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2021年10月1日金曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能  第4章 アーキテクトの社会基盤

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能


 第4章 アーキテクトの社会基盤


 4-1 日本の「建築家」

 日本で「建築家」というと一般にどんなイメージをもたれているのか。知っている「建築家」を挙げて下さいというとどんな名前が挙がるであろうか。ひと昔前なら、丹下健三*1あるいは清家清*2、ちょっと前なら黒川紀章*3、今なら安藤忠雄*4であろうか。建築界で著名な磯崎新*5や原広司*6、伊東豊雄*や石山修武*でも一般的にはどうか。驚くほど知られていないのではないか。

 古くは原田康子の『挽歌』*7、近くは渡辺淳一の『ひとひらの雪』*8のようにやたら格好いい「建築家」のイメージが流布されるが、実態はいささか薄ら寒い。日本にそんな格好いい「建築家」は果たしているのか。そもそも日本の「建築家」とは何か。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」*「二級建築士」*「木造建築士」*を合わせると八八万人ぐらいになる*9(○表)。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する(表)。「建築士事務所」ということになると、「一級」「二級」「木造」合わせて、一三万社ぐらいになる*10。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体には「日本建築士会」(連合会)*11「全日本建築士会」*12があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*13、「日本建築協会」*14がある。また、「日本建築事務所協会」*15がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないが、所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何かについて、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいえる。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)*である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、「日本建築学会賞」などいくつかの顕彰制度*○が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「施主(クライアント)」であり「建設業者」なのである。


 4-2 デミウルゴス

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*16。アンブローズ・ビアス*17の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*18などと皮肉たっぷりである。

 決まって引かれるのが、現存最古の建築書、ヴィトルヴィウス*19の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられている。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル*王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*20によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*21がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 「建築家」の原像としてしばしば召喚されるのがデミウルゴス*である。デミウルゴスを登場させたのはプラトンだ。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*22

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*23の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*24

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指し、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。ここではオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*25。

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入している。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*26、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として「理想都市」を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しとしての自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*27がいい例だ。かって、「建築家はファシストか」と喝破した文芸評論家がいたけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。


 4-3 アーキテクトの誕生

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*28という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*29。

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*30(一五七三ー一六五二年)ではなくてジョン・シュートである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*31、アルベルティ*32、セルリオ*33を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、シュートの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー*が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソン*などの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

  イニゴー・ジョーンズは、知られるようにもともと仮面劇のデザイナーである。王室の知遇を得てジェームズ一世*のキングス・サーヴェイヤーになる。その結果、グリニッジのクイーンズ・ハウスやコベント・ガーデンのセント・ポール教会など多くの建築を手掛けることになるのであった。このサーヴェイヤーとは何か。アーキテクトとどう違うのか。

 日本語では、監督、調査士、測量士、鑑定士、検査官などと様々に訳される。クオンティティ・サーヴェイヤーというと積算士のことである。家屋調査士、不動産鑑定士、測量技師、積算士、現場監督いずれも建築の実務に関わる。サーヴェイ(測定、調査)することはアーキテクトの重要な仕事である。キングス・サーヴェイヤーとは王室の普請に関わる一切を統括した職能である。当時、現場を指揮したのはマスター・メイソン、石工の親方である。木造主体の日本で言えば大工の親方、棟梁だ。それに対してサーヴェイヤーは新たな職能として登場してくる。キングス・サーヴェイヤーとは王室付き建築家、営繕主任といったところか。幕府で言えば、作事方、普請奉行である。しかし、こうした類推は誤解の元である。イニゴー・ジョーンズには、ジョン・シュートが理想化するようなイタリア・ルネサンスのアーキテクトの理念がある。

 イニゴー・ジョーンズに続くのがクリストファー・レン*34(一六三二~一七二三年)だ。ロンドン大火(一六六六年)後の再建計画で知られる。また、セントポール大聖堂*の設計者である。彼はもともと天文学者だった。経緯があってチャールズ二世のキングス・サーヴェイヤーに任命される。英国の最初のアーキテクトたちが王室と関係をもっていたことは重要である。

