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2021年10月30日土曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 Ⅱ.チャクラヌガラの構成原理

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究(布野修司),科研都城研究(199394)19953


Ⅱ.チャクラヌガラの構成原理*1

 

 

1. チャクラヌガラの空間構成

 チャクラヌガラは、インドネシアでは極めて珍しい格子状の道路パターン(グリッド・パターン)を持った都市である(図1 歴史地図)。ここでは、チャクラヌガラの構成について、建設当初の姿を推測し、考察してみたい。

 

 

 1-1 街路パターンと宅地割

 チャクラヌガラの街路体系は3つのレヴェルからなっている。街路は広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれている*2。サンガは9*3、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである*4。このマルガ・サンガは正確に東から西・北から南に走り、四辻を形成する。そして、マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。

 宅地1筆あたりの計画寸法および道路幅の計画寸法について、古い壁の残っている宅地を選んで実測を行った。計測した宅地の東西方向の平均は265m、最大は3044m、最小は2508m、また南北方向は平均2453m、最大は2684m、最小は2155mであった。宅地の計画寸法は東西約26m、南北約24m、一宅地あたりの面積は約624㎡となる。

 古老によれば*5、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba がある。トンバは槍の長さであり約25m、25mというのはその10倍である。」。また、「1プカランガンは8アレ are800㎡)であり、正方形である。」という*1。「1プカランガンは6 are 600㎡)である。」*2と異説があるが、実測では25m×25mの正方形のプカランガン(屋敷地)は存在せず、当初からほぼ26m×24mで計画されたものと考えられる。

 街路の幅はタクタガン tagtagan の幅も含めて計測した。タクタガンとは街路の両端に設けられた植栽スペースである*3。古老達によれば、「テンボック tembok 壁と道の間には、タクタガンと呼ばれる植裁空間がある。その所有権は王に属する。」*4。「タクタガンの幅は約5mであった。タクタガンの機能の一つとしては、ウパチャラ upacara(祭り)に使う。また別の機能としては、ココナツや砂糖椰子などの果樹を植え果実を収穫した。タクタガンはアダット(慣習法)では、プカランガン(屋敷地)に属しており、プカランガンのなかでは儀式を行うのを禁じた。18678年にかけて中国人がタクタガンを商業地として買い上げた。」*5

 タクタガンは祭祠の行われる場所であり、また植裁が行われ都市景観を演出する祝祭空間として、かつては利用された。しかし、現状では、マルガサンガ沿いのタクタガンはほとんどが中国人所有の商店として利用され、マルガ・ダサやマルガ沿いのタクタガンも宅地に取り込まれている例が多くみられる。

 実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで3652m、南北の通りで4405m、マルガダサは、ややばらつきがあるが平均1714m、最頻値で18mであり、約18mで計画されたものと考えられる。マルガは平均で775mであり、約8mで計画されたものと考えられる。またタクタガンの寸法は、マルガ・サンガで1163m、マルガ・ダサで46mであった。これらの数値によるとマルガ・ダサでで四方を囲まれたブロックの東西寸法は、宅地寸法(東西)26m×8+小路(marga8m×3232m。南北寸法は、宅地寸法(南北)24m×10240mになる。また、タクタガンの寸法を4mとしてブロックの寸法に含めると、興味深いことに、232m+4m×2240mとなり、1ブロックの寸法は240m×240mの正方形となる。

 

 

 1-2 住区構成---カラン

 寸法計画の面からは、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えられる。

 古老の話によると*6、南北に走る1本のマルガに10づつの宅地が向き合うのが基本である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンを構成する。クリアンとは、バリではバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80宅地で1つのカラン(住区)を形成する、ということである。

 現在、カランはインドネシアの行政組織においてはRW*1に対応する組織となっている。古老の話によると「建設当初、各カランはバリの同一集落出身の人々で構成されていた。またチャクラヌガラは33のカランからなり、各カランに1つのプラがあり、チャクラヌガラの中心寺院であるプラ・メル purameruにそれに対応する祠があった。そして、各カラン毎に長がいた」ということである*2。カランはかつては祭司組織の単位であったと考えられる。

