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2023年3月13日月曜日

良質な都心住宅,問題は構造転換である,日経アーキテクチャー,19960520

良質な都心住宅,問題は構造転換である,日経アーキテクチャー,19960520

良質な都心住宅

問題は構造転換である

 

 「供給量の拡大を優先する従来の方針を転換して」どうなるか、住宅産業界にとっては死活のテーマである。しかし、その前に建設省は、本当に方針を転換するのか。大都市圏の中心部に今後10年で100万戸という数値目標はどういうことか。建設省の戸数主義、新規供給重点主義、スクラップ・アンド・ビルド路線の枠組みが果たして変わるのか、実をいうと大いに疑わしく思っている。

 単純な算数である。日本の住宅ストックを4500万戸として、平均30年の耐用年限とすると年間150万戸のフロー。この現在の生産供給体制は変わらざるを得ない。100年もつ「良質な」住宅を供給していくとすると年間45万戸の建設量でいい。3倍の時間をかけて、3倍の価格で売る。「良質」といっても、何年の耐用年限を考えるかによって質は決まるのである。

 この枠組みは、日本の経済構造、産業界の編成に関わるからそう単純ではないけれど、既に供給量の拡大が問題でないとすれば、ストックの更新型へ住宅生産構造が構造転換していくのは当然であろう。建設投資がGNP2割を占める国はやはり異常である。

 ここ数年、ゼネコン、プレファブ・メーカーなどが参加する中高層ハウジング研究会で以上のような問題を考えている。共通のテーマは、二段階供給システム、あるいはスケルトン、インフィル、クラディングの三系統システムである。また、公共ー民間の役割分担を考えるなかで、スケルトンの公共性を高めることが重要だというのが共通認識である。

 都心の住宅が歴史性をもったストックとなるためにスケルトンがしっかりすべきことは明らかだ。が、限られたパイをうまく分配していく仕組みができるかどうかは今のところ判断しかねている。





 

2023年3月2日木曜日

漂流する日本的風景,雑木林の世界88,住宅と木材,199612

漂流する日本的風景,雑木林の世界88,住宅と木材,199612

雑木林の世界88

漂流する日本的風景

布野修司


 「表現の戦後責任・・・ポストモダンの先駆 建築における国家・様式・テクノロジー」(アジア太平洋資料センター(PARC)自由学校講義 一〇月二二日)「イノベーティブ・アーキテクチャー・イン・アジア」(日本建築学会主催シンポジウム 李宗源 山本理顕 布野修司 一〇月二三日 大阪中之島公会堂)、「建築家に何が可能か・・・阪神・淡路大震災を考える」(日本建築協会 一〇月二五日 大阪)「漂流する日本的風景・・・建築家と地域計画」(建築フォーラム・シンポジウム 磯崎新 原広司 布野修司 一〇月二六日ー二七日 明日香ー吉野)「SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)と職人大学構想」(住宅産業研修財団 布野修司講義 大阪 一〇月二九日)「都市美とアーバンアーキテクト」(近畿都市美協会 布野修司基調講演 一〇月三一日 宇治市)と、ネパールーインド行から帰ったのはいいけれど、一〇月の末は以上のような連続セミナー・シンポジウムのスケジュールに襲われてしまった。

 海外に出て、見知らぬ町を歩きながら様々なことを学ぶのは最高である。通信手段の発達で仕事に追っかけられるということはあるにせよ、とにかく現場で見聞きし、学ぶ事に集中することができる。しかし、その自由を享受するために旅の前後にどうしても皺よせがきてしまう。贅沢な悩みと言うべきか。

 シンポジウムは嫌いではない。とくに、コーディネーター役は面白い。コーディネーター役が一番勉強になるとも思っている。臨機応変のやりとりはスリリングである。聴衆には迷惑かもしれないけれど、自分の興味に従って質問したり、議論をしむけたりすることができる。気の乗らないシンポジウムもないわけではないが、それでも、なんらかの刺激をうける。シンポジウムというものはそういうものであろう。

 以上のような嵐のようなシンポジウムや講演の連続で頭の中はさすがに混乱気味であるが、つくづく思うのは日本の風景にはしまりがないということである。

 PARC自由学校の「表現の戦後責任」では、戦後建築の歴史を一般の人々に可能な限りわかりやすく説明した(つもりである)。鉄とガラスとコンクリートという工業材料による四角い箱形の超高層ビルをわかりやすい近代建築のイメージとし、戦前にも遡って、その実現の過程と批判の水準(ポストモダンの建築論)について紹介したのである。ところが「そうした建築の歴史に一般の市民であるわれわれが全く無縁なのは何故か」という根本的な質問に立ち往生してしまった。素朴には「超高層(近代建築)などわれわれには無縁だ」ということである。この雑然とした都市の町並み形成に一般の僕らが参加できないのは何故なのか、ということである。

 「イノベーティブ・アーキテクチャー・イン・アジア」では、三日間のうち一夜だけの参加であったけれど、アジア各地から二〇名を超える建築家を招いた極めて意義深いシンポジウムであったように思う。アジアの建築家が一堂に会して議論するそうした時代になったのである。ところが、僕がコーディネーターをつとめたセッションは、かなりの悪戦苦闘であった。李宗源氏のプレゼンテーションに度肝を抜かれてしまったのである。

 李宗源氏は台湾を代表する建築家の一人である。一九七八年に七人で始めた事務所は今や一二〇人のスタッフを抱える。昨年までは一六〇人を超えていたけれど、仕事の量が減って少し減らしたのだという。それでも、上海、北京にも支社をもつ。台湾の経済成長の象徴というべきか、巨大なポストモダン建築で有名になった。頂上部に様々なデザインを凝らした超高層ビルや超高層マンションを数多く建てている。プレゼンテーションでは、その巨大な数多くの建築作品をスライドで映しながら、それを生み出す神秘を語るものであった。

 この春、台湾を訪れた時にいくつか作品を見た。「四つの花」と名づけられた淡水の四本の超高層マンションや故旧博物館の前の超高層のマンションは遠くからも人目を引いていた。中央研究院のなかの若い頃の作品など、なかなか手堅い作品もあった。

 対するは、山本理顕氏である。熊本アートポリスの保田窪団地で公営住宅の新しいプロトタイプを提出して論議を呼んだ。この二人の対照的な建築家の議論をうまくしかけたいと思ったのであるが、結果としてうまくいかなかった。李宗源氏の独壇場である。

 禅の修業を日課とし、酒も煙草もやらないヴェジタリアンである李宗源氏は宗教家の趣があった。西欧文化への批判を展開しながら、中国文化の再建を主張するその設計方法論はわかりにくい。建築とは一心の器であるとする氏の主張を理解するには時間がいくらあっても足りなかったというべきか。

 「建築家に何が可能か」は小さい会であったが、真面目でしんどい会となった。「大震災は何も変えなかった」という僕の基調発言のせいである。会場の窓から「梅田スカイビルが見えていた」。

 そして、翌日明日香村で開かれた。建築フォーラムの磯崎新、原広司を迎える第五回目のシンポジウムであった。地域をどうとらえるか、建築家が地域計画について何をなすべきか、をめぐる議論の詳細は『建築思潮』五号(来春刊行予定)に譲るとして、俄然目が覚めたのは、シンポジウムの終わりに近くなって、原さんがなぜ「超高層が必要か」「高密度居住が必要か」についてたどたどしくしゃべりだした瞬間であった。原さんは「梅田スカイビル」「京都駅ビル」の設計で数々の批判の渦中にある。その反論を日本の都市モデルの問題として提起しようとしたのである。都市的居住のためには、何かを断念しなければならない。都市にも太陽と緑と水を、というのは間違っていたのではないか。一戸建て持家政策に根本的に誤りがあった、と磯崎さんからもフォローがあった。要するに日本の風景は都市と農村の境界が曖昧で居住のモデルを生み出していないということである。吉野で久しぶりに夜を徹しての議論となった。

 ネパールやインドの珠玉のような都市型住居のモデルを見てきた余韻の中では超高層モデルなど論外である。しかしそれにしても、日本の風景は、またそれを生み出す議論の土俵も、しまりなく漂流し続けているのは事実ではないか。





2023年3月1日水曜日

インド・ネパ-ル紀行,雑木林の世界87,住宅と木材,199611

 インド・ネパ-ル紀行,雑木林の世界87,住宅と木材,199611

雑木林の世界87

ネパールーインド紀行

布野修司


 天沼俊一の『印度仏塔巡礼記 下巻』(一九四九年)とモハン・M・パントさんの『バハ・マンダラ』(上海同済大学修士論文 一九九〇年)を携えてネパールにやってきた。アジアにおける都市型住宅の比較研究のための調査が目的でネパールの後インドへ向かう。ネパールではハディガオンという町の調査とトリブバン大学での特別講義が任務である。

 パントさんの論文は英文でサブタイトルに「カトマンズ盆地パタンの伝統的居住パターンの研究」とつけられている。バハとは仏教の僧院ヴィハーラからきたネパール語で、中庭を囲んだ形の住居の形式のことである。ネパールに来て読んだのであるが、バハの形式が都市の構成原理となっていることを実証する実に水準の高い論文である。カトマンズ、バクタプル、パタンといったカトマンズ盆地の都市の魅力をパントさんの論文に導かれてじっくり堪能することができた。

 九月一八日 バンコクからカトマンズ入り。ホテルは同行の学生諸君(黒川健一 横井健)の定宿で一泊八ドル。市の北側のタメル地区にある。今回は、台湾の中央研究院の黄先生と一緒なのだけれどテレビも電話も部屋になく、おまけに水洗が壊れていていささかめんくらった様子。いきなり、インドラ・チョークを抜けて王宮前広場(ダルバル・スクエア)へ。バザールの活気と旧王宮の建築のレヴェルの高さに圧倒される。さすがに世界遺産に登録されているだけある。他に文化遺産としては、パタンのダルバル・スクエア、バクタプルの王宮、スワヤンブナートが指定されているという。

