裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
裸の建築家-タウンアーキテクト論序説
おわりに・・・まちづくりの仕掛け人
各地でユニークなまちづくりが展開されている。ユニークなまちづくりには必ず仕掛け人がいる。この仕掛け人こそタウン・アーキテクトと呼ぶに相応しい。
まちづくりのためには、まずは人を束ねる能力が必要である。仕掛け人は、しばしば、まちのありかたについて自由に討議する場のオルガナイザー(組織者)である。あるいはアジテーター(主唱者)である。あるいはコーディネーター(調整者)である。時にアドヴォケイター(代弁者)でもある。要するに、まちづくりを推進する仕組みや場の提案者であり、その実践者が本来のタウン・アーキテクトである。
仕掛け人には、全体を見渡す視野の広さ、バランス感覚もいる。わがままで、特定の集団や地域のためにのみ行動するタイプは相応しくない。まちのあり方とその将来を的確に把握する見識が必要である。そうでなければ人を束ねることはできない。
そうした意味では、タウン・アーキテクトはもちろん「建築家」である必要はない。まちづくりを仕掛ける誰もがタウン・アーキテクトでありうる。タウン・アーキテクトは、まちのすべての問題に関わって、その方向を示す役割を担う
自治体が本来的に機能しているのだとすれば、その首長こそタウン・アーキテクトに相応しい。しかし、地方自治体とその行政システムは必ずしも、活き活きと機能していない。だからこそ、さまざまな仕掛け人が必要とされ、様々なまちづくりの試みが現れてきたのである。各地で、それぞれ独自のまちづくりの仕組みがつくられること、それが本論の前提である。
本書では、いささか「建築家」に拘ってみた。「建築家」こそタウン・アーキテクトとしての役割を果たすべきだという思いがある。様々な条件をまとめあげる、そうしたトレーニングを受け、その能力に長けているのが「建築家」である(筈だ)。また、「建築家」は直接まちの姿(景観)に関わっている。まちづくりの質はまちのかたちに究極的には表現されるのである。
素直に「建築家」を考えてみよう。そもそも誰もが「建築家」でありうる。身近な「建物」に関することには全てが「建築家」に関わっている。例えば、誰でもどこかに住んでいる。大邸宅であろうとアパートであろうと(場合によると地下のコンコースや公園のような場所でも)寝起きする場所が誰にも必要だ。何処に住むか、そしてどのような住宅に住むか(住むためにどのようなシェルター(覆い)が必要か)は誰にとっても、生きていく上での大問題である。どういう住宅を建てるかが「建築家」の仕事であるとすれば、誰もが「建築家」なのである。事実、昔は、誰もが自分で自分の家を建てた。現在でも、世界を見渡せば、自分で自分の家を建てる人たちの方が多い。
住宅に限らない。工場だろうが事務所であろうが同じである。特に、美術館や図書館、学校や病院などの誰もが利用する公共建築は、誰もが関わっている。それぞれ各人の無数の建設活動が集積することによって都市は成り立っている。都市は、だから、それぞれ「建築家」であるわれわれの作品である。
もちろん、自分一人で「建物」を建てるのは大変である。今日、誰もが自分の手で「建物」をつくれるわけではない。だから、みんなに手伝ってもらう。また、大工さんなど「職人」さんに頼む。「建物」を建てるのにも、得手不得手があるのである。専門分化が進み、「建築」のことは「建築家」に依頼する、のが一般的である。
しかし、「建築家」は、果たして、市民のために市民に代わって、うちを建て、様々な施設を建て、まちをつくる、そうしたプロフェッションとしての役割を果たしているだろうか。本書全体がつきつけるのは巨大な疑問符である。そしてその疑問符に答える方向性を提示するのが本書である。
本書において残された議論は多いが、「建築家」の本来のあり方を考える材料が提供できたとすればまずはよしとしたい。問題は新たな活き活きした仕組みが日本の風土に根付くことである。
本書はこれまで書いてきたいくつかの文章を元にしている。しかし、基本的には書き下ろしとして大幅に手を入れた。議論は荒削りではあるが、敢えて無防備に投げ出したい。大きな議論と小さなひとつの運動が開始されることを願う。
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