷、池袋、三田の四地区において文教地区計画が立案されている。

 戦後まもなくの東京における復興計画についてこうしたコンペの企画を行ったのは石川栄曜*(一八九三~一九五五年)である。彼は、一九三三年以来、東京都の都市計画を手掛けてきたが、知られるように戦前戦後を通じた都市計画界の最大のイデオローグである。驚くことに、一九四五年八月二七日には、石川が課長をしていた都市計画課は「帝都再建方策」を発表している。東京戦災復興の公式の計画である「東京戦災復興計画」は、一九四六年四月に街路計画・区画整理が、九月に用途地域が、一九四八年七月に緑地地域が計画決定されていくが、それと平行して、いわば復興機運を盛り上げるために復興コンペが企画されたのであった。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。白紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。そのモデルは、しかも、ヨーロッパのものであった。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかったのである。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのだ、といわれることになる。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓*の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章*の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人*の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦●の「群造形論」、大谷幸夫*●の「Urbanics試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司*○の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註8)で詳しく書いた。

 「西山夘三は、「六〇年代は日本の建築家が都市に対して眼を開き、かつて戦災のあとの絶好(?)の機会に能力不足で果たせなかった責任の償いをし、〈所得倍増計画〉という華やかな建設のかけ声にのって、大きな成果をかちとる時代であるーーといった期待が語り合われ、少なからぬ人々が意気にもえている」と書いていた。おそらくそうであった。戦時中の中国大陸での経験を別とすれば、建築家は絶好の都市(都市計画)への実践の機会を戦後まもなくに続いて再びもったといえるであろう。」

 しかし、帰結はどうか。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・Expo'70であり、沖縄海洋博であった。・・・」*


 5-4 ポストモダンの都市論

 オイルショック*とともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく。そうした状況を原広司は「最後の砦としての住居」と比喩的に呼んだ(註9)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々な衝突や軋轢を引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々蠢きである。

 バブル期の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註10)。一七世紀の初頭には東国の寒村にすぎなかった江戸が世界都市・東京へ至ったその歴史を振り返る余裕はないが、単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブ(回顧趣味的)な都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。「純粋観察」を標榜する路上観察の流れもこの系譜である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。


 5-5 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで首をすくめてまつだけなのであろうか。

 おそらく、そうではあるまい。繰り返し繰り返し同じ様な総括がなされるところには致命的な問題点があるとみていい。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることが意識される必要がある。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。その一貫する問題は既に述べた通りであるが、端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限*、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画も、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。


 5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

 こうして都市計画の得体の知れ無さを振り返るとき、時として、ある時代の都市計画が理想のものとして、また、可能性に充ちたものとして想起される。十五年戦争期の植民地における都市計画である。大連、奉天、新京(長春)、ハルピン、撫順、牡丹江、北京、上海、青島、京城、釜山、台北、高雄など、満州、中国、朝鮮、台湾の主だった都市で都市計画が実施されている。大同都市計画*、新京都市計画*など建築家も数多く参加したのであった。また、日本の都市計画法や市街地建築物法にならった法制度も施行されている。朝鮮市街地計画令が一九三四年六月に、台湾都市計画令が一九三六年八月に、関東州計画令が一九三八年二月にそれぞれ公布されたのであった。

 何故、植民地における都市計画が振り返って着目されるかというと、理念がストレートに実現されようとしたかに見えるからである。それまでに蓄積されてきた都市計画の技術や理念を初めて本格的に実践する一大実験場となったからである。

 越沢明は、なかでも新京の都市計画を近代日本の都市計画史のなかで看過できない重要な意味をもつとする(註11)。近代都市計画の理念、制度、事業手法、技術は、日本では一九三〇年代にほぼ確立しており、新京における実践においてそれが明らかに出来るというのである。新京の都市計画については、越沢の作業によっても明かでないことも多い。ただ、理念の実現という観点からみて、その計画の意義が全体として評価されるのである。

 理念をある程度「理想的に」実現させたものは、植民地という体制である。強力な植民地権力の存在があって、初めて、理念の実現が可能となった。都市計画は、その本質において、あるいはその背後に、強力な権力の存在を必要とするのである。植民地の場合、その都市計画の目的ははっきりしている。先の都市計画法も、それぞれ似ているけれども、日本の都市計画法とは全く異なる。その目的とするのは植民地支配のための「市街地や農地の創設と改良」であって、公共の福利や生活空間の創造ではないのである。また、様々な規定の強制力は比較にならないものであった。土地の収用権は、台湾でも朝鮮でも総督が握っていた。区画整理事業にしても強制施行がほとんどである。

 植民地期の都市計画の実験を理想化することは、こうして、都市計画に付随する暴力的側面を覆い隠すことにおいて一方的である。しかし、都市計画の理念の実現に強力なリーダーシップが必要であること、私権を制限する強力な強制力が必要であること、都市計画が国家権力と不可避的に結びつくものであることを確認する上で、植民地における都市計画を振り返っておくことは無駄ではないであろう。

 日本の場合、象徴的なのは後藤新平*であろう。近代日本の都市計画の生みの親とも言われ、東京市長として帝都復興計画を実現しようとした後藤新平にとって、一方で、「機関銃でパリの街を櫛削る」といわれたオースマンが理想であった。しかし、植民地台湾、植民地満州における経験もまた決定的であった。都市計画のひとつの理想をそこで見たに違いないのである。後藤新平はいささかスケールが小さいかも知れない。結局は、帝都復興計画は挫折するのである。


 5-7 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェ*はパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン*、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。」と書いた。その建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。それを支えるのは素朴な理想主義といっていいが、その理念はすぐさま唯一特権的な存在に結びつく。「世界建築家」を自認し、実践しようとしたのがヒトラーなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエン*であり、フーリエ*であり、サンシモン*であり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていない。


  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 都市計画の起源というとヒッポダモス*風の都市計画がまず挙げられる。このグリッド・パターンの都市計画は古今東西実に広範にみることができるのであるが、知られるようにギリシャ・ローマの都市計画には別の伝統がある。E.J.オーエンズによれば(註13)、都市を壮麗化し大規模な景観のなかに都市を構想するペルガモンに行きつく流れである。一方がグリッドという形で部分と全体に予め枠組みを与えるのに対して、他方は、自然の地形や景観を前提として、都市全体を記念碑化しようとする。もちろん、単純ではない。植民都市における実験としてヒッポダモス風都市計画が実践される場合、絶えず、危険性があった。都市の立地によっては、大規模な造成が必要となるからである(註14)。

 全体を予め想定した都市計画の伝統として、宇宙論的な都市の系譜がある。都市を宇宙の反映として考える伝統である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとするのが、例えば、中国や日本、朝鮮の都城であり、インドのヒンドゥー都市である。しかし、そうした理念型がそのまま実現されることはまずない。また、理念型に基づいて計画されても、大きく変容して行くのが常である。平安京や長安の変遷をみてもそれは明かであろう。

 王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市、すなわち都城について、その都城を支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係をグローバルに見てみると、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。また、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ないのである。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していくし、理念型と生きられた都市は常に重層的なのである。

 もうひとつの都市計画の伝統を想起しておく必要がある。イスラーム都市の伝統である。イスラーム都市は迷路のような細かい街路が特徴的である。直線的ヴィスタはなく、全く幾何学的で、アモルフである。しかし、都市構成の原理がないかというと決してそうではない。全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成されるそんな原理がイスラーム都市にはある。極めて単純化していうと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法である。都市計画に関しては、道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積がイスラーム法にあるのである。もちろん、モスクやバザール(市場)など公共施設の配置や城壁の計画といった次元の都市計画はなされるのであるが、街区レヴェルを構成していく場合に予め全体像は必ずしも必要とされないのである。

 このイスラームにおける都市計画の原理はタウンアーキテクト制の構想において大いに参考になる。ディテールのルールの集積という、下からの発想に加えて、ワクフ(寄進)制度がある。篤志家が寄付するワクフによって公共施設が整備される。まちづくり基金の構想に活かせるだろう。とにかく、コミュニティ・ベースのまちづくりへのヒントがイスラーム都市には豊富にあるのである。

 以上のような前近代におけるいくつかの都市計画の伝統から示唆されることは何か。少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まない限り、あらゆる都市計画理論は無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。




註1 拙稿 、「初期住宅問題と建築家」 、『群居』創刊号、一九八三年四月。

註2稲垣栄三の『日本の近代建築』(上)(下)(SD選書、一九七九年)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

註3 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註4 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註5 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註6 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註7  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註8 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註9 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註10 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註11 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註12 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註13 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註14 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月

 

2021年10月1日金曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能  第4章 アーキテクトの社会基盤

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能


 第4章 アーキテクトの社会基盤


 4-1 日本の「建築家」

 日本で「建築家」というと一般にどんなイメージをもたれているのか。知っている「建築家」を挙げて下さいというとどんな名前が挙がるであろうか。ひと昔前なら、丹下健三*1あるいは清家清*2、ちょっと前なら黒川紀章*3、今なら安藤忠雄*4であろうか。建築界で著名な磯崎新*5や原広司*6、伊東豊雄*や石山修武*でも一般的にはどうか。驚くほど知られていないのではないか。

 古くは原田康子の『挽歌』*7、近くは渡辺淳一の『ひとひらの雪』*8のようにやたら格好いい「建築家」のイメージが流布されるが、実態はいささか薄ら寒い。日本にそんな格好いい「建築家」は果たしているのか。そもそも日本の「建築家」とは何か。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」*「二級建築士」*「木造建築士」*を合わせると八八万人ぐらいになる*9(○表)。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する(表)。「建築士事務所」ということになると、「一級」「二級」「木造」合わせて、一三万社ぐらいになる*10。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体には「日本建築士会」(連合会)*11「全日本建築士会」*12があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*13、「日本建築協会」*14がある。また、「日本建築事務所協会」*15がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないが、所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何かについて、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいえる。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)*である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、「日本建築学会賞」などいくつかの顕彰制度*○が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「施主(クライアント)」であり「建設業者」なのである。


 4-2 デミウルゴス

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*16。アンブローズ・ビアス*17の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*18などと皮肉たっぷりである。

 決まって引かれるのが、現存最古の建築書、ヴィトルヴィウス*19の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられている。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル*王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*20によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*21がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 「建築家」の原像としてしばしば召喚されるのがデミウルゴス*である。デミウルゴスを登場させたのはプラトンだ。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*22

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*23の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*24

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指し、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。ここではオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*25。

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入している。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*26、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として「理想都市」を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しとしての自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*27がいい例だ。かって、「建築家はファシストか」と喝破した文芸評論家がいたけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。


 4-3 アーキテクトの誕生

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*28という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*29。

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*30(一五七三ー一六五二年)ではなくてジョン・シュートである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*31、アルベルティ*32、セルリオ*33を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、シュートの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー*が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソン*などの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

  イニゴー・ジョーンズは、知られるようにもともと仮面劇のデザイナーである。王室の知遇を得てジェームズ一世*のキングス・サーヴェイヤーになる。その結果、グリニッジのクイーンズ・ハウスやコベント・ガーデンのセント・ポール教会など多くの建築を手掛けることになるのであった。このサーヴェイヤーとは何か。アーキテクトとどう違うのか。

 日本語では、監督、調査士、測量士、鑑定士、検査官などと様々に訳される。クオンティティ・サーヴェイヤーというと積算士のことである。家屋調査士、不動産鑑定士、測量技師、積算士、現場監督いずれも建築の実務に関わる。サーヴェイ(測定、調査)することはアーキテクトの重要な仕事である。キングス・サーヴェイヤーとは王室の普請に関わる一切を統括した職能である。当時、現場を指揮したのはマスター・メイソン、石工の親方である。木造主体の日本で言えば大工の親方、棟梁だ。それに対してサーヴェイヤーは新たな職能として登場してくる。キングス・サーヴェイヤーとは王室付き建築家、営繕主任といったところか。幕府で言えば、作事方、普請奉行である。しかし、こうした類推は誤解の元である。イニゴー・ジョーンズには、ジョン・シュートが理想化するようなイタリア・ルネサンスのアーキテクトの理念がある。

 イニゴー・ジョーンズに続くのがクリストファー・レン*34(一六三二~一七二三年)だ。ロンドン大火(一六六六年)後の再建計画で知られる。また、セントポール大聖堂*の設計者である。彼はもともと天文学者だった。経緯があってチャールズ二世のキングス・サーヴェイヤーに任命される。英国の最初のアーキテクトたちが王室と関係をもっていたことは重要である。

 一七世紀から一八世紀にかけて、パラディオニズム*の流行とともにアーキテクトが育ってくる。そうしたアーキテクトがどのような社会的基盤をもって登場してきたかはフランク・ジェンキンスの『建築家とパトロン』*35に詳しい。ウイリアム・ケント(一六八五~一七四八年)、トーマス・アーチャー(一六六八~一七四三年)、ジェイムズ・ギッブス(一六八二~一七五四年)、ロバート・アダムズ(一七二八~一七九二年)、ジョージ・ダンス・ヤンガー(一七四一~一八二五年)、ジョン・ソーン(一七五三~一八三七年)といった今日その名を知られる建築家に共通するのは、イタリアをはじめとする海外での経験である。それを可能にするパトロン、あるいは資産家の出であることはひとつの前提であった。

 ジェンキンスは、建築家の出自について、イニゴー・ジョーンズやウイリアム・ケントなど芸術家、レンに代表される科学者、ジェントルマン、工匠、徒弟の五つのグループを区別している。ジェントルマンには海外経験の多い軍人、大学卒の資産家などが含まれる。植民地は有能なサーヴェイヤーを必要としていた。徒弟とはアーキテクトのもとで修行をつんだものをいう。すなわち、ジョン・シュートが理念化するようなアーキテクトであるかどうかは別として、様々な層からアーキテクトなるものが生まれ、社会的(パトロン)に支えられ仕事を始め出すのである。

 

 4-4 分裂する「建築家」像

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者であり、そしてそれらを合わせた何者かである「アーキテクト」なるプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

  ジョージ・ダンス Jr.*36、ヘンリー・ホランド等によって「アーキテクト・クラブ」が設立されたのは一七九一年のことだ。W.チェンバース*37、R.アダムズは後に加わるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。また、ロイヤル・アカデミー・スクールでゴールドメダルを獲得したものに入会資格は限定されていた。ロイヤル・アカデミーは、チェンバースの発案で一七六八年に設立されている。「アーキテクト・クラブ」は、一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。そもそも差別化の論理で団体が結成されているのである。

