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2021年9月14日火曜日

一九一〇年代のシカゴ, 黒テントJUNGLE公演パンフ、 19990527

 一九一〇年代のシカゴ, 黒テントJUNGLE公演パンフ, 19990527

一九一〇年代のシカゴ

布野修司

 

 ブレヒトの『都会のジャングル』の舞台は一九一〇年代のシカゴである。そして、まさにテーマは「ジャングルとしての都会」だ。「まだ誰も大都市をジャングルとして描きだしてはいない」という「画期的発見」によって書き始められたというのがこの戯曲である。

 

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 何故、シカゴなのか。

 台本を追うと、「一九一二年八月八日朝 シカゴにあるC.メインズの貸本屋」から「一九一五年一一月一九日」の一週間後「死んだC.シュリンクの個人事務所」まで全一一場からなる(一九二二年の初稿は一六場。一九二七年のダルムシュタット講演より現在の形となる)。「貸本屋」「材木商C.シュリンクの事務所」「ガルガ家の屋根裏部屋」「チャイナホテル」と舞台のほとんどは都会といっても屋内の一室である。屋外の設定は、第六場と第一〇場の「ミシンガン湖」のみだ。しかも、「雑木林」「砂利採集場」という設定である。猥雑な「スラム」やいかがわしい「盛り場」が出てくるわけではない。場所の臭いはしないのである。都市そのもの、あるいは街路や広場は舞台ではない。「マルベリー通り六番」とか「ミシガン湖」といった極くわずかな地名を除けば、シカゴという都市の具体的な場所を想起させる場面はない。頻繁に出てくるのは、むしろ「タヒチ」とか「ヨコハマ」(横浜生まれのマレー人C.シュリンク!)、「パプア」といった地名である。

 ブレヒトは「背景としてのアメリカ」を選んだのであって必ずしもシカゴという具体的な都市が問題ではなかったように思える。ブレヒトにとって「ジャングルとしての大都市」とはベルリンに他ならない。また、観客にとって直接的にイメージされるのもベルリンである。しかし、ブレヒトはシカゴを選んだ。「サンフランシスコ」と「ニューヨーク」、そしてガルガの家族がかって住んでいた「サヴァンナ」、さらに「タヒチ」「パプア」「ヨコハマ」といった地名によって想起される地理学的空間が意図的に設定されたのである。

 「背景としてアメリカを選んだのは、しばしば考えられているようにロマン主義への執着からではない。ベルリンを選んだって、別にかまわなかっただろう。しかし、ベルリンを選べば、観客は、〈人間というものは、奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をするものだな〉などといわなかっただろう。〈そんな行動をするベルリンなどは、ただの例外にすぎん〉といって、すませてしまうことだろう。ぼくの描いたタイプに本質的に一致し、それらのタイプを拒むのではなく包み込んでしまう背景(それがアメリカだ)こそ、現代にふさわしい多くの人物の行動様式に注目させるのにもっともぐあいのよい背景ではないか、とぼくは思った。背景をドイツにしたのでは、これらのタイプはロマンティックなものになってしまう。」(一九二八年のハイデルベルグ講演のパンフレット。ブレヒトコレクション②、晶文社、あとがき、石黒英男)

 直接的には「シカゴにやってきた東欧からの移住者の悲惨な生活を描いた」アプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』が(少なくとも題名の)ヒントになっているという(ブレヒト戯曲全集①、未来社、岩淵達治)。しかし、シカゴという設定はブレヒトの説明に依れば右の理由による。ブレヒトにはある距離が必要であった。「マレー人」材木商シュリンクという設定もそうだ。「東洋的な相貌」「シカゴ」という設定によって一端はベルリンを異化する必要があった。「奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をする」人間たちを包み込む場所として設定されているのがシカゴなのである。

 

 

 しかし、何故、ニューヨークでなくてシカゴか。シカゴとは如何なる都市か。

 ブレヒトの『都会のジャングル』にとってシカゴは単に背景として必要であったということを確認した上で、テキストを離れて、一九一〇年代(一九一二年~一五年)のシカゴを振り返ってみよう。ブレヒトとその時代についてのなにがしかを考える材料となるかもしれない。

 ブレヒトの『都会のジャングル』がミュンヘンで初演された一九二二年、シカゴで近代建築の行方を左右するコンペが開催されている。当時世界最大の日刊紙発行を誇るシカゴ・トリビューン社新社屋のコンペだ。アメリカ人建築家一四五人にに加えて、A.ロース、B.タウト、L.ヒルベルザイマー、W.グロピウスとA.マイヤーなど近代建築運動を主導した蒼々たる建築家たちがヨーロッパから参加している。高さ四〇〇フィートのスカイスクレーパー(摩天楼)の設計において、来るべき都市のデザインが問われたののである。ニューヨークのエンパイア・ステートビルや世界貿易センタービルと競いながら、シカゴが世界一の高さのビルに拘り続けたことは、ジョン・ハンコック・ビルやシアーズ・タワーが示している。クアラルンプール(マレーシア!)のツインタワーにその地位を譲るまで世界一の高さを誇ったのはシアーズ・タワーだ。

