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2021年10月3日日曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅲ 建築家と都市計画 第6章 「建築家」とまちづくり

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅲ 建築家と都市計画

第6章 「建築家」とまちづくり


 6-1 住宅=まちづくり・・・ハウジング計画ユニオン(HPU)

 一九八二年、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな集まりが呱々の声をあげた。当初のメンバーは、石山修武*、大野勝彦*、渡辺豊和*、そして布野修司の四人。その前々年あたりから会合を重ね活動を開始していたのであるが、一九八二年の暮れも押し詰まった一二月に至って、『群居』という同人誌の創刊準備号を出すに至ったのである。編集には当初から野辺公一があたり、準備号は当時はまだ珍しいワープロによる手作りの雑誌であった。活字は一六ドットで、ガリ版刷りの趣であった。これからに小さなメディアを予見すると、流行の雑誌の取材を受けたりした。隔世の感がある。

 その『群居』の創刊のことばは次のように言う。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア「群居」を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」

 「住宅=町づくり」というのがキーワードであろうか。四人それぞれに「建築家はもっと住宅の問題に取り組むべきだ」という思いがあった。戦後まもなく住宅復興は建築家の共通の課題であった。前川國男*の「プレモス」*をはじめ、浦辺鎮太郎*の「クラケンハウス」*など建築家は工業化住宅の開発に取り組んだ。また、住宅のプロトタイプを提案する「小住宅コンペ」*に数多くの建築家が参加した。しかし、戦後復興が軌道に乗り出すと住宅への関心は次第に薄れていく。その経緯は『戦後建築論ノート』(相模書房、一九八一年)に書いた。戦後建築の流れを振り返りながら、建築家による住宅運動の再構築は如何に可能か、などと考えている矢先のHPU結成の誘いであった。

 リードしたのは、既に「セキスイハイムM1」*の設計者で知られ、内田祥哉研究室の流れを汲んで住宅開発に取り組んでいた大野勝彦である。また、「幻庵」*など地下埋設用のコルゲート管を用いた一群の住宅で知られ、『バラック浄土』(彰国社、一九八一年)を書いたばかりの石山修武であった。そして、関西から渡辺豊和が加わるが、彼もまた「ロマネスク桃山台」で果敢に「建売住宅」に挑戦し、「標準住宅001」などの作品をものしていた。

 『群居』創刊準備号(●)には「群居考現行ーアクション・レポート:あるき・乱打夢」と題した活動報告がある。長崎、富山、高知、大阪、台北などシンポジウム活動が中心であるが、「熊谷・子供大工祭」「秋田材住宅開発」「山形・部品化木造住宅」「左官連合会との交流」「DーD方式」「東南アジア住宅調査」など活動は既にアジアへも拡がりつつあった。当初から日本のみならず、「フリーダム・トゥー・ビルド」●(マニラ)「ビルディング・トゥゲザー」●(バンコク)などアジアのグループとの連携を模索する「アジア・ハウジング・ネットワーク」の構想があった。日本の住宅や都市をアジアの拡がりにおいて捉える視点は当初からのものである。

 一九八三年四月に出された創刊号の特集テーマは「商品としての住宅」●である。住宅の問題をその生産、流通、消費の具体的な構造において考える視点も一貫するものである。『群居』は、さらに松村秀一、高島直之、小須田広利、秋山哲一らを加えて、発行が続けられ、二〇〇〇年に五〇号になる。この間のハウジング計画ユニオン(HPU)の軌跡は、『群居』の誌面に記録されてきた通りだ。

 大野勝彦のまちづくりへの取組みは、『地域住宅工房のネットワーク』*『七つの町づくり設計』*にまとめられている。大野は、セキスイハイムM1の設計者として、一般には「工業化住宅」の推進者として知られる。そのシステム志向は一貫する。しかし、そのシステムは工業化構法といったビルディング・システムに限定されない。その最初の著書『現代民家と住環境体』*が示すように、彼が再構築しようとしているのは「現代民家」のシステムである。そして、彼の追及するのはいわゆるシステムのためのシステムではない。あくまで問題とするのは現実の住宅生産システムである。その根にはリアリズムがある。

 まず『都市型住宅』において大野が示したのは、それぞれの地区で、地価に見合った住宅の型が成立する、ということである。その追及は、九〇年代の中高層ハウジング・プロジェクト*に引き継がれている。

  一方、八〇年代の大野が目指したのが、地域住宅生産システムの再構築である。その「住宅=町づくり」という方向はHPU結成のモメントになっている。地域に住宅の設計をベースにしながらまちづくりに関わる工房があり、それがネットワークを組む、というのが構想である。ここでいう「タウン・アーキテクト」構想のひとつの源泉はこの「地域住宅工房」である。

 具体的な展開としては、豊里、喜多方●、檮原・・・・など「七つの町づくり設計」である。そのほとんどは、後に見る「地域住宅(HOPE)計画」(建設省)として展開され、それをリードするものであった。

 石山修武の建築家としてのデビューは「幻庵」である。地下埋設用のコルゲート・シートを用いたパイプ住宅のモデルは河合健二*自邸であるが、傑作「菅平の家」に至るまで石山は執拗にパイプ住宅を試みている。一見奇を衒った「ポストモダン」のデザインに見えるが、その意図は明快である。すなわち、安く大量生産された素材を住宅用に転用しようというのである。そこには既存の住宅のイメージや生産システムに囚われない発想がある。また、徹底した合理精神(真の経済合理主義!)があるといえるだろう。

 その石山流住宅システムは、住宅部品を直接ユーザーに供給するダム・ダン空間工作所のダイレクト・ディーリング(D-D)方式●として展開される。そして書かれたのが『秋葉原感覚で住宅を考える』*である。要するに、電気製品に安売り市場があるように、住宅部品にも安売り市場が考えられないか、ということである。

