裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
裸の建築家-タウンアーキテクト論序説
Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能
第3章 幻の「建築家」像*1
3-1 公取問題
一九七九年九月十九日、公正取引委員会*(橋口収委員長)は、日本建築家協会*(海老原一郎*:会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法*にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする「家協会」は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。
審決主文は、以下のようであった。
「本件審判開始決定に係る被審人の行為は、独占禁止法第8条第1項第4号の規定に違反し、かつ、事業者団体の届出をしていなかった点は、同条第2項の規定に違反するものであるが、現在では、すでに被審人の右同条第1項第4号違反の行為はなくなっており、また、被審人は、同法第2条第2項に規定する事業者団体に該当しなくなっているものと認められるので、被審人に対し、格別の措置を命じない。」
独占禁止法第8条*は、事業者団体の業務の独占を禁じている。
要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定*、建築設計競技規準*中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、「家協会」に対して格別の措置を命じない、というものである。
この公取審決に対する「家協会」の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*2や「公取委の審決を受けて」*3などに窺える。
「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*4というのが、比較的冷めた反応であった。
この審決は、以下に見るように、歴史的には日本建築士会*(一九一四年設立)から日本建築家協会*に引き継がれた「建築家(職能)法」制定運動にとって三度目の敗北であった。そしてもしかすると、最終的な敗北となりうるものである。
一九七〇年代における建築界の「公取問題」とは何か。まずその経緯をみよう。発端は、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」*問題であった。また、東京都の「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」*問題であった。
コンペとはコンペティションcompetitionの略だ。建築物の設計者の選定に当たって複数の設計者で競技を行うことをいう。「公開コンペ」*、「指名コンペ」*、「条件付コンペ」*「プロポーザル・コンペ」*、「二段階コンペ」*、「ヒヤリング」、「アイディア・*コンペ」など各種方式があり、設計者を選定する方法として広く行われている。しかし、そのコンペ方式に様々な問題がある。特に問題視されてきたのが「疑似コンペ」*と「設計入札」*である。
「疑似コンペ」とは、公共建築の設計者選定に当たって、実際は指名設計者が決まっているのに、公平性を装うために行われる指名コンペをいう。また、「設計入札」とは、設計料の入札(多寡)によって公共建築の設計者を選定する制度をいう。「疑似コンペ」は一種の「談合」*である。公平で公正な競争が損なわれるが故に一般的に問題であることは明らかだ。しかし、「設計入札」の問題は一般にはわかりにくい。
「公のお金を使うのだから安い方がいい」というのがひとつの理屈である。いまなお「設計入札」を採用し続ける多くの自治体も、競争原理をその根拠にしている。具体的には、国の場合会計法二九条、市町村の場合自治法二三四条が元になっている。役所が物品を購入する場合には「競争入札」が原則ということである。しかし、サーヴィス行為についてはどうか。建築も建築物だけれど単に物品ということでいいのか。施工については「競争入札」でいいけれど、設計については入札はなじまないのではないか(●設計入札に反対する会)。「安かろう悪かろうでは困る」「公共建築は単なる経済の論理を超えた質を持つ必要がある」「設計の質と内容は設計料の入札によっては担保されない」のであって「あくまで設計図書によって設計案が選定されるべきである」というのが「建築家」の主張である。この裂け目は大きい。そして、「公取問題」はこの裂け目に関わって引き起こされたのであった。
日本建築家協会は、上記二つの問題に関連して会員を処分することになる。「家協会」に属する「建築家」は、「疑似コンペ」「設計入札」に指名されたら通告することが六九年一二月から義務づけられていた。きっかけになったのが「銚子市青少年文化センター」のコンペだ(一九六九年)。当時の日本家協会会長(松田軍平*)は「疑似コンペ」の疑いからコンペの条件について改善の要望書を銚子市長に提出する。そして、指名を受けた会員九名は、コンペの条件が改善されない限り、設計図書を提出しない、という申し合わせを行う。にも関わらず、九名中二名が応募する事態が起こった。その二名を除名するとともに、つくられたのが上の「通告制」である。興味深いことに、この「通告制」が後に独占禁止法に抵触することになる。
