このブログを検索

2023年6月29日木曜日

景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

 景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

景観条例、全国初の勧告やむなし

                970301

 「建築物西側のバルコニーの外側の壁面から、建築基準法(昭和二十五年法律第二百一号)第四二条第一項第四号の規定に基づき指定された「都市計画道路三・三・十号袖師大手前線」の境界線までの距離を、五メートル以上確保し、その空地を高木により緑化すること」

 以上のような勧告に対して「当該勧告を受けた者がこれに従わないので、規定による公表する」との内容が県報に載った(一月三一日)。景観条例に基づく勧告が公表されたのは、全国で初めてのことである。

 幾人かの文学者が愛であげた美しい景観を誇る湖の畔(ほとり)にそのマンションは現在建設中である。九階建てのそのマンションは、当初一〇階建てで計画され、何故かこの間の経緯の中で一階切り下げられたのであるが、一見そう変わったデザインをしているわけではない。都会では一般に見かけるマンションであり、湖のある地方都市でもとりたてて珍しいわけではない。ただ、そのマンションが建つ場所が一九九一年に制定された景観条例に基づく景観形成地区に指定されているのが大きな問題であった。

 県の景観審議会は、景観自然課に届出の事前の相談があった時点から議論を重ねてきた。正式の届出がなされて以降は、建主や設計者からのヒヤリングも行った。景観審議会は原則として公開である。現在、全国二〇〇にのぼる景観審議会のなかでも先進的といえるだろう。新聞やTVの取材にもオープンである。従って、この間の経緯は全て公表されているのであるが、「勧告公表やむなし」というのが、審議会委員である筆者も含めた全員一致の結論であった。

 周知のように、景観条例は建築基準法や都市計画法に比べると法的拘束力がほとんどない。「お願い条例」と言われる由縁である。建築基準法上の要件を充たしていれば、確認申請を許可するのは当然である。裁判になれば、行政側が敗訴すると言われる。

 しかし、それにも関わらず勧告という事態になったのは、そのマンションがまさに条例の想定する要の地にあり、この一件をうやむやにすれば条例そのものの存在が意味がなくなると判断されたからである。「景観条例は一体何のためにあるのか」というのが委員共通の思いであった。

 県外の建主にとって理不尽な条例に思えたことは想像に難くない。近くには景観形成地区から外れるというだけで七五メートルの高層ビルが同じく建設中なのである。その高層ビルも景観審議会にかかったのであるが、その場合は条例の規定には抵触するところはなかった。今回は明らかに条例違反であり審議会としても認められなかったのである。

 景観形成上極めて重要な場所であり、公的な利用が相応しい敷地である。だから、公共期間が買収するのが最もいい解決であり、審議会委員の大勢もそうした意見であった。県にはそのための基金もあるのである。しかし、買収価格をめぐって折り合いがつかなかった。

 問題は、階数を削ればいいだろうと、建主が着工を強行したことである。その行為は「お願い条例」である景観条例の精神を踏みにじるものであった。地域のコンセンサスを得る姿勢が欲しかった。

 景観条例に基づく勧告公表は不幸なことである。その結果、景観条例の精神が貶められたのを憂える。しかし、一方、法的根拠をもつより強制力のある景観条例を求める声が高まるのを恐れる。それぞれ地域で、よりよい景観を創り出す努力が行われること、その仕組みを創りあげることが重要であって、条例や法律が問題ではないのである。

2023年6月28日水曜日

国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

 国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

国際協力何のため

 京都大学の東南アジア研究センターの派遣研究員としてインドネシアを訪問してきた。今回はテーマ発見ということで滅多にない優雅な旅であるが、結局はいくつかの仕事をこなすことになった。当然といえば当然である。

 ひとつは、LIPI(インドネシア科学院)の東南アジア研究チーム(社会科学院 主宰:タウフリク・アブドゥラ)と東南アジア都市研究について議論してきた。昨年「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」という国際シンポジウム(一九九六年六月)に招かれた経緯があり、その後の研究計画の進展が興味深かったのである。幸い国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)の助成金が得られて、さらに二年継続されることになっていた。そう大きなお金ではないが、実に効果的である。LIPIが中心になって東南アジア都市研究を展開する、そうした時代になったのである。

 LIPIの都市研究チームは、都心のクマヨラン・ニュータウンと郊外のBSDニュータウンをとりあげて比較研究しようとしている。クマヨランには、廊下、台所、トイレを共用する形のルーマー・ススン(集合住宅)がある。その調査を手伝うことになった。クマヨランのカンポン(都市内集落)に以前から居住していたひとたちのルーマー・ススンで、各種のコミュニティ活動が活発に展開されている。

 何故、日本の国際協力チームは、カンポンのひとたちを追い出そうとしたのか。僕らに突きつけられた問いである。一九八〇年代半ばに、ジャカルタのど真ん中といっていいクボン・カチャンのカンポン再開発で、日本チームが計画したルーマー・ススンがある。その計画も結果として、カンポンの従前居住者を追い出すことになった。日本の国際協力チームは概して評判が悪い。

 ふたつめは、ジョクジャカルタのガジャマダ大学で、マリオボロ地区という王宮前の都心地区の保存的開発をめぐる授業に特別講師として参加した。また、再開発のための研究方法をめぐって講義も行った。大学院生といっても、インドネシ各地の大学の講師陣であり、半期のプログラムで具体的な地区を設定し、フィールド・サーヴェイを行い、様々な分析をもとに提案をしようとする姿勢には共感を覚えた。一方、そうしたプログラムに対して、日本の国際協力チームは無縁である。フィールドに出ることはなく、冷房の効いた部屋でコンピューターを自由自在に操っている。何事かの仕事をしていることはわかるけれど、一体何の仕事なのか。

 巨大な行政機構の中にいて個人のできることは限られている。しかし、大きなお金を使いながら首を傾げる例も少なくない。個人でもわずかなお金でもやれることはある。

 みっつめは、スラバヤで環境共生住宅の実験住宅を建設する打ち合わせを行った。(財)国際建設技術協会のプロジェクトである。かねてから、湿潤熱帯におけるモデル住宅開発の必要性を感じてきたが、実効に移すことになった。建設費はわずかであるが大きな意義を持っている。

 要するに言いたいのは、国際協力や援助は金額ではないということである。やりようによってはいろいろできる。国際協力基金(アジア財団)のように日本文化の理解のために懸命な仕事がなされている反面、一体何をしているのかという援助の形態も少なくない。さらに、日本の価値体系をそのまま押しつける態度がほとんどである。現場から発想しない。言われたことを無難にこなすだけのそんな派遣は要らないと思う。




2023年6月27日火曜日

ジャイシン二世の曼陀羅都市,ネパールーインド紀行③まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961220(布野修司建築論集Ⅰ収録)

 ジャイシン二世の曼陀羅都市,ネパールーインド紀行③まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961220(布野修司建築論集Ⅰ収録)

③ジャイプール  ジャイシン二世の曼陀羅都市

 アーメダバードからジャイプールへ。一六人乗りのプロペラ機に六人。途中ウダイプルの町がくっきり見えた。ジャイプールで先発隊と合流。カトマンズ、アーメダバードと三箇所同時に調査隊が活動していることになる。この後パキスタンのラフォールが加わる。

