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2021年10月17日日曜日

ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー Ⅱ ロンボク島の住居集落

 ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー住総研研究年報19住宅総合研究財団1992

 

 Ⅱ ロンボク島の住居集落

 

 1.ロンボク島の住居集落

 

 Ⅰ-3で概観したように、ロンボク島には原住民であるササック族のほか、西に隣接するバリ島から移住しているバリ人および海洋民族であるブギス人、東に隣接するスンバワ島から来たスンバワ人等様々な民族が居住している。

 西ロンボクには、バリの住居集落パターンが見られる。最も典型的なのがチャクラヌガラである。チャクラヌガラの周辺のパガサンガン、パグダン、北西海岸のタンジュン Tanjung にも同様のパターンをみることができる。


 チャクラヌガラでは住居敷地は、正方形に近く、その中に建築物が数棟配置される。北東角に屋敷神を祀るスペースが設けられる。バリの住居と基本的には同じ住居形式である。チャクラヌガラやタンジュンでは、人々はロンボク島移住後もバリ島での生活様式を維持し続けている。ただ興味深いことに、タンジュンでは、屋敷神を祀るスペースが北西角に配置される。ロンボク海峡に臨む海辺に近いために、ロンボク島のリンジャニ山よりもバリ島のアグン山に聖性を与えた結果ではないか。西海岸に位置するヒンドゥー寺院プラ・スガラにおいてもバリ島へのオリエンテーションが重視されている。

 東海岸のラブハン・ロンボク Labuhan Lombok の周辺には、スンバワ人の住居集落をみることができる。地床式が支配的であるロンボクにあって、切妻高床の住居形式は目立つ。

 また、北西部にはブギス人の移住集落をみることができる。海洋民族であるブギス人は、移住・出稼ぎをを頻繁に行うことで知られる。住居の形態はスラウェシ島中南部に見られるものとほぼ同じである。高床式で切妻屋根をもつ。平面は三部屋で構成される。スラウェシ島では炉を高床上に設けているが、ロンボク島のブギス人はかまどを床下に設置する傾向にある。地床式のかまやを住居とは別に設けることが多い。地床式住居が一般的なロンボク島にあって、その形式をかまやにとりいれたと考えられる。

 

 1-1 ササック族の住居

 ササック族の住居は、移住してきたブギス人、スンバワ人等の住居と異なり、ジャワ・バリと同様、地床式住居が一般的である。地床式住居は大きく二つのタイプに分けられる。

 一つはバヤンを中心とした地域一帯に見られるバレ bale と呼ばれる住居である。6本柱の高床の倉庫(イナン・バレ Inan Bale)が住居内に存在するのが特徴である。イナン・バレには、壷などの貴重品、にんにくなどの根菜類などが貯蔵されている。住居内には間仕切りはなく、ベッド、かまど、家具などが置かれる。

 もう一つは、サデを中心にロンボク島各地に見られる住居形式である。この住居は、1.01.5mの土壇上に築かれるのが特徴である。住居前部には、サンコ sankoh(テラス)があり、セミ・パブリックな空間として使用されている。女性による機織り仕事や談笑の行われる空間である。住居内は炊事、就寝のためのスペースとしてプライベートに用いられる。一般にかまどは奥を背にして左側に配置される。ベッドはなく、寝るときには草を編んでつくったござをひいて寝床を作る。

 地床式といっても、両者ともに二つのレヴェルが使い分けられていることが興味深い点である。

 サンコと同様、セミ・パブリックな空間として機能する建物にブルガがある。ブルガは、地床式の住居とは対照的に、6本の柱を持つ高床式の壁のない建物である。バヤンの周辺では、ブルガは住居に対応し、それぞれ平行に配列される。住居とブルガがセットになって、生活空間をかたちづくっているのである。バヤン地域外では、集落全体に数棟しか見られないのが一般的である。機能的にも、集会所や儀礼場として用いられ、パブリックな色彩が強くなる。

 穀倉は、モンジェン Monjeng 、サンビ Sambi 、ゲレン Geleng 、アラン Alang の四種類が区別される。サンビはロンボク島全般で見られる。4本と6本という柱数の違いはあるが、イナン・バレと全く同一の構法によって建てられる。モンジェンは最も規模が小さく、住居のテラスあるいはブルガの脇に配置される。日常に使用する米を貯蔵しておくためのものである。バヤンに数多い。それに対しゲレンは最も規模が大きく、住居と同じ大きさのものも見られる。倉の部分とそれを支える柱の部分が分かれ、ネズミ返しを持つ。柱の膨らみが特徴的である。アランは釣り鐘型の特異な形態をしている。倉の部分と柱の部分が分離しているという点ではゲレンと同様である。


