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2023年2月5日日曜日

新しい居住環境創造のプロパガンダ,『コミュニティー・アーキテクチャー』,週間エコノミスト,毎日新聞社,19930202

書評

コミュニティー・アーキテクチャー                                                           塩崎賢明訳

 

                布野修司

 

 英王室をめぐるスキャンダルがマスコミを騒がせている。そんな中であるいは忘れられつつあるかもしれないもうひとつのスキャンダルがある。チャールズ皇太子の「近代建築」批判以降の一連の出来事だ。つい先頃も、皇太子自らが理想的な建築家を養成する「建築学校」を開設したことが報じられたばかりである。その確固たる信念はいささかも揺らいではいないようにみえる。

 その主張をもとにしたテレビ番組(BBC制作)は日本でも放映されたし(チャールズ皇太子に対する建築家の反論を基調とするテレビ番組第二弾は、何故か日本では放映されなかった)、それを出版したものが邦訳( 『英国の未来像』 東京書籍 一九九一年)されたからそれなりに知られていよう。チャールズ皇太子は、一方でこの間、英国の、また世界の建築をめぐる大きな論戦の渦の中心にあるのである。

 ところで、チャールズ皇太子が依拠する建築観とは何か、理想とする建築家像とは何か。その主張を具体的に支える活動と背景、その理論、この間の経緯を克明にレポートするのが本書である。

 コミュニティー・アーキテクチャーとは何か。その核心原理は「そこに住み、働き、遊ぶ人々が、その創造や管理に積極的に参加することによって、環境はよりよいものになる」という主張にある。本書には、わかりやすく、「在来の建築」との違いを示す対象表も掲げられているのだが、「住民参加」、「小規模建設」、「ボトムアップ方式」、「プロセス重視」、「相互扶助」、「地域資源利用」、・・・などが基本理念である。

 コミュニティー・アーキテクチャーという言葉は、一九七六年に生まれた。英国王立建築家協会内に、以後この運動をリードし、後にその会長にもなるロッド・ハックニーが、コミュニティー・アーキテクチャー・グループを結成したのが最初なのだという。

 しかし、もちろん、それに遡る前史がある。一九六〇年代のコミュニティー運動に遡って、また、アメリカのソーシャル・アーキテクチャー運動も視野に収めてその運動を位置づけるのであるが、本書には都市計画運動史の趣もある。

 また、主として焦点が当てられているのは英国における都心の居住環境整備あるいは再開発の問題であるが、発展途上国の問題も含みその広がりは大きい。一九七六年といえば、バンクーバーで第一回の国際連合ハビタット国際会議が開かれた(本書では「静かな革命」として言及される)年であるが、その決議に示された理念がコミュニティー・アーキテクチャー運動の支えにもなっているのである。

 本書が上梓された一九八七年、議論はまさに沸騰しつつあった。本書は、その渦中に投げ入れられたものだ。コミュニティー・アーキテクチャーの発展を先導し、新しいルネッサンスを実現することを願う立場から書かれた、ある意味ではプロパガンダの書である。

 時折しもバブルの最中であった。そしていまバブルは弾けた。そうした意味では読む方に緊張感が湧いてこない。その主張はともかく、日本にもひとりのチャールズ皇太子が欲しかったとも思う。しかし、コミュニティー・アーキテクチャーのあり方をじっくり追求するそうした時代はこれからである。その理念と方法をつきつめて考える上で、翻訳はむしろタイムリーなのかもしれない。(京都大学助教授 地域生活空間計画専攻)





 

2023年1月25日水曜日

現代建築の行方-日本と朝鮮の比較をめぐって,雑木林の世界52,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199312

現代建築の行方-日本と朝鮮の比較をめぐって,雑木林の世界52,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199312


雑木林の世界52 

出雲建築フォーラム第3回シンポジウム

現代建築の行方ーー日本と朝鮮の比較をめぐって

 

                       布野修司

 

 十月の頭に、スラバヤ工科大学のJ.シラス先生が北九州市にやってきた。世界銀行と国連地域開発センターが主催する国際会議に出席するためである。今後の研究計画について打ち合わせするために会いに行った。一緒に北方の居住環境整備の様子を見せて頂いた。大変な事業である。九州女子大の岡房江先生と九州大学の菊地朋明先生にお世話になって、翌日には、ネクストⅠ、Ⅱなど博多のハウジングを見せて頂いた。J.シラス先生とは短い時間であったが、互いに毎年のように行き来出来るようになったのは実にうれしい限りである。

 ところで、神無月、十月は出雲では神有月である。年に一度全国から八百万の神様が出雲大社に集まって会議を行なうことになっている。その出雲特有な神有月に全国から建築家を招いてシンポジウムや展覧会をやろうと始めた出雲建築フォーラムの恒例の行事も早いもので今年で三回目になる。

 今年のテーマは「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」パート2ということで「現代建築の行方ーー日本と朝鮮の比較をめぐって」をサブテーマとした。パネリストは、韓国からの承孝相氏(TSC代表)、金奉烈氏(蔚山大学)の二人に、今年新たに村松伸氏(東京大学)、昨年に続いて韓三建氏(京都大学大学院)と小生である。しかし、それだけではない。フロアには、昨年のパネリスト張世洋氏(空間社代表)ら韓国から五人の建築家、日本からは鬼頭梓新日本建築家協会(JIA)会長、高松伸、渡辺豊和など壮々たるメンバーが陣取った。神々のシンポジオン(祝宴)の雰囲気である。

 今年の会場は、松江市の「くにびきメッセ」(島根県立産業交流会館)である。高松伸の最新作だ。見本市のための空間ということで大味だけれど力は入っている。JR山陰線からよく見える大橋川沿いの絶好の立地でもある。その国際会議場を借り切ったのであるが、いささか背伸びし過ぎたかもしれない。しかし、シンポジウムは例年通り力作の建築にまけない熱気に溢れたものとなった。特に、承、金両氏のスライド・プレゼンテーションは力のこもったものであった。

 金奉烈氏は以前紹介したのことがある(雑木林の世界    韓国建築研修旅行 一九九三年五月号)。一九五八年生まれで若いにもかかわらず、日本でも翻訳の出た『韓国の建築 伝統建築編』(西垣安比古訳 学芸出版社 一九九一年)の著者である。弱冠二六才でものしたこの著書は、ガイドブックといっていいのであるが、その水準を超えている。今は韓国の文化財保護委員である。また、金氏は現代建築についての批評家としても「空間」誌などでも活躍している。AAスクールに留学経験もあり、活動の広がりはインターナショナルである。

 今回のレクチャーは、「韓国建築の集合性」と題し、集合の形態という観点から韓国建築の特性を浮かび上がらせるものであった。日本のみならず、ヨーロパア諸国の事例との比較もあって学識の深さを感じさせるレクチャーであった。

  承孝相氏は、自分の作品を振り返る形のレクチャーであった。氏は一九五二年生まれだ。ソウル大卒で金奉烈氏は後輩になる。張世洋氏と同じく、空間社にあって金寿根氏に学んだ。ウイーンに二年間学んでいる。一九八九年独立。十四人の建築家からなる「4.3」グループという集団のひとりでもある。事務所TSC主催。Tとはテーマ、Sとはサイト(場所)、Cとはコンテンポラリー(時代性)を指すのだという。彼の建築観を示す三つの概念を事務所の名前にしたのである。

 彼は、如何に金寿根に学び金寿根以上に金寿根的な表現を目指してきたかを語った上で、新たに目指そうとしている建築について述べた。沈黙の建築と仮に彼はいうのであるが、伝統や地域性などの意味を殺ぎ落としたミニマルな表現を目指しているようだ。金寿根から如何に離れるか、その模索をとつとつと語る真摯な態度が好感を持てた。

 村松伸氏は、一年滞在した韓国の現代建築について語ると思い気や、台湾、中国、香港、シンガポール、インドネシアの現代建築をめぐってのスライド・レクチャーであった。アジアで建築の新しい動きが起こりつつあるその熱気を充分伝えるプレゼンテーションであった。

 小生の場合、北朝鮮のスライドを用意していたのであるが、余りに熱のこもったレクチャーが続いて全体で四時間も用意していたのに時間がなくなった。渡辺豊和さんとともに、懇親会でスライドを続けたのであった。韓三建君は、昨年に続いて、絶妙の通訳で大活躍であった。

 韓国の場合、一九五〇年代生まれの建築家がそろそろ中心になりつつある。相互の方法を真に突き合わせるそんな時代がきたというのが実感である。

 島根県の場合、慶尚北道と姉妹関係を結ぶなど韓国との交流に極めて熱心である。今回のシンポジウムも環日本海(東海・・韓国では日本海とは言わない)博覧会の一環として位置づけられたものであり、つい先頃も、環日本海の知事サミットも行っている。鳥取県、富山県、新潟県など日本の日本海沿岸の県知事とロシア沿海州、韓国、北朝鮮、中国の地方首長が一堂に会して議論するのである。こうした地域の特色を生かした国際化の動きはますます活発していくことになるであろう。

 懇親会では、来年は、韓国でフォーラムをやろうという声が出た。張世洋氏がすぐに答えた。前向きに検討しようと。ソウルの空間社ならいつでも開放しましょうと。また、今回のシンポジウムの内容を「空間」誌に載せるから投稿してくれという。来年、十月にはソウルで出雲建築フォーラムの第四回シンポジウムが開かれそうである。また、釜山に出雲建築フォーラムのような組織をつくろうという声が韓国側参加者から上がった。楽しみなことである。

 このところやけに島根づいている。川本町の「悠邑ふるさと会館」(仮称)のコンペの審査がある。これまた、公開ヒヤリング方式でやることになった。小生は関係しないのであるが、大社町の文化センターも公開ヒヤリング方式で行われる。もしかすると、島根方式になっていくかもしれない。また、美保関町の隠岐汽船のターミナル・ビルのコンペがある。しまね景観賞の審査がある。

 十月には、四回目の出雲市まちづくり景観賞の審査に行ってきた。また、大東町の景観研究会に出かけて話をする機会があった。全て、出雲建築フォーラムの動きが渦になっての展開である。忙しいけれど断れないのがいささか苦しい。しかし、もう少し軌道にのるまでという思いもある。しばらくは出雲に、島根に注目していきたいというところである。

 

2023年1月24日火曜日

第三回インタ-ユニヴァ-シティ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界51,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199311