 ジャイプール入りすると、早速、調査地区であるプラニバスティーというチョウクリ(街区)に直行、歩き回る。

 ジャイプールでは、ラジバンシー教授にお世話になった。マラビヤ大学にいた二年前にもいろいろと教えを乞うたのであるが、彼はジャイプール開発局(JDA)に職を転じていた。最大の収穫はインド調査局が一九二五年~二七年にかけて作成した詳細な地図を手に入れることができたことである。

 ベースマップを手に路地から路地を歩き回って、七〇年前の地図が驚くほど正確なのにびっくりする。モスクのあったところにモスクがヒンドゥー寺院の場所にはヒンドゥー寺院が、井戸や小さな祠の位置まで正確に書かれている。インド調査局もすごい調査をするものである。

 ジャイプールは、一八世紀初頭にジャイシン二世のつくった計画都市である。極めて整然としたグリッド(格子状)パターンの都市で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づいてつくられたとされる。グリッドの格子が正南北に対して一六度ほど傾いており、また、完全なナイン・スクエア(3×3の9ブロック)からなるのではなく、北西の一つのブロックが欠け、南東に一ブロックはみ出ているなど実にユニークな都市だ。

 真中に王宮とジャンタル・マンタル(ジャイシン二世はデリーを含め五都市に天文台をつくった)が置かれ、北方にはブラーフマプリと呼ばれるブラーフマンの居住区が今もある。インド古来の建築書マナサラにあるプラスタラに従ったと言われる。マナサラは紀元後四、五世紀の成立とされるが、ヴィトルビウスの建築書の影響があるという説もある。洋の東西の交流をうかがう貴重な古文書である。マヤマタなど数多くの類書がある。

 この数年インドネシアのロンボク島にあるチャクラヌガラという都市を調べてきた。バリ島の東部カランガセム王国の植民都市として一八世紀前半に建設されたインドネシアでは珍しい極めて整然としたグリッド・パターンの都市である。ヒンドゥー理念に基づいてつくられた都市はと見渡すと西にジャイプールがあった。実をいうとジャイプールとチャクラヌガラを比較したいというのがインド行の主目的なのである。

 ジャイプールの整然とした区画割りも、よく見るとチョウクリによって区画の仕方が異なる。カーストによって区画の面積を変えているのである。均等な区画のチャクラヌガラとは少し原理を異にしている。

 都市住居はハヴェリと呼ばれる。中庭式住居で三、四階建てまである。合同家族(ジョイント・ファミリー)ということで、ひとつのハヴェリに数十人から百数十人が住むことも珍しくない。見事な集住システムである。近年は合同家族の制度は崩れ、貸家も増え、さまざまな居住者が混住し始めている。

 ジャイプールの町が面白いのは幹線道路沿い間口二間ほどの店舗をづらっと並べていることである。また、二階三階にオフィス、住宅などを有機的に配す立体的に多機能複合の都市となっていることである。


 

2023年6月26日月曜日

イスラーム都市の袋小路,ネパールーインド紀行②アーメダバード,日刊建設工業新聞,19961129(布野修司建築論集Ⅰ収録)

イスラーム都市の袋小路,ネパールーインド紀行②アーメダバード,日刊建設工業新聞,19961129(布野修司建築論集Ⅰ収録)

 ②アーメダバード        イスラーム都市の袋小路

 カトマンズからデリーへ。二年前と同じコンノートの北のホテルにチェックイン。早速、ジャンタル・マンタル(天文台)の周辺を歩く。スクオッターが公園を占拠していて、貧富の差はむしろ拡大している印象をもった。昼は華やかなコンノート・サークルの裏側にも貧困者の居住区がある。インドは数百万のホームレスを抱え、世紀末には四一〇〇万戸の住居が不足するとされる*1。

 デリーからアーメダバードへ。何故、アーメダバードか。テーマとしてはイスラーム的な迷路状の都市と都市住居を調べたいということがあったのだが、実は徳島の建築家新居照和さんとの出会いが大きい。徳島の建築家新居さんはここで学び、ドーシのもとで仕事をしたことがあり、インドに行くなら是非アーメダバードに行くべしというのに心を動かされたのである。ドーシはコルビュジェの弟子でインドを代表する近代建築家である。アーメダバードにはコルビュジェの四つの作品があり、ルイ・カーンのIIT(インド経営学院)がある。チャンディガールとともにインド近代建築のメッカなのである。

 ジャーマ・マスジッドを中心に旧市街を歩き回った後、建築学校(スクール・オブ・アーキテクチャー)へ行く。予め手紙を書いておいたインドで有名な画家ピラジ・サガラさんが待っており、主任のヴァーキー教授を紹介してくれた。というか、既に全てがセットされており、僕らの関心に適う論文を数多く用意してくれていた。

 建築学校は、ドーシによってつくられた学校で実に密度の高い建築教育を実践している。名城大学出身の石田さんが新居さんの後輩として学んでいた。日本の多くの大学の建築教育は足下にも及ばないのではないか。

 アーメダバードは、一五世紀の初頭にアームド・シャーによってつくられたイスラーム都市である。一七世紀にはインドで最も美しい都市のひとつと評された。その旧市街を歩くと、都市住居の密集形態に圧倒される。カトマンズと違う魅力がある。カトマンズ盆地の町のヒンドゥー原理とイスラーム原理との違いと果たして言えるであろうか。興味深いのは、イスラームがつくった街区にヒンドゥー教徒やジャイナ教徒が住んでいることである。

 しかし、ここにも一貫する空間の秩序があることがすぐわかった。同じようにチョウク(中庭)が重要な役割を果たしているのである。オティアーカドゥキーチョウクーパーサルーオルドというようにコミュニティー(ポル)はヒエラルキカルに構成されるのである。都市に集まって住むためには、しかるべき秩序と空間の形式が必要なのである。

 調査の合間にコルビュジェの綿業会館、美術館、ショーダン邸を見た。ショダーン邸だけは見たかったという傑作であるが、素晴らしい状態でメンテナンスされていた。やはりコルビュジェはただ者ではない。

 建築学校で紹介された資料を見ていると、北一二〇キロの所にアーメダバードとそっくりな形をしたパタンという町がある。いずれじっくり比較してみたいと思う。そのパタンへ行く途中にアダラジの階段井戸とモデラの太陽神殿を見る。必見である。グジャラート一帯には多くの迫力ある階段井戸が残されている。

*1 Shelters and Cities,"Survey of the Environment '96", Sri. S. Rangarajan, Maduras, 1996



2023年6月25日日曜日

ネワール人の高密度居住,ネパールーインド紀行①まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961108(布野修司建築論集Ⅰ収録)


 ネワール人の高密度居住,ネパールーインド紀行まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961108(布野修司建築論集収録)

 ①カトマンズーパタン      ネワール人の高密度居住

 天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』(一九三六年)とモハン・M・パントさんの『バハ・マンダラ』(上海同済大学修士論文 一九九〇年)を携えてカトマンズの地を初めて踏んだ。アジアにおける都市型住宅の比較研究のための調査が目的でネパールの後インドへ向かう。ネパールではハディガオンという町の調査とトリブバン大学での特別講義が任務であった。

