進撃の建築家 開拓者たち 第10回 開拓者08ー12 山本 雄介(開拓者08)松本 大輔(開拓者09)青山 周平(開拓者10)岡本 慶三(開拓者11)池上碧(開拓者12) 北京建築修業,そしてデビューへ 「大雑院の改造」『建築ジャーナル』 2017年6月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第10回 開拓者08、09、10、11、12 建J 201706
北京建築修業、そしてデビューへ
大雑院の改造
■山本 雄介(開拓者08)■松本 大輔(開拓者09)■青山 周平(開拓者10)■岡本 慶三(開拓者11)■池上碧(開拓者12)
布野修司
若い建築家がデビューするのはいつの時代も容易くはないが、近年ますます難しくなりつつある。とりわけ、新築が少なくなっていく日本でチャンスがさらに少なくなるのは当然である。かつては親や親戚の住宅設計の仕事を得て「新奇」なデザインでデビューするケース(「父を殺し、母を犯せ」(磯崎新))が考えられたが、現在身近なのはリノべーションの仕事である。社会がますます複雑化し、建築設計の諸手続きが高度化することで、実績のない若手が参加できるコンペは少なくなったし、アトリエ派の建築家のところで修業して独立するケースもめっきり減った。
日本のそうした建築環境が大きく変わる中で建築家として生きていくとしたら、①建築のメンテナンス、コンヴァージョン、リノべーションの技術・技能を身につける(アーキテクト・ビルダー、建築職人)こと、②まちづくりへと展開する(コミュニティ・アーキテクト)こと、③建築需要の多い海外へ行くこと、の3つの道が考えられると繰り返し書いてきた[1]。実際、魚谷重則(前号、前々号)の場合もそうであるが、2014年に吉岡賞を受けた403architecture [dajiba]など、リノべーションの仕事を出発点とする建築家は少なくない。③については、いきなり中東産油国やアフリカが難しければ、中国、そしてインドだろう、と言ってきた。人口が多いし、これから市場が開かれる可能性があるからである。中国人留学生に僕はどうすればいいですかと聞かれて、日本で修業してすぐ中国に帰りなさい、と苦笑いしたことがあるが、中国は21世紀の最初の10年熱気にあふれていた。そうした中で、中国に渡った若い建築家たちがいる。
中国建築ブーム
中国が国内総生産GDP(名目)で日本を抜いて世界2位となるのは2009年である。2008年に北京オリンピックを成功裏に終え、2010年の上海万博を迎えようとする時である。この間、中国の建築シーンは活気に溢れていた。ザハ・ハディド、レム・コールハウス、ヘルツォーク&ド・ムーロンといった世界的に著名な建築家たちが数々の話題作[2]をものする一方、プリツカー賞を受賞した王澍や海外でも活躍するMAD Architectsを率いる馬岩松など世界的にも認められる中国人建築家も育ってきた。そして、日本人建築家も中国に招かれ、活躍することとなった。
僕が中国を最初に訪れたのは1995年3月である。阪神淡路大震災の後で滞在中に地下鉄サリン事件が起きたことを覚えている。その後、『日本当代百名建築師作品選』(布野修司編,布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,1997年、中国国家出版局優秀科技図書賞受賞)を出版し、それが縁で外務省主催の講演会「日本の現代建築」[3]を北京と広州で行ったのは1999年である。その頃、中国の建築界はまだそう沸いてはいなかった。しかし、その予兆はあった。華南理工大学(広州)での僕の講演には500人を超える学生たちが集まったのである。日本の現代建築への関心には並々ならぬものがあった。その後まもなく、布野研究室出身の孫躍新、段煉孺、韓一兵も様々な仕事の話を持ち掛けてくるようになるのである。韓一平の母親は、中国十大建築師の一人張錦秋で、西安を拠点に、陝西省博物館など数々の作品がある。空海最寄りの青龍寺の記念碑、玄宮園の阿倍仲麻呂記念碑のデザインでも知られる。