 同じように住宅部品を市場価格より安く供給するという理念をもとに活動するグループがマニラのW.キースをリーダーとするフリーダム・トゥー・ビルドである。HPU結成間もなく石山をその工房に案内したことがあるが、日本に限定せず広くアジアを見渡せば、より安価な住宅材料、部品が手に入るという直感があった。石山の戦略には台湾(石材)やカトマンズ(家具)が置かれていた。大野勝彦があくまで全体のシステムを問題にするのに対して、石山はシステムの隙間を利用することを目論んでいたといえる。

 部品が揃うとするとあとはそれを組み立てる職人が問題になる。石山にとって最初のきっかけになったのは左官職人との関係であり、その団体「日本左官組合連合会」との接触である。『群居』創刊準備号には、既に「伊豆の長八記念館」●の模型が提示されている。伊豆の長八*とは、伊豆の松崎出身の鏝絵で有名な左官職人である。頼まれもしないのに、そのプロジェクトを提示することから伊豆松崎のまちづくり●が始まる。D-D方式とは位相を異にした、ひとつの施設の設計から、橋や商店の暖簾のデザインへ、という建築家らしいまちづくりの展開である。伊豆の松崎のまちづくりは『職人共和国便り』*にまとめられている。

 小さなものでも具体的にデザインすることによってまちづくりが展開しうる。「鯛をつる恵比寿」を象った貯金箱を置くことから始めた気仙沼のまちづくり●は、まさに石山流である。石山の一連のまちづくりの活動をまとめたものに『世界一のまちづくりだ』*がある。

 渡辺豊和の場合、住宅への拘りは必ずしもない。しかし、都市計画への関心は一貫している。もともとRIA*の山口文象*に学ぶのであるが、独立後しばらく再開発の仕事をしていたことはあまり知られていない。権利変換に手間暇かかる再開発事業におけるヴィジョンの役割を主張するのが渡辺である。阪神淡路大震災後に発表された「庭園曼陀羅都市ー神戸2100計画ー」●は、現代都市への痛烈な批判でもある。計画の具体的内容は以下の7原則を骨子としている。

 ・癒しの都市風景と庭園曼陀羅。

 ・自動車交通の全面廃棄と高速道路跡地による列島縦断連鎖住居の設定。

 ・土地公有化と一戸建住戸の全面禁止。

 ・家庭全エネルギーのソーラー化。

 ・グリーンベルトによる地区の隔離と自給体制。

 ・地区同士による経済的支配、被支配を生じさせないため地区人口を均等化するー都市人口の均質配置。

 ・残余旧市街の緑地返還。

 基本的に自動車を排除した京都グランドヴィジョンコンペの佳作入選案●もその延長にある。建築家の提案スタイルとしては、ある理想、ユートピアを提案する近代建築家のそれである。その限界は様々に指摘されてきたところだ。しかし、ヴィジュアルな提案こそ力をもつのであり、それこそ建築家の役割だ、というのが渡辺の信念である。基本原理の重要性こそ渡辺が主張するところである。

 布野は専らアジアをフィールドとして調査を展開してきた。最大の関心は西欧と異なる都市型住宅の発見である。具体的な実践活動としては、スラバヤのJ.シラス*との共同研究がある。それをベースにしたプロジェクトがルーマー・ススン(積層住宅)プロジェクトである。一言で言えば、共用空間を最大限にとった共同住宅である。広めの廊下は共用の居間(コモン・リビング)の扱いである。様々な用途に使われる。バス・トイレ、台所も一箇所にまとめられている。各階に礼拝室が設けられ、店舗なども自由に設置していい。その活動は「J.シラスと仲間たち」(『群居』●●号、●●年)にまとめた。

 二〇年に及ぶ交流をベースに「スラバヤ・エコ・ハウス」●と呼ばれる実験住宅を建てる機会を得た。小玉祐一郎の仕掛けによる。プランニングの基礎にしたのは上のルーマー・ススン・モデルであるが、省エネルギー技術などによって環境工学的な改良を加えようというプロジェクトである。導入した技術は、

 ①ダブルルーフによる屋根断熱

 ②地域産材としてのココナツ椰子の繊維の断熱材利用

 ③吹き抜け、越屋根による煙突効果利用の通気

 ④クロスヴェンチレーション

 ⑤井水循環による床輻射冷房

 ⑥太陽電池利用

 などである。

 屋根の断熱材としてココナツの繊維で編んだマットを用いたところ、グラスウール並みの性能があることがわかった。ひとつの成果である。

 『群居』の会員は千人程度である。紙面に反映されてきたとおり、地域で活躍する「建築家」が主体である。「地域の眼」という常設の欄があり、地域の問題を継続的に特集してきた。タウン・アーキテクトの実践は既に各地域にある。『群居』はそうした各地の活動をつなぐメディアとして生き続けるであろう。

 

 6-2 地域住宅(HOPE)計画(●資料写真)

 大野勝彦らがドライビング・フォース(駆動力)となって展開された「地域住宅(HOPE)計画(HOusing with Proper Environment)」は、建設省の施策としては画期的なものであった。まず、住宅政策について、地方自治体(市、町)のイニシアチブがある程度認められたということがある。また、何戸供給するかという戸数主義から脱却する方針がとられたことがある。さらに、地域の伝統への関心や地域産材利用というような地域の固有性への視点がある。そしてなによりも、何をやっていいかわからない、それ故創意工夫が問われるという魅力があった。HOPE計画については『群居』●●号にまとめた。