 パントさんの論文は英文でサブタイトルに「カトマンズ盆地パタンの伝統的居住パターンの研究」とつけられている。バハとは仏教の僧院ヴィハーラからきたネパール語で、中庭を囲んだ形式の住居のことである。カトマンズ、バクタプル、パタンといったカトマンズ盆地の都市の魅力を、バハの形式が都市の構成原理となっていることを実証するパントさんの論文に導かれてじっくり堪能することができた。

 カトマンズ盆地は京都盆地のおよそ四倍あるという。ヒマラヤをはるかに望む雄大な盆地の景観はそこにひとつの完結した宇宙があるかのようである。古来ネワール人が高密度の集住文化を発達させてきた。カトマンズ盆地には、パタン、バクタプル、キルティプルといった珠玉のような都市、集落を見ることができるのである。カトマンズの王宮、パタンのダルバル・スクエア(王宮前広場)、バクタプルの王宮、そしてスワヤンブナート(ストゥーパ)などが世界文化遺産に登録されたことが、その建築文化の高度な水準を示している。

 カトマンズに着いて、いきなり、インドラ・チョークを抜けて王宮へ向かった。バザールの活気と旧王宮の建築のレヴェルの高さに圧倒される。パタンのダルバル・スクエアにしても、バクタプルの町にしても同様である。世界遺産といっても遺跡として凍結されているのではなく町は実にいきいきと生きているのがすごい。

 そのひとつの理由はすぐさま理解された。広場や通りに人々が集う空間的仕掛けがきちんと用意されているのである。具体的にはパティと呼ばれる東屋、ヒティ(水場)、そして聖祠(チャイティア)が要所要所に配されているのである。様々な用途に今でも使われている。

 そしてもうひとつは、都市型住宅の型がきちんと成立していることである。バヒはもともと独身の僧の施設で、バハは妻帯を行うようになってからの施設をいう。バヒの空間は中庭に開かれているけれど、バハは個々の部屋が壁で閉じられ閉鎖的となる。この住居の形式が都市の建築形式として、中庭を囲む形式へと段階的に展開していく。それをパタンに即して論じたのがパントさんの論文である。

 天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』を見ると多くの写真が載っていて丁度六〇年前の様子がよく分かる。一九三四年に地震があった直後の訪問で多くの寺院が破壊された様子が生々しいけれど、チャン・ナラヤン寺院、パシュパティナート、チャバヒ・バハ、ボードナートなど、今日の姿とそう変わらない。

 もちろん、カトマンズは急速に変容しつつあり、スクオッター(不法占拠者)問題も抱えている。しかし、今日までまちの景観を維持してきた住居の形式、空間の仕掛けの力に、日本のまちづくりを考える大きなヒントをカトマンズ盆地の町に見たように思う。アジアにも都市型住宅の伝統は息づいてきたのだ。

2023年6月24日土曜日

住宅の生と死ー住宅生産の循環システム, 日本ハウスビルダー協会,19961005

 住宅の生と死ー住宅生産の循環システム, 日本ハウスビルダー協会,19961005


住宅の生と死・・・住宅生産の循環システム


布野修司


 フロー型からストック型へ、住宅生産の仕組みは変わっていかざるを得ない、と言われる。建設投資の割合が減少していくのだとすればそれは必然である。バブル崩壊以後、また地球環境問題の顕在化以後、僕らは、なんとなくフロー型からストック型への構造転換を必然的だと考え始めている。しかし、ストック型生産システムというのは果たしてどういうことか。

 確かに建設投資がGNPの二割を占めるような国は先進諸国にはない。住宅を三〇年でスクラップ・アンド・ビルドしている国はない。イギリスの人口は日本の約半分で比較しやすいのであるが、年平均の住宅供給数は、一九八五年から九〇年の五年で一九万一〇〇〇である。一九六一年から六五年の平均で二八万四一〇〇〇であった。日本は一九六〇年で新設着工戸数は約六〇万戸であったから、人口規模を比較するとほぼ同じ建設数だったとみていい。その後、イギリスの着工戸数は減少して年間二〇万戸程度になった。ということは、日本に置き換えると年間四〇万戸体制である。果たして、三〇年後、日本はイギリスの道を辿っているのであろうか。

 しかし単純に考えてみて、住宅が一〇〇年の耐用年限を持つようになると、住宅生産に関わる人員は三分の一でいい。あるいは、住宅の価格を三倍にする必要がある。そう簡単に構造が変わるのか。その全体構造の帰趨を議論しなければ、日本の住宅生産がストック型に転換しうるかどうかは不明といわねばならないのではないか。

 「中高層ハウジング研究会」でも、ストック型住宅供給システムを前提として、今後の住宅供給システムがどうなるのか、どうあるべきか、議論を続けている。共通にテーマになっているのが、スケルトンーインフィルークラディングの三系統供給システム、あるいはオープン・ハウジング・システムである。スケルトンの寿命が長くなるとすれば、維持管理に関わる産業あるいはインフィル産業へ住宅産業界がシフトしていくのは必然である。インフィル産業界が新たに育ってこなければならない。しかし、一体、スケルトンは何年持てばいいのか、インフィルは何年でリサイクルするのか。そもそも、模様替えして住み続ける住み方が日本に定着するのか。

 問題は単純に耐用年限ではないのではないか。全ての建築材料が建設廃棄物になるのだとすれば、耐用年限を長くすればするほど資源は有効利用できる。しかし、再生可能な材料であるとすれば、リサイクルに適切な年限で循環していけばいいから、耐用年限はしかるべきものでいい。住宅生産システムの評価は単純に耐用年数では決められない。LCC(ライフ・サイクル・コスト)という考えも四半世紀前に導入されたけれど、日本には必ずしも定着しない。前提にすべき条件が明らかでないからである。

 そこで考えられるのは、循環性、多様性、自律性の指標である。住宅生産システムとして、個々のニーズの多様性に対応でき、循環可能な地域内で自律するしうる住居の維持管理、更新システムが問題であって、必ずしも耐用年限ではないのである。

 住宅の生産が本来ローカルなものであるとすれば、あるいは、どんな住宅であれ更新されていくものだとすれば、地域における、あるいは、それぞれの系(企業)における、循環性こそ問題にすべきではないか。地域内で自律的なシステム、地域外へ向かう生産システム、地域と地域を結ぶ生産システムの再編成を考える中で、いかに循環型生産システムを構築するかどうかが、フローからストックへという場合の真のテーマではないのだろうか。



2023年6月23日金曜日

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論

東京論ブームの去った後で   残されたもの

鈴木博之『東京の地霊』をめぐって                                          布野修司 

 

 『乱歩と東京』の松山巌、『東京の空間人類学』の陣内秀信、『建築探偵の冒険 東京編』の藤森照信を、僕(の周辺で)は秘かに「東京論の三人」と呼んでいた。この間の東京論ブームのなかで読まれた本は多いし、論者も多い。しかし、建築の分野でいうと、東京論は三人が代表である。それに東京論ブームに火をつけたのは建築の分野ではなかったかという気もある。少し先行して川添登の『東京の原風景』があるけれど、八〇年代半ばに相次いで出され、世代も近いことから、なんとなく東京論というと三人がすぐ思い浮かぶのである。しかし、そこにもう一人、もう一冊加わった。『東京の地霊』の鈴木博之である。

