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2021年9月27日月曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 はじめに・・・裸の建築家

裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

 

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説

 


はじめに・・・裸の建築家

 

 「タウン・アーキテクト」とは耳慣れない言葉かもしれない。直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、まちづくりを担う専門家が「タウン・アーキテクト」である。要するに、それぞれのまちのまちづくりに関わる「建築家」たちを「タウン・アーキテクト」と呼ぼうということである。

 まちづくりは本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体がまちづくりの主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。本書では日本の都市計画についていくつかの視点から考えてみた。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えたまちづくりを展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民のまちづくりを媒介する役割をもつ「タウン・アーキテクト」という職能を考えてみる。何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウン・アーキテクト」は、そのまちに密着した存在として考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちのまちづくりに継続的に関わるのが原則である。

 それでは何故「アーキテクト」なのか。大きくはふたつの理由がある。ひとつはまちづくりの具体的表現としてまちの景観が大事だということである。「建築家」は複雑な諸条件をひとつの空間やイメージにまとめあげる能力にすぐれている。あるいはそういうトレーニングを積んでいる。もちろん、ここでいう「アーキテクト」は、「建築士」ということではない。以下に見るように、その語源に遡って広義に用いたい。誰もが「タウン・アーキテクト」になりうるのである。

 もうひとつの理由が主として本書のテーマに関わる。「建築家」こそまちづくりに積極的に関わるべきなのである。何も全ての「建築家」が「タウン・アーキテクト」であれというわけではない。国家的なプロジェクトや国境を超えて仕事をする建築家は必要であるし、民間の建築の仕事はまた別である。しかし、「建築家」の仕事の原点は「タウン・アーキテクト」にあるのではないか、ということである。単なる「まちの建築家」として、あるまちで建築の仕事をしているというだけではなく、プラスアルファが欲しい。かって、大工さんや各種の職人さんは身近にいて、家を直したり、植木の手入れをしたり、という本来の仕事だけではなく、近所の様々な相談を受けるそういう存在であった。その延長というわけにはいかないけれど、その現代的蘇生が「タウン・アーキテクト」である。

 「タウン。アーキテクト」をめぐる議論は、一方、「建築家」にとっては極めて切実である。もしかするとそれ以外に「建築家の居る場所」などないかもしれないのである。 

 

 「裸の建築家」とは、もちろん「裸の王様」のもじりである。「建築家」は「王様」のように威張っているけれど、まるで「裸の王様」のように何も身につけていないじゃないか、ということだ。

 一体、「建築家」とは何者か。因みに広辞苑』を引いてみる。

 なんと「建築家」などという項目はない。「建築家」というのは幻である。かろうじて見つかるのは「建築士」という語だ。

 ●けん‐ちく【建築】 (architecture)(江戸末期に造った訳語) 家屋・ビルなどの建造物を造ること。普請(フシン)

 「建築家」とは「建築」する人のことだ。しかし、なぜ「家」などというのか。「芸術家」「作家」「美術(彫刻・画)家」「小説家」などと肩を並べるというニュアンスがある。もっとも「政治家」などというのもある。

 ●けんちく‐し【建築士】 建築士法所定の国家試験により免許を受け、設計・工事監理などの業務を行う技術者。建設大臣の免許を受ける一級建築士と、都道府県知事の免許を受ける二級建築士・木造建築士がある。

 日本には一九九七年現在、一級建築士が二七八、一八四人、二級建築士が五九五,八三六人、木造建築士が一二、四四九人、計八八六、四六九人の「建築士」が登録されている。

 しかし、「建築家」が「建築士」と同じかというと違う。「建築士」でない「建築家」は山ほどいる。「俺は「建築家」であって、言ってみれば「特級建築士」だから「建築士」の資格などいらない、「建築士」とは次元が違う存在だ」、と豪語した(する)有名「建築家」がいる。「建築士」でない「建築家」は少なくとも日本では「建築」できない。どうするか。誰かに資格を借りることになる。要するに「建築士」とパートナーを組むことになる。「建築」できない「建築家」などおかしいではないか。だから「裸の建築家」である。

 しかし、どうも「建築家」というのは「アーキテクト」という西欧語の訳語らしい。しかし、『広辞苑』には「アーキテクト」という語もない。「アーキテクチャー」は次のようだ。