 HOPE計画が開始されて一〇年、ひとつの報告書がまとめられた。そこに、「地域の味方ーーわからなさの魅力」と題して次のように書いた。 


 「HOPE計画に直接関わったことはほとんどないのですが、いくつか身近に見てきました。また、当初より、多大な関心を寄せてきました。何故かと言うと、第一に、何をやったらいいかわからない施策だからです。直感的なのですが、このわからなさがたまらなく魅力的に思えたのです。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやるのか、考えねばなりません。考えて計画を立てるのは当たり前のことなのですが、中央で想定した基準やマニュアルに従って仕事をするのが身についてると戸惑います。その戸惑いと自分でたどたどしく考えようとする出発点にまず意味があると思いました。地域を素直に見つめ直すことそれがHOPE計画の原点です。地域の見方、味方が最後まで問われます。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやってもいいということにつながります。積極的に独自の施策を打ち出すには好都合です。「何処にもないもの」がHOPE計画では問題です。また、予算は限られているのですが、いろいろなお金を組み合わせると結構使えます。このルースさがまたいいところです。またそこで、色々のやりくりの上手さが問われます。

 HOPE計画は、その基本に「地域の個有性」をうたいます。地域地域で独自の住宅計画を展開するというヴェクトルは、中央で計画立案され、中央から戸数を割り当てられる戸数主義とは全く逆のものです。HOPE計画が中央の施策でありながら、ルースさを持たざるを得ないのはそれ故にです。住宅政策として、HOPE計画を打ち出さざるを得なかったのは、ある見方からすれば、方向性が見えなくなったからだということもいえます。あまりにも安上がりな施策だという批判もあります。しかし、地方自治体に方針を委ねるというのは画期的な施策転換であったことは間違いないところです。住宅というのは、本来、ローカルなものです。

 HOPE計画の策定にあたって、まず興味深いのは組織編成です。コンサルタントを含めて、計画組織の編成にまず地域差がでます。また、持続的にしぶとく展開が行われる地域と一過性のイヴェントで終わってしまう地域とその地域差も興味深いところです。さらに、成功したと思われるある地域の事例がマニュアルとして全国をめぐるのも面白い現象でした。調査研究、シンポジウムや各種イヴェント、様々な顕彰制度、設計競技、公営住宅の設計、挙げてみれば、HOPE計画の手法といってもそう豊かなわけではありません。それでも、地域によって相違が出ます。やはり、人の問題が大きいでしょう。同じ手法でも、集まる人の顔ぶれで表現は全く変わるからです。

 警戒すべきはステレオタイプ化です。地域型住宅として、全国画一的に入母屋御殿が普及していく、そんな事態は避ける必要があります。HOPE計画が年数を重ねてマンネリ化していくのは、ステレオタイプ化が起こるからです。そこには、ルースさがありません。考えるということがありません。創意工夫がありません。」*(『十町十色 じゅっちょうといろ HOPE計画の十年』、HOPE計画推進協議会 財団法人 ベターリビング 丸善 一九九四年三月)。


 「HOPE計画」は、建設省の施策として一九八三年に開始され、この10年で、200に迫る自治体がこの施策を導入してきた。地域にこだわる建築家やプランナーであれば、おそらく、どこかの計画に関わった経験がある筈である●リスト。「バブル建築」の隆盛の中で、あまり注目されてこなかったのかもしれないが、その意義は決して小さくない。

 HOPE計画の内容と各市町村の具体的な取り組みは『十町十色』にうかがうことができる。実に多彩だ。

 「たば風の吹く里づくり」(北海道江差町)、「遠野住宅物語」(岩手県遠野市)、「だてなまち・だてないえー生きた博物館のまちづくりー」(宮城県登米町)、「蔵の里づくり」(福島県喜多方市)、「良寛の道づくり」(新潟県三条市)、「木の文化都市づくり」(静岡県天竜市)、「春かおるまち」(愛知県西春町、「鬼づくしのまちづくり」(京都府大江町)、「ソーヤレ津山・愛しまち」(岡山県津山市)、「なごみともやいの住まいづくり」(熊本県水俣市)等々●○、思い思いのスローガンが並ぶ。「たば風」とは、冬の厳しい北風のことである。「もやい」とは、地域の伝統的な相互扶助の活動のことである。地域に固有な何かを探り出し出発点とするのがHOPE計画の基本である。

 「○○の家」と呼ばれる地域型住宅のモデル設計が各地で行われ、これまでの公営住宅の標準設計をそれぞれの地域で見直す大きなきっかけになった。また、可能な限り地域産材を用いる方向性も各地で共有されるものであった。そして、住民参加、住民の創意と工夫をベースとするのも地域計画の大きな柱である。建設省の住宅政策としてみると一大転換といってもいい。従来の戸数主義、すなわち、中央から建設戸数を各自治体に割り当てるやり方とは百八十度異なり、地域(地方自治体)が住宅建設の主体となる契機を含んでいたのである。

 個人的には、智頭町(鳥取県)のHOPE計画に少しだけ関わった。「智頭杉日本の家コンテスト」の審査委員をした縁である。いささかほろ苦い経験だった。行政主導のプロジェクトは必ずしもうまくいかず、一三戸全て住戸規模が異なる不思議な集合住宅が智頭の駅前に建っている●。智頭には寺谷篤が率いる「智頭町活性化プロジェクト集団」(CCPT)がある。「ログハウスの杉の子むらづくり」「杉下塾」など遙かに行政的な枠組みを超えた運動を展開している。郵便局員が地域を巡回するその「ひまわりシステム」は全国的に話題を呼んだ。

 地域住宅計画の意義は、繰り返せばこういうことだ。

 まず第一に、計画の基本に「地域の固有性」へのこだわりが置かれていることがある。住宅は本来ローカルなものであり、ローカルに多様であることが前提なのである。

 第二に、施策の枠組みがリジッドでないということがある。中央で用意した基準やマニュアルに従って計画するのではなく、創意工夫が前提である。これこれをやれというのではなく、やることを地域で決める。基本的に何をやってもいいのである。何をやってもいいというのは、施策としては、曖昧である。この曖昧さ、融通無碍なところがまずいい。住宅政策としては、方向性を見失ったからである、あるいは、地域の智恵に頼る安上がりの施策だ、といった批判は可能だけれど、計画のフレキシビリティーと地域主体の原則は画期的なのである。

