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2021年5月7日金曜日

究極のRC-建て続けること、そして壊されないこと 「蟻鱒鳶ル」   岡啓輔

 進撃の建築家 開拓者たち 第4回 開拓者02 岡 啓輔 「究極のRCー建て続けること,そして壊されないこと 「蟻鱒鳶ル」」 『建築ジャーナル』201612月(『進撃の建築家たち』所収)



 開拓者たち第4回 開拓者02 岡啓輔

  究極のRC建て続けること、そして壊されないこと

「蟻鱒鳶ル」   岡啓輔

布野修司




「蟻鱒鳶ル」は「ありますとんびる」と読む。友人(マイアミ(ガチョウ書さん))に命名してもらったというけれど、「あります」Exist、ここにある!という宣言があって、蟻と鱒という漢字を当てたら、虫、魚に加えて鳥を加えようということになったらしい。言葉に戯れるのは嫌いじゃない。学生の頃「雛芥子」を名乗って芝居を売ったり、映画会をやったりしていたころは、「柩欠季(吸血鬼)」とか「蚕囚季(三周忌)」といった当て字を弄んだものである。岡啓輔がアトリエを「RC作製所」と名乗るのもRCサクセションの捩(もじ)りである。忌野清志郎ののRCは、「ある日(RC(東京弁!アルシ))バンドを作成しよう(サクセション)」と言ったことに由来するという説があるが、RCは「The Remainders of Clover」の略だという。岡啓輔のRCは、もちろん、Reinforced Concrete(鉄筋コンクリート)である。

2001年に土地を買い、2005年に着工、10年を経て、なお毎日造り続ける、これは一体どんな建築なのか。このセルフビルダーを駆り立てているものは何なのか。ひとつ確かだと思えるのは、RCの可能性をとことん突き詰めようとしていることである。

岡啓輔(図①)さんと会うのは二回目だった。まだ滋賀県立大学に居た頃に「談話室」が講師として招いて、講演を聞いたのが最初である。その時、「蟻鱒鳶ル」を見てみたいと思った。なつかしく蘇ってきたのは、「山谷労働者福祉会館」の自力建設(宮内康設計工房)[1]の記憶、また「高山建築学校」の臭い、そして「アーキテクト・ビルダー」の可能性についての想いである。


 

建築修行:工業専門学校・住宅メーカー・現場職人

 工業専門学校の出身だという[2]。心臓病を患い、病弱であったことから、勉強が身につかず、白紙で答案を出すような子だったという。振り返って、絵は好きだったという。そして、中一の時に自宅を建てる大工さんをみて大工になろうと思ったという。安藤忠雄も同じ経験を建築家の原点として語るが、自宅の建設あるいは身近に建設現場をみて建築を志した建築家は少なくない。しかしそれにしても、日本には身近にそうした現場がなくなってきたのは実に大問題である。ドロップアウト気味で、大工になりたいという啓輔を母親は大工の棟梁に預ける。母親の作戦勝ちである。柱1本担げないのである。それぐらい身体が弱かった。そこで工業専門学校にいくことになった。

 15歳から20歳まで有明工専で学び、東京の大手住宅メーカーに就職、上京する。順調に社会人人生を歩み出したようにも思えるが、1年で会社を辞めてしまう。サラリーマン生活に嫌になったのかと問えば、最初から1年で辞めるつもりだったという。秘めたる何かをもっていたとしか思えない。貯めたお金で自転車旅行、日本各地のお寺や神社、『新建築』に乗っているような建築をスケッチして回ったという。これも、なんとなく安藤忠雄の建築修行時代に似ている。旅、スケッチ旅行は、建築家となる第一歩である。

 しかし、わずか1年の貯金でいつまでも暮らせるわけはない。どうやって生計を立てていくのかは大問題である。岡啓輔が向かったのは職人仕事の現場である。東京都新都庁舎など「天下一現場」で、土方、鳶、鉄筋、型枠など建築職人として7年働いたという。

 その間、高山建築学校への参加する機会があり、若い建築家たちとの出会いがあった。

 

