このブログを検索

2021年10月19日火曜日

ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー  Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー住総研研究年報19住宅総合研究財団1992

 


Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 

 1.ロンボク島のコスモロジー

 

 1-1 プラ・メルとカラン

 チャクラヌガラの中央部に位置するプラ・メル(寺院)は北の王宮とともにその中心的施設である。ロンボク島のプラ(図Ⅳー①図① ロンボク島の寺院)の中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メルである。このプラは東西にのびるチャクラヌガラの主要道(スラパラン通り Jl.Selaparang)に面し、周囲を頑丈な壁に囲まれて建っている。 バリのカランガセム王国によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する中心として、1720年に建立された。プラ・メルの名が示すように世界の象徴であり、ヒンドゥ教のブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられている。敷地構成(図Ⅳー②図②)は、東西方向に三つの部分に分けられ、それぞれ天、人、地に対応するといわれる。すなわち、スワ(Swah,ジャワ、バリ、ロンボクでマカラ makara 以下同様)、ブア(Buah,ウカラ Ukara)、ブール(Bur,アカラ Akara)と呼ばれて区別される。一番西側に入口が設けられているが、そこがブールである。

 この3つの部分のうち最も重要なものは東端のスワの部分で、ここには3つの塔と33の祠などの建物が配置されている。11の屋根をもつ中心の塔はシヴァ神を、9層の屋根をもつ北側の塔はヴィシュヌ神を、7層の屋根をもつ南側の塔はブラフマ神を象徴している。

 またこれらの三つの塔を囲むようにして、北側と東側に33の小さな祠がならべられている。それぞれの祠に固有の名称、さらに対応するプラの名称が併記され、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカラン(住区)によって維持管理されている。

 祭礼時には各カラン(住区)から数人が訪れ、それぞれの祠に対してお供えをし、祈りを捧げる。

 チャクラヌガラは格子状パターンによる住区構成をとっており、現在ではその格子状パターンに従って住区割がなされ、ブロック毎に名称が付けられている。しかし、プラ・メルの33の小祠と対応するプラは必ずしもブロック単位とはなっていない。図333のプラをプロットしたものである。

 33という数字に注目すれば、宇宙論的数として、それはメール山(須弥山)の頂上に住むとされる33の神々を想起させるものである。

  東南アジアでは家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数であり、例えば、ビルマのカミング王朝時代のジャヴァ、ペグー王国などにそれがみられる。

  また東西に走る主要道をはさんで北側に存在するプラ・マユラには33の噴水が設けられ、それぞれがコミュニティーの核となっている。

  仏教の体系において須弥山とは宇宙の中心をなす世界山である。この山はそれぞれ7つの環状の海によって互いに隔てられた7つの山脈によって取り囲まれている。これらの山脈のうち最後の山脈を越えると、大洋が広がり、その中には、4方に一つずつの計4つの大陸がある。須弥山の南にある大陸が贍部州で、人間の住むところである。ここでも宇宙は一つの巨大な岩の壁、つまりチャクラヴァーダ(鉄囲山)山脈によって取り囲まれている。須弥山の斜面には、極楽のうち、一番下の極楽、つまり4大王あるいは世界の守護者の極楽がある。その頂上には第二の極楽、つまり33神の極楽があり、そこにはスダルサーナ(善見天)、つまり神々の都市もあるが、そこではインドラが王として君臨している。須弥山の上方にはその他の天空の居住地が積み重なって聳えている。

  以上のことから、上述したインドの宇宙像がチャクラヌガラにも反映しているのではないかと考えられる。プラ・メルはチャクラヌガラの住民にとっての信仰の中心でもあり、かつコミュニティ統合のための象徴的な核としても存在しているのである。

 

 1-2 プラの構成とオリエンテーション

 

 (1)プラ・リンサール

 プラ・リンサール(図Ⅳー③図③)はチャクラヌガラの北東約15キロメートルに位置するプラで、ロンボク島における最も神聖なプラであるといわれている。このプラは1714年に建立され、ヒンドゥーとイスラームの聖地が明確に隣接するという点において特徴的である。ロンボク島ではイスラーム教徒がワクトゥ・テルとワクトゥ・リマの二つに分けられることは既に繰り返し述べてきたが、プラ・リンサールを信仰対象にしているのは主にワクテゥ・テルである。