 

 1-2 ササック族の集落

 前述した既往の研究をもとに、また、インドネシア現地研究者の示唆をもとに、ロンボク島全域を可能な限り踏査し、典型的なササック族の伝統的住居集落を選定し調査した。選定したのは、ガンガ Gangga(1)、スゲンタール Segenter()、バヤン Bayan()、スナル Senaru()(行政単位としてはデサ・バヤンに含まれる)、ロロアン Loloan()、サジャン Sajan()、サピット Sapit()、レネック Lenek()、バトゥ・リンタン Batu Rintang()、サデ Sade(10) 、スンコル Sengkol(11)11集落である。

 その他、近年つくられた新村としてレンペグ Rempeg(12)、バヤンの分村の一つとしてカラン・バヤン(13)においても調査をおこなった。

 以下に諸集落の概要を述べる。

(1)ガンガ Ganga

 この集落はロンボク島の北西部山間部に位置する。建築物は整然と平行に配列されている。ブルガや穀倉は数少ない。かまやの存在が確認された。

 住居は1m近い土壇上に築かれている。前部にはテラスが設けられている。高床式住居をみることができた。

(2)スゲンタール Segenter

 この集落は、ロンボク島北部の乾燥地に位置する。集落は木切れを集めてつくられた柵に囲まれる。宗教施設であるモスクは柵外に配置される。柵内では住居とブルガとが整然と平行に並べられる。互いに向き合った住居の列が、ブルガの列を挟み込んでいる。

 住居はバヤンと同様の形態をとる。穀倉はみることができなかった。

(3)バヤン Bayan

 デサ・バヤンは、稲作中心とした農村集落である。集落規模は周囲の集落に比べかなり大きく、中心部には150世帯ほどの人々が居住している。

 ササック族のうち、ワクトゥ・テルは北部山間部のデサ・バヤンを中心として居住している。デサ・バヤンはワクトゥ・テル発祥の地として知られる。木造の古いモスクをみることができる。

 住居はバレと呼ばれ、内部にあるイナン・バレと呼ばれる6本柱の高床の倉庫が特徴的である。ブルガ berugak(露台)と住居が平行に列をなして配列されている。

 この集落から分村化したワクトゥ・テルの集落が、ロンボク島各地に見ることができる。デサ・サデ Desa Sade 、デサ・レネック Desa Lenek 、 デサ・カラン・バヤン Desa Karang Bayan などがそうである。

(4)スナル Senaru

 ロンボク島北部山間部に位置するこの集落は、行政上はバヤンに属すが、バヤン中心部からさらにリンジャニ山に向かって数キロ奥地に入ったところにある。集落構成要素としてあげられるのは、他の集落と同様にバレ、ブルガ、穀倉である。配置は平行にされ、一つのブルガに対して両側からバレが向きあっている。建築物の棟のラインは、リンジャニ山の方向すなわち北側を向いている。

 住居はバヤンと同様の形態をとる。住居内は一室空間であり、高床式倉庫を内部にもつ。この倉庫は六本の柱によって支えられている。この住居も盛り土の上に建てられるが、段差は20cm程度とデサ・サデなどの住居とくらべかなり低い。

 穀倉は二種類存在する。サンビとゲレン Geleng である。

(5)サジャン Sajan

 ロンボク島北東部に位置する。集落は木製の柵でおおわれる。住居と穀倉が向かい合いながら平行に配列される。住居前面にはテラスが設けられ、2~3段の土で塗り固められた階段をのぼり1m弱の土壇上に建てられた住居に入る。

 穀倉はすべてサンビであった。ブルガはみることができなかったが、住居前面のテラスに高床の小さな露台を置く例がいくらかみられた。

(6)サピット Sapit

 ロンボク島東部の山間地に位置する。斜面に集落が形成されている。ブルガはみられず、集落を構成するのは主に住居と穀倉である。住居は1m近い土壇上に建てられる。すべての穀倉がゲレンであった。

(7)スンバルン Sembalun

 ロンボク島北東部山間部に位置するこの集落には、ブルガはみられない。つまり集落構成要素として挙げられるのは、バレと穀倉のみである。建築物の棟のラインはリンジャニ山の方向を指している。