「疑似コンペ」にしろ、「設計入札」にしろ、簡単にはなくならない。今日にいたる建築界の大問題だ。それを支える根深い構造が日本の建築界にある。「銚子市青少年文化センター」に続いて、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」問題が起こった(一九七〇~七五年)。経緯はほぼ同じである。「八女市町村会館」の設計に当たって一三社が指名を受けるが、設計競技の条件を不満として、条件が改善されない場合には全員応募しない旨申し合わせがなされる。しかし、その申し合わせに反して四社(会員一社、非会員三社)が応募したため、家協会は会員一社を戒告処分とする。そして、この処分を受けた会員がそれを不服として損害賠償請求訴訟を起こすに至って事は起こる。結局はこの裁判が「公取問題」に火をつけることになるのだ。「八女市町村会館」問題に関わる会員の処分に対して、また平行して起こった「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」問題に絡む処分について、公正取引委員会から突然報告を求められる(一九七二年三月七日)。
この二つの問題は一九七五年三月一五日参議院予算委員会において取り上げられることになった。藤田進参議院議員と高橋俊英公正取引委員会委員長のやりとりは日本建築家協会の「理念」と一般の「建築士」に対する見方の落差を示してわかりやすい。
「建築士協会(建築家協会の誤り)は、その定款を見ましても、きわめてきつい会員統制をしております。・・・今日の建築士協会はそれぞれ営業を主体とする株式会社、従業員は千名に上るもの等々含めて、明らかに事業者団体の連合体になっている。・・・都営高層住宅滝野川団地設計入札ですが、談合して、七社に指名があったわけですが、○○事務所が談合の結果受け取ることになった。従って、第一回入札以来これを最低として逐次自余の六社は入札しておりましたが、第三回目、最後になって最低の談合の価格を忘れましてこれは●●事務所ですね、忘れたために適当にこの辺だろうと思って入札したところ、・・・本番と同じ価格になってしまった。そこで東京都は抽選をするということになった。談合の経緯もあるので抽選は困ると言ったところ、それでは東京都は拒否されれば今後一年間契約発注いたしませんということになって、抽選した結果、談合でない●●事務所に落札決定。で、建築士協会はその結果それはけしからぬと、談合を守らなかったということで、懲戒処分にしておるのですね。
それから九州の八女、この事件も数社でコンペを組んで設計に応じたところうまくいかないで、結論的には■■事務所ここに随意契約で、・・・ところが談合としては、みんな約束してそれに絶対応じまいという申し合わせができたに関わらず■■事務所だけが応じたのはけしからぬ、これまた懲戒処分になった。そうして建築士協会では先般大幅な設計報酬手数料の値上げをしました。これは、絶対に会員は守らなければならない。そうしてご承知のように、・・・工事費が増えている。・・・」
事実関係は藪の中の様相がある。しかし、藤田進参議院議員の主張は極めて明快である。日本建築家協会(一般に建築士協会なるもの)は、設計料率を決めている事業者団体である、また、設計報酬手数料を談合で決めている、だから工事費が高くなる、というのだ。
これに対して日本建築家協会は「建築家は<事業者>ではない」(一九七五年六月一五日)を発表する。「建築は国民生活の文化的側面に深くかかわるものである」「「安いものほどよい」という理論がどのような結果をもたらすか」「報酬規定は建築の質を維持するためのものである」といった論点が骨子である。
直後、日本建築家協会は公取委員会から「警告書」を受ける。「報酬規定」「競技基準」「日本建築家協会憲章」の制定が、独禁法第八条第一項第四号の規定に違反する疑いがあり、遅滞なく独禁法第八条第二項の規定に基づく届出をするとともに自主的に必要な措置をすみやかにとるようにというものである。日本建築家協会は「警告書」に対して拒否回答(一二月二日)、公取委はさらに「勧告」(一二月二五日)、以降「公取問題」は公取委の審判という公式の場に持ち越されていく。二二回の審判を経て出されたのが最終審決であった。
いわゆる「公取問題」は、こうして「家協会」という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。「家協会」の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれている。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあった。ある意味では「家協会」の全面敗北であった。
「家協会」は、自ら「定款」を変更し、「憲章及び倫理規定」「建築設計競技基準」を改訂し、「建築家の業務及び報酬規程」を廃止するとともに「建築設計監理業務報酬(仮称)」を制定することで、「事業者団体」性を自ら払拭することになったのである。
3-2 日本建築家協会と「建築家」
七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、「家協会」自体の問題であった。問われたのは、必ずしも「建築家」とは何かではなく、「家協会」とは何か、その団体の事業者性だったからである。理念ではなく、具体的な「家協会」の存在形態が現実の問題として問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築家をとりまく状況を示していた。
西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたのであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった。いわゆる建築家の理念はついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、「家協会」の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していた。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。
