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2021年9月29日水曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅰ 砂上の楼閣 第2章 何より曖昧な建築界

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 第2章 何より曖昧な建築界


 2-1 頼りない建築家

 戦後五〇年を経て、日本の社会は大きな転機を迎えた。これまでの様々な仕組みがうまく機能しなくなるのである。半世紀の時間の流れによる制度疲労ももちろんあるが、右肩上がりの「成長主義」「拡大主義」が破綻したことが大きい。日本の社会システムは否応なく構造改革を迫られるのである。

 農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業構造は大きく変貌してきた。そして、その体質が問われ始めた。即ち、構造改革の中心が土木建設業界なのである。建設投資がGNP(国民総生産)の2割を占める*(○データ)、そうした時代は終わったといっていい。地球規模の環境問題、資源問題、エネルギー問題が意識される中で、スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)をくり返す従来の建設システムが既存ストック重視型のシステムに転換していくのは必然である。建設投資が減少するのは当り前なのである。先進諸国並みになるとすれば、建設業界の雇用者数は半減してもおかしくない○データ。予想されるのは、あらゆる局面での熾烈なサバイヴァル戦争である。建築界全体の生き残り方が厳しく問われるのである。

  生き残りを図るに当たって、大きな問題がある。建築家がそもそも信用されていないことである。日本の建築家あるいは建築界に対する見方が極めて厳しいことは、「あまりにも曖昧な建築界Ⅰ、Ⅱ」と題された座談会を読むとよく分かる*1。その座談会で、飯田亮(セコム取締役最高顧問)は次のようにいう。

 「・・・建築家というのは何なのかデフィニションがわからない。建築家というのはデザイナーなのか。構造設計もある。設備もある。どうも不明確である。学者の先生は評論家だと思っているわけです。・・・」

 まず、建築家の定義が分からない。建築の分野が専門分化して、建築家の仕事の範囲が分からなくなっている。そして、責任の体制が不明確だ。

 「建築というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ち込みますよね。絶対に負けます。・・・こちらもそれなりの優秀な弁護士を雇いますが、一つはきっちりと検査する人間がいないからでしょう。ですから曖昧なうちに負けるわけです。だから実に曖昧な世界なんです。」

 「建築界は全く曖昧だ」「建築界は全く信用できない」という告発は、建築をした具体的な経験に基づいている。要するに、建築家には建築物や都市の安全に関して責任をとる能力がない、というのである。建築界の弱点を抉っていると言わざるを得ない。建築家だけではない。学者もコテンパンだ。学者は評論家に過ぎない、何も責任をとらない、と実に手厳しい。

 責任をとれないのであればどうするか。保険の仕組みを導入するのが不可避である。保険の仕組みを導入するためには、保険料を決める格付け機関が必要となる。

 「あなたのところの安全はグレードA、あなたのところはグレードC。おれは建築費にそれだけのお金しか出してないんだ、だからグレードCでいいんだよ、保険料も高くていいんだよ。いざというときには死ぬかもしれない。ビルはつぶれるかもしれない。そこはそれぞれに任せるべきだと思います。」。

 安全は個人の問題である。自己責任が原則であって、国とか官僚とか法に委ねるのは間違っている。安全は自分で守る。建築家は頼りにならないから、建築の性能をグレード化して、保険をかける。

 しかし、そうなると建築家の責任能力は同じように格付けされる必要がある。建築の性能と保険料の設定には建築家(建築組織)の能力が大いに関わるからである。問われているのは、単に、材料や構造強度のグレードの問題だけではない。建築家の能力によって様々な瑕疵の問題も起こっている。

 建築家が全く信用できない、と思われている状況において、自己責任が原則とはいえ、保険料を施主が果たして負担する気になるであろうか。設計料と保険料が関連づけられのはむしろ当然のように思える。

 一九九八年、建築基準法が改正された*。性能規定*の導入、建築確認・検査の民間開放、中間検査制度の導入が施行される。一方、住宅の性能保証、性能表示の制度も進められている。建築界が性能の担保性をめぐって変革の時代を迎えているのは間違いない。