 住居はサデ、ボンジェルックでみられた形態と同様である。つまり高さ約150cmの土壇が特徴的である。

 穀倉はサンビがその多くを占める。一部にゲレンもみることができた。

(8)レネック Lenek

 ロンボク島東部にあるデサ・レネックは、現在陶芸の村として知られている。集落に隣接して、陶器を乾燥させるための広場が設けられている。集落端部には観光客用のレストランやホテルが建設されている。住居は木造のものが多く、RC造はあまり普及していない。しかしモスクは例外である。デサ・レネックのモスクはRC造で、3重の方形屋根をもつ。内部には4本の柱がみられ、ミフラブも設けられている。従来の木造4本柱こ構造の転用と考えられる。

 道は格子状をなし、道によって区切られた各ブロックに10から20世帯からなる住区が配置されている。

 住区内の建築物の配置パターンは明快である。住居と穀倉が平行に配置されている。以前は住区端部に祭祀施設が置かれU字型の配置をもつ住区もみられたという。現在はそれらの祭祀施設はすべて取り壊され、集落中央部にコンクリートの基壇上に建つ四面開放の祭祀施設が一つあるのみである。穀倉はロンボク島に一般的にみられるサンビであり、現在下の空間は竹壁で囲まれ、居住のために使用されている。

(9)サデ Sade

 ロンボク島南部に位置するデサ・サデには、1993年現在115世帯560人が居住している。デサ・サデは行政的にはクチャマタン・ランビタン Rambitan に属しその周囲にはいくつかの集落が点在しているが、その中でもこの集落は最大規模である。南部の集落の特徴としてあげられるのがその立地である。基本的に平地には建設されず、丘陵に建設される。

 集落形態は極めて特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されている。周囲にみられる集落も同様である。しかし、必ずしも丘陵にのみ集落は建設されるわけではない。サデから約100メートル離れた小規模な分村では、平地集落が見られたが、住居は横一列に配置されていた。平地での直線配列、丘陵での等高線に沿った配列など、住居の配置は素朴な原理によっている。

 構成要素としては、住居、ブルガ、穀倉があげられる。ブルガは各家族が必ずしも所有するわけではなく、その数は少ない。穀倉も同様である。

 住居はバヤンとは異なった形態をとる。土壇が築かれその上に住居が建設される。土壇は二段で構成され、段差は約150cmである。上述したように元来下側のスペースはテラスとしてセミ・パブリックに利用されていたのであるが、現在はテラス部分も竹編壁で囲われている。就寝は男女分かれて行われ、男は下段で女は上段で寝る。

 ブルガは二種類存在する。柱の数によって分類されている。4本柱のブルガ・サクパット Berugak Sakepat と6本柱のブルガ・サクナム Berugak Sakenam である。両者とも主に休憩の場として使用される。しかし後者のみ儀礼の場として使用されることがある。また、建設前の儀礼の際、前者は水牛、牛を殺すのに対し、後者は鶏を殺す。

 バヤンにはみられないアラン(穀倉)がみられるのも特徴的である。釣り鐘型の極めて特異な屋根をもつ。

10)スンコール Senkol

 ロンボク島南部の丘陵地にこの集落は位置する。住居は等高線に沿って配置される。住居はサデにみられたように土壇上にたつ。この集落は木造のモスクが特徴的である。方形の二重屋根が中央の4本柱に支えられて建つ。構法はバヤンにみられたモスクと同様である。ただバヤンの場合屋根材が竹であったのに対し、スンコールではアランアランであった。モスク前面には3m近い深さの身体を清めるための池が築かれている。池のそばにはワリンギンの巨木が植えられている。ブルガは数少ない。穀倉はサンビが数棟みられるのみである。

11)バトゥ・リンタン Batu  Rintang

 ロンボク島南部に位置する。平地に集落が築かれている。アランが数多く存在する。集落は基本的には平行に並ぶ住居によって構成される。住居は向かい合わせて配列され、住居に挟まれるようにアランがランダムに配列される。住居はサデにみられるように、土壇上に建てられている。

12)レンペグ Rempeg

 デサ・レンペグはロンボク島北西部に位置する11世帯の農村集落である。高床式住居と地床式住居が混在する。高床式住居には2種類みられる。一つは床高150cm程度で、平面は2室構成となっている。この集落には1棟しかこの形式の住居は存在しない。この世帯は別に地床式のかまやを所有しており、炊事はそちらで行われる。もう一つの高床式住居は、前面にテラスをもつ。一室空間で、テラス面と住居平面との間には約20cmの段差が設けられている。地床式住居は前部に高床のテラスをもつ。住居内は前後に2分されている。