 第三回インタ-ユニヴァ-シティ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界51,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199311

雑木林の世界51

飛騨高山木匠塾

第3回インターユニヴァーシティー:サマー・スクール

 

                       布野修司

 今年の飛騨高山木匠塾は、岐阜県と共催の研修プログラムやシンポジウムの開催、茨城ハウジングアカデミーの夏期研修など様々なプログラムが平行して行われ、実に多彩なものとなった。学生の自主的運営を段々目指そうとしているのであるが、全ての中心にいてプログラムを切り盛りしたのは、東洋大学の秋山哲一先生である。また、芝浦工業大学の藤澤好一先生である。

 僕の場合、先号で述べたように諸般の事情で二泊三日しか参加することができなかった。そこで、今回は、京大および関西組の幹事役を立派に果たした川崎昌和君(京都大学大学院)にレポートをお願いすることにした。

 

 今年の木匠塾は思いもかけぬ雨にたたられ、野外での活動を主旨とする木匠塾の参加メンバーにとっては何とも恨めしく思われた。にもかかわらず、昨年までの蓄積とメンバー達のやる気もあって、かなり充実したものになったといえよう。参加大学は七大学を数え、これに茨城ハウジングアカデミー、M  設計事務所、さらには高山からの一般参加者が加わり、一時は百人を越え、かなり賑やかな交流の場とすることができた。茨城ハウジング・アカデミーは、大工を目指す若者の学校であり、平日には実際の現場に出て作業・見習いをしながら週二日この学校で建築技術や理論を学ぶというものである。その行動力には目を見張るものがあり、彼らが今年の活力源になったといってもよいだろう。特に大学で安穏とした学生生活を送って者にはよい刺激となった。

  以下に今年の木匠塾の活動の日誌を書いてみる。

 

  八月一日  関東、関西の各地から三々五々車で木匠塾の宿舎(元は営林署の製品事業所で、かなりの年代物である)に参加者が集まってくる。一年間空き家となっていた場所であるので、総出で大掃除・布団干しをするが、今にも雨が降り出しそうな空の下なかなか布団が乾かず、その晩は幾分湿った布団で寝ることになる。

  八月二日  この日から本格的に活動が始まる。今年の実習は大きく三つに分かれた。まず、宿舎の周辺施設計画で、高低差のある二つの宿舎をつなぐルート、周辺の散策路、野外ステージ、果ては展望台までつくってしまおうとするものである。次は岩風呂計画。二つの宿舎の間にある朽ちかけた倉庫を利用し、かねてから望まれていた風呂をつくろうとするものである。そしてもう一つは飛騨高根村のかがり火祭りに出店する際の屋台をつくり、祭りの日にはお助け飯、野麦汁、焼き鳥、日本酒を売ってしまおうというものだ。それぞれのグループに分かれて案を詰める。この日の夜はオープニング・パーティーということで、高根村の村長さんがわざわざお見えになり、挨拶をしてくださった。高根村の方々にはいろいろと便宜を働いてもらっており、全く頭の下がる思いである。

  八月三日 雨が降ったり止んだりするなか、それぞれ作業を進める。散策路のグループは、薮の中を悪戦苦闘しつつ道を切り開き、切り出し材の皮を剥いだりする作業。岩風呂のグループは、この日から参加の三澤文子率いるM  設計の面々を中心に、一日で設計図からパース、木拾い表まで作り上げてしまった。プロは強い、と学生の面々。木匠塾の精神として、スクラップ・アンド・ビルドはやめようと現存の建物を生かす方向に決定。他のグループの精力的な活動に負けじと、屋台グループも本格的に制作を開始、ハウジング・アカデミーの人たちを中心に、装飾の格子、蔀戸などに慣れない手つきで挑戦する。

  八月四日  この日は林業経営についての実習と見学。アカマツの国有林に入り、間伐作業を体験。実際にはあまり高く売れないアカマツを植えざるを得なかった森林行政の悲しさを垣間みる。その後森林組合の製材所に行き、木材の加工現場を見学。夜は遅れ気味の屋台の制作が続く。

  八月五日  日綜産業の藤野さんによる足場組立実習および安全に関する講義。建設現場での事故をなくそうと尽力する藤野さんの熱意を無駄にしたくないものだ。丸太を使ったステージや展望台も大方できあがり、ちょっとしたフィールド・アスレチック上のような感じになってきた。岩風呂グループは来年度の作業の下準備ということで基礎部分の補強作業をする。晩には東洋大学の太田先生によるスライドを交えたレクチャー「世界の木造住宅」が行われた。例年であれば野外でのレクチャーとなるが、雨のおかげで百人近い人数が宿舎の食堂に所狭しと集まって聞くこととなる。

  八月六日  高山市内見物。ただし木匠塾が今年で三回目という者もおり、一部は残って作業を続ける。特に屋台グループは明日が本番とあって最後の追い込みとなり、晩になってようやく仮組立をすることができた。この日の宿泊者は百名を越え、寝場所がないといった具合になってしまう。

  八月七日  「日本一かがり火祭り」当日。女性陣を中心としたメンバーは売り物の調理を村民センターで行い、他のメンバーで会場で屋台の組立。十二時頃から販売開始、十万ほどの利益を挙げ何とか完売にこぎつけることができた。最もその利益も一日でビールの泡として消えていってしまうのだが・・・。

  八月八日  この日は二人の講師陣を迎えての特別講義。民家の再生の専門家の降幡氏と、建築、家具製作からパッシヴ・ソーラー・システムまで幅広く活躍されている奥村氏が熱弁を振るってくださった。

  八月九日  学生達が待ちに待った野球大会。昨日、今日とうまい具合に雨が降らず、少し救われた感がある。最後の夜とあって、フェアウェル・パーティーが行われ、長いようであっという間に過ぎていった今年の木匠塾を振り返った。来た当初には「こんな山奥から早く帰りたい」と言っていたハウジング・アカデミーの面々が「来年も後輩を連れてきます」といってくれたのは非常にうれしかった。

  八月十日  片付け・清掃をした後、各自帰路につく。

  ともかく今年も大きな事故もなく無事終了することができた。早くから準備に走り回っていただいた芝浦工大の藤澤先生、東洋大の秋山先生、また高根村の方々、講義をしてくださった先生方にこの場を借りてお礼を述べたい。

  今年の木匠塾では様々な企画が盛り込まれ、それぞれが作業にいそしむことができた反面、学生の間でのゼミをあまり行えなかった。真剣に自分の研究・他の者の研究について討論するというのは大切であり、ある意味でシビアな場を設けたかった。また高山からの一般参加の人たちは三日間の参加ということもあって、少しとけこみにくかったようで、この辺を是非来年に向けての課題としたいところだ。

 


2023年1月22日日曜日

空間ア-トアカデミ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界50,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199310

 空間ア-トアカデミ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界50,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199310

雑木林の世界50

空間アートアカデミー:サマー・スクール

 

                       布野修司

 

 1993年の夏は異常な夏であった。梅雨が明けたのかどうか定かではない冷夏、長雨にはうんざりした。地震や台風の被害には、あらためて自然の脅威を感じさせられてしまう。それはそれとして、この夏はいささか忙しかった。七月の末から、新潟→ソウル→高山と連続して旅するスケジュールになったのである。夏休みをとった気分がしない。天候と同じである。

 しかし、刺激的な夏であったことは間違いない。もちろん、ハイライトは飛騨高山木匠塾である。雨に祟られたのであるが、第三回のインターユニヴァーシティ・サマースクールは八月一日から一〇日まで予定通り開かれた。大盛況、大成功であった。今年は、個人的なハプニングもあって、二泊三日しか参加できなかったのであるが、参加者の声も集めて、次回に報告しよう。八月七日の高根村「日本一かがり火まつり」への屋台参加は、用意したものは完売ということで、高根村のお役にも立てたようである。

 高山へ駆けつける前は、まず、新潟であった。「にいがた建築まちなみ100選」プレシンポジウムということで、「まちなみ形成と建築家」というシンポジウムのコーディネーターを務めた。芦原太郎、小嶋一浩、エドワード鈴木、隈研吾、高橋晶子、團紀彦、原尚、平倉直子、元倉真琴といったそうそうたる建築家が参加するシンポジウムであった。小川富由、青木仁、合田純一といった優秀な建設省の若手官僚も大勢加わった、かなりというか大変な人数のシンポジウムである。もちろん、初めての経験であった。実は、本欄でも触れた(雑木林の世界   「望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会」 一九九二年七月)研究会の延長のプログラムである。景観問題・建築文化研究会として活動を続けているのであるが、具体的実践の段階が来たといえるかもしれない。これもまたの機会に報告しよう。

 

 ソウルへは新潟から直接飛んだ。新潟からはウラジオストックやハバロフスク、イルクーツクへも飛んでいる。環日本海(東海)時代には裏日本側が中心となる。新潟を中心に既にネットワーク化が進んでいるという印象である。

 「空間」社のアート・アカデミーの講師として招かれたのであるが何をすればいいのか若干不安であった。五月に来日した張世洋氏(空間社代表)に招待状を手渡され、飛騨高山木匠塾と日程が重なると固辞したのであるが、どうしても来てくれということで、内容もよく知らずに三本ほどのレクチャーを用意して韓国へと向かったのである。今年は本当に韓国づいている。

 張さんとは、出雲建築フォーラム以来のつき合いである(雑木林の世界   「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」 一九九二年一二月)。張さんは、ソウルのオリンピック・スタジアムを設計した金寿恨(故人)の一番弟子で、その空間社を引き継いでいる。韓国建築界の若きリーダーである。今年、三月、ソウルで再会し、五月、京都工業繊維大学での講演のために京都を訪れた氏にもう一度あった。二才違いであるが、やけに馬が合う。

 着いた日、早速、パーティーを開いて頂いた。メンバーがすごい。アート・アカデミーの他の講師(金億中、金鐘圭、襄乗吉、鄭奇溶)がまずすごい。スイス、イギリス(AAスクール)、アメリカ(UCLA)、パリとみな外国帰りの気鋭の建築家である。何で、僕なんか招待したのわからない、そんな気分にさせられてしまう。また、母校ソウル大学への復帰が決まった金光呟氏や承孝相氏など「4.3グループ」(一四人で設立)の若手建築家が沢山パーティーに参加してくれた。何か場違いな感じもしないではなかった。

