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2021年6月23日水曜日

キッチュ Kitsch 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


キッチュ Kitsch

 

 





 キッチュとは何か。まず簡潔に定義しておこう。それには、A.A.モルの一冊が手頃である。A.A.モルは冒頭に次のように言っている。

「キッチュという言葉が新しい意味で使われ始めたのは、1860年頃のミュンヘンである。南ドイツで広く使われたこの言葉は、「かき集める、寄せ集める」といった意味を表すのだが、さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われていた。そして、キッチュという言葉から派生したフェアキッチュン(Verkitchen)という語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」といった意味に使われていた。それ故、キッチュという言葉には、もともと、「倫理的にみて不正なもの」、「ほんものではないもの」という意味合いが含まれていたのである。

 十九世紀後半のドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉は、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていくのであるが、そこでは、キッチュは必ずしも具体的なもの-ニセモノやコピー-を意味するわけではない。また、単に一つの様式-一定の様式にこだわらない寄せ集めの形式-をさすわけではない。キッチュとは、一つの態度、すなわち、人が物に対してとる関係のあり方の一パターンでもある。さらに人々の存在の仕方、人間の精神や心理のあり方の一タイプをいったりする。キッチュとは、一つの現象なのである。

 そうしたキッチュをめぐる様々な問題については、A.A.モルの書物にまかせよう。手っとり早く、キッチュを理解するためには、具体例を挙げた方がいい。例えば、ディズニーランドはキッチュである。例えば郵便配達夫、シュヴァルが堂々とつくりあげた館がそうである。壮大な寄せ集めのキッチュである。J.ワンプラーの本には、シュヴァルのような名もない人々のキッチュの傑作が沢山集められている。あるいは、靴の形をした家だの、車の形をした店舗だの、そこらの中にキッチュはある。近代建築史の教科書の中にだって、キッチュを見いだすことができる。そうは教えられないのであるが、A.ガウディーやR.シュタイナーの建物はどうみてもキッチュである。アール・ヌーヴォーも全体としてそういっていい。自然を、植物や波のモチーフを鋳鉄で模倣する精神はまさしくキッチュの精神なのである。意外と思われるかもしれないのであるが、構造合理主義の祖と見なされるヴィオレ・ル・デュクもまたキッチュの天才である。彼の建築は、中世の城をイメージさせる様々な歴史的な断片からなっているのである。こうしてみると、折衷主義(エレクティシズム)、あるいはリヴァイヴァリズムと呼ばれる運動や精神には、深く、キッチュの精神が関わっているといえるであろう。H.ブロッホに依れば、キッチュは芸術における悪の体系と表現されるのであるが、「一滴のキッチュは、どんな芸術にも混入している」のである。

 何も難しく考える必要はない。そこら中にあるものはキッチュであり、あなたの部屋を見回せばそこにキッチュがある。外国旅行の土産物が壁にかかっていたり、大事にとってあったりすれば、あなたは、キッチュが何であるかを既に理解している筈である。ある種のエキゾティシズム、様々なものを所有しようという欲望はキッチュのものである。アイドルのポスターが貼ってあったり、レースのカーテンがかかっていたり、要するに部屋を飾りたてようとするところにはキッチュが潜んでいる。装飾、機能性を超えたある種の過剰はまさにキッチュの現れるところである。

 ところで、キッチュという言葉や概念が何故現代建築にとって重要なのかといえば、まさに建築のポストモダンと呼ばれる状況をキッチュ-ネオ・キッチュ-という概念で捉えられるからである。あるいは、アンチ・キッチュとして成立したのが新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)であり、機能主義(ファンクショナリズム)であったと言えば、歴史的経緯を含めてわかり易いであろう。そしてさらに、キッチュという現象が現代社会の根本に関わっていると言えば、その重要性を強調できよう。

 キッチュという概念の発生は、市民社会の成立、そして市民(ブルジョワジー)の美学と密接に結びついている。十九世紀ドイツにおけるビーダーマイアー様式の発生はその象徴である。さらに、キッチュは大衆社会、消費社会という概念と密接に関わりをもつのであるが、言ってみれば、キッチュは芸術の大衆化、俗化の現象である。また、日常生活への芸術の取り込みであり、それへの判断でもある。例えば、百貨店やスーパーマーケットの成立とキッチュは大いに関係がある。群衆が集う、駅や商店街とも関わりをもつ。そこでは超越的なるものではなく、大衆の欲望に根ざした流行とコマーシャリズムが支配するのである。

 大衆消費社会における物のあり方、そしてキッチュについては、J.ボードリヤールの一連の著作が参考になるであろう。彼は盛んに、ガジェットとともにキッチュについて語っている。



 

 



2021年6月22日火曜日

インターナショナル・スタイル 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


インターナショナル・スタイル

 

 




 インターナショナル・スタイル(国際様式)とは奇妙な言葉である。我々は現在この言葉を、ほとんど建築と同じ意味で使っている。しかし近代建築とは、それまでの様式建築を否定して生まれた建築である。したがって様式(スタイル)という言葉は嫌われたはずの言葉なのだ。

 ではなぜ近代建築が嫌ったスタイルという言葉が、当の近代建築を呼ぶ際に使われているのか。この謎解きをするには、この言葉が初めて使われた原典にさかのぼってみると良い。実はこの言葉が初めて使われたのは、近代建築運動が起こってからおよそ十年後、当初の運動の担い手とは一世代近く離れた若者達によって名付けられたのである。しかも彼らはアメリカ人であった。彼らは近代建築が起こったドイツやオランダを外側の人間として、謂はば旅行者の目で見てまわったのである。

 一九三二年、ヒッチコックとジョンソンの二人によって企画された展覧会がニューヨーク近代美術館で開かれた。これはヨーロッパの新しい建築をアメリカに紹介する展覧会だった。この時使われたインターナショナル・スタイルという言葉は、戦後アメリカが世界の建築の中心となったこともあって近代建築の同義語のようになった。しかしインターナショナル・スタイルという言葉は、既にこのときから、一九二〇年代のヨーロッパの近代建築運動とはあるずれを持った言葉なのである。

 一九三〇年前後は、近代建築の歴史の上で重要な時期であるように思われる。インターナショナル・スタイルという言葉が象徴しているように、この時期近代建築は大きく変質をとげたように思われるのである。まず第一に近代建築が始まって約十年という時の経過によって、第二に発生地であるドイツ、オランダ、ロシアなどから、イタリア、アメリカなどのまわりの国々へ空間的にも移植されることによって。

 インターナショナル・スタイルという言葉は我々に、近代建築の歴史を連続的に見ることを強いている。しかしここでは逆にインターナショナル・スタイルという言葉が持っている奇妙なずれを手がかりに、この言葉が発せられた一九三二年前後を境としての近代建築の変質を見てゆきたい。

 

 一九二〇年代の建築を考える時、我々は現在の目から、現在の建築のもととなったものだけ採り出して評価する傾向がある。こうして一九二〇年代は、インターナショナル・スタイルが形成される過程として描かれる傾向があるのである。しかし一九二〇年代を独自の時代として、現在と切り離して考えてみれば、この時代は新しい建築の在り方を模作する様々な実験の場であったと言えよう。それ自体としては玉もあれば石もある、様々な試行錯誤の場である。こうした視点から、この時代を次の四つに分けて考えてみる。

 

 一、表現主義、構成主義、機能主義等々

 二、ジードルンク

 三、バウハウス

 四、政治と革命

 

 第一番目は、形の構成の方法に関する様々な試みである。二〇世紀に入ると、それまでの組石造にかわって、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の新しい構造方法が普及しだす。組石造は自由に開口部をとれないから、極端に言うと建築家の役割は、あらかじめ与えられた構造体の表面に、様々な様式の中から自分の好みにあった様式を張りつけるということにあった。新しい構造方法を手にした建築家達が否定したのは、そうしたそれまでの建築の在り方である。彼らは表面の意匠だけにかかわっていた建築家の仕事を三次元的、全体的な構成という仕事に転換させた。また様々な様式のうちから恣意的に選ぶという在り方を否定して、一意的に形態が決まるという理論を提示した。機能から形態が決まるという機能主義の理論はその典型で、そのうちの極端なものは決定論に近い性格を持っている。

 二番目のジードルンクとはドイツ語で集合住宅という意味である。十九世紀までの建築家とは結局のところ、形の追求をするというのが仕事であり、生きがいであった。それにはパトロンに恵まれなくてはならない。またもともと建築家とは宮殿や大邸宅、教会などを設計するのが仕事であって、一握りの国王の芸術家であった。一九二〇年代が建築にとって画期的なのは、このとき初めて建築家の側から主体的に何を建てるべきかが問題にされた点である。ジードルンクという労働者のための集合住宅が大きなテーマとなった。形の問題よりも誰の為のものか、今何を社会は必要としているのかが重要視された。

 三番目にあげたバウハウスは教育の問題である。十九世紀まで、そして今でも何ら変わらないが、建築教育の問題は政治や行政の側の問題であった。それに対してほとんど唯一の例外として一九二〇年代のバウハウスがある。ヴァルター・グロピウスという一人の建築家が理想としての建築家像を想定し、実現のための教育方法を考案し、さらに実際に予算をとりつけて実行に移したのであった。バウハウスは、建築家の想像力がどこまで遠く及びえたかを示す里程標となっている。

