「日韓併合」100周年を必ずしも意識したわけではないけれど、『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』(京都大学学術出版会、2010)を上梓することができた。序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在
という構成であるが、もとになっているのは,次の3つの学位請求論文である。
韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,1993年12月)
朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,2005年3月)
趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,2008年9月)
序章,Ⅰ章,終章を布野修司が執筆し,上記3つの学位請求論文は,それぞれⅡ~Ⅲ章に当たる。ただ,韓三建論文は,全体を覆うフレームを持っており,その内容は,Ⅰ章,そして序章,終章にも,分割して含まれている。
布野は,この3本の学位請求論文に指導教官として,共同研究者として、それぞれの論文の基になったほとんど全ての臨地調査を共にした。長期にわたる共同研究は,もちろん,一定の問題意識の共有のもとに展開されてきた。大きくは,韓国の近代都市史,近代都市計画史に関わる研究の一環ということになるが,もっぱら焦点を当てテーマにしてきたのは,韓国における近代都市の形成における「日本」という契機である。
本稿では、居住空間のあり方を中心に、近刊のエッセンスを紹介し、批判を仰ぎたいと思う。
1 韓国の中の日本と景観の日本化
『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州경주(キョンジュ),そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」일본인마을(イルボンインマウル)である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城읍성(ウップソン)」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本 人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることがテーマである。
具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎철도관사(チョルトクァンサ)」を核として形成された「鉄道町철도마을(도시)チョルトマウル」( 三浪津삼랑진(サムランジン),安東안동(アンドン),慶州),そして「日本人移住漁村일본인이주어촌(イルボンインイジュオチョン)」として発展してきた巨文島거문도(コムンド),九龍浦구룡포(クリョンポ),外羅老島외나로도(ウエナラド)である。
19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。朝鮮半島における都市の原像はどのようなものであったのか,朝鮮時代の都市あるいは集落がどのように今日の都市へと変化してきたのかを空間編成をめぐって明らかにすることが第1のねらいである。
図1 京城・大和新地(京城名所絵葉書)
朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」は,開国以降の過程で解体される。
もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎객사(ゲックサ)」[1]であり,「東軒동헌(ドンホン)」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。城壁内に住んだのは,中央から送られてきた「守令」であり,地元「両班양반(ヤンバン)」[2]階層の官吏であり,それを支えた下層の人々のみである。都市としては「奇形」であった。そして,「邑城」は「地方の中の中央」であった。
その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,「日式住宅일식주택(イルシックズテック)」を建て,商店街を形成するようになる。
「邑城」は,こうして「韓国の中の日本」となった。
「江華島条約(丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」(1876年2月27日)によって,釜山부산(プサン)を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山원산(ウォンサン)(1879年),漢城한성(ハンソン),龍山용산(ヨンサン)(1982年),仁川인천(インチョン)(1883年),慶興경흥(キョンフン)(1888年),木浦목포(モッポ),鎮南浦진남포(ジンナンホ)(1897年),群山군산(クンサン),城津성진(ソンジン),馬山마산(マサン),平壌평양(ピョンヤン)(1899年),義州의주(ウイズ),龍巌浦용암포(ヨンアンポ)(1904年),清津청진(チョンジン)(1908年)と次々に「開港場개항장(ゲハンザン)」「開市場개시장(ケシザン)」が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」は,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。
しかし,その新たな景観も,主要都市あるいは港湾地域に限定して設置された居留地(「日本専管居留地」「共同租界」)のみにとどまったのであれば,朝鮮半島全域に大きな影響を与えることはなかったであろう。朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。
そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。
開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになる。
「邑城」の中に形成された「日本人町」,そして,「日本人移住漁村」のような「日本人村」に焦点を当てて,韓国における近代都市の形成過程を問おうと考えた。すなわち,韓国近代都市景観の形成における「日本人町」「日本人村」のインパクトが切り口である。キーワードは,「景観の日本化」,そして「日式住宅」である。
朝鮮時代の「邑城」のひとつの典型が慶州邑城である。儒教を統治理念とし,身分制度に支えられた中央集権的王朝であり,「邑治읍치(ウプチ)」とその中心に建設された「邑城」は,基本的に同一の政治的,空間的構造をもっていたとされるが,慶州邑城はその代表である。上述のように,その慶州邑城は,植民地化の過程で解体され,「韓国の中の日本」になっていった。そして,古都慶州にもまた鉄道駅が設置され,その周辺には「日本人町」が形成された。慶州の変貌は,韓国における街並み景観の変貌をくっきりと浮かび上がらせている。
「景観の日本化」は,日本による植民地化の象徴である。そして,朝鮮半島における「近代化」の象徴ともなる。もちろん,韓国の近代化にとっての「日本」そして「日本」による植民地化をめぐっては大きな議論がある。
朝鮮半島の場合, 近代化が日本による植民地化と都市化と合わせて二重,三重の過程として進行したことは,少なくとも日本と比較した場合,特異である。しかし一方,日本の近代化にとって,日本の海外進出,朝鮮半島,台湾の植民地化をどう捉えるかについて,その特異性が同時に問われることになる。
慶州については『韓国近代都市景観の形成』第Ⅱ章に譲りたい。
2 朝鮮半島の伝統的住居
朝鮮半島の住居というと,すぐさま,「オンドル온돌(溫突,温突)」が想い起こされる。「プオク부엌(釜屋=台所)」で煮炊きするときに発生する煙(熱)を「煙道연도(ヨント)」を廻らした床下に導いて部屋を暖める,「オンドル」という世界に類例をみない実にユニークな床暖房装置(システム)は,高句麗時代,その版図において,すなわち朝鮮半島北部で考案されたと考えられている。それが中国北部に伝わったものが「炕(kang,カン)」というが,床全体を温める「オンドル」と違って, 炕はベッドなど一部を暖める方式である。
床全体を暖める方式と寝る場所のみを暖める方式は,起居様式の違いよる。起居様式とは,椅子座か床座か,生活面を床面に置くか,床上に置くか,の違いにかかわる。
この「オンドル」が日本にも伝わっていることは,滋賀県日野町の野田道遺跡などの遺構が示している。滋賀県では大津の穴太遺跡からも7世紀前半ころの3基が見つかっている。日本で最古と言われているのは,奈良県高取町の清水谷遺跡で発掘された大壁建物3棟の中の「オンドル」を伴う1棟で,5世紀後半頃のものとされる。大壁建物と「オンドル」が渡来系であることは,韓国でも同じ遺構が多く見つかるようになって確認されている。L字型カマドと称するものも含めると[3]「オンドル」遺構は日本の全国各地で出ているが,必ずしも日本には定着しなかったとみていい。日本の暖房方式は,炬燵(こたつ)であり火鉢(ひばち)である。
図2 蔚山湾の漁村 郵便はがき 日本航空輸送株式会社
もうひとつ,朝鮮半島の住居というと,「マル마루(抹楼)」[4]あるいは「デーチョン대청(大庁)」という空間が思い浮かぶ。「マル」は板張りの床をいい,「オンドル」(床)と「フクパタク흙바닥(土間床)」と並んで3種の床が区別されるが,一般的に「マル」というと「高床」の吹きさらしの板の間を意味する。「デーチョン」も,板張りの吹きさらしの部屋であるが,家の中心となる部屋をいう。今日では,「デーチョンマル대청마루」[5]と重ねて用いられることが多い。
「マル」は,外部と内部を仕切る扉や戸,障子のような可動の間仕切りをもたない。それに対して,「アンバン안방(内房)」[6],「コンノンバン건넌방(越房)」[7],「サランバン사랑방(舎廊房)」[8]のような「バン방(房)」は「オンドル・バン」とするため閉鎖的で,床,壁,天井は「オンドル」紙(油紙)が隙間無く貼られて一体的に仕上げられる。開口部には開きの障子が用いられるが,日本とは逆に室内側に紙(韓紙)が貼られる。この「アンバン」や「コンノンバン」の前に日本の縁側によく似たスペースが設けられるが,これを「トィ퇴(褪)」あるいは「トィマル(褪抹楼)」という。中国では「一明両暗」というが,吹きさらしで明るい空間を壁で囲われた暗い空間で挟む構成は韓国でも伝統的住居の基本である。すなわち,「デーチョン」を挟んで左右に「アンバン」「コンノンバン」が設けられるのが一般的である。
この「マル」という「高床」の空間の起源をめぐっては2説ある。「高床」といっても,日本とほぼ同じで地面から1尺5寸(45cm)ほどの高さだから,「揚げ床」と言った方がいいかもしれない。この「高床式住居」は一般的には南方系と考えられる。日本も含めて,東はイースター島から西はマダガスカル島までオーストロネシア語文化圏とされる広大な地域の住居は「高床式」であったと考えられている[9]。吹きさらしの空間は寒冷地にはふさわしくない。
しかし一方,「高床式」住居の伝統は,南に限定されるわけではない。穀物などの貯蔵庫としての倉は湿気を防ぐために,また,鼠や害虫の進入を避けるために高倉となる場合が多い。「校倉造」(井籠組)の正倉院の倉は北方系と考えられている。加えて,北方のツングース系の民族の一段高い床を持つ宮室を「マル」と呼ぶ,ということをひとつの根拠として,北方系という説も出されている。南方説を主張するのが藤島亥治郎,北方説を主張したのが村田治郎である。二人は,日本建築史学とともに東洋建築史学を創始した伊東忠太(1867~1954年),関野貞(1868~1935年)を継いだ,東洋建築史学の泰斗である。村田治郎(1895~1985年)は京都帝国大学を卒業後,南満州鉄道,南満州工業専門学校(1924~37年)に,藤島亥治郎(1899~2002年)は東京帝国大学卒業後,「朝鮮総督府」,京城工業学校(1923~1929年)にそれぞれ赴任し,後に母校の教授となった。