高山建築学校

 岡啓輔が「高山建築学校」に最初に参加したのは1987年だという。「高山建築学校」とは、「セルフビルドによる建築哲学の建築家への普及を提唱する」建築家倉田康男(19272000)が1972年に岐阜県飛騨市の数河峠を校地として開始した完全合宿制のサマー・セミナーの活動である。高山建築学校に深くかかわっていた石山修武の『新建築』誌に載った参加の呼びかけを読んで参加したのだという。当時、僕は『群居』同人として、石山さんとは頻繁に顔を合わしていた(「第五章 セルフビルドの世界」『建築少年たちの夢』)のだが、母校早稲田大学の教授に就任する(1988年)ころである。僕自身は学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究-ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)を懸命になって書いていた。

「高山建築学校」については、苦い思い出がある。大野勝彦さんを通じて石山さんと知り合って、『群居』を立ち上げる(創刊準備号(198212月)創刊号(19834月))頃、石山さんの誘いで、木田元、生松敬三、小野二郎といった大先生と一晩楽しい議論に参加する機会[3]があったのであるがが、鈴木博之が我がビアグラスにウィスキーを並々と注いでいた意地悪に気づかず―まあ気分よく飲んだということであるが―記憶を失ってしまったのである。今でも覚えているのは、倉田康男の「建築は頭でっかちでは駄目だ。自ら身体を動かせ!」という言葉である。僕が1991年に藤沢好一、安藤正雄と一緒に「木床塾」[4]を始める原点には「高山建築学校」がある。

ともあれ、岡啓輔が高山建築学校に参加し、倉田康男に師事し、石山修武の教えを受けたことは、以降のセルフビルダー岡啓輔の生き方を決定づけたと言っていい。岡啓輔は、現在「高山建築学校」の管理人であり、その活動に拘り続けている(図②)。

 


土地を買う

 「高山建築学校」に参加し、石山修武と知り合い、石山研究室に弟子入りを希望して2日間座り込んだけれど、正規に早稲田大学を受験しなさいと言われて断念したという。ただ、石山の開くワークショップには自由に出入りできたという。実のところは分からないが、身近に見ていて、石山修武の研究室運営はいささか「ファッショ的」であるように思えていた。、古いタイプの師匠、棟梁である。親分肌で、上位下達の「独裁者」の雰囲気があった。師弟の間で様々な葛藤もあったと聞くが、そのカリスマ的パワーは、多くの「進撃の建築家」を育ててきた。森川嘉一郎[5]、馬場正尊[6]、坂口恭平[7]、芦澤竜一[8]・・・・など石山スクール出身のタレントは少なくない。

仲間のネットワークが拡がる中で、岡啓輔は、高円寺で「岡画廊」を運営する。たまり場がつくりたかったという。上京して15年、その多彩な活動がTVやマスコミで取り上げられるようになって、同志(岡千秋)と出会う。そこで三田に土地を買う(2001)。出会いについて西川編集長は執拗に問いただしていたけれど、同志の話を聞かなければ鵜呑みにはできない。ディテールは不明であるが、多分、啓示に近いビビビの体験があって、「結婚しよう」「家を建てよう」ということになった。

三田の品川、田町に近い一等地の13坪の土地である。青山、神宮の一等地に何が何でも住むと、わずか6坪の土地に自宅(兼事務所)「塔の家」(1966)を建てた建築家東孝光(19332015)を想い起す。しかし岡啓輔の場合、セルフビルドが前提である。その意気込みには相当のものがある。何故、都心の一等地が買えたのか、誰しも好奇心?がそそられるところである。聞いて納得したけれど、ここでは書かない。

ただ、4年間は何もできなかった。何を建てていいのか解らなかった、という。それ以前に身体がボロボロ、ガタガタで、医者に化学物質過敏症と診断され、建築家になるのを諦めたと思い詰めるほどだったという。しかし、その頃、同世代の著名な建築家たちと知合い議論するなかで、「頭はよさそうだけど、そんなにもよくない」「頭は悪いかもしれないけれど、情熱では負けない」と思ったという。現場は自分の方が知っている、という確信を得たのである。