 最後に、この時期の建築家の行動の典型として、美を追求することより先に政治的な活動に直接関係していった事例を挙げておこう。彼らにとって、自分の設計した建築の造形を誇ることよりも、社会はどうあるべきか、そのために自分は何をなし得るかが問題だった。一九一八年、ドイツで結成された芸術労働評議会は、建築教育の国家統制撤廃、建築家への国家的名誉称号廃止などの建築綱領をかかげ、政治的実現のための政府への働きかけ、あるいは自ら閣内に入ろうという活動を行っている。またこの頃、多くの建築家が革命後のロシアの社会建設に参加するためにでかけていったのである。

 (一九三〇年代以降の形態への自閉化)

 一九二〇年代が、建築家の意識が社会全般まで拡大し、社会の中での建築の在り方を問い直す様々な試みが行われた時代であったとすれば、一九三〇年代は、建築家の意識が後退し、自己の職分を忠実にこなしていく実務家と化していった時代だと言える。そしてこの傾向は戦後に引き継がれたのである。ここでは次の三つの面から、それを検討しよう。

 一、第三帝国様式と社会主義リアリズム

 二、イタリアのラショナリズム

 三、アメリカと戦後の建築

 一九三〇年代に入ると、ドイツとロシアという近代建築の主要な舞台において、主に政治的な圧力による役者の交替が行われた。ヒトラーとスターリンによって、第三帝国様式と社会主義リアリズムというそれぞれモニュメンタルな様式が採用されたのである。新しく舞台に登った建築家は、自己の職分を能率良くこなすテクノクラートであった。しかし同時に、この頃多くの建築家が転向している。またさらに、こうした変化は一部の政治的圧力によるだけでなく、民衆をも含んだ全世界的な判断だったとも言えるのである。たとえば住宅について言えば、インターナショナル・スタイルの陸屋根よりも、ナチスのすすめた切妻屋根の伝統的な住宅の方が人々に好まれた。社会全般の問題として、自らの社会の混乱の原因を分析し、そのための処方を下していくという精神態度自体が放棄され、民族の伝統に同一化することで問題をやりすごそうとする傾向にあった。

 このように一九三〇年代に入るとドイツでは、ナチスのもとで建築の方向転換が行われたのに対して、同じファシズム下のイタリアでは、逆に近代建築の花が開くことになる。しかし一九二〇年代のドイツやロシアの建築と比べると、外見上はインターナショナル・スタイルの建築であるが、その内実はだいぶ異なっている。一九二〇年代の建築が社会の中での建築の在り方を問う試みの結果としてあったのに対して、ラショナリズムの建築は当初から、形態の問題としてのみ考えられて造られているからである。したがってむしろその精神としては、ラショナリズムの建築は同時代の第三帝国様式や社会主義リアリズムに似ているのである。

 最後にアメリカについて述べておこう。インターナショナル・スタイルという言葉の説明を通して初めに述べた通り、アメリカにおける近代建築の移植は一九三〇年代のことであった。この頃、ナチスドイツを逃れた多くの建築家がアメリカに疲れきってきているが、彼らが活動を始め、インターナショナル・スタイルが建築の主流になるのは戦後のことである。戦後、アメリカは世界経済の中心となるので、建築においてもアメリカは世界の中心となった。インターナショナル・スタイルは、一九二〇年代の建築とある断絶を持っているように思われる。一九二〇年代の試行錯誤の実験に対して、戦後の建築は、戦後の安定した経済基盤の上で量の供給と美的洗練だけを追求してきた。インターナショナル・スタイルという言葉を口にするとき、我々はこうした差異を見落として、思わず連続性のみ考えてしまいがちであるが、いま必要なのは、一九三〇年前後の、現在と一九二〇年代を隔てる切断を再確認することなのだと思う。




 

2021年6月21日月曜日

プレハブリケーション 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



 プレハブリケーション

 

            




 プレハブと言えば、まず想起されるのが工事現場の「現場小屋」である。あるいは、庭先に置かれる「物置」である。すなわち、「仮の」、「仮設の」、「現場ですぐ組み立てられる」建造物のイメージがある。

 また、プレハブというと一般的に「プレハブ住宅」のことであり、極めて具体的なイメージがある。わが国で最初に販売されたプレハブ住宅は大和ハウスの「ミゼットハウス」である。一九五九年のことなのであるが、それに続いた「セキスイハウスA型」(一九六〇年)、「松下1号型」(一九六一年)、「ダイワハウスA型」(一九六二年)など初期のプレハブ住宅は、平屋建てで一部屋程度のいわばバラックである。そのイメージが強烈なのである。「安普請」で、「画一的」だというのがプレハブ住宅のイメージである。

 しかし、プレハブというのはもともとプレハブリケイティッド(              )の略であり、「前もって予め工場生産された」というのが原義である。「仮の」とか、「安っぽい」といったニュアンスはない。しかし、実際、「安上がり」の建築の代名詞として流布したのは極めてアイロニカルなことであったと言えるかもしれない。

 わかりやすいイメージをまず手に入れておこう。ユニット住宅あるいはユニット構法とよばれるプレハブ住宅がある。日本では「セキスイハイム」が有名であるが、要するに、内外装まで工場で仕上げた直方体のユニットを積み重ねるだけで住宅になるそんな構法である。この構法だと現場ではほとんど作業は要らない。在来構法による木造住宅、大工さんを主体に数ヶ月かけてつくられる住宅と比べてみればその違いは明かであろう。プレハブ建築というのは現場でつくられるのではなく、別のところ(工場)でつくられて運ばれてくるものなのである。

 建築というのは本来一品生産が基本である。そして、現場生産が原則である。建築というのは、古来、それぞれの場所で、一個一個つくられてきた。しかし、このプレハブという建築の形態は違う。プレハブリケーションという概念は、建築の概念を全く転倒させるものと言っていいのである。

 プレハブリケーションという概念が生み出され、プレハブ建築が現れたのは言うまでもなく産業革命以降のことである。すなわち、建築生産の工業化、産業化(                 )とプレハブリケーションとは密接に関わる。建築生産の工業化の進展の指標となるのがプレハブリケーションである。そうした意味では、プレハブリケーションという概念と近代建築の理念とは不可分に結びついているのである。

 現場から自由であるということは、どこでも同じように生産が可能だということである。ということは、現場の条件、例えば天候などに左右されることなく生産が可能だということである。その分工期が短縮できる。また、それぞれの現場で職人など建設労働者をその都度組織する必要はない。すなわち、工業生産化によって、現場生産における不確定要素をできるだけ排除し、工程を合理的にコントロールすることが可能となるのである。建築生産の合理化はまさに近代建築の目指したものであり、プレハブリケーションはその大きな手段となるのである。

 さらにプレハブリケーションの前提のひとつは量産化(               )である。もし一品生産を基本とするならば、プレハブリケーションは必ずしも意味がない。その都度工場をつくっていたんではむしろコストアップにつながるのは当然であろう。コストダウンを計るためには一つの工場、一つのシステムを繰り返し使用する必要があるのである。最も有効なのは、同じ住宅を大量生産するような場合である。この量産化によるコストダウンという理念は、近代建築家の「大衆のための」建築を!というスローガン、建築の大衆化の主張と結びつく。安価で大量の住宅を大衆に供給するためにプレハブリケーションの手法は様々に追求されるのである。

 最も有名なのは、  グロピウスのトロッケン・モンタージュ・バウ(               )と呼ばれた組立て式構法である。一九二七年のワイセンホーフ・ジードルングにおいて始めて試作されたのであるが、厚さ一五センチの金属パネルをボルト接合によって組み立てる方式である。w.グロピウスのこの試作住宅をもとに一九三〇年代にはカッパーハウスというプレハブ住宅が商品化されたのであった。

 レンガ造りやコンクリート造りと違って、モルタルや漆喰など水を使わないことからトロッケン(乾いた)・モンタージュ(組立)・バウ(建築)と名付けられたのであるが、「乾式構法」と訳され、日本の建築家にもすぐさま大きな影響を与える。市浦健、土浦亀城、蔵田周忠らによって同様の試みがなされるのである。また、日本の建築家による試みとして先駆的な位置づけを与えられるのは、前川國男と   同人によるプレモス(      )である。戦後まもなく山陰工業と組んで開発され、北海道、九州などで炭坑住宅として建設されたのであるが、この場合は木造のパネルによる組立住宅であった。

 またもうひとつ、プレハブリケーションの前提となるのは、建築の標準(               )、規格化である。そして、さらに、部品化である。量産化のためには同一のものを繰り返し生産することが基本となるのであるが、建築の場合、されは理念としてはあり得ても、必ずしも一般性があるわけではない。しかし、量産のメリットを追求するためには何らかの規格化が必要である。現実的には、標準型を考えておき、そのヴァリエーションによって個別需要に対応するのが自然である。さらに、建築を様々な部品に分けて構成し、建物は異なっても、できるだけ部品を共通とすることで量産のメリットを追求するのが普通の発想である。部品化という手法もそうした意味では建築生産の建物でも一般的使うことができ市販されるものをオープン部品、特定の建物にしか用いられない部品をクローズド部品という。

 建築生産の工業化、量産化、標準化、部品化といった概念とプレハブリケーションという概念はおよそ以上のようである。プレハブリケーションの手法は様々に進展してきた。もちろん、百パーセントのプレハブリケーションということはあり得ない。どんな建築でも具体的な敷地に建つ以上、わずかでも現場での作業は残るからである。しかし、逆に、今日、プレハブリケーションと全く無縁な建築も存在しない。プレハブ化率とか仕上現場依存率といった指標がよく用いられるのであるが、工場生産された部品を用いない建築は産業社会においてはあり得ないのである。