 東京論ブームは既に去ったと僕は思う。僕のみるところ、東京論はおよそ三つに分類された(  )。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の三つである。路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というような視線の置き方によって分けたり、レヴェルや次元を様々に区別する必要もあろうが、およそ以上の三つで全体の傾向は把握できる。そして、実は、三つは同じ根をもち、東京改造論という大きな流れに収れんしていった。東京論ブームが去ったというのは、そうした脈絡においてである。

 レトロスペクティブな都市論においては、ひたすら、過去の東京が堀り起こされる。東京の過去とは、江戸であり、一九二〇年代である。また、微細な地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。一方、ポストモダンの都市論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界で最もエキサイティングな都市、東京というわけだ。路上観察に、タウンウオッチングに、パーフォーマンスである。

 この二つの都市論が同根であることを見るにはポストモダンの建築デザインがわかりやすい。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。安易で皮相な歴史主義のデザインだ。近代都市の単調なファサード(モダン・デザイン)を批判すると称して、すなわち、ポストモダンを標榜して、様式や装飾が実に安易に対置されるのである。レトロな東京論が回顧する過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 この二つの東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造の様々な蠢きである。都市の過去や自然、水辺の再発見は、巧妙にウオーターフロント開発や再開発へと直結される。二つの東京論は、結果として、東京改造論の露払いの役割を結果として果たすことになったのである。

 さて、そうした中で、鈴木博之の『東京の地霊』は、どのような位相を提示するのか。レトロな東京論でもなければ、ポストモダンの東京論でもない、まして、東京改造論でもない。東京論ブームが去ったのを見極めた上で書かれただけのことはある。ある意味では、東京論批判の東京論の試みと言えるかもしれない。

 「土地の「運」「不運」を支配するのは何か? 単に地勢だけでは分からない 土地の個性を左右するものーーそれが「ゲニウス・ロキ=地霊」だ。都内  カ所の個性的な土地に潜むゲニウス・ロキを考察した、興趣溢れる新しい「東京物語」」。内容は的確に「帯」にうたわれている。東京の微細な地形、微細な自然を読んでみせたのは陣内秀信なのだけれど、距離が置かれている。もう少し、方法レヴェルで、鈴木の意図を「まえがき」から抜きだせば、以下のようである。

 「どのような土地であれ、土地には固有の可能性が秘められている。その可能性の軌跡が現在の土地の姿をつくり出し、都市をつくり出してゆく。(略)都市の歴史は土地の歴史である。

 本書はその意味で東京という都市の歴史を描いたものである。ところが一般には、都市史研究といわれるものの大半が、じつは都市そのものの歴史ではなく、都市に関する制度の歴史であったり、都市計画やそのヴィジョンの歴史であったりすることに、かねがね私は飽きたらなさを感じていた。都市とは、為政者や権力者たちの構想によって作られたり、有能な専門家たちによる都市計画によって作られたりするだけではない存在なのだ。現実に都市に暮らし、都市の一部分を所有する人たちが、さまざまな可能性を求めて行動する行為の集積として、われわれの都市はつくられてゆくのである」

 要するに、ゲニウス・ロキが土地の歴史を支配している、都市の歴史は、ゲニウス・ロキを読むことによって書かれるべきだ、というのである。港区六本木一丁目の林野町宿舎跡地、千代田区紀尾井町の司法研修所跡地、護国寺、上野、御殿山、三田、新宿御苑、椿山荘、日本橋室町、目黒、東大キャンパス、世田谷区深沢、広尾、読まれているのは、以上の一三ケ所だ。

  東京の鬼門を鎮護するために上野に寛永寺が建てられたというようなよく知られた話もあるが、へぇーという因縁話が多い。東京生まれには、よく知られたエピソードかなとも思うのであるが、出雲生まれの僕には、東京の歴史について学ぶことが多い。護国寺と松平不昧公との関係など、実に興味深かった。まさに、へぇーである。なるほど、土地には土地に固有な物語があるものである。

 しかし、不満もなくはない。幸せな土地、薄幸な土地、売れる土地、売れない土地というのがある。何故だろうと思うと、その奥にひそむのが地霊なのだ、という。はぐらかされたような気がするのだ。ただ、運、不運があるというだけでは、そうか、といって終りである。一方で、地霊は意図的に作り出すこともできるというのだから、その地霊を作り出す秘密に迫ってみたくなるではないか。絶対、売れない土地、必ず不幸になる土地があるとすれば、その理由、その力とはなにかを知りたくなりはしないか。この間一貫して土地の帰趨を支配しているのは、経済原理であり、土地価格上昇のメカニズムである。地霊は消えつつあるのではないか、土地の価格の力が地霊の力を陸駕しつつあるのではないか、そんな状況のなかで、地霊はどうなるのか、いま地霊はどうつくり出されるのか、否応なく考えさせられるのである。『東京の地霊』がつきつけるのはそういうことだ、と僕は思う。

 都市は確かに様々な人々の様々な行為の集積としてつくられる。そして、人々の無限の行為は土地に刻みつけられる。そうした意味で、都市の歴史は土地の歴史である。建物の移り変わりは激しい、建物の歴史だけでは都市の歴史は書けないというフレーズが繰り返されるのであるが、そこには藤森照信の仕事への距離感が表明されているようにも思う。ただ、もうひとつだけ不満を言うとすれば、都市の歴史は必ずしも土地を所有するもののみの歴史ではないのではないか、という点だ。例えば、日本橋室町は、弾左衛門の囲い地のあったところである。その囲い地は、江戸の拡張に従って鳥越へ、そして、新町(今戸)へ移っていく。こうした、追われていくものについて、その物語を綴る視点もいるのではないか。松山巌の仕事には追われていくものへの共感があるように思う。東京大改造の狂騒の裏側で追い立てられつつある人々がある。それ故、余計そう思うのかもしれない。東京論に欠けてきたもののひとつは、東京を愛しきれずに、それでも住み続けざるを得ない人々の眼である。

 

*1 拙稿 「ポストモダン都市・東京」 『早稲田文学』 一九八九年九月号 

 






 

2023年6月22日木曜日

黒テント 1968/71 

 












ポストモダン都市・東京,早稲田文学,198907(布野修司建築論集Ⅱ収録)

ポストモダン都市・東京,早稲田文学,198907(布野修司建築論集収録)


布野修司建築論集Ⅱ  『都市と劇場』

★ポストモダン都市・東京[i]

 

