裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
裸の建築家-タウンアーキテクト論序説
Ⅰ 砂上の楼閣
第1章 戦後建築の五〇年
瓦礫と化して原形をとどめぬ民家の群。延々と拡がる焼け跡。一キロにわたって横転した高速道路。あるいは落下した橋桁。駅がへしゃげ、線路が飴のようにひん曲がる。ビルが傾き、捻れ、潰れ、投げ出される。信じられないような光景である。新幹線の橋桁が落っこちる、そんなことがあっていいのか。
阪神・淡路大震災の六日後、西宮から新神戸まで、西宮市、芦屋市、東灘区、灘区、中央区と、国道二号線を軸に、阪急神戸線、JR東海道線、国道四三号線で挟まれた帯状の地区を縫うように歩いた。一二日後、新神戸から三ノ宮、元町、神戸、兵庫、長田と歩いた。最も被害が集中した地域である。それぞれ二〇キロになろうか。
相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。瓦屋根、多くの土を載せた木造の古い住宅がやられている。在来の木造住宅が弱かったという印象は拭えない。瓦が飛び散り、モルタルも振り落とされている。火が出ればどうしようもない。
しかし、木造住宅だけではない。RC造だって横転している。倒れたものとそうでないものとを分けたのは一体何か。異様なのは、中間の階で潰れている。柱の経(太さ)が切り替わる階、あるいは壁の量が変わる階で潰れている印象である。日本ではあり得ないと言われていた「パンケーキ型」*崩壊である。高層の市営住宅が傾いている。眼も当てられない。また、ピロティー*が駄目だ。鉄道の高架もひどい。鉄骨造の中にバラバラに崩れたものがある。しかし、しっかりした設計の建築物は総じて残っている印象である。
北野町の異人館街*は比較的ダメージは少ない。地盤のしっかりしている高台だからであろう。しかし、無事だと言われた風見鶏の館(旧トーマス邸)*も煙突が折れ、クラック(ひび割れ)が入っている。三ノ宮は、ひどい。銀行、証券会社のビルが数多くやられている。地下街は無事だが、ガス、水道は二週間経っても駄目だ。地下鉄がやられている。大開では駅が潰れて道路が大きく陥没している。居留地の歴史的建造物は比較的無事だったがダメージを受けたものも少なくない。南京町は報道されたほどひどくはない。長田の菅原市場周辺の火災跡はむごい。
まるで戦後まもなくの廃墟のようではないか。廃墟から出発し、五〇年を経て、再びわれわれが眼にしたのはまた廃墟であった。
1-1 建築家の責任
戦後五〇年の節目に当たる一九九五年は、日本の戦後五〇年のなかでも敗戦の一九四五年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災○写真●と「オウム」事件*。この二つの大事件によって、日本の戦後五〇年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」*(不良債権問題)が明るみに出た。それ以降バブルのつけに日本中が悩まされている。一体、われわれの生活の基盤はどうなっているのか。日本の戦後社会を支えてきたものが大きく揺さぶられたのが一九九五年であった。そして、建築と都市の建設に関わる「建築家」がいかに非力かを思い知らされたのが阪神・淡路大震災である。
震災直後、政府の危機管理(リスク・マネージメント)能力のなさが大きくクローズ・アップされた。首相の権限、中央政府と地方自治体の権限、地方自治体間の関係、自衛隊の出動、外国からの救援隊の受け入れ、などをめぐって日本の制度の欠陥が次々と明るみに出た。しかし、不思議と責任を問う声が少なかった。人智を超えた「自然現象」を前にしては仕方がない、ということであろうか。原因究明、責任追及以前に、緊急非難、復旧、復興がすぐとりくむべき眼前の課題となった。
果たして「建築家」に責任はなかったのか。高速道路が横転し、新幹線や鉄道線の高架が落下し、ビルが傾いたのである。決してあってはならない事態である。「建築家」には安全な建築物をつくる使命があるのではないか。少なくとも建築物が倒壊して人命を奪うなどということは許されることではない。
何が問題であったのか。すぐさま問われたのは、建造物の安全性を規定する建築基準法*のような法律や基準である。基準は果たして充分だったのか。阪神・淡路大震災に限らず、大きな地震や災害の度に問題になる。そして、基準は改定を重ねてきている。今回も基準法を遵守した建物は安全であった、あるいは新しい基準法は大丈夫であったがそれ以前の法に従うものは被害率が高かった、という主張がすぐさまなされた。しかし、高速道路や高架橋には法的基準があるわけではない。法を守っていれば「建築家」の責任は問われない、ということではない。
もちろん、法を守らないのは論外である。いわゆる「違反建築」の問題*はわが国の「建築家」のみならず一般市民の建築および建築法規に対するある態度を示している。例えば、限られた土地に少しでも多くの空間を確保したいとばかりに、建蔽率*、容積率*違反は日常茶飯事である。日本の建築風土、建築文化の問題といってもいいかもしれない。
一方、法の側にも問題がないとは言えない。全国一律の規定で地域の事情が考慮されない。例えば、伝統的に木造住宅が建てられてきた地区に木造住宅が防火上の理由で建設できないと言うことがある。実態として法を守れない状況があるのである。建築基準法がザル法といわれる由縁である。
奇妙なのは「既存不適格」とされる建築物である。既存不適格建物とは、基準となる法が変わり、現行法では法律に適合しない、現在では建設できない建築物である。こんどの震災で「既存不適格」建物は駄目であった、ということになると一体誰の責任になるのか。法律が悪い、それを定める国が悪い、といってすむ問題なのか。法とは一体何か。
まず、設計(書類)上は法や基準を遵守していても、手抜き工事などその通りに施工(建設)されない問題がある。誰が、そのチェックをするのか。震災以後、検査機関の必要性が叫ばれたのは当然である。「建築家」が管理する責任があるが法的には曖昧である。管理する能力の問題もある。保険の制度などがないから瑕疵について責任をとる経済的能力がない。
さらに、法や基準を守って建設された建物も劣化するということがある。実際今回被害の大きかった木造住宅は老朽化したものが多かった。白蟻や結露、漏水によって部材が腐っていたのである。木造住宅に限らない。どんな建物でも、新築の時には基準を満たしていても、次第に老朽化するのは当然である。
要するに、安全は必ずしも法によって担保されるわけではないのである。法や基準は時代とともに変わりうるし、絶対的ではない。しかし、それ以前に絶対安全な建築物などないのである。
絶対安全な建築物がありえないとすると、「建築家」はどうすればいいのか。「建築家」に最初から問われているのは、もしもの場合にどう備えておくか、ということだ。
だから、「建築家」は自分の施主の建築物を法律だけを守って設計すればいいということにはならない。施主の強い要求に応えて違反をするのは論外である。また、経済性のみ考えてぎりぎりの設計をするのも問題である。「建築家」に要求されるのは次元の違う価値である。極端な場合、建てない方がいい、という場合だってある。
阪神淡路大震災と同じような大地震を経験した中国の唐山市*(唐山地震)の市長が、空き地は震度七にも八にも耐えるといったという。建物は倒壊しても、近接する空き地に逃れる時間があれば人命が失われることはないのである。