 こうしたプレハブリケーションという手法によって支えられる建築のあり方に対して、われわれはどのような建築のあり方を展望できるのか。極めて大きなテーマである。近代建築批判の根底に関わるといってもいい。

 プレハブリケーションは、建築を場所(土地)との固有な関係から切り離すことを前提とする。そして、そのことにおいて建築のインターナショナリズムと分かち難く結びつく。しかし、やはり本質的に建築というのは具体的な場所に建つことにおいてのみ意味を持つのではないのか。地域地域で固有な建築の表現が成立するのが本来適ではないのか。建築におけるヴァナキュラリズムやリージョナリズムの主張は、建築の概念そのものに関わっていると言えるであろう。

 プレハブリケーションは、建築を容器としての空間に還元する。すなわち、建築は計量化された空間となる。その空間はどこでも生産可能であり、それ故、どこにも移動可能である。またいつでも交換可能である。こうした建築のあり方、空間のあり方を最もシャープに主張したのはメタボリズム・グループの建築家たちである。すなわち、極めてわかりやすく言えば、諸装置のビルトインされたカプセルによって建築や都市は構成され、その空間単位の移動、交換によって建築や都市の新陳代謝が行われるというのがメタボリズムの思想である。

 しかし、建築は必ずしも計量可能な容器ではない。交換可能な商品でもない。建築の本来的なあり方を考えるために、このプレハブリケーションという概念は極めて重要であり、この概念を如何に解体し、また建築という概念を如何に再構築するかはわれわれの大きな課題といえるであろう。 

2021年6月20日日曜日

モデュール 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



モデュール  MODULE

 

 






 スケール・アウトという言葉がある。和製英語だろう。アウト・オブ・スケール、すなわち、規模、大きさが外れているという意味で、建築の世界ではよく使われる。かなり、きつい批評の言葉である。スケールの感覚は建築家にとって欠かすことのできないものである。それが駄目となると、建築家失格と言われてもしかたがないほどである。

 しかし、スケール・アウトの建物は実に多い。そこら中にあるといってもいい程だ。公共建築にしても広場にしても、なんか変だ、居心地が悪いと感じる空間は大抵駄目である。特に、巨大な建築、超高層や大ホール、大体育館などに失敗例が多い。七十年代半ばに、巨大建築論争と呼ばれる論争が闘わされたのであるが、建築は大きければいいというものではない。ヒトラーを例に出すまでもなく、建築家というのは、本質的により高く、より大きい建造物を建てたがるものである。悲しい性というか、本質的に権力的な体質をもっているのが建築家である。しかし、建築というのはもともと等身大のものである。身体的なスケールに即して、古来建造物はつくられてきたのである。現世を超越する神に捧げられた神殿についてもそうなのである。

 建築の本質にとって極めて重要なものとして寸法の概念がある。ある建築において基準となっている寸法をモデュールという。このモデュールという言葉はもちろん西欧起源の言葉である。ラテン語のモドゥルス(       )に由来する。しかし、基準寸法という概念であれば至るところに存在してきた。例えば、日本の建築において伝統的に用いられてきたモデュールが尺(しゃく)であり、間(けん)である。現在でも、メートル法ではあるが、在来の木造住宅などでは一般的に用いられている。半間=三尺=九〇九ミリメートルが基準寸法として用いられているのである。

 ヴィトルヴィウスは、その建築書において8ケ所においてモドゥルスという言葉を使っているが、第三書第三章では次のようである。

 「神殿に定められた場の正面は、もし四柱式がつくられるとすれば、柱台と柱礎の突出部を除き11   部分に分割され、もし六柱式であれば、18部分に分割される。もし八柱式が建てられるとすれば、24   に分割される。そして、四柱式であろうと六柱式であろうと八柱式であろうと、これらの部分から一部が採られてそれがモドゥルスとなるだろう。このモドゥルス一つが柱の太さになるであろう。中央の柱間を除いた各柱間は2   モドゥルス。正面と背面のそれぞれの中央柱間は3モドゥルス。柱の高さそのものは9   モドゥルス。こうして、この分割から柱間も柱の高さも正しい割付を得るであろう。」

  柱の間隔や高さだけではない。ドーリス式、イオニア式    、コリント式    といった柱の柱頭や柱身、柱礎の細かい寸法もモドゥルスに基ずいて決められていく(第三書第五章)。このモドゥルスはどの様にして決められるのか。実はその基になるのが人間の身体寸法である。ヴィトルヴィウスは「肢体からモドゥルスを採用し、肢体の個々の部分から作品の全体を具合いよく作り上げる」(第一書第二章)と書いているのであるが、建物の構成のために人体寸法の比例のアナロジーを用いるべきだと言うのである。

 「実に、自然は人間の身体を次のように構成した:頭部顔面は顎から額の上毛髪の生え際まで    、同じく掌も手首から中指の先端まで同量;頭は顎から一ばん上の頂まで   、首の付け根を含む胸の一ばん上から頭髪の生え際まで   、<胸の中央から>一ばん上の頭頂まで   。顔そのものの高さの   が顎の下から鼻の下までとなり、鼻も鼻孔の下から両眉の中央の限界線まで同量。この限界線から頭髪の生え際まで額も同じく   。足は、実に、背丈の   ;腕は   ;胸も同じく   。‥‥‥」(第三書第一章)。

 ここで記述されるような人体図    はどこかでみたことがあるだろう。有名なのはレオナルド・ダ・ヴィンチのもの    などがそうである。いわゆる黄金比の概念     も人体の各部の寸法的比率がそれに近似するところから意味付けられている。現代建築において著名なのがル・コルビュジェのモデュロール(        仏語)である。人体の標準寸法を183㎝、片手を上げたときの高さを226㎝、身体の中心としての臍の位置を113㎝として、数字を配列しデザインのための基準尺度とすることを提案したのである 

 建築の基準となる寸法が人間の身体の寸法に基礎を置くのは極めて自然であり、事実、世界中あらゆるところで身体の寸法が建築の寸法として使われていたことは様々に明らかにされている。例えば古代エジプトの長さの単位キューピッド( ≒45㎝) は、腕の肘から中指の先まで長さがもとになっているのであるが、バリ島でも同じ長さアスタが基本的な単位として使われている。アスタは方杖の位置や長さを決めるのに用いられている。バリの場合、他に主として用いられるのが、両手を広げた長さドゥパ、拳骨の長さムスティーである。ドゥパは要するに尋(ひろ)であり、どんな地域でもこれを意味する言葉はあるといっていい。ムスティーは基壇の高さを決めるのに使われる。建物の配置を決めるのは専ら足跡の長さタンパックと巾ウリップである。タンパックはフットあるいは尺と同じ長さであり、歩測しながら隣棟間隔などを決めるのである。また細かな部材寸法なども指の巾など掌の様々な部位の寸法から決定されるのである。

 一方、モデュールは、建築の生産システムと密接に関わり、次第にその論理によって規定されていく、そうした側面を持っている。日本の伝統的な木割のシステムを考えてみると分かりやすいかも知れない。木割     はまさにヴィトルヴィウスの建築書のごとく、建築の各部の寸法とその比例関係を決定するシステムであり、一部棟梁家によって秘伝されてきた。平内家伝書の『匠明』5巻がよく知られている。木割は必ずしもモデュールというわけではない。

日本の建築のモデュールと考えられてきたのは柱間であり、それをもとに部材の寸法の体系を技術的に規定するのが木割書なのである。 そこで興味深いのが畳の一般化と畳の寸法のモデュール化である。畳の寸法というのは「起きて半畳寝て一畳」と言われるように、まさに身体に即した寸法である。そしてこの畳の寸法には地域によってまた歴史的に相当のばらつきがある。知られるように現在でも京間(関西間)*17のほうが田舎間(関東間)より大きいのである。この畳の大きさの違いには、しかし、柱間をどう考えるかによって大きくは二つのシステムの違いが関わっている。すなわち、柱の内側の間隔を基準と考えるシステム(内法制)と柱の心の間隔を基準と考えるシステム(真々制 心々制)との違いである。畳の寸法を一定とし基準とすれば内法制となるのである。畳の寸法が意識される以前は、もちろん真々制である。内法制が一般化したのは17世紀初頭以降江戸時代に入ってからである。『匠明』に代表される木割書が真々制を基礎とするのに対して、畳の寸法を基礎とするのが「雑工三編大工棚雛形」(1850年)などである。江戸時代末には、建築(住宅)の生産技術はかなり一般化していたといっていいのである。

 しかし、畳の寸法を基準にある安定した寸法の体系を造り上げてきた日本の建築の伝統は、現代においては大きく様変わりしつつある。メートル法の実施に象徴されるように、寸法の体系が一元化されつつあることが分かりやすいであろう。また、具体的には、工業化によって、建築生産のシステムが大きく変わり、全く新たな寸法のシステムが必要になってきたということである。モデュラー・コーディネーション(MC)  18 ということが大きな課題となったのはそれ故にである。