 一七世紀から一八世紀にかけて、パラディオニズム*の流行とともにアーキテクトが育ってくる。そうしたアーキテクトがどのような社会的基盤をもって登場してきたかはフランク・ジェンキンスの『建築家とパトロン』*35に詳しい。ウイリアム・ケント(一六八五~一七四八年)、トーマス・アーチャー(一六六八~一七四三年)、ジェイムズ・ギッブス(一六八二~一七五四年)、ロバート・アダムズ(一七二八~一七九二年)、ジョージ・ダンス・ヤンガー(一七四一~一八二五年)、ジョン・ソーン(一七五三~一八三七年)といった今日その名を知られる建築家に共通するのは、イタリアをはじめとする海外での経験である。それを可能にするパトロン、あるいは資産家の出であることはひとつの前提であった。

 ジェンキンスは、建築家の出自について、イニゴー・ジョーンズやウイリアム・ケントなど芸術家、レンに代表される科学者、ジェントルマン、工匠、徒弟の五つのグループを区別している。ジェントルマンには海外経験の多い軍人、大学卒の資産家などが含まれる。植民地は有能なサーヴェイヤーを必要としていた。徒弟とはアーキテクトのもとで修行をつんだものをいう。すなわち、ジョン・シュートが理念化するようなアーキテクトであるかどうかは別として、様々な層からアーキテクトなるものが生まれ、社会的(パトロン)に支えられ仕事を始め出すのである。

 

 4-4 分裂する「建築家」像

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者であり、そしてそれらを合わせた何者かである「アーキテクト」なるプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

  ジョージ・ダンス Jr.*36、ヘンリー・ホランド等によって「アーキテクト・クラブ」が設立されたのは一七九一年のことだ。W.チェンバース*37、R.アダムズは後に加わるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。また、ロイヤル・アカデミー・スクールでゴールドメダルを獲得したものに入会資格は限定されていた。ロイヤル・アカデミーは、チェンバースの発案で一七六八年に設立されている。「アーキテクト・クラブ」は、一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。そもそも差別化の論理で団体が結成されているのである。

 このあたりは、瀬口哲夫の『英国建築事情』*38によくまとめられている。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な工匠の区別が行われる。アーキテクトを任じる側が、工匠、職人と同列に扱われることを疎ましく思い始めるのである。この思い上がりは今日も続いている。アーキテクトはえらい!、のである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。キングス・サーヴェイヤーはアーキテクトであってただのサーヴェイヤーとは違う。そして、アーキテクトはサーヴェイヤーより上だという意識が生まれるのである。瀬口は、当時の『一般建築独案内』が「アーキテクトたるに十分な実力のないものをサーヴェイヤーと見なし、このどちらにもなりえないものをクオンティティ・サーヴェイヤーと称すればよい」と書いている事実を紹介する。また、「建築の専門家になる制限をもうけ、その目的に合致しない限り、その名称を許さない」、という考えがあった。名称独占、業務独占というわかりやすい意図である。サーヴェイヤーも対抗する。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは「アーキテクト・クラブ」が設立された翌年(一七九二年)であった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

 それではアーキテクトの資格、能力は何によって担保されるのか。いうまでもなく、それを保証するのは諸制度である。アーキテクトの教育、登録、団体が問題になる。「アーキテクト・クラブ」の設立もそうだ。彼等はダイニング・クラブで設計報酬の取り決めを議論のネタにしていたのである。もちろん、「ロイヤル・アカデミー」といった権威も必要である。いわゆるアーキテクのトが誕生し、増えて行くと、すなわち社会的に認知されると、弟子入り希望も増えてくる。また、建築の設計というのはその本質において集団作業を必要とする。すると弟子入り修業をしたなかからもアーキテクトが生まれてくる。一八世紀後半には、そうした徒弟的修業を経て独立するケースが一般的になったようだ。弟子入りに当たっては謝礼を師匠に払う形がとられた。一九世紀前半には、徒弟制を生活の糧にするアーキテクトも現れる。こうなると私塾である。修業年限は大体五年が一般的であった。今日UIA(国際建築家連合)が建築家の資格取得のための教育年限を五年とするのは一八世紀の経験がもとになっている。我国の四年制の大学制度は合わない。大問題である。

 徒弟修業の一方、建築教育機関が生まれる。一七二〇年にはセント・マーチンズ・レイン・アカデミーという製図学校が開設されている。昼はアーキテクトのもとで働き、夜は製図学校に通う形であった。ロイヤル・アカデミーは設立の翌年にはアカデミー・スクールを始める(一七六九年)。英国最初の建築教育機関である。初代建築教授は、チェンバース、二代がジョージ・ダンス・ヤンガー、三代がソーンだ。アカデミー・スクールといっても年六回の講義で、しかも夜間である。オーソリティによる連続特別講演会といったところであろうか。