 翌日からの四日は楽しい地獄であった。サマースクールのプログラムいうのが、実はある種の設計競技だったのである。一人のチューターに三人の学生がつく。具体的な敷地が与えられ、その敷地へ建築的回答を与えるよう求められるのである。短期集中グループ設計である。

 僕のチームについたのは、成均館大の禹君と安君、そして釜山大の安君であった。全部で一五人。ソウル大、蔚山大、仁荷大、忠北大、ハーバード大、延世大、東義大、弘益大、忠北大、韓国中から精鋭が集まっている。ポトフォリオを予め提出し、選抜されるのだという。

 実をいうとサマースクールは既に毎週土曜日、七月一〇日、一七日、二四日と三回開校されていた。講演会があってスタディーをするのである。僕の場合、毎週来る訳にはいかないのでその間のわがチームは張さんの指導である。いささかハンディが大きかったかもしれない。ソウルについて、ことの次第を知ったのであるが、あせったのはいうまでもない。

 敷地は、空間社のすぐ裏手にあった。長細い三角形をしているのが特徴的である。すぐ眼の前に秘園のある昌徳宮の塀がある。景福宮と昌徳宮を結ぶ道の始点・終点である。まずは敷地分析の結果を聞くところから始めた。通訳には韓三建君がついてくれた。韓君は抜群のデザインセンスを持っているから百人力であった。

 三週間の敷地分析を聞いて、基本テーマ、基本コンセプトを決めなければならない。何せ時間がないのである。一瞬の閃きで、「時の門              ーメディエイティング・トライアングル」というタイトルを決定。作業開始である。

 学生達は大変である。三泊四日の間に作品を仕上げねばならない。その間にレクチャーがあり、講評があり、フリーディスカッションがある。僕だって大変だった。四日の間に、二回スライド・レクチャーを行い、講評、ディスカッションの全てに参加しなければならない。各チームは競争で、先生同士も競争である。実に苦しい、楽しい四日間であった。

 最初の日、タイトルといくつかのねらいだけ決めた。午前中に都さんの「パラダイム・シフト」をめぐる哲学的講義があり、午後、僕がハウジングにおけるパラダイムシフトについて講義した後である。サマースクールは飛騨高山木匠塾と同じく今年で三回目で「思考の転換」をテーマとしたのである。

 さあやろう、といって、次の打ち合わせを夜中にしたいというので行ってみると、何も出来ていない。かなりあせる。チーム内でかなりの意見の相違が出て対立してしまった。これだからグループ設計は面白い。困った、明日の中間発表は基本コンセプトのプレゼンテーションで何とかしのごう、ということになった。

 翌朝行ってもさしたる進展がない。午後からの中間発表を聞いていささか安心する。議論ばかりでちっとも進んでないように見えるチームもあったのである。というように悪戦苦闘しながら、最終日を迎えて驚いた。ものすごい馬力である。方針を最終決定するやすさまじい勢いで作業が進んだのである。模型もあっという間に出来た。さすがにえり選った精鋭である。我がチームも格好がついた。いい線いったように思う。残念ながら最終展示は見届けられなかったのであるが、すぐさま展覧会が開かれた(八月四日~一六日)。結果はまた『空間』誌に掲載される。楽しみである。

 


2023年1月21日土曜日

東南アジアの樹木,雑木林の世界49,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199309

 東南アジアの樹木,雑木林の世界49,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199309

雑木林の世界49 

東南アジアの樹木

 

                       布野修司

 

 東南アジアを歩き出して既に久しいのだが、まだまだ学ぶべきことが多い。というか、知らないことが多すぎる。とくに専門外のことになるとからきし駄目である。否、専門として知ってないといけないことでも駄目なことが多すぎる。そのひとつが樹木である。

 人によって異なるのは当然であるが、建築に携わる人でも木を見分けられる人はそう多くない。松と杉、あるいは桧の違いはともかく、桧とひば(あすなろ)、さわらなどを臭いと肌理で判断できるとすれば、僕らの世代ではプロであろう。飛騨高山木匠塾では、木の種類を学ぶのが第一歩である。葉を見て、ひのきとひばを区別できるのであるが、ご存知であろうか。本誌の読者であれば当然の知識かも知れないのであるが、恥ずかしながら、飛騨高山木匠塾で初めて知った次第である。

 昔から、草花や樹木の名を覚えるのは不得意である。関心が無ければ覚えられないのは当然である。それなりに自然に囲まれて育った僕らの世代は、まだましかもしれない。最近の子供たちにとって自然に触れる機会がないのだからもっと事情は深刻である。山や海に出かけて自然に触れない限り、子供達に取って樹木や草花は図鑑の中の存在でしかない。

 東南アジアを歩き始めた当初から眼に触れる自然は新鮮であった。見慣れない樹木を沢山眼にするからである。まずは果物の木が珍しい。バナナの樹や椰子の樹、パイナップルの樹ぐらいは知っていても、他の果物になると果物自体が珍しい。ドリアンやマンゴスチンなど果物の王とか女王とか言われるものを食べて、その樹がそこら中に生えているのを見ると自然と覚える。ジャックフルーツ、パパイア、ランブータン、マンゴー、ロンガン(リューガン)、グアバ、・・・東南アジアを旅したことがある人はご存知であろう。

 他に、コーヒーの樹などは東南アジアで初めて見た。クロフの樹、煙草に入れる香料なのですぐ覚えた。建築材料としてはジャティ(チーク)、ナンカがよく使われる。屋根材としては砂糖椰子の繊維であるイジュク、あるいはアランアラン(茅)が使われる。

 まあ覚えたといっても以上のようだから全くもってたいしたことはない。不勉強の限りである。それではいけないと東南アジアの木造住宅の材料について少しづつ調べ始めたのであるが実に面白い。以下にいくつか記してみよう。今回のネタ本は、渡辺弘之先生の『東南アジア林産物20の謎』(築地書簡)である。

 東南アジアにも松がある。スマトラの高地、あるいはバリやジャワの高地で実際多く見かける。熱帯地方とはいえ、高度が上がれば針葉樹が生育してもおかしくない。わが国には、アカマツ、クロマツ、リュウキュウマツ、チョウセンゴヨウ、ハイマツ、など七種あるのであるが、東南アジアの場合、三針葉のケシアマツと二針葉のメルクシマツの二種類があるという。そして、ケシアマツはマレー半島以南には存在せず、赤道を超えて分布するのがメルクシマツだという。インドネシアでみられるのは従ってメルクシマツである。ボルネオには何故か自生していないという。

 南洋材というと、チークであり、マホガニーである。あるいはラワンである。いずれも我々には親しい。チークは確かに東南アジアの原産である。それもミャンマー、タイ、ラオスなど大陸部の明瞭に乾期をもつ地域が源郷であるという説が有力である。ジャワやスンバワにみられるチークがどのように大陸からもたらされたのかは各地の建築物を考える上で興味深いことである。チークは造船材として使われ、今高級家具材として専ら使われる。もちろん、建築用材としても高級材である。初めて知ったのであるが、宇治にある黄檗山万福寺の主要な柱がチーク材だと言う。

 一方、マホガニーは実は中南米が原産地だという。一六世紀後半、マホガニーは西欧列強によって家具材として、棺桶材としてヨーロッパに大量に輸出された。ところが、中南米ではしかるべき植林がなされなかったため、需要に答えられなくなった。そこで、気候の似た東南アジアで植林がなされるようになったというのが経緯らしい。マホガニーがセイロンに移植されたのが一八四〇年頃、マレーに来たのが一九七六年である。特に、オランダはインドネシアで積極的にマホガニーを造林したのだと言う。その結果であろう。東南アジアでマホガニーが多いのは、ジャワ、特に西ジャワである。マホガニーの並木道を車で走るのは極めて気持ちがいい。

 ラワンというのは、フィリピンでの呼び名だという。軽く柔らかい合板に適した樹種がフィリピンでラワンと呼ばれており、戦後、日本はまず主としてフィリピンからベニア(単板)を輸入したことからラワンの名が定着することになったのである。学術名はフタバガキである。あるいは、フタバガキ科の樹木の総称がラワンである。このフタバガキ科の起源はアフリカなのだというが、専ら繁殖したのが東南アジアで、五七〇種のうち、アフリカの約四〇種と南米アマゾンの一種を除いて他の種は全て東南アジアのものだという。

 フィリピンのフタバガキ林はベニア・合板のためにやがて伐り尽くされた。次の供給地がボルネオのサラワク、サバ、そしてカリマンタンに移っていく。この伐採が熱帯林破壊の大きな問題になっていることは衆知のことである。伐採しても植林すればいい、植林によって森林再生が可能であればいい。しかし、フタバガキ科樹木の再生は極めて難しいのである。

 まず第一に結実が不定期なのだと言う。第二に、種子の寿命が短く、すぐ発芽能力を失ってしまうのだと言う。第三に、仮に苗木の生産が可能になっても、熱帯林の中に生育の条件を作りだし、維持するのが極めて困難だという。他にも様々な問題があるらしいのであるが、かなり深刻な課題である。

 東南アジアの樹木と言うと仏壇、位牌に使われるコクタンなどがある。日本に輸入されているコクタンのほとんどはスラウェシ産だという。もう少し、一般的な建築用材、家具用材というと、やはり竹であり、あるいはラタンである。竹は建築に限らず、紙屋家具や食器や、ありとあらゆるものに使われる。東南アジア地域は竹の文化圏である。

  建築用材では無いけれど、強烈な印象を受けるのが、バンヤンの木である。インドネシアではブリンギンという。沖縄のガジュマルである。ロープをよるように大木になり、根が雨のように垂れ下がる。妖怪の住処のようだとよくいうが、バリなどでは神聖な樹木としてあがめられる。集落の核には必ずブリンギンが立っているのである。また、バリのサンガ(屋敷神の祠が置かれる領域)にはプルメリア(夾竹桃)が植えられる。プルメリアといえば、インドネシアでは墓地の樹木である。樹木のシンボリズムについても東南アジアは豊富な事例を与えてくれそうである。

 


2023年1月18日水曜日

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡,雑木林の世界48,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199308

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡,雑木林の世界48,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199308

雑木林の世界 

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡

 

                       布野修司

 

 一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の第一回パイロットスクールが新潟県の佐渡の真野町(佐渡スポーツハウス)で開催された。職人大学へ向けての第一歩である。まだまだ先は長いのであるが、ようやく、ここまできたと感慨深い。