朝鮮半島の伝統的住居について,最初にその全体概要を明らかにしたのは,藤島と同じく京城工業学校で教鞭をとった日本人研究者の野村孝文(1929~45年,在鮮)である[10]。野村は,朝鮮半島各地の民家を数多く見聞した上で,その「平面発展の系統」を想定している。炉をもった一室住居に「バン」が併設されて二室住居となる。「オンドル」が導入されて,プオクと「バン」の二室構成となる。そして,さらに「バン」が横一列に加えられていく。南面して,東西に一列に部屋が並ぶ構成を「一列住居」という。この原型に, 「トィ」が前(南),そして後(北)に付加されたものが一般型であり,朝鮮半島全体で見られた。
一方,住居の構成には地域差がある。野村に依れば,北鮮型,西鮮型,都市型,南鮮型,そして,済州島型に5つに分類される。北鮮型には,吹きさらしの空間である「マル」あるいは「トィ」は見られない。都市型というのは,李氏朝鮮の都ソウルの典型的住宅,いわゆる「韓屋ハンオク한옥」である。
朝鮮半島における伝統的住宅については,その後,多くの書物が書かれてきた。野村孝文の翻訳として朱南哲の『韓国の伝統的住宅』(九州大学出版会,1981年)がある。最近書かれたものとしては申栄勲・金大璧・西垣安比古の『韓国の民家』(法政大学出版局,2005年)がある。
「オンドル」と「マル」に象徴される朝鮮半島の伝統的住居が大きく変わっていくのは,日本と同様,海禁政策を採ってきた李氏朝鮮が開港して以降である。「開港場」を通じて,西欧文明が流入することになるのである。しかし,朝鮮半島の場合,開港とともに日本の統治が開始されることによって,その変化の過程はより複雑である。日本を通じて「近代」がもたらされるのである。
朝鮮半島を植民地化する過程で,日本の伝統的住居もまた大きく変化しつつあった。日本の近代住宅史としてその過程は書かれるが,武家住宅を基礎にして洋室を玄関脇に置いた洋館や中廊下住宅などが生まれてくる。大正期に入ると家族団らんの場として居間が成立するとされる。いわゆる近代住宅,四角い箱形のフラットルーフ(陸屋根)の住宅が導入されるのは1930年代前半である。
日本人渡航者たちは,それぞれ本国と同じ住宅を建てて住んだ。すなわち,居住空間のレヴェルでも本国そのままを持ち込むのである。わかりやすく一般的に言えば,瓦屋根や畳をそのまま持ち込んだ。それが「日式住宅」と呼ばれる。
この「日式住宅」について初めて焦点を当てたのが「都市住居研究会」(代表:朴勇煥)の『異文化の葛藤と同化:韓国における日式住宅』(1996年)である。
研究会を主宰組織した朴勇煥(漢陽大学)は,その「まえがき」に次のように書いている。
「どっと押し寄せた外来文化を前にして,伝統文化は自らの活力を失い,続く植民地時代には異文化の圧力に押されてますます断絶を深めていく。この間に移植された「タタミ」=「日式住宅」は,「強いられた文化」という意味において伝統的文化との衝突を起こしながらも,その影響力はきわめて大きなものであった。これが住居に対し従来とは異なる新しい規範と価値観を形成したことは間違いない。こうして広められた「日式」は,直接の支配から脱した解放以降も,その名残は韓国の都市住居の形態の1つとして場を占めると共に,韓国人の住居観に対しても大きな影を落としてきたのである。」
「都市住居研究会」がその成果を発表した1990年代前半は,今日のいわゆる韓流ブームに象徴されるような日韓関係ではなかった。「日式住宅」をとりあげること自体,韓国国内では大きな抵抗があったと思われる。しかし,韓国近代住居史における「日式住宅」の重要性は次のようにしっかり見据えられていた。
「15年間に亘る社会・政治の不安定と戦争による破壊から立ち直って,国土再建のスローガンのもとに,1960年代の初めからは急激に「近代化」政策が進められてきたが,今度は「日式」に代わって「西欧式」が登場し,これが今日,伝統的住文化に対し新たな歪みを加えている。これにより都市住居はますます複雑かつ多様になり,この国の住生活と住文化の規範や価値観にまで変化を及ぼそうとしているのである。ここにおいて今日の都市生活に関わるさまざまな問題を,その出発点に立ち戻って見つめ,その変遷の過程をたどり,その視点であらためて根本的に考える必要がある。そのために日式住宅は重要な鍵である。」
3 日本人移住漁村
日本人の海外移住は1885年(明治18年)頃から始まる。明治10年代の全国的な経済不況と自然災害などを背景として,農業移民及び漁業移民が奨励され,日本人移住民は,主にハワイ,北アメリカ,ブラジルなどに渡った。朝鮮半島への漁業移民の場合も,背景は同様である。朝鮮半島の植民地化へ向かう流れの中で,全国的な漁業不況を打開すべく,日本政府の強力な後押しによって進められるのである。
図3 日本人移住漁村
長く鎖国(海禁)政策を採っていた朝鮮政府は,「日韓修好条規」(1876年)によって日本に対して開国し,釜山を「開港場」として日本人の居住と通商を認めた。この段階では,一般物資の通商のみを認可したもので,通漁の自由を認めたわけではなかった。日本漁民の朝鮮沿海の通漁が正式に認可されたのは1883年7月の「在朝鮮国日本人民通商章程」が締結されてからである。1889年12月には「日朝両国通漁章程」が締結され,日本漁民の韓国近海での通漁がより円滑に行われるようになった。続いて,1890年(明治23年)に「日本朝鮮両国通魚規則」が公布され,日本漁船が朝鮮近海に出漁するようになる。1897年(明治30年)には「遠洋漁業奨励補助法」が発布され,1898年(明治31年)には,日本政府は農商務省水産局長を韓国へ調査のため派遣させ,その結果,府県毎に「韓海通漁組合」(1900年)が組織されることになった。さらに「朝鮮海通漁組合連合会」(1902年)が設置され-その本部は釜山に置かれた-朝鮮海水産業開発の支援機関となった。こうした日本政府の保護奨励策は,各府県においても採用され,各府県の水産試験場や漁業組合は,韓国の南海남해(ナンヘ)へ進出するために,様々な方策を実施することになる。