 しかし、どんな制度が整備されるにしても、想定外の欠陥の発生は避けられない。絶対安全な建築物はありえないのである*2。そうであれば、建築物や都市の安全は何によって担保されるのか。保険の仕組みの導入はひとつの方向である。しかし、究極的に問われるのは「建築家」のあり方であり、その役割ではないか。


 2-2 違反建築

 建築界は様々な問題を抱えているが、最も初歩的で根深い問題が違反建築の問題である。

 われわれが建築しようとする場合に遵守すべき法律として建築基準法がある。一九一九(大正八年)にできた市街地建築物法*を引き継いで一九五〇年に制定された。その後幾度か改訂されてきているが、建築物の立地や用途、構造形式や材料等々、その安全性確保の観点から必要最小限の基準を定めたものである。もちろん、都市計画法*や国土利用法*、開発規制など自治体の条例など、建築物を規制する法律は他にもあるが、最も身近な法律が建築基準法である。

 ところが、この建築基準法はザル法と言われ、あまり権威がない。建築界がよってたつ基礎ともいうべき建築基準法が頼りないのである。もっとも、この問題は建築界の問題というより日本の社会全体の問題である。

 胸に手を当てて考えてみて欲しい。

 違反建築で最も多いのが建蔽率違反、容積率違反である。建築基準法は、「用途地域」*を定め、それぞれの地域で建設可能な建築面積(建蔽率)、延べ床面積(容積率)の最大限度を決めている*3。また、用途地域に従って、前面道路の幅員などによって建築物の高さが決められている。しかし、限られた敷地を最大限に利用したいと誰しも思う。

 建築行為を行うにあたっては、書類を提出して建築主事*の確認を得る必要がある。その確認申請上の書類(図面)と実際が異なることがよくある。悪質な場合は、書類は書類として、全く別のものを建てる場合があるのである。また、後から増築する場合もある。

 ひとつには、書類と実態を検査する体制がないからである。また、それ以前に建築確認が「確認」であって「許可」ではないということがある。すなわち、強制力が弱いのである。

 吹き抜けやピロティ*4の面積は容積に算入されない。図面上は、吹き抜けにしておいて後で床を張る、ピロティを壁で囲って室内化する、屋根裏に床を設けて部屋にする、といったことはよくある。むしろ、建築家の腕の見せ所と考えられている。容積率違反は違反だけれど全体の容積は同じだから問題ないではないか、という意識がある。何のために建蔽率や容積率を規制するのか、また、建蔽率や容積率という概念についても、曖昧なところがあるのである。 

  他に多いのが接道義務違反*である。建築物は一定幅員以上の道路に接していなければならないという規定がある。しかし、既に細街路に接して建っている建物を建て替えようとする場合、違反せざるを得ないケースが少なくないのである。特に昔からの街区割りが残る地域は接道義務*を遵守できないことが多い。一九九八年の建築基準法改正によってこの規定は徹底化されることになったが、全国一律に規定する建築基準法に問題があることは明らかである。

 建築基準法は工事完了検査を義務づけている。工事が完了すると検査済証が交付される。ここに驚くべきデータがある。各都市における建築確認通知件数のうち検査済証交付件数の占める割合、いわば遵法度というべきデータである*5。


 Ⅰ 大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)

 Ⅱ 千葉(33.5%)、川崎(36.3%)、北九州(37.7%)

 Ⅲ 神戸(50.4%)、横浜(50.6%)、名古屋(54.3%)

 Ⅳ 札幌(66.9%)、仙台(75.0%)、広島(75.8%)


 大阪、京都という関西の二大都市の遵法度が低いのは歴史的都市の特性が反映していると見ることができる。が、それにしても大都市の遵法度は低い。そもそも守れない規定がなされている。ザル法と言われる由縁である。

 改正建築基準法において、建築確認・検査機関の民間開放が計られた。また、中間検査*が導入される。しかし、まずは法の権威の確立が前提である。「法は守るべきもの」という精神、前提がないところに建築文化の花は咲きようがないのである。