 この空間の質は分析して調べるに値すると言うとノルウエーのチームがやってますと分厚い報告書を見せられた。カナダのチームもやってきて、学生のワークショップをやった時の図面もあるという。多くの建築家を惹きつけるものがあるのだろう。夜は、黒川、横井の両君が準備してくれた資料に眼を通しながらの議論である。

 九月一九日 トリブバン大学ティワリ教授とのアポイントメントが一二時ということで午前中はパタンを歩く。パタン市のつくった歴史的建造物をめぐるコースとパントさんの論文がガイドである。何故か、このコースには日本工業大学チームが修復したイ・バハ・バヒは入っていない。バヒはもともと独身の僧の施設で、バハは妻帯を行うようになってからの施設。バヒの空間は中庭に開かれているけれど、バハは閉鎖的である。バハ・バヒというのはその過度期の形式というのが日工大チームの説である。ユネスコのチームが補修した王宮のスンダリ・チョークは工事中のため見られなかったのが残念。詳細な報告書ができるという。夜、田中昌子・定松栄一夫妻と会食。田中さんはACHR(居住権のためのアジア連合)のメンバーでカトマンズ市内のスクオッター地区を調査中。カーストについて説明を受ける。定松さんは市民による海外協力の会=シャプラニールのメンバーで、ネパールのNGO(非政府組織)とともに西部の農村開発の支援に取り組んでいる。飛行機事故で無くなったラメシュの話題が出る。彼とは僕も会議で何度か会ったことがあるけれど、貧困者のために一生を賭けた人生であった。

 九月二〇日  午前中 ハディガオン調査。カトマンズで最も古い王宮が置かれたと考えられている。先年イタリア隊が発掘して報告書を出したという情報を夕刻偶然会った九州大学の小林茂先生(京大人文地理学出身)から聞く。僕らはいわゆる住み方調査とデザイン・サーヴェイである。 午後トリブバン大学で講義。「アジアの木造建築をめぐる諸問題」と題してネパールの民家と日本の民家の比較を試みる。学生は意外に熱心で様々な質問を受ける。その後ティワリ教授と若干議論。彼はデリーで学位をとった人で、ネパールの多層建築の木割りについて一冊本を書いている。ジャイプール組(山本、沼田、長村)からファックスが届く。順調に調査を開始したようだ。

九月二一日  朝起きて、ホテルのすぐ近くにあったチュシャ・バハを見る。今回は『東洋建築史図集』を携えてきていて、それに載っている建築をつぶす(見る)つもりもある。バクタプルへ行くついでに、近い将来パントさんが調査する予定のティミを歩く。ティミはカトマンズ、パタン、バクタプルの真ん中にあって、陶器の町として知られる。結局、チャン・ナラヤン寺院、パシュパティナート、チャバヒ・バハ、ボードナートをつぶす。天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』を見ると多くの写真が載っていて丁度三〇年前との比較が興味深い。一九三四年に地震があって多くの寺院が破壊された様子が生々しいのである。

九月二二日 ストライキで空港への移動が心配だったけれどほとんど影響無し。午前、キルティプルの町を見て、デリーへ飛ぶ。二年前と同じコンノートの北のホテルにチェックイン。早速、ジャンタル・マンタル(天文台)の周辺を歩く。スクオッターが公園を占拠していて、貧富の差は拡大した印象をもった。コンノートのサークルの裏側には貧困者の居住区がある。夜、ラフォール調査のリーダー滋賀県立大学の山根周先生合流。今回の調査隊八名全員が活動を開始したことになる。

九月二三日 ラール・キラー、ジャーマー・マスジッドを見た後、チャンドニーチョークをリキシャーで抜ける。カトマンズのインドラ・チョークとは比較にならない密度と熱気。午後は、スクール・オブ・プランイング・アンド・アーキテクチャー(建築学校)に行って文献を漁る。図書館は相当のものである。但し、全て英語である。さすが英語帝国主義の国である。夕刻バーであったオランダ人フリージャーナリストH.ポールゼン氏にインド社会について話が弾む。彼はラダックについての二冊目の本を出筆中だという。

九月二四日  早朝アーメダバード・バードに移動。スクール・オブ・アーキテクチャー(建築学校)の近くに宿をとる。何故、アーメダバードか。テーマとしてはイスラーム的な迷路状の都市をジャイプールとの比較のために調べたいということがあったのだが、実は新居照和さんとの出会いが大きい。徳島の建築家新居さんはここで学び、ドーシのもとで仕事をしたことがあり、インドに行くなら是非アーメダバードに行くべしというのに心を動かされたのである。アーメダバードにはコルビュジェのいくつかの建築があり、ルイ・カーンのIIT(インド経営学院)がある。チャンディガールとともにインド近代建築のメッカなのである。ジャーマ・マスジッドを中心に旧市街を歩き回った後、建築学校へ向かうと、偶然、オートバイに乗った有明高専の山口英一先生に声をかけられた。文部省の在外研究員としてインド哲学(ジャイナ教)の勉強に来ているという。石田さん(名城大出身)が建築を勉強に来ているというのですぐ合流。建築学校へ行ってみると予め手紙を書いておいたインドで有名な画家ピラジ・サガラさんが待っており、主任のヴァーキー教授に紹介してくれた。というか、既に全てがセットされており、僕らの関心に適う論文を数多く用意してくれていた。

九月二五日 早速旧市街予備調査。町屋の密集形態に圧倒される。ジャイプールとは違う魅力がある。合間にコルビュジェの綿業会館、美術館を見る。建築学校で紹介された資料を見ていると、北一二〇キロの所にアーメダバードとそっくりな形をしたパタンという町がある。ネパールのパタンと同じ名前だ。ロンリー・プラネットを見るとジャイナ教の寺院が多いとある。山口先生によると、古い文書があるという。

九月二六日 パターンに行く前にコルのショーダン邸を見る。これだけは見たかったという傑作であるが、素晴らしい状態でメンテナンスされていた。やはりコルビュジェはただ者ではない。パタンへの途中新居さんにこれだけは見ろと言われたアダラジの階段井戸とモデラの太陽神殿を見る。グジャラート一帯には多くの迫力ある階段井戸が残されている。コーラートの太陽神殿の方が有名だがモデラもなかなかのものである。パタンを歩くのは暑かった。それに人々がぞろぞろついて回るのには閉口した。街区の前には門がありコミュニティーの関係は濃密のようだ。ただ、アーメダバードより密度は小さいし、二階建ての町屋が中心である。数十センチ、場合によると一メートルほど高床なのが面白い。横井君はカトマンズで一人頑張っている旨ファックス入る。

九月二七日 アーメダバードからジャイプールへ移動。代理店のミスで出発時間間違え、空港に四時間待たされる。インド流(ジス・イズ・インディア)は毎日のことである。一六人乗りのプロペラ機に六人。途中ウダイプルの町がくっきり見える。ジャイプール入りすると早速調査地区へ直行。プラニバスティーというチョウクリ(街区)で山本直彦君を捕まえる。全体の調査計画を簡単にディスカッション。沼田、長村の両君は腹を壊してダウン。一週間過ぎると疲れの出るころである。

九月二八日 トプカナ・ハズリ地区調査。ジャイプール開発局へ行ってラジバンシー教授に会う。彼とはマラビヤ大学にいた二年前にも会っており、いろいろと教えを乞うた。今回も色々お世話になったが、最大の収穫は一九二五年~二七年作成の詳細な地図を手に入れることができたことである。午後、調査続行。夕食を共にしながらラジバンシー夫妻と歓談。

九月二九日 本格的調査。ベースマップを手に路地から路地を歩き回る。七〇年前の地図が驚くほど正確なのにびっくり。モスクのあったところにモスクがヒンドゥー寺院の場所にはヒンドゥー寺院が、小さな祠の位置まで正確に書かれている。ラジバンシー教授によればインドでジャイプールだけだということだけれどインド調査局もすごい調査をするものである。アーメダバード、カトマンズからファックス。それぞれ順調のようである。アーメダバードもベースマップが手に入りそうだと言う。九月三〇日 終日調査。欲張って新しい地区に手をつける。

一〇月一日 終日調査。夜行にてアグラに向かう。上中下三段の寝台車。なつかしい。ジャイプールにて 


2023年2月28日火曜日

住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか,雑木林の世界86,199609

  住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか,雑木林の世界86,199609

雑木林の世界86

住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか


布野修司


 京都グランドヴィジョン研究会という、京都の二一世紀を考える研究会が発足して(六月)、かなりのペースで議論を始め出している(いずれまとめて報告したい思う)。八月の初旬、その研究会で報告を求められ、「京町家再生不可能論」を述べた。趣旨は、法規の壁が大きいということである(雑木林の世界54 町家再生のための防火手法 九四年二月号参照)。いくら京都の伝統的な町家の景観を維持しようとしても京町家再生は事実上不可能であるということを問題提起としたかったのである。

 その時、いささか虚をつかれる質問を受けた。「しかし、なんで再生しないといけないのか」という論の前提に関わる素朴な疑問が出されたのである。木造の町家に住みたくない、建てようと思っても建てれない、時代と共に変わっていくのは仕方がないのではないかという住み手としての素朴な意見が一般的なように思えた。また、スクラップ・アンド・ビルドは、日本の住文化の伝統だ、という耳になじんだ意見も当然のように出された。メンバーは、関西で京都に縁のある文化人、学識経験者である。循環型都市システム、社会資本の充実といった議論を鋭く展開する先生方である。しかし、こと住宅になると別の感覚が働くらしい。