 バリ島にはカランと呼ばれる住区は見られない。バリではカランとはスードラの屋敷地の意味である*3。ピジョー T.G.Pigeaud*4によるとカラン(karang)という語は、チャクラヌガラの王宮で発見された『ナガラ・クルタガマ』*512章「(王家と宗教コミュニティーに属する)領土一覧」の766節に見られる「kalagyans」に起源を持つという。「1.今、描写されていないのはkalagyans(職人の場所)の事である。ジャワのすべてのデサ deshas(村 地域)に広がっている。」という描写がある。

 バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールと呼ばれた。

 現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。

 

 

 1-3 祭祀施設と住区構成

 チャクラヌガラの中心に位置するプラ・メルには33の祠があるが、それと対応する33のプラが現在も残っている。プラを持たないカランも見られ、カランとプラの対応関係は崩れている(図2)が、かっての姿を推察することができる。

 ロンボク島のプラの中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メル*1である。最東にあるスワは3つの部分のうち一番重要な区画である。ここには塔や祠などの建物が配置されている。このうち主要な建物は、高くそびえ立つ三つの塔である*2。これらの三つの塔を囲むようにして、北側に14棟、東側に16棟の、塔の前に3棟、計33棟の小祠が建っている。それぞれの祠にカラン名が書かれており、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。

 建設当初は、存在したが、時代の経過によりその住区組織自体が消滅し、現在は存在しないプラも確認された。現存するプラは全部で27である。その結果、祠を維持管理する住区はチャクラヌガラの格子状の都市計画地域外にも存在することが明らかになった。また、1つのプラは、チャクラヌガラの南に位置するクディリ Kediri に有ることが判明した。プラ・メルの小祠を維持管理する住区が変化していないのであれば、格子状の区域外にもプラ・メル建設当初から、バリ人の住区があったことになる。プラの分布を見ると、古老のいう1ブロックが1カランとなるものも多く、各カランに1つのプラという対応関係は見られない。興味深いのは、南のアンガン・トゥル PURA ANGGAN TELU である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北は、プラ・ジェロがあり、東はプラ・スラヤがあり、プラ・スエタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており、必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが、プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

 チャクラヌガラのマルガ・サンガ以南の地域を旧市街であったと考えると、マルガ・ダサで四方を囲まれたブロック32からなる。王宮のあるブロックを加えると33個になり、プラメルの祠の数に一致する。チャクラヌガラの1カランを建設当初はマルガ・ダサ、もしくはマルガ・ダサとマルガ・サンガで囲まれたブロックで構成する概念があったということも考えられる。

 

 

 1-4 王宮の構成

 チャクラヌガラの王宮は、189411月にオランダとの戦争により破壊されている。しかし、C.W.クールによって*1、その配置が残されている。それによれば、チャクラヌガラの王宮はバリの王宮に比べると規模が大きく、500m×250mの規模であった*2。建物の形式等については、クールの配置図からは不明であるが、上記の文章より、周囲を壁に囲まれ、バリのプリによく似た構成であったことは間違いない。クルンクンの王宮、カランガセムの王宮が参考になる。また、『ナガラクルタガマ』の記述と合わせて王宮を復元することは都市構成を復元する大きな手がかりとなるがここでは紙数の関係で省略したい。

 

 

2. チャクラヌガラの住み分けの構造

 2-1 住民構成と住区組織

 クチャマタン・チャクラヌガラの人口(1990年)は、およそ74000人である。宗教別の人口構成をクルラハン毎にみると、格子状の町割りに含まれるクチャマタンは西チャクラヌガラ(Cakranegara Barat,東チャクラヌガラ(Cakranegara Timur,北チャクラヌガラ(Cakranegara Utara,南チャクラヌガラ(Cakranegara Selatan)の4つに、ヒンドゥー教徒が数多く居住する(表Ⅰ)。

 各クルラハン毎に宗教別のカラン数をみると、西チャクラヌガラ、東チャクラヌガラでは75%以上がヒンドゥー教徒が主流を占めるカラン、北チャクラヌガラ、南チャクラヌガラでも50%以上がヒンドゥー教徒のカランとなっている(表Ⅱ)。