 モデュラー・コーディネーションにおいて目指されるのは、一言で言えば、生産性である。量産化が可能なシステム、工業化のシステムがそこでの前提である。そこでは、身体の寸法に基礎を置く寸法システムよりは、施工や工法や生産の合理性にウエイトが置かれていく。考えてみれば、現代建築と言うのは、身体的なものを限りなく遠ざける方向へ歩んで来たのであり、その一つの決定的な証左が、建築を根源において成り立たせるモデュールの現代的なあり方なのである。



2021年6月19日土曜日

ラーメン構造 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



ラーメン構造

 

  




 建築とラーメンとは意外な組合せかもしれない。もちろん、ラーメンとは食べるラーメンではない。ひとつの構造形式をラーメンというのである。

 建築の構造として最も一般的なのは柱と梁の構造である。梁と柱による構造のうち柱と梁が固く剛接されるものがラーメン構造である。ラーメンとは、ドイツ語で枠組み(Rahmen)という意味である。         

 建築のあり方はその構造技術のあり方と密接に関わりをもつ。超高層建築や屋根付き球場などが可能になったのは、構造技術の発展があったからである。現代建築を支える構造方式についてみてみよう。

 柱と梁の構造というと日本では親しい。木造建築はほとんど全てが柱梁構造である。校倉造りのような壁式構造は例が少ないとされる。というと、ラーメン構造というのは、古くから存在してきたようであるが、そうではない。高々百年程前のことである。柱と梁の完全な剛接が可能になったのは、鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造が出現することによってである。すなわち、19世紀末以降のことなのである。

 それまでは、組石造など壁構造が支配的であった。ラーメン構造は、それまで建築を支えるのに不可欠であると信じられていた壁面の構造的役割を解放した。そして、カーテンのように壁を躯体から吊るいわゆるカーテンウオール構造を可能にしたのであった。すなわち、ラーメン構造は、近代建築の発展と密接に関わりをもつ。そして、いまやラーメン構造が支配的となった。世界の現代建築の大半はラーメン構造の建築なのである。

 ラーメン構造は、そうした意味で近代建築の代名詞といっていい。鉄とガラスとコンクリートの四角い箱型のラーメン構造の建築というのが近代建築の簡潔な定義である。

 ラーメン構造が世界中を制覇し、世界中の都市の風景を同じように変え始めるにつれて、その単調さを破る試みが現れ始める。四角い箱形のラーメン構造ばかりでは味気ない、というわけだ。

 様々な構造方式が試みられる。例えばシェル構造がある。シェルとは、貝のことであるが、様々な貝のように三次元の曲面で構成する構造方式がシェル構造である。伝統的には、ドームやアーチ、ヴォールトなどが用いられてきたのであるが、より大規模で、より自由な形を可能にしたのが、鉄筋コンクリートのシェル構造であった。古典的には、1930年代にスペインのE.トロハのアルヘシラスの市場(1933年)などいくつかの作品が先駆としてある。日本では、東京晴海の国際貿易センター(村田政真 坪井善勝設計 1959年)が早い例としてある。著名な作品として一般に知られるのは、E.サーリネンのニューヨーク、ケネディー空港のTWAターミナルビル(1961年)、そして、J.ウッツォンのシドニー・オペラハウス(1973年)である。

 また、ケーブル(吊り屋根)構造がある。東京代々木の国立屋内競技場(丹下健三 坪井善勝設計 1964年)がそうだ。ケーブル(ロープ)で吊る構造物は、吊り橋など古来からあるのであるが、建築物として本格的に吊り屋根構造が作られるようになったのは、やはり近代に入ってからである。そして、吊り屋根構造が一般化するきっかけとなったのは、1958年のブラッセルの万国博覧会であった。

 こうしてみると、多様な構造方式が試みられるようになったのは、1950年代の末から60年代の初めにかけてのことである。構造表現の様々な可能性が追求されたのであるが、そうした傾向はやがて一括して構造表現主義と呼ばれた。自由な形態を目指すというのであるが、次から次へと新奇な形が生み出されるわけではない。構造力学的な制約がもちろんあるからである。最初新鮮であっても、構造方式のみによって全体の形態が支配される建築は次第にあきられ始める。構造表現主義という言い方には、そうした批判も含まれている。

 ところで、より普遍的な構造形式として近代を特徴づけるのがスペースフレームである。スペースフレームとは、平たくいうと、ほぼ同じ太さのたくさんの棒状の部材を立体的に組んでできている骨組みのことである。その基本的な考え方は、20世紀の初頭までには提出されていたたのであるが、それが具体化するのは第二次世界大戦後のことである。また、身近になったのは1970年代のことである。大阪万国博のお祭り広場の大屋根(丹下健三 坪井善勝 川口衛設計 1970年)がスペースフレームである。

 骨組み全体が規則的な幾何学的ユニットの繰り返しで構成されるスペースフレームは、部材やジョイントを工場で大量生産するねらいがある。世界最初のスペースフレームは、J.W.シュヴェドラーが1863年にベルリンにつくったドームといわれているのであるが、シュヴェドラー・ドームの場合は、部材の種類が相当多い。同じ長さで同じ太さの部材を用いるスペースフレームを考えたのは、電話を発明したA.G.ベルであった。20世紀初頭に基本的な考え方が提出されていたというのは、A.G.ベルによって凧や鉄塔などの実験構造物がつくられたことをいう。

 このスペースフレームの代表がフラー・ドームである。フラードームとは、アメリカの建築家バックミンスター・フラー(18951983)が一九五四年に特許を獲得したドーム形式である。バックミンスター・フラーと言えば、『宇宙船地球号』(1969)の著者として一般的には知られていよう。建築家、技術者というより、思想家といった方がいいかもしれない。ジオデシック・ドーム(geodesic dome)と一般には呼ばれるのであるが、1954年にB.フラーが特許を取得し、以降、フラードームと呼ばれる。フラードームというのは、細い部材を球形に組んだスペースフレームである。原理は、単純である。正多面体のなかで最も面の数が多いのは正20面体である。その正20面体が内接する球を考え、その球にできる球面三角形を細かく等分して球形に近づけるのである。

 最初のジオデシック・ドームは、1922年にドイツのイエナでつくられたというが、戦後は、専ら、フラーの手によって数多くのフラードームがアメリカを中心に世界中で建てられたのであった。日本でも1960年代初期に読売カントリークラブのクラブハウスがフラードームで建てられている。

 現代建築と構造というと、もうひとつ空気膜構造がある。膜構造というのは、テントなど古来からある。パオやサーカス・テントがそうだ。空気膜構造というのは、空気で膜を膨らませて支える構造方式である。東京ドームをイメージすればいい。恒久的な建造物として空気膜構造が現れ始めたのは最近のことであるが、その先駆けとなったのは、やはり1970年の大阪万国博である。アメリカ館と富士グループ館がそうであるが、富士グループ館(村田豊 川口衛設計)は、チューブ型空気膜構造の世界で最初の例であった。

 建築家といえば、新奇な形態をもてあそぼうとするのが常である。形態のみを追求して、アクロバティックな構造をとる建築が少なくない。しかし、全く自由な形態、全く自由な構造というのは建築の場合ありえない。重力の制約は建築の本質である。 




 

2021年6月18日金曜日

和風 宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


和風

 

 




和風とは「我国在来の風習」のことである。衣食など生活習慣の全般に付いて、また、音楽、絵画、演劇など芸術の諸領域において、すなわち、文化のあらゆる局面において、和風という概念は広範に用いられている。

  しかし、和風という概念はそうわかりやすいものではない。実に曖昧な概念と言えるだろう。すなわち、〈和〉とは何か、〈日本〉とは何か、という問いがその背後にあるのである。日本に固有なものとして古来から伝えられてきたものとは何か。それを明かにするのはそう容易ではないのである。

 そもそも、全く外来文化の影響を受けない、日本に土着的な文化が果してあるのかという問題がある。日本人とは何処から来たのか、日本語のルーツは何か、日本文化のアイデンティティーは繰り返し問われるのであるが、どうも、日本に固有なものを明らかにする試みは失敗し続けているように思えるのである。さらに、和風というのが決して固定的なものではなく、極めて相対的なものであるという問題がある。和風というのは常に外来のものに対置される。和風に対置されるのは例えば唐風であり、洋風である。しかし、外来のものもやがて和風化し、日本化していくプロセスがある。和風も外来文化の影響を受けて変化するのである。新たに移入される外来文化と在来文化との差異を相対的に表すのが和風である。

 和風という言葉ほど今日では一般的ではないのであるが、和様という言葉ある。様式概念として用いられるのが和様という言葉がある。和様という場合は、少なくとも時代背景ははっきりしている。〈やまとことば〉や〈やまとごころ〉が漢語や唐心に対置された時代において、日本古来のものと考えられた〈やまとのかたち〉が和様である。より正確にいえば、飛鳥、奈良時代に唐から伝えられ、平安時代を通じて日本人の感覚と風土にあうように変容した文化様式について、一般的に用いられるのが和様である。

 建築の場合、鎌倉時代以降に中国(宋、元)からもたらされた唐様(禅宗様) 天竺様(大仏様)と区別するために用いられるのが和様である。和様建築の特徴は、装飾が少なくシンプルであること(具体的には長押が構造材として用いられ装飾的意見合いが薄いこと、組物は柱上のみに置かれること、垂木が平行に並べられることなど)、天井が低く、空間が細かく分割されることなどである。