 このあたりは、瀬口哲夫の『英国建築事情』*38によくまとめられている。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な工匠の区別が行われる。アーキテクトを任じる側が、工匠、職人と同列に扱われることを疎ましく思い始めるのである。この思い上がりは今日も続いている。アーキテクトはえらい!、のである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。キングス・サーヴェイヤーはアーキテクトであってただのサーヴェイヤーとは違う。そして、アーキテクトはサーヴェイヤーより上だという意識が生まれるのである。瀬口は、当時の『一般建築独案内』が「アーキテクトたるに十分な実力のないものをサーヴェイヤーと見なし、このどちらにもなりえないものをクオンティティ・サーヴェイヤーと称すればよい」と書いている事実を紹介する。また、「建築の専門家になる制限をもうけ、その目的に合致しない限り、その名称を許さない」、という考えがあった。名称独占、業務独占というわかりやすい意図である。サーヴェイヤーも対抗する。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは「アーキテクト・クラブ」が設立された翌年(一七九二年)であった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

 それではアーキテクトの資格、能力は何によって担保されるのか。いうまでもなく、それを保証するのは諸制度である。アーキテクトの教育、登録、団体が問題になる。「アーキテクト・クラブ」の設立もそうだ。彼等はダイニング・クラブで設計報酬の取り決めを議論のネタにしていたのである。もちろん、「ロイヤル・アカデミー」といった権威も必要である。いわゆるアーキテクのトが誕生し、増えて行くと、すなわち社会的に認知されると、弟子入り希望も増えてくる。また、建築の設計というのはその本質において集団作業を必要とする。すると弟子入り修業をしたなかからもアーキテクトが生まれてくる。一八世紀後半には、そうした徒弟的修業を経て独立するケースが一般的になったようだ。弟子入りに当たっては謝礼を師匠に払う形がとられた。一九世紀前半には、徒弟制を生活の糧にするアーキテクトも現れる。こうなると私塾である。修業年限は大体五年が一般的であった。今日UIA(国際建築家連合)が建築家の資格取得のための教育年限を五年とするのは一八世紀の経験がもとになっている。我国の四年制の大学制度は合わない。大問題である。

 徒弟修業の一方、建築教育機関が生まれる。一七二〇年にはセント・マーチンズ・レイン・アカデミーという製図学校が開設されている。昼はアーキテクトのもとで働き、夜は製図学校に通う形であった。ロイヤル・アカデミーは設立の翌年にはアカデミー・スクールを始める(一七六九年)。英国最初の建築教育機関である。初代建築教授は、チェンバース、二代がジョージ・ダンス・ヤンガー、三代がソーンだ。アカデミー・スクールといっても年六回の講義で、しかも夜間である。オーソリティによる連続特別講演会といったところであろうか。

 カレッジでの建築教育は、キングス・カレッジで始められ(一八四〇年)、ロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジが続いている(一八四一年)。両者は一九一三年に一本化され、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジのバートレット・スクール*に統合されている。AAスクール(アーキテクチュアル・アソシエーション)*が設立されたのは一八四七年のことである。建築家が徹底した建築家教育を行う今日のAAスクールからは想像しにくいが、設立の母胎はドラフトマン(製図工)組合である。

 建築教育育機関がアーキテクトの裾野を広げると同時にその職能の内容を規定していく中で、アーキテクトの差別化、序列化が振興していく。瀬口は、アーキテクトの社会的地位のひとつの指標としてナイトの称号を得たアーキテクトを数え上げていて興味深い。ナイト第一号のアーキテクトはクリストファー・レンである。ナイトになるとサーの称号が許される。サー・ロバート・テーラー(一七一四~八八年)、サー・ウイリアム・チェンバース、サー・ジョン・ソーン、サー・ロバート・スマーク(一七八一~一八六七年)、サー・ジョージ・スコット(一八一一年~七八年)らがレンに続く。日本で言えば、文化勲章、文化功労賞を受賞した建築家、芸術院会員になった建築家を数え上げる感じであろうか。サー・エドウイン・ラッチェンス*やサー・ロバートベーカー*などインドや南アフリカなど植民地で活躍したアーキテクトも爵位を得ている。

 ナイトの称号を得、社会的にも認知されるアーキテクトを支える母胎となるのがRIBAである。一八三四年に結成されて、三年後にウイリアム四世続いてビクトリア女王からロイヤル・チャーター(勅許)を授けられた。このロイヤル・チャータード(王室に認知された)というのが彼我の建築家団体の分かれ目である。王立ではないが王室がその職能を認知するという形がとられるのである。英国建築協会(IBA)結成の翌年に設立されたサーヴェイヤー協会もロイヤル・チャーターを受けている(RICS(ロイヤル・インスティテュート・チャータード・サーヴェイヤー))。また、都市計画家の団体もロイヤル・チャータードである(RTPI(ロイヤル・タウン・プランニング・インスティテュート))。しかし、構造家の団体(ISE)、積算士の団体(IQS)、造園家の団体(LI)などはロイヤル・チャーターされていない。日本とは相当異なる。英国にアーキテクトは自らを特権化することに成功するのである。

  同じ分離は、シビル・エンジニア(土木工学者)とアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築家協会」(IBA)の設立からであり、さらにロイヤル・チャーターされてからである。


 4-5 RIBA

  造家学会、日本建築士会がモデルとしたのはRIBA(王立英国建築家協会)あるいはAIA(米国建築家協会)であった。一体RIBAとは何か。

 RIBAは一八三四年に設立された。造家学会に先立つこと五二年、日本建築士会に先立つこと八〇年である。わずか半世紀ほどの違いのように思えるが、以上のように歴史と背景を相当異にする。

 RIBAの設立目的は、しかし、簡潔かつわかりやすい。

 ①市民建築(シビル・アーキテクチャー)の全般的な発展・振興をはかる。

 ②建築に関連する人文科学と自然科学の知識の獲得を促進する。建築は市民の日常生活の利便性を向上させるものであるとともに都市の改善や美化にも大いに貢献するものである。したがって、文明国において建築は芸術として尊重されかつ奨励されるものである

 ここで、「文明国」や「芸術」より、建築が「シビル・アーキテクチャー(市民建築)」とされていること、「都市の改善」や「美化」に関連づけられていることに留意しておこう。タウンアーキテクトの根拠もここに求めうる。

 RIBAは、その権威を担保するためにロイヤル・ゴールド・メダルの設置(一八四八年)し、ディプロマなど各種証明を出す権利などなどいくつかの権限を確保する。追加勅許という形でその権限を獲得していく。すなわち、常に王室との関係を軸にしながらその公共団体としての性格と地位を維持していくのである。その活動を支える基盤は日本の建築学会や日本建築士会とは相当隔たりがあると言わざるを得ない。

 RIBAの活動は多岐にわたるが、その主要なものは以下のようだ。コミュニティー・アーキテクトの派遣という活動もきちんと位置づけられている。

 ①アーキテクト資格試験の実施

 ②アーキテクトの専門的再教育

 ③各種建築賞など顕彰制度

 ④図書館の運営 設計図面のコレクション

 ⑤アーキテクトに対する技術的データなど各種情報提供

 ⑥顧客相談サーヴィス

 ⑦コミュニティ・プロジェクトの実施 コミュニティ・アーキテクトの派遣、支援

 ⑧アーキテクト任用のための契約上の枠組み設定

 ⑨アーキテクトの倫理規定の制定

 ⑩各種イヴェントの実施

 こうあげると、我が国の建築関連諸団体も同じ様な活動を展開しているようにも思える。しかし、RIBAを中心とする英国のシステムと日本の仕組みの違いは千里の径庭がある。建築士の資格は、「建築技術教育普及センター」、各種基準は「日本建築学会」、建築士の集まりは「建築士会」、建築士事務所の集まりは「建築士事務所協会」、そして、「建築家」を理念化する「日本建築家協会」という複合的関係を建設省が中央でコントロールする体制が日本である。

 RIBAを中心とする英国の建築システム、アーキテクト資格、登録法、建築教育、アーキテクトの任用制度、アーキテクトの職能倫理等々については、これまで度々引用してきた瀬口哲夫の『英国建築事情上・下』が詳しい。単に制度を紹介するのではなく、実状に迫ろうとする労作である。RIBAの取組から多くのことを学ぶことが出来る。

 しかし、RIBAの理念や規約、組織形態を単に翻訳してもはじまらない。一世紀を超えた日本の建築の歴史がそれを示している。

 

 4-6 建築家の資格

  建築家とは何か、と真正面から問うと、ヴィトルヴィウス流の理念が反復される。しかし、世界各国で現実の形態は様々である。各国、各地域の建築家の社会的基盤をめぐる比較文化論は興味深いところだ。それぞれに建築をつくる仕組みがあり、建築家の役割や社会的地位も異なるのである。

 それはそうとして、建築家が国境を超えるとするとどうなるか。建築の先進地域としてルネサンス・イタリアがあり、そこで修業すること、少なくともイタリアの建築を見聞することが草創期の英国のアーキテクトの条件であった。RIBAの会員であったJ.コンドルによって英国流のアーキテクトの概念をもとに出発したのが我が国の建築家(建築士)である。いきなり時代は飛んで、現在グローバリゼーションの流れの中で、建築家の国際資格が問題になりつつある。

 大きなきっかけはEC(欧州共同体)の統合、EU(ユーロピアン・ユニオン)の出現である。既に市場統合がなされ(一九九三年一月)、共通通貨ユーロが使用に先立って為替市場で売買され始めている(一九九八年一月)。

 市場統合にあたって前提されるのが、人、物、資本、サーヴィスの自由移動である。国境における出入国管理、検問、関税など自由化の障壁になる諸制度は一九八五年の「域内市場白書」によって青写真が描かれ徐々に撤廃されてきた。そして、アーキテクトの資格は、弁護士、医者などとともに人の自由移動に関わり、サーヴィスの自由化の前提として共通化が計られることになったのである。 

 EC委員会においてアーキテクトの資格共通化の方針が出されたのは一九六七年のことである。当時の加盟国は、結成時(一九五七年)のベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの六ヶ国。その後、英国、アイルランド、デンマーク(七三年)、ギリシャ(八一年)、スペイン、ポルトガル(八六年)が加盟して現在一二ヶ国になるが、最終的な指令が採択されるのは八五年である。ヨーロッパでも諸制度の調整に二〇年近くも要した。いかに建築家の社会的基盤が異なっているかの証左である。建築家の資格をはじめ、建築に関わる諸制度がまちまちなのは、建築の生産が基本的にローカルであることの反映でもある。

 まず問題となったのは、建築教育の年限である。五年が支配的だが六年(スペイン)もある。しかし、オランダは四年だ。結局EC指令は四年とされたが、将来的には五年が勧告される。例外はドイツの高等専門学校の三年で、実務経験を加えるというのが条件となった。

 アーキテクトの資格に実務経験を含めるかどうかも問題となった。ドイツ、ベルギー、イギリスのように二~三年の実務経験を強制する国もあるが、大半は必ずしも実務経験を課していない。日本のように実務経験といってもその内容を問わない国もある。

 アーキテクトの中にシビル・エンジニアを含めるかどうかも問題となった。イタリア、ギリシャなどでは区別されていないのである。英国では、シビル・エンジニアとアーキテクトは歴史的な過程を経て分離していが、そのモデルとなったイタリアでは分化していないのである。イタリアにカルトラバ*のような構造デザイナーが育つ土壌があることがよくわかる。一方、フランスではシビル・エンジニアはアーキテクトの仕事はできない。

 資格試験や登録制度の有無、アーキテクトの仕事の範囲や業務独占に関わる規程など実に多様である。そこで結局、ECはアーキテクトの資格の相互認定ではなく建築教育に関わる卒業資格の相互認定を行うことになる。年限は全日制で最低四年。内容的には、建築設計の全般に関わって大学の学位が水準とされた。

 英国の場合、アーキテクトの登録資格が完全に対応する。すなわち、英国アーキテクト登録カウンシル(ARC)の認定を受けた、大学、ポリテクニーク、カレッジ等の建築教育機関およびRIBAの試験に合格したものは相互認知の認定の対象になる。フランスの場合は、アーキテクトの登録制はあるが、相互認定の対象になるのは基本的には二四の大学の建築学部の卒業資格である*39。イタリアは、建築の学位と国家試験合格が相互認定の条件であるが、他にビルディング・コンストラクションのエンジニアの学位と国家試験合格の条件も認められている。ドイツの高等専門学校については、4年の実務経験の証明書をつけることが条件となる。

 米国の場合、建築、建築家に関わる制度については各州に権限がある。全米建築家登録委員会(NCARB)*が全米共通の建築家登録試験(ARE)をするなど一方で統一化は進められているが、各州独自の法、仕組みがある。例えば、カリフォルニア州では、AREの他に、州独自の耐震設計、障害者対策、省エネルギー規定などに関わる面接試験が実施される。カイフォルニア州では建築の学位あるいはアーキテクトの直接監督下で六〇ヶ月の実務経験が受験資格とされるが、ニューヨーク州の場合、建築の学位プラス三年以上の実務経験が必要である。業務資格について個人しか認めない州と協同方式など組織を認める州がある。組織の代表者については様々な条件が設けられる。また、業務制限が行われる州と「アーキテクト」という称号制限のみ規定する州がある。そこでEUと同じように各州間の相互認定の問題が生じる。受験資格の最低年齢、必要実務期間などが取り決められる。

 米国では大学の建築学部の設置は、米国建築教育審議会(NAAB:ナショナル・アーキテクチュラル・アクレディテーション・ボード)が行う。文部省など中央官庁によって設置が認可されるのではなく、自主的な基準と審査期間によって認定する(アクレディテーション)方式*が定着している。NAABは、建築学性の組織(AIAS)、建築教員の組織(ACSA)、全米建築家協会(AIA)*、そしてNCARBの代表により構成されている。この点にも大きな彼我の違いがある。

 米国においては、エンジニアとアーキテクトの職能ははっきり分けられ、専門技術者(プロフェッショナル・エンジニア)の登録制度がある。基本的に各州独自の制度をもっているが、全米技術者・測量士試験委員会(NCEES)による共通試験などかなり統一化が進んでいる。その母胎になるのが、建築、土木に限らず、他の工学分野を含んで、全米専門技術者協会(NSPE)が組織されている。

 こうして、欧米の建築、建築家をめぐる諸制度は、当初それを移入しようとしたにも関わらず、日本のそれとは相当異なる。そうした中で日本の建設市場の閉鎖性が指摘され、建築家の資格などが非関税障壁として非難される。日本は、建築の分野でも世界貿易機構(WTO)*に対応せざるを得ないのである。

 一九八五年のEC指令を受けて、各国で様々な対応がなされてきた。これまでなかったなかったアーキテクト登録法がつくられた国(オランダ)もあれば、教育年限を変更する国もある。各国の対応をまってさらに見直しが予定されるが、ECに設けられた諮問委員会は、建築教育期間五年、実務経験二年の方針を既に出している。