 住宅供給のシステムに関して、バブル崩壊以後、また地球環境問題の顕在化以後、僕らは、なんとなくフロー型からストック型への構造転換を必然的だと考え始めているのであるが、その構造転換を身近な住宅のあり方に即して考えることは一般的にはなじみがないらしいのである(僕らももっと広く議論をすべき、ということだ)。

 しかし、その時の質問にも正直に答えざるを得なかったのであるが、ストック型になるべきかどうか、というのは日本の経済、産業界の編成の問題である。住宅建設戸数が減っていけば、住宅産業界は飯の食い上げなのである。

 確かに建設投資がGNPの二割を占めるような国は先進諸国にはない。住宅を三〇年でスクラップ・アンド・ビルドしている国はない。しかし、住宅が一〇〇年の耐用年限を持つようになると、住宅生産に関わる人員は三分の一でいい。あるいは、住宅の価格を三倍にする必要がある。単純な算数だけれど、そういう構造が果たして変わるのか。その全体構造の帰趨を議論しなければ、日本の住宅生産がストック型に転換しうるかどうかは不明なのである。

 一方、「中高層ハウジング研究会」でも、ストック型住宅供給システムを前提として議論を続けている。具体的なプロジェクトも少しづつ動き出しているのだが、共通にテーマになっているのが、スケルトンーインフィルークラディングの三系統供給システム、あるいはオープン・ハウジング・システムである。

 スケルトンの寿命が長くなるとすれば、維持管理に関わる産業あるいはインフィル産業へ住宅産業界がシフトしていくのは必然である。インフィル産業界が新たに育ってこなければならない。しかし、一体、スケルトンは何年持てばいいのか、インフィルは何年でリサイクルするのか。そもそも、模様替えして住み続ける住み方が日本に定着するのか。オープン。ハウジングというのは、果たして、ほんとに目指すべき方向なのか。

 というようなことを少しじっくり考えてみようと思い始めているのだが、タイミング良く、野城智成先生(武蔵工業大学)から「既存建物再生事情・イギリス編」(『Re』N0.103 財団法人 建築保全センター)を送って頂いた。ストック型社会のモデルとしてイギリスの事情が紹介されているのである。イギリスの研究者の論文の他、岩下繁昭、菊地成朋、黒野弘靖氏ら、イギリスへの留学経験のある研究者の論文も収められている。

 興味深いのが、「住宅は何年の寿命を持たねばならないか? イングランドにおける住宅の年齢および推定寿命に関する考察」と題されたジェイムズ・ミークル、ジョン・コンノートンという世界最大の建築積算事務所の両取締役による論文である。イギリスの人口は日本の約半分で比較しやすいのであるが、年平均の住宅供給(ストック増加)数は、一九八五年から九〇年の五年で一九万一〇〇〇である。三〇年前の一九六一年から六五年平均で二八万四一〇〇〇である。日本は一九六〇年で新設着工戸数は約六〇万戸であったから、人口規模を比較するとほぼ同じ建設数だったとみていい。その後、イギリスの着工戸数は減少して年間二〇万戸程度になったということは、日本に置き換えると年間四〇万戸体制である。果たして、三〇年後、日本はイギリスの道を辿っているのであろうか。

 面白いのは、この論文のトーンが、もっとストックを更新すべきだ、という主張にあることである。新築建設戸数が現状である(二〇万戸)とすれば、全住宅ストック数を更新するには百年かかる。実際には人口増があり、一〇〇〇年の間住宅は持たないといけない、という推計も示されている。それはオーバーとして、実質年間五万戸~一〇万戸のストックを更新していくとすれば二〇〇年~四〇〇年住宅は耐えねばならない。それではストックが良好に保てない、というニュアンスが強いのである。

 果たして、日本はどうすればいいか。先の『Re』の冒頭には、LCC(ライフ・サイクル・コスト)が日本に導入されて四半世紀になるけれど一向に普及しないという記事がある。LCCといっても、一〇〇年後になると予測不可能なことが多すぎる。住宅を建てる人にとっては自分が生きていない後のことまで考慮することはなかなか難しい。その方が安いといっても、長期的な視点は個人的には持ちにくいのである。住宅産業は林業に近くなると言えるであろうか。次世代を考えたサイクルが必要とされるのである。

 人の一生(ライフ)のスケールで考えた方が分かりやすい、という主張にも根拠がある、と思う。問題は、誰にとってメリットがあるのか、ローコストであるのかである。

 大きな枠組みとして共有できそうなのが、「地球環境問題」という枠組みなのであるが、果たして、住宅産業界でどのような供給システムがベストと言えるのか。LCCは、どのような前提で計算しうるのか。社会的合理性、日常的合理性のレヴェルで、住宅は何年の寿命を持てばいいのか。大きな理論が必要とされていると思う。


2023年2月27日月曜日

東南アジアのニュータウン、雑木林の世界84,199608

 東南アジアのニュータウン、雑木林の世界84,199608

雑木林の世界84

東南アジアのニュータウンー日本の衛星都市

 

布野修司

 

 国際交流基金アジアセンターの要請で、インドネシア科学院(社会科学人文系)の国際会議(ワークショップ)「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」に出席してきた(1996年6月23日~30日)。丸一週間の間、ジャカルタに滞在しながら、オランダ、フランス、オーストラリア、シンガポール、タイ、フィリピン、そしてインドネシアの参加者と東南アジアの都市、ニュータウンをめぐって議論した。考えさせられることの実に多いワークショップであった。

 

●「ポスモ」の森とカンポン

 ジャカルタは、今、急速に変わりつつある。シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風(ポスモ)の高層ビルが林立する。最近の超高層ビルは、すべてミラーグラスのカーテンウオールで頂部だけデザインされ(帝冠様式!あるいはニューヨーク・アールデコ!)、新しいジャカルタの都市景観を生み出している。

 その建築家はほとんどがアメリカ、イタリアなどの外国人だが、日本の設計事務所、ゼネコンもその新たな都市景観の創出に関わっている。

 一方、ホテルの窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポンの風景が拡がる。都心に聳える超高層の森と地面に張り付くカンポンの家々は実に対比的である。

 そして、ジャカルタのど真ん中、かってのクマヨラン空港の跡地で、今、ニュータウン開発が行われつつある。そして、郊外に様々なニュータウンが建設されつつある。強烈な印象を受けたのは、そのいずれとも日本は無縁ではないということである。

 

 ●日本の援助と都市開発

 会議では、二日目、第Ⅲセッション「東南アジアの都市計画」において、「地域の生態バランスに基づく自律的都市コミュニティ」と題して、たどたどしくしゃべった。阪神大震災の経験と日本のニュータウンの歴史と問題点を指摘した上で、カンポン型コミュニティモデルの重要性を力説したのである。手前味噌であるが、反応はかなりのものであった。少なくとも、多くの社会科学者やプランナーたちが僕の関心をそのまま受けとめて議論してくれた。しかし、問題は簡単ではなかった。

 矢のように次々と質問が飛んできた。地震で日本はどう変わったのか、東京についてはどう考えているのか。そして、最もシビアなのが日本が援助する都市開発のケースであった。

 クマヨラン空港のニュータウン・プロジェクトについて、「何故、日本の専門家チームのレポートはカンポンをクリアランスしろと書いたのか」というのである。また、「同じく日本の専門家の関わったクボン・カチャンの団地開発のケースをどう思うか」というのである。

 クボン・カチャンというのは、ジャカルタの中心地区、日本大使館のすぐ裏にあるカンポンで、クリアランスが行われ、倉庫のような団地が建った件である。これについては、当事者であった横堀肇氏の真摯な総括がある。ジャカルタで大きな議論になり、日本でも僕らが議論したのであるが、どれだけ知られているであろうか[i]1。

 

 ●ニュータウン・イン・タウン

 クマヨランのニュータウン・プロジェクトは、「都市の中の都市(タウン・イン・タウン)」計画として、また、既存のカンポンをクリアランスしないで、様々な社会政策と合わせて住宅供給を行う点で興味深いものであった。

 現場に参加者全員で見に行った。僕自身は二度目であった。最初の時はまだ建設当初でデザインの拙さだけが目についたのであるが、印象は一変した。実に生き生きと空間が使われている。一方で高級住宅がならび、日本の企業がそれを買い占めている一方で、カンポンのためのユニークな実験が行われていることは記憶されていい、と思った。

 

●日本のサテライトタウン

 次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。しかし、眼から火の出るような思いをさせられた。

 日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛んだ。「FUNO、これは日本のサテライト・タウンなのかい」。

 「直接、僕は関わっているわけではないのだよ」というのは簡単である。それぞれ同じような構造の中で生きているのである。しかし、そんなことは分かった上で、お前は何をしているんだという、そういう問いが共有されている。

 日本産業の空洞化の最先端がジャカルタのニュータウンにある。そして、それは様々な軋轢を生んでいる。

 インドネシアのニュータウン開発にあたっては「1:3:6」規則がある。住宅供給を高所得者層1:中所得者層3:低所得者層6にするというルールである。低所得者層向けの住宅はRSS(ルーマー・サガット・スデルハナ 簡易住宅)という。18㎡~36㎡のワンルームと60㎡の敷地の最小限住居である。ところがRSSはどこにも建設されていない。日本の工場で働く労働者はどこに住むのか。周辺のカンポンである。カンポンの人たちはRSSにも入ることはできないのである。

 ワークショップ参加者の視線を痛く感じるのは、余程の鈍感でなければ当然ではないか。安価な労働力を求めて生産拠点を移し、社会各層の格差を拡大する資本の論理の体現者が日本人なのである。雇用機会を与えるというのは全くの口実である。日本の企業などなくてもきちんと自律的に生活してきた地域が破壊されてしまう。ワークショップの議論は、インドネシアのニュータウン開発をめぐる問題が中心であったが、集中砲火を浴びているのは専ら日本なのである。言葉の不如意を理由に場を繕うのは実につらいことであった。