 僕自身は残念なことにわずかに一泊二日だけしか参加できなかった。しかし、その熱気は肌で感じることができた。以下にその一端を報告しよう。プログラムは次のようであった。

 

 五月三〇日 受付/オリエンテーション/開校式/懇親会

 5月三一日 建設産業とサイトスペシャリスト(安藤正雄 青木利光)/地域ツアー/職人大学設立に向けて

 六月 一日 建設物の構造と仕様(藤澤好一 安藤正雄)/計画作成参画者資格 労働大臣の定める研修(1)(池田一雄仮設工業会専務理事)/体験報告会(1)(安藤正雄)

 六月 二日 計画作成参画者資格 労働大臣の定める研修(2)(森宣制仮設工業会会長)/体験報告会(2)(布野修司)/新技術・新工法(藤野功)/討論 職人大学構想(三浦裕二)

 六月 三日 施工管理 現場学・リーダー学(田中文男 斉藤充)/スポーツ/モニュメントを考える(三浦裕二)

 六月 四日 土木学と技(三浦裕二)/総括シンポジウム(参加者全員)/懇親会

 六月 五日 総括および修了式(内田祥哉SSF理事長)

 

 参加人員三〇名。全国各地から受講者が集まった。その顔ぶれがすごい。ほとんどがヴェテランの職長さんたちである。年齢は一八才から五〇才まで、多士才々である。

 まず感動したことがある。朝八時~夜の一〇時まで、ぎっしり詰まったプログラムは予定通りに実施されたのである。まずそれ自体驚くべきことだ。居眠りする人が全くいない。授業の一〇分前には皆着席して講師を待つ。大学では考えられないことだ。いまさらのように、大学の駄目さを痛感させられたのであった。

 体験報告会のコーディネート役を務めたのであるが、体験を語り合うだけで、大変な勉強である。現場を知らない僕などは当然であるが、お互いの情報交換がとても役に立ったようだ。例えば、こうだ。

 若い職長さんから、若者教育の悩みの話が出された。新しく入った若者がすぐやめてしまうというのは共通の問題である。仕事をさせずに、重いものを運ばせたり、後片づけばかりやらしてるからじゃないか、という意見がすぐさま出た。大半の職長さんは心当たりがありそうな反応だった。しかし、そう簡単ではない。

 新しく入ったある若者を職業訓練学校に通わせた。もちろん、給料を払いながらである。一年して実際に仕事を始めると先輩とうまくいかない。先輩が仕事を教えないのだという。それに対しては、仕事は教えるものではない、盗むものである、という反論がすぐ出た。教えていたら仕事がはかどらないというのである。また、そういうときは、ひとつ上のランクのヴェテランにつければいい、というアドヴァイスもあった。若者が建設産業に定着しない大きな原因に初期教育の問題があるのである。

 ある鳶さんの話が面白かった。原子力発電所の建屋専門の鳶さんである。何故、鳶になったか、という話である。高い足場に登って見ろ、と言われて、ついやってやる、と言ったんだそうである。意外にすいすい登れたんだけど、降りるときは怖くて怖くて足が震えたのだという。しかし、その経験が結局は鳶になるきっかけになったのである。今日本の社会において、そんな機会はほとんどなくなりつつあるかもしれない。職人が仕事をしている様子はなかなか伺えないのである。

 この四月に入ったばかりの若者の話も面白かった。失敗談である。トイレが詰まって、掃除を命じられたけど、水の代わりに灯油を流してしまった。以後、ことある毎にからかわれているのだという。明るい職場のようであった。

 技術についての交流も当然あった。斜張橋の現場をひとりで取り仕切った話には次々に質問もでた。収入の話も出た。最初は、躊躇いがあったけれど、全てオープンにということで、みんなが年収を言い合った。情報公開である。かなりのばらつきがある。能力さえあれば、若くても年収一千万円をとっても少しもおかしくない感じであった。

  講義として迫力があるのは超ベテランの講師陣の話である。現場学、リーダー学は経験の厚さが滲み出る。また、体験に裏つ けられた安全学はなんといっても説得力がある。ロープの結び方やワイヤロープの架け方など、次々と実践的知識を畳み掛けるように話した藤野功氏の講義など実にすばらしかった。

 総括の様子を後で聞くと、受講生全員にとって、とても有意義であったようである。最後の夜、真渡の会という一期生の同窓会が結成されたのだという。これからも交流を続けようというのである。実にすばらしい。こうしたスクーリングを続けていけば、SSFも確実に成長していく筈だ。職人大学の教授陣は、同窓会の中から出ることになろう。

 ところで、職人大学の構想はどうか。是非成功させて欲しい、成功させようと言うのが第一期生の声である。九月末には、職人大学設立発起人会が行われる。具体的に基金集めに向かおうという段階である。果たして、どれだけの賛同者が得られるか。どれだけの基金が得られるか。それが将来の鍵になる。

 まず、第一段階として、現場校を考える。全国の建設現場の中から、認定指導者が配置されている、しかるべき条件を備えた現場を認定し、現場での実習を中心に養成訓練を行なう。

 第二の段階として、地域校を考える。現場校において資格を得た職人を県または地域ブロックレヴェルに開設する地域校で、専門職人たちのチームを指導コントロールできる技術的知識や処理能力を身につけた職長(リーダー)を養成する。

 第三の段階として、本部校を考える。地域校で資格を得た職長が指導者としての教育を受ける最高学府で、全国に一ケ所設立する。建設業を文化的、技術的、あるいは経営的に幅広くとらえる教養やマネージメントの力を身につけた指導者を養成する。

 以上の全てが「職人大学」である。およそのイメージができるであろうか。大変な構想であるが、本部校一校だけつくればいいというのではないのである。

 まずは、職人大学教育振興財団といった財団法人を設立するのが先決である。九月の発起人会はそのための第一歩である。皆様のご支援をお願いしたい(連絡先 SSF事務局)。

 

 


2023年1月17日火曜日

北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

 北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

雑木林の世界 

北朝鮮都市建築紀行

                       布野修司

 

 一九九三年四月二九日から五月四日まで、日本建築学会の朝鮮都市建築視察団の一員として、北朝鮮を訪問してきた。朝鮮建築家同盟との学術交流が主目的であったが、平壤、開城、板門店、妙香山などを訪れる機会があった。限られた見聞にすぎなかったのであるが、その印象を素朴に記してみたい。北朝鮮の都市、建築については極めて情報が限られている。誤解も多いかもしれないけれど、南北建築界の理解の一助になればと思う。

 一時間遅れで名古屋空港を発った高麗航空のチャーター便は、日本列島を北上、新潟上空を通過してウラジオストックへ、一旦ロシア領へ入って平壤へというコースをとった。直線的に飛べば二時間足らずであろうが、三時間半かかる。まさに近くて遠い国である。

 降り立った飛行場が閑散としてやけに寂しい。実は、着いたのは平壤の南、黄州の軍用飛行場であった。核査察の問題、チームスピリット(日韓合同軍事演習)の問題で、平壤空港が閉鎖されていたのである。帰国時には、平壤空港から飛べたのであるが、国際関係の緊張を否応なしに感じさせられる旅の始まりであった。

 黄州から平壤へ向かうバスの車窓からうかがう農村の風景が珍しい。一ケ月前に見てきたばかりの韓国の農村風景と比べるとやけにすっきりしている。あたり一面赤い土の田圃が広がり、小高い丘の上に集落がつくられている。集落はいくつかのスタイルの住宅からなる。目につくのは、三層から五層の集合住宅である。もちろん、伝統的なスタイルと思われる平屋の農家もあるけれど、時代によってモデルを変えながら供給されてきたようだ。所々に小さな水力発電所がある。地域毎に電力をまかなっているという。

 夜の平壤は暗かった。街灯が少なく、ネオンもほとんどない。雨のせいか人通りも少なかったのである。翌朝、早速、ホテルの回りを歩く。ホテルは、高麗ホテルという平壤でも最高級のホテルで、ツインのタワーが何となく東京新都庁舎を思わせる。未完成の柳京ホテルとともにまちのここそこから望める。平壤の新しいシンボルである。近くに、平壤駅があって、通勤、通学の人々でごったがえしていた。通勤の足は、バス、トロリーバス、地下鉄である。大人の間に子供の姿が多い。都心に職住近接で居住するからであろう。子供の手を引いた女性の姿も目立つ。何よりも気づくのはゴミが落ちていないことである。早朝に一勢に掃除をする人々を毎朝見かけたのであるが、通りは実にきれいである。

 ゴミのないことが象徴するように平壤の街は実にきれいな街であった。市の中心にある主体(チュチェ)塔の上から俯瞰すると柳の緑が美しい。朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた後、見事に復興したのである。電線の地中化が徹底して行われているのが都市の景観として大きい。日本の都市の猥雑さに見慣れていると随分すっきりした印象を受ける。看板や広告塔がほとんどないこともそうである。

 ただ、洗濯物が全く見られないのはいささかとまどう。洗濯物はバルコニーや室内に干すことが決められているのであるが、それはそれとして、あまりにも生活の臭いが感じられないのである。たまたま、五月一日のメーデーの様子を見ることができた。特に行事があるわけでなく、休日なのである。遊園地でくつろぐ人々、輪になって歌い踊る女性達、泥酔する何人もの男性、いずこも変わらない風景であった。

 今回のツアーの一つのハイライトは、開城(ケソン)であった。開城は、平壌の南西六〇キロに位置し、板門店へは一〇キロ弱のところにある。高麗(九一八年から一三九二年)の都が置かれた歴史都市である。実に驚いたことは、子男山の麓に歴史的な街区が相当分厚く残っていたことである。子男山から見おろすと、黒い瓦屋根の家並が一杯に広がる。韓国のソウルや慶州でもこんな街区は残されていない。歴史的な痕跡を一切破壊された高句麗の首都、平壌の様子からは想像できないことであった。

 開城は実は三八度線の南にある。戦災を免れたのはあるいはそのことが関係するのであろうか。停戦協定の締結時点の戦力の配置によって国境が決定され、その結果、ある意味では偶然、開城は北朝鮮の領域に組み入れられたのである。開城は、最も離散家族の比率が高いという。南北分断を象徴する都市である。