 日本社会の閉鎖性が様々な局面で問われる中で、建築、建築家のあり方も問われつつある。それではEC指令に照らすとき日本の建築家資格、建築教育の内容はどうか。

 建築教育四年というのはかっての教養課程(一.五年~二年)が自由化され形式的には問題なさそうであるが、その実態はどうか。特に五年の勧告に従うとなると、大学院を加えて対応する必要がある。そして、仮に大学院を前提にするにしても、教育内容はどうか。見るところ、建築家教育に程遠い現状がある。

 EC諮問委員会の推奨する実務経験も大きな問題である。日本の場合、実務経験を条件とするけれど自己申告制で内容が問われないのである。

 EUあるいは米国流の諸制度が共通基準とされれば、日本の建築界のパニックは必定である。西欧の諸制度をモデルとする立場にとっては、外圧は追い風である。それに対して、建築は固有の文化に関わる、本来ローカルなものだという、かねてよりの立場もある。日本はどの方向を選択するのか。

 日本にとって気になるのは、韓国、中国の動向である。

 韓国の建築士制度は一九六三年の「建築士法」に基づく。建設交通部長官が実施する建築士資格試験によって資格が得られる。以前は日本同様一級、二級の二つの等級を設けていたが一九七七年の改正以降「建築士」に一本化されている。建築士の数は約八千人(一九九四年)である。人口に比して極めて少ない。社会的地位は高いとみていい。「建築士」とは別に、その前提となる資格に「国家技術資格法」に基づく技術士、技士一級、技士二級がある。専門大学を卒業すると技士二級、四年生大学を卒業すると技士一級の受験資格が得られる。そして技士一級取得後七年の実務経験を経ると技術士の受験資格が得られる。

 「建築士」の受験資格は、建築士予備試験の合格者の他技術士資格と関連して以下のような場合がある。すなわち、建築分野技士一級取得後七年以上建築の実務経験を有する者、建築分野技術士取得者、建築分野技士一級取得後五年以上建築士補として勤務した者、外国の建築士等資格を取得した後通算五年以上建築の実務経験のある者である。

 建築士予備試験がの科目は、建築構造、建築施工、建築計画、建築士資格試験の科目は、建築法規と建築設計である。大学卒業後、試験のみで資格を得る道もあるが資格取得者の数を見ると極めて難しいことがわかる。日本に比べると実務経験が重視されており、厳しく階層化されているといえる。

 一九四九年の中華人民共和国建国以降の中国の場合、相当事情が異なる。一九八五年までは、技術職名制度が採られていた。すなわち、エンジニアについては、高級工程師、工程師、助理工程師、技術員、設計技術者については、高級建築師、建築師、助理建築師、技術員のそれぞれ四段階の職位が区別されていただけである。

 八五年に専門技術職務の認定制度が導入され、専門技術師の招聘制度が採られる。技術員は、大学専科または中等専門学校卒業後見習い一年、考査に合格、助理建築師は、修士または第二の学士を取得、考査に合格/学士または大学本科卒業、見習い一年、考査に合格/中等専門学校卒業、技術員四年、建築師は、博士取得、考査に合格/修士または第二の学士を取得、助理建築師二年/学士または大学本科卒業、助理建築師四年、高級建築師は、博士取得、建築師二年/大学本科卒、建築師五年というのが資格条件である。

 ところが、中国は新しい建築師制度の導入に踏み切る。一九九四年十月、遼寧省沈陽市で建築師登録試験を試行するに至るのである。試験の現場には全米建築家登録委員会(NCARB)、王立英国建築家協会(RIBA)、香港王立建築家協会の関係者が立ち会った。モデルになったのは米国の建築家登録試験である。中国は、米国、英国などとの間での建築家資格の相互承認を睨んで、建築師制度の整備を行うことを決定するのである。一九九四年に国際建築家連盟(UIA)に職能基準委員会がつくられ、一九九九年六月の第二一回北京大会で国際的標準案が通過することになった*。

 さながら、中国,EU、米国による日本包囲網である。二一世紀を眼前に迎えて、日本の建築士制度は果たしてどうあるべきか。


 4-7 建築家の団体

  建築家の社会的基盤をうかがう指標としては、以上のように建築家の資格のあり方、それを認定する機関のあり方、建築家の教育の在り方などがある。そうした諸制度を背景として、建築界には様々な団体が組織される。建築家に関わる各種団体のあり方も各国それぞれである。

 英国の場合、RIBAが中心である。しかし、スコットランドには王立スコットランド建築家協会(RIAS)、北アイルランドには王立アルスター建築家協会(RSUA)がある。英国の歴史が反映しているとみていい。

 RIBAとは別に積算士協会(IQS)*、王立調査士協会(RICS)*、さらに調査技士協会(SST)*がある。建築調査士(ビルディング・サーヴェイヤー)や建築技師(アーキテクチュラル・テクニシャン)は、住宅など小規模な建築の設計に従事している。建築活動に従事するのはいわゆるアーキテクトだけではない。アーキテクトの世界とは別にあるいは競合的に建築活動を行う一群の存在があるのである。

 アーキテクトの資格登録は、上で見たように、英国アーキテクト登録審議会(ARC)によって行われる。ARCはRIBAとは別である。RIBAと同様、建築調査士連合会(IAAS)からもメンバーが送られる。IAASのような団体も英国に存在するのである。さらに、ARCには、自治体技術者協会(IMCE)、技術者協会(SE)、公認調査士協会(CSI)、構造技術者協会(ISE)、建設業協会(IB)からも委員が送られている。

 建築に関わる裾野は広い。英国建築界には英国建築界の構造があるのである。アーキテクトの職能、業務範囲、内容は英国においても必ずしも一定不変ではない。プロジェクト・マネージャー(PM)の出現やデザイン・ビルド(設計施工)の形態の増加など時代の変化に対応することは常に要請されているとみていい。

 ドイツでは、各州の法律に基づき建築家会議所に登録される。地方分権の伝統のある連邦国家の特性を反映している。建築を支えるローカルな特性、構造とグローバルな共通基準の設定の問題はいまどこでも問われている。ドイツもひとつのモデルである。マイスター制度を基礎にした教育システムも偏差値教育に偏した日本とは相当異なる。

 建築家会議所は建築家の会費によって運営されるが、職能団体ではない。職能団体としては、ドイツ建築家協会(BDA)*がある。一九〇三年の設立だから日本建築士会設立に十年ほど先立つ。BDAの会員は、専業アーキテクトに限定される。いわゆるフリー・ランスの建築家である。設計事務所の主宰者は会員になれるが、所員はなれない。設計責任がとれないという理由からである。会社組織の主宰者は条件付きで会員となれるが、個人かパートナーシップで活動する建築家が会員の主体である。より純化、特権化した組織と言えるかもしれない。約八万人の登録建築家のうちBDAの会員は六パーセント(四八〇〇人、一九九四年)を占めるにすぎないのである。

 BDA以外に、ドイツ建設マイスター・建築家・技術者協会(BDB)がある。全ての建築家に門戸を開いた資格者団体である。他に、ドイツ自由建築家協会(VFA)があるが、造園、インテリアなどの分野を含んでいる。建築家会議所と平行して各州に技術者会議所が設けられている。


 4-8 建築学科と職人大学

 この間理工学系部の再編成に伴って、日本中の大学から”建築学科”という学科名が消えていくという事態が続いている。大学院重点化ということで、新しい専攻の名が求められたということもある。やたらに増えているのが、「環境」(「文化」「国際」)という名のつく学科である。”建築学科”という名前が消えていくのは寂しいことではあるが、日本における”建築”を取り巻く環境が大きく変わり、建築界が構造改革せざるを得ないこと、また、それに伴い”建築学科”も変貌せざるを得ないのは当然である。

 成長拡大主義の時代は終わったのであり、建設活動はスローダウンせざるを得ない。農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の二割を超えるまでに至る。”建築学科”は一九六〇年代初頭から定員増を続け、各大学に第二の建設系学科がつくられた。しかし、今や、”建築学科”はさらには必要ない。建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、半減してもおかしくない。”建築学科”の崩壊(定員割れ)と呼びうる現象の背景には、日本の産業構造の大転換がある。

 しかし、”建築学科”の崩壊は、より深いところで進行している。単に量(建設量、建設労働者数、学生数)の問題であるとすれば、淘汰の過程に委ねるしかないだろう。ストック重視となれば、維持管理の分野がウエイトを増してくる。”建築学科”のカリキュラムも見直しが必要となる。しかし、問題はそれ以前にある。「建築家(建築士)」の現場離れの問題が本質的である。現場の空洞化、”職人”世界の崩壊の問題である。さらに、建設技術における専門分化の徹底的な進行の問題がある。建築という総合的な行為があらゆる局面で見失われつつあるのである。

 日本の”建築学””建築学科”は「工学」という枠組みの中で育ってきた。学術、技術、芸術の三位一体をうたう日本建築学会は工学分野ではかなり特異である。しかし、建築の設計という行為が学術、技術、芸術の何れにも関わる総合的な行為であることは洋の東西を問わない。大きな問題は”建築学科”の特質がなかなか一般に理解されないことである。大きく視野を広げれば日本の教育体制の全体が関わっている。いわゆる偏差値社会の編成である。高校、大学への進学率が高まり、ペーパー・テストによって進学と就職が決定される、そんな一元的な社会が出来上がった。建設産業の編成としては、”職人”世界から”建築家(建築士、建築技術者)”世界への流れが決定的になった。学歴社会は、大工棟梁になるより一級建築士になる方がいい、という価値体系に支えられている。結果としてわれわれが直面するのが建設産業の空洞化である。

 一九九〇年一一月二七日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)●という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。建設現場で働く、サイト・スペシャリストの社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関としてSSFは設立された。スローガンは当初から’職人大学の設立’である。主唱者は日綜産業社長小野辰雄*氏。中心になったのは、専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。いずれも有力なサブコンであり、”職人”の育成、待遇改善に極めて意欲的であった。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初から僕はSSFの運動に参加してきた。それからかなりの月日が流れ、その運動は最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学」が開学(二〇〇一年四月予定)されようとしているのである。バブルが弾け「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった。

 SSFの主唱者小野辰雄氏はもともと重量鳶の出身である。その経験から足場メーカーを設立、その「3Mシステム」と呼ばれる支保杭と足場を兼ねる仮設システムを梃子として企業家となった。その活動はドイツ、アメリカ、アジア各地とグローバルである。その小野氏がどうしても我慢がならないことが現場で働く職人が大事にされないことである。当時はバブル経済華やかで職人不足が大きな話題であった。3K(きたない、きつい、給料が安い)職場ということで若者の新規参入がない。後継者不足は深刻であった。そうした中で、職人が尊敬される社会をつくりたい、そのために”職人大学”をつくりたい、というのが小野氏以下SSF参加企業の悲願であった。

 最初話を聞いて大変な何事かが必要だというのが直感であった。そこで藤沢好一、安藤正雄の両先生に加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。この間のSSFの活動はSSFニュースなどにまとめられている。

 議論は密度をあげ、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られない。そこで兎に角何かはじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は佐渡(真野町)での一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで一週間のスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。現場校、地域校、拠点校と職人大学のイメージだけは膨らんでいった。カリキュラムを考える上では、並行して毎夏、岐阜の高根村、加子母村を拠点として展開してきた「木匠塾」*(一九九一年設立 太田邦夫塾長)も大きな力になった。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(一九九六年一月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。

 「産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。」

 ”職人大学”設立はやがて自民党の選挙公約になる。

 その後、めまぐるしい動きを経て、(財団)国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、その設立大会が行われた(一九九六年四月六日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学というのが仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たられることが決まっている。一九九七年にはキャンパス計画のコンペも行われ、用地(埼玉県行田市)もあっという間に決まった。今は、文部省への認可申請への教員構成が練られているところである。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科(機械プロセスコース、機械システムコース、設備メンテナンスコース)と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

①ものづくりに直結する実技教育の重視

②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視

③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視

④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視

⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視

⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

 具体的な教育システムとしては、産業現場での実習(インターンシップ)、在職者の修学、現場のものづくりを重視した教員構成をうたう。

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。

 もちろん、設立される”職人大学”がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。

  何故、文部省認可の大学なのか。”職人”の技能””工芸”を日本の教育システムのなかできちんと評価してほしい、という思いがある。人間の能力は多様であり、偏差値によって輪切りにされる教育体制、社会体制はおかしいのではないか、という問題提起がある。だから、ひとつの大学を設立すれば目標達成というわけにはいかない。実際、続いて各地に”職人大学”を建設する構想も議論されている。

 ただ、数が増えればいいということでもない。問題は”職人大学”がある特権を獲得できるかである。具体的に言えば、”技能””工芸”に関わる資格の特権的確保である。”職人大学”の構想もそうした社会システムと連動しない限り、しっかり根づかないことは容易に予想される。さらに、日本型のマイスター制度*が同時に構想される必要がある。総工事費の何パーセントかを職人養成に当てる、そうした社会システムの実現である。

 

2021年9月30日木曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能  第3章 幻の「建築家」像

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能


 第3章 幻の「建築家」像*1


 3-1 公取問題

  一九七九年九月十九日、公正取引委員会*(橋口収委員長)は、日本建築家協会*(海老原一郎*:会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法*にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする「家協会」は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。

 審決主文は、以下のようであった。

  「本件審判開始決定に係る被審人の行為は、独占禁止法第8条第1項第4号の規定に違反し、かつ、事業者団体の届出をしていなかった点は、同条第2項の規定に違反するものであるが、現在では、すでに被審人の右同条第1項第4号違反の行為はなくなっており、また、被審人は、同法第2条第2項に規定する事業者団体に該当しなくなっているものと認められるので、被審人に対し、格別の措置を命じない。」

  独占禁止法第8条*は、事業者団体の業務の独占を禁じている。

 要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定*、建築設計競技規準*中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、「家協会」に対して格別の措置を命じない、というものである。

 この公取審決に対する「家協会」の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*2や「公取委の審決を受けて」*3などに窺える。

  「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*4というのが、比較的冷めた反応であった。

 この審決は、以下に見るように、歴史的には日本建築士会*(一九一四年設立)から日本建築家協会*に引き継がれた「建築家(職能)法」制定運動にとって三度目の敗北であった。そしてもしかすると、最終的な敗北となりうるものである。


 一九七〇年代における建築界の「公取問題」とは何か。まずその経緯をみよう。発端は、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」*問題であった。また、東京都の「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」*問題であった。