 


[i]1 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、一九九一年

 


2023年2月26日日曜日

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール、雑木林の世界85,199609

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール、雑木林の世界85,199609

 雑木林の世界85

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール

 

布野修司

 

 「職人大学構想」が急ピッチで展開しはじめた。KGS(財団法人 国際技能振興財団 本部 東京都墨田区両国二-一六-五 あつまビル5F                 )が設立されて半年になるのであるが、その活動が徐々に軌道に乗りだしているのがひしひしと伝わってくる感じである。

 七月二四日には、KGSの「ぴらみっど匠のひろば」(                )が滋賀県八日市市に設立され、そのオープニング・パーティーが一五〇〇人の参加者を集めて華々しく開かれた。驚くべきエネルギーである。

 アカデミーセンターに、ハウジングセンター、ぴらみっどイベントホールに巨大な実試験センター。すぐにでも使える立派な施設群である。もちろん、半年やそこらでこれほど立派な施設ができるわけはない。財団副会長であり、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)副理事長、小野辰雄日綜産業社長が私財を財団に提供する形をとったのである。その意気込みには頭が下がる。

 職人パスポートも創られた。年会費四八〇〇円で、教育(一日五〇〇〇円の助成)、施設(「ぴらみっど匠のひろば」の利用)、サービス(国内外ホテル、リクレーション施設利用割引)、クレジットカード(キャッシング・サービス)、安心保障(傷害保険、生命保険への自動加入)、仕事(斡旋、仲介)、登録(職人工芸士名鑑への登録)など七つの特典がある。数の強さ、集まることの力が生かされる仕組みである。

 自民党を中心にした国会議員の諸先生の意気込みもすごい。職人大学設立促進議員連盟が一五〇名もの議員を要して結成され、この九月にはマイスター制度の視察に一〇人もの国会議員がヨーロッパへ出かけることになっている。「ぴらみっど匠のひろば」のオープニングには、八日市出身と言うことで、武村正義新党さきがけ代表も見えた。ドイツに留学経験があるということで、マイスター制度には随分造詣が深そうであった。

 さて、一方、どういう大学にするかも具体化しなければならない。理念は固まりつつあるのであるが、具体的な組織固めを始めなければならないのである。また、職人大学の理念がすんなりと既存の制度の枠内に収まるかどうかは予断を許されない。様々な紆余曲折が予想されるところである。

 「ぴらみっど匠のひろば」をどう使うかも大きなテーマである。とりあえず、ピーター・ラウ(建築家 ヴァージニア州立工科大学副教授)氏が、アメリカの大学の学生を日本に招いて木造の建築技術を学ぶプログラムを決定したのであるが、急いで全体計画を立てる必要がある。一週間程度の短期学習を積み重ねて、やがて恒常化していく必要がある。もっと重要なのは、地域との連携である。地域の優れた職人さんたちの技を学ぶ場を設定したいと考えている。また、木匠塾との連携も大いに追求したいと思っている。

 今年の木匠塾のインターユニヴァーシティー・サマースクール(第六回)は、去年に引き続いて、高根村と加子母村の二カ所で、七月三〇日~八月一〇日の間、開かれた。二カ所になり期間も長くなったのは、参加人数が多くなり、それぞれのグループ毎に独自のプロジェクトが展開され始めたからである。

 東西の学生が出会うメリットが失われることが危惧されるが、今年に限っては全く問題はなかったように見える。各大学の幹事が密に連絡を取り合い、見事な連携を見せたからである。学部大学院と二年三年木匠塾へ来てくれる学生が上下を繋げてくれるのも大きい。

 高根村の「日本一かがり火まつり」(毎年八月の第一土曜日 今年一〇回目)は魅力的である。今年は、京都造形大学と大阪芸術大学が屋台を出した。また、東洋大学、千葉大学、芝浦工業大学の東京組も、その日高山見学などを組み入れて、かがり火まつりの会場に集結してきた。翌日は、加子母村での懇親スポーツ大会で、翌々日のプレカット工場等の見学が共通プログラムである。

 加子母村では、高根村と同じように営林署の二棟の製品事業所の改装が今年は開始された。宿泊施設として使うためである。製品事業所のある渡合地区はすばらしいキャンプ場として整備されつつあるのであるが、電気の設備がない。自家発電装置が必要なのであるが、電気のない自然の中で暮らす経験も木匠塾の第一歩である。

 前にも記したことがあるのであるが、まず問題となるのが虫である。今年は蛾の類の虫の異常発生とかで、夜はたまらない。油断していると口の中に飛び込んできたりする。初めて木匠塾に来るとびっくりするのであるがすぐなれる。また、魚釣りをしたことのない学生が多いのに驚く。それだけ日本から自然が失われているというべきか。嬉々として魚釣りに興じる学生の顔を見ると、複雑な心境になる。とにかく、自然に触れるのは貴重な経験なのである。

 京都大学グループは、三年がかりの登り釜を完成させた。去年は素焼き止まりであったが、今年は釉薬を塗って素晴らしい焼き上がりとなった作品ができた。釜の構造も補強し、ほぼ恒久的に使えるようになった。素人がつくった釜でも一応使えるのが確認できたのは大収穫である。

 もうひとつのプロジェクトは、斜面への露台の建設である。清水の舞台、懸け造りとはとてもいかない。丸太を番線で緊結するプリミティブな手法だ。番線とシノの扱い方は、ロープ結びと並ぶ木匠塾の入門講座である。

 他のグループのプロジェクトは完成を見ていないからその全容はわからない。京都造形大学は、昨年の原始入母屋造りを山の斜面に向かって増築していく構えで、草刈り機をつかっての地業に余念がなかった。大阪芸術大学は、念願の風呂をつくるということで準備ができていた。継続的に、ものが出来ていくのは楽しいことである。

 バンガローの設計組立は、来年になりそうであるが、東洋大グループは、昨年のゲルを改良して移動住居として立派に使っていた。創意工夫もものをつくる源泉である。

 職人大学構想は大反響である。方々の自治体から誘致したいとの声がある。しかし、そんなに簡単なことではないということは、木匠塾の経験からもわかる。とりあえず、条件の整うところから、やっていくしかない。走りながら考えるのみである。

 

2023年2月25日土曜日

日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

 日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

雑木林の世界83 

日本のカンポン

布野修司

 

 不思議なつながりから、大阪の西成地区のまちづくりのお手伝いをすることになった。西成地区と言えば、全国でも有数の「寄せ場」釜ケ崎がある。まちづくりの対象地区は、その西、西浜地区を中心とする日本でも有数の被差別部落(全国最大の都市部落)だった地区である。「大阪市総合計画21」にもとづいて西成地区のまちづくりが本格的に開始されることになったのである。

 同和地区のまちづくりについては、東洋大学の内田雄造先生とそのグループが多くの実績を挙げている。東洋大学時代に、その側にいて、色々教えを乞うたのであるが、同和地区のまちづくりについては、お手伝いする機会はなかった。今回も真っ先に相談するところなのであるが、関西のことでもあり、まずははじめてみようというところである。いささか心許ないけれど、後ろに内田先生がいると思うと心強い。いろいろと教えて頂くことになるであろう。

 まずは二日にわたって地区内を歩いた。とにかく地区を知らなければ話にならないであろう。まちづくりの方針もフィールドの中からいろいろと得ることができるのである。

 歩き出すとすぐにわくわくしてきた。まちの雰囲気がインドネシアのカンポン(都市内集落)に似ているのである。僕が親しいスラバヤのカンポンは平屋が主体で、もちろん、佇まいは異なるのであるが、ぎっしりと建て詰まり、路地の細さや曲がり方が似ているのである。

 いろいろな店が町中に点在しているのも似ているし、人が多くて活気のあるのもいい。そして、コミュニティがしっかりしているのがわかる。解放同盟の組織、町会や民生委員の区割り図が方々に掲げられている。そして、街区の中には地蔵堂が点々とある。

 調査は、いわゆるデザイン・サーヴェイである。まず歩いて、建築形式(階数、構造、建築類型など)、施設分布、井戸や地蔵堂などの分布、植木や看板・消火栓・自販機など外部空間を地図上にプロットしていくのである。インドネシアでもインドでも台湾でも同じように調査をするのであるが、まちを身体で理解するには歩き回るにしくはない。今回は述べ四〇人ほどが参加したであろうか。調査をもとにいろいろと気づいたことを議論するのが調査の醍醐味である。

 地区の歴史は、『焼土の街からー西成の部落解放運動史』(部落解放同盟西成支部編 一九九三年)にまとめられている。また、その歴史については、『大正/大阪/スラム』(杉原薫・玉井金五編 新評論 一九八六年)の「第三章 都市部落住民の労働=生活過程ー西浜地区を中心にー」が詳しい分析を行っている。後者の本は、以前書評したことがあったのであるが、再読することになった。もちろん、読むべき文献は「都市部落の生成と展開ー摂津渡辺村の史的構造ー」(中西義雄 『部落問題研究』4号 一九五九年)など数多い。地区を知るには文献研究も不可欠である。

 しかし一方で、早急にまちづくりの方針を定めなければならない。いくつかの具体的なプロジェクトは動きだそうとしているのである。まず、大きなテーマとなるのは住環境整備である。反射的に思ったのは、地区のコミュニティの構造を大きく崩さずに再開発することができないか、ということである。

  地区を歩いていると、改良住宅に建て替えられた地区が何故か寂しく活気がない。一階など有刺鉄線で囲われたりして、閉鎖的である。既存の活気ある街区がそうなるのは大問題である。