 カレッジでの建築教育は、キングス・カレッジで始められ(一八四〇年)、ロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジが続いている(一八四一年)。両者は一九一三年に一本化され、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジのバートレット・スクール*に統合されている。AAスクール(アーキテクチュアル・アソシエーション)*が設立されたのは一八四七年のことである。建築家が徹底した建築家教育を行う今日のAAスクールからは想像しにくいが、設立の母胎はドラフトマン(製図工)組合である。

 建築教育育機関がアーキテクトの裾野を広げると同時にその職能の内容を規定していく中で、アーキテクトの差別化、序列化が振興していく。瀬口は、アーキテクトの社会的地位のひとつの指標としてナイトの称号を得たアーキテクトを数え上げていて興味深い。ナイト第一号のアーキテクトはクリストファー・レンである。ナイトになるとサーの称号が許される。サー・ロバート・テーラー(一七一四~八八年)、サー・ウイリアム・チェンバース、サー・ジョン・ソーン、サー・ロバート・スマーク(一七八一~一八六七年)、サー・ジョージ・スコット(一八一一年~七八年)らがレンに続く。日本で言えば、文化勲章、文化功労賞を受賞した建築家、芸術院会員になった建築家を数え上げる感じであろうか。サー・エドウイン・ラッチェンス*やサー・ロバートベーカー*などインドや南アフリカなど植民地で活躍したアーキテクトも爵位を得ている。

 ナイトの称号を得、社会的にも認知されるアーキテクトを支える母胎となるのがRIBAである。一八三四年に結成されて、三年後にウイリアム四世続いてビクトリア女王からロイヤル・チャーター(勅許)を授けられた。このロイヤル・チャータード(王室に認知された)というのが彼我の建築家団体の分かれ目である。王立ではないが王室がその職能を認知するという形がとられるのである。英国建築協会(IBA)結成の翌年に設立されたサーヴェイヤー協会もロイヤル・チャーターを受けている(RICS(ロイヤル・インスティテュート・チャータード・サーヴェイヤー))。また、都市計画家の団体もロイヤル・チャータードである(RTPI(ロイヤル・タウン・プランニング・インスティテュート))。しかし、構造家の団体(ISE)、積算士の団体(IQS)、造園家の団体(LI)などはロイヤル・チャーターされていない。日本とは相当異なる。英国にアーキテクトは自らを特権化することに成功するのである。

  同じ分離は、シビル・エンジニア(土木工学者)とアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築家協会」(IBA)の設立からであり、さらにロイヤル・チャーターされてからである。


 4-5 RIBA

  造家学会、日本建築士会がモデルとしたのはRIBA(王立英国建築家協会)あるいはAIA(米国建築家協会)であった。一体RIBAとは何か。

 RIBAは一八三四年に設立された。造家学会に先立つこと五二年、日本建築士会に先立つこと八〇年である。わずか半世紀ほどの違いのように思えるが、以上のように歴史と背景を相当異にする。

 RIBAの設立目的は、しかし、簡潔かつわかりやすい。

 ①市民建築(シビル・アーキテクチャー)の全般的な発展・振興をはかる。

 ②建築に関連する人文科学と自然科学の知識の獲得を促進する。建築は市民の日常生活の利便性を向上させるものであるとともに都市の改善や美化にも大いに貢献するものである。したがって、文明国において建築は芸術として尊重されかつ奨励されるものである

 ここで、「文明国」や「芸術」より、建築が「シビル・アーキテクチャー(市民建築)」とされていること、「都市の改善」や「美化」に関連づけられていることに留意しておこう。タウンアーキテクトの根拠もここに求めうる。

 RIBAは、その権威を担保するためにロイヤル・ゴールド・メダルの設置(一八四八年)し、ディプロマなど各種証明を出す権利などなどいくつかの権限を確保する。追加勅許という形でその権限を獲得していく。すなわち、常に王室との関係を軸にしながらその公共団体としての性格と地位を維持していくのである。その活動を支える基盤は日本の建築学会や日本建築士会とは相当隔たりがあると言わざるを得ない。

