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2021年10月21日木曜日

磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)

 磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)

磯崎新 『建築の解体』、美術出版社、東京、1975

Sin Arata Isozaki: “Destruction of Architecture”1975

 磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)


 布野修司

Dr. Shuji Funo

  Department of Architecture and Environmental Design
  Faculty of engineering
  Kyoto University

 

 「建築の解体」というラディカルな響きをもつこの書物が出版されたのは1975年であるが、『美術手帖Bijutu Techou: Adversaria(or Notebook) on Art』という月刊誌monthly magazineに連載が開始されたのは60年代末のことである。前著『空間へ』が1968年までの論考を収めており、従って、本書は、それ以降1975年までの論考を収めた第二の著作となる。

 内容は大きく二つに分けられる。

 前半は、ハンス・ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、クリストファー・アレグザンダー、ロバート・ヴェンチューリ、スーパースタジオ/アーキズームについて、その仕事を紹介するものだ。磯崎のライバルと言っていい、あるいは、彼が関心を抱く、いずれも1930年代生まれの、ほぼ同世代の作家、グループ、が選ばれている。

 そして、後半は、《建築の解体》症候群(シンドローム)と題され、前半を総括する部分である。アパシー、アイリアン、アドホック、アンビギュイティ、アブセンス(あとがき)といういずれもアルファベットのaで始まる言葉が節の名前headingに掲げられている。

 この『建築の解体』は、当時の建築学生にとって教科書のような本であった。世界の若い建築家についての情報が新鮮で、僕も貪るように読んだ。

 磯崎がいう「建築の解体」には、二重の解体が含まれていた。ひとつは「建築」そのものの解体であり、もうひとつは「近代建築」の理念や方法の解体である。「建築」そのものの解体とは、一言で言えば、建築が一個の商品となり耐久消費財になっていくことをいう。建築は永遠のものでは最早あり得ず、どんどん新陳代謝していくものとなりつつある。メタボリズムの主張がまさにそうであった。建築は土地や場所との関係を失い、工場で生産され、ただ組み立てられるものとなる。日本では1960年代の10年で、住宅総生産の約一割は住宅メーカーによって供給されるプレファブ住宅になった。住宅は、買うものであって、建てるものではなくなるのである。

 しかし、磯崎の関心は「建築」そのものの解体へは向かわない。すなわち、建築の生産システムの全体については結局予め放棄されていたように思える。前著である『空間へ』で悟ったように、社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。

磯崎がこの本で専ら考えたのは、従って、「近代建築」の解体である。「近代建築」、すなわち「近代建築」批判は、60年代から70年代にかけての若い建築家たちの共通のテーマであった。

そして、その答えは、「革命はとっくに終わっている」(C.アレグザンダー)であった。そして、「主題の不在」ということであった。

例えば、磯崎は次のように言う。

「近代建築が疑うべくもない究極的な主題に設定したテクノロジーが、かならずしもその絶対性を維持できなくなったというべきか。主題が消えてしまったのだ。目的的な空間をテクノロジーを駆使して実現するという、明快でリアリスティックな思考のプロセスが疑問視され始めた。」

「主題の不在」という主題を確認した磯崎は、ポスト・モダンの旗手として、日本のみならず世界の建築家たちをリードしていくことになるが、彼が専ら手掛かりとしたのは形態操作の手法である。一種のフォルマリズムといっていい。自ら感性に適う建築言語が古今東西から寄せ集められ組み立てられていった。分裂症的折衷主義とその手法を名づけたこともある。要するにテクノロジーの論理を廃し、全く、自立した平面に建築の世界を仮に設定し、様々な建築的断片を自在に操って見せたのである。

かくして「建築の解体」が実行され、ポスト・モダン建築の跋扈(ばっこ、蔓延ること)があり、磯崎はひとりそれを抜け出す(他の建築家を差異化する)ために「大文字の建築Architecture with capitol A」という概念に辿り着くのである。