 ブルガは2棟みることができた。1つは住居に向き合うかたちで配置され比較的小規模のものであったが、1つは規模も大きく集会のための場として利用されている。

13)カラン・バヤン Karang Bayan

 この集落はデサ・バヤンの分村として知られている。彼らは240年前にこの地に移住し、現在の住民は主に第6世代目だといわれている。集落の中心には“始源の石”が置かれ、その近くにルーマー・アダットRumah Adat(慣習法によって建設された住居)と呼ばれる住居が位置している。その周囲には、祭祀用のブルガ、聖域とされる一画がある。その聖域は竹柵によって囲まれており、普段は立ち入ることが出来ない。聖域内にはモスクと、昔祭祀時に使用されていたといわれるかまやがみられる。モスクは木造で約150cmの土壇上に建設されている。背面にミフラブが設けられている。屋根は寄棟で、インドネシアで多くみられる二重の方形屋根は用いられていない。

 住居はRC造のものが多くみられた。伝統的な形態をもつ住居はみられなかった。

 現在、ササック族はそのほとんどがワクトゥ・リマである。その住居集落には必ずしも伝統的形態はみられない。ジャワの都市カンポンと同じ様な住居が支配的になりつつある。

 

 2.住居集落の地域類型

  2-1 住棟形式

 バヤンにみることのできるバレ(住居)は、バヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンなどバヤンを中心とする地域一帯に見られる。その他の地域では、バレはみることができず、1m近くの段差をもった住居が一般的である。

 ブルガはバヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンといったバヤンを中心とする地域で顕著に見られる。上記のようにバヤン地域外では、集落全体に数棟しか見られないのが一般的である。

 ゲレンとアランについては、その分布に関して明確に地域的な違いがみられる。ゲレンはロンボク島北部・東部に見られる穀倉形態であり、アランは主に南部を中心に分布している。

 

 2-2 集落形式

 集落は建築物が極めて単純に平行に配される形態が一般的である。ただ、建築物の種類に集落ごとに相違がみられる。調査した諸集落は、大きく三つに分けられる。

 1)住居とブルガが平行に配列されるパターン

 2)住居と穀倉が平行に配列されるパターン

 3)住居が丘陵の等高線に従って配置されるパターン

 バヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンは1)のパターンをとる。住居がブルガを両側から挟み込むかたちで、それぞれ平行に並べられる。一つのブルガは、一世帯ないしは二世帯によって所有される。

 穀倉の配置には、それぞれ特徴が見られる。バヤンの場合、穀倉はまとめて集落の周縁部に配置されるのが一般的である。スナル、ロロアンの場合は、住居・ブルガと同様平行に配置される。スナルの場合、集落の内部にも穀倉が配置されるのに対し、ロロアンは集落の端部にのみ配置される。スゲンタールには独立した穀倉は見られない。住居内に貯蔵するのが一般的である。

 2)のパターンが見られるのは、サジャン、スンバルン、サピット、レネックなど北東部から東部にかけての諸集落である。ほとんどの穀倉は、その床下部分が居住部分にあてられている。穀倉の周囲を壁で囲い、内部に炉をきり、床下に露台を設置しそこで寝起きする。

 それに対し、3)のパターンの南部に位置するサデ、ルンビタン、スンコールでは丘陵地に集落が築かれている。乾燥地帯であるロンボク島南部において耕作の可能な平地は貴重であり、耕作の不可能な丘陵に居住するのが望ましいと考えられているのである。形態は非常に特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されるのが極めて特徴的である。

 以上のそれぞれの集落の分布を考えると、この1)2)3)の分類は単なる形態的な分類にとどまらず、それぞれ地域的な分類になっていることがわかる。そしてそれぞれの地域は、それぞれ特徴をもった建築形式をもつのである。

 すなわち、ロンボク島北部では、イナン・バレを持つ住居の存在、建築物の平行配置、住居とブルガの対応関係、および後述するカンプ kampu (祭祀集団の居住する区画)の存在が、その特徴となる。それに対し、ロンボク島北東部・東部では、住居と穀倉の平行配列が、その特徴となる。ロンボク島南部では、住居が等高線に沿って丘陵上に配置されるパターン、またアランの存在が、その特徴となる。

 