日本政府,各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」の補助によって建設された移住漁村を「補助移住漁村」という。
1904年,日本政府は,ロシアとの国交を断絶し,日露戦争が勃発する(2月9日)。そして,開戦まもなく「日韓議定書」を締結する(2月23日)。さらに,「日韓協約」(第一次)を制定(8月22日),翌年それを改定,第2次「日韓協約」(乙巳条約)(11月17日)に調印して,「韓国統監府」及び理事庁官制公布,1906年2月1日に「統監府」を開庁する。初代の統監は伊藤博文である。そして,1908年10月に「日韓漁業協定」が結ばれ,11月には「韓国通漁法」と「漁業法施行細則」が制定・発布される。この協定・法・細則は,日本漁民の朝鮮半島への定着と通漁をより有利に促進することを目的とするものであり,韓国内に「補助移住漁村」を形成させる制度的枠組みとなる。「補助移住漁村」の建設が本格的に開始されるのは「日韓漁業協定」が締結された1908年前後である。補助移住漁村」はその経営主体によって,各府県の経営,「朝鮮水産組合」の経営,「東洋拓殖会社」の経営の3つに分けられるが,その大半は各府県による経営であった。1897年から1919年までの約20年間に,府県,「朝鮮水産組合」「東洋拓殖会社」合わせて約40の「補助移住漁村」が建設され,1000余戸に上る日本漁民が移住することになった。
「自由移住漁村」というのは,日本人が任意に朝鮮半島各地に移住して住み着いて形成された漁村をいう。こうした「自由移住漁村」は,計画性を持っていた「補助移住漁村」とは,その成立動機,機構,発展過程などにおいて全く異なる。そして,「補助移住漁村」の移住民の大半が漁民であったのに対して,「自由移住漁村」の場合,漁民のみではなく,運搬業者や一般商人が漁港に定着し,漁業に転業した人も含まれている。ただ,「補助移住漁村」のほとんどが失敗したことにも関わって,「自由移住漁村」といっても様々なケースがある。
日本の漁民や水産業者の自由移住定着は,1870年代末の釜山の影島を皮切りに,済州島・元山・仁川・羅老島・郡山・大黒山島・木浦・鎮南浦・馬山・統営などにおいて行われる。また,東海(日本海)沿岸の方魚津,浦項,甘浦,九龍浦などは1900年代に入ってから移住定着が行われる。東海北方の江原道の注文津・長箭,咸慶道の清津,雄基,西水羅には,1910年代に入ってから定着が行われる。東海北方への移住が遅れたのは,海岸線の地形上の特殊性,すなわち断層海岸地形であるため,湾曲が少なく,港湾の建設がしにくかったからである。前述のように,「補助移住漁村」のほとんどが失敗する反面,「自由移住漁村」の大半は成功する。移住が自分の意志であり,覚悟において根本的な差異があり,また資金面でも個別的な能力の差があったからだとされる。
「日本人移住漁村」の分布は図3のようである。東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。
南海岸は初期の「補助移住漁村」を主として移住漁村が最も密集して分布している。「補助移住漁村」建設が失敗した後は,「自由移住漁村」として発達し,漁業・製造・取引の中心地となったものが多い。
西海岸は3海岸の中では漁業が劣勢で、早くから日本人によって開発されたにも関わらず,ほとんど発展しなかった。そうした中で,1905年から1907年にかけて,長崎・福岡・佐賀の諸県が「補助移住漁村」を建設し、解放後,韓国西海岸の主要漁港として発展した群山が西海岸唯一の例となる。
東海岸は,地形上の制約があり,零細漁業を主としていた当時の状況では開発が容易ではなかった。その本格的な発展は,大正末期に漁船の動力化が実現し,漁業施設の完備による企業的経営が発達して以降のことである。主に,マイワシ漁業の盛況によって,その根拠地として,また製品工場地,取引地として発展した。また,東海岸の移住漁村には日本海沿岸の出身者が多かったことが特性となる。
図4 漁村の類型
個々の漁村の形成過程や具体的事例は省略するが、日本人移住漁村が朝鮮半島にもたらしたものについて、その要点をまとめると以下のようになる。
(1)日本人移住漁村は,韓国の伝統的漁村に近代的漁業技術と港湾施設をもたらし,漁村の近代化に大きな影響を与えた。第1に,日本人の移住は韓国の伝統的漁村の生業が農業から漁業に変わっていく契機となった。また,漁業技術の近代化によって漁獲高は大幅に伸び,沿岸部に経済的な豊かさがもたらされた。さらに,漁業と関連する加工製造業・流通業・海運業・商業などが発達し,都市的な複合的機能を有する集落が発展する大きな契機となった。そして,沿岸部に都市的な集住形式,都市的な居住地形態が形成された。
(2) 韓国の伝統的漁村は基本的に高密度な居住地構造を持たなかった。海に接しながら背後に小高い山の地形をベースとして形成された漁村集落は,農山村と比べて居住地が狭小であるのが一般的であるが,限られた空間に都市のように高密度な居住地構造が形成されるようになったのは日本人の移住による。「日本人移住漁村」の街路体系は,海岸線に沿う海岸道路と,それに直交する小路の2つの道路が基本となる。これによって,街区は小路に沿って敷地割りされる。また,湾曲した海岸道路とそれに直行する小路により,街区内部の敷地の形は基本的に台形となる。さらに,海岸道路に面する敷地は,台形をベースとした短冊型が一般的で,それらが連担して,都市的集住形式がつくりだされた。
(3)狭い土地に,「日式住宅」が軒を並べて建ち並ぶその街並み景観は,それまでの朝鮮半島にはなかったものであった。「日本人移住漁村」の居住形式と街並み景観は,新たな韓国の居住形式と景観を持ち込み,新たな原風景を形成することになった。