  


RCとの格闘

 建設に当たって、まずは建築確認を受ける必要がある。そのためには、構造計算書も含めて完成図面(建築確認計画概要書)を提出する必要がある(図③)。もちろん、確認は受けた。しかし、着工以来10年を経て竣工しない。そんなことが果たして可能か。可能なのである。


建築構造については、名和研二[9]の協力が大きかったという。しかしそれにしても、この「常識」外れの施主の直営、設計施工、自力建設の試みが様々な波紋を引き起したことは想像に難くない。そうしたッ波紋の中で、逆に「常識」的な建築のおかしさが見えてくる。

第一に、建築基準法の問題、建築確認制度の問題がある。「耐震偽装問題」、「基礎杭問題」などが露わにするように、形式的な手続きによる検査制度と現場との乖離は酷いと岡啓輔はいう。行政の問題のみならずゼネコン、住宅メーカーの現場管理の問題、そしてもちろん、職人の質の問題もある。

第二に、建築コストの問題がある。建築材料の値段については不可解な流通システムがある。RCに限ると、鉄筋、コンクリートの値段は驚くほど安く手に入るという。

第三に、コンクリートの可能性がないがしろにされている、という。

RCについては、現場近くの日本建築学会の図書館にも通い、徹底して勉強したという。現場をみると、様々なコンクリートの肌合いが眼を引きつける。天井を見上げると、妙に滑らかな、しかも、微妙に膨らんだ表情をしている。装飾を弄んでいるのではない。安藤忠雄には敗けない!とは言わないけれど、単に奇麗にコンクリートの表面を仕上げればいいというのではない、という。日々実験であり、質の高いコンクリートを打つ試みの集積がこれまでみたことない建築を産み出しつつあるのである。 

再開発に立向う

 そして第四に、東京の街の抱えている問題が見えてくる。都市計画、まちづくり、都市景観の問題である。「蟻鱒鳶ル」の一帯は、今、再開発計画に巻き込まれ、建替えの動きが急速に進行しつつある。そして、工事差し止め、曳家など実際のアプローチがディベロッパーから既に繰り返しあるのだという。

 今も猶、毎日、現場に来て作業をする。今日の仕事を熟し乍ら明日の予定を立てる。建て続けることが生きることであるそんなセルフビルダーの全てが経済価値に換算されて、下手をすると一瞬でスクラップにされる、そんな時代と場所に、岡啓輔も僕らも生きている。岡啓輔は、果たしてどう対処しようとするのか。その多彩な戦術、壮大なる逆提案をめぐって話は盛り上がったが、そうした問題は、建築家の拠って立つ現場でそれぞれに問われているのである。

 


アーキテクト・ビルダーの行方?

建設業登録はしないのか?岡土建を名乗っているのだから!

100人の岡啓輔の出現を夢見て、その先頭に立つきはないか、と尋ねてみた。

思いもかけないといった顔つきであったが、「蟻鱒鳶ル」の現場のみでは食べていけないことははっきりしている。もちろん、岡啓輔もさまざまな展開を考えている。RCの型枠の特許は取得できないか、コンクリートのグッズが商品化できないか(図④)・・・・。建築家であり、職人であり、居住者でもあるというのがセルフビルダーであるとすれば、自己のうちに閉じざるを得ないのではないか。ワッツ・タワーを建てたサイモン・ロディア[10]や郵便配達夫シュヴァル[11]などについて話したが、さらに多くのセルビルダーたちについて僕らは知っている。「高山建築学校」のセルビルドの哲学に、岡啓輔とともに僕らは向き合うことになる。


アーティストとしての建築家を目指すとすれば、方法を一般化していく必要があるだろう。その場合、建築家であり建設業者でもある、そうした集団を組織する必要があるのではないか、というのが建設業登録はしないのかという問い、挑発、アジテーションであった。岡啓輔の行方について大いに期待を込めて見届けたいと思う。

 


 



