『CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ
都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)
都市の病理学-「スラム」をめぐって,都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)
風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)
近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL』27号,199403
住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607
布野修司
都市とは何か。都市といっても古今東西様々である。その形態が多様であるのに加えて、その概念そのものも、地域によって、民族によって、多様である。いくつか見てみよう。
日本語の「都市」というのは、そもそも「都(みやこ)」と「市(いち)」を合成した言葉、近代語だ。「都」は、いうまでもなく、王権の所在地、天皇、首長の居所である。古代においては必ずしも固定的な場所ではない。「市」というのは、物が交換される市場であるが、物だけでなく、人々の自由な交渉の場でもある。日常の生活や秩序とは区別される「無縁」の空間を意味した。「町(まち)」という言葉は、文字どおり、もともと田地の区画を意味したが、やがて都の条坊の一区画をさすようになったものだ。都、市、町の他にも、津、泊、浜、渡、関、宿など、都市的集住の場を示す多様な語が日本語にある。
中国語だと「城市」である。府、州、県といった行政単位の中核都市が「城市」である。「都城」というのは「都」について使われた。「城」の字が使われるのがその形態の特徴を示している。中国の都市はそもそも城壁で囲われるものなのである。中国の都城制を日本は導入するのであるが、中国の都市と日本の都市が決定的に異なるのは「城壁」をもたないことである。
西欧ではどうか。ギリシャのポリス、ローマのキウィタスがすぐ思い浮かぶ。ラテン語のキウィタス civitas は、シティー city 、シテ cite 、チッタ citta などの語源であるが、日本や中国の都市の概念と異なる。キウィタスとは、第一義的には、自由な市民の共同体を指す。また、その成員権(市民権)をもつものの集まりをいう。そして、その成員の住む集落やテリトリーを含めた地域全体を指す。そうした意味では、キウィタスは、都市というより「国(くに)」=都市国家と言った方がいい。キウィタス群がローマ帝国をつくり、ローマ市民の一部が各地に送られて、形成したのがキウィタス類似の「植民市(コロニア)」である。
ポリスは、同じように都市国家と訳され、キウィタスに対応する語とされるが語源は不明である。城壁都市を指す場合、その中心のアクロポリスのみを指す場合、城壁がなくてある領域を指す場合と色々らしい。ギリシャ・ローマの都市については後に見よう。
ラテン語には、もうひとつウルプス urbs という語、概念がある。農村に対する「都会」という意味だ。アーバン urban
の語源である。ウルプスというのは、もともと、エトルリア地域で他と聖別された区域としての「ローマ市」を意味したのであるが、次第に一般的に使われるようになったという。さらに、オピドゥム oppidum という語がある。「城砦」を意味する。ただ、ウルプスと同じように使われるという。
ペルシャ語では、シャフル、トルコ語ではシェヒル、もしくはケントという。シャフルは、王権、王国、帝国という意味の語源をもつ。インドには、ナガラ(都市)、プラ(都市、町)、ドゥルガ(城塞都市)、ニガマ(市場町)といった語、概念がある。インドネシアでは、一般にコタという。サンスクリットの城砦都市を意味する語が語源だという。面白いことに、ヒンドゥーの影響の強い、ロンボク島にチャクラヌガラという都市がある。また、ヌガラというと、東南アジア一帯使われているが少しづつニュアンスが異なるように見える。ジャワでは、内陸の都市国家を意味し、大陸部では沿岸部の交易都市を指すようだ。また、バリやロンボクでプラというと寺のことであり、プリというとその祭祀集団をいう。都市という語の広がりを追ってみるのも、その多様性を確認するとともに、共通の本質を明らかにする興味深いテーマである。
都市の発生
ところで、都市はどのようにして発生したのか。
古来、採集狩猟の時代から、人々は集落を形成してきた。しかし、都市の発生にはある契機があった。穀物栽培のための定住である。都市の発生は一般的には農耕の発生と結びつけられて理解されるのである。天水利用による農耕の開始によって定住的な集落がつくられる。決定的なのは、潅漑技術の発展による生産力の増大であった。集落規模は急速に拡大し、その数が増すとともにそれを束ねる、ネットワークの中心としての都市の誕生に至るのである。
古代の都市文明は、いずれも、栽培植物としての穀物をもっている。「肥沃な三日月地帯」として知られるメソポタミアは、大麦、小麦である。考古学的な遺構によると、潅漑技術が発明されたのは紀元前五千数百年頃だという。それとともに集落の規模は飛躍的に大きくなり、またその数も増えた。そうした中から、ウル、ウルクなどといった都市が生まれてくるのである。バビロニア南部のシュメールの地に最初の都市国家が勃興したのは、紀元前四千年紀末ないし三千年紀初頭だという。
古代エジプトの場合、メンフィスなど現在と同じ場所に古代都市が造られており、その実体はよくわからないらしい。ただ、興味深いのは、城壁をもたないことだ。また、ネクロポリス(埋葬都市、死者の都市)が造られているのも特徴的である。クフ王等三大ピラミッドで著名なギザはネクロポリスである。