いわゆる「建築家」という理念と、その職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する「家協会」が、その矛盾を引き受けるのは当然である。しかし、そうした意味での建築家の理念はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。
「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*5や、「入札をしない会」(●鬼頭梓*6ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示していた。
事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ「家協会」、体質改善した「家協会」とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がある。
理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道である。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。
職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のがひとつの選択である。確かに「文化としての建築」という視点は大きな拠り所である。しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。「文化としての建築」とは何か。「家協会」の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかの問題である。これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのか、という問いが投げ出されたままである。
「建築家」たちは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の「建築家」像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、「公取問題」など関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であった。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。「公取問題」は、それをこそ確認させるのである。
日本建築家協会は、その後、新日本建築家協会*へと改組される。一一〇〇人程度の特権的な建築家サロンを脱し、より一般的な建築家の団体を目指して組織拡大が目指されるのである。
3-3 日本建築士会
一九一四年六月六日、日本で最初の職能団体「全国建築士会」*が結成された。集まった建築家は、辰野金吾*、曽禰達三*、中條精一郎*、長野宇平治*、三橋四郎*ら一二名。翌年「日本建築士会」*と改称、会は戦前期における「建築士法」制定の中心となる。『創立主旨』は以下のように始められている。
「顧れば明治十二年我国に初めて建築士を出だせしより●並に年閲する事弐拾有余、斯道に学ぶ者続々相継ぎ学術の進歩駸々として社会に貢献する所亦少なからず。人生まれて二十、独立自主の民となる。建築士あに●又此理なからんや。」
明治十二年というのは工部大学校*の第一回卒業生が出た年である。建築士とはまず工部大学校そして帝国大学の造家学科*、建築学科*の卒業生を意味した。そして二〇年。「建築士(我輩特に建築士という意味の翫味を要す)の社会的立脚地、建築士の登録法、若くは建築条例の発布、或は建築士徳義規約の制定等現在及将来に於て我輩の為すべき事業指を屈するに暇あらず」の状況認識の下に団体が結成されるのである。わざわざ括弧して「我輩特に建築士という意味の翫味を要す」というのが興味深い。建築士をめぐって様々な議論があった。建築士の登録法、建築士徳義規約の制定等、一九七〇年代の「公取問題」にいたる諸問題は既に意識されていたのである。
日本で最初の建築家の団体は、「全国建築士会」に先立って一八八六年に結成された「造家学会」*である。現在の日本建築学会の前身だ。河合浩蔵*、辰野金吾、妻木頼黄*、松崎萬長*の四人の創立委員を含め、創立発起人二六名による出発であった。
この「造家学会」は、「工学会」*(一八七九年設立)から独立する形でつくられる。が、実は「学会」というより「建築家協会」と呼ぶべき性格をもっていた。その規約は英国王立建築協会*(RIBA)米国建築学会*(AIA)の規約に倣ってつくられているのである。
「第五条 正会員ハ和洋に論ナク一方或ハ双方ノ建築ニ満二年半従事セシモノトス」
「第六条 準員ハ造家学科中ノ一科目以上ニ関スル職業又ハ売買ニ従事スルモノトス・・」
要するに実務が前提であった。
伊東忠太*が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を求む*」を書いて「造家学会」が「建築学会」に改称されるのは一八九七年のことだ。学会は今日に至る「建築家」を理念として出発したのである。学会が「建築師報酬規程」(一九〇八年)を決めているのも、その当初の建築家団体としての性格を物語っている。