 コンペとはコンペティションcompetitionの略だ。建築物の設計者の選定に当たって複数の設計者で競技を行うことをいう。「公開コンペ」*、「指名コンペ」*、「条件付コンペ」*「プロポーザル・コンペ」*、「二段階コンペ」*、「ヒヤリング」、「アイディア・*コンペ」など各種方式があり、設計者を選定する方法として広く行われている。しかし、そのコンペ方式に様々な問題がある。特に問題視されてきたのが「疑似コンペ」*と「設計入札」*である。

 「疑似コンペ」とは、公共建築の設計者選定に当たって、実際は指名設計者が決まっているのに、公平性を装うために行われる指名コンペをいう。また、「設計入札」とは、設計料の入札(多寡)によって公共建築の設計者を選定する制度をいう。「疑似コンペ」は一種の「談合」*である。公平で公正な競争が損なわれるが故に一般的に問題であることは明らかだ。しかし、「設計入札」の問題は一般にはわかりにくい。

 「公のお金を使うのだから安い方がいい」というのがひとつの理屈である。いまなお「設計入札」を採用し続ける多くの自治体も、競争原理をその根拠にしている。具体的には、国の場合会計法二九条、市町村の場合自治法二三四条が元になっている。役所が物品を購入する場合には「競争入札」が原則ということである。しかし、サーヴィス行為についてはどうか。建築も建築物だけれど単に物品ということでいいのか。施工については「競争入札」でいいけれど、設計については入札はなじまないのではないか(●設計入札に反対する会)。「安かろう悪かろうでは困る」「公共建築は単なる経済の論理を超えた質を持つ必要がある」「設計の質と内容は設計料の入札によっては担保されない」のであって「あくまで設計図書によって設計案が選定されるべきである」というのが「建築家」の主張である。この裂け目は大きい。そして、「公取問題」はこの裂け目に関わって引き起こされたのであった。

  日本建築家協会は、上記二つの問題に関連して会員を処分することになる。「家協会」に属する「建築家」は、「疑似コンペ」「設計入札」に指名されたら通告することが六九年一二月から義務づけられていた。きっかけになったのが「銚子市青少年文化センター」のコンペだ(一九六九年)。当時の日本家協会会長(松田軍平*)は「疑似コンペ」の疑いからコンペの条件について改善の要望書を銚子市長に提出する。そして、指名を受けた会員九名は、コンペの条件が改善されない限り、設計図書を提出しない、という申し合わせを行う。にも関わらず、九名中二名が応募する事態が起こった。その二名を除名するとともに、つくられたのが上の「通告制」である。興味深いことに、この「通告制」が後に独占禁止法に抵触することになる。

  「疑似コンペ」にしろ、「設計入札」にしろ、簡単にはなくならない。今日にいたる建築界の大問題だ。それを支える根深い構造が日本の建築界にある。「銚子市青少年文化センター」に続いて、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」問題が起こった(一九七〇~七五年)。経緯はほぼ同じである。「八女市町村会館」の設計に当たって一三社が指名を受けるが、設計競技の条件を不満として、条件が改善されない場合には全員応募しない旨申し合わせがなされる。しかし、その申し合わせに反して四社(会員一社、非会員三社)が応募したため、家協会は会員一社を戒告処分とする。そして、この処分を受けた会員がそれを不服として損害賠償請求訴訟を起こすに至って事は起こる。結局はこの裁判が「公取問題」に火をつけることになるのだ。「八女市町村会館」問題に関わる会員の処分に対して、また平行して起こった「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」問題に絡む処分について、公正取引委員会から突然報告を求められる(一九七二年三月七日)。

 この二つの問題は一九七五年三月一五日参議院予算委員会において取り上げられることになった。藤田進参議院議員と高橋俊英公正取引委員会委員長のやりとりは日本建築家協会の「理念」と一般の「建築士」に対する見方の落差を示してわかりやすい。


 「建築士協会(建築家協会の誤り)は、その定款を見ましても、きわめてきつい会員統制をしております。・・・今日の建築士協会はそれぞれ営業を主体とする株式会社、従業員は千名に上るもの等々含めて、明らかに事業者団体の連合体になっている。・・・都営高層住宅滝野川団地設計入札ですが、談合して、七社に指名があったわけですが、○○事務所が談合の結果受け取ることになった。従って、第一回入札以来これを最低として逐次自余の六社は入札しておりましたが、第三回目、最後になって最低の談合の価格を忘れましてこれは●●事務所ですね、忘れたために適当にこの辺だろうと思って入札したところ、・・・本番と同じ価格になってしまった。そこで東京都は抽選をするということになった。談合の経緯もあるので抽選は困ると言ったところ、それでは東京都は拒否されれば今後一年間契約発注いたしませんということになって、抽選した結果、談合でない●●事務所に落札決定。で、建築士協会はその結果それはけしからぬと、談合を守らなかったということで、懲戒処分にしておるのですね。

 それから九州の八女、この事件も数社でコンペを組んで設計に応じたところうまくいかないで、結論的には■■事務所ここに随意契約で、・・・ところが談合としては、みんな約束してそれに絶対応じまいという申し合わせができたに関わらず■■事務所だけが応じたのはけしからぬ、これまた懲戒処分になった。そうして建築士協会では先般大幅な設計報酬手数料の値上げをしました。これは、絶対に会員は守らなければならない。そうしてご承知のように、・・・工事費が増えている。・・・」


 事実関係は藪の中の様相がある。しかし、藤田進参議院議員の主張は極めて明快である。日本建築家協会(一般に建築士協会なるもの)は、設計料率を決めている事業者団体である、また、設計報酬手数料を談合で決めている、だから工事費が高くなる、というのだ。

 これに対して日本建築家協会は「建築家は<事業者>ではない」(一九七五年六月一五日)を発表する。「建築は国民生活の文化的側面に深くかかわるものである」「「安いものほどよい」という理論がどのような結果をもたらすか」「報酬規定は建築の質を維持するためのものである」といった論点が骨子である。

  直後、日本建築家協会は公取委員会から「警告書」を受ける。「報酬規定」「競技基準」「日本建築家協会憲章」の制定が、独禁法第八条第一項第四号の規定に違反する疑いがあり、遅滞なく独禁法第八条第二項の規定に基づく届出をするとともに自主的に必要な措置をすみやかにとるようにというものである。日本建築家協会は「警告書」に対して拒否回答(一二月二日)、公取委はさらに「勧告」(一二月二五日)、以降「公取問題」は公取委の審判という公式の場に持ち越されていく。二二回の審判を経て出されたのが最終審決であった。

  いわゆる「公取問題」は、こうして「家協会」という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。「家協会」の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれている。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあった。ある意味では「家協会」の全面敗北であった。

 「家協会」は、自ら「定款」を変更し、「憲章及び倫理規定」「建築設計競技基準」を改訂し、「建築家の業務及び報酬規程」を廃止するとともに「建築設計監理業務報酬(仮称)」を制定することで、「事業者団体」性を自ら払拭することになったのである。


 3-2 日本建築家協会と「建築家」

  七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、「家協会」自体の問題であった。問われたのは、必ずしも「建築家」とは何かではなく、「家協会」とは何か、その団体の事業者性だったからである。理念ではなく、具体的な「家協会」の存在形態が現実の問題として問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築家をとりまく状況を示していた。


  西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたのであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった。いわゆる建築家の理念はついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、「家協会」の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していた。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。

  いわゆる「建築家」という理念と、その職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する「家協会」が、その矛盾を引き受けるのは当然である。しかし、そうした意味での建築家の理念はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。

 「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*5や、「入札をしない会」(●鬼頭梓*6ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示していた。

  事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ「家協会」、体質改善した「家協会」とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がある。

 理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道である。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。

 職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のがひとつの選択である。確かに「文化としての建築」という視点は大きな拠り所である。しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。「文化としての建築」とは何か。「家協会」の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかの問題である。これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのか、という問いが投げ出されたままである。

  「建築家」たちは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の「建築家」像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、「公取問題」など関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であった。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。「公取問題」は、それをこそ確認させるのである。

 日本建築家協会は、その後、新日本建築家協会*へと改組される。一一〇〇人程度の特権的な建築家サロンを脱し、より一般的な建築家の団体を目指して組織拡大が目指されるのである。


 3-3 日本建築士会

 一九一四年六月六日、日本で最初の職能団体「全国建築士会」*が結成された。集まった建築家は、辰野金吾*、曽禰達三*、中條精一郎*、長野宇平治*、三橋四郎*ら一二名。翌年「日本建築士会」*と改称、会は戦前期における「建築士法」制定の中心となる。『創立主旨』は以下のように始められている。

 「顧れば明治十二年我国に初めて建築士を出だせしより●並に年閲する事弐拾有余、斯道に学ぶ者続々相継ぎ学術の進歩駸々として社会に貢献する所亦少なからず。人生まれて二十、独立自主の民となる。建築士あに●又此理なからんや。」

 明治十二年というのは工部大学校*の第一回卒業生が出た年である。建築士とはまず工部大学校そして帝国大学の造家学科*、建築学科*の卒業生を意味した。そして二〇年。「建築士(我輩特に建築士という意味の翫味を要す)の社会的立脚地、建築士の登録法、若くは建築条例の発布、或は建築士徳義規約の制定等現在及将来に於て我輩の為すべき事業指を屈するに暇あらず」の状況認識の下に団体が結成されるのである。わざわざ括弧して「我輩特に建築士という意味の翫味を要す」というのが興味深い。建築士をめぐって様々な議論があった。建築士の登録法、建築士徳義規約の制定等、一九七〇年代の「公取問題」にいたる諸問題は既に意識されていたのである。

 日本で最初の建築家の団体は、「全国建築士会」に先立って一八八六年に結成された「造家学会」*である。現在の日本建築学会の前身だ。河合浩蔵*、辰野金吾、妻木頼黄*、松崎萬長*の四人の創立委員を含め、創立発起人二六名による出発であった。

 この「造家学会」は、「工学会」*(一八七九年設立)から独立する形でつくられる。が、実は「学会」というより「建築家協会」と呼ぶべき性格をもっていた。その規約は英国王立建築協会*(RIBA)米国建築学会*(AIA)の規約に倣ってつくられているのである。

 「第五条 正会員ハ和洋に論ナク一方或ハ双方ノ建築ニ満二年半従事セシモノトス」

 「第六条 準員ハ造家学科中ノ一科目以上ニ関スル職業又ハ売買ニ従事スルモノトス・・」

 要するに実務が前提であった。

 伊東忠太*が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を求む*」を書いて「造家学会」が「建築学会」に改称されるのは一八九七年のことだ。学会は今日に至る「建築家」を理念として出発したのである。学会が「建築師報酬規程」(一九〇八年)を決めているのも、その当初の建築家団体としての性格を物語っている。

 しかし、建築学会の方向はやがて大きく転ずる。「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」というイデオロギーが支配的になるのである。その学術観を代表するのが佐野利器*である*7。その「建築家の覚悟」*8は、当時の「建築家(アーキテクト)」観を真っ向から批判するものであった。「物の定義は永久不変ではない」、「西欧のアーキテクトと日本の建築家とは全く同一業でなければならぬ理由もない」、「アーキテクトの現在の意義は建物処理中の一専門家で其の全きものでない」、「懐中字書に依て直にアーキテクト(即ち芸術家)と早合点すべきでない」、・・・・「要するに建築家たるものの寸時も忌るべからざる研究事項は国家当然の要求たる建築科学の発達であって、建築家が社会的地位を得べき唯一の進路も亦是である事を思う事切である」と畳みかけるのである。佐野利器は、「形の良し悪しとか、色彩のことなどは婦女子のすることで、男子の口にすべきことではない」と思っていたのである。

 この佐野利器の思想については、長谷川堯*の『雌の視角』*が鋭く批判するところだ*9。技術と芸術、工学と造形、構造と形態をめぐる対立と議論は、「学術、技術、芸術」の三位一体をうたう今日の日本建築学会の内部に引き継がれ内在している。

 ともあれ、建築学会が科学や工学への傾斜を深める中で結成されたのが、全国建築士会である。一方で、民間の設計事務所が次第に育ってきたという背景がある。

  日本の建築家の祖は、J.コンドル*である。彼が如何なる建築家像をもちどのような教育をしたのかがまず問題である。彼は若干二五歳で来日するが(一八七七年)、R.スミス*、W.バージェス*に学んだ建築家であり、王立建築家協会(RIBA)の会員であった。RIBAについては後にみよう。J.コンドルが極めて実践的な建築家教育をしたのはよく知られている。J.コンドルは自ら日本で最初の建築事務所を設立するのである(一八八八年)。正確に言うと、日本で最初の建築事務所をつくったのはJ.コンドルの教え子、辰野金吾である。英国での実務経験を持つ彼が日本でも同様な活動を展開しようと、京橋山下町の京師屋の二階を借りて仕事を始めるのである(一八八六年)。しかし、彼はすぐに帝国大学に呼ばれることになった。実質的仕事をしないうちに事務所を閉鎖するのである。

 辰野金吾は、しかし、一九〇二年には職を辞し、葛西万司*とともに東京京橋に辰野・葛西建築事務所(一九〇三年)を、大阪中之島に片岡安*とともに辰野・片岡建築事務所(一九〇四年)をつくる。民間の建築事務所において設計活動行うことが建築家の道であることが明確な理念としてあったとみていい。

 J.コンドルに続いたのが滝大吉*であり、横河民輔*である(一八九〇年)。滝大吉は、大阪にあって「大阪アーキテクトノ四傑(小原、鳥居*、滝、田中)」。一八八七年には「建築局ヲ辞職の上民間建築師(プライベート・アーキテクト)ノ業務ニ従事」しているから、日本で最初の「民間建築師」の栄誉は滝大吉のものかもしれない。彼は事務所開設とともに「夜学校」という建築教育機関を開設している。その講義録をまとめた大著『建築学講義録』がある。横河民助は横河工務所(一九〇五年創設、今日の横河電気)の創設者として知られるが、事務所開設の後、しばらくは三井総営業店につとめている。工部大学校の第一回卒業生で辰野に続いたのが曾根達三で建築事務所を自営(一九〇六年)した後、中條精一郎*とともに曾根・中條建築設計事務所を開設している(一九〇八年)。 他に三橋四郎、河合浩蔵、山口半六、伊藤為吉、遠藤於菟などが一八九〇年代から二〇世紀初頭にかけて民間事務所を開設している。そしてこうした民間建築事務所の相次ぐ設立を背景として設立されたのが日本建築士会なのである。