 第三に、計画のための組織づくりがユニークである。というより、各地域で様々な形のまちづくり組織が形成されたのが興味深い。まちづくりの基本はひとであり、人のネットワークこそが計画の質を決定するということである。HOPE計画といっても色々で成功したものばかりではない。一過性のイヴェントとして終わってしまった地域もある。計画が持続性をもつかどうかはやはり人によるところが大きいのである。

 とはいえ、HOPE計画の意義が問われるのはこれからだといえるかもしれない。様々な計画が具体的な街の景観として定着していくのにはさらに時間がかかるからである。十年たって、いくつかの限界が見えだしたのも事実である。大きいこととして計画の手法がそう豊富化されてこなかったということがある。公営住宅の設計、各種シンポジウム、講演会の開催、各種顕彰制度の創出、コンペ、・・・手法は限られ、ステレオタイプ化する傾向もないではないのである。「○○の家」も、地域の固有性をうたいながら、なんとなく似ているといったことも指摘されるところである。

 「地域」の成立根拠がさらに揺り動かされる中で、HOPE計画の可能性はさらに追求される必要がある。しかし、バブル経済の高波は、地域住宅計画の小さな動きを飲み込んでしまったのであった。今、その動きは蘇りつつあるのであろうか。

 HOPE計画が蒔いた種が生き続けているとすれば、それを担い続けている人こそタウン・アーキテクトと呼ぶに相応しい。


 6-3 保存修景計画(●資料写真)

 HOPE計画を立案する上で手掛かりとなるのは、地域のもっている資源である。資源にはもちろん人的資源が含まれる。というより、人こそが第一の鍵だ。うまくいったHOPE計画の背後には必ず仕掛け人がいる。市町村にオルガナイザーとしての人材がいるかいないかはその成否に関わる。そうした人材こそタウン・アーキテクトと呼ばれるに相応しい。

 一方物理的な資源にもいろいろある。まず、自然とその恵みがある。また、その土地に暮らす人々がつくりあげてきた環境がある。さらに、歴史的な出来事とその記憶がある。要するに、地域において歴史的に形成された文化は資源になりうる。その資源は必ずしも固定的ではない。ある日突然埋蔵文化財が発見されたり、突然隕石が落下してきたり、新たな資源が加わることもあれば、人と人の関わりが新たな資源として何か(施設)を産む場合もある。

 一般にわかりやすいのは街並み保存の分野である。歴史的環境の保存を梃子にしたまちづくりの展開に先鞭をつけたのは太田博太郎*、小寺武久*、小林俊彦*らによる妻籠の保存計画である。また、地域文化財という概念のもとに、街並みの保存修景計画を展開したのが西川幸治*とそのグループ(保存修景計画研究会●○)である。

 この運動はやがて文化財保護法における伝統的建造物群保存地区*の指定という制度を産む。また、全国街並み保存連盟という組織の設立(一九七四年)によって全国規模の運動として展開されることになる。妻籠、有松(愛知県)、今井町(奈良県)の三者で結成され、「第一回町並みゼミ」を開催した足助(愛知県)以下、近江八幡(滋賀研)、角館(秋田)、知覧(鹿児島)など七〇団体が加盟する。

 その展開はいくつかの段階を経てきた。妻籠がまさにそうであるように、当初は、歴史的街並み保存と観光開発が関連づけられた。歴史的な景観が失われていくなかで、古き美しき日本の原風景が回顧される、その流れをうまく捉えたのである。

 一般に、歴史的街並みが残る地区というのは、開発圧力から取り残された地区である。あるいは、自ら更新していく活力を失ってきた地区である。経済的開発と保存を両立させるのは容易ではない。そこで、制度的な裏付けによる公的補助の仕組みがつくられることになった。ところが、制度化によって、新たな問題も出てくる。

 伝統的建造物群保存地区の場合、あくまでも文化財としての位置づけが前提である。街並みのファサードはある時代の様式に統一する必要がある。現代的生活には合わないことが多々ある。空調機の室外機や自動車の駐車の問題など共通の問題である。

 例えば、京都の町家街区のようなより一般的な町の場合、文化財としての規定は馴染まない。以下に見てみよう。


 6-4 京町家再生論(●資料写真)

 伝建地区指定による歴史的環境保存は基本的には文化財としての環境保存である。歴史的な街区といっても全てが伝建地区に指定されるわけではない。

  京町家再生研究会が発足したのは一九九二年の祇園祭の日である。当初からメンバーに加えて頂き、いきなり、京町家の再生手法について考えさせられた。すぐさま理解したのは、京町家の再生が容易ではないことだ。特に既存の制度的枠組みがネックになっている面が大きいのである。そこで集中して調べてみたのが制度手法である。以下に基本的な問題をみよう。


 a.町家再生の目的

 『新京都市基本計画』(*1)は、「第3章第1節住宅・住環境の整備(1)京都らしい良質な住宅ストックの形成」において、京町家・街区の再生(ウ)をうたう。「良好な京町家が連坦し伝統的な雰囲気を残す街区については、京都らしさの継承等を目的として新たな地区指定を行い、積極的な防災措置や改善助成などにより、その保全と再生を図る。また、京町家の居住や商業・業務機能への活用を誘導する。」ことが目指されている。具体的な施策としては、京町家の街区の指定と改善助成、および京町家活性化事業(地・家主、民間事業者等と連携しながら町家、長屋等を改修し、居住機能や商業・業務機能として再生・活用を図る事により、京都らしい町並みを整備し、町の活性化を目指す事業)が挙げられる。