 RIBAの活動は多岐にわたるが、その主要なものは以下のようだ。コミュニティー・アーキテクトの派遣という活動もきちんと位置づけられている。

 ①アーキテクト資格試験の実施

 ②アーキテクトの専門的再教育

 ③各種建築賞など顕彰制度

 ④図書館の運営 設計図面のコレクション

 ⑤アーキテクトに対する技術的データなど各種情報提供

 ⑥顧客相談サーヴィス

 ⑦コミュニティ・プロジェクトの実施 コミュニティ・アーキテクトの派遣、支援

 ⑧アーキテクト任用のための契約上の枠組み設定

 ⑨アーキテクトの倫理規定の制定

 ⑩各種イヴェントの実施

 こうあげると、我が国の建築関連諸団体も同じ様な活動を展開しているようにも思える。しかし、RIBAを中心とする英国のシステムと日本の仕組みの違いは千里の径庭がある。建築士の資格は、「建築技術教育普及センター」、各種基準は「日本建築学会」、建築士の集まりは「建築士会」、建築士事務所の集まりは「建築士事務所協会」、そして、「建築家」を理念化する「日本建築家協会」という複合的関係を建設省が中央でコントロールする体制が日本である。

 RIBAを中心とする英国の建築システム、アーキテクト資格、登録法、建築教育、アーキテクトの任用制度、アーキテクトの職能倫理等々については、これまで度々引用してきた瀬口哲夫の『英国建築事情上・下』が詳しい。単に制度を紹介するのではなく、実状に迫ろうとする労作である。RIBAの取組から多くのことを学ぶことが出来る。

 しかし、RIBAの理念や規約、組織形態を単に翻訳してもはじまらない。一世紀を超えた日本の建築の歴史がそれを示している。

 

 4-6 建築家の資格

  建築家とは何か、と真正面から問うと、ヴィトルヴィウス流の理念が反復される。しかし、世界各国で現実の形態は様々である。各国、各地域の建築家の社会的基盤をめぐる比較文化論は興味深いところだ。それぞれに建築をつくる仕組みがあり、建築家の役割や社会的地位も異なるのである。

 それはそうとして、建築家が国境を超えるとするとどうなるか。建築の先進地域としてルネサンス・イタリアがあり、そこで修業すること、少なくともイタリアの建築を見聞することが草創期の英国のアーキテクトの条件であった。RIBAの会員であったJ.コンドルによって英国流のアーキテクトの概念をもとに出発したのが我が国の建築家(建築士)である。いきなり時代は飛んで、現在グローバリゼーションの流れの中で、建築家の国際資格が問題になりつつある。

 大きなきっかけはEC(欧州共同体)の統合、EU(ユーロピアン・ユニオン)の出現である。既に市場統合がなされ(一九九三年一月)、共通通貨ユーロが使用に先立って為替市場で売買され始めている(一九九八年一月)。

 市場統合にあたって前提されるのが、人、物、資本、サーヴィスの自由移動である。国境における出入国管理、検問、関税など自由化の障壁になる諸制度は一九八五年の「域内市場白書」によって青写真が描かれ徐々に撤廃されてきた。そして、アーキテクトの資格は、弁護士、医者などとともに人の自由移動に関わり、サーヴィスの自由化の前提として共通化が計られることになったのである。 

 EC委員会においてアーキテクトの資格共通化の方針が出されたのは一九六七年のことである。当時の加盟国は、結成時(一九五七年)のベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの六ヶ国。その後、英国、アイルランド、デンマーク(七三年)、ギリシャ(八一年)、スペイン、ポルトガル(八六年)が加盟して現在一二ヶ国になるが、最終的な指令が採択されるのは八五年である。ヨーロッパでも諸制度の調整に二〇年近くも要した。いかに建築家の社会的基盤が異なっているかの証左である。建築家の資格をはじめ、建築に関わる諸制度がまちまちなのは、建築の生産が基本的にローカルであることの反映でもある。

 まず問題となったのは、建築教育の年限である。五年が支配的だが六年(スペイン)もある。しかし、オランダは四年だ。結局EC指令は四年とされたが、将来的には五年が勧告される。例外はドイツの高等専門学校の三年で、実務経験を加えるというのが条件となった。

 アーキテクトの資格に実務経験を含めるかどうかも問題となった。ドイツ、ベルギー、イギリスのように二~三年の実務経験を強制する国もあるが、大半は必ずしも実務経験を課していない。日本のように実務経験といってもその内容を問わない国もある。