 時代は下って、会の機関誌『日本建築士』が創刊されるのは一九二七年のことだ。その創刊号に理事長長野宇平治がその沿革を記している*10。建築士の規程をめぐってなんとも歯切れが悪い。「建築士とは建築を創作する人で而して創作したるものを実施せしむることを職業とする人であると、斯う答へる」「世間では何故に建築士とは建築を構造し自ら実施するものなりと、斯う言はないのかと反問するものが往々ある。予輩はそれに対して誤謬を説破しようと苦心してみるが、数学的解釈のように明快な説明は出来かねる。要は建築士は芸術家であるが工業家では無いと云うことの了解をもとめようとするのだから、仰も至難の業である。・・・」

 中條精一郎は同じく創刊号に「所感」を寄せているが、最後に次のように絶叫している。

 「最後に絶叫せんとするは建築芸術を売物にする或者は、依頼者の一顰一笑に迎合して設計報酬の競争入札に参加し、外兄弟廠●閲くの侮を受け、内建築士道を汚さんとする者ありと聞く、彼らも亦同朋なり、希くは悔い改めよ。」


 3-4 幻の「建築士法」

 日本建築士会が直接的かつ具体的に目指したのが「建築士法」の制定である。しかし、以下に見るように結果的に実現することはなかった。戦後一九五〇年に建築士法が制定されるのであるが、それは「資格法」であって「職能法」ではない。我国に「建築士」(アーキテクト)という概念がもたらされ、その社会的存在基盤を法的に担保しようとする運動はついに今日に至るまで目的を果たすことはないのである。

 芸術家としての建築家か、工業家としての建築家か、アーキテクトかエンジニアか、という素朴な建築家の定義をめぐる素朴な対立は大正時代を通じて維持される。そして佐野利器の「科学としての建築」観が次第に力をもち、野田俊彦*によって「建築非芸術論」(一九一五年)*11が展開される中で日本で最初の近代建築運動団体「日本分離派建築会」*も結成される(一九二〇年)。

 しかし、大正末から昭和の初めにかけて、日本の建築および建築家をとりまく諸条件は大きく変化する。芸術派と非芸術(構造技術)派の間に社会派と呼ぶべき建築家像が登場してくるのである。

 昭和初期の建築家の社会意識、歴史意識は、芸術としての表現、創造、自我の確立を主張した「分離派建築会」への批判が顕在化してきたことに、また「創字社」*の方向転換(「左旋回」)に象徴的に示されるように、昭和に入って大きく転換をとげる。建築の社会性、歴史性に関する新たな認識は、明治末期から大正にかけて、新たな課題として意識されはじめた都市問題や住宅間題に対する取組みに見られる。そして「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎、「建築雑誌」一九一五年九月号)といった建築家像が唱えられる。また上述したように、通常、建築非芸術派と芸術派、構造派と自己主義派・内省派の対立という形でとらえられる大正期の建築界において、いち早く、内省派の「自我的小天地」を批判し、「建築家は自個を離れて社会と接触し国民と同化して以て大正の建築を建設するの急務を認めずや」(「関西建築協会雑誌」*創刊号所載会報の序文、一九一七年七月号)として結成され、一つの潮流をつくりつつあった関西建築協会(一九一七年設立、一九一九年一月「日本建築協会」と改称)の存在がある。その機関誌『建築と社会』は一九二○年一月に創刊されている。

 昭和初頭の社会主義、唯物史観の影響が大きかったといっていい。「国家当然の要求」を前提として、建築の間題をすべてそこへ集約してゆくことによって、国家意識をストレートに示す、明治以降、ある意味では一九七○年の日本万国博に至るまで一貫する建築家の流れ、自我という縮少した一点から、その拡張によって国家を一挙に越え、宇宙、世界、あるいは人類を自らへ引きよせようとした大正デモクラシー期のいく人かの建築家たちに対して、社会を対象化し、大衆との距げを意識する建築家の流れは戦後も一貫して維持された。プロレタリアートのために、庶民のために、国民のために、民衆のために、とうようにスローガンは時代によって微妙に変化しながらも、大衆へというヴェクトルは強面に建築家の意識を支配し続けるのである。そうした、建築家の意識の転換をもたらした一つの背景は、建築家の大衆化によるその階層分化、構造化の進行である。明治期において、国家と直結する知的エリートとしての役割をになっていた建築家は、その数が増えるにつれて、また建設請負業者の法人化、経営規模の拡大、独立設計事務所の定着といった建築家をとり巻く諸条件の変化につれて次第に階層分化されつつあった。「創宇社」*の運動をになったのが逓信省営繕課*の下層技術者であったように、昭和初頭の金融恐慌*(一九二七年)、昭和恐慌*(一九三○年)による不況を背景とする建築運動は、建築家における階層分化の構造をはじめて顕在化させたものでもあった。

 そして、そうした中で、建築家像も転換していく。長野宇平治の「建築士の職分に門する将来の傾向如何」*12をめぐる昭和初頭の議論に「昭和的建築家像の形成」をみるのが「近代日本建築学発達史第九篇・建築論」の著者*13である。大正初めの「建築家の定義如何」*14における「建築士=美術士+工学士」といった譲論のレヴェルに比べればはるかに具体的に、今日に至る、意匠、構造、設備、施工といった専門分化を前提として、それを統括するものとしての建築家のイメージが、昭和の初めに定着しつつあつたことをそれは示すである。

 一九一四年に設立され、一九一七年には設計・監理の業務報酬規程を制定し、精力的な活動を続けつつあった日本建築士会が、自らの職能の制度的裏付けを求める「建築士法」案の建議に至ったのは、一九二五年の第五○帝国譲会であった。しかし、その法案は多くの反対に遭う。衆議院を通過するものの成立しない。一九二六年(第五一議会)、二七年(第五二議会)、二九年(第五六議会)、三一年(第五九議会)、三三年(六四議会)、三四年(第六五議会)、三五年(第六七議会)、三七年(第七〇議会)、三八年(第七三議会)、三九年(第七四議会)、四〇年(第七五議会)と続けて建議されるもののついに陽の目をみない。

 その経緯はこうだ。

 「建築ガ人並ニ一般社会生活ノ安寧ト健康ト秩序ト品位トニ関シ物心両面ニ亘ッテ誠ニ重大ナル機能ヲ有スルモノナルハ更二多言ヲ要セズ、泰西先進国ノ社会ニ於テ夙二建築士法ヲ制定シテ、建築設計並監督ノ職務ニ従事スルモノノ資格ヲ定メ彼等ノ自重ヲ促シ、以テ個人ノ利益ノ保護ト社会ノ福祉ノ増進ヲ期シツツアルハ●眞に故ナキニ非ズ。」

 この、日本建築士会のいう「建築士法制定提唱ノ理由」の冒頭の一文は実に素朴に今日に至る職能法(アーキテクト・ロー)制定の根拠を述べている。しかるに、何故、この法案が執拗な建議にも関わらず通らなかったのか。

 最大の争点になったのが、第六条である。第六条は以下のように、設計と施工の兼業を禁止する。

 第六条 建築士ハ左ノ業務ヲ営ムコトヲ得ス

  一 土木建築ニ関スル請負業

  二 建築材料ニ関スル商工業又ハ製造業但シ建築士会ノ商人ヲ得タル者ハ此限リニ非ラス」

 立ちはだかった最大の勢力は建設請負業であった。日本建築士会は第五二議会においては、第二十一条末尾に「但シ本条ハ建築士ニアラザル者ガ建築ノ設計並ニ監督二従事スルコトヲ禁ズルモノニアラズ」に但し書きを入れることを余儀なくされる。業務独占の臭いを消し抵抗を弱めようとしたしたのである。しかし、「建築士」の概念が極めて曖昧になったことは否めない。

 そしている内に建築学会から「建築設計監督士」なる概念が出される。「建築設計監督士法」であれば賛成するという。学会が何故「建築設計監督士」なる名称に拘ったかは明快だ。学会には、工学、科学を旨とする多くの「建築技師」「建築技術家」(エンジニア)が含まれていたからである。上に見たように「建築士」の職能は既に専門分化がすすんでいたのである。日本建築士会はその提案を飲んで、第五九議会には「建築設計監督士法」と名を変えて法案を提出することになる。

 「建築設計監督士法」は第六四議会では「建築士法」という名に戻される。しかし、その内容に大きな変化はない。大きな改訂が行われるのは「建築士」の責務に関する事項がついかされた第七〇議会提出の法案である。しかし以後、日本は敗戦への坂を転がり落ちるのであった。

 民間の建築士手務所と同じように建設請負業者の関係を含めた建築生産を支える諸組織が今日に繋がる構造をとるのも、昭和の初めの頃である。明治末から大正にかけて民間の建築士事務所がそれなりに社会的基盤を獲得し、次第に定着しつつあったことを示しのが「建築士法」制定運動である。しかし、その「建築士法」案が、第六条を最大の争点としながら、最終的に不成立に終ったことには、一方で、独自な形で発展を続けてきた日本の建設請負業の力がすでに大きく作用していたのである。

 建設請負業の一部には設計部門の独立を考えるものもあった*15。「建築士法」の成立は、確かに、西欧の建築家を支えた社会的基盤-市民社会が日本において未成熟な段階では、時期尚早であったといえるだろう。しかし、何かの拍子にこの兼業禁止規定が通っていたら、そして建設請負業の設計部が独立するルールが成立していれば日本の建築の歴史は変わったであろう。一九六〇年代に設計施工一貫か分離かをめぐって大議論が行われたこと*が示すように、今日でもゼネコン設計部の独立が取り沙汰されるようにこの問題は今日に持ち越されている。


 3-5 一九五〇年「建築士法」

 戦前にはついに制定されることのなかった建築士法*が制定される。しかし、必ずしも日本建築士会が悲願とした法ではなかった。

 敗戦後の建築界の立ち直りは意外に早い。一九五○年頃には戦後建築の方向を決定する体制が出来上っていた。敗戦後数年の段階で建築の生産・設計の体制は再整備されたとみていい。それを示すのが、建設業法の公布(一九四九年五月一四日。施行八月二○日)であり、一九一九年以来の市街地建築物法を抜本的に改定する建築基準法の制定(公布一九五〇年五月一四日、施行二月一三日)と敗戦後まもなく制定された(一九四六年五月二四日)臨時建築制限規則の廃止である。そして、建築士法の公布(一九五○年五月二四日。施行七月一日)である。

 建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的な意味をもつ。藤井正一郎*17によれば、建築士法制定へ至るアプローチには三つの流れがあった。一つは、戦前からの「建築士法」制定運動の推進母体であった日本建築士会によるもの、一つは戦災復興院*の「建築法規調査委買会」によるもの、そして、もう一つは日本建築学会を中心とする四会(日本建築学会、日本建築士会、日本建築協会、全国建設業協会)の「建築技術者の資格制度調査に関する四会連合委貝会」によるものである。

 制定の過程で大きな争点となったのも、いうまでもなく、「第六条間題」、「兼業の禁止」をめぐる間題であった。西欧の建築家像を理念とし、プロフェッションを支える法・制定を目指してきた日本建築士会が兼業の禁止を間題とするのは既定の方針である。経緯は単純ではない。戦後の混乱を反映するように建築士法制定の方針は右へ左へゆれるが、制定の過程をリードしたのは日本建築士会であった。

 戦災復粟院の「建築士及び建築工事管理に組する命令案」(一九四六年一○月)に、はっきり兼業の禁止が示されていることは、往目すべきことである。

 「第四 左に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人は、建築士の免許を受けることが出来ない。

  一 建築土木に関する請負業

  二 建築材料に関する請負業

  三 土地家屋に関する代理業

  前項各号に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人になったときは、建築士の免許は、その効力を停止する。」

 しかし、事は簡単には運ばなかった。究極的には、審譲の過程で兼業の禁止は削除され、建築士(一級建築士、二扱建築士)の資格を規定するだけの現行の資格法としての建築士法が成立することになる。

 四会連合のアプローチは、様々な議論をまとめ、建築士法を方向づけ、それに承認をあたえるものであった。この建築士法の制定によって、戦前からの職能法としての建築士法の制定をめざす運動に一つのピリオドが打たれる。日本建築士会を中心とする職能確立への試みはいわば挫祈し、その道は重く閉ざされたのである。万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築のあり方が大きく変わったことは間違いない。しかし、その決定的なチャンスをまたしても逃してしまったのである。

 建築士法の成立の過程で注目すべきは、日本建築士会の内部においても、建築界の内部においても、決して、他(占領軍等)からの圧力や指示によったのではなく、ある意味では建築士法が主体的に選びとられていることである。経緯には、建築界の様々な関係の絡まりがあった。兼業禁止の規定の削除は、戦後まもなく進駐軍工事等を挺子に驚異的な復元力を示した建設業との関係がある。

 また、大工や小規模な建設請負業(工務店)の間題もあった。二級建築士の資格が制定されたのは、そうした背景からである。村松貞次郎*は「現代の進歩した建築技術の恩恵は、大規模な建築だけに与えられていて、群小の小住宅などにはほとんど及んでいない。このためには、より強力な、しかも創造性に富んだ公共的指導の充実と、行政の改革によって、その恩恵が及ぶようにしなければならない。それは既成の建築家に期待するのは無理だ」(西山夘三*)といった意見が日本の官僚による〈建築士法〉制定のひそかな念願」の背景にあるという。

 確かに、建築界に広範に一部特権的建築家の問題ではないという主張が背景にあったことは留意すべきであろう。建築家の職能の確立を支える基盤は、社会的にも、建築界にもかならずしも成熟していなかったのであり、建築士法の内容は、それなりに、日本の建築生産を支える構造を反映したものであった。建築家の理念を高く掲げる主張は、かならずしも広範に受け入れられてはいなかったといってもよい。NAU(新日本建築家集団)*が建築家の職能の間題について、建築士法の制定について、ほとんど目立った動きをしていないようにみえるのはそうした背景を示していよう。その時点で、建築家の間に階層分化が定着しつつあったことは、すでに、戦時中、日本建築士会の一部有名会員を中心として、日本建築設計監理統制組合*(一九四四年結成)がつくられ、それが戦後まもなく日本建築設計監理協会に改組されて(一九四七年)存続していたことが示している。極端にいえば、西欧の建築家の理念を具体化する運動は日本建築設計監理協会を中心とする建築界の一部において担われたにすぎないのである。それ以後、日本建築士会は、現行制度を前提とする団体へその性格を転じていく。一九五九年には、二級建築士を主体とする全日本建築士会*がつくられている。一方、日本建築設計監理協会*は、その会員資格の偏狭さを指描され、一九五五年に、一方で日本建築家協会*を発足させ、一部のエリート建築家の団体として、職能確立へのかすかな灯を掲げながら存続してきたのである。そして、七〇年代に至って公取問題その本質を浮かび上がらせることになるのである。