(4)日本人移住漁村の「日式住宅」は,解放後に韓国人によって改変されることになるが,韓国の住文化の伝統をその改変にみることができる。「日本人移住漁村」の居住空間構成の変容として増改築による平面の拡張,店舗面積の拡大などが一般的に見られるのであるが,注目すべきは畳部屋が個室化されることである。一般に個室化は,プライバシーの確保のためにも必要とされるが,個室は伝統的な韓国の住居に一般的にみられるものである。「オンドル」を用いることから部屋は閉じたかたちになる。部屋と部屋を「マル」でつなぐのが韓国の伝統的住居である。畳部屋の個室化とともに,1つの部屋が「ゴシル」に改変され,これを通じて各部屋に出入するようになり,外部空間の庭が通路や作業場としての「マダン」に変えられる。この「ゴシル」という内部空間と「マダン」という外部空間が設けられる点に,韓国の住文化の伝統をみることができる。
(5)一般的な増改築以外に,狭い居住空間を広げるため,2つの建物その自体が統合されるものと,1つの建物が2つの居住空間に分離されるものがある。統合化は,並列して隣接するもの同士で統合される並列統合と,背後に接するもの同士で統合される直列統合がある。内部空間構成の側面からみると,並列統合の事例より統合度が高く,間取りも比較的変わっていない特徴がある。分離化は,統合化と正反対の概念で,変容に関する特徴はと変わらない。こうした統合化と分離化は,漁村集落の居住地が基本的に狭いことに起因し,一般的な都市更新メカニズムとなっていったと考えられる。
(6)日本人移住漁村の以上のような形成,変容のプロセスは,既存の集落が都市化されていくひとつのプロセスとして位置づけることができる。現在,韓国で地方の港湾都市の起源となるのは「日本人移住漁村」であり,その原型である。もう少し観点を広げると,植民都市のひとつの形成パターンとして位置づけることができる。
(7)日本人移住漁村の建設は,特に「自由移住漁村」の場合,「補助移住漁村」と異なって,明確な計画理念を持った都市計画とは異なり,その移住者の自発的な意思によってつくられた経緯がある。しかし,「日本人移住漁村」は計画性を全く持たない集落ではなく,少なくとも集落の住民の生活と文化を反映しながら計画的に建設されたと考えられる。それはインフラストラクチャーとしての直線的道路体系と短冊型の敷地をベースとした居住地構造,そして港湾施設の整備などから明らかである。また,居住空間には「オンドル」と煙突を設けるなど韓国の自然環境に対応する,すなわち,地域性を生かした空間づくりを行っていると考えられる。したがって,「日本人移住漁村」の計画理念を一言で言うと,「地域コミュニティ協同」とも言える。こうした「地域コミュニティ協同の理念」は今後の漁村集落の整備計画の樹立に当って指針となりうると考える。決定的問題は,その「地域コミュニティ共同」に韓国人の共同社会が組み込まれていなかったことである。
4 韓国鉄道町
朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899年9月18日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。鉄道敷設への関心は,それ以前,1876年2月27日に締結された「江華島条約」に遡るが,本格的に計画が開始されるのは日清戦争以降である。日本政府は,1894年7月にソウル-釜山間の京釜線とソウル-仁川間の京仁線の鉄道敷設計画を開始し,1894年8月20日に京釜線・京仁線の鉄道敷設権を獲得する。そして,1899年に京仁線を開通させると,京釜線敷設にむかう。1900年1月23日に,京釜鉄道株式会社の発起人総会が開かれ,1901年6月25日に同社が設立された。京釜鉄道株式会社は京仁鉄道株式会社を買収し,合併することになる(1903年11月1日)。
私設鉄道であった京釜鉄道株式会社は,1906年7月1日に「統監部」鉄道管理局の設置と共に同局に統合される。また,同年9月1日,軍用鉄道である臨時軍用鉄道監部に統合されて,国鉄が誕生することになる。
「朝鮮総督府鉄道局」は,国鉄が設立された以降も,鉄道の迅速な普及のために私設鉄道の敷設を奨励した。1909年11月に釜山津-東来間に鉄道を敷設した釜山軌道株式会社をはじめ,全北検便,咸興炭鉱,朝鮮中央,南朝鮮,朝鮮殖産,朝鮮森林,良菫拓林,金剛山電気,朝鮮慶南,朝鮮産業,北鮮,朝鮮京洞,京春電気などの鉄道会社が鉄道建設を行う。そして,朝鮮,新興,朝鮮慶南,朝鮮京洞,金剛山電気,南満州,多砂島,三陟,京春,朝鮮平安,丹楓,平北,西鮮中央,釜山臨港,朝鮮石炭,北鮮拓植,全南鉄道株式会社などの会社は鉄道沿線に職員の住居として「社宅」を建設していった。鉄道社宅は1899年以降1945年の解放まで持続的に供給されている。
昭和に入ると,「朝鮮総督府」は,こうして次々に建設されてきた私鉄の買収を始める。京釜線と京義線の買収がその最初で,1926年には,「朝鮮鉄道12年計画[11]」が立案される。国有化された私鉄は,全て国鉄の既設線・建設中の線路と関わっている路線である。すなわち,国鉄と私鉄を連結し,統一的経営,管理を行うのが目的である。朝鮮半島に敷設された鉄道線は 図5のようである。
朝鮮半島で最初に建てられた「標準住宅」,「型としての住宅」は,「朝鮮総督府」鉄道局による3等級,4等級,5等級,6等級,7等級甲,7等級乙,8等級の7つの「鉄道官舎」である。また,「朝鮮住宅営団」で開発した甲,乙,丙,丁,戊の5つの住宅型(図-3)である。これらは,韓国の「近代住宅」あるいは「文化住宅」の起源とも言われる。
「鉄道官舎」や「朝鮮営団住宅」による「日式住宅」が韓国の伝統的住宅と決定的に異なっていたその特徴のひとつは,浴室や便所が室内化されており,台所も室内から直接出入できるようになっていたことである。
①玄関の出現
玄関は,本来韓国の伝統住宅にはなかった居住空間の要素である。「朝鮮総督府」鉄道局が建設した「鉄道官舎」の全てのタイプに玄関が独立した空間として計画されている。