 阪神淡路大震災を契機として、ひとつの研究会が開始されることになった。横尾義貫*先生を座長とする、日本建築学会の「建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座」をテーマに掲げる研究会*である。その研究会でまず問題になったのがこの違反建築の問題である。改訂された建築基準法において、第三者検査機関が位置付けられ、中間検査が導入されることによって、建築主事の機能は強化された。しかし、違反建築に対する罰則は軽く、是正措置の執行力は依然として弱い。そこでどうするか。具体的に何から始めるのか。

 建築物の工事に着手する際に以下のイヴェントをやる、というのが横尾提言だ。ただそれだけ、のことではあるが、実効性はあるのではないか。地鎮祭のようなものである。具体的に敷地に行って確認する、実に素朴で簡単で、当然すべきことである。また、普通の「建築家」であればいつも行っていることである。


 場所:建築現場

 参加者:建築主事または代理者、工事管理建築士、施工者

 確認事項:(1)確認設計図書の敷地等の現地照合

      (2)建築士の工事監理、施工者の工事監理体制

      (3)その他


 2-3 都市景観の混沌

 建築界の抱えるもうひとつの大きな問題が都市景観の問題である。個々の建築活動が積み重なって都市景観はつくられる。従って、建築家は都市景観のあり方に対して責任がある。少なくとも、都市景観と建築家は密接な関わりをもっている。にも関わらず、建築家は今日の日本の都市景観に対してその役割を果たしていない。あるいは、むしろ、景観を破壊しているのが建築家であると非難される。

 景観の問題としては、もちろん、自然(農村)景観の問題もある。そこでも問題となるのは人工的な建造物である。橋梁や高速道路、鉄道高架、ダムや護岸工事など土木スケールの構築物の問題が大きい。崖崩れ防止のための「のり面」*のコンクリートなど自然景観を大きく阻害するのが土木景観である。河川の「三面貼り」*も問題になってきた。大規模なものほど影響が大きい。建築物でもまず大規模なものが問題となる。

 人の力を加え、自然を変化させてきたとはいえ、自然の大きな営みの中でできあがった農業景観や、基本的には地域産材を用い、一定の構法でつくられた集落景観にはある調和がある。しかし、近代の建築土木技術はその調和を破ってきた。

 超高層の林立する大都市のスカイラインや都市を立体的に走る高架道路など近代技術が新しく生み出した景観である。かっての伝統的な都市のスケールを超えた建築物だからといって一概に景観破壊ということにはならないだろう。エッフェル塔*にしろポンピドゥーセンター*にしろ、建設当初は非難の声が大きかったけれど、いまではパリのランドマークとして親しまれている。京都タワー*にしても、大きな景観論争を引き起こしたけれど、今では京都に相応しいと思う人も少なくないのである。建築には新しい都市景観を創り出す、そう役割もある。

 都市のランドマークとなるような、またその都市のアイデンティティに関わるようなモニュメンタルな建築物の場合、建築家と施主、そして自治体、あるいは市民、さらにマスコミを含めた諸関係の中でオープンな議論がなされ、決定についてのルールが保証される限りにおいて責任はある程度明確である。そして、歴史的にその評価は下されるであろう。

 問題はより一般的な建築行為である。ヨーロッパからやってきた外国人の多くは、日本の雑然とした都市景観に面食らう。そこで、日本は世界一デザインの自由な国だ、などと言う。要するに混沌として秩序が見えないのである。

 それに対して、「混沌(カオス)の美学」*などという主張が対置される。アジアの都市とヨーロッパの都市は違うのであって、日本には日本の都市のあり方、美学がある、という主張である。

 都市景観の問題は確かにある意味では美学の問題である。しかし、「美」とは相対的なものであって、古今東西普遍的なものではない。だから、この雑然とした日本の都市景観に「混沌の美」を感じる人がいてもおかしくはないであろう。問題は、その「美」がどう共有されているかである。