 具体的な住民分布を見てみると、まずムスリムについて著しい特徴を指摘できる。ムスリムの居住するのは市の周辺部である(図3)。西側については、ほぼマルガで囲われるブロックの境界に沿ってムスリムが居住する。バンジャール・パンデ・ウタラの西の1クリアンはムスリムが居住し、バンジャール・パンデ・スラタンの西にはヒンドゥー教徒が居住する。チャクラヌガラのかっての境界はバンジャール・パンデ・ウタラの西であったことが推測される。カラン・サンパランの北は後にムスリムの居住が行われた地区であろう。南は、アビアントゥボの周囲がムスリム居住区である。そして、カラン・ゲタップが製鉄で知られるムスリム居住区である。カラン・ゲタップは、低所得者層が居住する地区でもある。東のデサ・スガンテンは、4つのカランにわけられるが、いずれもムスリム居住区である。グリッド・パターンは左京でより崩れていることが、こうしたムスリム居住区の分布で理解できる。北についても周辺部にムスリムが居住する。ヒンドゥー教徒の居住区をイスラーム教徒が取り囲んでいる形である。都心部でムスリムが居住するのはカンポン・ジャワとカラン・ブディルの極く一部である。

 中国人は、全域に点々として分布している(図4)。まず、商業地域であるチャクラヌガラの中心部、四辻のあるあたりに集住している。金を扱う商店が中心部に多く見られるが、その経営者のほとんどは中国人である。また、幹線道路沿いに中国人は居住する。主として商業活動に従事するのが中国人である。

 

 

  2-2 住区構成と施設分布

 まず、カランとブロックの関係をみてみると図のようである(図5)。マルガすなわち約20戸を単位とするが、マルガ・ダサを越えて様々な形態と規模をとる。

 モスク、プラといった宗教施設や商業施設等都市施設の分布と各カランの構成から住区構成を見てみると以下のようになる。モスク、プラの分布はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の分布に関わる。モスクは、上述したムスリムの分布と一致する。また、市の中心部に3つ建設されている。他の宗教施設として、キリスト教会が3つ、中国(仏教)寺院がある。

 パサール(市場)は、中心部の他、およそ東西南北にひとつづ5つあり、生鮮食料品など日常品を販売している。商業施設は、マルガ・サンガの大通りに集中している(図6 商業施設の分布)。

  近隣住区に密接に関わる学校は各住区毎に、いくつかのカラン毎に設けられている。

 

 

 2-3 住み分けの構図

  ①カーストの分布

 ヒンドゥー教徒の分布をカースト別に見てみよう。インドの場合と同様、バリでも、ブラーマナ Brahmana、クシャトリア Ksatriya、ウェシャ Wesya、スードラ Sudra4つのカーストが区別される。さらに、ワルナ(Waruna 色)制に似た下位分類を持つとされる。

 ブラーマナの場合、男はイダ・バグース Ida Bagus、女はイダ・アユ Ida Ayu 略して Dayuと呼ばれる。もし、母親が父親より低いカーストに属すと、子供はグスティ Gusti ないしグスティ・バグース Gusti Bagus (女性の場合、イダ・マデ Ida Made もしくはイダ・プトゥ Ida Putu)と呼ばれる。クシャトリアは、極めて複雑になるのであるが、プレデワ Predewa、プンガカン Pengakan、バグース Bagus、プラサンギアン Prasangiang といったタイトル(称号)をもつ。歴史的経緯から、デワ・アグン Dewa Agung、チョコルダ Cokorda、アナック・アグン Anak Agungも用いられる。ほとんどのウエシャは、グスティと呼ばれる。スードラの場合、大半がそうであることから、バリ・ビアサ(Bali biasa 一般のバリ人)あるいはジャバ Jaba と呼ばれる。

 インドの場合、『マーナサーラ』*1のいうように、北がブラーマナ、東がクシャトリア、南がヴァイシャ、西がスードラに振り分けられるのが基本であるが、果たしてどうか。

 まず、ブラーフマの分布(図7)で目立つのが北部である。そして、東部である。また、南の突出部の東北部にも目立つ。左京の南西、右京の中央部にも見られるが、北東部へのブラーフマンの偏りは大きな意味をもっていると考えられる。北東の方角には聖山リンジャニがあり、チャクラヌガラ周辺のプラの分布や構成について報告(1)でみたように、オリエンテーションははっきりと意識されていると見ていいからである。個々の屋敷の東北角にもサンガ(屋敷神)が排されているのである。インドそのものではなく、バリ・ヒンドゥーの方位観がそのまま持ち込まれていると見ていいだろう。