 開城の歴史的佇まいが残されていることはなんとも言えない感慨を呼び起こす。韓国の人々は、開城のこんな様子を知っているのであろうか。韓国の友人達にすぐさま知らせたい、とまず思った。これは世界歴史遺産とすべき都市ではないか、というのが続いての思いである。

 『朝鮮と建築』(一九二一年創刊)に、野村孝文先生の「開城雑記」(一)~(五)(一九三二年~三三年)という連載記事がある。開城雑記といっても、後に『朝鮮の民家』(一九八一年)にまとめられることになる朝鮮全体についての記述を含んでいるのであるが、開城については、池町、北本町、東本町の八つの住宅を紹介した上で、「開城が朝鮮に於ける住宅建築に於いて、可成りの発達をなして居た事を知る事が出来る」と結んでいる。写真やスケッチからは、六〇年前の開城の様子を伺うことができる。今もその面影が残っているのである。

 板門店からはソウルの北にある、風水説で言う祖山に当たる北漢山が見える。この近さはやはり不思議である。ベルリンの壁なき後、板門店は唯一特異な空間として存在し続けていくのであろうかと、ひとつの線を南北に跨ぎながら考えた。

 妙高山へは観光客用の専用列車であった。国際親善展覧館で、各国の元首などから贈られた贈り物を厭というほど見せられたのはうんざりであったが、普堅寺は面白かった。スパン割の不均一な観音殿があって随分首をひねったものである。

 白頭山建築研究所での朝鮮建築家同盟での交流会は短い時間ではあったが、北朝鮮の建築界を垣間見る貴重な機会であった。中心は、建築家の養成、教育であったのであるが、まず、さもありなんと思ったのが、設計教育の七割が実践教育だという点である。設計製図の優秀作品はそそまま建設される、なかなかいいシステムである。もちろん、実践家の教授、助手が指導にあたり、外部事務所がついてのことである。人民大学習堂もそうして建設されたという。

 大学を出ると設計員の資格を受験する。六級から一級まであって、一級上がるのに三年の経験がいるという。かなり厳しい。二級以上になると、功勲設計家、さらには人民設計家となる資格ができるという。人民設計家というのが最高位である。

 全体は限られた見聞でしかない。集合住宅の内部や農村住宅が見たいというわれわれのいくつかの希望も叶えられなかった。全体として、見せられているという感じは拭えない。しかし、それにしても貴重な経験をしたと思う。実に多くのことを考えさせられた。


2023年1月14日土曜日

飛騨高山木匠塾93年度プログラム,雑木林の世界46,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199306

 飛騨高山木匠塾93年度プログラム,雑木林の世界46,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199306


雑木林の世界 

飛騨高山木匠塾93年度プログラム

                        布野修司

 飛騨高山木匠塾の93年度プログラムが煮詰まってきた。

 岐阜県の住宅課長に赴任した井上勝徳氏の強力なサポートもあって大きく飛躍しそうである。井上勝徳氏と言えば、知る人ぞ知る、建設省でも指折りの木造大好き人間である。また、木造に関することは井上に聞けと言われる専門家である。四月七日には、芝浦工業大学の藤澤先生、東洋大学の秋山先生と一緒に岐阜県庁へお邪魔して打ち合せを行ってきた。

 今年は、過去二年のインター・ユニヴァーシティー・サマースクールを主体とするプログラムに、今年二年目を迎えた茨城ハウジングアカデミーのサマー研修と岐阜県の「木の匠」シンポジューム、高山一般セミナーおよび地元高山の工業高校生へのセミナー・プログラムが加わる。相当に賑やかになりそうである。

 カリキュラムを組むのが難しいほどで、秋山哲一先生を中心にプログラムを練った。以下、細部は変更されるかもしれないのであるけれど、木匠塾本体のスケジュールを中心に紹介しよう。奮って参加されたい。とはいえ、宿舎の設備に今のところ限界がある。八〇人を超えると苦しい。早めに連絡頂ければと思う。

 宿舎といえば、塾の拠点となる旧野麦峠製品事業所を払い下げて頂く問題が急速に進行中である。そもそも木匠塾の構想は、使われなくなった野麦峠製品事業所を何か有効に使えないかということから生まれたのであるが、維持管理の問題があり、所有者、管理主体を明確にする必要があった。特に、飛騨高山木匠塾の恒常化、長期的プログラムのためには、拠点となる場所をしっかり保持する体制が不可欠である。冬季の雪下ろしの問題もあるし、アプローチ道路の管理の問題もある。

 そこでどうするか。日本住宅木材技術センターに間に入って頂き、地元の高根村に営林署から払い下げて頂く。その基金は飛騨高山木匠塾が主体となって集め、高根村に寄付する。そのかわり、施設を使わせて頂く。夏期以外の使用については、高根村でも考えて頂く。細かい打ち合わせはこれからであるが、うまく行けば、来年以降、さらに様々なプログラムが展開されることになろう。春期や秋期、冬季の利用も具体化するかもしれない。

 高根村といえば、「日本一かがり火祭り」である。今年は、

 八月七日(土曜日)

である。当然、塾のプログラムもこの日を中心に組まれている。昨年約束した「かがりび祭り」への参加も決まった。軽音演奏の前座出演もあるが、前日までに模擬店用の屋台を製作し、当日は屋台を手伝うのである。当日、人手が足りなくて、食べ物がすぐ無くなるので応援してほしいという。もうけがでれば木匠塾で使って頂いて結構とのことで、高根村の村役場の人たちとも打ち合わせ済みである。

 さて、サマースクールは八月一日から一一日の予定である。スケジュールは以下のようだ。

 一日 集合 会場設営

 二日 会場設営+施設整備実習 オープニング式典 オープニング・レクチャー

 三日 大学別ゼミ 測量実習 施設整備実習 レクチャー①

 四日 林業経営レクチャー+見学 草刈・伐採実習 屋台製作実習 仮設計画レクチャー

 五日 仮設計画レクチャー 足場組立実習 レクチャー②

 六日 家具製作レクチャー+見学 屋台製作実習 模擬店準備 レクチャー③

 七日 模擬店準備 模擬店・かがりび祭り参加

    「木と匠」シンポジューム(高山市)

 八日 特別講義① 特別講義② ロシアンルーレット・ゼミ

 九日 交流野球大会 レクチャー③

一〇日 大学別ゼミ 高山市内見学 フェアウエル・パーティー

一一日 片付け・清掃 解散

 レクチャーは、次の予定である。

 オープニング・レクチャー 「すまいとまち」 布野修司(京都大)/レクチャー① 「世界の木造住宅」 太田邦夫(東洋大)/レクチャー② 「木造住宅の担い手育成」 藤澤好一(芝浦工大)/レクチャー③ 「地域のすまいづくり」 秋山哲一(東洋大)特別講義① 降旗隆信(予定) 特別講義② 奥村昭雄(予定)

 その他に次のレクチャーも予定されている。

 レクチャー④ 「住宅の生産供給システム」 浦江真人(東洋大)/レクチャー⑤ 「すまいの設計と人間工学」 安藤正雄(千葉大)/レクチャー⑥ 「都市と森林のネットワーク」 三澤文子(大阪芸大)/レクチャー⑦ 「高山の民家」 桜野攻一郎

 実習内容は、以下の通りである。

 ①施設整備計画実習 

 ②測量実習

 ③森林視察 製材見学

 ④草刈実習

 ⑤伐採実習

 ⑥家具製作実習

 ⑦模擬店屋台製作実習

 ⑧仮設計画実習 足場組立実習

 ⑨施設整備実習 シャワー室整備

 ⑩高山祭り模型製作実習

 実習担当の講師陣としては、昨年に引き続いて藤野功(日綜産業)氏が参加。ロープの結び方から足場組立、現場の心得全般について御指導願う。また、森林匠魁塾の佃、庄司の両先生にもお世話になる。さらに、久々野・高山営林署には、森林見学等で講義と見学指導を例年通りお願いしている。施設整備実習がどう進むかはわからないけれど、本格職人を目指す茨城ハウジングアカデミーの生徒?諸君に大いに期待する次第である。

 短い期間だけれど、自然に触れ、身体を動かし、木について学ぶ、学生にとってはいい体験である。また、大学間の交流は滅多にない機会である。特に、日本各地の学生が直接情報交換し、議論するのは極めて貴重である。レクチャーや実習は、まだまだたどたどしいのであるが、後々にまで記憶に残る、夏になるとやってきたくなるような、そんなサマースクールにしたいものである。

 

飛騨高山木匠塾連絡先 

 芝浦工業大学 藤澤研究室 03ー5476ー3090

 東洋大学 秋山研究室 0492ー31ー1134

 京都大学 布野研究室 075ー753ー5755



 


2023年1月13日金曜日

韓国建築研修旅行,雑木林の世界45,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199305

 韓国建築研修旅行雑木林の世界45住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199305

雑木林の世界 

韓国建築研修旅行

                        布野修司

 

 三月の一三日から二二日の一〇日間、韓国へ行ってきた。韓国へはこれで三度目なのであるが、本格的に建築を見て歩くのは始めてである。とはいえ、漢陽大学(ソウル)と蔚山大学(蔚山)でのセミナーおよび国際シンポジウムが主目的だから、駆け足に違いはない。ソウル↓大邱↓慶州↓蔚山↓釜山というコースである。ひとつには、出雲建築フォーラムのシンポジウム「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」(雑木林の世界   一九九二年一二月号)に刺激されたということがある。シンポジウムで話題になった、「宗廟」や「秘苑」、また、韓国の伝統的集落、マウル、韓三建君が紹介した「廟」での祭礼を実際にみてみたかったのである。春分の日を日程に組み入れたのは、慶州の「崇徳殿」(全国朴氏の廟)の祭礼を見るためである。

 ソウルでは、漢陽大学の朴勇煥(パク・ヤンファン)教授と久しぶりに再会した。大学院時代からの友人である。研究室を訪問すると、その旺盛な研究ぶりが研究室の熱気と共に伝わってきた。もともとは、福祉施設の研究が専門であり、その学位論文を手伝ったのが懐かしいのであるが、研究はハウジングの分野を含めてさらに広がっていた。当然といえば当然であろう。特に、今、植民地時代に建てられた「日(本)式住居」の調査を全国規模で展開しているのが印象的であった。日本と韓国の建築学会にとってなくてはならない存在に大成?している様子が実に頼もしい。