しかし、建築学会の方向はやがて大きく転ずる。「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」というイデオロギーが支配的になるのである。その学術観を代表するのが佐野利器*である*7。その「建築家の覚悟」*8は、当時の「建築家(アーキテクト)」観を真っ向から批判するものであった。「物の定義は永久不変ではない」、「西欧のアーキテクトと日本の建築家とは全く同一業でなければならぬ理由もない」、「アーキテクトの現在の意義は建物処理中の一専門家で其の全きものでない」、「懐中字書に依て直にアーキテクト(即ち芸術家)と早合点すべきでない」、・・・・「要するに建築家たるものの寸時も忌るべからざる研究事項は国家当然の要求たる建築科学の発達であって、建築家が社会的地位を得べき唯一の進路も亦是である事を思う事切である」と畳みかけるのである。佐野利器は、「形の良し悪しとか、色彩のことなどは婦女子のすることで、男子の口にすべきことではない」と思っていたのである。
この佐野利器の思想については、長谷川堯*の『雌の視角』*が鋭く批判するところだ*9。技術と芸術、工学と造形、構造と形態をめぐる対立と議論は、「学術、技術、芸術」の三位一体をうたう今日の日本建築学会の内部に引き継がれ内在している。
ともあれ、建築学会が科学や工学への傾斜を深める中で結成されたのが、全国建築士会である。一方で、民間の設計事務所が次第に育ってきたという背景がある。
日本の建築家の祖は、J.コンドル*である。彼が如何なる建築家像をもちどのような教育をしたのかがまず問題である。彼は若干二五歳で来日するが(一八七七年)、R.スミス*、W.バージェス*に学んだ建築家であり、王立建築家協会(RIBA)の会員であった。RIBAについては後にみよう。J.コンドルが極めて実践的な建築家教育をしたのはよく知られている。J.コンドルは自ら日本で最初の建築事務所を設立するのである(一八八八年)。正確に言うと、日本で最初の建築事務所をつくったのはJ.コンドルの教え子、辰野金吾である。英国での実務経験を持つ彼が日本でも同様な活動を展開しようと、京橋山下町の京師屋の二階を借りて仕事を始めるのである(一八八六年)。しかし、彼はすぐに帝国大学に呼ばれることになった。実質的仕事をしないうちに事務所を閉鎖するのである。
辰野金吾は、しかし、一九〇二年には職を辞し、葛西万司*とともに東京京橋に辰野・葛西建築事務所(一九〇三年)を、大阪中之島に片岡安*とともに辰野・片岡建築事務所(一九〇四年)をつくる。民間の建築事務所において設計活動行うことが建築家の道であることが明確な理念としてあったとみていい。
J.コンドルに続いたのが滝大吉*であり、横河民輔*である(一八九〇年)。滝大吉は、大阪にあって「大阪アーキテクトノ四傑(小原、鳥居*、滝、田中)」。一八八七年には「建築局ヲ辞職の上民間建築師(プライベート・アーキテクト)ノ業務ニ従事」しているから、日本で最初の「民間建築師」の栄誉は滝大吉のものかもしれない。彼は事務所開設とともに「夜学校」という建築教育機関を開設している。その講義録をまとめた大著『建築学講義録』がある。横河民助は横河工務所(一九〇五年創設、今日の横河電気)の創設者として知られるが、事務所開設の後、しばらくは三井総営業店につとめている。工部大学校の第一回卒業生で辰野に続いたのが曾根達三で建築事務所を自営(一九〇六年)した後、中條精一郎*とともに曾根・中條建築設計事務所を開設している(一九〇八年)。 他に三橋四郎、河合浩蔵、山口半六、伊藤為吉、遠藤於菟などが一八九〇年代から二〇世紀初頭にかけて民間事務所を開設している。そしてこうした民間建築事務所の相次ぐ設立を背景として設立されたのが日本建築士会なのである。
時代は下って、会の機関誌『日本建築士』が創刊されるのは一九二七年のことだ。その創刊号に理事長長野宇平治がその沿革を記している*10。建築士の規程をめぐってなんとも歯切れが悪い。「建築士とは建築を創作する人で而して創作したるものを実施せしむることを職業とする人であると、斯う答へる」「世間では何故に建築士とは建築を構造し自ら実施するものなりと、斯う言はないのかと反問するものが往々ある。予輩はそれに対して誤謬を説破しようと苦心してみるが、数学的解釈のように明快な説明は出来かねる。要は建築士は芸術家であるが工業家では無いと云うことの了解をもとめようとするのだから、仰も至難の業である。・・・」
中條精一郎は同じく創刊号に「所感」を寄せているが、最後に次のように絶叫している。
「最後に絶叫せんとするは建築芸術を売物にする或者は、依頼者の一顰一笑に迎合して設計報酬の競争入札に参加し、外兄弟廠●閲くの侮を受け、内建築士道を汚さんとする者ありと聞く、彼らも亦同朋なり、希くは悔い改めよ。」
3-4 幻の「建築士法」
日本建築士会が直接的かつ具体的に目指したのが「建築士法」の制定である。しかし、以下に見るように結果的に実現することはなかった。戦後一九五〇年に建築士法が制定されるのであるが、それは「資格法」であって「職能法」ではない。我国に「建築士」(アーキテクト)という概念がもたらされ、その社会的存在基盤を法的に担保しようとする運動はついに今日に至るまで目的を果たすことはないのである。
芸術家としての建築家か、工業家としての建築家か、アーキテクトかエンジニアか、という素朴な建築家の定義をめぐる素朴な対立は大正時代を通じて維持される。そして佐野利器の「科学としての建築」観が次第に力をもち、野田俊彦*によって「建築非芸術論」(一九一五年)*11が展開される中で日本で最初の近代建築運動団体「日本分離派建築会」*も結成される(一九二〇年)。
しかし、大正末から昭和の初めにかけて、日本の建築および建築家をとりまく諸条件は大きく変化する。芸術派と非芸術(構造技術)派の間に社会派と呼ぶべき建築家像が登場してくるのである。
