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2021年10月2日土曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅲ 建築家と都市計画  第5章 近代日本の建築家と都市計画

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅲ 建築家と都市計画

 第5章 近代日本の建築家と都市計画

 5-1 社会改良家としての建築家

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の『建築雑誌』*や『建築世界』*といった雑誌を見ると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めている(註1)。

 「国家を如何に装飾するか」*をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)で明け暮れていた明治末年から大正期に入ると日本建築学会の合同講演会のテーマはがらりと変わる。「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心たるやそう広がりをもったものではなかった。稲垣栄三(註2)が「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」*と「都市計画法」*が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている通りである。

 水野錬太郎(内務大臣)、田尻稲次郎(東京市長)、藤原俊男(東京市参事会員)、池田宏*(内務書記官都市計画課長)、関一*(大阪市助役)、福田重義(東京市技師)など、一線の行政責任者、担当者を講演者に含む先の日本建築学会の合同講演会には、大正期における建築家の住宅、都市に対するアプローチの水準がほぼ反映されていると考えられるが、欧米の現況についての情報の報告と建築条例の制定が話題の中心である。当時、建築条例の制定については、建築家として、内田祥三*が最も包括的に整理を行っている。用途地域制については笠原敏郎*がまとめている。池田宏、片岡安*の膨大な論文がまたこの時期のひとつの成果である。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」と稲垣は総括する。

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館*○、大阪中之島公会堂○*などの設計で知られる岡田信一郎*である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註3)。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註4)という理念があった。

 「建築家は美術家の一であると、すまし反って居るのには、建築其物があまり社会的で在り過ぎる。而して私の考えて居る建築と云ふのは、其んな高踏的態度を許さない、もっと人生に密接の連関したものである。・・・吾々が建築家として実際に建築の事を考へる時に、其美を独り他の社会活動と離して考える必要はない。安寧実用に基く建築の性質上他の社会活動と連関して考えらるべきである。而して美術が、個人の表現であるならば、又其が社会の表現であると見る事も不合理では無くなって来る。此点から、美術の改進は社会改良の一面である。併し、私は、家にはもっと卑近な、現実的な問題を取扱いたいのである。」

 大正期の建築論の、美術か技術か、用か美か、という二元論的議論*の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していた。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註5)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だったのである。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたようにみえる。


  5-2 近代日本の都市計画

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであり、都市計画というジャンルが「建築学」の領域として位置づけられるのは少し後のことであるが、都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例*の公布と翌年の同条例施行および市区改正の告示が日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。   

 その歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註6)。石田による時代区分を前提として、今日に至る日本の都市計画の歴史を区分すれば以下のようになる。


 第一期 欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)

 第二期 市区改正期(一八八〇~一九一八年)

 第三期 都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)

 第四期 戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)

 第五期 戦後復興都市計画期(一九四五~一九五四年)

 第六期 基本法不在・都市開発期(一九五五~一九六八年)

 第七期 新基本法期(一九六八~一九八五年)

 第八期 反計画期(一九八二年~一九九五年)

 第九期 地域まちづくり計画期(一九九五年~)


 第一期の欧風化都市改造期は、銀座煉瓦街建設*(一九七二年)○、日比谷官庁集中計画*○(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信*の『明治の東京計画』(註7)が詳しく光を当てるところだ。第二期が一八八〇年からの区分とされるのは、既にその動きが始まっていたからである。以下についても同様だ。こうした時代区分はある年を閾として截然と区切れるものではない。

 第三期において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされるのである。

 一五年戦争下の第四期は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みが行われた時期であり、戦後へ直接つながるものを残している。極めて大きな経験となったのは、後に触れる植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正*が画期になる。第五期の戦後復興都市計画期を経て、日本は高度経済成長期を迎える。この十数年で日本の町や村は大きくその姿を変えることになる。第六期は、基本法不在の都市開発期である。東京オリンピック*で首都東京が大きく変貌し、大阪万国博*(エキスポ七〇)の会場設計に未来都市の姿が夢見られたそうした時代である。大都市近郊には、数多くのニュータウン建設*が開始されたのが一九六〇年代である。 

 七三年、オイルショックが起こった。建築、都市計画に関わるパラダイムが転換する。量から質へ、新規開発から既存市街地の再開発へ、高層から低層へ。第三次全国総合開発計画(三全総)*は、大規模河川の流域を単位とする定住圏構想をうたった。しかし、八〇年代に入って、風向きが変わる。

 中曽根内閣のもとで、米国ではレーガノミックス、英国ではサッチャーリズムと呼ばれた既成緩和策(デレギュレーション)が取られた。そしてバブル経済の狂乱が日本列島を襲った。石田によれば反計画期(第八期)である。

 バブル崩壊後、今日に至る時代は模索期である。環境問題、エネルギー問題、資源問題などが顕在化することにおいて、明らかにバブル期とは異なる。地球環境計画の時代ということになるかもしれない。また、地域社会をベースとするまちづくりの時代ということになるかもしれない。阪神淡路大震災(一九九五年)が決定的な画期となる。願望を込めて予測すれば、タウン・アーキテクトが根付く時代になるであろう。


