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2021年9月11日土曜日

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ

 CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607

 

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ

都市の病理学

「スラム」をめぐって

                                   布野修司

 

 都市の病理というと色々なイメージが湧いてくる。殺人、強盗、誘拐、詐欺、やくざ、非行、離婚、家庭内暴力、売春、不純異性交遊、スラム、浮浪者、ペスト、精神病、麻薬、公害、ゴミ問題、住宅問題、・・・。社会的な病理現象の都市における現れを全て含んだ対象として都市の病理学というのは構想されるのであろうか。都市と犯罪、都市化と家族解体、都市郊外と新興宗教、・・・・興味深いテーマが無数にありそうである。

 

 「スラム」

 都市計画の分野で、都市病理というのは比較的はっきりしている。そもそも近代都市計画は、都市の病理現象としての、衛生問題、住宅問題、都市問題の発生に伴ってきたからである。都市化の速度が急速で、人口増加に都市施設の整備が追いつかない場合、種々の歪みが現れる。住宅問題、交通問題、廃棄物処理問題、環境(公害)問題など、いわゆる都市問題である。産業革命以後の急速な都市化によって、こうした歪みが一気に現れることになったのであるが、その象徴が「スラム」である。 いち早く、都市化の歪みが露呈し、「スラム」が大問題になったのは、イギリスの諸都市である。  一八四五年にエンゲルスによって書かれた古典的論文「イギリスにおける労働者階級の状態」は、マンチェスターのある地区を、例えば、次のように記述している。

 「比較的いい街路でも、狭くて曲がりくねっている。家屋は不潔で、古ぼけて、壊れかけていて、裏通りに沿った家の建てかたは、まったく極度に悪い。・・・正面の壁がまっすぐになっているものは一軒もない。・・・横町や囲い庭へ行くには、二人ならんでは通れないほど狭く、頭上に建物の突き出た道路を通るほかない。・・・ついに家と家とのあいだには、まだ建物でふさげるような場所は一インチも残らなくなってしまった・・・入り口のすぐそばに、ドアのない、非常に不潔な便所があるので・・・コレラの流行したときには、衛生警察がこの囲い庭の住民を立ち退きさせて清掃し、塩素でいぶして消毒したほどの状態にあった。」(註1)

「スラム」とは、極めて素朴に、狭小で過密な居住地区をいうが、「スラム Slum 」の語源は、「スランバー Slumber(微睡み)」という英語である。狭小過密で不衛生な居住条件による伝染病など様々な病気の発生、まさに都市の病理の発生が近代都市計画の起源なのである。

 たまたま、一九三一年にハリー・バーンンズによって書かれた『スラムーーーその物語と解決』(註2)という本が手元にある。その四百頁に及ぶ大著には一八三〇年代以降のスラムとその対応策の歴史が描かれているのであるが、ハリー・バーンズはそれを二つの時期、合わせて八つの段階に分けている。スラム対策の歴史といっていいのであるが、その第一の時期の四段階は次のようである。

 第1段階 一八三八年以前:対策なし

 第2段階 一八三八年~一八五一年:エドウィン・チャドウィック「メトロポリスの労働者階級の衛生条件に関する報告」(一八三八年)、公衆衛生法(一八四八年):問題の重要性が指摘され、最初の取り組みがなされる

 第3段階 一八五一年~一八六八年:労働者階級宿舎法(シャフツベリー法、一八五一年):不良住宅の登録 検査 通告、改善勧告開始

 第4段階 一八六八年~一八七五年:衛生法(トレンス法 一八六八年)、公衆衛生法改正(一九七五年):スラム・クリアランスの具体的実践が始まる。

 後の展開は、都市計画史の書物に譲ろう。 

 

 最暗黒の東京

 日本の場合はどうか。いわゆる都市問題が意識され出すのは一八八〇年代から一八九〇年代にかけてのころである。明治維新以降、富国強兵、殖産興業のかけ声のもと資本主義化の道を歩み始めた日本の社会は、明治二〇年代に至ると、急速に都市化が進展する。それとともに様々な問題が露呈する。最もクリティカルなのが「スラム」=貧民窟の形成である。東京の三大「スラム」と言われる、下谷万年町、四ッ谷鮫ケ淵、芝新網町がそうだ。また、大阪は名護町が有名だ。明治二〇年代になると、よく知られるように、そうした貧民窟を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾 一八八五年 註3)、『大阪名護町貧民窟視察記』(鈴木梅四郎 一八八八年 註4)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎 一八八八年 註5)、『日本の下層社会』(横山源之助 一八九九年 註6)などがそうだ。アカデミックな意味で評価の高いのは『日本の下層社会』で岩波文庫に古くから入ってよく知られているが、面白さは『最暗黒の東京』である。松原岩五郎は、新進の作家であった。新聞のルポルタージュであるが、実際に二年近くも貧民窟に住み込んで書いたものである。半端じゃない。