 既にカンポンで考えたことだ。共用空間を最大限に取り、店などを組み込んだ都市型住居をここでも実現すべきだ。単身の老人も多いことからケア付きのコレクティブ・ハウジングも考えられてよい。

 また、道路が拡幅されて街が分断されるという問題がある。そこには街の核となる施設が必要ではないか。芸人が育った街であり、若い芸人の登竜門となるような演芸場をつくったらどうだという話が出だしている。また、職人が多いのだから、職人大学もいいんじゃないか。皮革産業を基盤としてきたことから「靴の博物館」の構想もある。

 もちろん、施設計画だけではない。ソフトな仕組みを含めて日本で最先端のまちづくりをしようという意気込みが解放同盟に満ちている。同和地区のまちづくりが先進的なのはまちづくりの主体がしっかりしているからである。

 解放同盟は、大阪市に対する一〇〇項目の具体的要求をまとめつつある。街づくり政策、住宅政策、道路・交通・環境政策、教育・保育政策、福祉・健康政策、産業・労働政策、人権・啓発政策に分けられているが、その全体構想は壮大である。というより、まちづくりは総合的なアプローチが不可欠であり、個々の要求項目をどう相互関連のもとに総合的に実現するかが問われるのである。

 西成地区まちづくり委員会の育成と法人化、街づくり会館の建設、ボランティア活動支援センターの設置等々、まちづくり運動の拠点となることが目指されている。

 また、地区内はすべてバリアフリーとする、そうした障害者にやさしいまちづくりをめざすことが目指されている。

  さらに、マルティメディア利用など、最先端の技術をビルトインしたまちづくりが目指されている。

 要するに、日本一のまちづくりが目標なのである。日本一遅れていたが故に、それは可能なのだ


2023年2月24日金曜日

明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606

 明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606


雑木林の世界82

明日の都市デザインへ

布野修司

 

 (財)国際技能振興財団(KGS)の設立総決起大会(四月六日)は大盛会であった。現職大臣四名と元首相、国会議員が秘書の代理も合わせると三十有余名、住専問題で大変な国会の最中にも関わらずの出席であった。職人一二〇〇名の大集会というのは、大袈裟に言えば戦後、否、近代日本の歴史になかったことではないか。職人大学の実現に向けての動きもさらに加速されることになる。

 KGSには評議員で参加することになったのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は全面的にKGSを支えて行くことになる。

 KGSの最初の仕事はスクーリングである。茨城で六月二日から一週間の予定だ。茨城は、ハウジングアカデミーで親しい土地柄である。第一回のスクーリングが茨城となるのも何かの因縁であろう。

 茨城ハウジングアカデミーも参加してきた木匠塾は、SSF、KGSの動きと連動しながら今年も準備中である。加子母村(岐阜県)にウエイトを移しながら、また、学生の自主性にウエイトを移しながら、新たな展開が期待される。バンガローの建設など実習プログラムに村は全面協力の姿勢である。

 

 去る四月二四日、「明日の都市デザインへ」と題した三和総合研究所(大阪)の「都市デザインフォーラム」に参加する機会があった。『明日の都市デザインへーーー美しいまちづくりへの実践的提案』という報告書がまとまり、コメントして欲しいということで出かけたのである。

 「都市デザインへの提案~アーバン・アーキテクト制をめぐって~」ということで、景観問題について、昨年の全国景観会議(一九九五年九月 金沢)の際の基調講演とそうかわらない話でお茶を濁したにすぎないのであるが、報告書そのものはなかなかに刺激的であった。というのも、その報告書の中には全国の景観行政、都市デザイン行政の様々な取り組みが集められているからである。理念や条例やマニュアルよりも様々な試行錯誤が興味深いのである。

 例えば、景観資源に関する調査として、「校歌に歌われる山、川」を調べたり、言葉のアクセントの分布を明らかにした例がある(栃木県)。市街地における湧水の分布を調べたり(八王子市)、海からの景観把握を試みたり(下関市)、必ずしもマニュアルに従ってワンパターンというわけではないのである。

 景観行政は、あるいは景観問題へのアプローチはまずデザイン・サーベイからというのは持論である。「タウン・ウオッチング」でも「路上観察」でも、身近な環境を見つめ直すことが全ての出発点であり得る。

 先の報告書は、実践的都市デザインの提案として、一連のプロセスを提示している。

 『建築・街並み景観の創造』(技法堂)をまとめた段階では極めて素朴であった。具体的内容は著書に譲りたいけれど、「景観形成の指針ー基本原則」として、地域性の原則、地区毎の固有性、景観のダイナミズム、景観のレヴェルと次元、地球環境と景観、中間領域の共有といったことを考え、景観形成のための戦略として、合意形成、ディテールから、公共建築の問題、景観基金制度などを検討してきたにすぎない。しかし、報告書は豊富な事例とともに大きなフレームを提示してくれている。大助かりである。実践的提案の部分を具体的に紹介しよう。

 全体のプロセスは、意識醸成→企画・計画→実践→評価→という螺旋状のプロセスとして想定されている。各プロセスのポイントは以下のように整理される。

 

Ⅰ 意識醸成         

  ①デザイン・サーベイの実施

 ②行政主導のコンセンサスづくり:住民参加型都市デザインの誘導

 ③キーパーソンの発掘と育成

 ④戦略的情報発信

Ⅱ 企画・計画           

  ①コンテクストを生かしたデザイン計画

 ②インセンティブの付与

 ③すぐれたデザインを誘発する発注方式

 ④デザイン誘導しやすい事業手法

Ⅲ 実践       

  ①デザインをコーディネートする「人」:アーバン・アーキテクト制度

 ②デザインと意志決定のオープンシステム

 ③行政のイニシアチブとデザイン誘導

 ④建築と環境のコラボレーション

 ⑤地域特性やデザインの目的に合致した「アート構築物」のデザイン

 ⑥技術の伝承とクラフトマンシップの再認識

 ⑦工業製品の活用と「固有性」への対応

Ⅳ 効果           

  ①評価

 

 こうして項目だけ並べても伝わらないのであるが、それぞれに具体的な事例をもとにしたアイディアの提案があるわけである。実践的提案を唱うそれなりの自負がそこにはある。このシナリオ通りに都市デザイン行政あるいは景観行政が動いて行けば日本の都市(まち)づくりは面白い展開をしていく可能性がある。少なくとも様々なヒントがある。

 ただ、最終的に問題になるのはこのシステムを動かしていく仕組みである。上で言う、「人」の問題である。あるいは、行政と住民との関係の問題である。都市デザインに関わる意志決定システムをどう具体化するかである。

 地方自治の仕組み全体に関わるが故にその仕組みの提案は用意ではない。しかし、報告書は面白い海外の事例をあげている。

 シュバービッシュ・ハル市には、二人の副市長がいて一人は建築市長なのだという。また、ミュンヘン市にはアーバン・デザイン・コミッティーがあって、デザインの調整を行っているという。構成メンバーは、フリーの建築家四人、都市計画課職員三人、建築遺産課職員一人、州の建築遺産課職員一人の八人で三年毎にメンバーを入れ替えていく。権威主義的なメンバーは排除されるのだという。

 日本の風土の中でアーバン・アーキテクト制はなかなか動かない。しかし、百の議論よりひとつの事例は変わらない指針である。

 






2023年2月21日火曜日

台湾紀行,雑木林の世界81,住宅と木材,199605

 台湾紀行,雑木林の世界81,住宅と木材,199605


雑木林の世界82

台湾紀行

布野修司

 

 中央研究院台湾史研究所と台湾大学建築輿城郷研究所での特別講義に招かれて台湾に行って来た(三月一六日~二六日)。折しも、台湾は総統選(二三日投票日)の渦中にあった。わずか十日ほどの滞在であったけれど、つぶさに総統選の様子を見聞きすることになった。

 中央研究院での講義は、中央研究院が今後東南アジア研究を展開する上で色々示唆を受けたいということで、「東南亜都市與建築之最新研究動向」と題して、具体的には、バタビア、スラバヤ、チャクラヌガラという三つの都市の歴史について話した。知られるように、オランダは、バタビア建設に取りかかった一七世紀前半、平行して、台湾でゼーランジャ城、プロビンシャ城の建設を行っている。その都市計画の比較は興味深いテーマだと思ったのである。オランダ研究の専門家から鋭い指摘を頂いたり、随分刺激的であった。また、文献も随分整理されつつあることを知った。

 台湾大学建築輿城郷研究所では、「東南亜伝統民居」と題して、多くのスライドを使って様々な比較の視点について議論した。前日、九族文化村に出かけて、アミ、ヤミ、ブノンなどの九族の民家をじっくりみてきた。ブノン族などの石造りの家は、東南アジアの他の地域ではちょっと見かけないものだ。講義は、台湾の伝統的民家をオーストロネシア世界全体から見るとどうなるかを考えるのが主眼になった。

 講義ということでは、台湾工業技術学院でも行うことになった。大学院時代の同僚で、今や台湾の都市計画学会の重鎮である黄世孟教授(台湾大学)のお弟子さんで日本への留学経験のある李威儀先生に頼まれたのである。幸いこうゆうこともあろうかともう一本用意していたので、「東南亜集合住宅」と題して様々なハウジング・プロジェクトを紹介することにした。

 後は、研究室の闕銘宗君と田中禎彦君と台湾発祥の地、  (ばんか)地区を歩き回った。廟について論文を書こうとしている闕銘宗君を手伝おうというのである。調査は、基本的にはインドネシアのカンポンでやったのと同じである。建築の類型を見分けながら、各種施設をベースマップの上にプロットしていくのである。調査は常に様々な発見があり、疲れるけれど楽しい。また、実際に見聞きしながら文献を読むとよく頭に入る。