 敷地の構成は、2つに分割されている。2つの敷地の間には高低差があり、北側の方が高い。北側はヒンドゥーの寺ガドゥであり、南側はワクトゥ・テルの聖地クマリとなっている。毎年、年1回建立の日を記念して祭礼が行われる。信仰対象別に、分かれて礼拝を終わらせたあと、祭礼の終わりに人々はふたてにわかれ、ちまきを投げ合う。よってこの祭礼は別名「ちまき合戦」とも呼ばれている。

 ガドゥは、6つの社と2つのパドマサナ Padmasana とよばれる塔によって構成され、礼拝は基本的に北側中央の社に対して行われる。つまり「北向き」に礼拝が行われる。一方南側のワクトゥ・テルの聖地クマリは、神に捧げられた池によって特徴づけられる。その池には神聖なうなぎが住んでいる。神聖なうなぎの池の隣には、白や黄色の布や鏡によって飾られた捧げ物などが置かれている場所がある。ここでの礼拝は「北向き」に行われる。

 プラ・リンサールの4500m東にプラ・リンサール・ウロンがある。このプラはプラ・リンサールよりも建立年代は古いと言われ、プラ・リンサールの原型であると考えられている。

 敷地構成はプラ・リンサールと同様に上下2面に分かれ、東側の上段にはガドゥが、西側の下段にはクマリが配置されている。上段での礼拝方向は「北向き」となっており、下段における礼拝は「北向きと東向きの2通り」に行われていた。

 

 (2)プラ・スラナディ、プラ・スガラ、プラ・ナルマダ

 ロンボク島で最も神聖なプラの一つであるスラナディ(図Ⅳー④図④)は神聖な湧き水で有名である。このプラにおいては、中央一番奥の一段高くなったところにガドゥが配置され、クマリはガドゥの約10メートル手前の北側に位置している。ガドゥに対する礼拝方向は東北15度、およそ「リンジャニ山」の方向、クマリに対しては「北向き」となっている。

 プラ・スガラ(図Ⅳー⑤図⑤)はアンペナンの北2キロメートルの海辺に建てられており、海をはさんで対岸にはバリ島のアグン山を望む。このプラにおいては、イスラームとの混合はみられず、純粋なヒンドゥーのプラで、人々は西側の二つの塔に向かって、つまり、島の向こうにある

「バリ島のアグン山の方」を向いて礼拝する。

 ナルマダ(図Ⅳー⑥図⑥)はロンボク島を東西に横断する主要道をチャクラヌガラから東へ約10キロメートル行ったところにある。ナルマダの特徴として人口湖があげられるが、これはリンジャニ山の麓のスガラ・アナク湖に巡礼に行けなくなった当時の王が、それをまねて一八〇五年に造ったものである。また、人造湖の向こうにはリンジャニ山を模して造られた小高い丘があり、その向こうにはリンジャニ山を望む。ここでは人造湖の手前にある宮殿から丘の方をむいて礼拝する。すなわち、「リンジャニ山の方」を向いて礼拝するのである。 

 西ロンボク地域の主要なプラでは聖地におけるオリエンテーションが、プラの平面構成に関して重要な要素となっている。

  基本的に以上のプラは、バリ・ヒンドゥーの影響が強く、オリエンテーションに関してもバリ・ヒンドゥーの概念にしたがう。つまり山は神の住まう場所と考えられ、海は悪魔の住まう場所と考えられた。日の出る方向は聖なる方向と考えられ、日の沈む方向は悪の方向と考えられた。ガドゥの礼拝方向はプラ・スガラのみが西向きで、プラ・スラナディ、ナルマダはリンジャニ山の方向、リンサール、リンサール・ウロンは北の方向である。すなわち、すべて山がオリエンテーション決定の中心的な役割をはたしている。その山がバリ島のアグン山か、ロンボク島のリンジャニ山かによって礼拝方向に違いが生じているものと考察される。また、クマリについては北を向いて礼拝するのが基本である。

 

 2.住居集落とコスモロジー

 ロンボク島のササック族(ワクトゥ・テル)の住居集落は、三つの地域類型に分けらるのであるが、何れにおいても、建築物が極めて単純に配される。伝統的住居も基本的に素朴な1室空間の建築物である。