 また、「第8章第2節歴史的風土・景観の保全と創造(3)市街地景観の保全と創造」において、歴史的市街地景観の保全(ア)をうたう。また、市街地景観の調和と創造(イ)をうたう。具体的な施策としては、(ア)美観地区制度の指定地区拡大、(イ)景観形成地区制度、(ウ)共同建替、協調建替が挙げられる。

 一方、京都市住宅審議会の答申「京都らしい都市居住を実現する住宅供給のあり方について」(*2)は8つの基本施策のなかに(3)京町家ストック改善の推進(市民文化の継承、都心定住)を挙げ、①居住機能の更新を図るストック改善、②商業機能等の更新を図るストック改善を目標としている。

 何故、「町家再生」なのか。以上からは、大きく二本の柱が浮かび上がる。

 第一は、町家の町並みの再生である。「京都らしい」「伝統的な」京町家の町並みの再生という目的である。京町家が次々に建て替えられ、町並みが崩れてきた現状に対して、京町家の町並みが維持してきた景観を再生していこうというのである。

 第二は、町家の再活用である。ストックとして存在してきた京町家を改善し、他の機能に転換することも含めて、再生・活用し、町を活性化しようという目的である。特に、都心地域のブライト化(人口減少)に対して、町の活力を再生しようというのである。

  第一、第二の目的のための施策展開が、京都にとって、特に、都心地区にとって、極めて大きなものであることは言うまでもない。しかし、第一、第二の目的を実現することが必ずしも容易なことではないことも予め意識されるところである。現実のメカニズム(建造物や土地の更新メカニズム)は、むしろ、目指すべき方向とは逆の方向を推し進めてきたのであり、それだからこそ以上が大きな課題として意識され出したという経緯があるからである。地価の問題や相続税の問題など、様々な問題が絡み合っており、「町家再生」という課題は極めて多様な側面からアプローチすべき総合的な課題である。


 b.木造町家の再生

 それでは、何を課題とし、何を目的とするのか。焦点となるのは、既存の京町家、そして、京町家が連坦し「伝統的な雰囲気を」残す街区である。今、存在する町家あるいは木造の町家をどうするかというテーマである。

 ここで、町家再生というときの再生の概念を大きく区別して考えておく必要がある。「町家再生」の第一の目的として、京町家らしい町並みの再生をうたうが、必ずしも、かっての町並みのそのままの再生(復元)が目的とされているわけではない。どちらかと言えば、新しい町家をどう創っていくかに力点がある。ビルに建て替わった街区を元に戻すというのはいかにも非現実的である。新しい町家(都市型住宅)をどう創っていくかは、それ自体別途大きなテーマとされねばならない。

 現在、存在する町家や町家群をどうするかという時に、その保存、あるいは保全がまずテーマとなる。「町家再生」の第二の目的であるストックとしての京町家の改修・再活用に照らせば明らかにそうである。京町家を全く新たに建て替えてしまうとすれば、上記の別のテーマになるだろう。一方、第一の目的に照らして、町家の保存、保全を計ることについてはどういう位置づけが可能か。この点は、必ずしも自明ではない。新しい町家の町並みが時間をかけて造られていくとすれば、かっての町家は当然新しい形に建て替わっていくものとする考え方も成り立つからである。しかし、ここで前提とするのは、「現存する京町家は可能な限り、町並みの核として、あるいはその記憶として、あるいはすぐれた都市生活文化の空間装置として保存、保全さるべきものである」ということだ。第一、第二の目的に照らしても、まずは既存の町家の保存、保全の諸方策を検討することは大きな意味を持つと考えるのである。

 既存の町家の保存、保全をテーマとする時、大きな問題がある。極端にいうと、現行の諸制度の中にそのための方策が全くないのである。例えば、居住者が自ら居住する町家を修繕して住み続けようとすると「建築基準法」による防火規定などのためにそれが不可能なのである。もちろん、こうした言い方には補足が必要である。建築基準法の規定に従ってしかるべき措置を行えば、町家を修繕、改修することは可能である。しかし、その措置において京町家の町家らしい佇まいは失われるのではないかという問題が派生する。再生すべき町家とは何か、町家の何が保存されねばならないのか、という問題が本質的である。

 そこで、既存の制度的な枠組み、特に、現行建築基準法の枠組みに従って、「町家再生」、町家の保存、保全を考えていく以前に、「京町家本来の木造のままで保存、保全する」ことができないか、というテーマを考えてみよう。また、その延長拡大として、「木造町家を新たに建設していく方策はないのか」というテーマを考えてみよう。後者をテーマとすれば、必ずしも、既存の町家や町家群に限定されない。もちろん、現代において「木造町家が可能かどうか」という点は、「町家再生」という大テーマにとってもキーである。


 c.町家再生という行為内容

 京町家の保存・継承の具体策については、チェントロ・ストリコ研究会(代表 三村浩史)による「歴史的都心地区における町家・町並みの保存と継承の具体策(1)(2)」*(住宅総合研究財団 1993年 以下、チェントロ・ストリコと略)に包括的に示されている。ここでは、基本的にそれを前提としよう。ただここでは、町家再生のための具体的な行政手法の検討が主題である。町家再生のための制度手法を検討するために、町家再生という行為内容を分類しておこう。分類の基礎となるのはおよそ以下のような軸である。

 ①保存行為か建築行為か

 ②単体か群(地区)か

 ③木造かその他の構造か

 ①については、下位分類として、全体的保存か部分的保存か、何を保存するのか(ファサード保存、様式保存、・・・)を考えることができるが、建築基準法上の建築行為となるかどうかがポイントである。②については、単体の立地条件や地区の大きさとか特性による下位分類が可能だが、大きくは単体かどうかがポイントである。③については、木造を問題にすることが前提だが、今日木造の定義は必ずしも明快ではない。ここでは、防火構造かどうかが分類のポイントである。