 実はシカゴでこそこうしたコンペが行われる理由があった。建築技術の歴史において超高層建築を用意したのはシカゴなのである。経済学(F.A.ハイエクら)、社会学(R.E.パークら)、政治学(C.E.メリアムら)などと同様、建築界にもシカゴ・スクールがある。一九世紀末にシカゴで活躍したW.B.ジェニー,D.H.バーナム、L.サリバンなどの一群の建築家をいう。超高層を可能にしたのは、エレベーター技術である(I.G.オーティスのアイディアを実用化したW.L.ジョンストンの設計したジェーン・グラナイト・ビル(フィラデルフィア、一八五二年)が最初とされる)が、その前提として高さを可能にする構造技術(剛構造の技術)が必要であった。それを発達させたのがシカゴ・スクールの建築家たちである。そして、シカゴの目抜き通りであるステート・ストリートは彼らの建築によってその骨格がつくられたのである。

 それだけではない。F.L.ライトがL.サリバンのもとで育つのがシカゴであり、バウハウスとともにミース.vd.ローエが亡命(一九三七年)してくるのがシカゴである。そのイリノイ工科大学のクラウンホールやミシガン湖畔のアパート、レイクショアドライブは近代建築の傑作とされる。シカゴは近代建築のメッカである。

 一八八九年のパリ博をはるかに超える規模で催された一八九三年の世界(コロンビア)博以降、華々しい都市美化運動の展開によってシカゴは世界の注目を集めつつあった。そこで開催されたのが、ヨーロッパとアメリカの建築家が集う一大イヴェントである。ブレヒトの耳にシカゴ・トリビューンをめぐる建築界の熱狂が届いていたかどうかはわからない。しかし、観客たちの中にはそうした情報はあったであろう。少なくとも、近代的大都市を象徴するスカイスクレーパーとシカゴという名前が一般に結びついていたことは間違いないところだ。

 

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 もちろん、ブレヒトが「背景」にしようとしたのは、テクノロジーを謳歌し、都市美化を装う、そうしたシカゴではない。ブレヒトの頭にあったのは一九一九年の人種暴動ではなかったか。アル・カポネらギャングの跋扈する、腐敗と無法の暗黒街は一九二〇年代のシカゴだけれど、一九世紀末のシカゴは、労働運動の中心地であり、既に血なまぐさい事件の絶えない町であった。ユニオン・ストック・ヤードの悲惨は、それこそアプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』きち描くところだ。一九世紀末には工場労働者のストライキが相次いでいる。シカゴは一攫千金の夢を実現させる都市である一方、生き馬の眼を抜くような、生存競争の町であった。

 シカゴとはもともとインディアンの言葉でニンニクを意味するのだという。一八世紀までは何もない土地だ。一九世紀初頭に砦が設けられ、一八三三年にタウンシップ(町制)が設定されるが人口は千人に充たない。アメリカではお決まりのグリッド(格子状)の街区割だ。一平方マイル(一.六キロ四方)が単位である。やがて、東西をつなぐ交通の要衝として発達をはじめ、一九世紀中葉で人口三万人に達する。移民が急増するきっかけになったのはニューヨーク-シカゴ間の大陸鉄道の開通である。一八六〇年に一一万人、一八七〇年に三〇万人、一八八〇年に五〇万人、一八九〇年に一一〇万人。一九〇〇年に一七〇万人、すさまじい人口増加だ。シュリンクとガルガの闘争の舞台となった一九一〇年から一九二〇年にかけて人口は二一九万人から二七〇万人に膨れあがっている。一九一〇年のベルリンが二〇七万人(一九二〇年の合併後の大ベルリンは三八六万人)だからほぼ同規模だ。一九世紀の首都パリもほぼ同じ規模だ。新興アメリカ合衆国の二〇世紀の世界都市とみなされつつあったのがシカゴであった。