 サトリア、ウェシアについては、称号ははっきり意識されているがカーストについては居住者の認識が極めて曖昧である。特にウエシア意識が希薄である。グスティーと合わせてウエシャと考えると全域に分布するが、どちらかというと左京の分布が厚い。それに対してクシャトリアと答えるものの分布は右京に厚い。称号毎の分布を見ると、アグン、ラトゥといった王家に関わる称号、またチョコルダあるいはデワは、数も限られ、左京の王宮の周辺に分布する。

 以上のように、比較的数の多い、サトリア(図8)とグスティ(図9)には分布の偏りが見られる。サトリアは右京に、グスティは左京に偏っているといっていい。グスティをウェシャと見なせば、インドとは逆であるが、カースト毎の棲み分けははっきりしていたと見ていいだろう。

 スードラ、バリ・ビアサは全域にわたって分布する。ただ、当初は、次に出身地について見るようにカースト毎に、また、称号毎に、まとまって棲み分けられていたことは間違いないところである。

 カラン毎の具体的な棲み分け状況については紙数の関係でここでは省略したい。

  ②出身地とカラン

 チャクラヌガラは、バリ島カランガセム王国の植民都市として18世紀前半に建設された経緯をもつ。バリからロンボク島への移民はどのように行われたのか、また、どのように住区が構成されたのかについては、出身地を聞くことである程度推察できる。聞き取り調査によれば、「各カランの名前は出身地のバリの集落の名前であり、各カランの居住者はその集落の出身者」ということであった。昭和17年発行陸地測量部作成のバリ島地図で、バリ島の地名の確認を行うと*1、確認できたのは以下の13住区である(図10)。

 1.kebu2. Kebon3.Anggantelu4.Seraya5.Mantri6.Jasi7.Tohpati8.Manggis9.Sideman10.Sampalan11.Pande12.Selat13.Rendang

 カランの名称は、バリ島の集落の名称から、取られたということはほぼ間違いないと考えられる。また、集団で移住した人が、自分達の出身地の名前を移住先の土地の名称とすることは、特に植民都市ではよく見られる事象である。

 いつ、移民したのかを明らかにするために、プラ・メルの小祠を維持管理する住区の名前と、バリ島でも確認された13の住区名を比較した。その結果、プラ・メルに維持管理する小祠をもっているのは、PandeSampalanKubuRendangMantriSeraya6つであった。この6つのカランについては、チャクラヌガラ建設当初からにチャクラヌガラに設立された住区であろうと考えられる。

 

 

 2-4 居住空間の構成

 具体的な空間構成をみてみよう。ヒンドゥー地区とイスラーム地区からそれぞれ2マルガを選定した。ヒンドゥー地区は右京のカラン・ジャシ、イスラーム地区は左京のカラン・スラヤである。

 ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。歩いていても、すぐさまその違いが分かるのである。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して、イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり、細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。空間構成とは別の次元であるが、イスラーム地区に入るとすぐさま取り囲まれる。居住密度は高く、コミュニティーの質も明らかに異なっている。

 カラン・ジャシ(図11)を見てみよう。カラン・ジャシの調査街区は、2マルガからなるが、36戸ある。うち、ヒンドゥー教徒の住戸は、33戸で、ブラーフマナ1戸を除いて他はスードラ、バリ・ビアサである。他は、キリスト教の中国人が1戸、ムスリムのジャワ人が2軒ある。

 ヒンドゥー教徒の住居の場合、北東の角にサンガをもつ。サンガは全体に統一感、秩序感を与えている。屋敷地は、必ずしもバリ・マジャパイトの典型的構成をしているわけではない。敷地は様々に分割され、あるいは併合され、その構成は変化してきている。

 イスラーム地区のカラン・スラヤ(図12)は、もともと、きちんと街区割りがなされていたと思われる。なぜなら、北部には、整然としたヒンドゥー教徒の屋敷地が存在するからである。しかし、その街区割りは大きく変更されている。細街路が自在につくられ、その街路に沿って住居群が建てられる。袋路も多い。塀で囲まれた屋敷地の中に分棟で配置するパターンと街路を伸ばしていくパターンとは全く対比的なのである。