 「生活は一大疑問なり、尊きは王侯より下乞食に至るまで、いかにして金銭を得、いかにして職を需め、いかにして楽み、いかにして悲み、楽は如何、苦は如何、何によってか希望、何によってか絶望。この篇記する処、もっぱらに記者が最暗黒裡生活の実験談にして、慈心に見捨てられて貧児となりし朝、日光の褞袍を避けて暗黒寒飢の窟に入し夕。彼れ暗黒に入り彼れ貧児と伍し、その間に居て生命を維ぐ事五百有余日、職業を改むるもの三十回、寓目千緒遭遇百端、およそ貧天地の生涯を収めて我が記憶の裡にあらんかと、いささか信ずる所を記して世の仁人に訴うる所あらんとす。」

 冒頭の一節である。「木賃宿」、「住居および家具」、「日雇周旋」、「残飯屋」、「無宿坊」、「夜店」などと三十五項目にわけて、それこそ「最暗黒の東京」が活写されている。松原の記述には、基本的に底辺社会に対するシンパシーがある。そのシンパシーが記述を生き生きとさせるのである。松原の記述する東京の貧民窟には未だプロレタリアの姿はない。賃労働者群が登場するのは少し後のことである。また、社会主義運動が展開するのは、明治30年代になってからである。

 貧民窟をめぐる著作としては、少し、時代が下がると、『東京の木賃宿』(幸徳秋水 一九〇四年)がある。さらに、『貧民心理の研究』(賀川豊彦 一九一五年)、『ドン底生活』(村島帰之 一九一八年)、『下層社会研究』(八浜徳三郎 一九二〇年)などもある。

 「スラム」というと先ずは衛生問題である。伝染病が発生する源になるというので、まずはそのクリアランスが政策的な課題になったのは各国同じである。しかし、「スラム」がクリアランスの対象になったのは単に衛生問題からだけではない。様々な悪の温床ともみなされたのである。極めて具体的なのは社会主義思想の温床と考えられたことだ。松原岩五郎も書いている。「英の同盟罷工、仏の共産党、ないしプロ(プロイセンとロシア)の社会党、虚無党、その事件の起る所以を索ぬれば、必ずそこに甚だしき生活の暗黒なかるべからずと」。

 反体制的勢力、革命の拠点になるが故に「スラム」は排除されねばならない。抹殺されなければならない。社会悪の温床としての「スラム」のイメージはかなり一般的に流布したものである。犯罪や麻薬、家族解体など様々な病理現象が「スラム」に集中したこともマイナス・イメージがまとわりついてきた要因である。「スラム」は、社会を死に至らしめる癌細胞に例えられてきた。

 

 カンポンの世界

 しかし、「スラム」は悪か、果たして病理か、というと大いに疑問である。フィジカルな環境条件を見れば極めて劣悪であり、生存のためにギリギリの条件にあることも少なくなかった。そうした意味で「スラム」は「悪」であり、「病理」であるのであるが、それが社会の矛盾の現れであるにしても、「スラム」そのものが悪というわけではない。 

  発展途上国の大都市をみてみよう。二一世紀には危機的状況を迎えると言われる、人口問題、環境問題、食糧問題、エネルギー問題、その集約的表現が発展途上国の大都市の住宅問題である。世界資本主義の様々な矛盾がそこに見られる。「スラム」の存在がまさにそうだ。しかし、この「スラム」は決してスラムではない。フィジカルには極めて貧しいけれど、社会的にはむしろ健全な共同体組織が根づいていることが一般的なのである。

 都市村落(アーバン・ヴィレッジ)と言われることがある。都市においてもむしろ農村的な文化を保持し続けることが発展途上国の大都市の共通の特徴として指摘されるのである。だから、「スラム」という言葉は一般的には使われない。フィリピンでは、バロン・バロン(barong-barong)、南米ではバリオ(barrios)、北アフリカではビドンビル(bidonvilles)、トルコではゲジェ・コンドゥー(gece kondu)、インドではバスティー(bustee)など、それぞれの地域の固有の概念で呼ぶのが一般的になっているのである。発展途上国の大都市の居住地は実に多様なのである。インドネシアのカンポン(kampung)もそうである。

 カンポンとは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(desa)であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(kampungan)とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものと言えるであろう。

 カンポンについては、拙著『カンポンの世界』(註7)に譲りたいのであるが、何故、カンポンなのかというと、要するに面白いのである。日本の、のっぺらぼうな居住地が貧しく思えるほど活気に満ちているのだ。