 都市論の揺らぎ

 都市とは何か、異なる地域の都市の比較は可能か、時間的な広がりの中で都市比較はいかに成り立つか、「「都市性」の再構築をめざして」、といった大きなテーマを掲げた研究集会に参加する機会があった。直接的には、イスラームの都市性、イスラームの諸都市を対象とする研究会[ii]2なのであるが、取り上げられた都市は、ローマ(一~二世紀)、ダマスクス[iii]3(マムルーク朝)、イスファハーン[iv]4(一五~一六世紀)、イスタンブル[v]5(オスマン朝)、デリー[vi]6(ムガール朝)、南京[vii]7(明、清)、カルカッタ[viii]8(一九世紀)、パリ(一六世紀)、ウジュンパンダン[ix]9(現代)、メッカ[x]10(七世紀)、ニーシャープール[xi]11(一〇~一一世紀)等々、日本も含めて古今東西、時空を超えて相当の数にのぼる。また、集まった研究者たちは、歴史学、人類学、宗教学、地理学、建築学、経済学など多分野にわたる。実に興味深い研究会であった。要するに、議論百出で、まるで収捨がつかないのである。

 都市とは何か、というのがそもそもはっきりしてこない。都市化についても以外に共通の理解がない。ローマにおけるキビタス(「都市」、「国」)とは何か、ウルプス(「都会」)とは何か、ジャワにおけるコタとは何か[xii]12、各地域における都市の概念を突き合わせるのだって大変である。それに分野によって随分と言葉つきも違う。建築や都市計画の分野においては、都市のフィジカルな形態や景観のあり方から発想し、論を組み立てるのであるが、社会科学の分野においては、都市の権力構造や社会組織が問題とされる。インタージャンルな場での議論は常にそうなのであるが、まず浮かびあがるのは、ディシプリンの差異であり、パラダイムの差異である。その差異を徹底的に明らかにすることそれ自体は意味があろう。しかし、それ以前に、都市というものをとらえる大きな枠組みが見失われ、都市とは何か、といった基本的な問いが拡散しつつあることが都市論の現在なのではないか。

 確認されるのは、例えば、「都市の空気は自由にする」といった伝統的な中世都市像が修正される必要があることである。また、都市と農村という対立的な把握が必ずしも妥当しないことである。要するに、一九世紀にヨーロッパにおいて確立した都市概念や都市像の普遍妥当性についての疑問である。強調されるのは、都市の地域的他犠牲であり、多様な発展の過程である。むしろ、既成の都市概念を相対化し、柔軟化させること、都市をとらえるフレームを解体させることに大きな精力が注がれているのが都市論の現在の位相なのである。

 

 東京論の位相

 実に不満なのは、世界史的な視野をもとにした大きな仮説や理論の提示、少なくとも、その必要性についての認識が欠如していることである。しかし、いまここで、都市をめぐって一般的に以上のような問題を論ずるのはもちろん手に余る。ひとつの具体的な都市についてたどたどしく考えてみようと思う。東京についてである。一九八〇年代半ばから九〇年代にかけての東京論の隆盛はすさまじいものがあった。そこで何が語られ、何が覆い隠されてきたのかがひとつのテーマである。

 東京論[xiii]13と称されるものは、その時間的パースペクティブに関して大きく三つに分けることができる。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の三つである。路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というように視線の置き方によって分けたり、イメージとしての東京論、景観としての東京論、形態としての都市論、というように対象やレヴェル、次元によって分けたりできようが、およそ以上の三つで全体の傾向を把握できる。

 レトロスペクティブな東京論においては、ひたすら、東京の過去が掘り起こされる。東京の過去とは江戸であり、一九二〇年代の東京である。また、地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そして、そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。また、現在の東京に、失われたものや価値が対置される。一方、ポストモダンの東京論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界でも最もエキサイティングな都市「東京」というわけだ。路上観察、タウンウォッチングに、パフォーマンスである。しかし、この二種類の東京論は、実は根が同じとみていい。ポストモダンの建築デザインを考えてみればわかりやすいだろう。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。すなわち、すでに都市の表層を支配するのは、皮相な歴史主義のデザインである。近代建築に対して、それを批判すると称して(ポストモダンを標榜して)装飾や様式が実に安易に対置されたのであった。過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 そして、この二種の東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造のさまざまな蠢きである。レトロスペクティブな東京論は東京が変わっていくことへのある意味では悲鳴であった。東京の変貌、その再開発や改造の動きと過去の東京へのノスタルジーが東京論という形でブームとなったことは、言うまでもなくストレートにつながっている。過去への郷愁は、それだけでは無力かもしれない。しかし、それは、すなわち、都市の過去や自然、水辺の再発見は巧妙にウォーターフロント開発や、都市の再開発へと接続されるのである。こうして仮に三つに分けてみた東京論はひとつの方向を指し示す。東京という空間はいままさに再編成されつつある。東京のフィジカルな構造はいまドラスティックに変わりつつある。そのいくつかの位相を見てみよう。

 

 過飽和都市・・・フロンティアの消滅

 一七世紀の初頭には小さな寒村にすぎなかった江戸が一九世紀半ば過ぎに東京と名を変えて一世紀あまりになる。明治に入って、産業革命を経、後進資本主義国として発展していく日本の首都として、東京の変貌にはすさまじいものがあった。江戸の人口はその末期には一〇〇万人にものぼり、既に世界最大級の都市であったのであるが、その膨張の速度と規模は比較にならない。行政区域としての東京の人口は一,二〇〇人を越え、東京大都市圏には三,〇〇〇万を越える人々が居住する。少なくともその規模においては世界有数の大都市となった。

 東京は、その歴史的形成の過程において幾度かの転機をもつ。例えば、江戸から東京への転換における空間の再編成、関東大震災後の近代都市への編成、第二次世界大戦時における一瞬の白紙還元と戦後復興、東京オリンピックを契機とする高度成長期の大変貌などがそうである。そしていま、東京という都市はまた大きな転換期を迎えつつある。その転換期はこれまでとはいささか違うのではないか。ある究極の姿を東京は見せ始めたのである。

 それを具体的に示すのが「東京問題」と総称される諸問題なのであるが、指摘すべきは、東京は都市として明らかに過飽和状態に達しつつあるということである。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市のフロンティアが消滅しつつあるということである。

 郊外への平面的な膨張が最早限界に達しつつあることを示すのが、この間の地上げ騒動であり、地価狂乱であり、東京再開発、東京改造のさまざまな動きである。民間活力の導入、内需拡大、経済摩擦の解消、国際化に伴うオフィス需要、などとさまざまな口実が掲げられるのであるが、要するに、金があり余っており、投資の対象が求められているのだけれど、投資すべき不動産は日本に限りがある。海外の不動産をあからさまに買い占めるわけにはいかないとすれば投資効果の高い空間を創り出す必要がある。そこで大きなテーマとなるのが東京再開発であり、東京大改造なのである。

 まずターゲットとなったのは、都心にある未利用の公有地であり、下町地域の住宅地である。いずれも利便性は高く、再開発による高度利用が可能である。民活による公有地の払い下げ、地上げ屋による下町地域の買占めは、あっという間に地価を押し上げ、都心のみならず郊外へと波及していったのである。

 東京再開発、東京改造の動きにおいて、はっきりしてきたのは、丸の内から新宿副都心への都心の移動である。その象徴が新都庁舎である。東京の重心は西へ移り、新宿に超高層ビルの林立する新都心が形成されつつあるのである。それに対して、丸の内の再開発をうたうマンハッタン計画が打ち上げられたりするのであるが、要するにフロンティアとして最初に問題とされるのは空中である。マンハッタンを見よ、東京の上空には、まだ広大な未開発地があるというわけだ。