 配列は南部の集落のみ他と異なる。つまり他の地域では建築物が平行に配置されるのに対し、南部では丘陵上に等高線に沿って配置される。それぞれ立地と関係している。南部には乾燥した丘陵地帯が多い。耕作地を少しでも多く獲得するために、丘陵上に集落を築かざるを得ない。他の地域の平野部やなだらかな傾斜地では、聖山であるリンジャニ山がオリエンテーションの中心となっているのである。

 集落を構成する建築物の種類に焦点を当てると、北部諸集落が特異である。他の地域では住居と穀倉が集落の主な構成要素であるが、北部では住居とブルガによって構成され、穀倉は集落周縁部に配置されている。

 バヤンではブルガはサカ・ウナムとも呼ばれる。バリにも同じ名で呼ばれる建築物がある。またブルガはバリに見られるバレ・バンジャールと同様の高床で壁のない建築物である。北部諸集落では、元来他の地域と同様、住居と穀倉とが素朴に平行に並べられていたのだが、バリの影響を受け入れると同時に、ブルガが移入され、現在見られるような配列が作り出されたのではないかと考えられる。

 バリ人の住居集落を除くとロンボク島の住居集落とコスモロジーとの間には必ずしも強い関係を見ることはできない。しかし以下の2点を指摘しうる。

 ①リンジャニ山を中心とした方位観が建築物の配列を大きく規定している。

 ②ベランダ空間であるサンコには、右・左、大・小、男・女といった双分観が反映している。ブルガと住居にも、男の空間・女の空間といった対応関係が観られる。

 バリの住居集落との比較を通して、その特徴をまとめてみると以下のようになる。

 知られるように、バリにおいては、住居集落とコスモロジーとの結びつきは密接である。ヒンドゥー教の影響を大きく受けたバリ・マジャパイトの住居集落はヒンドゥーの宇宙観の影響が特に顕著に見られる。バリ・マジャパイトの住居集落では、

 ①大宇宙のスワ・ブワ・ブールといった三層構造が、集落、住居・屋敷地、ディテール等と関連づけられている。

 ②アグン山を中心とした方位観および日の昇降に規定される方位観に従って、集落内の施設の配置や住居内の空間構成が決定される。

 ③男の空間・女の空間というように、建築物内部の空間構成が双分観に支配される。

といった関係を指摘することができる。

 ロンボク島の住居集落は、ブルガの存在やアラン(穀倉)の釣り鐘型の形態など、バリの影響を受けたと考えられる点がいくつかある。しかし、バリのようなディテールに到る精緻な体系はなさそうに思われる。バリとの関係という点では、むしろ、バリ・アガの住居集落の構成を規定する原理との近接性を指摘したい。

 ヒンドゥー化以前のバリ人であるバリ・アガには、この様な特徴は見ることができない。ごく素朴な、双分観や山を中心とした方位観の影響を指摘できるのみである。

 山を中心とするコスモロジーや住居への双分観の反映といった、ロンボク島の住居集落の構成を規定する原理は、極めて素朴である。おそらく、土着的な集落配置の原型をとどめているとみていい。

 

 3.都市・チャクラヌガラとコスモロジー

 チャクラヌガラの都市構成原理については、Ⅲ章でまとめた。ここでは、インド、ジャワ、バリの都市と比較して、その特徴をまとめておこう。

 チャクラヌガラと都市形態の面から最も類似している『マナサラ』にみえる都市計画は「クブジャカ」と呼ばれるタイプの都市である。共通点としては、①全体構成が東西に長い長方形であること。②メインストリートが形成する四辻に面して王宮があること。③メインストリートの北側に1ブロックの居住地があること。④道路体系がグリッド・パターンであること。⑤東西8ブロックからなること、があげられる。また異なる点としては、①チャクラヌガラは、半八角形の部分を持たない。②王宮の位置がチャクラヌガラの場合、四辻の北東角である。③チャクラヌガラは、南北に5ブロックからなる。④チャクラヌガラには城壁がない、などがあげられる。

 全体構成としては、チャクラヌガラに似た構成を持っているが、いずれにせよ、『マナサラ』の都市理念がストレートに移入されたとは考えにくい。ヒンドゥーの都市理念がジャワ化され、さらにバリ化された上で、チャクラヌガラの構成理念は形成されたと考える方が自然であろう。