昭和初期の建築家の社会意識、歴史意識は、芸術としての表現、創造、自我の確立を主張した「分離派建築会」への批判が顕在化してきたことに、また「創字社」*の方向転換(「左旋回」)に象徴的に示されるように、昭和に入って大きく転換をとげる。建築の社会性、歴史性に関する新たな認識は、明治末期から大正にかけて、新たな課題として意識されはじめた都市問題や住宅間題に対する取組みに見られる。そして「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎、「建築雑誌」一九一五年九月号)といった建築家像が唱えられる。また上述したように、通常、建築非芸術派と芸術派、構造派と自己主義派・内省派の対立という形でとらえられる大正期の建築界において、いち早く、内省派の「自我的小天地」を批判し、「建築家は自個を離れて社会と接触し国民と同化して以て大正の建築を建設するの急務を認めずや」(「関西建築協会雑誌」*創刊号所載会報の序文、一九一七年七月号)として結成され、一つの潮流をつくりつつあった関西建築協会(一九一七年設立、一九一九年一月「日本建築協会」と改称)の存在がある。その機関誌『建築と社会』は一九二○年一月に創刊されている。
昭和初頭の社会主義、唯物史観の影響が大きかったといっていい。「国家当然の要求」を前提として、建築の間題をすべてそこへ集約してゆくことによって、国家意識をストレートに示す、明治以降、ある意味では一九七○年の日本万国博に至るまで一貫する建築家の流れ、自我という縮少した一点から、その拡張によって国家を一挙に越え、宇宙、世界、あるいは人類を自らへ引きよせようとした大正デモクラシー期のいく人かの建築家たちに対して、社会を対象化し、大衆との距げを意識する建築家の流れは戦後も一貫して維持された。プロレタリアートのために、庶民のために、国民のために、民衆のために、とうようにスローガンは時代によって微妙に変化しながらも、大衆へというヴェクトルは強面に建築家の意識を支配し続けるのである。そうした、建築家の意識の転換をもたらした一つの背景は、建築家の大衆化によるその階層分化、構造化の進行である。明治期において、国家と直結する知的エリートとしての役割をになっていた建築家は、その数が増えるにつれて、また建設請負業者の法人化、経営規模の拡大、独立設計事務所の定着といった建築家をとり巻く諸条件の変化につれて次第に階層分化されつつあった。「創宇社」*の運動をになったのが逓信省営繕課*の下層技術者であったように、昭和初頭の金融恐慌*(一九二七年)、昭和恐慌*(一九三○年)による不況を背景とする建築運動は、建築家における階層分化の構造をはじめて顕在化させたものでもあった。
そして、そうした中で、建築家像も転換していく。長野宇平治の「建築士の職分に門する将来の傾向如何」*12をめぐる昭和初頭の議論に「昭和的建築家像の形成」をみるのが「近代日本建築学発達史第九篇・建築論」の著者*13である。大正初めの「建築家の定義如何」*14における「建築士=美術士+工学士」といった譲論のレヴェルに比べればはるかに具体的に、今日に至る、意匠、構造、設備、施工といった専門分化を前提として、それを統括するものとしての建築家のイメージが、昭和の初めに定着しつつあつたことをそれは示すである。
一九一四年に設立され、一九一七年には設計・監理の業務報酬規程を制定し、精力的な活動を続けつつあった日本建築士会が、自らの職能の制度的裏付けを求める「建築士法」案の建議に至ったのは、一九二五年の第五○帝国譲会であった。しかし、その法案は多くの反対に遭う。衆議院を通過するものの成立しない。一九二六年(第五一議会)、二七年(第五二議会)、二九年(第五六議会)、三一年(第五九議会)、三三年(六四議会)、三四年(第六五議会)、三五年(第六七議会)、三七年(第七〇議会)、三八年(第七三議会)、三九年(第七四議会)、四〇年(第七五議会)と続けて建議されるもののついに陽の目をみない。
その経緯はこうだ。
「建築ガ人並ニ一般社会生活ノ安寧ト健康ト秩序ト品位トニ関シ物心両面ニ亘ッテ誠ニ重大ナル機能ヲ有スルモノナルハ更二多言ヲ要セズ、泰西先進国ノ社会ニ於テ夙二建築士法ヲ制定シテ、建築設計並監督ノ職務ニ従事スルモノノ資格ヲ定メ彼等ノ自重ヲ促シ、以テ個人ノ利益ノ保護ト社会ノ福祉ノ増進ヲ期シツツアルハ●眞に故ナキニ非ズ。」
この、日本建築士会のいう「建築士法制定提唱ノ理由」の冒頭の一文は実に素朴に今日に至る職能法(アーキテクト・ロー)制定の根拠を述べている。しかるに、何故、この法案が執拗な建議にも関わらず通らなかったのか。
最大の争点になったのが、第六条である。第六条は以下のように、設計と施工の兼業を禁止する。
第六条 建築士ハ左ノ業務ヲ営ムコトヲ得ス
一 土木建築ニ関スル請負業
二 建築材料ニ関スル商工業又ハ製造業但シ建築士会ノ商人ヲ得タル者ハ此限リニ非ラス」
立ちはだかった最大の勢力は建設請負業であった。日本建築士会は第五二議会においては、第二十一条末尾に「但シ本条ハ建築士ニアラザル者ガ建築ノ設計並ニ監督二従事スルコトヲ禁ズルモノニアラズ」に但し書きを入れることを余儀なくされる。業務独占の臭いを消し抵抗を弱めようとしたしたのである。しかし、「建築士」の概念が極めて曖昧になったことは否めない。
そしている内に建築学会から「建築設計監督士」なる概念が出される。「建築設計監督士法」であれば賛成するという。学会が何故「建築設計監督士」なる名称に拘ったかは明快だ。学会には、工学、科学を旨とする多くの「建築技師」「建築技術家」(エンジニア)が含まれていたからである。上に見たように「建築士」の職能は既に専門分化がすすんでいたのである。日本建築士会はその提案を飲んで、第五九議会には「建築設計監督士法」と名を変えて法案を提出することになる。