問題は、だから、一方でまちのあり方である。一個の建築物を設計する場合でも、決して無視してはならないのは近隣関係である。当然のことだけれど、建築物は近隣との関係で成り立っている。すなわち、「建築家」は一個の建築物の相隣関係をどう考えるかを問われることにおいて、必然的に都市(計画)全体と関わりをもつのである。
もちろん、一人の「建築家」が関われる範囲は限られている。工事管理の問題にしても、都市計画の問題にしても、社会的なシステムが問題である。しかし、「建築家」であるとすれば、問題を全て社会システムの問題としてすましかえっているわけにはいかないのではないか。もう少し責任があり、やれることがあるのではないか。しかし、それ以前の問題がある。「建築家」というのは、どうも、責任をとりたくないようなのである。責任のないところに社会的信用はなく、その仕事を職能として成立させる条件は生まれるべくもないのである。
「建築家」が阪神淡路大震災に対してまずなすべきは素直な反省である。また、徹底した原因追及である。原因究明ということでは、おかしなことがいっぱい起こった。倒壊したビルはさっさと片づけられ、個々の建物のどこに問題があったのか隠されたケースも多いのである。また、実際よくわからない事態、解明されないこともある。地中や壁の中で何が起こっているのか不明なのである。また、意図的に情報が隠されている場合がある。真相究明、情報公開が叫ばれ続けている由縁である*1。
1-2 変わらぬ構造
阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。
震災後年月を経るにつれて、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域*を中心に、各種復興事業が着々と進められている。
しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。「重点復興地域」のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、「重点復興地域」から外され基本的に自力復興が強いられた八割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。
復旧・復興計画の問題点をみてみよう。その諸問題は、実は日本の都市計画が本質的に抱えている問題といっていいのである。
a 都市計画の非体系性
復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。
また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことであった。
復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅*(建設条件)の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。
b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如
震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。
被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが四月一一日、水道復旧が完了したのが四月一七日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものである。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧・復興計画に活かすかが問われていた。
最初に大きな閾になったのが三月一七日(震災後二ヶ月)である。建築基準法第八四条*の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が三月末までに相次いで制定されている。
続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは一月二七日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災一〇日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも一月二九日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは八月二〇日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが八月一〇日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。
その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられた。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(二月二四日公布 施行日から五年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(四月二八日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(七月二八日)などが決定された。また、「阪神・淡路復興委員会」*(下河辺委員会)が設けられ、二月一六日の第一回委員会から一〇月三〇日まで一四回の委員会が開催され、一一の提言および意見がまとめられた*。タイムスパンとしては「復興一〇ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられた。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 五月一一日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の四部会の審議をもとにした三回の全体会議を経て六月二九日に提言がなされた(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。
こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急三ヶ年計画」である。「産業復興三ヶ年計画」「緊急インフラ整備三ヶ年計画」「ひょうご住宅復興三ヶ年計画」が三本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど三年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が二年というのも三年がひとつの区切りとなった理由である。
緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。
c 都市計画の手法と地域分断
復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業*である。あるいは市街地再開発事業である。震災四日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定される。驚くべき早さである。モデルとされたのは酒田火災*(一九七六年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。