 アーキテクトの中にシビル・エンジニアを含めるかどうかも問題となった。イタリア、ギリシャなどでは区別されていないのである。英国では、シビル・エンジニアとアーキテクトは歴史的な過程を経て分離していが、そのモデルとなったイタリアでは分化していないのである。イタリアにカルトラバ*のような構造デザイナーが育つ土壌があることがよくわかる。一方、フランスではシビル・エンジニアはアーキテクトの仕事はできない。

 資格試験や登録制度の有無、アーキテクトの仕事の範囲や業務独占に関わる規程など実に多様である。そこで結局、ECはアーキテクトの資格の相互認定ではなく建築教育に関わる卒業資格の相互認定を行うことになる。年限は全日制で最低四年。内容的には、建築設計の全般に関わって大学の学位が水準とされた。

 英国の場合、アーキテクトの登録資格が完全に対応する。すなわち、英国アーキテクト登録カウンシル(ARC)の認定を受けた、大学、ポリテクニーク、カレッジ等の建築教育機関およびRIBAの試験に合格したものは相互認知の認定の対象になる。フランスの場合は、アーキテクトの登録制はあるが、相互認定の対象になるのは基本的には二四の大学の建築学部の卒業資格である*39。イタリアは、建築の学位と国家試験合格が相互認定の条件であるが、他にビルディング・コンストラクションのエンジニアの学位と国家試験合格の条件も認められている。ドイツの高等専門学校については、4年の実務経験の証明書をつけることが条件となる。

 米国の場合、建築、建築家に関わる制度については各州に権限がある。全米建築家登録委員会(NCARB)*が全米共通の建築家登録試験(ARE)をするなど一方で統一化は進められているが、各州独自の法、仕組みがある。例えば、カリフォルニア州では、AREの他に、州独自の耐震設計、障害者対策、省エネルギー規定などに関わる面接試験が実施される。カイフォルニア州では建築の学位あるいはアーキテクトの直接監督下で六〇ヶ月の実務経験が受験資格とされるが、ニューヨーク州の場合、建築の学位プラス三年以上の実務経験が必要である。業務資格について個人しか認めない州と協同方式など組織を認める州がある。組織の代表者については様々な条件が設けられる。また、業務制限が行われる州と「アーキテクト」という称号制限のみ規定する州がある。そこでEUと同じように各州間の相互認定の問題が生じる。受験資格の最低年齢、必要実務期間などが取り決められる。

 米国では大学の建築学部の設置は、米国建築教育審議会(NAAB:ナショナル・アーキテクチュラル・アクレディテーション・ボード)が行う。文部省など中央官庁によって設置が認可されるのではなく、自主的な基準と審査期間によって認定する(アクレディテーション)方式*が定着している。NAABは、建築学性の組織(AIAS)、建築教員の組織(ACSA)、全米建築家協会(AIA)*、そしてNCARBの代表により構成されている。この点にも大きな彼我の違いがある。

 米国においては、エンジニアとアーキテクトの職能ははっきり分けられ、専門技術者(プロフェッショナル・エンジニア)の登録制度がある。基本的に各州独自の制度をもっているが、全米技術者・測量士試験委員会(NCEES)による共通試験などかなり統一化が進んでいる。その母胎になるのが、建築、土木に限らず、他の工学分野を含んで、全米専門技術者協会(NSPE)が組織されている。

 こうして、欧米の建築、建築家をめぐる諸制度は、当初それを移入しようとしたにも関わらず、日本のそれとは相当異なる。そうした中で日本の建設市場の閉鎖性が指摘され、建築家の資格などが非関税障壁として非難される。日本は、建築の分野でも世界貿易機構(WTO)*に対応せざるを得ないのである。

 一九八五年のEC指令を受けて、各国で様々な対応がなされてきた。これまでなかったなかったアーキテクト登録法がつくられた国(オランダ)もあれば、教育年限を変更する国もある。各国の対応をまってさらに見直しが予定されるが、ECに設けられた諮問委員会は、建築教育期間五年、実務経験二年の方針を既に出している。