 急速な人口増加によって生み出されるのが「スラム」である。そして上下水問題、衛生問題、廃棄物問題、住宅問題が大きな都市問題となる。都市美化運動が展開されたのはまさに「スラム」がシカゴを覆う状況を背景としてのことである。都市社会学者E.W.バージェスの同心円理論はまさにシカゴを研究対象として生み出された。シカゴを支えた商工業の発達は多くの富豪を生む一方で大量の下層民を郊外と都心の間に吸収したのである。そして、シカゴの都市文化を支えたのはこうした「スラム」であり、「移民社会」であった。D.H.バーナムは、一九〇七年にシカゴの改造計画を立てている。アメリカ大都市最初の全体計画案と言っていい。グリッドの街区を引き裂いて放射状のアヴェニューが走る。そして、円弧状の環状道路を設ける構想である。一九一〇年代のシカゴは明らかにその当初の姿を大きく変えようとしていた。

 

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 移民については詳細な資料、統計がある。一九二〇年に、十万人を超えるのがポーランド、ドイツ、ソ連でイタリア、スエーデン、リトアニア、チェコスロバキア・・が続く。そうした、多くの移民達は居住地を棲み分けモザイク状に住区を形成していく。アーヴィン・カトラーの『シカゴ』(Irving Cutler:CHICAGO-Metropolis of the Mid-Continent,Kendal,1982)は、各移民がどこにどう住んだかを詳細に明らかにしている。東ヨーロッパから移民が三六パーセントを占めるのが注目されるが、ドイツからの移民も一貫して高い。最初の入植は一八三〇年代に遡るが、増加するのは一八四八年のベルリン三月革命以降である。いわゆる学歴の高い改革派、いわゆる「フォーティ・エイターズ」がドイツ移民の初期の中核を形成する。ドイツ移民が居住したのはノース・アヴェニューであり、一帯の通りにはゲーテ、シラー、レッシング、ベートーベンといった名がつけられた。ドイツ語の看板やサインがかかっていたという。ミースなど亡命者を受け入れたのはこうしたドイツ移民のコミュニティである。ブレヒトがシカゴについて、ドイツ移民の社会を通じて様々な情報を持っていたと考えるのはむしろ自然であろう。

 第一次世界大戦の勃発と共にヨーロッパからの移民が減少すると、労働力不足を補うために南部から大量の黒人が流入してくる(一九一〇年から一九二〇年にかけて四万人から一一万人に増加する)。黒人たちはブラック・ベルトを形成しながら住みついていく。そして起こったのが一九一九年のサウスサイドの大暴動なのである。

 ところでマレー人、あるいはアジア人はどうか。アジア人の移住が増えるのは主として戦後である。第二次世界大戦以前には数百の日本人が住んでいた。また、アメリカが植民地化したフィリピンとの関係がある。フィリピン人は一九二〇年代から居住を開始し、一九三〇年には約二〇〇〇人がシカゴに住んでいた。

 都市美化運動を主導した建築家、シカゴ・スクールの中心人物D.H.バーナムは、一九〇四年に横浜、東京経由でマニラを訪れている。そして、マニラとともにバギオの都市計画案をつくっている。また、彼はサンフランシスコの都市計画案でも知られる(Giorgio Ciucci et al:The American City, MIT, 1979)。シカゴ、サンフランシスコ、マニラの街区パターンがよく似ているのは当然だ。日本とシカゴの関係については、D.H.バーナムのもとで学んだ建築家下田菊太郎の存在がある。F.L.ライトが帝国ホテルの設計のために日本を訪れたのは一九一五年である。一九一〇年代のシカゴとアジアは様々につながっていたのである。

 シュリンクはマレー人といっても「ヨコハマ」生まれということだから、チャイニーズ・マレーと考えていいだろう。何故か、シュリンクは子供の頃「揚子江で手漕ぎ船に乗っていた」という。中国と関係があるのは間違いない。「チャイナホテル」が場面として設定されているところを見ると、ブレヒトはシカゴのチャイナタウンについてはなんらかの情報を持っていたに違いない。

 シカゴで最も古いアジア人居住区は、もちろん、チャイナタウンである。ヴァン・ブレン・ストリートの南、クラーク・ストリートに沿ったダウンタウンに一八八〇年代末に形成された。彼らはほとんどがサンフランシスコ経由でシカゴに入り、鉄道関係で職を得た。また、飲食店、洗濯屋が一般的な職業である。だから、材木商というのは成功した移民ということになろう。一九一二年、業務地区の拡張に伴い、新たなチャイナタウンがチェルマック・ロードとウエントワース・アヴェニュー周辺につくられる。現在でも一五〇〇〇人を超えるチャイニーズの三分の一はこのチャイナタウンに住んでいるが、『都会のジャングル』の舞台となったのは間違いなくこのチャイナタウンである。思わず「間違いなく」と書いた。ブレヒトの仮構した、チャイナホテルとシュリンクの事務所は、「あった」とすれば、このチャイナタウンの中にあったに違いないのである。 









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