 3.デサ・バヤンの空間構造とその構成原理 

 3-1 デサ・バヤンの集落構成

 デサ・バヤンは現在行政上11のドゥスン dusun (住区)によって構成されている。バヤンの圏域は行政上の枠とは異なったレヴェルで広がっているのであるが、その中心は、現在村役場のおかれているバヤン・ティモール(東バヤン)およびバヤン・バラット(西バヤン)である。この東西バヤンについては、カンプ kampu の存在、17世紀に建てられたといわれる木造のモスク、ムスジッド・クノ・バヤン・ブレ Mesjid Kuno Bayan Beleq の存在、マカム・スカダナ Makam Sukadana、マカム・アニャール Makam Anyar といった他集落の名が付けられた墓の存在、ラデン Raden と呼ばれる貴族の存在など、その中心性を特徴づける様々な特性を挙げることができる。


 

 3-1-1 モスク

 モスクはデサ・バヤンの中心に位置する小高い丘の上にある。東側から丘の中腹までのびる小道でアクセスすることができる。丘の上は草で覆われ、斜面には大きな木が生えている。モスクの周囲にはマカムが配置されていることからも、この一帯が特別な場所であることがわかる。

 モスクは4本の柱と竹材を主構造とした木造建築で、方形の上部と下屋の間から光をとる形態をしている。この屋根形態はジャワやバリではタジュク tajuk と呼ばれ、関連性を指摘できる。竹材が屋根に使用される例はデサ・バヤンでは、モスクとマカムにのみみられる。

 平面は正方形をもとに背面にミフラブ mihrab が設けられている。中央には主構造である4本の柱があり、上部の梁からドラム bedug が吊るされている。このドラムはお祈りの時間を告げるために用いられる。ミフラブの前にはミンバール mimbarと呼ばれる聖書台が置かれている。このミンバールには蛇あるいはドラゴンを象徴する装飾が施されている。



 このイメージの背景となり、かつモスク内に置かれる背景となった伝説がある。

 

 かつてバヤンの王が船で旅行した際に、島から遠く離れたところで彼の船に水が入り始めた。王は家来ともども溺れてしまうのではないかと恐れた。彼は叫び、水面上あるいは水面下のどんな力でも、彼の命を助けてくれたならば、娘の一人と結婚させてやると約束した。ドラゴンは彼の約束を聞き、船をムアラ Muara の岸へと安全に運び彼を救った。しかし一度安全に島にたどり着くと、王は約束の結果を考え身震いし、彼女を待つ恐ろしい運命から娘を救いたいと願った。しかしドラゴンは王が彼を騙そうしているとわかると、怒り狂い船を破壊し、多くの人々を殺した。王が許しを請い、ドラゴンの肖像をつくりモスク内にそれを置くことを約束した時初めて、彼の怒りはおさまった。王はバヤンに戻り、約束を達成した。現在まで木製のドラゴンの彫刻がバヤンのモスクでみられる由縁はここにある。

 1972年、1975年とバヤンのフィールド・サーヴェイを行ったスウェーデンの人類学者セデロス S. Cederroth は当時のモスクの状況を教えてくれる。

 

 1972年に彼が初めてバヤンを訪れたとき、ドラゴンは哀れな状態であった。しかし1975年の二度目のフィールドワークの時には部分だけが残っており、以前のものをモデルとし新しく取り替えられていた。前面には鹿、鶏、刈、布、ココナッツ、剣を表した彫刻がほどこされていた。

 バヤンの人々はワクトゥ・テルという名が示すように、3という数を重視している。彼らは世界や生物を、次に挙げる三つのカテゴリーで理解しようとしている。

 1.鹿は、生きている子供に生を与える哺乳動物を示している

 2.ふくろうは卵を生む鳥を示す

 3.苗木や果実によって増える植物はココナッツによって示される

 他の彫刻、例えば米や布は繁栄を象徴するといわれている。一方剣は力と雄大さの象徴として受け取られている。同様にバヤンの人々は世界のほとんどの現象を三つのカテゴリーに適合させるという。1967年までバヤンのモスクには、天井から吊るされた数多くの木製の彫刻をほどこされた鳥があった。この年はロンボクに宗教的な迫害のあった年で、鳥は秘密の場所に移された。この行動は正統派ムスリムによる厳しい批判への反応である。正統派ムスリムにとって偶像崇拝は禁じられており、木製の鳥をモスク内部に飾ることも同様にタブー視された。

 バヤンのモスクは、バヤンを精神的な中心とみなすワクトゥ・テル全てにとって、中心的な聖域である。バヤンの貴族が北ロンボクの主要部分を支配していた王国繁栄期からすると、その影響の範囲は縮小された。しかしデサ・バヤンのモスクと同様の構造、同様の機能を持ったモスクがロンボク島南部のデサ・レンビタンやデサ・スンコルにはまだ存在している。 