 しかし、この和様建築というのも時代とともに変化していく。禅宗様、大仏様の影響を部分的に、あるいは全体的に受け始めるのである。又、和様建築を特徴づける要素や細部が禅宗様建築にも用いられ始めるのである。そこで、例えば禅宗様建築に特徴的な貫などを部分的に取り入れたものは新和様と呼ばれる。さらに、より全体的影響を受けたものについては折衷様という概念も用意される。和様あるいは和風とはおよそ以上のようである。

 和風建築というと、しかし、今日では一般的に数寄屋建築をいう。数寄屋の内容は時代とともに拡大していくのであるが、茶屋の建築手法や意匠を基本とするのが数寄屋である。〈佗数寄〉(わびすき)あるいは〈さび〉の精神は、日本文化を支える根本精神として、日本に固有な美意識として、しばしば言及されるのであるが、建築についても、和風建築を狭義に規定するとすれば、数寄屋建築を念頭に置いてよいだろう。

 しかし、建築における日本的なるものとは何か、というと、そう単純にはいかない。伊勢神宮のような神社建築や民家建築など、数寄屋のみならず、様々な建築の伝統が日本に固有なものとして取り出されるのである。日本の近代建築の歴史において、実は、日本的なるものとは何かをめぐって繰り返し議論が行われてきたのであるが、必ずしもはっきりしない。今日に至るまで議論はもちこされているのである。

 日本の近代建築の歴史において、日本建築のあり方が繰り返し問われてきたのは、いうまでもなく、西洋か、近代化のプロセスにおいてそのアイデンティティーが激しく揺さぶられてきたからである。国会議事堂の建築をめぐる様式論争である。

 「国家を如何に装飾するか」をめぐるその論争において日本建築の将来のスタイルが大きく問われたのである。議論を単純かすれば、三橋四郎の和洋折衷主義、長野宇平治の欧化主義、伊東忠太の進化主義が様々な意見を代表していたのであるが、日本建築の様式を何を土台として創り出すかをめぐって主張はわかれたのであった。

 第二の搖れは、十五年戦争期、一九三〇年代である。様々な形で、日本回帰の現象が起こる中で、日本趣味、東洋趣味の建築様式が求められるのである。帝冠様式をめぐる議論、一連のコンペをめぐる議論がその搖れを示している。しかし、この時期、建築における日本的なるものをめぐる議論の水準は、必ずしも国際様.式か日本様式かという二者択一的なものであったわけではない。B.タウトによる桂離宮の再発見といわれるものが大きなインパクトとなるのであるが、日本建築の伝統である桂や伊勢に近代建築の合理精神を発見するというのが一般的な構えである。

 戦後、一九五0年代半ばに伝統論争が起こる。丹下vs白井といった対立構図がわかりやすいのであるが、基本的には戦前の議論をそのまま引きずるものであったとみていい。すなわち、日本の伝統的な木割をコンクリートで表現するといった方向がそうである。近代建築の実現と日本建の伝統との幸福な一致が夢みられていたといえるかもしれない。一方、レヴェルは違うのであるが、海外でジャポニカ・ブームが起こっている。日本講和による国際社会への復帰に伴い、日本の畳や障子がもてはやされるのである。

 ジャポニズムというのは、西欧世界におけるエキゾチズムの一種といっていいのであるが、しばしばブームとなる。十九世紀末には多くのジャポネーズが生まれ、西欧世界に大きな影響を与える。浮世絵とアールヌーヴォーの関係はよくしられていよう。

 七〇年代に入って、近代建築批判が顕在化するとともに、再び、日本的なるものが議論のそ上に載る。興味深いことに、近代建築批判のために、日本的表現が対置されるのである。そして、それが建築のポスト・モダンの一つの流行となる。しばらくの間振り返られることのなかった数寄屋が見直されたりするのである。ジャパネスクなどという言葉がつくられ、一時、人口にかいしゃしたのは七〇年代末から八〇年代にかけてのことである。

 以上のように、建築の近代化のプロセスにおいて、一定の周期で、まさに一九一〇年代、三〇年代、五〇年代、七〇年代と繰り返し現れてきたテーマが和風であり、日本的表現である。日本という国家のアイデンティティーが国際的な環境において問われる度に、建築においてもそのアイテンティティーが問われてきたろである。

 和風をめぐる議論はおそらく収れんしない。和ー洋、近代ー伝統、インターナショナリズムーナショナリズムという二極の間を揺れ動くだけである。何をもって日本に固有な建築表現とするかも一致をみることはないだろう。問題は、むしろ、和風という極めて曖昧な表現、もしかするとありもしない固有性をオブラートにくるんで何ものかに全体として対置するそうした思考パターンにあるのではないか。

 極めて素朴な疑問として浮かぶのは、建築の表現として、何故、日本という表現が問題とされねばならないのか、ということである。例えば、ヴァナキュラーな建築を見れば明らかなように、建築というのはより地域的に固有な表現をとって成立してきた筈である。日本という枠組みは一体何を根拠に何処からもたらされるのか、それこそが問題なのである。

 こうして、和風をめぐる問いは振り出しに戻る。〈和〉とは何か。〈日本〉とは何か。〈日本〉をどう捉えるかがそこでは最初から問われているのである。そして、〈日本〉を何か固有なものをもつ一つの全体として捉える見方(例えば、大和史観、単一民族国家観)を捨て去ることにおいてのみ、和風をめぐる議論は揚棄される筈なのである。     





2021年6月17日木曜日

曼荼羅 宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』


 宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



曼陀羅

 

 




西洋特有の二項対立的論理思考によっては理解し得ない視覚的直観による宗教的認識手段の一つとして曼陀羅がある。

 デカルト以来近代理性における対象把握法において、人は、部分における代数的認識行為から論理的に一歩一歩真理を堀り下げるやり方をとる訳だが、もとより、部分における固定化され教条化された視点の狭さは、目、耳、鼻、舌、身体等他の5感すべてにわたる非言語的認識領域を疎外しているのであり、全体→←部分との広範なつながりの中から、「意味の微分〓差異化による無限への接近過程(中沢新一)」として《解析》に思考をひろげていくことができなたった。

 図像を媒介とした東洋的思考は、多く直観的であり、二元論的思考の解体過程としてあらゆる矛盾を包み込みつつ《個体》→←《宇宙》への即時的な全体知を志向する。

 昔、インドやチベットの僧侶がきびしい修業をへて悟りを得る瞬間に脳裏に浮かんだイメージを図像化したものがマンダラだと言われており、悟りの場(空間)として凝縮されたこの象徴的世界図式には、神秘的直観によってのみ解読されるべき数知れぬ記号がセンサーのごとくぎっしりつめ込まれている。

 

 また、曼陀羅は、形の起源として見た場合、古代インドの王城を模したものと言われ、多くの宗教建造物が曼陀羅における円型と方型の二つの基本構造とパターン的関連性を持つなど、強固な空間性を具備しているから、都市や建築との造型理念的つながりの中からマンダラを解読することも十分可能となる。

 まず、マンダラの語源について申し述べるならば、「マンダ」とは本質を意味し、「ラ」とは具有を意味すると言われている。

 一口にマンダラと言っても、密教の教理を総合的に示すマンダラから、ある教理を個別的に図示したものに至るまで、種類は多種多様である。

 主に密教系のマンダラに限って言えば、「金剛頂経」の示す仏の悟りの境地へと至る実践と認識の過程として、凡夫から仏への修業過程を五段階にわたって実践すべき「五相成身観」を図示したと言われる「金剛界曼陀羅」と、仏の持つ広大無辺の慈悲が胸底深く秘められ、あたかも胎内における胎児の如く蔵されている「大悲胎蔵生曼陀羅」略して「胎蔵界曼陀羅」とがあり、この二つのマンダラに、至高の仏大日如来と、大日から枝分かれし様々な機能的側面を分かち持つ分身的諸仏達が、実在面と実践面の双方からダイナミックに図示されている。

 うち胎蔵マンダラは、宇宙の根本理念としてある大日如来のダイナミックな展開が、個別性を排した即時的全体性として周辺領域へと及びつつ、逆に、全体性へ没入する個別性として見るならば、周辺領域から中心部への帰依的回路をも相互循環的に表していると言われている。この種の構図的配列のあり方が、都市的構造と結びつくことは今さら言うまでもあるまい。

 また、宗教学者の井筒俊彦氏は、「意識と本質」の中で、胎蔵マンダラにおける非時間性=無時間的な《全体同時性》を指摘しておられる。すなわち、絶対的無分節者としての大日如来の展開が、「元型」的自己分節においては即時的現勢態としてある以上、潜勢態のひそむ余地がそこにはなく、一切が現勢態であるかの如き存在のあり方は本質的に非日常性をはらみ、多分深層意識においてのみ体験される特殊的事態なのである……と。

 しかし、都市や建築が空間的芸術であることを胎蔵マンダラにあてはめて考えるならば、この種の一挙同時的現勢体を見おろした如きものではないだろうか。「時間におけるリズミカルな続きは、相前後して継続する諸要素の継承であるが、空間においてのそれは、横に並んだ諸要素の並置である」と、ギリシアの建築家で哲学者でもあるP.A ミヒャリスが『建築美学』の中で書いていたミヒャリスの説をひくと、時間的芸術形態である音楽において我々がリズムを聴く場合、二つ目のリズムを聴く時には最初の音はもう消えてしまっているけれど、空間芸術としての建築において、柱廊の持つリズムの強点はすべて一緒に現れ動かない。我々は、一つ目のものから二つ目のもの、あるいはその逆といった具合いに、相互同時的にすべてを眺めることが可能である。もちろんこの考え方は都市を把握する場合も共通して使える事柄であり、小説の如く、時間の展開に従い順次物語が進行するのでは決してなく、すべては一挙同時的に視界へと飛び込んでくる訳である。そしてこの図像的認識のあり方こそ、我々が、マンダラを見る場合と共通であり、まさに、我々の住む生活世界を一個の巨大な曼陀羅として即時的に眺め解読することの可能な都市像であり建築像であるとさえ言い得るのだ。