 建築士法の制定以降、建築家の戟能の間題は日本建築家協会を中心として展閏されることになった。建築家の存在基盤にかかわる根本的な間題であるにもかかわらず、それ以外の動きはとんどみることができない。建築界の諸関係を支える構造ははますます固定的なっていく。唯一の例外は、五期会*(一九五六年桔成)の運動である。NAU解体以降五○年代の小会派の運動*のなかで、それは敢然と建築家の職能の問題を主題に掲げたことにおいてきわ立っている。五期会に結集した若い建築家を躯りたてたのは、おそらく、建築士法が制定されて数年を経て、その職能確立の間題が拡散しつつあることへの焦りである。そして一方で、日本建築家協会を中心とするエリート建築家の集団が限定された枠のなかで成立することへの危機意や(あるいは例の会*〔丹下健三*、大江宏*、芦原義信*等のサロン〕といった先輩建築家たちのサロンの存在への対抗意識)である。しかし、指描されるように五期会*という集団を桔び合せていたものは、一つには近代日本の建築界を支えてきた建築家たちの仕事を踏まえながら、自分たちを第五世代と規定する会の命名に端的に示される自負、エリート意識であり、それは結成当初からその内部に矛盾を孕むものであった。五期会も「六〇年安保」*を前にして解散してしまう。

 戦後まもなく、池辺陽*は、前川國男*の「紀伊国屋書店」評*18において、建築家のえらぶ道として、一、建築芸術を守る道(現実否定を結果することは明らかである)、二、建築家否定の道、三、建築家を肯定して、現在の条件を解決しようとする道、と書いていた。また高山英華は、地道な建築の実践を通じながら、しかも革命的技術者としての新しい生き方を創り出していく必要があると書いていた。建築の新しい生き方は果たして生み出されたのか。ひとつの帰結は日本建築家協会の公取問題が示していよう。


 3-6 芸術かウサギ小屋か

  公取問題の決着がついた頃、ポスト・モダニズム建築の帰趨をめぐって建築ジャーナリズムが沸いていた。そこにも、依然として変わらない構図が生き続けている。

 「「芸術」かうさぎ小屋か」*19という軸によって、近代日本の建築界を切ってみせたのが堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝*)「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。

  「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。

  こうした構図は、建築非芸術論争以来ある。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示していたように思える。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。

  堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした指摘は、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルで(論争的)あった。

 宮内嘉久*20は、当時、「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*21においてもうひとつの建築家像を提示しようとしていた。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた軸、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)-非特権の軸を付け加える。その「特権をもたない建築家」は、中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化しようとする。また、中国の「はだしの医者」にインスピレーションを受けた「はだしの建築家」という理念を重ね合わせようとする。具体的なイメージはしかしよくわからない。問題は日本でどういう具体像を生み出すかである。

  建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われる中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、「公取問題」や「建築家」像をめぐる議論とは一見無縁であるように見えた。先行する世代から見ると、ポストモダン派の彼らは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているようであった。「平和な時代の野武士たち」*22と槙文彦*は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、若い世代をそう呼んだ。槙は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」と書いた。

  「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。けれども六〇年代初頭に一斉に「都市づいて」いった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*23と篠原一男*24の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであると指摘する。「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方には、〈芸術派建築〉との対立図式が前提とされている。

 一方、若い世代の最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見るべきだというのが鈴木博之であった。若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのである*25。彼はむしろ「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価しようとする。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもっていた。

  また、鈴木は日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」といいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」という。全体性という概念をめぐって、世界-私という軸がもうひとつ付け加えられる。ただ、私的全体性というのは必ずしもよくわからない。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」と鈴木がいうのは「狭いながらも楽しい我が家」ということのようにも思える。私を支える基盤が問題となるとき、国家や社会に私性を対置してもすれ違いであろう

 問題は、「社会的コンテクストを持った戦場」と「私的全体性なるもの」との間である。いずれにせよ、建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景として、同じような議論が続けられてきたのである。

 タウンアーキテクトなる理念は、果たして、「芸術かウサギ小屋か」という二分法を超えた地平において構想しうるであろうか。

 

*1  「ロスト・アイデンティテイの建築界」『建築文化』一九七九年一二月号をもとに改稿。 


*2  『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号

*3  『新建築』、七九年一一月号

*4  K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号

*5  浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」

*6  鬼頭梓

*7  布野修司、「建築学の系譜」、『新建築学大系1』、彰国社

*8 『建築雑誌』、一九一一年七月

*9 長谷川堯、『雌の視角』、相模書房

*10 「日本建築士会の沿革」、『日本建築士』、昭和二年七月

*11  建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。

*12  「日本建築士」一九三○年四月号

*13  第五章「近代化の展開」山口廣

*14  中村達太郎「建築雑誌」一九一五年九月号

*15 「設計事務所の出現と建築士会」、『清水建設百五十年』、清水建設、一九五四年五月

*16 拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年。『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年

*17  「建築士法の制定まで(戦後)」(『近代日本建築学発達史』第一二編「建築家の職能」第五章

*18  「現代建築家のえらぶ道」「NAUM」No.1

*19  『日本読書新聞』、七九年六月四日号

*20 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。

*21  『日本読書新聞』、七九年七月九日号

*22  『新建築』、七九年一〇月

*23 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*24 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。

*25  「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号


2021年9月29日水曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅰ 砂上の楼閣 第2章 何より曖昧な建築界

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 第2章 何より曖昧な建築界


 2-1 頼りない建築家

 戦後五〇年を経て、日本の社会は大きな転機を迎えた。これまでの様々な仕組みがうまく機能しなくなるのである。半世紀の時間の流れによる制度疲労ももちろんあるが、右肩上がりの「成長主義」「拡大主義」が破綻したことが大きい。日本の社会システムは否応なく構造改革を迫られるのである。

 農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業構造は大きく変貌してきた。そして、その体質が問われ始めた。即ち、構造改革の中心が土木建設業界なのである。建設投資がGNP(国民総生産)の2割を占める*(○データ)、そうした時代は終わったといっていい。地球規模の環境問題、資源問題、エネルギー問題が意識される中で、スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)をくり返す従来の建設システムが既存ストック重視型のシステムに転換していくのは必然である。建設投資が減少するのは当り前なのである。先進諸国並みになるとすれば、建設業界の雇用者数は半減してもおかしくない○データ。予想されるのは、あらゆる局面での熾烈なサバイヴァル戦争である。建築界全体の生き残り方が厳しく問われるのである。

  生き残りを図るに当たって、大きな問題がある。建築家がそもそも信用されていないことである。日本の建築家あるいは建築界に対する見方が極めて厳しいことは、「あまりにも曖昧な建築界Ⅰ、Ⅱ」と題された座談会を読むとよく分かる*1。その座談会で、飯田亮(セコム取締役最高顧問)は次のようにいう。

 「・・・建築家というのは何なのかデフィニションがわからない。建築家というのはデザイナーなのか。構造設計もある。設備もある。どうも不明確である。学者の先生は評論家だと思っているわけです。・・・」

 まず、建築家の定義が分からない。建築の分野が専門分化して、建築家の仕事の範囲が分からなくなっている。そして、責任の体制が不明確だ。

 「建築というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ち込みますよね。絶対に負けます。・・・こちらもそれなりの優秀な弁護士を雇いますが、一つはきっちりと検査する人間がいないからでしょう。ですから曖昧なうちに負けるわけです。だから実に曖昧な世界なんです。」

 「建築界は全く曖昧だ」「建築界は全く信用できない」という告発は、建築をした具体的な経験に基づいている。要するに、建築家には建築物や都市の安全に関して責任をとる能力がない、というのである。建築界の弱点を抉っていると言わざるを得ない。建築家だけではない。学者もコテンパンだ。学者は評論家に過ぎない、何も責任をとらない、と実に手厳しい。

 責任をとれないのであればどうするか。保険の仕組みを導入するのが不可避である。保険の仕組みを導入するためには、保険料を決める格付け機関が必要となる。

 「あなたのところの安全はグレードA、あなたのところはグレードC。おれは建築費にそれだけのお金しか出してないんだ、だからグレードCでいいんだよ、保険料も高くていいんだよ。いざというときには死ぬかもしれない。ビルはつぶれるかもしれない。そこはそれぞれに任せるべきだと思います。」。

 安全は個人の問題である。自己責任が原則であって、国とか官僚とか法に委ねるのは間違っている。安全は自分で守る。建築家は頼りにならないから、建築の性能をグレード化して、保険をかける。

 しかし、そうなると建築家の責任能力は同じように格付けされる必要がある。建築の性能と保険料の設定には建築家(建築組織)の能力が大いに関わるからである。問われているのは、単に、材料や構造強度のグレードの問題だけではない。建築家の能力によって様々な瑕疵の問題も起こっている。

 建築家が全く信用できない、と思われている状況において、自己責任が原則とはいえ、保険料を施主が果たして負担する気になるであろうか。設計料と保険料が関連づけられのはむしろ当然のように思える。

 一九九八年、建築基準法が改正された*。性能規定*の導入、建築確認・検査の民間開放、中間検査制度の導入が施行される。一方、住宅の性能保証、性能表示の制度も進められている。建築界が性能の担保性をめぐって変革の時代を迎えているのは間違いない。

 しかし、どんな制度が整備されるにしても、想定外の欠陥の発生は避けられない。絶対安全な建築物はありえないのである*2。そうであれば、建築物や都市の安全は何によって担保されるのか。保険の仕組みの導入はひとつの方向である。しかし、究極的に問われるのは「建築家」のあり方であり、その役割ではないか。


 2-2 違反建築

 建築界は様々な問題を抱えているが、最も初歩的で根深い問題が違反建築の問題である。

 われわれが建築しようとする場合に遵守すべき法律として建築基準法がある。一九一九(大正八年)にできた市街地建築物法*を引き継いで一九五〇年に制定された。その後幾度か改訂されてきているが、建築物の立地や用途、構造形式や材料等々、その安全性確保の観点から必要最小限の基準を定めたものである。もちろん、都市計画法*や国土利用法*、開発規制など自治体の条例など、建築物を規制する法律は他にもあるが、最も身近な法律が建築基準法である。

 ところが、この建築基準法はザル法と言われ、あまり権威がない。建築界がよってたつ基礎ともいうべき建築基準法が頼りないのである。もっとも、この問題は建築界の問題というより日本の社会全体の問題である。

 胸に手を当てて考えてみて欲しい。

 違反建築で最も多いのが建蔽率違反、容積率違反である。建築基準法は、「用途地域」*を定め、それぞれの地域で建設可能な建築面積(建蔽率)、延べ床面積(容積率)の最大限度を決めている*3。また、用途地域に従って、前面道路の幅員などによって建築物の高さが決められている。しかし、限られた敷地を最大限に利用したいと誰しも思う。

 建築行為を行うにあたっては、書類を提出して建築主事*の確認を得る必要がある。その確認申請上の書類(図面)と実際が異なることがよくある。悪質な場合は、書類は書類として、全く別のものを建てる場合があるのである。また、後から増築する場合もある。

 ひとつには、書類と実態を検査する体制がないからである。また、それ以前に建築確認が「確認」であって「許可」ではないということがある。すなわち、強制力が弱いのである。

 吹き抜けやピロティ*4の面積は容積に算入されない。図面上は、吹き抜けにしておいて後で床を張る、ピロティを壁で囲って室内化する、屋根裏に床を設けて部屋にする、といったことはよくある。むしろ、建築家の腕の見せ所と考えられている。容積率違反は違反だけれど全体の容積は同じだから問題ないではないか、という意識がある。何のために建蔽率や容積率を規制するのか、また、建蔽率や容積率という概念についても、曖昧なところがあるのである。 

  他に多いのが接道義務違反*である。建築物は一定幅員以上の道路に接していなければならないという規定がある。しかし、既に細街路に接して建っている建物を建て替えようとする場合、違反せざるを得ないケースが少なくないのである。特に昔からの街区割りが残る地域は接道義務*を遵守できないことが多い。一九九八年の建築基準法改正によってこの規定は徹底化されることになったが、全国一律に規定する建築基準法に問題があることは明らかである。

 建築基準法は工事完了検査を義務づけている。工事が完了すると検査済証が交付される。ここに驚くべきデータがある。各都市における建築確認通知件数のうち検査済証交付件数の占める割合、いわば遵法度というべきデータである*5。


 Ⅰ 大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)

 Ⅱ 千葉(33.5%)、川崎(36.3%)、北九州(37.7%)

 Ⅲ 神戸(50.4%)、横浜(50.6%)、名古屋(54.3%)

 Ⅳ 札幌(66.9%)、仙台(75.0%)、広島(75.8%)


 大阪、京都という関西の二大都市の遵法度が低いのは歴史的都市の特性が反映していると見ることができる。が、それにしても大都市の遵法度は低い。そもそも守れない規定がなされている。ザル法と言われる由縁である。

 改正建築基準法において、建築確認・検査機関の民間開放が計られた。また、中間検査*が導入される。しかし、まずは法の権威の確立が前提である。「法は守るべきもの」という精神、前提がないところに建築文化の花は咲きようがないのである。

 阪神淡路大震災を契機として、ひとつの研究会が開始されることになった。横尾義貫*先生を座長とする、日本建築学会の「建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座」をテーマに掲げる研究会*である。その研究会でまず問題になったのがこの違反建築の問題である。改訂された建築基準法において、第三者検査機関が位置付けられ、中間検査が導入されることによって、建築主事の機能は強化された。しかし、違反建築に対する罰則は軽く、是正措置の執行力は依然として弱い。そこでどうするか。具体的に何から始めるのか。

 建築物の工事に着手する際に以下のイヴェントをやる、というのが横尾提言だ。ただそれだけ、のことではあるが、実効性はあるのではないか。地鎮祭のようなものである。具体的に敷地に行って確認する、実に素朴で簡単で、当然すべきことである。また、普通の「建築家」であればいつも行っていることである。


 場所:建築現場

 参加者:建築主事または代理者、工事管理建築士、施工者

 確認事項:(1)確認設計図書の敷地等の現地照合

      (2)建築士の工事監理、施工者の工事監理体制

      (3)その他


 2-3 都市景観の混沌

 建築界の抱えるもうひとつの大きな問題が都市景観の問題である。個々の建築活動が積み重なって都市景観はつくられる。従って、建築家は都市景観のあり方に対して責任がある。少なくとも、都市景観と建築家は密接な関わりをもっている。にも関わらず、建築家は今日の日本の都市景観に対してその役割を果たしていない。あるいは、むしろ、景観を破壊しているのが建築家であると非難される。