 3-1-2 マカム

 マカムはモスクのある小高い丘の周辺に主にみることができる。一般的なマカムでは、装飾の施されていないいくつかの石が、竹や木でつくられた建物に囲われている。マカム・タンジュン・ペタック Makam Tanjun Petak の二つの墓石にのみ彫刻が施されている。マカムは、様々な親族集団の先祖から受け継がれてきたものである。

 バヤンの人々は自らの出自をバタラ・インドラ Batara Indra としている。バタラ・インドラはバリ・ヒンドゥーの神であるばかりか、異教徒であるロンボクのブダの神でもある。

 バタラ・インドラには二人の息子がおり、それぞれグドゥン・ラウク Gedung Lauq とグドゥン・ダヤ Gedung Daya に眠るといわれる。この二人に息子にはそれぞれ一人の息子がおり、名をラデン・スタドリアRaden Sutadriaとティティック・マス・ルンプングTitiq Mas Rempung という。マカム・スンスナン Makam Sungsunanとマカム・リーク Makam Reaq に眠る。

 マカム・スンスナンは、バヤンの最後の王の子孫の住むバヤン・ティモールの向いに位置する。ラデン・スタドリアは長い系譜を持つデサ・バヤンの王の最も古い先祖と考えられている。

 マカム・リークはモスクの西南に位置する。

 バヤンで8年に一回催されるペスタ・アリップ pesta alip  はティティック・マス・ルンプングに敬意を表するものである。アリップには小アリップと大アリップがある。

 小アリップは、マカム・リークの建物を建て替えるために行われる。大アリップは、グドゥン・ラウク、グドゥン・ダヤの二つの建物の建て替えのために行われる。

前者はバヤン・ティムールの貴族などによって祝われるが、後者はバヤン・バラットの居住者によって祝われる。

 大小の区別は、祭礼時に再建される建物の数によるといわれる。またマカム・リークの主であるティティック・マス・ルンプングよりも、二つのグドゥンの魂の方が、古く地位も高いためだとも言われる。

 

 3-1-3 カンプ(祭祀者の所属する神聖な場所)

 モスクと同様カンプもクマリ kemaliq と考えられている。クマリとは超自然的な力によって守られている場所を意味する。カンプは祭祀者の住む公共の場として定義される。祭祀者はその場所や建物を共同体への奉仕のために使用する。バヤン・ティモールのカンプは、特に重要である。バヤンの王がかつて住んでいたからである。最近はプマンク・ブレ pemangku beleq と名づけられる祭祀者とその家族が住んでいる。

 カンプは竹製の壁で4つに分割されている。集落外からこのカンプに入る場合、まずブンチンガ bencingah と呼ばれる4つのブルガのおかれている一画を通らなければならない。これら4つのブルガの形態はいずれも同じであるが、それぞれ異なった機能、ヒエラルキーを持つ。最も重要視されているのはブルガ・アグン Berugak Agung (偉大なブルガ)と呼ばれるブルガであり、重要な祭祀の時にはこのブルガが中心となる。次はブルガ・マラン Berugak Malang (不幸なブルガ)と呼ばれるブルガであり、このブルガは祭祀時に盛大な食事の場となる。他の二つは待合所や集会所として使用されたり、食事の準備に使用されたりする。これらのブルガは、ブルガ・スンバゲ Berugak Sembagek 、ブルガ・ジャンガン Berugak Jangan と呼ばれている。

 南西の一画には3つの建物が見られる。一つはサントレン santren と呼ばれる建物で、結婚式の最後の儀式が行われる。さらにかまやがある。木造寄棟の建築物で、祭祀時に参加者が食す御飯を調理するために使用される。祭祀時以外には使用することができない。また、中に入ることも許されない。あと一つはブルガで、この建築物は先述のブルガ・マランにおいて行われる食事を一時的に置いておくために使用される。日常の生活に用いるのは西側の建物である。南東の一画はカンプの中心となる場所である。ここにはその昔バヤンの王が住んでいたとされる住居が残っている。現在は空き家で誰も住んでいないが、内部には剣などの貴重品が数多く収納されている。

 北東部には、雑草で覆われた何もないオープン・スペースがある。このエリアはプンチリンガン penciringan と呼ばれる。バンガラン bangaran と呼ばれる小さな石を見つけることができる。この石は、ワリン・グミ walin gumiと呼ばれる役職者が中心となる儀礼に結びつけられる。この儀礼の目的は、その場所に住む邪悪な精霊の退去、そしてそこで生活しようとしている人々を傷つけないようにとお願いすることにある。ペスタ・アリップの準備の一部として、機織り住居がこの場所に建てられ、儀礼の間先祖の墓であるマカム・リークを飾るために使用される特別な白い衣服が、この住居の中で織られる。ペスタ・アリップが終わりに近づくと、この住居は取り壊され、近くの川に投げ捨てられる。