 「美」の共有といっても、「美」という「もの」があって、それを所有するかどうか、ということではない。問題は、個々の建造物が美しいかどうかという価値判断ではなく、景観を生み出す仕組みである。そこにあるルールがあるかどうかである。ある見方からすると、一方は整然と「秩序」だっているように見え、他方が「混沌」に見えたとしても、その「混沌」を生み出すルールが共有化されているとすれば、そこには「混沌の美学」があるといっていい。共有化されたルール、秩序が要するに美学である。二つの建物が、隣り合って、かってな「美」を競う場合は「混沌の美学」とはいわないのではないか。もちろん、それが日本で共有されているのであれば、それも「ルールなきルール」と呼んでもいい。

 そこで、ルールとは何か、すなわち秩序とは何か、が問題である。近代(産業革命)以前において、景観を生み出すルールはある程度わかりやすい。土、石、紙、木などの自然(生物)材料を主体とする一定の素材を用い、地域毎に、地域の事情にあった仕組みでつくられてきた町や村の景観は、色にしても形態にしても自ずと調和がとれていた。しかし、鉄とガラスとコンクリートを素材とする近代建築のそもそもの理念は、世界中で同じ建物を建設しうるということである。超高層ビルが同じように林立する世界中の大都市の景観がその象徴である。工業材料は世界中にばらまかれ、世界中の都市を同じような色に変えてきたのである。近代以前のルールと近代のルールは相容れないままに分裂してしまっているのである。

 従って、ここでも問題は一人の「建築家」の問題を超えていると言わざるを得ない。しかし、それでも「建築家」は個々の仕事において景観に対する責任を問われていることに変わりはない。景観を形成しているルールに対して自らの態度を明らかにすることが常に求められるからである。

 横尾委員会は、二年間の討議を経て、七つの提言を行うに至ったが*6、その前提とされたのが「都市空間の公共性ー景観は市民のもの」という概念である。

 「西欧の秩序ある美しい都市景観に対して、日本のそれはいかにも秩序に乏しい。建物外部の広告物、主張の強い表現の建築ファサード、林立する電柱、バックヤードのような乱雑な屋上など枚挙に暇がない。都市景観に対する市民の関心の高い歴史的都市においてさえも、以上のような乱雑な現象は見られるのである。」

 西欧の都市一般が秩序ある美しい都市景観をしていると言い切れるかどうかは別として、日本の都市景観が秩序に乏しいことは明らかである。

 「この乱雑さは、日本の固有の事情、土地のゆとりが少ないこと、また、都市が木造建築群から、一部の住宅、社寺、邸宅などを除き、西洋風建築群・近代的構造建築群へ変貌してきた経過などから、ある程度やむ得ない帰結であった、という暗黙の了解があるからかもしれない。ともあれ、この無秩序な都市景観は、市民たちにとって決して快いものではない。彼らは一見無頓着に振る舞っていても、心底に自らの住む街を快く美しくすることを望んでいるに違いない。いま彼らは、景観は市民のもの、という自覚を持つ時がきている。」

 「市民」が都市景観を無秩序と思っているかについては留保しなければならないかもしれない。何故なら、都市景観を無秩序にしているのも「市民」だからである。建築家もひとりの「市民」である。しかし一方、建築家には専門家として「秩序ー無秩序」の問題に答える必要がある。

 「進んで彼らは、都市景観の美しさについて普遍的な原理を学び、都市の個性、機能、歴史、地勢に応ずる景観デザインの思想について聴き、みずから都市の景観形成に参加していく、このような情勢が到来しつつあるように思えるのである。識者はこれに答える必要がある。」

 都市景観と美とルールをめぐって興味深いのが真鶴町(神奈川県)の「美の条例」である。リゾートマンション開発のラッシュに手を焼いた町が開発抑制策として「まちづくりまちづくり条例」を制定する、その条例が通称「美の条例」と呼ばれるのである*。

 条例は6章31条からなっている。条例全体は、住民参加を義務づける画期的な内容になっているが、中でもユニークなのが第10条「美の原則」である。「場所」(建築は場所を尊重し、風景を支配しないようにしなければならない)など、「格づけ」「尺度」「調和」「材料」「装飾と芸術」「コミュニティ」「眺め」に関わる八つの原則からなっている。また、69のキーワードが用意されている。下敷きになっているのは、C.アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」*である。また、チャールズ皇太子の「英国の未来像ー建築に関する考察」*における10原則である。