一般的な韓国住宅の空間構成は,大通りから「デムン」または「ヘンラン」を通って敷地に入り,「マダン」から各室へと直接進入するという動線を持っている。「デムン」が出入口の役割を,そして部屋の前に設けられている「テッマル」[12]が玄関の役割を果たしている。
こうした伝統的な韓国住宅の空間構成は,「日式住宅」,そのモデルとしての「鉄道官舎」とともに導入された玄関と共に大きく変化する。その変化は,「デムン」-「マダン」-「マル」-部屋という動線構造から「デムン」-「マダン」―玄関-「ゴシル」-部屋という動線構造への変化である。この動線構造の変化は,今日に至るまで韓国の都市住宅に大きな影響を与え,ほとんどの都市住宅が「デムン」-「マダン」(又は庭)―玄関-「ゴシル」-部屋の動線構造を持つようになっている。
朝鮮(韓国)戦争以後に大韓住宅公社や韓国住宅金庫で開発されたモデルでは「マル」を使用した出入の平面も提示されているが,1956年から1957年にわたって大韓住宅公社によって建てられた一戸建ての公社住宅は玄関を独立した1つの空間として設けている。玄関は,「鉄道官舎」および「朝鮮住宅営団」の「日式住宅」の建設によって初めて導入され,以降韓国の一般住宅にも徐々に採用されようになり,今日では玄関を設けるのが一般的になってきたのである。
②便所と浴室の屋内化
韓国の伝統的住宅でディッカンと呼ばれていた便所と,独立した空間として設けられてこなかった浴室の室内化は,「鉄道官舎」が韓国伝統住宅の空間形式に与えた影響のなかでも,最も大きなものだったと考えられる。
鉄道局の標準設計図に見られるように,全ての官舎に室内便所があり,8等級官舎の一部を除いた全ての官舎で室内に浴室が設けられている。韓国の伝統的住宅では,便所ディッカンは「デムン」付近か主屋の裏側に設けるのが一般的であった。室内便所が導入されることになっても,その位置が定着するまでには様々な混乱があった。「鉄道官舎」の払下げが実施されて以後,便所は一度外部に移されて、さらに室内化されるようになる。現在はほとんどの官舎で,室内便所と屋外便所が合わせて設けられている。
韓国の伝統的住宅における浴室は,一般的に独立した1つの空間ではなく,台所に設けられた仮設的なものであった。内部化された浴室が一般的に広がったのは便所と同様「鉄道官舎」で採用されて以降である。
「鉄道官舎」によって導入された屋内化された便所と浴室は各々独立した空間である。現在は,屋外便所は「ホッカン」と一体化されており,室内では便所と浴室が一体化されているユニットバス(BT)となるのが一般的である。また,ユニットバスには風呂桶(湯船)が設けられることは少なく,シャワーが一般的である。ユニットバスというかたちで,便座と洗面台,そしてシャワー用の蛇口がある新たな空間がその後一般化していくのである。
便所や浴室が韓国の一般住宅で屋内化されるのは,「鉄道官舎」の払下げと同じ時期である。1970年代前後に,都市住宅とともに,セマウル住宅[13]にも屋内便所や屋内浴室が設けられるようになる。この便所,浴室の屋内化は,朝鮮半島における生活空間の近代化のひとつの象徴である。
③台所の変化
韓国の伝統的住宅では,台所への出入は,外部空間である「マダン」からの出入と内部空間の「アンバン」からの出入が基本で,他の部屋からの出入はできない。台所への出入を,「マダン」,「アンバン」からと共に内部の「ゴシル」から可能にしたきっかけは,「鉄道官舎」の導入である。
伝統的な韓国住宅では,台所に接している部屋に「オンドル」を引くため,台所の床は低い土間になっている。しかし,「日式住宅」の導入以降,台所と部屋との直接的連絡が困難である従来の平面構成から,家事の便宜を図るために,台所の床高を上げ「ゴシル」が台所に繋がる平面構成へと変化するのである。屋内化された台所は,1960年代以降,公営住宅に導入され,今日に至るまで,韓国のほとんどの住宅で採用されることになる。
④押入と続き間
韓国の一般的な住宅では,従来,1つの部屋の面積が非常に狭く,押入のような収納空間は設けられていなかった。そのひとつの理由は,「オンドル」という特殊な床暖房システムのためである。
住宅を構成する部屋には,「バン」と「マル」,台所,「マダン」,庫,ジャンドクデ,チャンバン,便所などがある。その中で部屋であるバン(房)を見ると,各部屋には壁際に小さい箪笥が置かれている以外,収納空間や家具はほとんど見当たらない。
韓国では,一般的にその季節に使われる衣類や蒲団などを部屋に置き,その他の物は物置である「ゴバン고방(庫房))に保管していた。押入の導入によって,部屋で衣類や蒲団の大量収納が可能になってくる。今日では押入が壁一面の大きさを持つ「ジャンロン징롱」と言う収納家具にその形態を変え,衣類・蒲団類は部屋の「ジャンロン」に収納されるようになってきた。本来の収納空間であった「庫」は,その姿をほとんど消している。
襖によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。
韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間には扉で繋がる「デーチョンマル」が設けられる「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われる。特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている。「日式住宅」の空間要素が受容された代表的な空間が「続き間」である。
「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。
図6 安東鉄道官舎・増改築のプロセス
① 出入口の位置
植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。