 『ナガラクルタガマ』にみえる都市の都市理念の特質として2つのポイントが挙げられる。1つは、 四辻と王宮を中心とした都市構成である。また、市と広場を持つ事も特質として挙げられる。2つめは都市の全体形を規定せず王宮との距離・方位との関係、すなわち都市形態全体を規定するのではなく王宮との相対関係で都市を規定することである。

 都市の四辻と王宮を中心とした都市構成をしているという点で、チャクラヌガラは『ナガラクルタガマ』に従っているといっていい。ただ、都市の具体的形態は明かでない。都市構成原理が『ナガラ・クルタガマ』に直接書かれているわけではない。

 具体的な形態としては、バリの都市との関係が深いとみていいだろう。バリの都市(王都)の場合、①王宮は大通りが形成し、都市の中心を形成する四辻に面している。王宮の位置はバリの各都市によって異なっているが、北東角に位置する都市が一番多い。②市場は全ての都市で中心に近接する第1円に位置し、方位は各都市毎に異なる。③墓地は各都市共、その次の第2円に位置する。方位は、タバナンでは西、クルンクンでは北東、バンリでは南、ヌガラでは南東、カランガセムでは南東というように規則性はない。④都市の全体構成に関しては、バリ都市においてもインド・ジャワと同様に入れ子状の都市構成であるということがいえる。すなわち、四辻を中心としてその周りを市場、プラが囲み、最外郭に墓地が位置するという構成である。⑤ギャニャールの一部、カランガセムの一部にはチャクラヌガラと同様の背割りされた宅地配置が見られる。⑥バリ都市には、城壁や壕等の都市の内と外を分ける施設はない。

 チャクラヌガラの場合、①王宮の位置:四辻が都市の中心を形成し、四辻に面して王宮がある。また、王宮の位置もバリで最も多い南東角である。②市場の位置:四辻の北に位置し、王宮に接した第一円に属する。③墓地の位置:第2円に位置する。④都市の全体構成:王宮が中心に位置し、それを市場・寺院・墓地が取り囲んでいる、点は共通である。

 以上のように、都市の全体構成を決定している理念としてまず考えられるのはインド→ジャワ→バリ→チャクラヌガラとつながるヒンドゥーの都市理念である。すなわち南北・東西に走る大通りが形成する四辻と王宮が都市の中心にある都市構成である。しかし、グリッド・パターンの都市は必ずしもバリには見られない。むしろ、街路パターンとしては、タクタガンをもつバリ・アガの集落(例えばブグブグ)のパターンが持ち込まれていると考える事ができる。ブグブグは、道路体系は南北に走る大通りとそれに直行する路地から構成される。宅地の構成は南北の大通りに対して直行する路地によって長方形の住区が形成され、各住区は背割りされ、最大16筆、最小12筆の宅地に分割される。バリ・アガの集落には、バリ都市に見られないグリッド・パターンの道路体系が見られ、チャクラヌガラがバリの土着の集落パターンの強い影響を受けていることは間違いないところである。

 もちろん、他の影響を考えてみることもできる。

もし、古代インドの建築書に見られるグリッド・パターンが伝わったとするのなら、その伝達過程のジャワ、バリでなぜグリッド・パターンの都市計画が為されなかったのかという問題がある。ジャワ化、バリ化が起こっている筈である。また、別の要素としてチャクラヌガラが植民都市であることがある。植民都市において格子状の都市計画が多く見られることは古今東西の事例の示すところである。さらに、中国の影響も考えられなくもない。そして、この当時、ジャワには既にオランダ人が来ており、バタビアを建設している。グリッド・パターンが西洋の計画理念の影響を受けた可能性も高い。

 イスラームとヒンドゥーとの棲み分けの問題としてはインドの諸都市との比較が興味深い。最も興味深い都市として、例えば、ジャイプールがある。ジャイプールもチャクラヌガラと同様、18世紀に建設された計画都市である。同じように周辺部にムスリムが居住する。インド文化圏の東西の極がジャイプールとチャクラヌガラである。チャクラヌガラについては、さらに視野を広げて比較検討が必要である。

0 件のコメント:

コメントを投稿