 この「美の条例」をめぐっては、もちろん様々な議論が巻き起こった。美は絶対的なものか、美は強制できるのか、「美の条例はファシズムではないか」等々。評価は分かれるが、ユニークな試みである。具体的に、コミュニティ・センターが「パターン・ランゲージ」の方法に従って設計されている。条例という制度的枠組みが先行するかたちではあるがひとつのルール設定の試みである。少なくとも、全国画一的な法律ではなく、自治体独自の「条例」によって、望ましい街並みを誘導しようという方向は間違ってはいないのである。


 2-4 計画主体の分裂

  横尾委員会のスローガンは「縦社会の横働き」*であった。すなわち、日本の「縦社会」の弊害を打破するためには「横働き」(横のネットワーク)が必要、ということだ。具体的に、建築界にも「縦社会」の問題がある。建設業界には重層的下請構造と言われるピラミッド構造があり、学会には専門分化の体制、建築都市計画行政には「縦割り行政」がある。

 縦割りの構造の成立にもそれなりに理由がある。近代化という一定の目標が設定される中での役割分担のシステムとしては効率的であった。また、日本のムラ的組織原理を維持していくのには好都合であった。日本には歴史的に形成された「縦社会の論理」*7がある。

 しかし、国際化の流れの中で、また、価値観が多様化する中で、「縦社会の論理」は必ずしもうまく機能しなくなる。そこで必要なのが「横働き」である。

 まず問題は、狭い枠に問われた「木を見て森を見ず」の議論のみ横行し、大きな議論がなされなくなっていることである。あるいは、決められた規則や前例のみに囚われ、状況の変化に対応できないことである。第一に、建築界の議論が一般に伝わっていかない、という問題がある。また、それ以前に建築界の内部が「縦割り社会」となっている問題がある。建築学会にしても、様々な業種団体の寄り合いの趣がある。

 具体的に、公共建築の計画を考えてみる。いわゆる「箱物行政」*と今日揶揄される分野である。

 地方自治体を司る首長は、地域住民の様々なニーズを汲み取り、それに答えようとするのであるが、眼に見える形で極めてわかりやすいのが「箱物」=公共施設の建設である。選挙で選ばれる首長にとっては、任期中にその実績を示す必要があるのである。地域住民のための施設空間であり、地域の建設業界は仕事を得るというメリットもある。問題は、公共施設の建設のみが目的化されて、地域住民の真のニーズに合わないことが多々あることである。具体的に、ほとんどの場合、管理運営の体制が決まらないままで建設が進められる。いわゆるソフトがないままハードな施設建設が先行する。「箱物行政」と言われる由縁である。

 施設建設の企画から建設へ至る過程にも多くの問題がある。まず、補助金制度の問題がある。施設建設の企画そのものは中央官庁で発想され、各自治体に補助金とともに同じような施設が建設されるのである。また、単年度予算の問題がある。予算の決定から、設計者の選定、基本設計、実施設計、そして建設は極めて短期間に行わなければならないのも画一的なプログラムになる理由である。時間がないから、前例主義が罷り通る。すなわち、似たような施設を踏襲した無難な仕事になる。じっくり時間をかけて、それぞれの地域の事情を考慮した創意工夫の入る余地がない。

 発注者である自治体の担当者が必ずしも建築の専門家ではないということもある。あるいは、建築の専門スタッフを抱える余裕のない自治体も少なくない。また、担当者が短期間に部署を変わるという問題がある。自治体に営繕部門がある場合も、必ずしも、公共建築全般を一貫して担うかたちがとられることはむしろ希である。

 農林水産省、文部省、建設省、運輸省、厚生省、労働省等々の事業は別個に行われる。縦割り行政の弊害は、地方自治体において顕著である。省庁毎の施策が連携なしに押しつけられるのがむしろ普通である。例えば、用地取得の問題から、複合的で一体的な施設を建設した方が合理的なのに、なかなかうまくいかない。地域よりも各部署の実績、省益が優先されるのである。