 カンポンは地区によって極めて多様である。そして、それぞれが様々な人々からなる複合的な居住地でもある。カンポンは、民族や収入階層を異にする多様な人々からなる複合社会である。異質な人々が共存していく、そうした原理がそこにはある。

 日常生活は、ほとんどがその内部で完結しうる、そんな自律性がある。様々なものを消費するだけでなく、生産もする。ベッドタウンでは決してない。相互扶助のシステムが生活を支えている。つまり、居住地のモデルとして興味深いのである。

 カンポンは、ジャワの伝統的村落(デサ)の「共同体的」性格を何らかの形で引き継いでいる。ゴトン・ロヨン(Gotong Royong 相互扶助)、そしてルクン(Rukun 和合)は、ジャワ人最高の価値意識とされるのであるが、それはデサの伝統において形成されたものである。そして、それは現在でも、カンポンの生活を支えている。

 カンポンには、ありとあらゆる物売りが訪れる。ロンボン(Rombong 屋台)とピクラン(Pikulan 天秤棒)の世界である。なつかしい。かって、日本の下町にも、ひっきりなしに屋台が訪れていた。

 カンポンの住民組織であるルクン・ワルガ(RW Rukun Warga)、ルクン・タタンガ(RT Rukun Tetannga)というのは、実は、日本軍が持ち込んだものだという。町内会と隣組である。カンポンについての興味はつきないのである。

 

 悪場所論

 以上のように、「スラム」と呼ばれてきた都市の貧困の居住地区がそれ自体必ずしも病理でないとすれば、都市の病理学として、少し別の視角が必要となる。近代都市は、その内部にある意味で必然的に「スラム」を抱え込んだのであり、低賃金の労働力を供給する空間として、「スラム」は必要悪であるといった見方がその一つである。「スラム」を一方的に悪と見なすのではなく、都市の表裏を同時にみる見方は必要であろう。発展途上国の「スラム」の存在も、発展途上国の病理というよりも、先進諸国の含めた世界の構造の病理が露出しているとみなせるからである。

 都市神殿論というのがある。都市の起源は神殿であるとする説であるが、仮にその説を採るとしても、神殿の前には人が集まり、情報や物資の交換が行われ出すとすれば、そこに俗の世界が形成される。都市を一元的に捉えるのはどうも無理ではないか。都市には、聖なる部分と俗なる部分がある。あるいは、表と裏がある。あるいは、光の部分と闇の部分がある。都市をそのように二元論的に捉える見方もかなり一般的である。

 近世日本の都市には悪場所と呼ばれる場所があった。遊廓や芝居小屋の集まる場所である。人々が集い、遊び、唄い、踊り、それを見て楽しむエンターテイメントの空間はどんな都市にもある。そうした空間は、風紀を乱し、秩序を紊乱させるというので、禁止されたり、制限されたり、監視されたり、取締の対象になった。しかし、一方、そうした空間は、都市に活力を与え、都市生活を魅力あるものにする源泉でもある。芸能の発生は、こうした悪場所と不可分である。

 歌舞伎が河原から発生したように、シェイクスピアの芝居がテムズ川の南岸を根拠地にしたように、悪場所はまず都市の周縁部に立地し、やがて、都市の内部に取り囲まれる過程をとる。芝居小屋、劇場の立地、遊廓や売春宿の立地は、都市の形成史に関して、ある一般的な法則を告げる筈である。

 こうした近代以前の都市の悪場所についていささか図式的に考えてみると、悪場所すなわち都市の病理とは言えないであろう。悪場所も都市の立派な構成要素なのである。

 

 都市と犯罪

 松山巌の『乱歩と東京』(註8)は、実に興味深い本であるが、中でも、印象深かったのは、江戸川乱歩の作品の犯罪現場が同潤会のアパートが立地する地区にぴったりと重なるという分析である。同潤会というと、関東大震災の復興のために設立され、日本で最初の公的な住宅機関となったのであるが、その花形の事業がアパートメントハウスの建設であった。そのアパートメントハウスの建設されたのは、青山、代官山、江戸川といった今では庶民ではとても住めないような都心地域もあるのだが、だいたいは下町であった。鴬谷、下谷、猿江、清砂などがそうである。そして、そうした地区は、あるいはそうした地区に近接する地区は、いわゆる不良住宅地区とされた地区であった。

 「スラム」と犯罪というと、実際に密接な関係があるのであろうか。あるいは、「スラム」と犯罪という組み合わせが作家の想像力を余程かき立てるのであろうか。百年前のロンドンを賑わせた「切り裂きジャック」というと、イーストエンドが舞台だ。周辺はゲットー、一大「スラム」地区である。