 

 以前は古いバンヤン樹  waringin が北側入口の西側に立っていた。そしてグンドゥン gundem として知られる公共の会合はこの木陰で行われた。最近はこのような会合はブルガ・アグンで行なわれる。この古いバンヤン樹はかなり前に枯れてしまったので、現在新しいバンヤン樹が植えられている。

  バヤン・ティモール以外にもこういったカンプはみられる。そこにはバヤン・ティモールと同様にプマンクが居住し、公共の会合を行い、重要な儀礼が行われる。ただし規模はかなり小さい。バヤン・バラットに一つ、カラン・バジュに二つのカンプをみることができる。

 

 3-2 バヤン・ティモール・グブック・テンガの構成

 バヤン・ティモールは8つのRTによって構成される。グブック・テンガ Gubuk Tengah が、その中心RTである。その一画に、祭祀集団の長およびその家族の居住するカンプがあり、集落の祭祀の際に中心的役割を果たす。祭祀集団の長はプマンク pemangku と呼ばれる。バヤン・ティモールの全戸数208戸(1992年)のうち、グブック・テンガには30戸が住む(図Ⅱー⑪)。

 グブック・テンガは集落内を走る歩道によって境界づけられる。そのほとんどは整然と並ぶ住居とブルガによって占められ、カンプは北端中央に位置する。東端には、共同の便所兼水浴び場がある。このRTの東側には水路がその境界に沿って走っており、食器の洗浄や衣服の洗濯が行われている。

 

 3-2-1 住居の空間構成

 もともとデサ・バヤンの伝統的住居といえばイナン・バレをもったバレであった。また、バレとブルガとは密接な関係をもつ。ブルガを男の空間、バレを女の空間と呼ぶこともある。右・左、内・外が男・女に結び付けて考えられている二項対立の原理、つまり双分観が、バレに対する空間認識に大きく影響を及ぼしていると考えられる。

 バレは、基本的にイナン・バレを中心とし、三つの部分に分けられ使用される。奥を背にして右側には、かまどが配置され、炊事・食事の空間となる。瓶や稲なども置かれている。左側は、奥と手前に分かれてはいるが、ベットが置かれ就寝の空間として機能する。イナン・バレの周囲には、戸棚・机・椅子などが置かれる。しかし、現在グブック・テンガに見られる住居のほとんどは、バレの様な1室空間ではなく、多室空間である。住居の増築・改築が繰り返し行われ、イナン・バレを持つものは数少ない。全住棟数45棟のうち、建設中のもの4棟、空き家3棟を除くと、イナン・バレを持つものはわずか7棟である。住居としては機能していないが、その他にカンプ内に2棟バレがある。一つは炊事場として、もう一つは祭祀の家として機能している。以上の9棟の内1棟は、イナン・バレを持つが、屋根は瓦葺き、壁は煉瓦にモルタル塗、土台はコンクリートという様に、外見は全く伝統的なものと異なっている。

 現在のグブック・テンガの住居のうち、最も一般的に見られる平面形式はタイプ(TYPE A3)である(図Ⅱー⑫)。平入りでまずL字型の居間にアプローチし、その両側に寝室が並べられる。机や椅子は、表に面した位置に配置される。入口部分にテラスが設けられ、その右部分に寝室が付設される。次に多いのが、非常に簡素な2室住居(TYPE B1)である。入口は左側の部屋に設けられ、右側の部屋は寝室として機能する。この形式の住居には切妻屋根をもつものが多く、規模もかなり小さい。その他 TYPE B1 の寝室部分が分化した(TYPE B2)や、TYPE A3 に見られる三分構成の原型と考えられる(TYPE A1)や(TYPE A2)などのタイプも見られる。

 

 3-2-2 建物の所有関係

 伝統的には一世帯につきバレ、ブルガ、穀倉が一つずつ所有されており、かまどは住居内に設けられていた。しかし、現在ではその関係はかなり崩れている。

 まず穀倉を見ると、グブック・テンガの住民によって所有される穀倉は総計21棟ある。そのうち敷地内にあるものは6棟と数少ない。穀倉の床下部分には、木切れが置かれたり、牛がつながれたり、露台が設けられている。露台が設けられているものは2棟ある。これらの穀倉を所有している住居はともにブルガを所有していない。ブルガの機能が穀倉床下の露台によってまかなわれていると考えられる。