 設計者選定の仕組みも一貫して曖昧である。あくまで官主導の行政であって、「建築家」は「出入りの業者」でしかない。公共建築の設計の仕事を単なる図面を書く仕事として認識する「設計業者」も少なくない。事実、自治体側からは指名業者登録を求め出入り業者を組織化し、他方設計を受注する組織としての設計事務所の組合が組織されるなど、地域的な構造が出来上がっているのが一般的である。

 「設計料入札」*が未だになくならないのは、会計法上の問題とは別に以上のような公共事業を担う既存の利権構造が前提にされているからである。なぜ、設計競技が一般化しないかも同じ理由である。また、設計競技が行われる場合も、「疑似コンペ」*が横行するのは、公共建築の設計が単に仕事の受注としてしか考えられていないからである。

 こうして公共建築の設計において、地域住民の参加の余地はほとんどない。選挙において首長を選び、その見識に委ねるしかない。しかし、その首長や議員の選挙を支えてきたのは、主として公共事業を支える建設業界と政官界の密接な構造なのである。  

 さらに、まちづくりを考えてみる。そこにはほぼ同じ様な構造がある。

都市計画といってもバラバラなのである。第一には縦割り行政の問題がある。行政内部でもまちづくりの方針はしばしば分裂している。また、行政のコントロール(規制)とディベロッパー(開発業者)とのいたちごっこの問題がある。すなわち行政がかくあるべしというマスタープラン*を描いても、実際に物理的にまちをつくっていくのはディベロッパーである。自治体による都市計画は公共事業の実施を中心としている。インフラストラクチャーの整備、また、施設建設(箱物行政)が主体である。

 日本の都市計画・建築行政はコントロール行政である。民間の開発行為について、開発規模、用途などを規制する手法が基本である。行政の側に規制の手段は少なく、ディベロッパーは、場合によると、法規制の穴を捜して自らの利潤を最大化しようとする。行政の実施するプロジェクト事態もディベロッパーと同じ現実的な条件で実現する他なくしばしばマスタープランは絵に描いた餅となる。さらに問題はマスコミや学識経験者なるものである。彼等は理想としての提案提言を行うけれど決して責任はとらない。そして、極めて問題なのは、その主張なり提言が現実の都市計画まちづくりの分裂を隠蔽してしまうことである。

 ひとつの問題は審議会システムである。様々な施策について各界代表や学識経験者に諮問する審議会が設けられるが、多くの場合、政策立案ではなく政策追認の機能しかもたない。学識経験者の多くは単なるイエスマンである。あるいは、言いたいことは言ったけれどという言い訳によって、責任を他に転嫁する。ここでも住民の参加は疎外されてしまっている。

 マスコミがとりあげるのは、建設や建物の高さをめぐって反対運動のある場合など、センセーショナルなケースである。多くの場合、その場限りの対応でしかない。時として大きな力をもつけれど、日常的なまちづくりの施策に結びついてはいない。

 それではどのような仕組みがいいのか。本書で主張する「タウンアーキテクト」制がそのひとつであるが、その前に指針がある。情報公開(ディスコロージャー)である。まちづくりに関して、全ての情報はオープンでなければならない。まちづくりのプロセスが透明でなければ、参加はあり得ないのである。公開制とともに問われるのは、 公平性であり、公正性である。公平、公正といっても必ずしも容易に実現できるわけではない。しかし、はっきり言えるのは、その前提にあるのが情報公開だということである。誰がどういう決定を下すのか、それを常に公開することから、新しい仕組みは組み立てられるのである。

 もうひとつ指針にしたいのは現場主義である。いくら補助金が貰えるといっても不要の施設を建設するのは大問題である。維持管理のつけを払わねばならなくなって窮地に陥る自治体も少なくない。当然のことながら、現場の実態と合わない施策は要らないのである。具体的な施策を考える上で地域のニーズを把握するのが出発点であるが、その際、現場からの発想、現場での創意工夫が大事にされるべきなのである。