 水原(スウォン)では、ソウル大の任勝淋(イム・センビン)教授に会った。水原は、城壁を復原し、その城塞都市の雰囲気を残すいい町だ。実をいうと、任さんとは、出発の直前、第3回国際景観材料シンポジウム「アジアの景観ーーー材料の未来」(大阪綿業会館 3月12日)で初めて会ったばかりである。「景観感覚」(センス・オブ・ランドスケープ)という概念を打ち出すその基調講演は実に立派であり、パネル・ディスカッションでも、その優等生振りに、コーディネーターとして随分助けられた。韓国へ行くというと、是非、研究室へ来なさいという。水原に彼の研究室があるのを知って厚かましくもお邪魔し、水原カルビまでご馳走になった次第である。議論をさらに深めることができ、今後の交流を深めることができたのは大きな収穫だった。

 「空間社」の張世洋さんに再会したのはいうまでもない。世の中狭いものである。朴氏、張氏は高校の先輩後輩だというし、任氏、張氏はソウル大の建築学科の先輩後輩だという。一堂に会して、大パーティーが盛り上がったことはいうまでもない。

 今回のプログラムを用意してくれたのは、韓三建君である。蔚山大学はその母校である。国際シンポジウムでは、「東南アジアの土俗建築」と題して講演したのであるが、まあまあであった。「アンニョン ハシムニカ」とやったら冒頭から大受けで、気持ちよくしゃべれた。質問も厳しく、レヴェルが高い。いいシンポジウムだったと我ながら思う。講演者のひとりであった、弱冠二六才で『韓国の建築』(西垣安比古訳 学芸出版社)を書いた金奉烈氏や多くのスタッフと交流できたのも大きい。蔚山大学では、こうしたシンポジウムは初めてのことであり、他の大学からの参加者も多かったという。テレビの取材が2局もあり、地方新聞にも取り上げられる一大イヴェントとなったようである。

 旅行を通じて、少し系統的に見たのは近代建築である。同行した学生の中に伊東忠太研究をテーマにする青井哲人君がいて、リストを持参していたせいもある。ソウルでは、朝鮮総督府(国立中央博物館 デ・ラランデ 野村一郎 国枝博)やソウル駅(辰野金吾 塚本靖)を始め、梨花女子大(ヴォーリス)、天道教本部(中村輿資平)などかなりみた。釜山では、あまり見ることができなかったのであるが、ほとんど残っていない印象であった。大邱では、いくつか注目すべきものをみたが、慶北大学医学部本館などなかなかの迫力であった。

 しかし、僕にとって印象的であったのはやはり住居であり、集落であり、都市である。都市としては、ソウルは短期間では手に余るとして、水原、そして慶州のスケールがよかった。特に、慶州は、韓三建君の『慶州邑城の空間構造に関する研究』(修士論文 一九九〇年)をテキストに、また、本人の解説つきでまわれたのが最高であった。また、釜山では、出来上がったばかりの許萬亨氏の『韓国釜山の都市形成過程と都市施設に関する研究』(学位論文 一九九三年)をもとに倭館や日本居留地の跡をまわったのが感慨深かった。

 集落として見れたのは、良洞マウル(大邱近郊)と妙洞マウル(慶州近郊)の二つなのであるが、何よりも感じるのは、日本や東南アジアの民家との違いである。木の文化と言うけれど、韓国の場合、石の感覚、土の感覚が相当強い。何をいまさらということかもしれないのであるが、実際にみた素直な感想である。

 韓国の場合、木がそう豊かではない。すなわち、建築用材として使える樹木が少ないことが、石や土という素材を用いるひとつの理由だろう。それに、オンドルの使用が決定的である。熱を通すには木や紙ではまずい。隙間を塞ぐのには、土を塗込めた方がいい。すきま風を通す解放的なマルと塗込めたオンドルバンとを明確にわけるところに韓国の住居の特徴があるのである。オンドルは、半島北部に発生したものが高麗時代に全島に普及したとされる。マル(板の間)の成立をめぐる議論が示すように、別の伝統が考えられるのは当然であるが、今日、オンドルは韓国の住居に一般的であり、そのあり方を大きく規定しているのである。

 韓国の建築は粗雑である、洗練の度合いが低い。こうした見方を支配的にしたのは、日本の建築史学の大先達である。日本の文化の優位性を疑わなかった植民地時代のことだ。日本の建築の方がはるかに技術的に洗練され、高度に美しい、という価値判断をそうした先達も当然のように受け入れていたのであった。

 実をいうと、僕自身、そうした見方をしていたことがある。写真でみる韓国の建築にはどうしても違和感があったのである。第一、屋根の瓦が漆喰で固められるのがしっくりこない。第二、屋根の反りがどうもしっくりこない。第三、石の積み方が粗雑である。

 かって、以上のような違和感を口にして、大議論した相手が朴勇煥教授であった。朴さんの反論は今でも覚えている。韓国の建築の方がはるかに自然に対しては高度なのだというのが彼の主張である。仏国寺(慶州)を見よ。地面から石積みになる、石積みも荒くそして精緻になる。大地から生い出るように建築がなされるのが基本だ。その配置にしろ、単純な人口的なシンメトリーはつかわない。ヴォリュームと視覚のバランスを微妙にとるのが韓国の建築なのだ。韓国の建築には韓国の建築の論理があり、美学がある。今回それを体感できたことは大きな収穫であった。

 それにしても、至るところ、秀吉の影が現れる。彼の建造物破壊の暴挙は今猶、さらに末永く、われわれのぬぐいさることのできない汚点である。

 






2023年1月11日水曜日

『群居』創刊一〇周年,雑木林の世界42,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199302

 『群居』創刊一〇周年,雑木林の世界42,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199302


雑木林の世界42

『群居』創刊10周年

 

                       布野修司

 

 普請帳研究会(代表 宮澤智士)が出している『普請研究』という雑誌がある。十年前に創刊されて、年四冊、今年で四〇号になる。その三九号は「大工・田中文男」と題した特集である。田中文男といえば、「大文」(だいふみ)さんと呼ばれて知られる。大工の文さんをつづめた言い方だ。田中さんというのは世間に多すぎるから、自然にそう呼ばれ始めたらしい。

 ところで、本誌の読者であれば「大文」さんを知っている人が多いのではないか。希代のインテリ棟梁である。「日本建築セミナー」や「木造建築研究フォーラム」での活躍もよく知られている。木造文化についての造詣の深さでは右に出るものがいないのではないかと思える程今ではヴェテランである。名人大工、棟梁は今でも日本に数多いけれど、『普請研究』のような研究誌を十年も出し続ける大工さんはいないだろう。

 大学の研究室にいた頃から存じ上げていたのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の関係で、特にこの二年、近くで「大文」さんに接する機会を得ている。幸せである。声がでかい。会えば、必ず怒られる。僕のような大学の先生は特に駄目である。能書きばっかり言ってないで、もっと、木のことを勉強せい、と怒鳴られっぱなしである。特集「大工・田中文男」を読むと「大文」さんの人柄がよく伝わってくる。

 棟梁田中文男格言集からいくつか引けば次のようである。

 「職人だから焼酎を飲んでいればいい時代ではない」

 「まず餌を投げて魚をつかまえる」

 「自分の町のことは自分で考えろ」

 「時代に賭ける勇気がなくてはだめだ」

 「金持ちがつぶれるのは世の中のためーつぶれたくなかったら自分でがんばれ」

 「職人は馬鹿でできず、利口でできず、中途半端でなおできず」

 「粗悪品をつくってたら大学はつぶれる」等々

 是非、一読をお薦めしたい(普請帳研究会 03-3356-4841)。

 

 ところで、『普請研究』が創刊された丁度その頃、もうひとつの雑誌が創刊された。『群居』である。一九九二年の年末に三一号が出た。一九八一年末に、創刊準備号を出しているから、まさに丁度十年である。同じ季刊であるのに号数が足りない。『普請研究』には脱帽であるが、我ながらよく続いて来たと思う。『群居』の編集人というのは実は筆者なのである。

 『群居』の母胎となったのは、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな建築家の集まりである。大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、と僕が最初のメンバーである。創刊の言葉は次のようだ。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインタージャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域の各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」

 恥ずかしながら、僕が書いた。この十年を振り返って、よく続いたと思う一方で冷や汗が出る思いである。

 『群居』の十年で、何が出来て、何が出来なかったか。十周年記念ということもあり、少し、真面目に議論してみようということになった。上の四人に加えて、二十名余りが集まる機会をもったのであった(一九九二年一二月八日 群居「車座」座談会 東京・赤坂)。

 色々な話が飛び出してなかなか面白かったのであるが、つくづく思うのはこの八〇年代という十年、特に後半のバブルの時代は一体なんだったのかということである。『群居』が出発した七〇年代末から八〇年代初頭には、二度のオイルショックを経験した七〇年代の閉塞的な雰囲気が濃厚であり、八〇年代半ばから後半にかけて、バブル経済の高揚によって、「建築の黄金時代」が再び訪れようとは全くもって予想することさえできなかったことである。

 建築家がもう少し真正面から「住宅」の問題に取り組もうというのがHPUの素朴な主旨であり、その動きは建設省の「地域住宅(HOPE)計画」などの展開とも相俟って地道な動きにつながりつつあるようにも思えたのであるが、バブルはそうした展開を吹き飛ばしてしまったようにも見える。

 七〇年代末において、建築家を取りまく状況は極めて厳しかった、議論の中で振り返ってみると今更のように思う。「われわれにとって、まず問題は、住宅を最後の砦としてではなく、最初の砦としてなにが構想できるかである」と、僕は『戦後建築論ノート』(相模書房 一九八一年)に書いた。バブルとともに登場してきた若い建築家たちには、想像できないことであろうが、住宅の設計が「最後の砦」である(原広司)という状況認識は広範に共有されていたのである。

 六〇年代初頭、一斉に都市へ向かって行った建築家たちは、六〇年代末からオイルショックにかけて、次第に「都市からの撤退」を迫られ、住宅の設計という「自閉の回路」へ追い込まれていった。そうした過程を踏まえた上で「自閉の回路」をどう開いて行くか、それが『戦後建築論ノート』のテーマであった。八〇年代に、都市開発の巨大なプロジェクトが次々に構想され、建築家が無防備に再び「都市へ」と巻き込まれていくことなど夢想だにできなかったのである。