 「人類が記憶し意識もする以前からマンダラは都市像であり、建築の姿を写し出してきたものであるようだ。」と毛綱きこう氏は書いておられる。氏は、「都市の遺伝子」の中で、マンダラシステム図の都市像的拡大解釈として、胎像界マンダラとしての建築を対応させ、宝憧仏→神殿、天鼓雷音→庭園、開敷華王→銀行、彌ろく→宮殿、無量寿→市場、文殊→図書館及び博物館、大日如来→中心都市広場といった対比を試みるなどユニークなマンダラ的都市論・建築論を展開しておられる。

 都市がもしマンダラであるならば、神々の住まう聖なる空間としてのマンダラは都市においても実現されねばならないだろう。すなわち、胎蔵曼陀羅における都市的存在様式としては、一尊の大日如来を中心として、外へ、如来、菩薩、明王、天部等と尊を重ね、幾重も外周を拡げつつも、常に中心で安定して移動しない大日如来のあり方は、同心円型の構造を持ち、都市的中心の様相を暗示していなければならない。その求心的中心は常に静的であるが、同時に内面深く入っていくに従い根源から湧出して止まない無限の活動力を秘め隠しており、この種の都市における交通の中心こそ、曼陀羅における大日的活動力に符合している筈である。また、金剛界曼陀羅における存在様式としえなら、全体があたかもモンドリアンの抽象絵画の如き整然たる枅目に見えるが、実は螺旋の構造を持ち、その内面的本質は流動的に展開して止まない構造のあり方として、この種の都市形態を暗示しているのに違いない。

 この種の類型的構造の解明ではなく、マンダラが、個と全体、宇宙と人間との深淵なる調和的ユートピアを語っているとしたならば、都市もその希望的要請に答えていかねばならなくなってくる。

 ユングが、密教曼陀羅の研究家で、人間の意識を五層に分類した中の最深部、すなわち「集合的無意識のうち、決して意識化されることのない部分」の深層的表現形態としてマンダラに着目していたことは一般によく知られている。彼は、マンダラ的図形が、神経症患者達の描く絵の中で発病期と回復期に決って表れることに注目。自身マンダラをも含めた東洋思想を研究するのと同時に、精神療法の一つとして患者にマンダラを描かせることを思いついたという。

  過剰な機械文明という瀕死の重病におかされた我々の都市が、発病期のマンダラをへて、これから先、自然との相互調和をめざした理想的都市形態へと回復期に向かうとしたならば、そのとき、我々の都市の上には、いついかなる形のマンダラが、また誰の手によって美しく描かれていくのだろうか。




                                                   

2021年6月16日水曜日

組織事務所の原点・・・産業社会と建築家 東畑謙三の「工場建築」

 布野修司監修:待てしばしはないー東畑謙三の光跡,日刊建設通信新聞社,19995

 

組織事務所の原点・・・産業社会と建築家
東畑謙三の「工場建築」

 

布野修司

 

 はじめに

 一九九八年四月二九日、東畑謙三は逝った。享年九六歳。大往生である。

 五月一三日、西宮市山手会館で東畑建築事務所による社葬が執り行われた。その業績は、親しく師事した、後輩の横尾義貫、佐野正一両先生の心のこもった弔辞に的確に表現されている*[1]。横尾先生が思い出として述べられたのは、京大建築会の草創の頃の『建築学研究』*[2]の発刊、東畑建築事務所の開設、京都大学での教育*[3]、そして日本建築総合試験所の創設*[4]である。加えて、佐野先生が挙げられるのが、大阪大学での教育、日本建築協会での活動*[5]、大阪万国博(一九七〇年)の会場設計についての組織化などである。二人とも口を揃えて、趣味人、愛書家、蔵書家としての東畑謙三にも触れられている。

 本書は、東畑謙三と東畑建築事務所の軌跡をその著作、作品、発言をもとに構成しようとしたものである。本書の企画に当たって新たにインタビューを試みることになっていたのであるが、既に体調を崩されていて、不可能であった。やむを得ず、本書に収録するインタビュー構成(これまでのインタビュー、対談等を再構成したもの)に眼を通して頂くことにしたのであるが、それも叶わなかった。直接お会いすることのないままお別れの時を迎える、それを予感しながらの編集作業であった。

 編集の過程で、多くの資料を収集した。また、多くの人々にインタビューも試みた。さらに、新たに東畑謙三論の執筆を求めた。本稿は、そうした編集作業を通じて得られた資料をもとに、東畑謙三という「建築家」のひとつの像を描き出そうとする試みである。

 

 建築家・東畑謙三

 東畑謙三は一九〇二年に三重県に生まれた。四兄弟の三男で、長兄は著名な農政学者で東京大学教授を務めた東畑精一(一八九九~一九八三年)。次兄、速見敬二も学者である。一橋大学から京都大学に移って学を修め、國學院大学教授を務めた。弟、東畑四郎は、東大法学部を出て、農林事務次官を務めている。学者一家、エリート一家である。東畑謙三に学者の素質があったことは疑いないところである。

 三高に通う頃、京都ではじめての鉄筋コンクリート造の建物、京都大学建築学科本館が建設中であった。仮囲いがとれ、チョコレート色の本館が現れるのをみて面白いと思ったのが、建築を志すあるきっかけになったという。父親に、建築をやりたい、と言ったときのエピソードが面白い。「大学まで行って大工になるのか」と言われたのである。昭和初頭の大学の建築学科への一般の認識がよくわかる。

 三高を出て京都帝国大学の建築学科に入学、一九二六年に卒業する。京都帝国大学に建築学科が設置されたのは一九二〇年のことであり、草創期の京都帝国大学建築学科の昂揚のなかで建築を学んだことになる。東畑は建築学科卒業第四期生である。建築を志すきっかけになったというチョコレート色の本館で学んだ最初の学生のひとりである。

 日比忠彦(構造学)は既に亡かった(一八七三~一九二一年)けれど、武田五一(建築意匠学、建築家 一八七二~一九三八)以下、天沼俊一(建築史学)、藤井厚二(建築環境工学、建築家 一八八八~一九三八)、坂静雄(建築構造学)、森田慶一(建築論、建築家 一八九五~一九八三年)といったそうそうたる教授陣に薫陶を受けた。下宿の前の家の二階でよく勉強していたのが坂助教授だったとか、天沼先生の熱心な授業が面白くてクラス全員が歴史家になろうと思ったとか、分離派のプリンス、森田助教授が建築材料を教えていたのだとか、分離派の集会に行ったら、十人ちょっとしか参会者がなかったとか、様々なエピソードが後年語られている。

 卒業後、大学院に進学。東京の建築学会の『建築雑誌』に対抗する形で発刊された『建築学研究』の編集に携わる。原稿が集まらず、新雑誌紹介欄を設けて、L.コルビュジェ(一八八七~一九六五年)やT.v.ドゥースブルグ(一八八三~一九三一年)を紹介する記事を一人で書いていたという(文献参照)。二年の給費生期間が過ぎると、師である武田五一の命で「東方文化研究所」京都事務所(現京都大学人文研究所)の設計に携わることになる。一九二九年の三月から外務省の嘱託になっている。武田五一の代表作と言われるけれども、実質上は東畑謙三の処女作である。一心不乱に仕事に取り組んだ様は、後年生き生きと振り返られている。

 その後続いて新大阪ホテルの設計で一九三一年から一年大阪市の嘱託を務めた後、独立、事務所開設に至る。一九三二年暮れのことであった。

 以後、事務所の歴史は六〇年の還暦を超えた。現在は三五〇名にのぼる事務所員の数の推移がその発展の歴史を物語っている。東畑謙三建築事務所といえば、戦前にルーツをもつ、代表的な組織事務所のひとつである。

 東畑謙三が事務所を開設した頃、大阪の主な設計事務所としては、安井建築事務所、渡辺節建築事務所、横河建築事務所、松井(喜太郎 一八八三~一九六一年)建築事務所、置塩(章 一八八一~一九六五年)建築事務所などがあった。安井武雄(一八八四~ ● )が片岡事務所から独立したのが一九二四年、村野藤吾(一八九一~一九八四)が渡辺節建築事務所から独立したのが一九二九年である。安井、村野が四〇歳近くでの独立であるのに対して、弱冠三〇歳の独立であった。

 日本を代表する近代建築家と目される前川國男(一九〇五~一九八六)の独立は一九三五年のことである。同じ三〇歳であるが、東畑は三つほど年長であり、一足早いスタートであった。

 

 「工場建築」と「美術建築」

 前川國男の軌跡*[6]と比べると、日本の近代建築の歴史における東畑謙三の位置がくっきり見えてくる。時代と社会に対するスタンスが陰と陽と思えるほど対極的なのである。