 ●アーキテクチャー【architecture

 〓建築物。建築様式。建築学。構造。構成。

 〓コンピューター‐システムの論理的構造全般のこと。また、ある立場の利用者から見たコンピューターの属性。「ソフトウェア‐―」「ネットワーク‐―」

 「建築物」というが「ビルディング」とどう違うのだろう。「建築様式」というのは「アーキテクチュラル・スタイル」ではないか。「構造」は「ストラクチャー」。要するに「アーキテクチャー」というのはわからない。それに「アーキテクチャー」というのはいわゆる「建築」に限らない。「電脳建築家」(コンピューター・アーキテクト)などという。辞書を論っても埒が開かない。

 「アーキテクチャー」はもともとギリシャ語の「アルキテクトン」から来ている。「アルキテクトン」とは根源(アルケー)の技術(テクトン)のことだ。どうも「建築家」が偉そうなのはヨーロッパの伝統に根ざしているかららしい。根源的技術(アーキ・テクトン)を司るのが「建築家=アーキテクト」なのである。

 確かにヨーロッパの伝統において「建築家」は偉大な存在である。「建築家」は単に建築物を建てるだけでなく、道路、橋梁、水道、港湾などのような土木工事も行う。また、築城のみならず投石機など武器製造にも携わる。日時計、水時計、揚水機、起重機、風車、運搬機など機械製作なども行う。さらに、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化されるのが「建築家」なのである。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての「建築家」である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも「建築家」の理想なのである。

 しかし、理想は理想であって、実態はどうか。そんな「建築家」などますます複雑化する現代社会に望むべくもない。だから、「裸の王様」ではないか、そんな「建築家」など最早幻ではないか、というのがここでの出発点である。

 「建築家」が「裸の王様」であることを認めることから出発するとき、何が問題となるのか。

 ややこしいのは、以上のように、そもそも「建築家」という概念や言葉が一般に流通していないことである。予め仲間うちの理念でしかない。一般人にとって、「王様」などいないのである。いるのは「建築士」であり、「図面屋」(絵描き屋、漫画屋)であり、「土建屋」であり、「建築業者」であり、「大工・工務店」であり、せいぜい「建築屋」さんなのである。

 そこで自称「建築家」は、逆に「一般大衆」を馬鹿にしにかかる。そして、啓蒙にかかる。「建築」というのは「芸術」である。「建築家」というのは「芸術家」なのだ。日本の町がちっとも美しくならないのはわれわれ「建築家」が尊敬されないからだ。

 そこで「一般大衆」は反撥する。何を偉そうな。美しい日本を破壊してきた張本人こそ「建築家」ではないか。信頼できるのは誠実な大工さんや職人さんであって、口先だけの「建築家」ではないのだ。

 こうして分裂の溝は深い。

 「裸の王様」の世界は、「建築家」の概念が移入されて以来、もう一世紀も、この溝を埋められないでいる。「建築」という理念のみが語られ続けている。「建築家」の幻想のみが浮遊している。

 

 本書では、「建築家」の「ある」あり方を考えて見ようと思う。仮にそれを「タウン・アーキテクト」と呼んでみる。「コミュニティ・アーキテクト」という言葉でもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。欧米では定着しつつある概念である。ただ、ここでいう「タウン・アーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」べったり(その利益を代弁する存在)なのではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体としての「タウンシップ」の間に位置づけられる。

 「建築家」という職能は、施主と施工者(建設業者)の間にあって、基本的には施主の利益を代弁する職能である。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。あるいは市民社会の論理である。「建築家」が第三者として施主と施工者の利害調整を行うためには、その前提として市民社会が「建築家」の存在を支えていなければならない。

 ところがわが国の場合、以上のように「建築家」は社会に認められていない。その存在は極めて曖昧である。「建築家」が「建築家」として社会に位置づけられるためには、社会との関係がもう少し掘り下げられる必要がある。日本の「建築家」はその根をもっていないのである。  「タウン・アーキテクト」という概念も「コミュニティ・アーキテクト」という概念も今のところ西欧のものだ。日本では相当異なった存在形態をとることになるだろう。自治の仕組みとコミュニティの質が異なっているからである。しかし、いずれにせよ、「建築家」はその根拠を「地域」との関係に求めざるを得ない、と思う。そうでなければ、日本の「建築家」はいつまでも「裸の王様」のままである。

 

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