組織事務所の建築家,雑木林の世界90,住宅と木材,199702
雑木林の世界90
組織事務所の建築家
布野修司
ある県の公共建築の公開コンペ(設計競技)の審査委員を引き受けて、奇妙な経験をした。参加資格に一級建築士が三人以上、五〇〇〇平方メートル以上の実績があることという条件があったから、公開コンペといっても三〇社ほどの参加しかなかったのであるが、いわゆる組織事務所の参加がほとんどなかったのである。要項に地域との関係を重視することを唱っていたからであろうか。応募したのは、いわゆるアトリエ派事務所と地元事務所とのJV(ジョイント・ヴェンチャー)の形が目立った。
審査員の構成も影響するであろうか。しかし、実績十分の大手組織事務所が公開コンペに応募しないとはおかしな話である。忙しすぎて人員を割けないというのであろうか。この理由についてはいずれじっくり分析してみようと思う。日本の設計界の棲み分けの構造が浮き上がるかもしれない。
ところで、以上の経験が直接のきっかけになったというわけではないが、少し以前から「組織事務所の建築家」という単行本のシリーズ企画を進めている。日本の建築界において、組織事務所の役割は極めて大きいのであるが、その大きな力の割には建築ジャーナリズムで取り上げられることは少ない。一般的には、個性の表現よりも、システムの表現を役割とするからである。あるいは、町の繰り返し建てられる建築を主として設計するからである。しかし、システムの表現といっても、全ての組織事務所が同じというわけではない。同じ組織事務所でも、担当チームによって自ずと特徴が出てくる。組織の表現と個の表現がどう絡み合うのかがシリーズを通じてのテーマである。
最初に取りかかったのは、東畑謙三建築事務所である。続いて一〇事務所ぐらいがリストされつつある。東畑謙三先生は、一九〇二年生まれだから今年九五歳の京大建築学科卒業(四期生)の大先達である。事務所の開設は一九三二年、戦前に遡る数少ない事務所である。日本の近代建築をリードした前川国男の事務所開設は一九三五年だからそれより早いのである。そのころの大阪の主な事務所としては、安井、渡辺節、横河、松井喜太郎、置塩などがあった。
色々取材し、資料を集めてみると、なかなかに魅力的な建築家の像が浮かび上がってくる。ユーモアに溢れた、それでいてカリスマ性をもった建築家だったらしい。また、実にはっきりした建築家像を持ち続けていたことで知られる。自らを「建築技師」あるいは「建築技術者」と呼び決して「建築家」とは言わなかったのである。「市井の一介の技術者に過ぎません」というのが口癖だったという。
いわゆる建築家とは違うという、その自己規定は、特にその初期において専ら工場建築を設計してきたことと無縁ではないだろう。若くして洋行し、アルバート・カーンの工場建築に深く感動して工場建築を始めたというのが有名なエピソードである。考えてみれば、近代建築の理念を具現する上で最も相応しい対象である。P.ベーレンスのAEGの工場など近代建築の傑作も多い。しかし、いわゆる建築家は、工場建築を主たる対象とはして来なかった。東畑が工場建築を数多く手がけたことは昭和初期の日本の建築家としては珍しいのである。
「工場建築ははっきり答えが出る」
「工場建築は、それぞれの産業に合った固有のスケールがある」
書かれた文章は少ない中で、工場建築についての原稿がいくつか残されている。
「構成技師」という言葉も使われるが、「建築技術者」という言葉には、エンジニアに徹するというより、産業社会の要求する建築をつくり続けてきたという自負が込められていると言うべきではないか。
戦前から戦中にかけて、軍関係や工場の仕事で忙しい日々を東畑建築事務所はおくっている。書かれた近代建築の歴史においては、ほとんどの建築家が仕事がなかったということになっている。というより、軍関係の仕事をするのはタブーということで、ほとんど触れられていない。しかし、多くの「建築技師」が戦時体制を支えたのは言うまでもないことであった。
戦後間もなくの混乱はともかく戦後もビルブームが起こる頃から順調に仕事があったように思える。仕事があって組織がありうる、これは組織事務所の基本原理と言うべきであろう。
東畑建築事務所の歴史を見ていると、もうひとつ面白いことは、平行していくつかの組織がつくられていることである。戦後間もなく不二建設が設立され、パネル式の組立住宅の供給が試みられたりしている。また、時代は下るが清林社という不動産部門がつくられている。
設計施工の分離を前提とする建築家の理念に照らすとき、施工会社の設立は普通発想し得ないことである。しかし、実業界において設計施工の連携ということは自然の発想である。清林社は、古今東西の貴重な建築書のコレクションで知られ、東畑謙三の人となりの一側面を物語るのであるが、実質的な機能としては事務所の財産の担保が目的である。主宰者の責任は事務所の経営を安定させることにまずあるのである。
こうして、日本の建築士事務所のふたつの類型が見えてくる。いわゆるアトリエ派と呼ばれる個人事務所の場合、表現が先であって組織はそのためにある。組織事務所の場合、組織を支える社会システムがあって仕事がある。もちろん、二つの類型の間に截然と線が引かれるわけではない。個人事務所から出発して、一定のクライアントを獲得することによって組織事務所に成っていくというのがむしろ一般的である。個人名を冠した組織事務所の大半がそうであった。
しかし、東畑の場合、最初から時代と社会に身を委ねる基本方針ははっきりしていたようにみえる。といっても、専ら、利潤を追求するということではない。彼に営業という概念はないのである。建築事務所は、技術を持った人を集め、その技術の知恵を提供して報酬を得る。それが経営の基本理念である。
こうして見ると、今日の組織事務所は随分とその姿を変えてきたのかもしれない。組織事務所の原点を多くの先達にお話をうかがいながら追求してみようと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