二月一日、神戸市、西宮市で建築基準法第八四条による建築制限区域が告示され、二月九日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第八四条の第二項は一ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち二ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第五三条*による建築制限に移行するために、三月一七日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。
①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。
②二月二六日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業*を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。
③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば二年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。
④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会*の決定には「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「二段階方式」が取られた。
こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画が一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長として描かれていることである。
事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」*と「密集住宅市街地整備促進事業」*を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業*(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。
すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように三分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。
A地域(黒地地域)
土地区画整理事業一〇地区
市街地再開発事業六地区
B地域(灰色地域)
住宅市街地総合整備事業一一地区
密集住宅市街地整備促進事業六地区
住宅地区改良事業五地区
C地域(白地地区)
具体的には建築基準法八四条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、A、Bの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。
復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A、B地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴ(動機付け)も設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。
1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓
a 自然の力・・・地域の生態バランス
阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。空調機械で室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。
まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層*、液状化*の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。
人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。
b フロンティア拡大の論理
阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。
最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。
ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。
例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」*というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。
都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。
c 多極分散構造
日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であった。
都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。
エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。
d 公的空間の貧困
また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。
また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。
e 地区の自立性・・・ヴォランティアの役割
目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。
阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO*(非営利組織)の役割である。
f ストック再生の技術
何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。
要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。
建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。
何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。
j 都市の記憶
阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。
そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。
建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。
戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。
都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。
日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。
阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。
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