  議論のなかで、「群居」する像を提示できなかったことが決定的な問題ではないかという話題になった。テーマとしては、住宅の生産流通の問題と住宅の表現の問題の関係、その裂け目をどう解くのかという、ある意味では最初からの基本問題も大いに議論されたのであるが、町をどうつくるかが具体的に考えてこれなかった、少なくとも、ありうべき町の像を示すべきではないか、そしてそれこそHPUが実践すべきではないか、という展開になってきたのである。都市構想を問う、「群居」の形を提示する、次の十年のテーマである。

 十年というのはそう短くはない。それぞれ歳をとった。メディアを維持して行くためには当然若い世代の参加が不可欠である。様々な課題を意識しながら、『群居』はさらに「停滞無き緩慢なる前進」(田中文男)を続けようと思う。

 

 


2023年1月10日火曜日

建築戦争が始まる 第二回AFシンポジウム,雑木林の世界41,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199301

 建築戦争が始まる  第二回AFシンポジウム,雑木林の世界41,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199301


雑木林の世界40

建築戦争が始まる

第二回AFシンポジウム

                       布野修司

 

 「建築戦争が始まる」といういささか変わったタイトルのシンポジウムが開かれた(一九九二年一一月一九日 大阪YMCA会館)。AF(建築フォーラム)主催の第二回目のシンポジウムである。パネラーは、宇野求、平良敬一、山本理顕、渡辺豊和、布野修司。コーディネーターは、美術評論の高島直之がつとめた。

 第一回のシンポジウムは、「建築の世紀末と未来」と題した、磯崎新、原広司、浅田彰三氏によるシンポジウムで千人近い参加者を集めたのであるが(雑木林の世界33)、今度も四百人を超える聴衆が集まった。東京ではこう人は集まらないと思うのであるが、どうだろう。あるいは、議論の季節が来たのかも知れない。昔から、不況になれば建築運動が起こるといわれるのであるが、バブルが弾けて果たしてどうか。とにかく議論が必要だというのが、AF結成の主旨(雑木林の世界19)だから歓迎すべきことである。

 今回も、スライドはなしで、三時間、建築界で何が問題なのか本音で話し合おう、というのが主旨だ。しかし、座談会ならわかるけれど、四百人もの聴衆を前にして、どうすればいいのか。何を問題とすればいいのか、そう例のない、少なくとも僕にとっては初めての経験である。

 最初はいささかぎこちないスタートとなった。楽屋では盛り上がっていたのだけれど、一巡するまでなかなかかみ合わないのである。建築界の積年の諸問題をどう突破するか、その発火点をどこにもとめるかという筋立てとなっていくことで、どうやら格好がついたのであるが、話がどう転ぶかわからない、スリル満点のシンポジウムとなったのであった。

 建築界の諸問題としては、実に様々な問題が出された。建築デザインの全体的衰退、企業クライアントの水準の低さ、建築家における倫理の喪失、日本の景観の酷さ、職人世界の崩壊、建設業界の川上化、重層下請構造の問題、談合問題、地球環境問題、建築行政の問題、公共建築の設計者選定(コンペ、設計料入札等)問題、建築ジャーナリズムのだらしなさ・・・はては、建築教育、大学の建築学科の再編成、さらに偏差値社会全体の問題まで、問題はとてつもなく広範囲に及ぶのである。

 建設業界の川上化というのは、建設請負業(ゼネコン)がどんどんソフト化(サービス業化)し、現場離れしつつあることをいう。その一方で、ウエイトをもちつつあるのが、具体的な現場技術を支える専門工事業者(サブコン)であり、現場技能者(サイト・スペシャリスト)なのであるが、利益は川上に厚く、川下に薄い。これはおかしいのではないか。建築家はもっと職人さんたちと連帯すべきではないのか。

 全く、思いもかけなかったのであるが、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)で職人大学(サイト・スペシャルズ・アカデミー(SSA))建設を推進する小野辰雄氏(日綜産業 SSF副理事長)の顔が会場に見えた。これぞとばかりに発言を求めたところ、壇上にたってまで、職人問題について熱弁をふるって頂けた。建築家の集まりにはいささか唐突であったのであるが、反響は十分であった。むしろ、日経新聞や京都新聞の記者の反応が面白かった。小野発言は、建築家のいつものわけのわからない(?)話よりよっぽどわかりやすかったというのである。

 またさらに、会場を沸かしたのは、パネラーからの挑発的なビジネス社会批判である。特に、バブルの最中に思いつきとも見える建築を無見識に建てた大企業の問題が鋭く告発されたのであるが、一般的な大企業批判に会場から反論が出るのは必然であった。建築家だってもう少し現場を知るべきだ云々。期待すべき建築家にしても、モラルの低下、はなはだしいものがあるではないか等々。

 どこに発火点をもとめるかという後段のまず最初はこうしてまずサブコン、あるいは職人さんに期待するということになったのであるが、もちろん、多様な提起がなされた。

 むしろ期待すべきは、地方で頑張っている人たちではないか、というのが平良敬一氏である。一方、山本理顕氏は、都市も問題だ、建築家は都市住宅の問題をさぼってきているという。宇野求氏は、住宅については男性では駄目だ、女性にしか期待できない、という。調子に乗って、グローバルには南の国、第三世界に期待せざるを得ないのではないかと言ったのは僕である。

 地方、サブコン、職人、女性、第三世界・・・・並べ挙げていくと、これまで建築界で必ずしも焦点を当てられてこなかったところである。おそらくそうしたところから考えていくのが筋なのであろう。

 議論は、もちろん、開かれたままである。すぐにどうこうしようということではない。ただ、これからの中心的テーマの手がかりが得れたのは収穫だったように思う。キーワードは、「都市革命」である。平良敬一氏の、「いまこそ都市革命が必要ではないか」というシンポジウムでの提起がきっかけである。日本の諸都市は果たして今のままでいいのか。「都市革命」というのは、六〇年代末にH.ルフェーブルによって出された概念であるが、その後の日本の都市の混乱は、「都市社会」の実現とはほど遠いことを示している。『建築思潮』2号のテーマは「都市革命」(仮)ではどうか、ということになりつつあるのである。

 そういえば、『建築思潮』創刊号「未踏の世紀末」がいよいよ出る(一九九二年一二月一八日 学芸出版社 連絡先は、06-534-5670 AF事務局.大森)。

 大阪でのシンポジウムを終えて二日後、名古屋へ行った。「建築デザイン会議」の「現代建築家100人展 変貌する公共性」名古屋展のオープニングに呼ばれたのである。「人と建築と社会と」と題して何かしゃべろ、という。おこがましいけれど、旧知の酒井宣良氏、大島哲蔵氏の依頼とあって断れない。両氏との鼎談の形ならと無理を言って楽しく議論できた。「建築戦争」の余韻があったかもしれない。熊本アートポリス、京都の景観問題などをめぐってホットな話題が続出した。聞けば、JR名古屋駅も高層化の計画があるという。C.アレグザンダーの千種台団地の建て替えの問題など足元に大きな問題が横たわってもいるのである。

 一日置いて、こんどは京都大学の11月祭の建築学科の企画(「珍建築」展)に竹山聖氏と呼ばれて、建築教育をめぐる問題をとことんしゃべらされた。

 議論の季節がやってきた、そんな感じがひしひしとしてくる。議論ばかりでは何にもならないのであるが、地についた議論を深めておかないと、ひとたび状況がかわるとすぐさま足元を掬われるのが建築界なのである。






2022年8月11日木曜日

バンブーハウス,at,デルファイ研究所,199307

 バンブーハウス,at,デルファイ研究所,199307


バンブーハウス           バリ

                布野修司

 

 バリのかっての王国のひとつ、ギャニャールを通りかかったところ、アルン・アルン(広場)いっぱいに仮設の建物が建設されつつあった。聞けば、プリ(王宮)の長が亡くなって、その葬式会場の準備だという。真ん中の広場を四角く囲うように細長い切妻の棟が並ぶ。桟敷である。桟敷といっても本格的で、階段がきちんと一定の間隔でつけられ、桟敷そのものも階段状になっている。仮設とはいえ、古来、一定の形式をもって建てられてきたに違いない、と直感されるつくりであった。際立つのは、屋根を除けば全て竹でつくられていることだ。継手仕口などもきちっとしているのである。

 仮設の建造物に竹が用いられることは日本でもあるが、東南アジアでは、一般の住居に竹を使うことも多い。われわれの眼からすれば、一般の住居もまた仮設的に見えるのかもしれないのであるが、竹を建築材料に用いること、それも柱梁など構造材に用いることは、東南アジアでは珍しくない。それどころか、屋根も扉も何も竹でつくられた家もある。やはり、バリに全て竹で出来た住居が建ち並ぶ集落がある。キンタマニへ行く街道沿いの集落である。

 竹葺きの屋根は、割って先をとがらしたものを重ねていく。壁はバンブー・マット。日本だと雨仕舞いや隙間風が気になるところだけれど熱帯の気候では快適そうである。

 東南アジアでも竹は極めて身近かな素材である。建材としてのみならず、様々な用途で用いられるのは日本と同じである。再びバリの例で言えば、儀礼に欠かすことのできない竹のウンブル・ウンブル(幡)がそこら中に建てられているし、日常の用具にも竹はふんだんに用いられているのである。

 石の文化に対する木の文化という対比がよく用いられるが、もうひとつ竹の文化を重ね合わせて考えることができる。明らかに竹の文化といえる広がりが東南アジア世界にあるのである。

 竹はヨーロッパにはない。極めて少ない。北アメリカ、オセアニアには少ない。南アメリカには多少ある。竹と言えばアジアとアフリカである。アジアといっても東アジアと東南アジア、南アジアである。東南アジアの竹をみると日本と明らかに違う。日本のように一本一本バラ立ちするのではなく、株のように固まって生えるのである。竹薮といっても随分景観が異なるし、竹に対する感覚も竹製品などを見るとずいぶん違うようだ。

 日本にも竹で出来た建物はないかというと京都にあるという。竹について様々な文化を育んできた日本だから、竹を構造材に用いる例があっても不思議はない。ただ、気候が合わないし、耐用年限の問題もある。

 やはり、オール・バンブー・ハウスは、東南アジアのものではないか。竹の成長は早い。伸び盛りには一日に一メートルも伸びる。そうした意味では無限の材料といっていいのである。