インド亜大陸に最初に都市が出現したのは、前二千三百年頃である。インダス川流域のハラッパー、モヘンジョ・ダーロの二大都市に代表される諸都市がそうだ。インダス文明は紀元前千七百年頃から衰退し消滅するが、紀元前六世紀頃に再びいくつかの都市が現れている。マウリヤ帝国の首都パータリプトラがその代表である。インドの場合、興味深いことに、都市の建設方法を記す書がある。カウティリアの『実利論』がそうである。また、『マーナサーラ』といった建築理論書が残されている。こうした都市計画の理論書についても後でみよう。
中国における城郭都市の出現は、紀元前一千五百年の殷代のことだという。それ以前は、邑(ゆう)という都市国家的集落が中心であった。紀元前四、三世紀になると黄河下流域でいくつかの巨大城市が発生する。斉の臨し(りんし)、超のかんたんがそうである。国都としては前漢の長安、後漢・曹ぎの洛陽、北ぎの洛陽、隋唐の長安、洛陽については、わが国の都城、宮都との関連で我々には親しいところである。
古代ギリシャの都市
都市はどのようにして建設されるのか。都市計画の起源はどこにもとめられるのか。
都市の発生というと、自然発生のニュアンスがあるが、明らかに計画された都市がある。というより、都市というのは基本的に人工的な構築物であり、計画されるものである。自然の生態系の中でその秩序と共存するヴァナキュラーな集落と都市はその本質において対立的だ。とすれば、都市の発生と都市計画の発生は同時ということになる。都市は古代世界の基本的な「制度」のひとつとして成立した。都市は、その起源において、文明と同義であり、野蛮やカオスとは正反対なものであった。
以上のように理解すれば、都市計画ははるか以前から存在してきたのであるが、一般に都市計画の歴史というと、決まって挙げられる名前がある。ミレトスのヒッポダモスである。ヒッポダモスこそ最初の都市計画家ということになっている。都市計画の始まりについてはあまりよくわかっていないのである。
ヒッポダモス風の都市計画というと、グリッド(格子状)・パターンの都市である。そして、都市計画というとまずはグリッド・パターンの都市計画が問題とされる。しかし、ヒッポダモス以前にヒッポダモス風都市計画がなかったかというと決してそうではない。知られるように、エジプトのカフーンやエル・アマルナの労働者集落は規則正しいパターンをしている。東トルコのゼルナキ・テベ(前九世紀~前六世紀)やアッシリア時代のパレスティナのメギドもミレトスに先立つ。
ヒッポダモスの名が有名なのは、アリストテレスが「都市計画を考えだした人」として言及したからである。ただ、ヒッポダモスがミレトスの設計に関わったかどうかは明かではないらしい。アリストテレスは、ヒッポダモスを理想的な都市のあり方について思索した一風変わった社会・政治理論家といい、ペイライエウスを設計したといっているだけだ。また、植民市トゥリオイまたロドスの建設に関わったことが知られるだけである。また、考古学的発掘から、ヒッポダモス以前に、グリッド・パターンの都市計画が存在したことは、ミレトスとともにグリッド・パターンの都市の先駆とされる古スミュルナの発掘からも明らかだという。
何故、グリッド・パターンなのであろうか。ギリシャに限らず、植民都市において、グリッド・パターンが採用されることが多い。新大陸に西欧列強が建設した植民都市を思い起こしてみればいい。特に、土着の文化を根こそぎにする施策をとったスペインによる植民都市がそうだ。ギリシャのこの都市計画の伝統も数多くのコロニア建設の経験に基礎を持っていることはまず間違いがない。都市計画の技術的問題、土地分配の問題を考えても、そのパターンの採用はむしろ自然である。
それはともかく、われわれは、ここで少なくとも、もう一つの都市計画の流れを思い起こしておく必要がある。自然の地形をそのまま用いる都市の伝統は一方であるのである。ギリシャの都市計画については、E.J.オーウェンズの『古代ギリシャ・ローマの都市』(松原國師訳 国文社 一九九二年)が概観しているのであるが、全てがグリッド・パターンの都市ではない。多くの植民都市の建設でその実験が試みられるのであるが、全ての植民都市がグリッド・パターンというわけではないのである。
E.J.オーエンズによれば、ヘレニズム期に入って、都市計画は新たな段階をむかえる。アレクサンダー大王の東征とともに東方ヘレニズム世界に多数の規則正しいギリシャ植民市を生むのであるが、都市計画は統治の手段でもあった。そうした中から、その威信を誇示するために都市を壮麗化する動きが起こってくるというのである。
グリッド・パターンの都市の建設には絶えず危険性があった。都市の立地によって、大規模な造成が必要となるからである。白紙の上にグリッドを描くのは簡単でも、現実には多くの困難を伴うのだ。一方、自然の地形を用いる伝統的都市には壮大なパースペクティブを生み出す可能性があった。小アジアを中心に、支配者たちは、都市を自らの業績の永遠の記念碑として残すために、大規模な景観の中に都市を構想し始める。都市の遠近法的風景は決して新しいものではなかったが、意識的な実験が盛んに行われ出すのである。アリンダ、アッソス、ハリカルナッソスなどの名前が挙げられる。
こうした都市の記念碑化、美化、壮麗化の頂点に立つのが小アジアの西海岸のペルガモンである。町そのものが断崖の頂と南斜面に立地するペルガモンは、地形を逆にとって壮麗な景観を作り出すのに成功した。「ペルガモン様式」と「ヒッポダモス風」は都市計画の二つの異なった起源であり、伝統なのだ。
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