 中国の軍事演習でミサイルが飛び交うなど政治的緊張が予想されたが、市民はいたって平静であった。選挙戦はお祭り騒ぎで、人々はむしろ楽しんでいる雰囲気すらある。各党の集会にも顔を出してみたが、家族連れも多く、旗や帽子、警笛など様々な選挙グッズが売られ、各種屋台も並んで縁日の趣もあった。

 各党の主張の背後には、複雑な台湾社会の歴史があるが、それぞれの主張はわかりやすい。大学や研究所でも、タクシーの運転手さんも、はっきりとどの候補を支持するか意見を述べるのも印象的であった。

 台湾には、司馬遼太郎の『台湾紀行』(朝日新聞社)を携えて行った。李登輝総統との対談を含むその著作は選挙戦でも話題にされる程、台湾という国家を深く問うものである。司馬遼太郎が存命であれば、総統選について必ず何らかの鋭いコメントをしたであろうと思う。例によって、台湾に関するほとんど全ての文献に眼を通した上での力作である。

 司馬遼太郎の『台湾紀行』には、楊逸詠夫妻が登場する。楊逸詠先生(台湾文化大学)も、黄世孟先生と同じ頃東大の内田祥哉研究室に在籍されていていわば同級生である。楊夫人は、台湾きっての日本語通訳で司馬遼太郎の台湾紀行のために白羽の矢が当たったのだという。一晩、御夫妻と会って旧交を温めることができた。

 投票日は、午後四時の締切りと同時にその場で開票が行われた。「二号 李登輝一票」などと読み上げる声とともに「正」の字が書かれていく。我らの調査地区である  は下町で、台湾独立を主張する民進党の支持者が強いと言われていたのであるが、李登輝の中国国民党とは確かにデッドヒートであった。開票の様子を住民たちが取り囲んで見る。臨場感満点である。日本の選挙文化との違いを否応なく感じさせられたのであった。

 ところで、こうして民主化の速度をはやめてきた台湾で、「社区総体営造」あるいは「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったことは前に触れた(雑木林の世界  )。繰り返せば、「社区」とは地区、コミュニティのことだ。そして、「社区総体営造」とはまちづくりのことだ。「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなりつつあるのである。

 「社区総体営造」を仕掛けているのは、行政院の文化建設委員会であるが、幸い、その中心人物である陳其南氏、台北市でモデル的な運動を展開中の陳亮全氏(台湾大学)に、黄蘭翔氏(中央研究院)とともに会い議論することができた。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。何故、「社区総体営造」なのかに関して陳其南氏に詳しく聞いた。基本的に移民社会をベースとする台湾では、漢民族の家族主義が強いこともあって、コミュニティ意識が希薄である。まちづくりを考える上では、どうしてもその主体となるコミュニティの育成が不可欠であるという認識が出発点にあるのである。

 清朝に遡って、伝統的なコミュニティのシステムはもちろんある。村廟を中心にした伝統的な組織システムは、現在でも農村部では生きている。しかし、それに選挙で首長を選ぶシステムが重層する形で設けられており、コミュニティに求心力がない。中国国民党の党のシステムも戦後持ち込まれた。

 十日の間、  地区に泊まって時間があれば地区を歩き回ったのであるが、里、そしてその下位単位である隣は、ほとんど意識されていないのである。かってコミュニティの核であった廟がここそこにあるけれど、まとまりは失われつつある。

 こうした地区で「社区総体営造」はどのように展開できるのか。台湾の友人たちとともに考え始めたところだ。

 






2023年2月19日日曜日

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604

 職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604


雑木林の世界80

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在

 

布野修司

 

 職人大学の設立を目指し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の社会的地位の向上を願うサイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の結成とそのスクーリングなどの活動については本欄でも何回か紹介してきた(雑木林の世界        )。その結成は一九九〇年一一月。もう六年目に入る。ようやく、具体化への道筋が見えかかってきたような気がしてきた。以下にSSFの現在を報告したい。

 「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった。見るともなく見ていた参議院での総括質問のTV中継で「職人大学」という言葉が耳に飛び込んできた。村上正邦議員の質問に、橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。いささか驚いた。今まで興味もなかった急に国会が身近に感じられたのも変な話であるが、橋本首相の国会答弁は、SSFの活動がこの間大きな広がりを見せつつあるひとつの証左である。

 産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。

 簡単に言えば、村上議員の質問は以上のようであった。もちろん、膨大な質問の一部であるが、日本の産業構造、教育問題、社会の編成に関わる問題として「職人大学」というキーワードが出された印象である。考えて見れば誰にも反対できない指摘であろう。「興味をもって勉強させていただきます」というのは当然の答弁であった。

 SSFのこの間の活動は、スクーリングを主体としてきた。佐渡に始まり、宮崎の綾町、柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町と五回を数え、茨城県水戸で六回目を準備中だ。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、SSF理事企業と地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきている。

 大学をつくるということが、如何に大変なのかは、大学にいるからよくわかる。そして、大学で教員をしながら大学をつくろうとすることには矛盾がある。シンポジウムなどでいつも槍玉に挙げられるのであるが、何故、今いる大学でそれができないのか、それこそ大きな問題である。

 言い訳の連続で答えざるを得ないのであるが、国立大がであろうと私立大学であろうと、職人を育てる教育をしていないことは事実である。それを認めた上で、現場を大事にする、机上の勉強ではなく、身体を動かしながら勉強するそんな大学はどうやったらつくれるか、それが素朴な出発点である。

 居直って言えば、偏差値社会の全体が問題であり、職人大学をつくることなど一朝一夕でできるわけはない。少しづつ何かできないかとお手伝いしてきたのである。

 本音を言えば、スクーリングを続けていくこと、それが職人大学そのものへの近道であり、もしかすると職人大学そのものなのだ、という気がないわけではない。

 可能であれば、文部省だとか労働省だとか建設省だとか、既存の制度的枠組みとは異なる、自前の大学をつくりたい、というのがSSFの初心である。できたら、自前の資格をつくり、高給を保証したい、それがSSFの夢である。

  しかし、そうした夢だけでは現実は動かない。また、この問題はひとりSSFだけの問題ではないのである。日本型マイスター制度を実現するとなると、それこそ国会を巻き込んだ議論が必要である。

 この間、水面下では様々な紆余曲折があった。五五年体制崩壊と言われるリストラクチャリングの過程における政界、業界の混乱に翻弄され続けてきたといってもいい。

 SSFの結成当時、バブル全盛で、職人(不足)問題が大きくクローズアップされていた。SSFを支えるサブコン(専門工事業)にも勢いがあった。しかし、バブルが弾けるといささか余裕が無くなってくる。職人問題などどこかへ行きそうである。SSF参加企業のみなさんにはほんとに頭が下がる思いがする。後継者育成を社会的なシステムとして考えるコモンセンスがSSFにはある。

 筆を滑らせれば、「住専問題」などとんでもないことである。紙切れ一枚で、何千億を動かすセンスのいいかげんさには呆れるばかりである。現場でこつこつと物をつくる人々をないがしろにするのは心底許せないことである。

 大手ゼネコンにもこの際言いたいことがある。ゼネコンは一貫してSSFに対して冷たい。ゼネコン汚職の顕在化でゼネコンの体質は厳しく問われたけれど、重層下請構造は揺らがないようにみえる。ゼネコンのトップが数次にわたる下請けの構造に胡座をかいて、職人問題、職人大学問題に眼を瞑ることは許されないことである。末端の職人問題については、それぞれの企業内の問題として関心を向けないゼネコンは身勝手すぎるのではないか。SSFの会議では、しばしばゼネコン批判が飛び出す。

 そうした中で、SSFとKSD(全国中小企業団体連合会)との出会いがあった。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。職人大学も全産業分野をカヴァーすべく、その構想は必然的に拡大することになったのである。

 全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDには全国中小企業八〇万社を組織する大変なパワーを誇る。

 SSFには、マイスター制度や職人大学構想に関する既に五年を超える様々なノウハウの蓄積がある。KSDのお手伝いは充分可能であるし、まず、最初は建設関連の職人大学を設立しようということになった。

 その後、様々な動きを経て、財団設立が認可され、その設立大会(一九九六年四月六日)が行われようとしているのが現在である。もちろん、SSFと財団の前途に予断は許されない。ねばり強い運動が要求されているのはこれまで通りであろう。

 


2023年2月18日土曜日

都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

 都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

雑木林の世界78 

都市(まち)の記憶 風景の復旧:阪神淡路大震災に学ぶ(2)

布野修司

 

 阪神淡路大震災から一年が経過した。

 大震災をめぐっては、多くの議論がなされてきた。僕自身、被災度調査以降、A市のHS地区の復興計画に巻き込まれながら、そうした議論に加わってきた。参加したシンポジウムもかなりになる。

 そうした中で印象に残るのが、「都市(まち)の記憶 風景の復旧」と題した建築フォーラム(AF)主催のシンポジウムである(一九九五年九月八日 新梅田スカイビル)。磯崎新、原広司、木村俊彦、渡辺豊和をパネラーに、コーディネーターを務めた。千人近くの聴衆を集めた大シンポジウムであった。全記録は、『建築思潮』第4号(学芸出版社)に掲載されているからそれに譲りたい。

 印象に残っている第一は、磯崎新の「まず、全てをもとに戻せ」という発言である。震災復興で何かができるのであれば、震災が来なくてもできるはずである。震災だからこの際できなかったことをという発想には大きな問題があるという指摘である。

 見るところ、大震災によって、都市計画の大きなフレームは変わったわけではない。特別な予算措置がなされるわけでもない。それにも関わらず復興計画に特別な何かを求めるのはおかしいという指摘である。それより、即復旧せよ、というのである。同感であった。

 第二に印象的だったのは、原広司の「都市の問題は住宅の問題だ」という指摘である。基幹構造に多重システムがない等の都市の構造の弱点は、個々の住宅の構造に自律性がないせいである、という。要するに、都市と住宅の構造的欠陥が大震災で露わになったのである。これまた、同感であった。