 以上を念頭に置いて、町家再生という行為を分類してみると以下のようになる。

 A.単体保存

 B.地区保存

 C.単体再生

 D.地区再生

 A、Bは、既存の町家が存在するケース、C、Dは、新たに町家を建設するケースである。ここで保存について、もう少し、細かく規定しておこう。建築行為とならない「保存」は、極めて限定的であり、制度的対応は文化財保存という形に限られる。通常、保存行為は以下のような幅をもって考えられている。

 ①保存   Preservation   原形・凍結保存

 ②保全   Conservation   現状保存・維持管理

 ③復原   Restoration Remodelling  

 ④改修   Repair Improvment Rehabilitation 

 ⑤増改築 Enlargement Modification

  ⑥建替   Reconstruction Renewal

  問題はA、Bである。ただ、A、Bの場合も、ここでは「新築」に等しい「建替」も含めた行為も場合によっては含み得る。町家を復元したり、新たに創るケースもありうるからである。

 チェントロ・ストリコは、保存・継承のパターンとして、

イ.原型保存(1)

ロ.変化形活用(2)

ハ.継承的創作(3)

の三つのモードを分け、(A)外観、(B)内部空間の組み合わせとして、以下の三つを区別している。

 ①伝統的木造様式保存・復元(原型保存、内部空間活用)

  A1B1 A1B2 (A1B3)

 ②伝統様式の活用(変化形活用、内部空間創作)

  (A2B1) A2B2 A2B3

 ③継承的創作(原理継承、創作デザイン)

  (A3B1) A3B2 A3B3

 この分類も、既存の町家との関係において考えると以下の三つに整理される。

 ①すぐれた町家の伝統木造様式の外観をできるだけ完全に保存する、あるいは一部保存する。内部空間についても同様であり、その用途にもよるが、できるだけ原型の様式を残す。A1B1 A1B2

 ②すぐれた町家の外観を保存または修復し、住居および事業所として持続的に活用する。内部空間も同様であるが、現代的創作も期待する。敷地によっては、通りに面した部分を保存し、奥を改築する。A1B2 A2B2 A2B3

 ③新しい創作の場合に、伝統的町家・町並みが有してきた空間構成原理を適用する。A2B2 A2B3 A3B2 A3B3 

  主として①②、また、制度手法を考える上では、A1、A2、A3の区別が重要である。


 d.町家再生のための制度手法

 考えられる制度手法を検討してみよう。現行の制度的枠組みは極めて限定的であり、町家再生のための手法も限られるからである。

 チェントロ・ストリコは、京町家の保存・継承施策として、①モデル・カルチャー型、②動態保存・伝統尊重型、③動態保存・改造活用型、④新町家・伝統様式引用型、⑤新町家・創作志向型、⑥断絶型の6つを挙げる。しかし、具体的制度手法との対応を考えると①~③と④~⑥とでは大きく異なる。ここで主として問題とするのは①~③となる。同じく、都市計画的な対応のひとつとして、チェントロ・ストリコが挙げるのが、保存指定のパターンである。具体的には、以下のようである。

 指定1 単体保存

  指定2 連坦指定:一軒以上の伝統的町家の徹底保存。一世紀前の京都の風情の再現。映画のセットとなる界隈。

 指定3 混合創作:外観の伝統を忠実に維持していなくても、京町家の雰囲気をとどめた建築が集まっていて、低層建築の町並み維持している界隈。

 その力点は、指定3にあるようだが、具体的な検討はなされていない。また、指定1、指定2についても、具体的にどのような制度手法を用いるかは不明である。本研究では、その具体的検討がテーマである。

 既存の町家の保存・再生を考える場合、次のような手法がある。既存の制度的枠組みの大幅な変更を伴わないとすれば、以下のいずれかを用いるのが基本である。

 ①文化財保護法98-2および83-3による方法

 ②建築基準法3-1-3によるその他条例の制定による方法

 ③建築基準法38(大臣特認)による方法

 ④都市計画区域の変更による方法

 チェントロ・ストリコの指定1、指定2については①によることが考えられる。すなわち、文化財としての保存(手法Ⅰ)、伝統的建造物群の指定(手法Ⅱ)という手法である。しかし、文化財としての町家の保存のみでは、「町家再生」という目的のためには不十分である。そこで②を用いることが如何に可能かがひとつの焦点になる。②を①の拡大適用と考えて、町家保存再生を計る手法である。しかし、①は、凍結保存、原型保存、様式保存が原則で、狭義の保存が主となる。伝統的建造物群の保存地区の指定も地区は限られてくる。特に、ストック活用を考える場合、①の拡大適用だけでは不十分である。そこで、①は①として、②は、現行法規の解釈では、文化財に準ずるものを条例で指定することが想定されている。しかし、ここでは新たな可能性として、より一般的な町家について「その他条例」を考えるのが適当である。景観資源としての価値を重視した、その他条例になり得る条例の立法化を新たに考えるのである。「京町家保存再生条例」、「京町家群保存再生地区指定」という総合的な立法化もありうるし、景観条例、特別保存修景地区や美観地区等の指定を整備していくことが考えられる(手法Ⅳ)。

 ②による場合、単体の指定は、場合によるとなじまない。そこで単体保存の場合に③が考えられる。両側をビルで囲われているケースなど防火上の規制緩和が可能なケースがある。両側のビルをどう担保するかは問題であるが、ケース毎に③を用いることは原理的にありうる。ただ、町家を一戸ずつ認定するのは行政的に煩些だということがある。より地域に密着した形で、「日本建築センター」*のような評定機関が設置されることが考えられる。③によって、単体保存が可能になれば、それを面に広げていくことも可能となる筈である(手法Ⅲ)。