2022年8月9日火曜日

アジアの都市住居集落研究,学士会会報,1993年ーⅢ

アジアの都市住居集落研究,学士会会報,1993年ーⅢ

 アジアの都市集落住居研究のことーーー人間居住の多様な形態

 

                            布野修司

 今年でもう15年東南アジアを歩いている。東南アジアといってもここ数年は専らインドネシア、ジャワが中心である。地域計画とくにハウジング(住居)計画が専門で、ヒューマン・セツルメント(人間居住)の形態に興味がある。15年とはいえ、その成果は微々たるもので、インドネシアの大都市のカンポン(都市内集落)のフィールド・サーヴェイをまとめたぐらいである。多少とも一般の眼に触れるものとして、『カンポンの世界』(パルコ出版 一九九一年)がある。

 

●カンポンとマルチ・ディメンジョナル・ハウジング

 インドネシアに限らず、発展途上国では、深刻な居住問題を抱えているのであるが、先進諸国におけるこれまでの計画理論では必ずしもうまくいかない。そこで様々な工夫をしたハウジング(住宅供給)が各国で試みられるのであるが、インドネシアでも同様である。カンポンの調査研究を通じて、住宅計画の理論を練り上げるのがこれまでの主要なテーマであった。そして、その成果は、共同研究のカウンターパートであったスラバヤ工科大学のJ.シラス教授を中心として実践に移されつつある。

 マルチ・ディメンジョナル(多次元)・ハウジングとJ.シラス教授はそのプロジェクトを呼ぶのであるが、いささかユニークな集合住宅のプロジェクトである。その特徴は、共用スペースが主体になっているところにある。具体的に、リビングが共用である、厨房が共用である、カマール・マンディー(バス・トイレ)が共用である。もう少し正確に言うと、通常の通路や廊下に当たるスペースがリッチにとられている。礼拝スペースが各階に設けられている。厨房は、各戸毎に区切られたものが一箇所にまとめられている。カマール・マンディーは二戸で一個を利用するかたちでまとめられている。まとめた共用部分をできるだけオープンにし、通風をとる。

 これだけではイメージできないかもしれないのであるが、日本や西欧の集合住宅とは随分違う。専有するのは、一室か二室で、あとは共有する立体的な「コアハウス」である。一九七〇年代から八〇年代にかけて世界中で盛んに実施された「コアハウス」プロジェクトというのは、簡単な水回りの設備とワンルームだけを供給し、後は、セルフ・ビルド(自力建設)で建てる形のものであったが、それを立体化したイメージだ。

 単なるシェルターだけではない。経済的な支えもなければならないし、子供の教育援助も組み込まれている。コミュニティーの質も維持されなければならない。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングというのは、経済的、社会的、文化的、あらゆる次元を含み込んだハウジングという意味なのである。

 具体的には、ジャカルタのプロガドン地区、スラバヤのデュパッ地区とソンボ地区の三ヶ所でプロジェクトが進行中である。インドネシアでは、こうして新しい形の集合住宅建設が本格化しようとしている。その先端をきっているのがJ.シラス教授である。一九九一年、彼は国際居住年記念松下賞を受賞したのであるが、一九九二年は、スラバヤ市が一九八六年のアガ・カーン賞に続いて、国連の人間居住センター(       )の賞を受賞した。その評価はグローバルに高い。教えを乞うてきたものとしてもうれしい限りである。

 

●ロンボク島のチャクラヌガラ

 ところで、ここ二年ほどロンボク島へ通いだした。チャクラヌガラという実にきれいな格子状の街路パターンをした都市を発見したからである。

 ロンボク島というと、バリ島の東隣にある小さな島である。知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス(一八二三年~一九一三年)は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したのであるが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にあり、その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。

 そのウォーレスの『マレー諸島』(註1)が最近訳されたのであるが、その中で全四〇章のうち二章がロンボク島に割かれている。バリおよびロンボクという章がもう一章あるからかなりのウエイトである。その一章(第一二章)は「ラジャ(王)はどのように人口調査をしたか」という面白い話だ。聖なるクリス(剣)を造るために、正確に人数分の針を供出しないと災いは去らないといって、針を集めるのである。

 ところで、ロンボク島が注目される理由が、少なくとももう一つある。小さな島であるにも関わらず、西部と東部で際だった文化的差異があることである。すなわち、バリ・ヒンドゥーの影響を受けて、ヒンドゥー教徒が多く住む西部地域と敬虔なイスラム教徒が住む東部地域がある、イスラーム化されたインドネシアで珍しいことなのである。

 ヒンドゥー教徒の住み方とムスリムの住み方の比較に興味をもって出かけたのであるが、思いもかけない発見となった。調べてみると、チャクラヌガラは、バリのカランガセム王国の植民都市であり、その都市理念をモデルとして建設されたと推測される。興味深いことに、そのチャクラ・ヌガラの宮殿から椰子の葉に書かれた一冊の文書(ロンタル文書)、が発見されたという事実がわかった。ジャワのヒンドゥー王国の年代記で、ナガラ・クルタガマという。一八九四年一一月一八日のことだ。そこには、一四世紀におけるジャワの王都の記述がある。チャクラヌガラを調べれば、ヒンドゥーの都市理念が具体的に明らかにできるのではないかというのが直感であった。

 「都城」(王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市)について、それを支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係を、アジアからヨーロッパ、アフリカまでグローバルに見てみるといくつかはっきりすることがある。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラム世界には、そうした思想や書はない。

 第二に、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。理念型と生きられた都市の重層が興味深い。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。

 第三に、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向がつよい。例えば、インドの都城の理念を著す『アルタシャストラ』(註2)や『マナサラ』(註3)を具体的に実現したと思われる都市は、アンコールワットやアンコールトムのような東南アジアの都市である。

 チャクラヌガラは、この第三の例になるのではないか、と少しづつ検討を始めているのである。

 

●高床式住居

 東南アジアの都市や集落や住居のありかたを見てきて、最近では、中国、インドの様子が気になりだしている。東南アジアというのは、何と言っても、中国とインドという二大文明の大きな影響下にあった。湿潤アジアだけでなく、乾燥アジアを見たくなっている。また、イスラーム世界の居住様式も気になる。インドネシアは、世界でも最大のムスリム人口を抱える国だからである。

 東南アジアの伝統的住居というと、高床式住居である。もちろん、例外の地域があって、島嶼部だとジャワ、バリ、ロンボクは、地床式である。諸説あるが、ヒンドゥーの影響だという。小さなブル島もそうだ。大陸部だとヴェトナムの沿岸部を除けば高床式である。これは、中国の影響だという。

 高床式住居はどのようにして成立したのか。湿潤熱帯の自然条件にふさわしい住居形式であることは間違いないのであるが、各地域で同じようにつくられるようになったのか、それともある起源があって、それが伝播していったのか。興味深い議論がある。ひとつの有力な説は、オーストロネシア語族、とりわけそのサブ・グループに属するマラヨ・ポリネシア語族と高床式住居を結び付けるものである。原オーストロネシア語を復元する試みの中で、高床式住居に関わる語彙の発生を明らかにできるという。

 オーストロネシア語族の原郷はどこかというと中国華南という説がある。あるいは、台湾だという説もある。はっきり指摘されるのは、稲作の発生と高床式住居、高倉が関係することである。高床式住居の伝播が稲作の伝播に伴ったことはほぼ間違いないところだ。ところが、南中国の古代遺蹟をみても、稲作の発生以前に高床式住居が発生していたことは明かである。さらに、高倉といっても北方系の高倉の系譜がある。北方系の高倉は基本的には稲作と関係がない。高床式という床の高さだけを問題とするだけでも、多様な住居のあり方がアジアの空間の広がりの中に見えてくる。

 

●マル(抹楼)とオンドル(温突)

 こんなことを考えながら、今年に入って、韓国、北朝鮮と相次いで行く機会があった。東南アジアを歩きなれているせいであろうか、随分と様子が異なる。木造文化圏とは言っても、石が相当にウエイトを持っているそんな印象である。日本や東南アジアに比べると木材がそう豊かではないのである。もちろん、知識としては知ってはいたのだけれど、具体的に民家や集落を見ると考えることも多い。床の問題について言えば、温突(オンドル)の存在は極めて特異である。温突は、高句麗で生まれ、次第に朝鮮半島全体に広まったとされる。温突に類する床暖房は朝鮮以外にもアジアの東北地域に広く行われている。単に高床か地床かという上の議論がいかにも単純なことがわかる。

 しかし、興味深い空間に温突房とは別にマル(抹楼:あるいは大庁:テーチョン)と呼ばれる板の間がある。吹きさらしの高床である。このマルの起源をめぐっても、南方の影響か、中国の寺院の影響かという議論がある。昭和の初めの村田治郎と藤島亥治郎の両大建築史家のやりとりである。マルの起源を中国文化、宮殿建築の模倣転用であるとしたのが村田治郎であるが、その根拠は、板の間がソウルの宮殿建築、両班のような上流階級の住居に多いこと、南鮮の農村部にはマルが少ないことである。それに対して、板の間は古来から使われており、基本的に南方起源であることを済州島の例を挙げながら主張したのが藤島亥治郎である。その議論の中には、朝鮮半島の民家と日本との関連を考える上でも興味深いポイントがいくつもある。

 朝鮮半島の住居、集落、都市を駆け足でみてみて、改めて人間居住の多様な在り様を思う。特に、社会主義体制を堅持する北朝鮮の農村や都市、平壤(ピョンヤン)、開城(ケソン)の印象が強烈だったからであろうか。とりわけ、朝鮮戦争で歴史的都市遺産のほとんどが失われた中で、開城が古い町並みを残していることに深い感慨を覚えた。

 アジアの空間はとてつもなく広いのであるが、人間居住の多様な形態とそれを生き生きと成り立たせる原理について考えて行きたいと思っている。

 

 

註1                                                                                                                                                                      

 宮田彬訳 『マレー諸島』 思索社 1991年

註2 カウティリア 『実利論ーーー古代インドの帝王学』(上村勝彦訳 岩波文庫     年)。カウティリアの記述をもとにした「都城」の復元は、                 によって試みられているが、応地利明は曼陀羅を下敷きにした説を提出している。

註3 マナサラについてはいくつかの研究書が公刊されてきたが、今のところP.K.アチャルヤのものがその集大成になっている。