「建築設計監督士法」は第六四議会では「建築士法」という名に戻される。しかし、その内容に大きな変化はない。大きな改訂が行われるのは「建築士」の責務に関する事項がついかされた第七〇議会提出の法案である。しかし以後、日本は敗戦への坂を転がり落ちるのであった。
民間の建築士手務所と同じように建設請負業者の関係を含めた建築生産を支える諸組織が今日に繋がる構造をとるのも、昭和の初めの頃である。明治末から大正にかけて民間の建築士事務所がそれなりに社会的基盤を獲得し、次第に定着しつつあったことを示しのが「建築士法」制定運動である。しかし、その「建築士法」案が、第六条を最大の争点としながら、最終的に不成立に終ったことには、一方で、独自な形で発展を続けてきた日本の建設請負業の力がすでに大きく作用していたのである。
建設請負業の一部には設計部門の独立を考えるものもあった*15。「建築士法」の成立は、確かに、西欧の建築家を支えた社会的基盤-市民社会が日本において未成熟な段階では、時期尚早であったといえるだろう。しかし、何かの拍子にこの兼業禁止規定が通っていたら、そして建設請負業の設計部が独立するルールが成立していれば日本の建築の歴史は変わったであろう。一九六〇年代に設計施工一貫か分離かをめぐって大議論が行われたこと*が示すように、今日でもゼネコン設計部の独立が取り沙汰されるようにこの問題は今日に持ち越されている。
3-5 一九五〇年「建築士法」
戦前にはついに制定されることのなかった建築士法*が制定される。しかし、必ずしも日本建築士会が悲願とした法ではなかった。
敗戦後の建築界の立ち直りは意外に早い。一九五○年頃には戦後建築の方向を決定する体制が出来上っていた。敗戦後数年の段階で建築の生産・設計の体制は再整備されたとみていい。それを示すのが、建設業法の公布(一九四九年五月一四日。施行八月二○日)であり、一九一九年以来の市街地建築物法を抜本的に改定する建築基準法の制定(公布一九五〇年五月一四日、施行二月一三日)と敗戦後まもなく制定された(一九四六年五月二四日)臨時建築制限規則の廃止である。そして、建築士法の公布(一九五○年五月二四日。施行七月一日)である。
建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的な意味をもつ。藤井正一郎*17によれば、建築士法制定へ至るアプローチには三つの流れがあった。一つは、戦前からの「建築士法」制定運動の推進母体であった日本建築士会によるもの、一つは戦災復興院*の「建築法規調査委買会」によるもの、そして、もう一つは日本建築学会を中心とする四会(日本建築学会、日本建築士会、日本建築協会、全国建設業協会)の「建築技術者の資格制度調査に関する四会連合委貝会」によるものである。
制定の過程で大きな争点となったのも、いうまでもなく、「第六条間題」、「兼業の禁止」をめぐる間題であった。西欧の建築家像を理念とし、プロフェッションを支える法・制定を目指してきた日本建築士会が兼業の禁止を間題とするのは既定の方針である。経緯は単純ではない。戦後の混乱を反映するように建築士法制定の方針は右へ左へゆれるが、制定の過程をリードしたのは日本建築士会であった。
戦災復粟院の「建築士及び建築工事管理に組する命令案」(一九四六年一○月)に、はっきり兼業の禁止が示されていることは、往目すべきことである。
「第四 左に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人は、建築士の免許を受けることが出来ない。
一 建築土木に関する請負業
二 建築材料に関する請負業
三 土地家屋に関する代理業
前項各号に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人になったときは、建築士の免許は、その効力を停止する。」
しかし、事は簡単には運ばなかった。究極的には、審譲の過程で兼業の禁止は削除され、建築士(一級建築士、二扱建築士)の資格を規定するだけの現行の資格法としての建築士法が成立することになる。
四会連合のアプローチは、様々な議論をまとめ、建築士法を方向づけ、それに承認をあたえるものであった。この建築士法の制定によって、戦前からの職能法としての建築士法の制定をめざす運動に一つのピリオドが打たれる。日本建築士会を中心とする職能確立への試みはいわば挫祈し、その道は重く閉ざされたのである。万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築のあり方が大きく変わったことは間違いない。しかし、その決定的なチャンスをまたしても逃してしまったのである。
建築士法の成立の過程で注目すべきは、日本建築士会の内部においても、建築界の内部においても、決して、他(占領軍等)からの圧力や指示によったのではなく、ある意味では建築士法が主体的に選びとられていることである。経緯には、建築界の様々な関係の絡まりがあった。兼業禁止の規定の削除は、戦後まもなく進駐軍工事等を挺子に驚異的な復元力を示した建設業との関係がある。
また、大工や小規模な建設請負業(工務店)の間題もあった。二級建築士の資格が制定されたのは、そうした背景からである。村松貞次郎*は「現代の進歩した建築技術の恩恵は、大規模な建築だけに与えられていて、群小の小住宅などにはほとんど及んでいない。このためには、より強力な、しかも創造性に富んだ公共的指導の充実と、行政の改革によって、その恩恵が及ぶようにしなければならない。それは既成の建築家に期待するのは無理だ」(西山夘三*)といった意見が日本の官僚による〈建築士法〉制定のひそかな念願」の背景にあるという。