 A市のHS地区のこの間の復興計画立案の過程を見ていても、上の二つの指摘は鋭いと思う。阪神大震災によって何が変わったかといっても、そうすぐ変わるわけがない。火事場泥棒宜しくうまくやろうといってもそうはいかない。結局、何も本質的なことは動いていない、というのが実感である。

 A市は激震地から離れているけれど、かなり被害を受けた地区がある。震災復興計画として決定された地区は五地区あり、HS地区は、そのひとつである。「文化住宅」の密集地区で、   世帯ある。

 住民のグループから以来を受け、ヴォランティアとして、地区住民の主体性を尊重しながら、できることを援助しようというスタンスで関わっているであるが、この間の経緯は呆然とすることの連続である。特に、行政の傲慢とも見える対応はあきれるほどだ。そうでなくても世代や収入、地区へのこだわりを異にする人々が一致して事業に当たることは容易ではない。権利関係の調整は難しいし、時間もかかる。行政と住民との間で、また住民相互の間で様々な葛藤が生まれ、軋轢が露呈する。剥き出しのエゴがぶつかりあう。まとめるのは至難のわざである。

 ただ、HS地区はそれ以前である。それなりのプロセスにおいて復興計画を研究室でつくったのであるが、ワークショップが開けない。行政当局は邪魔者扱いで、支援グループを排除するのを都市計画決定の条件にする。とんでもない話である。予め線を引いて、要するに案をつくって、住民に認めるか認めないか、という態度である。そういう傲慢かつ頑なな態度で住民がまとまるわけがない。住民組織も疑心暗鬼で四分五裂である。

 「疲れた、もう止めた」、懸命に阪神・淡路大震災の復興計画に取り組む建築家、都市計画プランナーから苦渋の本音が漏れ出しているのはよくわかる。行政当局のやりかたにも相当問題がある。A市にはT地区のように区画整理事業をスムーズに進めている地区もあるから一概に言えないのであるが、一般に住民参加といっても、そういう仕組みもないし、トレーニングもしていないのである。

 自然の力、地区の自律性の必要、重層的な都市構造の大切さ、公園や小学校や病院など公共施設空間の重要性、ヴォランティアの役割、・・・・大震災の教訓について数多くのことがこの一年語られてきた。しかし、大震災の教訓が復興計画に如何に生かされようとしているのか、大いに疑問が湧いてくる。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか。それ以前に何も動いていないのである。

 阪神・淡路大震災によって一体何が変わったのか。大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。震災後二ヶ月経つと、特にオウム真理教の事件が露になって、被災地以外では大震災は忘れ去られたように見える。大震災の最大の教訓は、もしかすると、震災の体験は必ずしも蓄積されないということではないのか、と思えるほどだ。

  しかしもちろん、その都市や建築のあり方について与えた意味は決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。日本の都市のどこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。そうした意味では、大震災のつきつける基本的な問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。震災の教訓をどう生かしていくのかは、日本のまちづくりにとって大きなテーマであり続けている。

 今度の大震災がつきつけたのは都市の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にみたのは滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つである。都市が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないはずである。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市のあり方へと結びついていかねばならない。そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるは大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。ただそれは、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、どう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 


2023年2月17日金曜日

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603 

雑木林の世界79

社区総体営造・・・台湾の町にいま何が起こっているか

布野修司

 

 毎月第三金曜日はアジア都市建築研究会の日である。昨年四月に準備会(山根周 「ラホールの都市空間構成」)を開いて、この一月の会で七回目になる。小さな会だけれど、研究室を越えた、また大学を超えた集まりに育ちつつある。各回の講師とテーマを列挙すれば以下のようだ。

 第一回 宇高雄志 「マレーシアにみた多民族居住の魅力」(一九九五年五月)

 第二回 齋木崇人 「台湾・台中の住居集落」(六月)

 第三回 韓三建 「韓国における都市空間の変容」(七月)

 第四回 沢畑亨 「ひさし・植え込み・水」(一〇月)

 第五回 牧紀男・山本直彦 「ロンボク島の都市集落住居とコスモロジー」(一一月)

 第六回 青井哲人 「「東洋建築」の発見・・伊東忠太をめぐって」(一二月)

 第七回 黄蘭翔 「台湾の「社区総体営造」」(一九九六年一月)

 ここでは最新の会の内容を紹介してみよう。

 台湾の「社区総体営造」とは何か。なかなかに興味津々の内容であった。

 講師の黄蘭翔先生は、昨年まで研究室で一緒であったのであるが、逢甲大学の副教授を経て、現在は台湾中央研究院台湾史研究所の研究員である。都市史、都市計画史の専門であるが、台湾へ帰国してびっくりしたというのが「社区総体営造」である。

 「社区」とは地区、コミュニティのことだ。社区という言葉は必ずしも伝統的なものではない。行政の組織ということであれば保甲制度がある。そして、「社区総体営造」とは平たく言うとまちづくりのことだ。台湾ではいま「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったという。「経営大台湾、建立新中原」(偉大な台湾を経営しよう、新しい中国の中心を創り出そう)「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなっているという。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。行政機関の役割は考え方の普及、各社区の経験交流、技術の提供、部分的な経費の支援のみである。最初のきっかけとしてモデル事業を行うこともある。

 社区毎に中、長期の推進計画が立てられる。社区の役割は住民のコンセンサスを得て、詳細の完備した地区の設計計画を立て、同時に資金の調達計画、経営管理計画を立てることが期待される。

 「社区総体営造」の目的は、単なる物理的な環境の整備ではなく、社区のメンバーの参加意識の養成であり、住民生活の美意識を高めることである。「社区総体営造」は社区をつくり出すのみではなく、新しい社会をつくり出し、新しい文化をつくり出し、新しい人をつくり出すことである。

 「社区総体営造」を推進しているのは行政院文化建設委員会(略して文建会)である。権限が全く違うから比較にならないけれど、日本でいうと文化庁のような機関である。「社区総体営造」政策が開始されてまだ三年なのであるがすごい盛り上がりである。

 具体的に何をするかというと、次のようなことが挙げられる。

●民族的イヴェントの開発

●文化的建造物がもつ特徴の活用

●街並みの景観整備

●地場産業の文化的新興

●特有の演芸イヴェントの推進

●地方の歴史や人物を展示する郷土館の建設

●生活空間の美化計画

●国際小型イヴェントの主催

 それぞれの社区は独自の特性を生かしてまずひとつの項目を推進し、徐々に他の項目に広げていくことが期待されている。現在、一二項目のプロジェクトが推奨プロジェクトとしてまとめられている。

 黄蘭翔先生は、「社区総体営造」の背景と文建会の施策の概要を説明した後、三つの事例をスライドを交えて報告してくれた。

 台中理想国、嘉義新港、宣蘭玉田の三地区の例であるが、それぞれ多様な展開の例であった。政策展開としては三年ということであるが、それ以前からいろいろなまちづくりの試みが自発的に起こっていたのである。

 理想国というのは、その名を目指して造られた民間ディベロッパーの計画住宅地であったが、総戸数二〇〇〇戸のうち入居率が三〇パーセントというありさまでスラム化していた。その団地をリニューアルする試みが供給業者の主導のもとにこの十年展開されてきた。ペンキでファサードを塗り直す「芸術街坊」をつくることから、警備体制を整えたり、市場を改装してショッピング・センターをつくったり、幼稚園などの公共施設の整備したり、生き生きとした街に再生していく様がスライドからも伝わってきた。

 嘉義新港の場合は、陳錦煌というお医者さんがリーダーである。苦学して台湾大学付属病院の医師となった陳氏が帰郷し、医療活動をしながらまちづくりに取り組むのである。具体的には「新港文教基金」が設立され、息長い文化芸術イヴェントが展開されている。

 宣蘭玉田のケースは、文建会主導によるモデルケースである。きっかけは全国文芸祭であったという。全国的な文芸祭を行うに当たり、まず地区を見つめる作業が行われた。具体的には、フィールド・ワークによる地方史の編纂や環境調査である。そしてその過程で、社区の文化を産業化する方法が模索された。そして、文芸祭に当たっては様々なアイディアが出され、実効に移された。お年寄りの伝統技能を用いて竹の東屋が建設されたりしたのである。 

 詳細には紹介しきれないけれど、台湾の新たなまちづくりはおよそ以上のようだ。誤解を恐れずに言えば、HOPE計画あるいは村おこし、町おこしの台湾版である。事実、「社区総体営造」の立案者は日本の事例に学んだのだという。CBD(コミュニティ・ベースト・ディベロップメント)の理念が基本に置かれているのは間違いない。 

 「建立新故郷」、「終身学習」を理念とする「社区総体営造」が施策として展開される背景には、台湾の置かれている内外の関係があるであろう。しかし、その方法には相互に学ぶべき多くのことがあるというのが直感である。 




2023年2月14日火曜日

80年代とは何だったのか、雑木林の世界77,199601

 80年代とは何だったのか、雑木林の世界77,199601

雑木林の世界77 

80年代とは何だったのか

布野修司

 

 第3回かしも木匠塾が開かれた(一九九五年一一月二五日 岐阜県加子母村 雑木林の世界     参照)。今回は、エコ・ミュージアム構想、森林研修センターの全体計画、バンガローの設計案を持ち寄って、地域のまちづくりを考えるのがテーマであった。東洋大学、千葉大学、芝浦工業大学、京都造形大学、大阪芸術大学、京都大学の学生たちがそれぞれの案を模型やパネルにして参加し、村の人々の意見を求めた。「木匠塾」とは一体何か、何をやろうとしているのか、地域にとってどんなメリットがあるのか、どういう交流が考えられるのか等々、素朴かつ本質的な疑問も出され、議論は前二回以上に白熱したものとなった。村の事情も具体的に説明され、いくつかの困難な事情も明らかになった。相互の理解は深められたと思う。議論は積み重ねるものである。イヴェント的関係から、より粘り強い関係への一歩が踏み出されようとしている、そんな感想をもった。学生たちの大半は、村営のバンガローに泊まり込み、一晩、特にバンガローの設計についてお互いの案の相互批評を行い、実現への夢を膨らませることになった。学生主体にプロジェクトを運営できたらユニークなものができるのではないか、と思い始めている。