 続いて、開発のターゲットとなったのが、ウォーター・フロントである。郊外へスプロールしていくことがほぼ限界になったとすれば、平面的に延びていく可能性は海にしかない。水辺空間の再発見とか、親水空間の意義とかが強調されるのであるが、その実は、水運や造船業の衰退で陳腐化していて、それ故、地面が値上がりしなくて安かった土地に目がつけられたということである。また、埋め立てればいくらでも土地を生み出すことができるとばかりに、埋め立て地がターゲットになるのである。

 さらに地下の空間にも目がつけられる。空中を利用するのであれば、地下も利用できるというわけだ。東京湾をほとんど埋め立てるというプロジェクトも壮大であるが、地下に五〇万人の居住都市をつくろうという構想も大変なスケールである。瀬戸大橋、青函トンネルと相次いで巨大プロジェクトが完工し、土木技術の最前線が、地下へ、海へと求められているのである。

 先進諸国の大都市に比べれば、まだ東京には空間的余地があるといえるかもしれない。しかし、物理的な余地は無限にあるわけではない。過飽和状態、フロンティアの消滅という事態はいずれ訪れる。ロンドンのドッグランズ再開発やパリのさまざまな再開発を見ればわかりやすい。東京に比べれば、はるかに都市の骨格のしっかりしている、都心を歴史的建造物によって固められた西欧の大都市では、なんらかの再開発によらなければにっちもさっちもいかない。東京はすでにその兆候を見せ始めたといっていいのである。明らかに先進諸国の問題は連動し始めているのである。

 

 世界都市・・・二十四時間都市

 東京が明らかにこれまでの発展の過程とは位相を異にした展開を始めたというのは、フロンティアの消滅という決定的事実においてなのであるが、その質においてまず言えるのは国際化という新たな局面である。この国際化という局面に少なくとも二つのポイントがある。

 ひとつは、東京が国際的な金融関係の中心都市となったということである。一般的に言われるのは、この意味での国際都市・東京の新たな相貌である。もちろん、この新たな局面は、外国の金融機関が東京に事務所を開設するからオフィス需要が足りなくなるといった次元の問題ではない。東京が世界都市として国際的な金融関係に同時的に巻き込まれるようになったということである。一刻一刻、二十四時間、瞬時に莫大な取引が行われる、国際的なネットワークの真っただ中に置かれるのである。二十四時間都市というのは、そうした国際関係に支配されながら、都市生活の全体が秒単位に組織されつつある都市をいうのである。

 東京は、日本の都市であり、諸都市を結節する首都としての機能をもってきたのであるが、その次元を越え、世界都市になったといっていいのである。例えば、ロンドンのシティの歴史的建造物のいくつかは日本の証券会社や銀行によって占められている。ニューヨークの多くのビルやホテルが日本の資本によって買い占められる。東京の地上げ騒動は、国内のにならず、グローバルに波及しているのであり、国際都市といわれる諸都市は、はっきり具体的につながっているのである。

 もうひとつのポイントは、外国人労働者の流入という、極めて具体的な国際化の新たな局面である。外国人労働者の流入という経験は、決して初めてのことではない。在日韓国人の存在とその歴史が既にわれわれにとっての厳しい経験になっているはずだ。しかし、東アジアからのみならず、より広範な地域から外国人が流入し始めたということ、すなわち、より文化的に多様な地域から労働者が流入してきたということにおいて、この国際化は新たな位相となる。より本質的には、日本の経済が世界資本主義において大きなウェイトを占めるに至り、国際的な労働力移動をよりダイナミックに惹起させ始めたことにおいて、東京という都市は世界性、国際性を具体的に獲得しつつあるといっていいのである。

 発展途上国の大都市の多くは植民都市としての出自をもち、宗主国の植民地支配のメディアとして機能してきた。その結果、先進諸国にはみられない、奇形的な、過大な都市化が起こった。そうした都市はプライメイト・シティ[xiv]14(首座都市・単一支配型都市)と呼ばれる。首都圏に総人口の四分の一が集中する東京は、むしろ発展途上国のプライメイト・シティに近いというべきかもしれないのであるが、外国人労働者の流入という現象は、東京がアジアを中心とする発展途上国の大都市をサテライト都市とするメトロポリスであることを示す。

 そうしたの諸都市のネットワークの中心としての東京は、イメージとして、大東亜共栄圏の首都としての東京に重なり合うと言えるだろう。経済支配の構造がそのネットワークをしっかり支えているのである。

 

 電脳都市・・・人工都市化

 具体的に都市の内部に目を向けてみよう。何が進行しつつあるのか。いくつかの方向性がはっきり指摘できる。例えば、インテリジェント化であり、人工都市化である。もちろん、そうした方向性は以前から一貫するものといえるのであるが、インテリジェントビルや東京ドームの出現は、ある究極的な都市のイメージを実感させる。すなわち、情報機器、コンピューター機器を搭載したインテリジェントビルの林立する都市のイメージ、あるいは、都市環境全体を完全に人工的にコントロールするドームで覆われた都市のイメージである。

 建設にかかわるテクノロジーの水準によって物理的には規定されるのであるが、ありとあらゆる空間はこうして等しく利用可能なものとなる。そして、ありとあらゆる空間は、等しく投機の対象となる。空間の均質化徹底進行と言ってもいい。ただ、あらゆる場所が均質化していくイメージは、コンピュータ技術による情報メディアのネットワークの出現と人工的な環境コントロールの技術の出現によって具体的なものとなったのである。

 人工都市化によって、都市の自然や歴史は抹殺される。意味をもつのは、いつでも自由に利用可能な空間、そのボリュームである。また、人工都市に意味をもつのは、現在という時間だけである。二十四時間の一刻一秒が等価となる。

 時間や空間が均質化し、あらゆる差異が無差異化していく、そうした都市のイメージは、もう少し、具体的に、都市生活のあり方に即してみることができる。

 すなわち都市は人々が生活していく場としての意味を希薄化させつつるのである。わかりやすいのは、いわゆるインナーシティ問題、都市の空洞化である。都心は最早人々が住めるような空間ではない。少なくとも、住宅が立地する条件はほとんど失われつつある。より投資効果の高いオフィス区間へと次々に置き換えられているのである。

 住宅そのものもまた大きくそのイメージを変えつつある。電脳住宅などという、完全にコンピューターによって管理されるモデル住宅の出現もそうであるが、より大きいのは住宅に内包されていたさまざまな機能が外化し家事労働が完全にサーヴィス産業によって代替されつつあることである。ホテルをイメージすればいい。既にいくつかそうしたマンションが出現しているのであるが、そこでは住宅はインテリジェント・オフィス同様、諸装置のビルトインされた単なる容器に還元されつつあるのである。

 