確かに、建築界に広範に一部特権的建築家の問題ではないという主張が背景にあったことは留意すべきであろう。建築家の職能の確立を支える基盤は、社会的にも、建築界にもかならずしも成熟していなかったのであり、建築士法の内容は、それなりに、日本の建築生産を支える構造を反映したものであった。建築家の理念を高く掲げる主張は、かならずしも広範に受け入れられてはいなかったといってもよい。NAU(新日本建築家集団)*が建築家の職能の間題について、建築士法の制定について、ほとんど目立った動きをしていないようにみえるのはそうした背景を示していよう。その時点で、建築家の間に階層分化が定着しつつあったことは、すでに、戦時中、日本建築士会の一部有名会員を中心として、日本建築設計監理統制組合*(一九四四年結成)がつくられ、それが戦後まもなく日本建築設計監理協会に改組されて(一九四七年)存続していたことが示している。極端にいえば、西欧の建築家の理念を具体化する運動は日本建築設計監理協会を中心とする建築界の一部において担われたにすぎないのである。それ以後、日本建築士会は、現行制度を前提とする団体へその性格を転じていく。一九五九年には、二級建築士を主体とする全日本建築士会*がつくられている。一方、日本建築設計監理協会*は、その会員資格の偏狭さを指描され、一九五五年に、一方で日本建築家協会*を発足させ、一部のエリート建築家の団体として、職能確立へのかすかな灯を掲げながら存続してきたのである。そして、七〇年代に至って公取問題その本質を浮かび上がらせることになるのである。
建築士法の制定以降、建築家の戟能の間題は日本建築家協会を中心として展閏されることになった。建築家の存在基盤にかかわる根本的な間題であるにもかかわらず、それ以外の動きはとんどみることができない。建築界の諸関係を支える構造ははますます固定的なっていく。唯一の例外は、五期会*(一九五六年桔成)の運動である。NAU解体以降五○年代の小会派の運動*のなかで、それは敢然と建築家の職能の問題を主題に掲げたことにおいてきわ立っている。五期会に結集した若い建築家を躯りたてたのは、おそらく、建築士法が制定されて数年を経て、その職能確立の間題が拡散しつつあることへの焦りである。そして一方で、日本建築家協会を中心とするエリート建築家の集団が限定された枠のなかで成立することへの危機意や(あるいは例の会*〔丹下健三*、大江宏*、芦原義信*等のサロン〕といった先輩建築家たちのサロンの存在への対抗意識)である。しかし、指描されるように五期会*という集団を桔び合せていたものは、一つには近代日本の建築界を支えてきた建築家たちの仕事を踏まえながら、自分たちを第五世代と規定する会の命名に端的に示される自負、エリート意識であり、それは結成当初からその内部に矛盾を孕むものであった。五期会も「六〇年安保」*を前にして解散してしまう。
戦後まもなく、池辺陽*は、前川國男*の「紀伊国屋書店」評*18において、建築家のえらぶ道として、一、建築芸術を守る道(現実否定を結果することは明らかである)、二、建築家否定の道、三、建築家を肯定して、現在の条件を解決しようとする道、と書いていた。また高山英華は、地道な建築の実践を通じながら、しかも革命的技術者としての新しい生き方を創り出していく必要があると書いていた。建築の新しい生き方は果たして生み出されたのか。ひとつの帰結は日本建築家協会の公取問題が示していよう。
3-6 芸術かウサギ小屋か
公取問題の決着がついた頃、ポスト・モダニズム建築の帰趨をめぐって建築ジャーナリズムが沸いていた。そこにも、依然として変わらない構図が生き続けている。
「「芸術」かうさぎ小屋か」*19という軸によって、近代日本の建築界を切ってみせたのが堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝*)「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。
「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。
こうした構図は、建築非芸術論争以来ある。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示していたように思える。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。
堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした指摘は、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルで(論争的)あった。
宮内嘉久*20は、当時、「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*21においてもうひとつの建築家像を提示しようとしていた。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた軸、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)-非特権の軸を付け加える。その「特権をもたない建築家」は、中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化しようとする。また、中国の「はだしの医者」にインスピレーションを受けた「はだしの建築家」という理念を重ね合わせようとする。具体的なイメージはしかしよくわからない。問題は日本でどういう具体像を生み出すかである。
