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2023年3月2日木曜日

漂流する日本的風景,雑木林の世界88,住宅と木材,199612

漂流する日本的風景,雑木林の世界88,住宅と木材,199612

雑木林の世界88

漂流する日本的風景

布野修司


 「表現の戦後責任・・・ポストモダンの先駆 建築における国家・様式・テクノロジー」(アジア太平洋資料センター(PARC)自由学校講義 一〇月二二日)「イノベーティブ・アーキテクチャー・イン・アジア」(日本建築学会主催シンポジウム 李宗源 山本理顕 布野修司 一〇月二三日 大阪中之島公会堂)、「建築家に何が可能か・・・阪神・淡路大震災を考える」(日本建築協会 一〇月二五日 大阪)「漂流する日本的風景・・・建築家と地域計画」(建築フォーラム・シンポジウム 磯崎新 原広司 布野修司 一〇月二六日ー二七日 明日香ー吉野)「SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)と職人大学構想」(住宅産業研修財団 布野修司講義 大阪 一〇月二九日)「都市美とアーバンアーキテクト」(近畿都市美協会 布野修司基調講演 一〇月三一日 宇治市)と、ネパールーインド行から帰ったのはいいけれど、一〇月の末は以上のような連続セミナー・シンポジウムのスケジュールに襲われてしまった。

 海外に出て、見知らぬ町を歩きながら様々なことを学ぶのは最高である。通信手段の発達で仕事に追っかけられるということはあるにせよ、とにかく現場で見聞きし、学ぶ事に集中することができる。しかし、その自由を享受するために旅の前後にどうしても皺よせがきてしまう。贅沢な悩みと言うべきか。

 シンポジウムは嫌いではない。とくに、コーディネーター役は面白い。コーディネーター役が一番勉強になるとも思っている。臨機応変のやりとりはスリリングである。聴衆には迷惑かもしれないけれど、自分の興味に従って質問したり、議論をしむけたりすることができる。気の乗らないシンポジウムもないわけではないが、それでも、なんらかの刺激をうける。シンポジウムというものはそういうものであろう。

 以上のような嵐のようなシンポジウムや講演の連続で頭の中はさすがに混乱気味であるが、つくづく思うのは日本の風景にはしまりがないということである。

 PARC自由学校の「表現の戦後責任」では、戦後建築の歴史を一般の人々に可能な限りわかりやすく説明した(つもりである)。鉄とガラスとコンクリートという工業材料による四角い箱形の超高層ビルをわかりやすい近代建築のイメージとし、戦前にも遡って、その実現の過程と批判の水準(ポストモダンの建築論)について紹介したのである。ところが「そうした建築の歴史に一般の市民であるわれわれが全く無縁なのは何故か」という根本的な質問に立ち往生してしまった。素朴には「超高層(近代建築)などわれわれには無縁だ」ということである。この雑然とした都市の町並み形成に一般の僕らが参加できないのは何故なのか、ということである。

 「イノベーティブ・アーキテクチャー・イン・アジア」では、三日間のうち一夜だけの参加であったけれど、アジア各地から二〇名を超える建築家を招いた極めて意義深いシンポジウムであったように思う。アジアの建築家が一堂に会して議論するそうした時代になったのである。ところが、僕がコーディネーターをつとめたセッションは、かなりの悪戦苦闘であった。李宗源氏のプレゼンテーションに度肝を抜かれてしまったのである。

 李宗源氏は台湾を代表する建築家の一人である。一九七八年に七人で始めた事務所は今や一二〇人のスタッフを抱える。昨年までは一六〇人を超えていたけれど、仕事の量が減って少し減らしたのだという。それでも、上海、北京にも支社をもつ。台湾の経済成長の象徴というべきか、巨大なポストモダン建築で有名になった。頂上部に様々なデザインを凝らした超高層ビルや超高層マンションを数多く建てている。プレゼンテーションでは、その巨大な数多くの建築作品をスライドで映しながら、それを生み出す神秘を語るものであった。

 この春、台湾を訪れた時にいくつか作品を見た。「四つの花」と名づけられた淡水の四本の超高層マンションや故旧博物館の前の超高層のマンションは遠くからも人目を引いていた。中央研究院のなかの若い頃の作品など、なかなか手堅い作品もあった。

 対するは、山本理顕氏である。熊本アートポリスの保田窪団地で公営住宅の新しいプロトタイプを提出して論議を呼んだ。この二人の対照的な建築家の議論をうまくしかけたいと思ったのであるが、結果としてうまくいかなかった。李宗源氏の独壇場である。

 禅の修業を日課とし、酒も煙草もやらないヴェジタリアンである李宗源氏は宗教家の趣があった。西欧文化への批判を展開しながら、中国文化の再建を主張するその設計方法論はわかりにくい。建築とは一心の器であるとする氏の主張を理解するには時間がいくらあっても足りなかったというべきか。

 「建築家に何が可能か」は小さい会であったが、真面目でしんどい会となった。「大震災は何も変えなかった」という僕の基調発言のせいである。会場の窓から「梅田スカイビルが見えていた」。

 そして、翌日明日香村で開かれた。建築フォーラムの磯崎新、原広司を迎える第五回目のシンポジウムであった。地域をどうとらえるか、建築家が地域計画について何をなすべきか、をめぐる議論の詳細は『建築思潮』五号(来春刊行予定)に譲るとして、俄然目が覚めたのは、シンポジウムの終わりに近くなって、原さんがなぜ「超高層が必要か」「高密度居住が必要か」についてたどたどしくしゃべりだした瞬間であった。原さんは「梅田スカイビル」「京都駅ビル」の設計で数々の批判の渦中にある。その反論を日本の都市モデルの問題として提起しようとしたのである。都市的居住のためには、何かを断念しなければならない。都市にも太陽と緑と水を、というのは間違っていたのではないか。一戸建て持家政策に根本的に誤りがあった、と磯崎さんからもフォローがあった。要するに日本の風景は都市と農村の境界が曖昧で居住のモデルを生み出していないということである。吉野で久しぶりに夜を徹しての議論となった。

 ネパールやインドの珠玉のような都市型住居のモデルを見てきた余韻の中では超高層モデルなど論外である。しかしそれにしても、日本の風景は、またそれを生み出す議論の土俵も、しまりなく漂流し続けているのは事実ではないか。





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