[1] 宮内康の指揮のもと、東洋大布野・宮内研究室を中心とする学生諸君が設計建設に関わり、山谷の労働者の自力建設によって建設された。その記録は、山谷労働者福祉会館運営委員会『寄せ場に開かれた空間を-山谷労働者福祉会館建設の記録』(社会評論社, 1992年)にまとめられている。

[2] 1965年、福岡県筑後市生まれ。有明工業高等専門学校 建築学科卒業。RC製作所 岡土建。一級建築士。高山建築学校管理人。

[3][3] 連続シンポジウム「制度と空間」(主催:高山建築学校+HPU(ハウジング計画ユニオン)/後援:同時代建築研究会+婆沙羅商会+モリス研究会/協力:彰国社『建築文化』」)。第1回「1930年代の思想と建築・デザインの潮流」生松敬三+宮内康/聞き手:布野修司(東京麹町会館1981711日)。第2回「モリス工房の日常と装飾について」小野二郎+石山修武/聞き手:布野修司(高山建築学校数河校舎、730日)。第3回「郊外住宅団地と私的全体性について」大野勝彦+鈴木博之/聞き手:石山修武(高山建築学校数河校舎、731日)(趙海光+高山建築学校編集室(2004)『高山建築学校伝説』鹿島出版会)。

[4] 1991年夏、岐阜県高根村で、藤沢好一、安藤正雄、布野修司によって開塾。当初は「飛騨高山木床塾」と称した。その後、加子母村(現中津川市)に拠点を移し、現在も活動を続ける。参加大学は、芝浦工業大学、千葉大学、東洋大学、京都大学、京都造形大学、大阪芸術大学など。加子母木床塾を母胎に、川上木床塾(奈良県)、多賀木床塾(滋賀県)などに拡がっていった。当初10年の活動については『群居』47号特集「木床塾」に記録が掲載されている。

[5] 1971年生まれ。建築学。現代日本文化研究。明治大学国際日本学部准教授。1995年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。1997年、修士課程 (建築設計専攻)修了。2000年まで博士後期課程在籍。早稲田大学理工学総合研究センター助手、客員講師、客員研究員を経て、2003年、桑沢デザイン研究所特別任用教授。2008年より現職。著書に『エヴァンゲリオン・スタイル』(1997年)『趣都の誕生-萌える都市アキハバラ-』(2003年)など。

[6] 1968年佐賀生まれ。Open A代表/東北芸術工科大学教授/建築家。1994年早稲田大学大学院建築学科修了。博報堂、早稲田大学博士課程、雑誌『A』編集長を経て、2002Open A を設立。 都市の空地を発見するサイト「東京R不動産」を運営。著書に『エリアリノベーション:変化の構造とローカライズ』(2016年)『PUBLIC DESIGN 新しい公共空間のつくりかた』(2015年)『都市をリノベーション』(2011年)『新しい郊外」の家』(2009年)など。

[7] 1987年熊本生まれ。建築家、作家、絵描き、踊り手、歌い手。2001年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。大学卒業後、石山修武研究室世田谷村地下実験工房、果物卸売業有限会社遠徳勤務。2009年坂口恭平研究所開設。著書に0円ハウス』(2004年)、『TOKYO一坪遺産』(2009年)、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(2010年)、『独立国家のつくりかた』(2012年)、『幻年時代』(2013年)、『モバイルハウス 三万円で家をつくる』(2013年)、『坂口恭平 躁鬱日記』(2013年、躁鬱病であることを公言し「自殺者をゼロにする」という目標を掲げ希死念慮に苦しむ人々との対話「新政府いのっちの電話」(090-8106-4666)を続けている)、『徘徊タクシー』(2014年、27回三島由紀夫賞候補)、FURUMAI』(2015年)、『幸福な絶望』(2015年)、『家族の哲学』(2015年)など。