 映像都市・・・仮設部都市

 完璧に人工的にコントロールされた都市のイメージに対しても、もちろん、多くの疑念が提出される。特に、都市の物質的基盤にかかわる、エコロジカルな観点からはそうである。完全に人工的にエコロジー・バランスをとった形で、東京湾をすべて埋め立てることなどが果たして可能なのか、また、同じように大規模な地下空間を開発して、地下水などのバランスを制御できるのか。テクノロジーに対する底抜けの楽天主義がなければ、人工都市化を究極的な都市のイメージとして思い描くことはできないのである。

 そこでもうひとつの都市のイメージが生み出される。人工都市を人工の映像とみる都市のイメージである。映像メディアの発達は、これまでに考えられなかった視角をわれわれに与える。人工衛星からの視角や、電子顕微鏡による視角が、視覚をはるかに拡大すると同時に、日常的な身体の視角を相対化させた。また、フィクショナルなものとリアルなものとの境界が不鮮明となり、映像そのものの世界が優位となる。

 具体的な都市の景観もひとつの映像としてとらえられるようになる。人工都市化によって、また、都市の高層化によって、思いもかけない視角がわれわれのものとなる。超高層の最上階に川が流れ、地下に野球場ができる。あらゆる場所が、どんな場所にでも人工的になりうるのであれば、その世界は限りなく映像の世界に近づく。スキー場の隣に海水浴場があっても、どんな空間が組み合わされようとおかしくはないのである。

 具体的には、博覧会の会場のような空間をイメージすればいいかもしれない。今日の博覧会において、建造物は最早クリスタルパレスやエッフェル塔の時代のような主役ではない。主役は、映像メディアである。大型立体スクリーンとかマルチスクリーンとか、アストロラマとかいったスクリーンを装備したパビリオンにおける映像体験がメインである。建造物は仮設であり、映像的な体験のみが意味をもつ。現実の都市はますます博覧会の仮設の都市に似つつあるのである。

 人工都市といっても、それが建造物によって、すなわちフィジカルな実態によって構成されるのだとすれば、あらゆる場所を均質なものとしてつくることは不可能である。また、フィジカルな実態が耐用年限といった物質的な限界をもつとすれば、時代の流れを無化することはできない。人工都市のイメージはあくまでイメージとしてのみ成立する。

 そこで、具体的な建造物として最もふさわしのは仮設建築である。仮設建築のイメージのみが永続的な空間のイメージを表現し得るし、あらゆる場所を、どんな場所にでも転換するためには、実際には、すぐに壊せる、テンポラリーな建造物が最もふさわしいからである。また、スクラップ・アンド・ビルドによって、空間を次々と更新することが資本にとっても好都合なのである。

 こうして、仮設都市の表層をポストモダンの建築デザインが覆い始めている理由を理解することができる。人工都市の究極イメージにおいて、ありとあらゆる空間は併置される。ありとあらゆる時代から、ありとあらゆる地域からさまざまなデザイン・エレメントが集められるのは、その映像による代替なのである。

 

 都市の完成・・・都市の死

 飽和の臨界に達する時点で都市は究極的に完成する。都市か一〇〇パーセント社会の実現である。そこでは地球全体が人工都市化する段階がイメージされるかもしれない。しかし、それ以前に、現実の都市は物理的に限界づけられており、東京が既にその兆候を示し始めたように、飽和状態の都市、都市の完成のイメージは極めて具体的なのである。

 完全にフロンティアが消滅するとすれば、しかし、それは都市そのものの死を意味する。そこで問題となるのはその維持システムであり、循環システムである。都市のフィジカルな形態について、そのシステムはわかりやすい。すなわち、仮設建築によるスクラップ・アンド・ビルドの更新システムこそ究極の都市のイメージにふさわしいのである。

 空間の生産・消費の循環は仮設建築・解体のシステムにおいてよりスムーズになしうる。モニュメンタルな建造物は不都合である。空間の生産・消費のシステムを支えるのがインベンストメント・テクノロジーである。空間そのものの生産のみならず、空間をみたものやサーヴィスについても同様である。その更新、循環のシステムが完成することにおいてのみ、究極の人工都市は完成し、維持されるはずである。

 だがしかし、その究極の都市を支えるシステムが確立しうるかどうかは定かではない。その完成はひとつのフィクションといえるかもしれない。しかし、そのフィクションが既に現実の都市を支配しつつあるのである。

 こうして東京に即して、究極の人工都市、都市の完成をイメージしてみるとき、都市論の役割はおのずと見えてこよう。レトロスペクティブな東京論にも、ポストモダンの都市論にも、東京改造論にも欠けているのは、都市の究極的イメージである。すなわち、都市の死を確認する視座がそれらにはない。その一歩手前で、ただ都市の現在が肯定されているのである。

 



[i]1 拙稿、『早稲田文学』、一九八九年七月。『イメージとしての帝国主義』(青弓社 一九九〇年)所収。

[ii]2 文部省科学研究費補助金重点領域研究「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」(一九八八年~一九九一年)における研究集会。

[iii]3 シリアの中心都市。キャラバン交易の中心となるオアシス都市。前一一世紀にはアラム人の首都として知られる。一一世紀末の十字軍時代以降に現在に至るイスラーム都市の基礎が築かれた。

[iv]  イラン中央部の都市。起源は古く、バビロン捕囚(前六世紀)を逃れたユダヤ人によってつくられたという説がある。七世紀にアラブ人の支配下に入り、一〇世紀には現在の市街地の原型が出来上がった。一一世紀にセルジューク朝の中心都市として繁栄し、以後諸勢力の争奪の対象となった。一六世紀にサファヴィー朝の首都となり、オスマン帝国の首都首都イスタンブルと並ぶ西アジア・イスラーム世界の中心として栄華を極めた。一七世紀後半に人口五〇万人を数えたという。一九世紀になると首都機能をテヘランに、貿易中心としての機能をタブリーズに奪われることになる。

[v]  トルコ共和国第一の都市。ボスフォラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパの境界に位置する世界有数の歴史都市。三三〇年にローマ皇帝コンスタンティヌスが首都を置く。以後一〇〇〇年にわたってローマ、ビザンチンの都として地中海世界の中心であり続ける。一四五三年、コンスタンティノープルは陥落し、以後、オスマン帝国の首都となる。ギリシャ語で「町へ」を意味するイスティンポリを語源にすると言われる。トルコ語風に解釈され、イスラムボル(イスラームで充ちたという意)の形で用いられる。

[vi]6 ムガール帝国の帝都。現在の旧城(ラール・キラー)は、五代皇帝シャージャ・ハーンによって築かれた。荒松雄『多重都市デリー』(中公新書)がその歴史を重層的に明らかにしている。

[vii]

[viii]  インド、西ベンガル州の州都。ベンガル湾河口から一〇〇キロあまり遡ったフーグリー川東岸に位置する。前三世紀、アショーカ王の時代に港があり、プトレマイオスの地図にはタマリテスと記述されている。中国僧法顕や義浄も滞在した。一五世紀にイスラーム勢力の軍営地が築かれ、一六世紀にはヨーロッパ勢力が西河畔に位置した。一六九八年、イギリス東インド会社が町を設立した。カルカッタの名称はこの時の地名に由来する。ウイリアム要塞(一七〇二)が築かれ、英国人居住区が形成されるとともに、東インドの要衝として発展。一八五八年、イギリスのインド支配の中心都市となるが、一九三一年のデリー遷都で帝都から一地方都市となった。大都市圏は一〇〇〇万人を超えるインドでも有数の都市。