 同じようにL.コルビュジェに心酔したといっても直接そのアトリエで学んだ前川とC.R.マッキントッシュ(一八六八~一九二八年)流のアール・ヌーヴォーの作法を身につけた武田五一のもとで学んだ東畑では出発点が違う。前川國男の場合、近代建築の実現という課題が常に意識されており、日本の建築界をリードしていくのだという使命感が鮮明なのであるが、東畑の場合、他をリードし、啓蒙するといった構えはない。書かれた文章から容易にそのスタンスの違いをみることができる。東畑の文章はそう多くないし、限定されたテーマに関するものがほとんどである。

 何よりも二人の建築家を区別するのは「工場建築」である。東畑は「美術建築」という言葉を使う。「芸術としての建築」というより、いわゆる公共建築のことと考えていい。前川が敢然と闘争を挑んだ数々の設計競技(コンペティション)の世界、モニュメンタルな建築の世界が全体として「美術建築」と呼ばれている。それに対して、東畑が選びとったのが「工場建築」の世界である。

 独立のため洋行し、アルバート・カーン(一八六九~一九四二年)の「工場建築」に深く感動して「工場建築」を始めることになったというのが有名なエピソードである。アルバート・カーンは、シカゴやデトロイトでフォードやゼネラル・モーターズの自動車工場を手掛けていた建築家である。もちろん、アルバート・カーンの作品を見た後、初めて「工場建築」を志したということではない。既に決断はなされつつあった。事務所開設の後援者であり、外遊のスポンサーであった義父、岩井勝次郎から「産業的な建築、すなわち工場建築を勉強してこい」と言われているのである。カーンの作品を予めリストして出発したのであった。

 しかし、最初に赴いたのはヨーロッパである。ローマのパラッツォ・ファルネーゼのスケールに感動した話など後年振り返られるところだ。「イタリアルネッサンス建築」*[7]といった記事も書かれている。ヴィトルヴィウスの『建築十書』のイタリア語初版本など、青林文庫のコレクションを思うとき、「西欧建築」への思いは後々まで断ち切り難かったようにも思えるのである。

 彼にはある自負があった。ヨーロッパの新興建築の動向に通じているのは自分だ。身近に接した分離派の先生方も、ペルツィッヒやメンデルゾーンに言及するだけだ。コルビュジェを日本に最初に活字にして紹介したのは自分だ。だから、コルビュジェからアルバート・カーンへの転向には多少のためらいがあったのではないか。しかし、実際に作品を見て、その徹底した合理主義の表現に心底感嘆したのであった。

 考えてみれば、近代建築の理念を具現する上で最も相応しい対象である。P.ベーレンスのAEGタービン工場など近代建築の傑作も多い。しかし、日本の「新興建築家」たちは、「工場建築」を主たる議論の対象とはして来なかった。そうした中で、紡績工場、製鉄工場をはじめとして「工場建築」を数多く手がけた日本の建築家の代表が東畑謙三なのである。

 「工場建築ははっきり答えが出る」

 「工場建築は、それぞれの産業に合った固有のスケールがある」

 書かれた文章は少ない中で、工場建築についての原稿がいくつか残されている*[8]。日本の近代建築の歴史において、「工場建築」を正面きって主題化し、実践した建築家は東畑謙三以外にはいないのではないか。

 

 「建築技師」と「建築家」

  東畑謙三は、自らを「建築技師」あるいは「建築技術者」と呼び、決して「建築家」とは言わなかったのだという。「市井の一介の技術者に過ぎません」というのが口癖だった。前川國男が終生追い求めた「建築家(アーキテクト)」像とその建築家像は対比的である。その建築を学んだ出発点において果たしてどうであったかは別として、フリーランスの建築家、芸術家としての建築家という意識は東畑には少ないのである。もちろん、日本建築家協会*[9]という職能団体との関係はある。建築士事務所協会*[10]が設立された時(一九七六年)は、むしろ日本建築家協会を引き継ぐ立場であったという。しかし、公取問題s*[11]などには関心は薄かったようだ。関西に拠点を置く日本建築協会、そして日本建築総合試験所といった組織がより身近な組織であった。

 いわゆる「建築家」とは違うという、その自己規定は、特にその初期において専ら「工場建築」を選びとって設計してきたことと無縁ではないだろう。 「構成技師」という言葉も使われるが、「建築技術者」という言葉には、エンジニアに徹するというより、産業社会の要求する建築をつくり続けてきたという自負が込められていると言うべきではないかと思う。

 そして、一五年戦争期(一九三一~四五年)における経験が決定的であった。東畑建築事務所は徹底した合理主義システムによって、仕事(体制)の要求に答えたのである。

 戦前から戦中にかけて、軍関係や工場の仕事で忙しい日々を東畑建築事務所は送っている。海軍の仕事は、竹腰健三事務所が横須賀、山下寿郎事務所が横須賀、東畑謙三が舞鶴と佐世保を分担したのである。

 ここでも前川國男をはじめとする一線の近代建築家と東畑は違う。というより、決定的な違いがあるというべきか。軍の仕事をすることは、ファシズム体制に協力することであり、日本の「近代建築家」にとって許すべからざることであった。しかし、専ら「帝冠様式」をめぐって論じられる一五年戦争期の建築のプロブレマティーク(問題構制)の土俵とは違う世界がそこにはある。すなわち、屋根のシンボリズムをめぐって日本精神や大東亜共栄圏の理想が論じられる基底で、戦時体制を建築技術者としてどう生きていくかこそが問われていたのである。

 書かれた近代建築の歴史においては、ほとんどの建築家が仕事がなかったということになっている。確かに、東畑のいう「美術建築」の世界ではそうかもしれない。しかし、戦時体制を支える軍需施設の仕事は体制挙げての課題であった。東畑謙三建築事務所はその課題に忙殺されたのである。

 軍関係の仕事をするのはタブーということで、日本の近代建築の歴史においてほとんど触れられていない。しかし、多くの「建築技師」が戦時体制を支えたのは言うまでもないことであった。基本的には、全ての建築家が戦時体制に巻き込まれたのであって、前川國男も例外でない。東畑謙三の場合、「工場建築」に生きる覚悟の上で懸命に一五年戦争期を生き抜いたのである。

 

 ある野心

 東畑謙三は、もしかすると、人生を間違えたのかもしれない。「清林文庫」の膨大なコレクションを眼にするとついそんな感慨に囚われる。

 建築家としての東畑の出発点には、処女作「東洋文化研究所」(現京都大学人文研究所)がある。北京で起こった団匪事件の賠償として中国から古文書二〇万冊を譲り受けるに当たって、東京と京都の帝国大学のそれぞれに一〇万冊づつ分け、外務省の所轄のもとに研究所を建てて保管することになった。それが「東洋文化研究所」である。そもそも一〇万冊の本を収める研究所がその原点なのである。

 立体書架のアイディアで、京都大学の文学部の諸先生とわたりあったエピソードが残っている。浜田耕作(考古学 一八八一~一九三八)、羽田亨(西域研究)といった碩学との交流は余程刺激的だったようである。中国の陶磁器や彫刻、絵画への傾倒はこの時に始まっているのである。浜田耕作先生には中国の建築の研究をやれと言われたというのであるが、「清林文庫」の貴重本の中には、アジアの建築についての本が目立つ。

 そもそも学者になりたかったのだ。だから、武田五一先生にお願いして大学院に入ったのだ。兄弟も、長兄の東畑精一をはじめ学者を志している。しかし、給費生が二年で切れるという現実があった。そして、「東洋文化研究所」の設計という仕事があった。しかし、建築学者になる夢は消えなかったのではないか。建築学者になる夢が戦後「精林文庫」のコレクションに結実したのではなかったか。

 転機はいくつか考えられる。

 「東洋文化研究所」の設計が実務への興味を呼び起こしたと、東畑はいう。「建築というものは実際やらんとおもしろくない」というのは、全くその通りだろう。しかし、実務ということであれば武田五一のもとでも続けられたであろうし、プロフェッサー・アーキテクトの道もあり得た。

 野心がわいてきたのだと、東畑はいう。

 「崇拝する先生というのは自分らの専門の先生だけではないということです。仕事をやっているうちに見解が広くなったわけです。だから必ずしも武田先生にばかりついて勉強していても、自分の道は開けてこない。なんと申しますか、野心的な思想がわいてきたわけです」。 

 しかし、単純に野心ということでもないと思う。大学院にいても、先の展望が見えなかったのである。武田五一の退官は三二年の一二月三日である。そして、結果として、事務所開設は一二月一三日なのである。三〇歳前にして京都帝国大学に居ても、学者としての展望がないとすればどうするか。洋行(三三年五月)を決める以前に、決断の時期は迫っていた。

 独立への決断の理由は身近にもあった。結婚は誰しも人生の画期となるが、義父となった岩井勝次郎との関係は大きかったと思う。岩井産業株式会社(日商岩井)の創設者であった義父は、東畑の独立を促し、支持するのである。義父無くして「建築技師」東畑謙三はなかった筈だ。

 

 構成の基礎概念

 決断には、さらに設計思想の問題があった。東畑の決断は、大袈裟に言えば、近代建築の理念の日本への受容の過程における、最も正統的な決断だったかもしれない。合理主義の思想を最もよく表現すると考えられたのが「工場建築」だからである。そしてそれは、武田五一のもとを離れることを意味した。

 「東洋文化研究所」は、武田五一の名において設計されたけれど、全ては東畑謙三のものである。処女作であり、代表作ともされる。しかし、東畑の回顧談には誇らしさはなく、むしろ、ほろ苦さが滲む。一方、T.v.ドゥースブルグの「新構成芸術の基礎概念」の翻訳やL.コルビュジェの紹介は誇らしげに語られる。