[8] 1971年横浜生まれ。芦澤竜一建築設計事務所主宰。滋賀県立大学教授。1994年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。19942000年、安藤忠雄建築研究所勤務、2001年、芦澤竜一建築設計事務所設立。2000年「VAJRA Forest」でインテリアプランニング優秀賞、その他JCDデザイン賞 2002IP2004入選、東京建築士会住宅建築賞、SD Review 2007入選、2009年度グッドデザイン賞受賞、第56回大阪建築コンクール大阪府知事賞、2009年度日本建築家協会優秀建築選200選、第2回関西建築家新人など。

[9] 名和研二 1970長野県生まれ。1994 東京理科大学理工学部建築学科卒業。1998年~2002年、EDH遠藤設計事務所。1999年~2002年、池田昌弘建築研究所所属。2002年、すわ製作所内になわけんジム設立。

[10] Simon Rodia18791965)、本名Sabato Rodia。ナポリ生まれのイタリア移民、ロスアンゼルスのワッツ地区にタワーを建てた。1921年に建設開始、鉄筋をセメントで固め、廃品のビンやタイルの破片を集めて14本の塔を建てた。最も高い塔は30mにも達する。ロディアは、塔の集合体をNuestro Pueblo(われらが町)と呼んだが、塔に対する嫌がらせや苦情など、近隣とのトラブルによって、ワッツを去る。不法建築として取り壊されようとするが、反対運動が展開され、1990には合衆国歴史的建造物に指定された

[11] Joseph Ferdinand Cheval(1836-1924). 33年の歳月をかけて自力で巨大な城塞を建設した。シュバルの理想宮として知られる。岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(河出文庫)、水木しげる『東西奇ッ怪紳士録』(小学館文庫)など。

 

2021年5月6日木曜日

『近代世界システムと植民都市』「図III4-9 バタヴィアの居住区 1770 年」(発行: 京都大学学術出版会 2005 年 P.310 P.305 -P.306 )

 2020 年度入学試験問題における貴殿著作物からの複製について(御礼)早稲田大学総長 田中愛治

『近代世界システムと植民都市』「III4-9 バタヴィアの居住区 1770 年」(発行 京都大学学術出版会    2005 P.310 P.305 -P.306 )

貴殿著作物を複製させて頂いた入学試験問題

l ) 学部学科名等:政治経済学部

2)      試 験 種 別

3)                      :世界史

4)                  2020 年度

見本として入試問題を別紙の通り添付いたします



2021年5月5日水曜日

進撃の建築家 開拓者たち 第3回 開拓者01 渡辺菊眞(後編)地域=地球のデザイン 「宙地の間」 

進撃の建築家 開拓者たち 第3回 開拓者01 渡辺菊眞(後編)「地域=地球のデザイン 「宙地の間」」  『建築ジャーナル』201611月(『進撃の建築家たち』所収)

 進撃の建築家 X人の開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 03

 

開拓者01 渡辺菊真

 

 地球=地域のデザイン

「宙地の間」(渡辺菊真)

布野修司




「宙地の間」は「そらちのま」と読む。英語ではHome between Earth and Skyである。「宙」というのは、日本語では「宙に浮く」「宙に舞う」というように「空」すなわちSky、空間だけれど、中国語では「宙」は時間である。空間は「宇」であり、「宇宙」とはすなわち空間=時間のことである。『淮南子』[1]「斉俗訓」の「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」に由来する。「宙地の間」(図①)には、日時計が組み込まれており、時間の意味も込められている。「間」は、もとより、空間、時間の双方に関わる概念である。S.ギ―ディオンの『時間・空間・建築』を想起させる。

渡辺菊真は、最近の講演などで、「地域地球型建築をめざしてTowards a Glocal Architecture」とうたう。L.コルビュジェの「建築をめざしてVers une architecture」が意識されているのであろう。

「地域地球型建築」とは何か。戦後70年を迎えて本誌に求められ「世界資本主義と地球のデザイン」と題する文章(『建築ジャーナル』201512月号)を書いた。そして「「地球」のデザインと「住居」のデザイン、あるいは「地域」のデザインはどう結びつくのか。それこそ「最も豊富なる部分をもつ<全体の>」のデザインの問題である。」と結んだ(『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』(1995))。「地域地球型建築」という理念とその実践に大いに期待したいと思う。