三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。
韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。
②「マダン」
居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。
出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。
一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。
こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。
③「ゴシル」の出現
「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。
「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。
以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。
④道路の「ゴサッ」化
「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。
5 植民地遺産の現在
韓国のTVドラマ『黎明の瞳(여명의 눈동자)』のいくつかのシーンは,共著者である朴重信が実測した建物(九龍浦:調査対象08)の手前の路地で撮影された(図7)。「黎明の瞳」(演出:キム・ジョンハク/脚本:ソン・チナ,主演:チェ・ジェソン,チェ・シラ,パク・サンウォン)が放映されたのは,1991年10月7日~1992年1月16日で,国民的人気を集めた。
ドラマは,1943年から1953年にかけて,日本の植民地時代(日帝時代)から朝鮮戦争(韓国動乱)半ばまでを背景としている。挺身隊に嫡出されたヨオク(女性・ヒロイン),中国南京の日本陸軍15師団に配置された朝鮮人学生チェ・デチ(男性),反戦運動の疑いで拘束されたジャン・ハリム(男性)の3人が主人公で,日本植民地期,独立,韓国動乱(朝鮮戦争)につながる激動の韓国現代史を背景に,この3人の主人公をめぐって起きる様々な事件を通じて,イデオロギー対立の熾烈さ,過酷さを表現した愛と悲しみの物語である。
韓国MBC創立30周年を記念して制作されたこの『黎明の瞳』は,総制作費72億圓(ウォン)という映画なみの予算を投入し,テレビドラマ史上最高の2万人あまりのエキストラを動員,中国・フィリピンなどの海外ロケを敢行するなど,型破りのドラマで,1991年から1992年にかけてドラマ大賞,男女演技賞,監督賞,作品賞など数多い賞を受賞している。
衝撃的だったのはヒロインが日本軍により従軍慰安掃として動員されるという設定である。ドラマが制作された背景には,盧泰愚大統領の訪日時(1990年)の「天皇の謝罪」問題,宮沢首相訪韓時(1992年)の従軍慰安婦問題があった。当時,従軍慰安婦問題が日韓間の懸案として浮上しており,『黎明の瞳』では日本軍に徴兵された朝鮮人兵士が虐待されるシーンや日本軍の兵士が従軍慰安所を利用する場面もお茶の間にそのまま放映され,韓国人の反日感情をかきたてることにもなった。続いてMBCで放映された『憤怒の王国』(1992年)も,「即位の礼」に向かう天皇を狙撃するという内容を含んでおり,1990年代初頭の日韓関係が極めて厳しい状況であったことが思い起こされる。
10年の時を経て,韓国KBSのTVドラマ『冬のソナタ』(監督はユン・ソクホ。2002年1月~3月の毎週月曜と火曜の夜に放送された)が,日韓ワールド・カップ(W杯)共同開催(2002年)とそれに伴う850を超える交流行事の流れの中で,日本でも放映され(NHKBS2:2003年4月~9月:2003年末に再放送:NHK総合:2004年4月~8月),空前の韓流ブームが起こる[14]。
もちろん,この韓流ブームにも関わらず,日韓関係の歴史に横たわる深い溝が埋められたわけではない。しかし,韓国併合100周年を迎えて,緩やかな変化は感じることができる。
かつての「日本人移住漁村」や「日式住宅」が建ち並ぶ「開港場」などを舞台の背景とした映画やTV番組には,「黎明の瞳」(TVドラマ:1991.10.07-1992.01.16(MBC)九龍浦)の他,『将軍の息子』(映画:(1編)1990.06.09 ロードショー栄山浦群山(ヒロツ家屋の前)),『風のファイター』(映画:2004.08.12 ロードショー群山),『砂時計』(TVドラマ:1995.01.10-1995.02.16(SBS)群山),『野人時代』(TVドラマ:2002.07.29-2003.09.30(SBS)群山),『氷点』(TVドラマ:2004.10.04-2005.01.08(MBC)群山),『天年鶴』(映画:2007.04.12 ロードショー群山),『六兄弟(韓国名:六男妹)』(映画:1998.02.04-1998.04.09(MBC)仁川(チャイナタウン近く))などがある。
「黎明の瞳」の一舞台となった九龍浦では,「日本人村」整備計画が進められつつある。Ⅲ章で明らかにしたように,九龍浦には数多くの「日式住宅」が残されている。九龍浦が属する浦項市は,世界第4位の粗鋼生産を誇るボスコ(旧浦項総合製鉄)の企業城下町であるが,九龍浦を観光資源に活用できないかと特別チームを編成,整備計画を進めつつあるのである。もちろん,この整備計画をめぐっては,市当局は極めて慎重である。既に日本人観光客が急増しつつあり,観光客誘致には反対は少ないものの,独島(竹島)問題を抱えており,日本植民地時代の記憶が蘇るのを快く思わない人々も少なくないからである。
図7 黎明の瞳 九龍浦のシーン