 東畑には、近代建築の基本的方向が自分なりに見えていた。東畑は海外の雑誌で学んだ合理主義の建築をやりたかったのである。だから、「東洋文化研究所」の仕事を勝手に中国風の建築の設計と考え、とまどい、断ろうともしたのである。文学部の諸先生との協同作業によって、貴重な仕事をやりとげることになるのであるが、結果的に主観的には敗北感の残る仕事となった。「妥協することを学んだ」というのであるが、徹底さを欠いたことを悔いるのである。徹底さとは何か。T.v.ドゥースブルグの「新構成芸術の基礎概念」の実現ではなかったか。

 既に「工場建築」をやるという覚悟の上での洋行ではあったけれど、上述したように、アルバート・カーンのフォードやゼネラル・モータースの大自動車工場工場を直に見たことが決定的であった。

 「合理主義に徹したシカゴの大工場群を見たときは非常に感嘆しました。当時としては斬新な溶接によるラーメン構造、非常に明るい工場の計画、整然と配置された運搬装置等を見て、なるほど義父が言ったとうり、これが建築家として行くべき道だと思い、眼が洗われたような気がしました。」

  日本人建築家が、L.コルビュジェ、W.グロピウス(一八九六~一九五九)、F.L.ライト(一八八三~一九六九)など近代建築の巨匠たちに師事する中で、東畑はアルバート・カーンに帰依したのである。テーラー・システムの工場とともにアメリカの資本主義社会がモデルとして、はっきり意識されたのだと思う。

 

 合理主義と個の表現

 戦後間もなくの混乱期の苦労はともかく戦後もビルブームが起こる頃から順調に仕事があったように思える。日本の戦後社会は急速にアメリカ化していく。東畑が戦前に目指した合理主義の建築の時代がやってきた。工場から事務所ビルへ、作品のウエイトは移って行くけれど、日本の戦後社会を支える仕事が一貫して続けられることになる。

 六〇年代以降、都市再開発の仕事へと業務が拡大していくのも、その基本姿勢から極自然に理解できる。振り返って見ると、東畑謙三の「建築家」としての軌跡には、事務所設立以降全く屈折はないのではないか。彼は、事務所をベースに一貫して合理主義の建築を目指し、実現してきたのである。

 もちろん、その合理主義は与えられた条件のもとでの合理主義である。与えられた枠組みにおいて、目的、手段、過程を明確にすることによって最適の解を求めるのが合理主義であるとすれば、与えられた条件のもとで、というのは当然のことである。ひとつ指摘できるとすれば、東畑は、その与えられた枠組みを問うことはなかったように見えることである。産業合理主義の世界をそのまま受け入れ、「建築技師」としてそれを建築化することを出発点とすることにおいて、屈折することはなかったのである。

 東畑が個の表現にこだわらなかったのもそれ故にである。こうして処女作「東方文化研究所」における当人の屈折を理解できる。われわれは逆にそこに個の表現を見て、東畑謙三という個の臭いをかぎつける。そうした臭いのする作品は、他に、自邸と辰馬考古資料館(一九七六年)、奈良・依水圓寧楽美術館(一九六九年)ぐらいであろうか。

 中国陶器をはじめとする美術への造詣も、もしかすると、個のアイデンティティの表現であったかもしれない。「美術建築」と「工場建築」との間の内なる葛藤が美術品に眼を向けさせたのかもしれないとも思える。もともと美術が好きで建築を選んだのである。

 

  産業社会と組織事務所

 仕事があって組織がありうる、これは組織事務所の基本原理と言うべきであろう。東畑の口癖であったという「チャンスは前髪でつかめ」あるいは「待てしばしはない」という処世訓は、産業社会で生きていく厳しさを指摘するものであろう。

 東畑建築事務所の歴史を見ていて興味深いのは、平行していくつかの組織がつくられていることである。戦後間もなく不二建設が設立され、パネル式の組立住宅の供給が試みられたりしている。また、時代は下るが清林社という不動産部門がつくられている。

 設計施工の分離を前提とする建築家の理念に照らすとき、施工会社の設立は普通発想し得ないことである。しかし、実業界において設計施工の連携ということは自然の発想である。もっとも、東畑の場合、施工会社の経営はなじめず、建築事務所に専念することになる。やはり、美術好きの学者肌なのである。

 清林社は、古今東西の貴重な建築書のコレクションで知られ、東畑謙三の人となりの一側面を物語るのであるが、実質的な機能としては事務所の財産の担保が目的である。事務所員の生活を第一に考える姿勢がそこにある。主宰者の責任は事務所の経営を安定させることにまずあるのである。

 こうして、日本の建築士事務所のふたつの類型が見えてくる。いわゆるアトリエ派と呼ばれる個人事務所の場合、表現が先であって組織はそのためにある。組織事務所の場合、組織を支える社会システムがあって仕事がある。もちろん、二つの類型の間に截然と線が引かれるわけではない。個人事務所から出発して、一定のクライアントを獲得することによって組織事務所に成っていくというのがむしろ一般的である。個人名を冠した組織事務所の大半がそうであった。

 しかし、東畑の場合、最初から時代と社会に身を委ねる基本方針ははっきりしていたようにみえる。といっても、専ら、利潤を追求するということではない。彼に営業という概念はないのである。建築事務所は、技術を持った人を集め、その技術の知恵を提供して報酬を得る。それが経営の基本理念である。

 七〇年大阪万国博におけるまとめ役としての働き、日本建築協会の会長としての仕事、日本総合建築試験所の設立への努力など、その社会への貢献はもちろん事務所を越えて拡がっている。

 

 おわりに

 こうして見ると、今日の組織事務所は随分とその姿を変えてきたと言えるかもしれない。東畑謙三がくっきりとつくってきた組織事務所のあり方に照らせば、その変貌の姿が見えて来るのである。

 戦前期に設立された、個人名を関した建築設計事務所は時代の要求に答え、社会的役割を果たすことにおいて成長してきた。六〇年代の「設計施工一貫か、分離か」という大議論が示すように、ゼネコン(設計部)と肩を並べる一大勢力となったのが一群の大手組織事務所である。

 しかし、そうした建築設計事務所は、既に二代、三代と世代を変えつつある。九六歳という長寿を全うすることにおいて、東畑健三は、その最後の世代代わりを象徴する存在となった。

 組織事務所は、次第に、その創業者の個性、初心を忘れさる。組織が巨大化するとともに別の組織原理が働いてくる。組織の中に個が埋没する、それが一般的な傾向である。

 建築表現にける個と組織の問題は古くて新しい問題である。一般にアトリエ派と組織事務所という対立構図において、その差異が論じられるけれども、組織と個の関係はアトリエ派においても同じように問われる。今日の大手組織事務所の多くもかってはアトリエ事務所だったのである。

 東畑健三の「工場建築」の世界は、単純に個の表現を否定的媒介にして選び取られたものではないだろう。彼には産業社会の行方を読みとる力があった。前髪で時代を掴んだのである。

 組織事務所は何処へ行くのか。はっきりしているのは、建築界が大きな改革を経験しなければならないことである。「待てしばしはない」。時代を一歩先んじてつかんでいるもののみが生き残りうるのである

 

*1 「東畑謙三先生天寿を全うされる」、『建築と社会』、一九九八年七月号

*2 一九二一年四月、教官と在学生の親睦を図るために京大建築会が発足、また、若手の教官と大学院生を中心に建築学研究会がつくられた。一九二七年五月に機関誌「建築学研究」が創刊された。一九三三年二月まで着実に月一回出され、一一輯六八号まで号を重ねた。

*3 科目「建築計画各説」で、一九四七年~一九六二年、京都大学建築学科で非常勤講師を務めた。。

*4 佐野インタビュー註より

*5 佐野インタビュー註より

*6 拙稿「Mr.建築家ー前川國男というラディカリズム」、『建築の前夜 前川國男文集』所収、而立書房、一九九六年。

*7 ●文献リストより 『新建築』

*8 「工場建築の二つの行き方」、『建築と社会』、一九四〇年八月。「工場建築の諸問題」、『建築と社会』、一九六二年九月。

*9 佐野インタビュー註より

*10 佐野インタビュー註より

*11 佐野インタビュー註より



*[1] 「東畑謙三先生天寿を全うされる」、『建築と社会』、一九九八年七月号

*[2] 一九二一年四月、教官と在学生の親睦を図るために京大建築会が発足、また、若手の教官と大学院生を中心に建築学研究会がつくられた。一九二七年五月に機関誌「建築学研究」が創刊された。一九三三年二月まで着実に月一回出され、一一輯六八号まで号を重ねた。

*[3] 科目「建築計画各説」で、一九四七年~一九六二年、京都大学建築学科で非常勤講師を務めた。。

*[4] 佐野インタビュー註より

*[5] 佐野インタビュー註より

*[6] 拙稿「Mr.建築家ー前川國男というラディカリズム」、『建築の前夜 前川國男文集』所収、而立書房、一九九六年。

*[7] ●文献リストより 『新建築』

*[8] 「工場建築の二つの行き方」、『建築と社会』、一九四〇年八月。「工場建築の諸問題」、『建築と社会』、一九六二年九月。

*[9] 佐野インタビュー註より

*[10] 佐野インタビュー註より

*[11] 佐野インタビュー註より