 

この場所この地球、あの建築



 「この場所この地球(ほし)、あの建築」と題した『高知新聞』の連載は2013年1月から毎週1年連載された2011110日~1226日 週刊連載)。毎週送ってもらって感心したのは、「京都CDL」の「ミテキテツクッテ」について触れたように、新たに移り住んだ土地であるにもかかわらず、何気ない風景の意味を深層から読み取って見せる、その眼力である。

 「この場所」、そして「この地球」という視線が今建築家に要請されていると思う。 そして、「この建築」にそれを表現したい。

  修士論文は、上述のように、京都における「余白」の発見と、その構成手法に関する考察」と題されていた。そして、個展1998は「「風景」建築→建築」と題される(図②)。「余白」ではなく「建築」へ→が向かっている。「風景」がキーワードとされるが、そのプロジェクトは、建都1200年を迎えて喧しい議論が手展開されていた京都の景観問題を背景に[2]、京都ホテルの敷地に京都という都市の機能を全て入れ込もうというある種のカウンター・プロジェクトであった。


想いだすのは、原広司の「住居に都市を埋蔵する」(「最後の砦としての住宅設計))というスローガンである(「第八章 集落から宇宙へ」『建築少年たちの夢』)。例え「猫の額」のような宅地でも、その住宅に都市を、そして宇宙の意味を込めること、渡辺菊真は「あの建築」ではなく、自らの建築として実現しようとしているように見える。

 

アート・フロント

 菊真の手掛けてきた「土嚢建築」は、もう1つの出会いを招く。そして、美術館という制度の中で美術品の展示という形で表現の場を得ることになる。「土嚢建築」は、現代の日本においては建築として自己を実現することはない。建築基準をクリアすることができないからである。仮設建築物としては可能性があるかもしれないが、その実現のためには、とてつもないエネルギーがかかる。きっかけとなったのは、現代美術家高嶺格による「「Good House, Nice Body〜いい家、よい体」展(金沢21世紀美術館)である(2010)。渡辺菊真は、共同で「Good Houseいい家」を高嶺氏と共同で制作した[3](図③)。 



住むことwhonen,生きることleben、そして建てることbauen、さらに考えるdenkenことが同じである(M.ハイデガー)位相と格闘してきた渡辺菊真にとって、日本の住宅建設のあり方がむしろ異様に思えたことは当然である。高嶺格は、決してアイロニカルにではなく「Good Houseいい家」を提起しようとしたのであり、「土嚢建築」「鉄骨足場建築」に建築の原初の力を見たのだと思う。

 そして、「水と土の芸術祭」の産泥神社のオープン・エア展示がある(図④)。「水」と「土」というのは菊真にぴったりだろう。招待されるべくして招待された。テンポラリーな展示として実現するのであるが、「土嚢建築」だから「黒テント」ほどの機動力はないけれど、都市への強烈な表現手段を意識化することになった。アーティストとしての菊真も魅力十分である。高知県安芸市の大山岬に建つお遍路さんの休憩所「夢のリレー−大山岬にたつ遍路小屋「波動」-」(図⑤)、双隧の間(図⑥)など、インスタレーション作品にその豊かな造形能力の片鱗を示している。









 

角館の町家

建築家として建築雑誌に発表(住宅特集』20066月号)したという意味で処女作となるのは、「角館の町家」(1995)である(図⑦)。渡辺豊和さんの生家のリノべーションである。「みちのくの小京都」角館は、南北二つの町、北の武家屋敷が立ち並ぶ「内町」、南は間口の狭い商家がびっしりと連なる「外町」からなる。渡辺家はこの「外町」にあり、すぐ近くのには、大江宏先生の「角館伝承館」がある。空家となっていた生家にお邪魔して昼寝をさせてもらったことがある。この二つの町の間を走る街路が拡幅されることになり、築100年の町家をそのまま曳家し、新たに水回りを備えた建物を増築する仕事を任されたのである。