 まず問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたが、残されている課題は依然として多い。否、もしかすると、建築家が独自の行動原理を都市というフィールドから引き出してきたかどうかは大いに疑問なのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマン*のパリ改造*と市区改正、ナチスの国土計画理論*と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プラン*と首都圏整備計画*、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)*と地区計画制度*(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政機関なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。また、ほとんどの施策は中央で発想されている。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 都市計画の組織の問題も以上から窺えるように曖昧である。もちろん、その根底には日本の地方自治体の問題がある。ジョブ・ローテーションということで都市計画を担当する部署に一貫性がない。また、都市計画の決定に様々な主体が絡み合い、その決定プロセスを不透明にする構造は変わらず存在してきたのである。


 5-3 虚構のアーバン・デザイン

 戦後復興から今日に至る過程をまず一気に振り返ってみよう。建築家にとっての都市と建築をめぐる問題は、上述のように一向に解かれていないのである。

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華*が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄*が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。

 また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。新宿復興コンペで一等当選したのが内田祥文*、祥哉*兄弟のグループである。この新宿地区計画は淀橋上水場を含んでいたのであるが、東京都庁舎を含むオフィス街を計画しており、今日の新宿新都心の姿を先取りしているのが興味深い。また、早稲田、本郷、池袋、三田の四地区において文教地区計画が立案されている。

 戦後まもなくの東京における復興計画についてこうしたコンペの企画を行ったのは石川栄曜*(一八九三~一九五五年)である。彼は、一九三三年以来、東京都の都市計画を手掛けてきたが、知られるように戦前戦後を通じた都市計画界の最大のイデオローグである。驚くことに、一九四五年八月二七日には、石川が課長をしていた都市計画課は「帝都再建方策」を発表している。東京戦災復興の公式の計画である「東京戦災復興計画」は、一九四六年四月に街路計画・区画整理が、九月に用途地域が、一九四八年七月に緑地地域が計画決定されていくが、それと平行して、いわば復興機運を盛り上げるために復興コンペが企画されたのであった。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。白紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。そのモデルは、しかも、ヨーロッパのものであった。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかったのである。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのだ、といわれることになる。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓*の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章*の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人*の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦●の「群造形論」、大谷幸夫*●の「Urbanics試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司*○の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註8)で詳しく書いた。

 「西山夘三は、「六〇年代は日本の建築家が都市に対して眼を開き、かつて戦災のあとの絶好(?)の機会に能力不足で果たせなかった責任の償いをし、〈所得倍増計画〉という華やかな建設のかけ声にのって、大きな成果をかちとる時代であるーーといった期待が語り合われ、少なからぬ人々が意気にもえている」と書いていた。おそらくそうであった。戦時中の中国大陸での経験を別とすれば、建築家は絶好の都市(都市計画)への実践の機会を戦後まもなくに続いて再びもったといえるであろう。」

 しかし、帰結はどうか。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・Expo'70であり、沖縄海洋博であった。・・・」*


 5-4 ポストモダンの都市論

 オイルショック*とともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく。そうした状況を原広司は「最後の砦としての住居」と比喩的に呼んだ(註9)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々な衝突や軋轢を引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々蠢きである。

 バブル期の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註10)。一七世紀の初頭には東国の寒村にすぎなかった江戸が世界都市・東京へ至ったその歴史を振り返る余裕はないが、単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブ(回顧趣味的)な都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。「純粋観察」を標榜する路上観察の流れもこの系譜である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。


 5-5 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで首をすくめてまつだけなのであろうか。

 おそらく、そうではあるまい。繰り返し繰り返し同じ様な総括がなされるところには致命的な問題点があるとみていい。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることが意識される必要がある。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。その一貫する問題は既に述べた通りであるが、端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限*、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画も、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。


 5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

 こうして都市計画の得体の知れ無さを振り返るとき、時として、ある時代の都市計画が理想のものとして、また、可能性に充ちたものとして想起される。十五年戦争期の植民地における都市計画である。大連、奉天、新京(長春)、ハルピン、撫順、牡丹江、北京、上海、青島、京城、釜山、台北、高雄など、満州、中国、朝鮮、台湾の主だった都市で都市計画が実施されている。大同都市計画*、新京都市計画*など建築家も数多く参加したのであった。また、日本の都市計画法や市街地建築物法にならった法制度も施行されている。朝鮮市街地計画令が一九三四年六月に、台湾都市計画令が一九三六年八月に、関東州計画令が一九三八年二月にそれぞれ公布されたのであった。

 何故、植民地における都市計画が振り返って着目されるかというと、理念がストレートに実現されようとしたかに見えるからである。それまでに蓄積されてきた都市計画の技術や理念を初めて本格的に実践する一大実験場となったからである。