現在のところ,より積極的なのが群山である。群山市は開港地としてその歴史を生かし「近代文化中心都市」の建設を目指し,約1000億圓(ウォン)を投入する予定である。この事業は,月明洞(ウォルミョンドン)の180haに,2010年から2019年の10カ年計画で近代歴史文化体験地区を造成し,近代歴史建築物の整備,近代歴史街並みの造成,近代産業遺産を活用する芸術創作ベルト化などを計画している。2009年10月16日には,近代文化中心都市の開発と未来をテーマとしたワークショップを開催し,本格的な事業推進を宣言した。170件ほどが現存する近代建築物を活用して,「近代文化都市」を新たに造成するという。旧朝鮮銀行,旧十八銀行,「日式住宅」,日式の寺院などに関する保存,整備,活用方案が含まれている。1923年に建てられた朝鮮銀行は,小説『濁流』(蔡萬植,1938)に登場する。群山市は,既に2010年度にむけて旧朝鮮銀行の復元工事費として国費3億圓を確保し,総額6億圓をかけて本格的に復元工事を進める予定である。
栄山浦も保存整備が進められつつある。羅州市は,既に,2007年,栄山浦地区を「近代歴史街並み」として,登録文化財に指定するため,文化財庁に指定申請書を提出している。指定区間は旧栄山浦船倉から精米所までの750mで,当時栄山川沿いに形成された市街地の姿と日本式家屋,商家などの100余件がその対象である。特に栄山浦の灯台は1915年につくられ,韓国雄一の内陸河川にある灯台で登録文化財129号(2004年指定)である。羅州市は,代表的な「日式住宅」を民間から購入し歴史教育場として活用する予定で,現在計画は着々と進められつつある。
『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』を上梓して、まもなく、九龍浦の町並み保存集計計画にかかわるシンポジウム(2010年7月9日)に呼ばれた。日韓の建築家が関わるプロジェクトに育てばと思う。
[1] 客舎は,高麗時代に出現したと考えられている。
[2] 高麗聖宗王14年(995年)によって実施された身分制度。「文班」と「武班」の職を持っている人の統称。以後,朝鮮世宗王18年(1436年)に「両班」制度が確立され成文化され,文武の職を持つ人だけではなくその家族,家門までも「両班」と呼ばれることになった。
[3]
石川県小松市の額見町遺跡は,およそ7世紀から12世紀の集落遺跡で,600~700棟の住居址が確認され,2三棟からL字型カマドが見つかっている。
[4] マルは板の間のこと。「アンバン(内房)」と「コンノンバン(越房)」を繋ぐ吹きさらしの板の間を「デーチョン」といい,「デーチョンマル」という言い方もなされる。
[5] 「アンバン(クンバン)」と「コンノンバン(ジャグンバン)」の間に設けられている「高床」の板の間のこと。「マダン」(外部空間)と部屋(内部空間)を円満に繋げる中間領域の空間で「マダン」側の壁がない半外部空間である。「オンドル」が冬のためのものであると「マル」は夏のためのものである。マルは日本の縁側にあたる空間で,形態や場所によって「ヌマル」,「テッマル」,「ゴルマル」,「ノルマル」,「デーチョンマル」など様々な名称を持っている。その中で大庁マルは部屋と部屋の間に位置する最も広いマルで,厚い夏場の食事や作業スペースとして使われ,プライバシー度の最も高い「アンバン」への進入をコントロールする機能を持っている。
[6] 家長の部屋,主寝室として用いられる面積や位置は関わらないが,普段南側のリビングと台所と隣接している。両親と同居している場合は両親部屋が「アンバン」となる。伝統的な住宅では,お母さんの部屋を「アンバン」,その向かい側にある嫁の部屋を「ゴンノンバン」としその間に「デーチョンマル」を設けてその領域を区別している。本来は女性が居住する棟であるが,現在は両親の寝室の通称として使われているところもある。儒教的な意味合いが高い名称で,現在も慶州,安東などの伝統文化が重要視されている地域では「アンバン」「ゴンノンバン」の呼び方が多く残されている。
[7] 子女室として用いられる。
[8] 接客,団らんなどのための部屋。
[9] 布野修司編,『アジア都市建築史』「Ⅰヴァナキュラー建築の世界02オーストロネシア世界」,昭和堂,2003年
[10] 野村孝文,『朝鮮の民家:風土,空間,意匠』,学芸出版社,1981年
[11] 朝鮮鉄道12年計画は,1927年から12年間にわたり国有鉄道を5線860マイル新設し,私鉄5線210マイルを買収し国有化することを内容としている。『韓国鉄道100年史』,鉄道局 広報担当官室
[12] テッマルは部屋と「マダン」の間に設けられた細長いマルである。また,「デーチョンマル」は一般的に上流住宅にあるもので,部屋と部屋,部屋とヌマルの間にある比較的大きい空間,マルバンは,壁や天井を含めた全ての部分はオンドル部屋と一緒であるが床だけが木の板でできている空間,テゥイマルは各部屋とデーチョン等を「マダン」とか他の部分に繋ぐ空間で壁や窓がなく,テッ柱があってその柱線に合わせテッマルを並べる。チョックマルはテッマルと同じ機能を持っているがテッ柱はない。そして,ヌマルは普通上流住宅の「サランチェ」の端に位置する。男性の象徴的,権位的な尊厳性がある所である。
[13] セマウル運動は,1970年4月22日当時の朴大統領によって始まった農村再建運動である。農村の古い村を磨いて新しい村をつくるための運動で農民に対する様々な支援が行われた。その中で老朽化した農村住宅問題に取り組んで実行されたのがセマウル住宅の建設である。その契機によって農村の住宅では,玄関,内部化された便所や浴室が導入される。
[14] 遡って,日本に韓流ブームのきっかけとなったのは,1996年10月に福岡のテレビ局TXN九州が,「ミニシリーズ」という韓国ドラマ3作品を放映したこととされる。「冬のソナタ」以降,「宮」「魔王」「がんばれ!クムスン」「19歳の純情」「恋人」「春のワルツ」「美しき日々」などの恋愛ドラマが女性の人気を集め,さらに時代劇「宮廷女官チャングムの誓い」が日本で放送されると,「ホジュン」「商道(サンド)」「英雄時代」「海神(ヘシン)」「朱蒙(チュモン)」「太王四神記」などの韓流時代劇も人気を集めるようになった。