 景観の問題としては、もちろん、自然(農村)景観の問題もある。そこでも問題となるのは人工的な建造物である。橋梁や高速道路、鉄道高架、ダムや護岸工事など土木スケールの構築物の問題が大きい。崖崩れ防止のための「のり面」*のコンクリートなど自然景観を大きく阻害するのが土木景観である。河川の「三面貼り」*も問題になってきた。大規模なものほど影響が大きい。建築物でもまず大規模なものが問題となる。

 人の力を加え、自然を変化させてきたとはいえ、自然の大きな営みの中でできあがった農業景観や、基本的には地域産材を用い、一定の構法でつくられた集落景観にはある調和がある。しかし、近代の建築土木技術はその調和を破ってきた。

 超高層の林立する大都市のスカイラインや都市を立体的に走る高架道路など近代技術が新しく生み出した景観である。かっての伝統的な都市のスケールを超えた建築物だからといって一概に景観破壊ということにはならないだろう。エッフェル塔*にしろポンピドゥーセンター*にしろ、建設当初は非難の声が大きかったけれど、いまではパリのランドマークとして親しまれている。京都タワー*にしても、大きな景観論争を引き起こしたけれど、今では京都に相応しいと思う人も少なくないのである。建築には新しい都市景観を創り出す、そう役割もある。

 都市のランドマークとなるような、またその都市のアイデンティティに関わるようなモニュメンタルな建築物の場合、建築家と施主、そして自治体、あるいは市民、さらにマスコミを含めた諸関係の中でオープンな議論がなされ、決定についてのルールが保証される限りにおいて責任はある程度明確である。そして、歴史的にその評価は下されるであろう。

 問題はより一般的な建築行為である。ヨーロッパからやってきた外国人の多くは、日本の雑然とした都市景観に面食らう。そこで、日本は世界一デザインの自由な国だ、などと言う。要するに混沌として秩序が見えないのである。

 それに対して、「混沌(カオス)の美学」*などという主張が対置される。アジアの都市とヨーロッパの都市は違うのであって、日本には日本の都市のあり方、美学がある、という主張である。

 都市景観の問題は確かにある意味では美学の問題である。しかし、「美」とは相対的なものであって、古今東西普遍的なものではない。だから、この雑然とした日本の都市景観に「混沌の美」を感じる人がいてもおかしくはないであろう。問題は、その「美」がどう共有されているかである。

 「美」の共有といっても、「美」という「もの」があって、それを所有するかどうか、ということではない。問題は、個々の建造物が美しいかどうかという価値判断ではなく、景観を生み出す仕組みである。そこにあるルールがあるかどうかである。ある見方からすると、一方は整然と「秩序」だっているように見え、他方が「混沌」に見えたとしても、その「混沌」を生み出すルールが共有化されているとすれば、そこには「混沌の美学」があるといっていい。共有化されたルール、秩序が要するに美学である。二つの建物が、隣り合って、かってな「美」を競う場合は「混沌の美学」とはいわないのではないか。もちろん、それが日本で共有されているのであれば、それも「ルールなきルール」と呼んでもいい。

 そこで、ルールとは何か、すなわち秩序とは何か、が問題である。近代(産業革命)以前において、景観を生み出すルールはある程度わかりやすい。土、石、紙、木などの自然(生物)材料を主体とする一定の素材を用い、地域毎に、地域の事情にあった仕組みでつくられてきた町や村の景観は、色にしても形態にしても自ずと調和がとれていた。しかし、鉄とガラスとコンクリートを素材とする近代建築のそもそもの理念は、世界中で同じ建物を建設しうるということである。超高層ビルが同じように林立する世界中の大都市の景観がその象徴である。工業材料は世界中にばらまかれ、世界中の都市を同じような色に変えてきたのである。近代以前のルールと近代のルールは相容れないままに分裂してしまっているのである。

 従って、ここでも問題は一人の「建築家」の問題を超えていると言わざるを得ない。しかし、それでも「建築家」は個々の仕事において景観に対する責任を問われていることに変わりはない。景観を形成しているルールに対して自らの態度を明らかにすることが常に求められるからである。

 横尾委員会は、二年間の討議を経て、七つの提言を行うに至ったが*6、その前提とされたのが「都市空間の公共性ー景観は市民のもの」という概念である。

 「西欧の秩序ある美しい都市景観に対して、日本のそれはいかにも秩序に乏しい。建物外部の広告物、主張の強い表現の建築ファサード、林立する電柱、バックヤードのような乱雑な屋上など枚挙に暇がない。都市景観に対する市民の関心の高い歴史的都市においてさえも、以上のような乱雑な現象は見られるのである。」

 西欧の都市一般が秩序ある美しい都市景観をしていると言い切れるかどうかは別として、日本の都市景観が秩序に乏しいことは明らかである。

 「この乱雑さは、日本の固有の事情、土地のゆとりが少ないこと、また、都市が木造建築群から、一部の住宅、社寺、邸宅などを除き、西洋風建築群・近代的構造建築群へ変貌してきた経過などから、ある程度やむ得ない帰結であった、という暗黙の了解があるからかもしれない。ともあれ、この無秩序な都市景観は、市民たちにとって決して快いものではない。彼らは一見無頓着に振る舞っていても、心底に自らの住む街を快く美しくすることを望んでいるに違いない。いま彼らは、景観は市民のもの、という自覚を持つ時がきている。」

 「市民」が都市景観を無秩序と思っているかについては留保しなければならないかもしれない。何故なら、都市景観を無秩序にしているのも「市民」だからである。建築家もひとりの「市民」である。しかし一方、建築家には専門家として「秩序ー無秩序」の問題に答える必要がある。

 「進んで彼らは、都市景観の美しさについて普遍的な原理を学び、都市の個性、機能、歴史、地勢に応ずる景観デザインの思想について聴き、みずから都市の景観形成に参加していく、このような情勢が到来しつつあるように思えるのである。識者はこれに答える必要がある。」

 都市景観と美とルールをめぐって興味深いのが真鶴町(神奈川県)の「美の条例」である。リゾートマンション開発のラッシュに手を焼いた町が開発抑制策として「まちづくりまちづくり条例」を制定する、その条例が通称「美の条例」と呼ばれるのである*。

 条例は6章31条からなっている。条例全体は、住民参加を義務づける画期的な内容になっているが、中でもユニークなのが第10条「美の原則」である。「場所」(建築は場所を尊重し、風景を支配しないようにしなければならない)など、「格づけ」「尺度」「調和」「材料」「装飾と芸術」「コミュニティ」「眺め」に関わる八つの原則からなっている。また、69のキーワードが用意されている。下敷きになっているのは、C.アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」*である。また、チャールズ皇太子の「英国の未来像ー建築に関する考察」*における10原則である。

 この「美の条例」をめぐっては、もちろん様々な議論が巻き起こった。美は絶対的なものか、美は強制できるのか、「美の条例はファシズムではないか」等々。評価は分かれるが、ユニークな試みである。具体的に、コミュニティ・センターが「パターン・ランゲージ」の方法に従って設計されている。条例という制度的枠組みが先行するかたちではあるがひとつのルール設定の試みである。少なくとも、全国画一的な法律ではなく、自治体独自の「条例」によって、望ましい街並みを誘導しようという方向は間違ってはいないのである。


 2-4 計画主体の分裂

  横尾委員会のスローガンは「縦社会の横働き」*であった。すなわち、日本の「縦社会」の弊害を打破するためには「横働き」(横のネットワーク)が必要、ということだ。具体的に、建築界にも「縦社会」の問題がある。建設業界には重層的下請構造と言われるピラミッド構造があり、学会には専門分化の体制、建築都市計画行政には「縦割り行政」がある。

 縦割りの構造の成立にもそれなりに理由がある。近代化という一定の目標が設定される中での役割分担のシステムとしては効率的であった。また、日本のムラ的組織原理を維持していくのには好都合であった。日本には歴史的に形成された「縦社会の論理」*7がある。

 しかし、国際化の流れの中で、また、価値観が多様化する中で、「縦社会の論理」は必ずしもうまく機能しなくなる。そこで必要なのが「横働き」である。

 まず問題は、狭い枠に問われた「木を見て森を見ず」の議論のみ横行し、大きな議論がなされなくなっていることである。あるいは、決められた規則や前例のみに囚われ、状況の変化に対応できないことである。第一に、建築界の議論が一般に伝わっていかない、という問題がある。また、それ以前に建築界の内部が「縦割り社会」となっている問題がある。建築学会にしても、様々な業種団体の寄り合いの趣がある。

 具体的に、公共建築の計画を考えてみる。いわゆる「箱物行政」*と今日揶揄される分野である。

 地方自治体を司る首長は、地域住民の様々なニーズを汲み取り、それに答えようとするのであるが、眼に見える形で極めてわかりやすいのが「箱物」=公共施設の建設である。選挙で選ばれる首長にとっては、任期中にその実績を示す必要があるのである。地域住民のための施設空間であり、地域の建設業界は仕事を得るというメリットもある。問題は、公共施設の建設のみが目的化されて、地域住民の真のニーズに合わないことが多々あることである。具体的に、ほとんどの場合、管理運営の体制が決まらないままで建設が進められる。いわゆるソフトがないままハードな施設建設が先行する。「箱物行政」と言われる由縁である。

 施設建設の企画から建設へ至る過程にも多くの問題がある。まず、補助金制度の問題がある。施設建設の企画そのものは中央官庁で発想され、各自治体に補助金とともに同じような施設が建設されるのである。また、単年度予算の問題がある。予算の決定から、設計者の選定、基本設計、実施設計、そして建設は極めて短期間に行わなければならないのも画一的なプログラムになる理由である。時間がないから、前例主義が罷り通る。すなわち、似たような施設を踏襲した無難な仕事になる。じっくり時間をかけて、それぞれの地域の事情を考慮した創意工夫の入る余地がない。

 発注者である自治体の担当者が必ずしも建築の専門家ではないということもある。あるいは、建築の専門スタッフを抱える余裕のない自治体も少なくない。また、担当者が短期間に部署を変わるという問題がある。自治体に営繕部門がある場合も、必ずしも、公共建築全般を一貫して担うかたちがとられることはむしろ希である。

 農林水産省、文部省、建設省、運輸省、厚生省、労働省等々の事業は別個に行われる。縦割り行政の弊害は、地方自治体において顕著である。省庁毎の施策が連携なしに押しつけられるのがむしろ普通である。例えば、用地取得の問題から、複合的で一体的な施設を建設した方が合理的なのに、なかなかうまくいかない。地域よりも各部署の実績、省益が優先されるのである。

 設計者選定の仕組みも一貫して曖昧である。あくまで官主導の行政であって、「建築家」は「出入りの業者」でしかない。公共建築の設計の仕事を単なる図面を書く仕事として認識する「設計業者」も少なくない。事実、自治体側からは指名業者登録を求め出入り業者を組織化し、他方設計を受注する組織としての設計事務所の組合が組織されるなど、地域的な構造が出来上がっているのが一般的である。

 「設計料入札」*が未だになくならないのは、会計法上の問題とは別に以上のような公共事業を担う既存の利権構造が前提にされているからである。なぜ、設計競技が一般化しないかも同じ理由である。また、設計競技が行われる場合も、「疑似コンペ」*が横行するのは、公共建築の設計が単に仕事の受注としてしか考えられていないからである。

 こうして公共建築の設計において、地域住民の参加の余地はほとんどない。選挙において首長を選び、その見識に委ねるしかない。しかし、その首長や議員の選挙を支えてきたのは、主として公共事業を支える建設業界と政官界の密接な構造なのである。  

 さらに、まちづくりを考えてみる。そこにはほぼ同じ様な構造がある。

都市計画といってもバラバラなのである。第一には縦割り行政の問題がある。行政内部でもまちづくりの方針はしばしば分裂している。また、行政のコントロール(規制)とディベロッパー(開発業者)とのいたちごっこの問題がある。すなわち行政がかくあるべしというマスタープラン*を描いても、実際に物理的にまちをつくっていくのはディベロッパーである。自治体による都市計画は公共事業の実施を中心としている。インフラストラクチャーの整備、また、施設建設(箱物行政)が主体である。

 日本の都市計画・建築行政はコントロール行政である。民間の開発行為について、開発規模、用途などを規制する手法が基本である。行政の側に規制の手段は少なく、ディベロッパーは、場合によると、法規制の穴を捜して自らの利潤を最大化しようとする。行政の実施するプロジェクト事態もディベロッパーと同じ現実的な条件で実現する他なくしばしばマスタープランは絵に描いた餅となる。さらに問題はマスコミや学識経験者なるものである。彼等は理想としての提案提言を行うけれど決して責任はとらない。そして、極めて問題なのは、その主張なり提言が現実の都市計画まちづくりの分裂を隠蔽してしまうことである。

 ひとつの問題は審議会システムである。様々な施策について各界代表や学識経験者に諮問する審議会が設けられるが、多くの場合、政策立案ではなく政策追認の機能しかもたない。学識経験者の多くは単なるイエスマンである。あるいは、言いたいことは言ったけれどという言い訳によって、責任を他に転嫁する。ここでも住民の参加は疎外されてしまっている。

 マスコミがとりあげるのは、建設や建物の高さをめぐって反対運動のある場合など、センセーショナルなケースである。多くの場合、その場限りの対応でしかない。時として大きな力をもつけれど、日常的なまちづくりの施策に結びついてはいない。

 それではどのような仕組みがいいのか。本書で主張する「タウンアーキテクト」制がそのひとつであるが、その前に指針がある。情報公開(ディスコロージャー)である。まちづくりに関して、全ての情報はオープンでなければならない。まちづくりのプロセスが透明でなければ、参加はあり得ないのである。公開制とともに問われるのは、 公平性であり、公正性である。公平、公正といっても必ずしも容易に実現できるわけではない。しかし、はっきり言えるのは、その前提にあるのが情報公開だということである。誰がどういう決定を下すのか、それを常に公開することから、新しい仕組みは組み立てられるのである。

 もうひとつ指針にしたいのは現場主義である。いくら補助金が貰えるといっても不要の施設を建設するのは大問題である。維持管理のつけを払わねばならなくなって窮地に陥る自治体も少なくない。当然のことながら、現場の実態と合わない施策は要らないのである。具体的な施策を考える上で地域のニーズを把握するのが出発点であるが、その際、現場からの発想、現場での創意工夫が大事にされるべきなのである。


 2-5 「市民」の沈黙

 こうして、建築界の抱える様々な問題は、地方自治体のまちづくりの施策とも密接に結びついている。結局ベースになるのは地域社会(コミュニティ)のあり方である。

  まちづくりの主体は結局はまちに住む人々なのである。その事実がはっきりと明らかになるのは、大きな災害時など安心・安全が脅かされる事態が発生した時である。

 阪神淡路大震災の時、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上でまず拠り所になったのは近隣である。大規模な都市災害の場合、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らないのである。災害発生まもなくの緊急事態に対処しえるのは個々の地区における相互扶助活動である。