 ④は、目的に忠実に「京町家保存再生地区」制度を新たに設定する都市計画の変更を伴う手法である(手法Ⅴ、手法Ⅵ)。

 以上を整理すると、検討すべき手法は以下のようになる。

  

 手法Ⅰ 文化財指定・登録による保存

     単体保存:文化財もしくはそれに準ずる町家

 手法Ⅱ  伝統的建造物群保存地区指定による保存

     地区保存:伝統的町並みが残されている地区

 手法Ⅲ 「京町家保存再生認定」による保存(建基法38大臣特認)

     単体保存再生あるいは新町家創生:伝統的町家および新町家

 手法Ⅳ 「景観条例」(「特別保存修景地区」、「美観地区」等)による京町家保存再生地区指定による保存(建基法3-1-3その他条例適用)

     地区保存再生あるいは単体保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅴ 「京町家群保存再生地区制度」(仮)による保存再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅵ 「新町家景観形成地区制度」(仮)による再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区創生:一般住宅地


 手法Ⅰ、Ⅱは既存の手法、手法Ⅲ、Ⅳは、条例等の新設によって、規制緩和をしようとする手法、手法Ⅴ、Ⅵは、都市計画による手法である。

 具体的に、例えば、手法Ⅲは以下のようにイメージされる。

 ①保存すべき町家の形式(ファサードの様式)が予め景観審議会等デザイン・コミッティーによって、デザイン・コードとして決定される。

  ②規制緩和、適用除外を認定する機関を条例で定める(建築センターに準ずる機関を設置する)。

 ③認定機関は、個別事例毎に規制緩和の評定を行なう。

 手法Ⅳは、手法Ⅱの拡大適用としてイメージされる。


 最も可能性のある結論は、しかし、手法Ⅴ、Ⅵであることは明らかである。しかし、阪神・淡路大震災が全ての議論と提案を振り出しに戻した。

 木造町家の生き延びる条件はますます厳しい。日本の伝統的な町並みが木造町家によって形成されてきたとすれば、木造町家をどう成立させるか、という方法論が無い限り、文化財としてのファサード凍結保存意外に選択の余地がない。ほんとに日本の町はそれでいいのか。


 6-4 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

 一九九八年五月、ヘンリ・サノフ*が京都の出町柳商店街にやってきた。大学のすぐ近くということなので何人かの学生をそのいわゆる「まちづくりゲーム」と呼ばれるワークショップに送り込んだ。題して「ほれぼれ出町づくり ワークショップin出町商店街」(五月二七日~二九日)。プログラム第一日は、講義「コミュニティづくり」と「街並み保全と街並み合わせスライド尺」(町並みに相応しいファサードデザインを用意されたいくつかの中から選択する)、第二日は、講義「建物と遊び場のデザイン」と「アートセンターと遊び場」、第三日は、まち歩きと「デザインゲームづくり」(●資料)。僕自身は、最後の日の、商店街の人々を前にした各グループのプレゼンテーションと懇親会に参加しただけなのだが、およその雰囲気をつかむことはできた。通訳兼任で全体を指導していたのは日本のまちづくり伝道師林泰義*である。

 まずは町を歩く。そして、様々な問題点を議論する。さらに、何事かを提案する。出町柳でのワークショップの手法は、極めてオーソドックであった。そのブレーン・ストーミングによる合意形成の過程は、誤解を恐れずに言えば、KJ(川喜多次郎)法*である。模造紙に参加者の意見を次々に書いて、それをグルーピングしていく。付箋もよく用いられる。

 川喜多次郎*の方法については、地域研究の方法を主題とする極めてアカデミックな国際シンポジウムの基調講演として聞いたことがある。学問と実践の関係、フィールド・サイエンスの基本的なあり方を問うその講演は随分と刺激的であった。演壇一杯に張り出された模造紙にびっしり書き込まれていたのは、東北の過疎の村のむらおこしの事例だった。

  現場で徹底的に議論すれば合意形成は必ずなる。

 信念に充ち、経験に裏打ちされた断言は迫力に充ちていた。帰納法でも、演繹法でもない。現場の共有による解決である。

 C.アレグザンダー*がいう「センタリング・プロセス」*を思い出した。ただ、C.アレグザンダーの場合、もう少し普遍的な価値や理念を前提にしているように思える。ともあれ、そのパターン・ランゲージ以降の展開は、建築家によるまちづくりの方法として検討すべきものである。ヘンリ・サノフの出町柳商店街のワークショップはあくまで「ゲーム」であった。というか「まちづくりゲーム」のオルガナイザーの養成訓練といった趣であった。ほとんどの参加者は居住者ではなく、他所者である。面白かったのは、参加者の提案と商店街の人達のリアクションである。商店街の人達がよりラディカルな提案を切り返したりしたのである。建築家あるいはプランナーがどうまちの人達と関わるのかはまちづくりの基本的問題である。

 サノフは、著書の中で自身が試みたいくつかのゲームを挙げている*1。遊び場、児童センター、野外キャンプ場といった施設の計画、商店街の再生構想、省エネルギー計画などである。そして、「形容詞さがし」(場所の雰囲気を形容詞で表現する)、「ルート選び」(目的に従って歩く道を選ぶ)、「街並みあわせ」(街並みに相応しいファサードを選ぶ)など、ゲームを行う上での具体的な手法を挙げる。

 サノフは「まちづくりゲーム」を所詮シミュレーションにすぎないという。「学習」「経験」に意味があるという。一方、「まちづくりゲーム」を具体的なまちづくりの過程に用いようとするのが林泰義である。彼が一貫して関わってきたのが自らの住む「世田谷区のまちづくり」である。その活動に対して、一九九八年度の都市計画学会賞が授与された。そして、ほぼ同時に、建築フォーラム(AF)がAF賞*を贈った。そのAF賞記念シンポジウムの行事の一環としてJ.シラス*とともにその活動の一端を案内してもらった。