 


磯崎新 『空間へ』、美術出版社、東京、1971

Sin Arata Isozaki: “Towards Space”1971 

布野修司

Dr. Shuji Funo

  Department of Architecture and Environmental Design
  Faculty of engineering
  Kyoto University

 

コルビュジェの『建築を目指して』を想起させるかのような、「空間へ」と題された本書は、磯崎新の処女論文集である。1960年に書かれた「現代都市における建築の概念」から、1968年の「きみの母を犯し、父を刺せ」まで、1960年代に磯崎が書いたほとんど全ての原稿が年代順に並べられている。

1931年生まれの磯崎新の30歳代は、そのまま1960年代に重なる。1960年代は日本建築の「黄金時代」である。丹下健三の「東京計画1960」、菊竹清訓の「海上都市」「搭状都市」など、日本の建築家たちが盛んに都市プロジェクトを提案したのが1960年前後である。磯崎新も「空中都市」というプロジェクトを提案している。1960年にはまた「世界デザイン会議」が東京で開かれた。その時に結成されたメタボリズム・グループである。建築評論家の川添登に率いられた、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、大高正人たちは、丹下健三に続いて、1960年代を通じて、国際的な建築家となっていく。東京オリンピックが開かれたのが1964年、同じ年、新幹線が開業している。1970年には「未来都市」を唄う大阪万国博Expo70が開かれた。日本の1960年代は、高度成長の10年であり、未曾有の建設の時代であった。

この時代、磯崎新は、東京大学の丹下健三のもとにあって、その活躍の中心にいた。既に、大分図書館によって日本建築学会賞を受賞し、建築家としてのデビューを飾っていたものの、その仕事の中心は丹下研究室の活動に置かれていた。スコピエの計画(1967年)に続いて、1960年代の後半は、大阪万国博の会場設計に没頭していたのである。

『空間へ』が出版されたのは大阪万国博が終了した直後のことである。彼は、大阪万国博の仕事に心身ともに疲労困憊し寝込んだことを告白している。また、1968年の世界的な大学叛乱が彼に大きなインパクトを与えたことを繰り返し述べている。今日に至るまで、磯崎は折に触れて1968年について語るのであるが、社会的なラディカリズムとアートとしての建築表現の間の裂け目を見たのであった。この『空間へ』は、その直前までの思考の過程を示している。そして、そこには磯崎新の原点をみることができる。

巻頭の「都市破壊業KK(株式会社)」は、痛烈な現代都市批判である。その背後で、都市計画や都市デザインの必要をナイーブに訴えている。あまり知られていないかもしれないけれど、日本で最初に都市デザイナーを名乗ったのは磯崎なのである。そして、意外かもしれないが、『空間へ』に納められたかなりの論考は都市論、都市デザイン論なのである。都市と建築の関係を根源的に考えることが磯崎の出発点に置かれているのである。

全体像を提示することより、プロセスの計画こそが本質であるとする「プロセス・プランニング論」、都市計画の手法を見事に分析し、シンボル配置論の次元を提示した「都市デザインの方法」、さらに、虚像と記号が支配する現代都市の本質を読み解いた「見えない都市」は、今日読んでも鋭い。また、日本の都市空間の特性を明らかにした「日本の都市空間」は現在では古典といってもいい。

しかし、磯崎は『空間へ』を書いてまもなく「都市からの撤退」を宣言することになる。メタボリズム・グループとは意識的に距離を置いていることを書いている。社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。「建築の解体」が当面の彼の目標となるのである。

1990年代に至って、磯崎は突如中国で「海市」という都市プロジェクトを提案する。再び「都市へ」と向かうかどうかはわからない。しかし、「プロセス・プランニング論」「都市デザインの方法」が決して揺らいではいないようにも思える。いずれにせよ、磯崎が建築と都市との根源的関係を考え続けてきたことは確かであり、そうした意味でも『空間へ』は彼の原点なのである。










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