 

3. チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー

 以上をもとに、大胆な仮説を含めて、チャクラヌガラの構成原理をまとめてみたい。考察の前提となるのは以上に明らかにした以下の点である。

 ①街区の計画は明確な寸法計画を持ち極めてシステマティックになされている。

 ②コミュニティーの単位である住区(カラン)の構成も極めて理念的に計画されたものである。プラ・メルと祭祀集団としてのカランの結びつきは都市構成の極めて基本的な原理として考えられる。

 ③バリのカランガセム王国の植民都市として、バリの都市計画(集落)理念が大きな原理となっている。

 ④王宮の構成は、基本的にバリのプリの構成と理念を等しくする。

 ⑤チャクラヌガラの配置はは、周辺のプラの立地から窺える様に、リンジャニ山をメール山とするコスモロジカルな秩序のもとに行われている(報告(1)で見たように、プラ・リンサールは北東に置かれている。東に置かれているナルマダは、リンジャニ山とスガラ・アナック湖の写しである)。

 まず、計画域を特定する必要がある。その設定次第によって構成原理についての読解は異なる恐れがある。

 ⑥計画域は、プラ・メルの小祠に関わるプラの存在する範囲であると考えられる。その場合、東と南、北のグリッドから突出する区域をどう考えるかが問題となるが、少なくとも南の突出部は含まれていたと考えられる。。また、どこまで、マルガ・ダサのグリッドで計画されていたのかが問題となるが、パターンが崩れている左京の大部分は計画されていたと考えられる。

 ⑦右京(マルガ・サンガの東を左京、西を右京と便宜的に呼ぶ)については、マルガ・サンガの四辻の南に4×4のブロックが造られたこと、および北に1×4のブロックが計画されたことは、現在の街路パターンから、また、ヒンドゥー教徒の分布状況から明かである。

 ⑧左京については、グリットの区画が明確ではないが、ブロックの規模および現在の街路状況から、マルガ・ダサを特定できる。右京と左京の間には2マルガの緩衝区画(現在ショッピングセンターがあるクロダン地区)が設けられていた。道幅の広いマルガ・ダサに区画されるブロックは、それから東に4×4ブロック想定できる。北1ブロックは、プリおよびプラ・マユラのブロックである。

 ⑨以上のブロックは、現在のヒンドゥー教徒の分布から、当初から計画されていたと考えてよい。ブロックパターンの崩れた左京にも古い屋敷地壁も残されており、出身地に関するヒヤリングからも計画域はおよそ確認されている。

 問題は、上下の突出部分である。

 ⑩プラ・メルの小祠に関わるプラは、南部の突出部分に存在する。また、ヒンドゥー教徒も南北の突出部分に居住している。とりわけ興味深いのがブラーフマンの分布である。北と東にその分布は偏っている。要するに現在のヒンドゥー教徒の居住域は、その後の開発の度合いは別として、ほぼ当初から計画されていたと考えていいのではないか。

 ⑪バリの集落構成の原理の一つとして、カヤンガンティガの配置がある。プラ・プセ(起源の寺)、プラ・デサ(村の寺)、プラ・ダレム(死の寺)の三点セットのプラが南北に配置されるのである。チャクラヌガラを見ると、西の端にマルガ・サンガに接して、プラ・ダレムがある。また中央部にプラ・メルがある。さらに東の端にも、プラ・スウェタがある。南北と東西の違いはあるけれど、カヤンガンティガの理念はチャクラヌガラにも生かされていると考えられる。

 ⑫バリには、三界観念が広く見られる。宇宙の三層構造、山、平野、海というバリ棟の三つの区分、集落スケールのカヤンガン・ティガ、屋敷地の区分(ナイン・スクエア)、屋根、柱・壁、基壇という区分・・・身体の頭、胴体、足の三区分に至るまで三層秩序が貫かれているという観念がある。チャクラヌガラの南北の突出部分も、頭、胴体、足という三層区分が行われていると考えていいのではないか。

 もちろん、チャクラヌガラが新都市として更地に建設されたということではない。東の突出部には土着の集落があった。また、⑪の集落は先行して存在したと考えられている。少なくとも以上に重層する形で植民都市が計画され、建設されたのである。

 

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