 上述前述したように、災害時に備えて必要とされるのは、地区の自立性である。火災発生時に、消火活動のために必要な水は一定の地区内に確保されている必要がある。災害時に緊急に必要とされる薬品、食料などは一定の地区内に備蓄されるか、速やかに供給されるシステムが用意されている必要がある。ガス、水道、電気、交通などライフライン、インフラストラクチャーなどにはフェイル・セーフのシステムが必要である。一極集中型のシステムではなく、多核分散型のシステムが用意されていなければならない。 

 災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。小中学校、病院などの地域施設、近隣公園などが避難所生活の拠点となる。応急仮設住宅地の生活において重要なのも地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域社会を基礎としない公共住宅の供給が空家を大量に生み出している。

 まちづくりにおいて究極的に問われるのは地域(地区)における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民(市民)のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のようにまちづくりの基礎は地域社会にある。しかし、地域社会を都市地域計画の主体とする仕組みが日本にはない。日本の都市計画制度には、繰り返し指摘するように、地域住民の積極的参加を位置づける仕組みがない。

 それ以前に住民の受動性がある。一方で、地域住民の都市計画への参加意識は必ずしも高くないのである。あるいは、地域の利益のみの追求(地域エゴ)、企業利益のみの追求が都市地域計画のテーマとなっている。私的所有権が前提される中で、公共の福祉等、都市景観の公共性、地域社会の共用基盤としての公共空間についての認識は日本においては必ずしも定着していないのである。

 そうした状況において、地域社会を主体とする都市地域計画の仕組みの確立のために「建築家」「都市計画家」の果たすべき役割は大きい。都市地域計画について、「公共」自治体と地域社会(「民間」)の関係を媒介する組織として「NPO」*(非営利組織)が位置づけられる必要がある。NPOは、都市計画のプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす組織として位置づけられる。

  もちろん、都市地域計画の実施主体としての自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会(地区)の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会(地区)が自らの要求を自ら都市地域(地区)計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となるのが一般的である。また、都市地域計画に関する専門的知識も必要とされる。

 自治体と地域社会を媒介する機関としてNPO、あるいは様々なヴォランティア・アソシエーションの活動が位置づけられる必要がある。その職能は、タウン(コミュニティ)・アーキテクト(プランナー)、ハウス・ドクター*等として理念化される。様々な形の新しい都市地域計画の仕組みがそれぞれの地域で試行され、確立されるべきである。

 横尾委員会は、次のような提言を掲げた。


 「安心・安全のための建築・都市計画立法における地方分権化とコミュニティ・ルールの確立へ

 建築あるいは都市のあり方は地域によって異なる。年間降雨量や日射量、あるいは風速など自然の条件が地域によって異なるのは当然であり、建築を取り巻く条件も地域の歴史や風土によって異なるのはごく自然である。しかし、わが国の都市や建築のあり方は次第に画一化しつつあり、地域の固有性を失いつつある。

 産業社会の論理そのものが地域の固有性を奪いつつあるといっていいが、議論すべき大きな問題として法制度のあり方がある。わが国の都市や建築を規定する法律は全国一律である。法制度は公的な(公共の福祉の)立場から最低限の基準を定めるだけとはいえ、一律の基準に適合する形で都市建築行政の展開が地域の特性を喪失させてきたことは否定できない。

 様々なレヴェルでの地方分権化とともに地域に固有な建築や都市のあり方を目指すルールの確立が急務である。安心・安全のための都市計画の基礎は地域社会(コミュニティ)にある。地域ごとに地域の固有の条件に合わせて都市計画が立案されるべきである。そのためには都市計画への市民参加が不可欠であり、市民立法の形態も様々に試行される必要がある。その前提として、建築、都市計画分野における地方分権化が大きな目標となる。」


2021年9月28日火曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅰ 砂上の楼閣  第1章 戦後建築の五〇年

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅰ 砂上の楼閣


 第1章 戦後建築の五〇年


 瓦礫と化して原形をとどめぬ民家の群。延々と拡がる焼け跡。一キロにわたって横転した高速道路。あるいは落下した橋桁。駅がへしゃげ、線路が飴のようにひん曲がる。ビルが傾き、捻れ、潰れ、投げ出される。信じられないような光景である。新幹線の橋桁が落っこちる、そんなことがあっていいのか。

 阪神・淡路大震災の六日後、西宮から新神戸まで、西宮市、芦屋市、東灘区、灘区、中央区と、国道二号線を軸に、阪急神戸線、JR東海道線、国道四三号線で挟まれた帯状の地区を縫うように歩いた。一二日後、新神戸から三ノ宮、元町、神戸、兵庫、長田と歩いた。最も被害が集中した地域である。それぞれ二〇キロになろうか。

 相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。瓦屋根、多くの土を載せた木造の古い住宅がやられている。在来の木造住宅が弱かったという印象は拭えない。瓦が飛び散り、モルタルも振り落とされている。火が出ればどうしようもない。

 しかし、木造住宅だけではない。RC造だって横転している。倒れたものとそうでないものとを分けたのは一体何か。異様なのは、中間の階で潰れている。柱の経(太さ)が切り替わる階、あるいは壁の量が変わる階で潰れている印象である。日本ではあり得ないと言われていた「パンケーキ型」*崩壊である。高層の市営住宅が傾いている。眼も当てられない。また、ピロティー*が駄目だ。鉄道の高架もひどい。鉄骨造の中にバラバラに崩れたものがある。しかし、しっかりした設計の建築物は総じて残っている印象である。

 北野町の異人館街*は比較的ダメージは少ない。地盤のしっかりしている高台だからであろう。しかし、無事だと言われた風見鶏の館(旧トーマス邸)*も煙突が折れ、クラック(ひび割れ)が入っている。三ノ宮は、ひどい。銀行、証券会社のビルが数多くやられている。地下街は無事だが、ガス、水道は二週間経っても駄目だ。地下鉄がやられている。大開では駅が潰れて道路が大きく陥没している。居留地の歴史的建造物は比較的無事だったがダメージを受けたものも少なくない。南京町は報道されたほどひどくはない。長田の菅原市場周辺の火災跡はむごい。


 まるで戦後まもなくの廃墟のようではないか。廃墟から出発し、五〇年を経て、再びわれわれが眼にしたのはまた廃墟であった。


 1-1 建築家の責任

 戦後五〇年の節目に当たる一九九五年は、日本の戦後五〇年のなかでも敗戦の一九四五年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災○写真●と「オウム」事件*。この二つの大事件によって、日本の戦後五〇年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」*(不良債権問題)が明るみに出た。それ以降バブルのつけに日本中が悩まされている。一体、われわれの生活の基盤はどうなっているのか。日本の戦後社会を支えてきたものが大きく揺さぶられたのが一九九五年であった。そして、建築と都市の建設に関わる「建築家」がいかに非力かを思い知らされたのが阪神・淡路大震災である。

 震災直後、政府の危機管理(リスク・マネージメント)能力のなさが大きくクローズ・アップされた。首相の権限、中央政府と地方自治体の権限、地方自治体間の関係、自衛隊の出動、外国からの救援隊の受け入れ、などをめぐって日本の制度の欠陥が次々と明るみに出た。しかし、不思議と責任を問う声が少なかった。人智を超えた「自然現象」を前にしては仕方がない、ということであろうか。原因究明、責任追及以前に、緊急非難、復旧、復興がすぐとりくむべき眼前の課題となった。

 果たして「建築家」に責任はなかったのか。高速道路が横転し、新幹線や鉄道線の高架が落下し、ビルが傾いたのである。決してあってはならない事態である。「建築家」には安全な建築物をつくる使命があるのではないか。少なくとも建築物が倒壊して人命を奪うなどということは許されることではない。

 何が問題であったのか。すぐさま問われたのは、建造物の安全性を規定する建築基準法*のような法律や基準である。基準は果たして充分だったのか。阪神・淡路大震災に限らず、大きな地震や災害の度に問題になる。そして、基準は改定を重ねてきている。今回も基準法を遵守した建物は安全であった、あるいは新しい基準法は大丈夫であったがそれ以前の法に従うものは被害率が高かった、という主張がすぐさまなされた。しかし、高速道路や高架橋には法的基準があるわけではない。法を守っていれば「建築家」の責任は問われない、ということではない。

 もちろん、法を守らないのは論外である。いわゆる「違反建築」の問題*はわが国の「建築家」のみならず一般市民の建築および建築法規に対するある態度を示している。例えば、限られた土地に少しでも多くの空間を確保したいとばかりに、建蔽率*、容積率*違反は日常茶飯事である。日本の建築風土、建築文化の問題といってもいいかもしれない。

 一方、法の側にも問題がないとは言えない。全国一律の規定で地域の事情が考慮されない。例えば、伝統的に木造住宅が建てられてきた地区に木造住宅が防火上の理由で建設できないと言うことがある。実態として法を守れない状況があるのである。建築基準法がザル法といわれる由縁である。

 奇妙なのは「既存不適格」とされる建築物である。既存不適格建物とは、基準となる法が変わり、現行法では法律に適合しない、現在では建設できない建築物である。こんどの震災で「既存不適格」建物は駄目であった、ということになると一体誰の責任になるのか。法律が悪い、それを定める国が悪い、といってすむ問題なのか。法とは一体何か。

 まず、設計(書類)上は法や基準を遵守していても、手抜き工事などその通りに施工(建設)されない問題がある。誰が、そのチェックをするのか。震災以後、検査機関の必要性が叫ばれたのは当然である。「建築家」が管理する責任があるが法的には曖昧である。管理する能力の問題もある。保険の制度などがないから瑕疵について責任をとる経済的能力がない。

 さらに、法や基準を守って建設された建物も劣化するということがある。実際今回被害の大きかった木造住宅は老朽化したものが多かった。白蟻や結露、漏水によって部材が腐っていたのである。木造住宅に限らない。どんな建物でも、新築の時には基準を満たしていても、次第に老朽化するのは当然である。

 要するに、安全は必ずしも法によって担保されるわけではないのである。法や基準は時代とともに変わりうるし、絶対的ではない。しかし、それ以前に絶対安全な建築物などないのである。

 絶対安全な建築物がありえないとすると、「建築家」はどうすればいいのか。「建築家」に最初から問われているのは、もしもの場合にどう備えておくか、ということだ。

 だから、「建築家」は自分の施主の建築物を法律だけを守って設計すればいいということにはならない。施主の強い要求に応えて違反をするのは論外である。また、経済性のみ考えてぎりぎりの設計をするのも問題である。「建築家」に要求されるのは次元の違う価値である。極端な場合、建てない方がいい、という場合だってある。

 阪神淡路大震災と同じような大地震を経験した中国の唐山市*(唐山地震)の市長が、空き地は震度七にも八にも耐えるといったという。建物は倒壊しても、近接する空き地に逃れる時間があれば人命が失われることはないのである。

 問題は、だから、一方でまちのあり方である。一個の建築物を設計する場合でも、決して無視してはならないのは近隣関係である。当然のことだけれど、建築物は近隣との関係で成り立っている。すなわち、「建築家」は一個の建築物の相隣関係をどう考えるかを問われることにおいて、必然的に都市(計画)全体と関わりをもつのである。

 もちろん、一人の「建築家」が関われる範囲は限られている。工事管理の問題にしても、都市計画の問題にしても、社会的なシステムが問題である。しかし、「建築家」であるとすれば、問題を全て社会システムの問題としてすましかえっているわけにはいかないのではないか。もう少し責任があり、やれることがあるのではないか。しかし、それ以前の問題がある。「建築家」というのは、どうも、責任をとりたくないようなのである。責任のないところに社会的信用はなく、その仕事を職能として成立させる条件は生まれるべくもないのである。

 「建築家」が阪神淡路大震災に対してまずなすべきは素直な反省である。また、徹底した原因追及である。原因究明ということでは、おかしなことがいっぱい起こった。倒壊したビルはさっさと片づけられ、個々の建物のどこに問題があったのか隠されたケースも多いのである。また、実際よくわからない事態、解明されないこともある。地中や壁の中で何が起こっているのか不明なのである。また、意図的に情報が隠されている場合がある。真相究明、情報公開が叫ばれ続けている由縁である*1。


 1-2 変わらぬ構造

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後年月を経るにつれて、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域*を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。「重点復興地域」のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、「重点復興地域」から外され基本的に自力復興が強いられた八割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の問題点をみてみよう。その諸問題は、実は日本の都市計画が本質的に抱えている問題といっていいのである。


 a 都市計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことであった。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅*(建設条件)の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。


 b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが四月一一日、水道復旧が完了したのが四月一七日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものである。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧・復興計画に活かすかが問われていた。

 最初に大きな閾になったのが三月一七日(震災後二ヶ月)である。建築基準法第八四条*の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が三月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは一月二七日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災一〇日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも一月二九日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは八月二〇日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが八月一〇日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられた。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(二月二四日公布 施行日から五年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(四月二八日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(七月二八日)などが決定された。また、「阪神・淡路復興委員会」*(下河辺委員会)が設けられ、二月一六日の第一回委員会から一〇月三〇日まで一四回の委員会が開催され、一一の提言および意見がまとめられた*。タイムスパンとしては「復興一〇ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられた。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 五月一一日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の四部会の審議をもとにした三回の全体会議を経て六月二九日に提言がなされた(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急三ヶ年計画」である。「産業復興三ヶ年計画」「緊急インフラ整備三ヶ年計画」「ひょうご住宅復興三ヶ年計画」が三本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど三年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が二年というのも三年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。


 c 都市計画の手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業*である。あるいは市街地再開発事業である。震災四日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定される。驚くべき早さである。モデルとされたのは酒田火災*(一九七六年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 二月一日、神戸市、西宮市で建築基準法第八四条による建築制限区域が告示され、二月九日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第八四条の第二項は一ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち二ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第五三条*による建築制限に移行するために、三月一七日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②二月二六日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業*を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば二年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会*の決定には「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「二段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画が一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長として描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」*と「密集住宅市街地整備促進事業」*を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業*(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように三分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業一〇地区

  市街地再開発事業六地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業一一地区

  密集住宅市街地整備促進事業六地区

  住宅地区改良事業五地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法八四条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、A、Bの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A、B地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴ(動機付け)も設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。


 1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓


 a 自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。空調機械で室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層*、液状化*の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 


 b フロンティア拡大の論理

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」*というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。


 c 多極分散構造

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であった。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。


 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。


 e 地区の自立性・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO*(非営利組織)の役割である。


 f ストック再生の技術

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。


 j 都市の記憶

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。