 日本社会の閉鎖性が様々な局面で問われる中で、建築、建築家のあり方も問われつつある。それではEC指令に照らすとき日本の建築家資格、建築教育の内容はどうか。

 建築教育四年というのはかっての教養課程(一.五年~二年)が自由化され形式的には問題なさそうであるが、その実態はどうか。特に五年の勧告に従うとなると、大学院を加えて対応する必要がある。そして、仮に大学院を前提にするにしても、教育内容はどうか。見るところ、建築家教育に程遠い現状がある。

 EC諮問委員会の推奨する実務経験も大きな問題である。日本の場合、実務経験を条件とするけれど自己申告制で内容が問われないのである。

 EUあるいは米国流の諸制度が共通基準とされれば、日本の建築界のパニックは必定である。西欧の諸制度をモデルとする立場にとっては、外圧は追い風である。それに対して、建築は固有の文化に関わる、本来ローカルなものだという、かねてよりの立場もある。日本はどの方向を選択するのか。

 日本にとって気になるのは、韓国、中国の動向である。

 韓国の建築士制度は一九六三年の「建築士法」に基づく。建設交通部長官が実施する建築士資格試験によって資格が得られる。以前は日本同様一級、二級の二つの等級を設けていたが一九七七年の改正以降「建築士」に一本化されている。建築士の数は約八千人(一九九四年)である。人口に比して極めて少ない。社会的地位は高いとみていい。「建築士」とは別に、その前提となる資格に「国家技術資格法」に基づく技術士、技士一級、技士二級がある。専門大学を卒業すると技士二級、四年生大学を卒業すると技士一級の受験資格が得られる。そして技士一級取得後七年の実務経験を経ると技術士の受験資格が得られる。

 「建築士」の受験資格は、建築士予備試験の合格者の他技術士資格と関連して以下のような場合がある。すなわち、建築分野技士一級取得後七年以上建築の実務経験を有する者、建築分野技術士取得者、建築分野技士一級取得後五年以上建築士補として勤務した者、外国の建築士等資格を取得した後通算五年以上建築の実務経験のある者である。

 建築士予備試験がの科目は、建築構造、建築施工、建築計画、建築士資格試験の科目は、建築法規と建築設計である。大学卒業後、試験のみで資格を得る道もあるが資格取得者の数を見ると極めて難しいことがわかる。日本に比べると実務経験が重視されており、厳しく階層化されているといえる。

 一九四九年の中華人民共和国建国以降の中国の場合、相当事情が異なる。一九八五年までは、技術職名制度が採られていた。すなわち、エンジニアについては、高級工程師、工程師、助理工程師、技術員、設計技術者については、高級建築師、建築師、助理建築師、技術員のそれぞれ四段階の職位が区別されていただけである。

 八五年に専門技術職務の認定制度が導入され、専門技術師の招聘制度が採られる。技術員は、大学専科または中等専門学校卒業後見習い一年、考査に合格、助理建築師は、修士または第二の学士を取得、考査に合格/学士または大学本科卒業、見習い一年、考査に合格/中等専門学校卒業、技術員四年、建築師は、博士取得、考査に合格/修士または第二の学士を取得、助理建築師二年/学士または大学本科卒業、助理建築師四年、高級建築師は、博士取得、建築師二年/大学本科卒、建築師五年というのが資格条件である。

 ところが、中国は新しい建築師制度の導入に踏み切る。一九九四年十月、遼寧省沈陽市で建築師登録試験を試行するに至るのである。試験の現場には全米建築家登録委員会(NCARB)、王立英国建築家協会(RIBA)、香港王立建築家協会の関係者が立ち会った。モデルになったのは米国の建築家登録試験である。中国は、米国、英国などとの間での建築家資格の相互承認を睨んで、建築師制度の整備を行うことを決定するのである。一九九四年に国際建築家連盟(UIA)に職能基準委員会がつくられ、一九九九年六月の第二一回北京大会で国際的標準案が通過することになった*。

 さながら、中国,EU、米国による日本包囲網である。二一世紀を眼前に迎えて、日本の建築士制度は果たしてどうあるべきか。


 4-7 建築家の団体

  建築家の社会的基盤をうかがう指標としては、以上のように建築家の資格のあり方、それを認定する機関のあり方、建築家の教育の在り方などがある。そうした諸制度を背景として、建築界には様々な団体が組織される。建築家に関わる各種団体のあり方も各国それぞれである。

 英国の場合、RIBAが中心である。しかし、スコットランドには王立スコットランド建築家協会(RIAS)、北アイルランドには王立アルスター建築家協会(RSUA)がある。英国の歴史が反映しているとみていい。