日本は最早スクラップ・アンド・ビルドの時代ではない。既に地方は人口減少に向かい、空家問題が深刻である。ずいぶん前から言ってきたけれど、若い建築家が日本で仕事を得ようとすれば、身近なのはリノベーションであり、既存の空間のメンテナンスである。そして、第2には、まちづくりである。地域社会(コミュニティ)のサポート、ケアを仕事にすることである。オーソドックスな建築家として仕事を得ようとするのであれば、需要のあるところ、すなわち海外に行くしかない。渡辺菊真の場合も、リノベーションによって建築家としての歩みを開始したことになる。

ここでも、菊真は、町並みと町家の来歴を読み込むことから始めている。除去した築150年の平屋は3代前、移築した町家は曾祖父、敷地一角には祖父が建てた書庫があり、その3軒をつなげた折れ曲がり渦を巻く動線を活かし立体化した。曾祖父の建てたのは角館最初の2階建町家で、それが典型となったように、移築+増築の方法も「典型」となることを目指した。移築した町家は国の登録文化財に指定されている(2010年)。

 

土嚢建築

 「土嚢建築」はわかりやすい。土嚢という建築材料・部品が大きく全体を規定している。本来、日乾煉瓦によって建設されてきた建築構造システム、空間構成システムを置き換えることによって全体は成り立つ。建設期間を大幅に短縮させる方法はN.ハリーリN19362008[4]の開発したものだ。渡辺菊真は、上述のように、半ば偶然、カルアース研究所に行って土嚢建築と出会う。

 アースバック構法Earthbag Construction、スーパー・アドベSuperadobe構法とも言われるが、土嚢袋を壁状に積み上げ、有刺鉄線や杭などで土嚢袋をズレないように固定していくのがミソである。施工がしやすいこと、安価であり、断熱性や防音性にもすぐれる。問題は、黄麻の土嚢袋が湿気で腐ることである。そこでポリプロピレン袋が使われるが、日光に弱いという問題もある。石化材料を使うのもエコ・アーキテクチャーとして一貫性に欠けるという指摘もあるが、ひとつの構法提案である。何億という住宅難民のために、建築家が果たすべき役割は数多くあるのである。

 渡辺菊真の「虹の学校」における独創は、「土嚢建築」「鋼管足場」、竹骨、竹床、アランアラン(草)葺きを巧みに組合せたハイブリッド構法によって、誰も見たことのない空間をつくりあげたことにある。

 

日時計

 さて、「宙地の間」である。「宙地の間」の場合、プリミティブに建築材料が限定されることはないし、「角館の町家」とは異なり、予め前提とすべきフレームもない。しかも自邸であり、要求条件を自ら設定できる。その方法が問われることになる。

渡辺菊真が、空間構成の骨格として選び取ったのは日時計である。具体的には、敷地に合わせた緯度(北緯 34.60°)勾配の南面する大屋根の下に半円筒形の時計版を設置し、屋根のトップライトから注ぐ光線が時刻を示す赤道式日時計が組み込まれ、全体を大きく規定しているのである。何も奇を衒っているわけではない。その骨格に、パッシブデザインの手法が周到に重ねられている[5]。すなわち、井山武司に学んだ「太陽の家(ソラキスSolarchis)」の基礎技術が基本とされている。そして、何よりも、太陽の動き、天候を居ながらにして感じる、自然との交感が意図されている。

実に興味深いのは、渡辺菊真が「標準型の設計」をうたうことである(渡辺菊真「宙地の間日時計のあるパッシブハウス」『建築討論』006https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/pdf/pdf_review_work09.pdf)。思い起こすのは、渡辺豊和の「標準住宅001」である。渡辺豊和論として書いたけれど(「第六章 建築の遺伝子」『建築少年たちの夢』)、渡辺豊和さんの一連の住宅作品は、概念建築の作品と思われていたけれど決してそうではない。住宅を芸術作品と考える作家でも、クライアントの要求に丁寧に答える住宅作家でもなく、建売住宅や商品化住宅も含めて、「標準住宅001」という命名が示すように1つの建築類型を提示する基本的構えがあった。「宙地の間」は、その構えを基本的に引き継いでいる。