 2-5 「市民」の沈黙

 こうして、建築界の抱える様々な問題は、地方自治体のまちづくりの施策とも密接に結びついている。結局ベースになるのは地域社会(コミュニティ)のあり方である。

  まちづくりの主体は結局はまちに住む人々なのである。その事実がはっきりと明らかになるのは、大きな災害時など安心・安全が脅かされる事態が発生した時である。

 阪神淡路大震災の時、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上でまず拠り所になったのは近隣である。大規模な都市災害の場合、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らないのである。災害発生まもなくの緊急事態に対処しえるのは個々の地区における相互扶助活動である。

 上述前述したように、災害時に備えて必要とされるのは、地区の自立性である。火災発生時に、消火活動のために必要な水は一定の地区内に確保されている必要がある。災害時に緊急に必要とされる薬品、食料などは一定の地区内に備蓄されるか、速やかに供給されるシステムが用意されている必要がある。ガス、水道、電気、交通などライフライン、インフラストラクチャーなどにはフェイル・セーフのシステムが必要である。一極集中型のシステムではなく、多核分散型のシステムが用意されていなければならない。 

 災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。小中学校、病院などの地域施設、近隣公園などが避難所生活の拠点となる。応急仮設住宅地の生活において重要なのも地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域社会を基礎としない公共住宅の供給が空家を大量に生み出している。

 まちづくりにおいて究極的に問われるのは地域(地区)における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民(市民)のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のようにまちづくりの基礎は地域社会にある。しかし、地域社会を都市地域計画の主体とする仕組みが日本にはない。日本の都市計画制度には、繰り返し指摘するように、地域住民の積極的参加を位置づける仕組みがない。

 それ以前に住民の受動性がある。一方で、地域住民の都市計画への参加意識は必ずしも高くないのである。あるいは、地域の利益のみの追求(地域エゴ)、企業利益のみの追求が都市地域計画のテーマとなっている。私的所有権が前提される中で、公共の福祉等、都市景観の公共性、地域社会の共用基盤としての公共空間についての認識は日本においては必ずしも定着していないのである。

 そうした状況において、地域社会を主体とする都市地域計画の仕組みの確立のために「建築家」「都市計画家」の果たすべき役割は大きい。都市地域計画について、「公共」自治体と地域社会(「民間」)の関係を媒介する組織として「NPO」*(非営利組織)が位置づけられる必要がある。NPOは、都市計画のプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす組織として位置づけられる。

  もちろん、都市地域計画の実施主体としての自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会(地区)の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会(地区)が自らの要求を自ら都市地域(地区)計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となるのが一般的である。また、都市地域計画に関する専門的知識も必要とされる。

 自治体と地域社会を媒介する機関としてNPO、あるいは様々なヴォランティア・アソシエーションの活動が位置づけられる必要がある。その職能は、タウン(コミュニティ)・アーキテクト(プランナー)、ハウス・ドクター*等として理念化される。様々な形の新しい都市地域計画の仕組みがそれぞれの地域で試行され、確立されるべきである。

 横尾委員会は、次のような提言を掲げた。


 「安心・安全のための建築・都市計画立法における地方分権化とコミュニティ・ルールの確立へ

 建築あるいは都市のあり方は地域によって異なる。年間降雨量や日射量、あるいは風速など自然の条件が地域によって異なるのは当然であり、建築を取り巻く条件も地域の歴史や風土によって異なるのはごく自然である。しかし、わが国の都市や建築のあり方は次第に画一化しつつあり、地域の固有性を失いつつある。

 産業社会の論理そのものが地域の固有性を奪いつつあるといっていいが、議論すべき大きな問題として法制度のあり方がある。わが国の都市や建築を規定する法律は全国一律である。法制度は公的な(公共の福祉の)立場から最低限の基準を定めるだけとはいえ、一律の基準に適合する形で都市建築行政の展開が地域の特性を喪失させてきたことは否定できない。

 様々なレヴェルでの地方分権化とともに地域に固有な建築や都市のあり方を目指すルールの確立が急務である。安心・安全のための都市計画の基礎は地域社会(コミュニティ)にある。地域ごとに地域の固有の条件に合わせて都市計画が立案されるべきである。そのためには都市計画への市民参加が不可欠であり、市民立法の形態も様々に試行される必要がある。その前提として、建築、都市計画分野における地方分権化が大きな目標となる。」


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