 RIBAとは別に積算士協会(IQS)*、王立調査士協会(RICS)*、さらに調査技士協会(SST)*がある。建築調査士(ビルディング・サーヴェイヤー)や建築技師(アーキテクチュラル・テクニシャン)は、住宅など小規模な建築の設計に従事している。建築活動に従事するのはいわゆるアーキテクトだけではない。アーキテクトの世界とは別にあるいは競合的に建築活動を行う一群の存在があるのである。

 アーキテクトの資格登録は、上で見たように、英国アーキテクト登録審議会(ARC)によって行われる。ARCはRIBAとは別である。RIBAと同様、建築調査士連合会(IAAS)からもメンバーが送られる。IAASのような団体も英国に存在するのである。さらに、ARCには、自治体技術者協会(IMCE)、技術者協会(SE)、公認調査士協会(CSI)、構造技術者協会(ISE)、建設業協会(IB)からも委員が送られている。

 建築に関わる裾野は広い。英国建築界には英国建築界の構造があるのである。アーキテクトの職能、業務範囲、内容は英国においても必ずしも一定不変ではない。プロジェクト・マネージャー(PM)の出現やデザイン・ビルド(設計施工)の形態の増加など時代の変化に対応することは常に要請されているとみていい。

 ドイツでは、各州の法律に基づき建築家会議所に登録される。地方分権の伝統のある連邦国家の特性を反映している。建築を支えるローカルな特性、構造とグローバルな共通基準の設定の問題はいまどこでも問われている。ドイツもひとつのモデルである。マイスター制度を基礎にした教育システムも偏差値教育に偏した日本とは相当異なる。

 建築家会議所は建築家の会費によって運営されるが、職能団体ではない。職能団体としては、ドイツ建築家協会(BDA)*がある。一九〇三年の設立だから日本建築士会設立に十年ほど先立つ。BDAの会員は、専業アーキテクトに限定される。いわゆるフリー・ランスの建築家である。設計事務所の主宰者は会員になれるが、所員はなれない。設計責任がとれないという理由からである。会社組織の主宰者は条件付きで会員となれるが、個人かパートナーシップで活動する建築家が会員の主体である。より純化、特権化した組織と言えるかもしれない。約八万人の登録建築家のうちBDAの会員は六パーセント(四八〇〇人、一九九四年)を占めるにすぎないのである。

 BDA以外に、ドイツ建設マイスター・建築家・技術者協会(BDB)がある。全ての建築家に門戸を開いた資格者団体である。他に、ドイツ自由建築家協会(VFA)があるが、造園、インテリアなどの分野を含んでいる。建築家会議所と平行して各州に技術者会議所が設けられている。


 4-8 建築学科と職人大学

 この間理工学系部の再編成に伴って、日本中の大学から”建築学科”という学科名が消えていくという事態が続いている。大学院重点化ということで、新しい専攻の名が求められたということもある。やたらに増えているのが、「環境」(「文化」「国際」)という名のつく学科である。”建築学科”という名前が消えていくのは寂しいことではあるが、日本における”建築”を取り巻く環境が大きく変わり、建築界が構造改革せざるを得ないこと、また、それに伴い”建築学科”も変貌せざるを得ないのは当然である。

 成長拡大主義の時代は終わったのであり、建設活動はスローダウンせざるを得ない。農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の二割を超えるまでに至る。”建築学科”は一九六〇年代初頭から定員増を続け、各大学に第二の建設系学科がつくられた。しかし、今や、”建築学科”はさらには必要ない。建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、半減してもおかしくない。”建築学科”の崩壊(定員割れ)と呼びうる現象の背景には、日本の産業構造の大転換がある。

 しかし、”建築学科”の崩壊は、より深いところで進行している。単に量(建設量、建設労働者数、学生数)の問題であるとすれば、淘汰の過程に委ねるしかないだろう。ストック重視となれば、維持管理の分野がウエイトを増してくる。”建築学科”のカリキュラムも見直しが必要となる。しかし、問題はそれ以前にある。「建築家(建築士)」の現場離れの問題が本質的である。現場の空洞化、”職人”世界の崩壊の問題である。さらに、建設技術における専門分化の徹底的な進行の問題がある。建築という総合的な行為があらゆる局面で見失われつつあるのである。