 

 昨年暮れ、相次いで、インタージャンルにテーマをつなぐシンポジウムに出席する機会があった。ひとつは、BESETO(ベセト)演劇祭のシンポジウムで「リアルとは何か・・・同時代の表現をめぐって」と題されたシンポジウムである。もうひとつは、「一九八〇年代の表現領域ーーー八〇年代とはなんだったのか?」と題された武蔵野美術大学の「武蔵野美術」創刊一〇〇号記念シンポジウムと銘打たれたものである。ベセトとは北京(       )、ソウル(     )、東京(     )の頭文字を連ねたもので、東アジアの三つの首都の演劇関係者が集う第二回目のお祭りが東京のグローブ座を中心に開かれたものである。日本側実行委員長は鈴木忠志氏で、僕が出席したシンポジウムのコーディネーターは菅隆行氏、パネラーは、佐伯隆幸(フランス近代演劇)、小森陽一(日本近代文学)、高橋康也(英文学)の諸氏であった。武蔵野美術大学の方は、司会が高島直之(美術評論)、パネラーは、柏木博(デザイン評論)、島田雅彦(作家)、上野俊也(政治思想)の諸氏であった。何故、筆者が演劇なのかというと、その昔、少しだけ、芝居のプロデュースをしたことがあるからである。これでも、シェイクスピア学会のシンポジウムに出たこともあるのである。

 二つのシンポジウムに共通していたのが、「八〇年代の表現とは何か」というテーマである。建築表現における八〇年代とは何か、改めて考えさせられることになった。また、他のジャンルと比較しながら問いつめられることになった。

  二つのシンポジウムを機会にいくつかの作品を思い起こしてみた。

1980 生闘学舎

1981 名護市庁舎

1982 新高輪プリンス

1983 つくばセンタービル ARK 国立能楽堂 土門拳記念館

1984 TIMES シルバーハット 伊豆の長八 釧路湿原展望資料館 眉山ホール 球磨洞森林館

1985 盈進学園 SPIRAL

1986 RISE ノマド 六甲の教会 ヤマトインターナショナル

1987 ROTUNDA 東京工大 龍神村 キリンPLAZA 

1988 水の教会 下町唐座 ノアの箱船          飯田市美術博物館

1989 TEPIA 幕張メッセ 藤沢市湘南台文化センター 光の教会 ホテル・イル・パラッゾ  スーパー・ドライホール 兵庫県立こども館

1990 青山製図専門学校 水戸芸術館 コイズミ・ライティング・シアター 国際花と緑の博物館 東京武道館 東京芸術劇場 熊本北警察署

1991 ネクサスワールド 再春館 センチュリー・タワー 八代市美術館 東京都新都庁舎  保田窪団地

1992 ハウステンボス

 建築家の名がすらすら浮かべば相当の通というところであるが、いくつか気がつくことがあるであろうか。

 ひとつは外国人建築家の作品が目立つということだ。日本建築もボーダレスの時代になった。日本人建築家の海外での仕事も一気に増えたのである。もうひとつは「建築の解体」(近代建築批判以降の)世代の活躍が目立つことだ。近代建築批判をスローガンに七〇年代にデビューした建築家たちは八〇年代を通じて次々にエスタブリッシュされていくことになる。要するに「ポストモダンの建築」の時代が八〇年代である。

 建築の八〇年代は何であったのかという問いは、ポストモダンの建築とは一体何であったのか、という問いと同じである。

 また、年表の裏面には、前川国男(一九八六年逝去)をはじめとする戦後建築を担ってきた建築家の相次ぐ死がある。そうした意味では、戦後建築が終わりを告げた時代が八〇年代である。

  一言でいうと、「ポストモダンの建築が全面開花した時代」が八〇年代ということになるのであるが、別の言い方をすると、「近代建築批判の試みがコマーシャリズムに回収されていった時代」が八〇年代である。近代建築批判という課題は先延ばしにされ、宙吊りにされ続けたことになる。それどころか、建築そのものがバブル(泡)化する、そんな事態がクローズアップされたのが八〇年代である。建築は空間を包む包装紙であり、その包装紙のデザインの差異が競われた、そんな時代が八〇年代である。

  建築表現の舞台としての都市のありかたそのものがバブルであった。スクラップ・アンド・ビルドの博覧会都市が日本の都市である。

 そして、そうした日本の都市を舞台として展開された様々な表現ジャンルは、どうやら似たような展開をしてきたらしい。島田雅彦氏は、それを村上春樹的なものという。

 八〇年代に露呈したものは、戦後建築の最も悪しき循環ではないか。そんなことを思いながら、阪神淡路大震災のショックもあって、『戦後建築の終焉』(れんが書房新社)を上梓したのであった。

 


2022年12月29日木曜日

2022年12月26日月曜日

書評『異文化の葛藤と同化』異文化理解の作法、建築文化、199608

 異文化理解の作法、建築文化、199608

書評『異文化の葛藤と同化』異文化理解の作法、建築文化、199608




2022年10月17日月曜日

阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年

 阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年 


 復旧・復興計画手法の評価


Ⅰ章 2-2 復旧・復興計画手法の評価(布野修司)

 

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。震災2ヶ月後に起こった「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)とそれに続く「オーム真理教」をめぐる衝撃的事件のせいもあって、阪神・淡路大震災に関する一般の関心は急速に薄れていったように見える。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後3年を経て、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。重点復興地域のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、重点復興地域から外され基本的に自力復興が強いられた8割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の具体的な展開と問題点は、自治体毎に、また、地区毎に、さらに計画(事業)手法毎に以下の章でまとめられている。本稿ではいくつかの評価軸を提出することによって、共通の問題点を指摘し、復旧・復興計画手法の評価を試みたい。

 

 2-2-1 復旧・復興計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことである。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。

 

 2-2-2 復旧・復興計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが4月11日、水道復旧が完了したのが4月17日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものといえるであろう。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧。復興計画に活かすかが問われていたといっていい。

 最初に大きな閾になったのが3月17日(震災後2ヶ月)である。建築基準法第84条の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が3月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは1月27日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災10日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも1月29日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは8月20日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが8月10日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられる。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(2月24日公布 施行日から5年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(4月28日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(7月28日)などが決定される。また、「阪神・淡路復興委員会」(下河辺委員会)が設けられ、2月16日の第1回委員会から10月30日まで14回の委員会が開催され、11の提言および意見がまとめられている。タイムスパンとしては「復興10ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられている。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 5月11日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の4部会の審議をもとにした3回の全体会議を経て6月29日に提言がなされている(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急3ヶ年計画」である。「産業復興3ヶ年計画」「緊急インフラ整備3ヶ年計画」「ひょうご住宅復興3ヶ年計画」が3本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど3年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が2年というのも3年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。個々の復興計画理念、計画指針の評価は上に論じられるところである。

 ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。

 

 2-2-3 復旧・復興計画の事業手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業である。あるいは市街地再開発事業である。震災4日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定されたとされる。モデルとされたのは酒田火災(1976年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 2月1日、神戸市、西宮市で建築基準法第84条による建築制限区域が告示され、2月9日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第84条の第2項は1ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち2ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第53条による建築制限に移行するために、3月17日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②2月26日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば2年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会は「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「2段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画は一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長に描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」と「密集住宅市街地整備促進事業」を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように3分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業10地区

  市街地再開発事業6地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業11地区

  密集住宅市街地整備促進事業6地区

  住宅地区改良事業5地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法84条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、ABの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A(B)地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴも設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。

 

 2-2-4 コミュニティ計画の可能性

 以上のように、阪神淡路大震災によって、日本の都市計画を支えてきた制度的枠組みが大きく変わったわけではない。大震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはない。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。

 各地区の復旧復興計画は必ずしもうまくいっているわけではない。合意形成がならず袋小路に入り込んでいるケースも少なくない。震災が来ようと来まいと、基本的な都市計画の問題点が露呈しただけであるという評価もある。確かに、どこにも遍在する日本の都市計画の問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたという指摘はできるだろう。

 一方、阪神淡路大震災のインパクトが現れてくるまでには時間がかかるであろうことも確かである。その経験に最大限学ぶことが極めて重要である。特に地区計画レヴェルにおいてはプラスマイナスを含めた大きな経験の蓄積がなされたとみるべきであろう。

 建築家、都市計画プランナーたちは、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるはずである。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。もちろん、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、建築家、都市計画プランナーが、ヴォランティアとして果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組のなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 復旧復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生んだが、とにかくその過程で新しい街づくりの仕組みの必要性が認識されたことは大きい。また、実際に、コンサルタント派遣や街づくり協議会の仕組みがつくられ試されてきた。この住民参加型のまちづくりの仕組みは大きく育てていく必要があるだろう。個別のプロジェクト・レヴェルでも、マンション再建のユニークな事例やコレクティブ・ハウスの試行など注目すべき取り組がある。

 復旧復興の多様な経験から、あらたなまちづくりの仕組みをつくりだすことができるかどうかがコミュニティ計画レヴェルの評価に関わる。無数の種が芽生えつつあると考えたい。

 

 2-2-5 阪神淡路大震災の教訓

 

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 

 j 都市の記憶と再生 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているとも言える。

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年