[ix]9 インドネシア、スラウェシ島南部の交易都市。かってのマッカサル。一七、一八世紀に島嶼部全体の奴隷交易の中心であった。

[x]10  イスラーム教の聖地。世界の中心であり、全世界のムスリムはそこへ向かって一日五回の礼拝が義務づけられている。アラビア半島の紅海に沿って走る山脈の西斜面の谷間に発達した町。起源は定かではないが、イスラーム以前からカーバ神殿があり、巡礼の目的地であった。コーランにはメッカという地名は一度も登場しない。後藤明、『メッカーイスラーム都市社会』、中央公論社、一九九一年。

[xi]11 イラン北東部、ホラーサーン州の都市。三世紀にササン朝のシャープール一世によって、東方への防衛拠点として建設された町。九世紀のターヒル朝の首都として発展。円形の城壁と市壁をもつ典型的なイラン都市の形態をもつ。

[xii]12 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」Ⅱー① 参照

[xiii]13  松山巌『乱歩と東京』(パルコ出版)、陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房)、藤森照信の『明治の東京計画』(岩波書店)が建築、都市計画の分野からの火付け役となった。

[xiv]14  ある国、ある地域の諸都市の人口規模をみると、ひとつの大都市が突出した人口規模をもち第二位以下の都市との落差が極めて大きいケースが見られる。先進諸国の場合、都市の規模には一定の比例関係(順位規模配列 ランク・サイズ・ルール)が見られるのに対して、発展途上国にそうした都市が多い。タイのバンコク、ジャワのジャカルタ、ルソン島のマニラなどがそうである。










 

2023年6月21日水曜日

『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界、百家争鳴、室内、

 『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界、百家争鳴、室内、

『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界

布野修司

 

建築専門誌が元気がない。広告が減って薄くなった。建築も建たないから仕方がない。建築界は暗い。

そうした中で、日本建築学会の会誌『建築雑誌』の編集長を拝命してほぼ二年になる。三万六千部を誇る大雑誌であり、その編集長に指名されたのは実に身に余る光栄であった。また、たまたま、この二月号が一五〇〇号ということで記念特集「アジアのなかの日本建築」を出すことができた。

建築界は今未曾有の難局面を迎えているという実感がある。単に景気が悪いというのではなく、日本の社会の全体が構造改革を求められるなかで、建設業界が最もそのターゲットとなっているのである。昨年一月号では「建築業界に未来はあるか」という特集を組んだ。今年の一月の特集は「設計入札反対!?-公共建築の設計者選定」である。改革には痛みが伴うから、特集もわくわくいきいきというわけにはいかない。

全頁カラー化、頁数の大幅削減、大豆インクの使用、まず行ったのは紙面の構造改革である。カラー化については「よくお金がありますね」と何人かの先生に言われたが誤解である。紙質や総年間頁数などを見直す経費削減の努力の一環であった。

振り返ってみると、一〇〇〇号記念特集号が出たのは一九六八年八月であった。僕が大学一年生の時だ。東京大学は六月から全学ストライキに突入、その収拾をはかるために大河内一男総長の告示が出されたのが八月一〇日、今でも鮮明に覚えている。パリでは五月革命が起こり、世界中スチューデント・パワーが炸裂した年である。磯崎さんなどは、-『建築雑誌』の編集を通じて久し振りにお会いすることができた。多忙を極め、相変わらずエネルギッシュなのに勇気づけられた。これも役得である-、一九六八年以前と以後を未だに決定的な閾(しきい)として振り返るのであるが、確かに、近代建築批判が顕在化するのは六〇年代末以降である。

一〇〇〇号記念特集号は、「日本建築の将来」と題して、世代毎に4本の座談会が組まれている。今では大御所になった、磯崎さんも含めて当時三〇歳代の若手も参加して喧喧諤諤の?議論がなされている。

一五〇〇号もそれにならっていくつかの座談会を組んだが、三〇歳代の若手があがってこない。登場していただいた先生方の歳を平均すると五〇代半ばを越えるのではなかろうか。人選が悪いということになる。団塊の世代が出しゃばりすぎであるが、若い方に元気がないのも事実だ。二〇〇〇号記念の時にはほぼ全員亡くなっているのだからかなり問題である。建築界は暗い。

一〇〇〇号と一五〇〇号との間には、近代建築批判の以前と以後という明確な違いがあるが、もうひとつはっきとした違いはアジアとの関係である。戦後欧米一辺倒できた日本が、アジアの国々と様々な交流に眼を向けだしたのが八〇年代以降である。それで「アジアのなかの日本建築」ということになった。アジアの友人たちからのメッセージがかすかな光明である。

2023年6月20日火曜日

飛騨高山木匠塾のこと,秋田木材通信社,19930101

 飛騨高山木匠塾のこと,秋田木材通信社,19930101

                                        布野修司

 

 昨年も慌ただしく過ごしてあっという間にすぎてしまいました。秋田には一度もお邪魔することができず残念です。近くなったせいか、生まれ故郷の出雲の仕事が多くなり、色々なお手伝いを始めております。景観、景観と喧しいのですが秋田は如何でしょうか。

 ところで、飛騨高山木匠塾は2回目のサマースクールを昨年行ったのですが、延べ百人近い学生の参加があり大盛況でした。主な参加大学は、芝浦工業大学、東洋大学、千葉大学、京都大学、大阪芸術大学の五校でした。教師陣は、太田邦夫塾頭以下、秋山哲一、浦江真人、村木里絵(以上、東洋大学)、藤澤好一(芝浦工業大学)、安藤正雄、渡辺秀俊(千葉大学)、布野修司(京都大学)。それに今年は、大阪芸術大学の三澤文子、鈴木達郎の両先生が若い一年生を引き連れて参加下さいました。また、足場丸太組み実習には、講師として、わざわざ藤野功さん(日綜産業顧問)が横浜から来て下さいました。今年は、切り出し現場および「飛騨産業」の見学に加えて、製材所(安原木材)の見学を行い、オークヴィレッジと森林匠魁塾にもお世話になりました。渓流が流れ、朝夕は寒いぐらいに涼しい。森に囲まれ、飛騨高山木匠塾の環境は抜群です。野球大会や釣りなどリクレーションも存分に楽しみました。極めて充実した九日間だったように思います。今年も、第3回の「インターユニヴァーシティー・サマースクール」の開校が楽しみです。 

 百聞は一見に如かずです。飛騨の里というのは、木のことを学ぶには事欠かない、実にふさわしい場所だと思うのですが、そんなことを言えば、秋田の方がよりふさわしい筈です。昨年、この欄で、「秋田能代木匠塾の設立を」と題して、「秋田能代木匠塾と仮に呼ぶ、そんな空間はできないでしょうか。楽しみにしてます」と書いたのですが、その後、如何でしょうか。とりあえず、今年は、飛騨高山へ、学生達を教えにいらっしゃいませんか。




2023年6月15日木曜日