建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われる中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、「公取問題」や「建築家」像をめぐる議論とは一見無縁であるように見えた。先行する世代から見ると、ポストモダン派の彼らは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているようであった。「平和な時代の野武士たち」*22と槙文彦*は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、若い世代をそう呼んだ。槙は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」と書いた。
「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。けれども六〇年代初頭に一斉に「都市づいて」いった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*23と篠原一男*24の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであると指摘する。「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方には、〈芸術派建築〉との対立図式が前提とされている。
一方、若い世代の最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見るべきだというのが鈴木博之であった。若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのである*25。彼はむしろ「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価しようとする。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもっていた。
また、鈴木は日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」といいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」という。全体性という概念をめぐって、世界-私という軸がもうひとつ付け加えられる。ただ、私的全体性というのは必ずしもよくわからない。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」と鈴木がいうのは「狭いながらも楽しい我が家」ということのようにも思える。私を支える基盤が問題となるとき、国家や社会に私性を対置してもすれ違いであろう
問題は、「社会的コンテクストを持った戦場」と「私的全体性なるもの」との間である。いずれにせよ、建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景として、同じような議論が続けられてきたのである。
タウンアーキテクトなる理念は、果たして、「芸術かウサギ小屋か」という二分法を超えた地平において構想しうるであろうか。
*1 「ロスト・アイデンティテイの建築界」『建築文化』一九七九年一二月号をもとに改稿。
*2 『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号
*3 『新建築』、七九年一一月号
*4 K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号
*5 浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」
*6 鬼頭梓
*7 布野修司、「建築学の系譜」、『新建築学大系1』、彰国社
*8 『建築雑誌』、一九一一年七月
*9 長谷川堯、『雌の視角』、相模書房
*10 「日本建築士会の沿革」、『日本建築士』、昭和二年七月
*11 建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。
*12 「日本建築士」一九三○年四月号
*13 第五章「近代化の展開」山口廣
*14 中村達太郎「建築雑誌」一九一五年九月号
*15 「設計事務所の出現と建築士会」、『清水建設百五十年』、清水建設、一九五四年五月
*16 拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年。『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年
*17 「建築士法の制定まで(戦後)」(『近代日本建築学発達史』第一二編「建築家の職能」第五章
*18 「現代建築家のえらぶ道」「NAUM」No.1
*19 『日本読書新聞』、七九年六月四日号
*20 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。
*21 『日本読書新聞』、七九年七月九日号
*22 『新建築』、七九年一〇月
*23 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。
*24 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。
*25 「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号
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