 

ユニヴァーサル・ローカリティ

「宙地の間」は、完全に設計方法を内包している。すなわち、地球上どこでもその方法は適用可能である。もちろん、同じ「標準型」がそのままどこでも建てられるということではない。標準設計という概念があるから「標準型Standard Type」という概念は使わないほうがいいと思う。「宙地の間」は「原型Architype」あるいは「基本型Prototype」であり、具体的な場所(敷地)に適用する場合、それなりの設計プロセスが必要である。日時計を機能させるために、建築を正確に南面させて配置する必要があるが、不定形敷地であったり、傾斜地であったり、景観であったり、それぞれに創意工夫が必要である。すなわち、表現は多様でありうるのである。

 渡辺菊真は、21 世紀型の空間概念として「ユニヴァーサル・ローカリティUniversal Locality=Universal Sun ×Local Earth 」をミースv.d.ローエの「ユニヴァーサル・スペース」に対置する。「敷地の緯度が建築の標準断面を決定する。次にこの「標準型」を敷地状況へ適応させる。建築資材は地域産材の吉野杉を使用し、その架構に優れた技術を持つ地域の工務店が施工を担う。個別で此処にしかない存在である大地が空間に具体性を生む。」。既に、揺るぎない方法が確信されており、進むべき途は見据えられていると言っていい。

 

「宙地の間」は決して完成型ではない。日時計が架構方式に組み込まれていないのはいささか不満である。確認申請の手続き上、構造耐力に認められなかったのだという。おそらく、さらなる試行錯誤と洗練化が必要となるだろう。そして、集合住宅モデルなど、多様な建築類型について「宙地の間」の展開を見たいと思う。

もちろん、渡辺菊真への期待はそれにとどまらない。アジア・アフリカをまたにかけた土嚢を積む身体を張った作業からまちづくりまで、職人仕事からアーティストの仕事まで、機会を捉えてまた縁に導かれて、突き進んでほしい。





[1] 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179122年)が編纂させた思想書。

[2] 京都の景観問題については、布野修司+アジア都市建築研究会編(1994)「特集:建都1200年の京都」『建築文化』彰国社参照。

[3] 「住居という最も大切で根源的な場所を、しっかりお膳立てされたカタログから選ぶことの奇妙さ、そんな「カタログショッピング」にほぼ一生を費やして大金を払い続けねばならない過酷さ、さらには多種多様のペラペラな壁紙によって保証される「個性」という虚偽(私はこんな壁模様を選んだ、それはお隣の壁とは違う。うちだけの個性!これはドアノブの形状などにもあてはまる)。それは「すみか」と呼ぶにはあまりにかけ離れている。そこで「いい家」では、そんな状況から背を向けて、この手に「すみか」を奪還することを最大テーマとした。」という。

[4] N.ハリーリはイラン生まれで、トルコ、合衆国で建築を学び、1970年に合衆国の建築家ライセンスを得ている。その土嚢建築が生まれ育った西アジアの伝統的建築に想を得ていることは明らかである。N.ハリーリは、1975年以降、土建築の専門家として、第三世界の住宅開発のための国連のコンサルタントなる。1984年に彼はスーパー・アドベ・システムを開発し、NASAも興味をもったとされるが、国連開発計画UNDP、国連難民高等弁務官事務所UNHCRは、湾岸戦争以降、難民のためのシェルターとして期待している。そして、1991年、カルアースCal-Earth California Institute of Earth Art and Architecture)Iを設立する。2004年には、アガ・カーン賞を受賞している。

[5] パッシブハウスの基本であるダイレクトゲインを重視し、南面大開口からの光の受容と遮断を行う庇の出は設置緯度における太陽南中高度により設定されている。外壁および屋根の木部は充填断熱、RC高基礎部は内断熱を施している。そして、部屋に露出するRC高基礎の腰壁は蓄熱体として活用している。切妻屋根頂部に暖気抜きの窓を設け良好な通風が得られるよう留意されている。