 つまり、穀倉は集落端部に設けられる形態が一般的であるが、集落内に設けられる場合、床下部分が様々なかたちで利用される。ブルガの機能がまかなわれる場合もある。

 ブルガを所有している住居は、34棟数えられる。9割近くの住居がブルガを所有していることになる。ロンボク島北西部のタンジュンから移り住んできた人々はブルガを利用する習慣をもっていない。ブルガの総数27棟のうち1世帯によって所有されるものは16棟、2世帯以上によって所有されるものは7棟、公的な機能に使用されるものは4棟(カンプ内)見られる。またこのうちかまどを付設するものは7棟である。必ずかまどは南側に設けられる。これは葬式においてブルガに安置された死体は、必ず北側から運び出されるという事実と関係している。

 かまどの所有パターンは多様である。バレに代表されるように住居内にかまどを所有するもの(6戸)、住居とは別にかまやをもつもの(5戸)、住居に付設して所有するもの(11戸)、ブルガに付設して所有するもの(10戸)、他の世帯の所有するかまどを使用するもの(6戸)と5つのパターンが見られる。バレだけに注目すると、7戸のうち4戸は伝統的な形式を残し現在も住居内にかまどを所有しているが、1戸はかまやをもち、1戸はブルガに付設し、1戸はバレに付設している。

 いずれにしても、かまどは住居外部に設けられる傾向にある。伝統的には住居内部で行われていた炊事行為が、現在は住居内部から排除されている。

 

 3-2-3 日常時のブルガの空間利用

 集落の空間構成にとってブルガは極めて重要である。ブルガの利用状況は集落の生活空間の使われ方をうかがう大きな手掛かりである。

 ブルガの利用状況を分析した結果を以下に示す。

 1)利用状況はブルガによって様々であるが、行われる行為は大きく次の6つに分けられる。(イ)睡眠、(ロ)食事、(ハ)炊事/食事の準備、(ニ)作業、(ホ)休息、(ヘ)懇談。ただし、ブルガで食事が行われることは希で、来客時あるいは儀礼時を除くと、ブルガで食事が行われることはない。

 2)時刻の影響を受ける。1日の生活のサイクルの中で、朝昼夕と一旦使用人数が減少する。これは炊事・食事の時間と対応している。また、夕方、ガムランの演奏が行われると、夕方あるいは夜の使用頻度が極めて高い。

 3)使用頻度は、所有世帯数とも関係がある。一般に2以上の世帯が所有するブルガの方が、1世帯のみが所有するブルガに比べ、使用頻度は高い。

 4)所有世帯の住居の平面構成と、ブルガの使用頻度には関係が見られない。つまりブルガは住居の多様な変化にもかかわらず、日常的な生活空間の中心的機能を果たしている。

3-2-4 儀礼時の空間利用

 ブルガおよびバレの空間利用は、儀礼時によりいっそう明確となる。

 40代後半の女性が前夜に亡くなり、19931230日にバヤン・ティモールで葬式が行われた。まず午前10時から、仮設の炊事場の建設が始まる。11時から食材の準備、しゃもじ・おたまの作成が開始される。実際に調理を始めるのは13時からであった。葬儀は16時から行われ17時すぎには埋葬が終わった。その後ごく親しい人たちだけで会食が行われた。

 死者は頭を北に向けブルガに横たえられ、遺族は住居の前面テラスに座っている。ここでも、ブルガと住居とが対比的な関係にあった。親族以外は仮設建築や他のブルガ、木の根元といった場所に、男性・女性と分かれて位置している。ブルガに男性が、すぐ横の空地に女性が、というように、ブルガが男性の空間として位置づけられているのがよく分かる。

 またカラン・バジョに隣接するカンプにおいて19931220日にプマンク交代の儀礼が行われた。カンプ内の3つのブルガが儀礼の主な舞台となった。ここでも儀礼の場面ごとに、男性と女性とは異なった場所に位置していた。南側のブルガに女性、北側のブルガに男性という組み合わせ、あるいはブルガに男性、そのブルガの東に位置するバレのテラスに女性という組み合わせ、同じブルガの南半分に女性、北半分に男性という組み合わせを見ることができた。つまり場所自体が男性・女性に帰属するわけではないが、儀礼の様々な場面で男性・女性の空間利用の明確な分離が確認された。

 

 

 

 

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