 日本の”建築学””建築学科”は「工学」という枠組みの中で育ってきた。学術、技術、芸術の三位一体をうたう日本建築学会は工学分野ではかなり特異である。しかし、建築の設計という行為が学術、技術、芸術の何れにも関わる総合的な行為であることは洋の東西を問わない。大きな問題は”建築学科”の特質がなかなか一般に理解されないことである。大きく視野を広げれば日本の教育体制の全体が関わっている。いわゆる偏差値社会の編成である。高校、大学への進学率が高まり、ペーパー・テストによって進学と就職が決定される、そんな一元的な社会が出来上がった。建設産業の編成としては、”職人”世界から”建築家(建築士、建築技術者)”世界への流れが決定的になった。学歴社会は、大工棟梁になるより一級建築士になる方がいい、という価値体系に支えられている。結果としてわれわれが直面するのが建設産業の空洞化である。

 一九九〇年一一月二七日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)●という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。建設現場で働く、サイト・スペシャリストの社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関としてSSFは設立された。スローガンは当初から’職人大学の設立’である。主唱者は日綜産業社長小野辰雄*氏。中心になったのは、専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。いずれも有力なサブコンであり、”職人”の育成、待遇改善に極めて意欲的であった。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初から僕はSSFの運動に参加してきた。それからかなりの月日が流れ、その運動は最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学」が開学(二〇〇一年四月予定)されようとしているのである。バブルが弾け「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった。

 SSFの主唱者小野辰雄氏はもともと重量鳶の出身である。その経験から足場メーカーを設立、その「3Mシステム」と呼ばれる支保杭と足場を兼ねる仮設システムを梃子として企業家となった。その活動はドイツ、アメリカ、アジア各地とグローバルである。その小野氏がどうしても我慢がならないことが現場で働く職人が大事にされないことである。当時はバブル経済華やかで職人不足が大きな話題であった。3K(きたない、きつい、給料が安い)職場ということで若者の新規参入がない。後継者不足は深刻であった。そうした中で、職人が尊敬される社会をつくりたい、そのために”職人大学”をつくりたい、というのが小野氏以下SSF参加企業の悲願であった。

 最初話を聞いて大変な何事かが必要だというのが直感であった。そこで藤沢好一、安藤正雄の両先生に加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。この間のSSFの活動はSSFニュースなどにまとめられている。

 議論は密度をあげ、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られない。そこで兎に角何かはじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は佐渡(真野町)での一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで一週間のスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。現場校、地域校、拠点校と職人大学のイメージだけは膨らんでいった。カリキュラムを考える上では、並行して毎夏、岐阜の高根村、加子母村を拠点として展開してきた「木匠塾」*(一九九一年設立 太田邦夫塾長)も大きな力になった。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(一九九六年一月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。

 「産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。」

 ”職人大学”設立はやがて自民党の選挙公約になる。

 その後、めまぐるしい動きを経て、(財団)国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、その設立大会が行われた(一九九六年四月六日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学というのが仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たられることが決まっている。一九九七年にはキャンパス計画のコンペも行われ、用地(埼玉県行田市)もあっという間に決まった。今は、文部省への認可申請への教員構成が練られているところである。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科(機械プロセスコース、機械システムコース、設備メンテナンスコース)と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

①ものづくりに直結する実技教育の重視

②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視

③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視

④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視

⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視

⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

 具体的な教育システムとしては、産業現場での実習(インターンシップ)、在職者の修学、現場のものづくりを重視した教員構成をうたう。

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。

 もちろん、設立される”職人大学”がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。

  何故、文部省認可の大学なのか。”職人”の技能””工芸”を日本の教育システムのなかできちんと評価してほしい、という思いがある。人間の能力は多様であり、偏差値によって輪切りにされる教育体制、社会体制はおかしいのではないか、という問題提起がある。だから、ひとつの大学を設立すれば目標達成というわけにはいかない。実際、続いて各地に”職人大学”を建設する構想も議論されている。

 ただ、数が増えればいいということでもない。問題は”職人大学”がある特権を獲得できるかである。具体的に言えば、”技能””工芸”に関わる資格の特権的確保である。”職人大学”の構想もそうした社会システムと連動しない限り、しっかり根づかないことは容易に予想される。さらに、日本型のマイスター制度*が同時に構想される必要がある。総工事費の何パーセントかを職人養成に当てる、そうした社会システムの実現である。

 

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