 東京工業大学の土肥真人研究室が企画してくれた「世田谷まちづくりツアー」のコースは、三軒茶屋→太子堂(太子堂まちづくり協議会)→梅ヶ丘→羽根木プレーパーク→深沢→ねこじゃらし公園→玉川まちづくりハウス→東工大百周年記念会館(シンポジウム会場)であった。

 世田谷区で住民参加型のまつづくりが始まったのは区長公選が実施された一九七五年からである。最初の活動が大村虔一・彰子夫妻の主導による「冒険遊び場」*である。「水道道路」を借りて始められた冒険遊び場運動は、羽根木公園に今日に至る拠点を見出す。様々なグループが子どもの遊びを核として広がりを見せる。ヘンリ・サノフのデザイン・ゲームとの出会いは一九八八年のことで、世田谷区の研修プログラムとして取り入れられるのが一九九〇年春である。

 見せて頂いたのは、いずれも極くささやかなプロジェクトである。例えば、三軒茶屋のヴェスト・ポケット・パークは、住民の発意で、住宅一戸分の土地を区が買い上げて公園になった。以後、住民たちによって維持管理されている。あるいは、小学校前の歩道。ちょっと拡幅してフェンスをデザインする。さらに、公衆電話ボックスの設置。身障者や子どもの利用を考えてみんなに使いやすいようにデザインする。「ねこじゃらし公園」と名付けられた一見何の変哲もない公園。住民たちの合意で、かってどこにもあった雑草がぼうぼうはえる公園とした。使われていない公共空地。色々なイヴェントに使わせてもらうことにした(コミュニティ・ガーデン)。J.シラスはしきりに共感を示していた。彼がインドネシアで進めてきたカンポン改善事業(KIP)に相通ずるものを感じたからである。

 身近な環境をみんなで考え、デザインする。まちづくりの原点である。


 6-6 X地区のまちづくり

 O市N区X地区は実在する地区である。X地区全体にはおよそ人口二万人が居住する。大都市の都心に近い居住地だ。といって、歴史はそう古いわけではない。母都市の発展とともに人々が蝟集してきた地区で昭和の初めに耕地整理が為されていて街区は割と整然としている。

 整然とした格子状の街区にT商店街が東西に走っている。南北道路で仕切られ、八番街ぐらいまであるから結構な規模である。一キロは悠にあろうか。しかし、近年商店街は活気がない。シャッターを閉じたままの店が目立っている。

 近くに日本でも有数の「寄せ場」があって、X地区にも、ちらほらホームレスの姿が見られる。X地区を歩けばと町の雰囲気はすぐわかる。ところどころに銭湯があって、下宿屋スタイルのアパートがある。下宿屋スタイルというのは、玄関が共通で靴を脱いで上がるアパートである。トイレ、流しは共通で、風呂はない。地区に銭湯が必要な由縁である。戦前に遡る長屋もまだ残っている。居住環境は、一般的に言えば、そう豊かでないということになろう。

 整然としているけれど路地は細い。街路に樹木はほとんどないが、ここそこに地蔵堂がある。それに目立つのは工場である。特に靴工場など革製品を扱う家内工業が多い。また、日本の各種の店がやたらに多い。市場の一画にはキムチなど韓国の食材が並ぶ。在日アジア人が多く居住するのである。

 しかし、そうした地区の特性や背景はここではおこう。紹介したいのはX地区で多彩なまちづくりが開始されつつあることである。K同盟を中心とするまちづくり組織がしっかりしているのがこの地区の特徴である。もちろん、自治体のサポートもある。そして、住民組織と自治体をつなぐ仕掛け人がコーディネーターとしている。タウン・プランナー、タウン・アーキテクトといっていい。

 T商店街のここそこに目立つ空店舗をリフォームセンターに改造した。店舗や住宅の改修、改造を手掛ける。地域の職人さんを組織し、手伝ってもらう。閉鎖になった保育園を「いきがい学習センター」とした。高齢者、障害者の訓練センターである。木工と陶工分野がある。ただの職業訓練ではない。陶工部門は、素焼きから釉薬・陶器、アートクラフトへとステップアップした。そして、公園の遊歩道や花壇のタイルを制作しだした。まちづくりへの直結である。木工部門も、公園に船の形の遊具をつくった。近所の小学校で絵のコンクールをして、入選作を船のここそこに描いた。京都市立芸術大学や京都造形大学の学生たちもヴォランティアで参加している。

 社会教育センターの中にコンピューター教室もできた。優秀なインストラクターが招請された。小学生から九〇歳までコンピューターを扱う。小学生のCG(コンピューター。グラフィック)作品など馬鹿に出来ないかなりの出来映えだ。おじいちゃん、おばあちゃんも年賀状のデザインに凝っている。

 その社会教育センターの庭に直径数メートルほどのビオトープ*がつくられた。小さな自然が蘇った。

 アイディアが浮かべばすぐ実行である。こうして活動が軌道に乗ってきて、まちづくりの拠点として「Nまちづくりプラザ」がやはりT商店街に開設された。こうなるとまちづくりはさらに広がりを見せる。Jカードという地域で流通するカード・システムが既に開始された。カードには様々な情報がインプットされ、福祉や医療行政とも連携が計られている。生協活動も大きくまちづくりの輪に位置づき始めている。

 まちづくりの主体がしっかりとしていること、その仕掛け人が創意工夫に富んでいること、その二つはまちづくりの鍵である。X地区のまちづくりは大きな可能性を孕んでいるように見える。

 

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