 越沢明は、なかでも新京の都市計画を近代日本の都市計画史のなかで看過できない重要な意味をもつとする(註11)。近代都市計画の理念、制度、事業手法、技術は、日本では一九三〇年代にほぼ確立しており、新京における実践においてそれが明らかに出来るというのである。新京の都市計画については、越沢の作業によっても明かでないことも多い。ただ、理念の実現という観点からみて、その計画の意義が全体として評価されるのである。

 理念をある程度「理想的に」実現させたものは、植民地という体制である。強力な植民地権力の存在があって、初めて、理念の実現が可能となった。都市計画は、その本質において、あるいはその背後に、強力な権力の存在を必要とするのである。植民地の場合、その都市計画の目的ははっきりしている。先の都市計画法も、それぞれ似ているけれども、日本の都市計画法とは全く異なる。その目的とするのは植民地支配のための「市街地や農地の創設と改良」であって、公共の福利や生活空間の創造ではないのである。また、様々な規定の強制力は比較にならないものであった。土地の収用権は、台湾でも朝鮮でも総督が握っていた。区画整理事業にしても強制施行がほとんどである。

 植民地期の都市計画の実験を理想化することは、こうして、都市計画に付随する暴力的側面を覆い隠すことにおいて一方的である。しかし、都市計画の理念の実現に強力なリーダーシップが必要であること、私権を制限する強力な強制力が必要であること、都市計画が国家権力と不可避的に結びつくものであることを確認する上で、植民地における都市計画を振り返っておくことは無駄ではないであろう。

 日本の場合、象徴的なのは後藤新平*であろう。近代日本の都市計画の生みの親とも言われ、東京市長として帝都復興計画を実現しようとした後藤新平にとって、一方で、「機関銃でパリの街を櫛削る」といわれたオースマンが理想であった。しかし、植民地台湾、植民地満州における経験もまた決定的であった。都市計画のひとつの理想をそこで見たに違いないのである。後藤新平はいささかスケールが小さいかも知れない。結局は、帝都復興計画は挫折するのである。


 5-7 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェ*はパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン*、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。」と書いた。その建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。それを支えるのは素朴な理想主義といっていいが、その理念はすぐさま唯一特権的な存在に結びつく。「世界建築家」を自認し、実践しようとしたのがヒトラーなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエン*であり、フーリエ*であり、サンシモン*であり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていない。


  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 都市計画の起源というとヒッポダモス*風の都市計画がまず挙げられる。このグリッド・パターンの都市計画は古今東西実に広範にみることができるのであるが、知られるようにギリシャ・ローマの都市計画には別の伝統がある。E.J.オーエンズによれば(註13)、都市を壮麗化し大規模な景観のなかに都市を構想するペルガモンに行きつく流れである。一方がグリッドという形で部分と全体に予め枠組みを与えるのに対して、他方は、自然の地形や景観を前提として、都市全体を記念碑化しようとする。もちろん、単純ではない。植民都市における実験としてヒッポダモス風都市計画が実践される場合、絶えず、危険性があった。都市の立地によっては、大規模な造成が必要となるからである(註14)。

 全体を予め想定した都市計画の伝統として、宇宙論的な都市の系譜がある。都市を宇宙の反映として考える伝統である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとするのが、例えば、中国や日本、朝鮮の都城であり、インドのヒンドゥー都市である。しかし、そうした理念型がそのまま実現されることはまずない。また、理念型に基づいて計画されても、大きく変容して行くのが常である。平安京や長安の変遷をみてもそれは明かであろう。

 王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市、すなわち都城について、その都城を支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係をグローバルに見てみると、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。また、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ないのである。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していくし、理念型と生きられた都市は常に重層的なのである。

 もうひとつの都市計画の伝統を想起しておく必要がある。イスラーム都市の伝統である。イスラーム都市は迷路のような細かい街路が特徴的である。直線的ヴィスタはなく、全く幾何学的で、アモルフである。しかし、都市構成の原理がないかというと決してそうではない。全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成されるそんな原理がイスラーム都市にはある。極めて単純化していうと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法である。都市計画に関しては、道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積がイスラーム法にあるのである。もちろん、モスクやバザール(市場)など公共施設の配置や城壁の計画といった次元の都市計画はなされるのであるが、街区レヴェルを構成していく場合に予め全体像は必ずしも必要とされないのである。

 このイスラームにおける都市計画の原理はタウンアーキテクト制の構想において大いに参考になる。ディテールのルールの集積という、下からの発想に加えて、ワクフ(寄進)制度がある。篤志家が寄付するワクフによって公共施設が整備される。まちづくり基金の構想に活かせるだろう。とにかく、コミュニティ・ベースのまちづくりへのヒントがイスラーム都市には豊富にあるのである。

 以上のような前近代におけるいくつかの都市計画の伝統から示唆されることは何か。少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まない限り、あらゆる都市計画理論は無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。




註1 拙稿 、「初期住宅問題と建築家」 、『群居』創刊号、一九八三年四月。

註2稲垣栄三の『日本の近代建築』(上)(下)(SD選書、一九七九年)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

註3 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註4 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註5 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註6 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註7  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註8 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註9 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註10 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註11 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註12 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註13 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註14 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月

 

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