 凶悪犯罪は都市にのみ見られるかというとそんなことはない。おどろおどろしい犯罪の舞台は様々である。ただ、犯人が潜むのは、やはり、大都会がふさわしい。匿名性のなかで生きていける条件が大都市にはあるからである。共同体に縛られている限りにおいて、近代的な犯罪は成り立たない。少なくとも、ミステリーが成立するためには、近代都市化が不可欠であったのは間違いないのである。

 都市と犯罪について具体的にいえることがあるであろうか。例えば、校内暴力が多発したのは、人口が急速に膨らんだ郊外であった。例えば、新興宗教の広がるのも大都市郊外地域だと言われる。急激な変化によって、様々な不安定状況が生まれるからであるとされる。果たしてそうか。何故、高島平団地は自殺の名所になったのか。各種犯罪をプロットしてみれば、何かわかるのかもしれない。しかし、特定の場所と犯罪が結びつくことはないだろう。場所性が失なわれることによってむしろ犯罪が多発するからである。都市が犯罪を生むのではなく、社会の病理が都市を犯罪の舞台とするのである。

 

 都市の生と死

 また、視角を変えよう。都市を人間の身体に例えるとどうか。先に「スラム」は癌細胞に例えられたと書いた。悪性腫瘍はやがて人間をして死に至らしめる。そういうことが都市に起こるであろうか。

 ベスビオス火山の爆発で一瞬のうちに溶岩や火山灰の下に埋まってしまった例がある。いわば事故死である。ペストの蔓延で壊滅状態になった都市がある。例えば、五四〇年頃エジプトに発生したペストハビザンティン帝国を大混乱にいれた。コンスタンティノープルでは、一日に五千人も一万人もが死んだという。一四世紀にヨーロッパに大流行した黒死病はものすごい。死者は三人に一人だという。まさに病死である。モヘンジョダロやハラッパなどインダス文明の古代都市は、森林資源の浪費による生態系の変化によって滅びたという説がある。古今東西、都市の栄枯盛衰を見たときに都市の生と死について何か言えることがないか。永遠の都市は果たしてありうるのか。

 一千年を超える都というとそう多くはない。イスタンブール、京都、・・・。日本の都市をみても、その栄枯盛衰はかなり激しいとみていい。近年の例で言えば、重厚長大の産業都市、企業城下町の衰退はその例である。さらに例えば、日本の近代を支えた炭坑の町の勃興と衰退は実にドラスティックである。

 世界の大都市についてみよう。例えば、東京。四百年前には一寒村に過ぎない。それが江戸となり、人口百万の世界でも有数の都市となる、そして、今、一二〇〇万人を超える大都市になった。果たして、どうなるのか。誰でもわかることは、無限に都市が膨張し続けることはありえないことである。

 墓、墓地の問題を考えるとわかりやすい。一千万人の都市がいれば一千万人の墓がいる。世代を重ねて行くのであるから何千万人の墓がいる。墓地のマンションが出来ていく所以である。

 墓地については、死生観の問題もあり、一概にいえないのであるが、まあ、解決がついたとしよう。人が住むとなると一定の限度がある。限度を超えればどうなるか。誰も考えようとしない。なんとなく大丈夫だと思っている。

 東京一極集中は病理か。誰もがそう思っているようでいて必ずしもそうではない。東京一極集中が日本の高度成長を支え、日本を世界の大国に押し上げる原動力となったと考える財界人は多い。しかし、東京は果たして永遠かというと誰にもわからない。地震など自然の災害や戦争で突然のカタストローフに見舞われるかも知れない。温暖化や砂漠化など環境問題でどこかの都市に今にもクリティカルな事態が現れるかも知れない。そう考えると、大切なのは、むしろ、都市の死を見つめることのほうではないかと思えてくる。

 基本は生態学的な基盤ではないか。水や電気、ガス、エネルギー問題を考えてみれば明らかなように、エコロジカルな基盤が欠けるとすれば、都市は死に向かわざるを得ない筈だからである。

 こうして、われわれは「スラム」の問題へ戻る。特に、発展途上国の「スラム」の問題を自らの問題として受けとめない限り、われわれの都市の病理は見えて来ないのである。

 

註1 L.ベネヴォロ 『近代都市計画の起源』(横山正訳 鹿島出版会 一九七六年)より

註2 Harry Barnes,"THE SLUM Its Story and Solution",P.S.King & Son Ltd.,1931

註3 『日本』連載 西田長寿編 『都市下層社会』(生活社 一九四九年)所収

註4 『時事新報』連載 西田長寿編 『都市下層社会』(生活社 一九四九年)所収

註5  民友社 岩波文庫1988年復刻

註6  教文館 

註7 パルコ出版 一九九一年

註8 パルコ出版 一九八四年






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