2002年に北京を訪れた時には、山本理顕の「北京建外SOHO」(2003)の現場が始まっていた。その現場にいたのが、その後まもなく独立して中国で活躍する迫慶一郎である。迫は、2004年に独立、SAKO建築設計公社を設立している。そして、『北京パンプス』(2008)『北京モザイク』(2009)『金華キューブチューブ』(2010)『北京ピクセル』(2012)など集合住宅を中心とする作品を次々に実現することになった[4]。その活躍ぶりは日本のTV番組でも何度も取り上げられた[5]。この時北京大学に籍を置いていて中国で仕事をすることを決意していた、そしてまもなく日中を股にかけるスターになったもうひとりの建築家に会ったけれど、その後の彼については省こう。
その後、まさに中国が世界2位の経済大国になった頃、中国に渡った多くの若い日本人建築家たちがいる。リーマンショック(2008年)の余波もあったと思う。日本で就職するより仕事の機会があったのである。滋賀県立大学布野研究室の川井操(現滋賀県立大学助教)くんは、西安工程大学(段煉孺工作室研究生)に留学し(2005年10月-2006年10月)、西安旧城地区について学位論文(2010年)を書いた後、北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司UAA(Urbanization Architecture Atelier)に勤めた(2011年1月-2013年1月)。その縁で、北京に活躍の場を求めた若い建築家に会う何度か機会があった[6]。東京大学に留学経験がある劉域によって設立されたUAAは、山本理顕設計の北京建外SOHOに事務所を置いて多くの日本人を受け入れていたのである。東京大学で同じ鈴木博之研究室で学んだパートナーである鏡壮太郎くんはUAA Tokyoの責任者でもあった。
しかし、UAAはいまやない。出身のオルドス(内蒙古モンゴル自治区)で大きなプロジェクトを得て景気はよかったのであるが、建設市場が飽和に達し、下降し始めると撤退を余儀なくされたのである。
大雑院に住む
彼らの多くは、当初、北京の東北方面、二環(第二環状道路)から三環にかけて、マンションを共同で借りて住んだ。しかしまもなく、北京のマンションの値上がりは激しく、都心から遠い場所に住処を求めざるを得なくなったという。北京のマンションの価格地図をみると空港に向かう東北が高く、値上がりも激しい。そして、同じお金を払うのであれば、折角北京に住むのだから、郊外に住むよりも改造も比較的自由な都心の大雑院に住んだ方がいい、ということになった。
UAAをやめてフリーランスになった山本雄介くん(図①)は、望京エリアにあるマンションに同僚の松本大輔くん(図②)と一緒に住んでいたけれど、割と安い値段で単身用の部屋を借りられるという話を聞いて、旧城エリアに引越した。リビングとベッドルームが路地を介して分かれている、なんともユニークな住居だ(図①ab)。もともと綺麗好きで雑院には住めないなと思っていたけれど、生まれた時から公共トイレを使っていた、シャワーを浴びるときは外に出ていた、と思うようになった。今はもう全然抵抗ないという。
松本大輔くんも、UAAをやめて事務所を立ち上げ、旧城地区の大雑院に引越した。なかなかセンスがある。最小の空間をうまく使っている(「WZN56」図②abc)。興味深かったのは、改修とともに下水管の敷設も提案している点である。大雑院に共住する中国人居住者の反対でうまくいかなかったというけれど、大雑院全体の居住環境全体の改善への一歩である。
中国版ビフォー&アフター
青山周平くん(図③)は、SAKO建築設計工社を経て事務所を立ち上げ、やはり、旧城地区に移り住んだ(図③de)。そして今や四合院改造のスターである。きっかけは『夢想改造家』という上海のテレビ局の番組関係者からの依頼だったという[7]。テレビ局側がボロボロで劣悪な居住環境の雑院を探してきて、リノヴェーションの過程を番組にする。中国版ビフォー&アフターである。中国でも人気番組だという。見せてもらったのは「二家族のための三つの家」という雑院にそれぞれ仕掛けを組み込んだ小さな3つの空間である。仕掛けが楽しい。要するに狭い空間を広く使うために、晴れた日には家具を引き出す、ベッドの下などありとあらゆる隙間を収納にする、床を上げ下げする、様々な工夫がビルドインされているのである(図③abc)。放映のタイトルは「首位外籍花美男設計師改造6.8平学区房与奇葩隣居同吃同住」である(『梦想改造家』第二季第四期2015年8月11日放送、放映局:東方工視放映動画)。どうも人気の秘密は「イケメン」「外国人建築家」ということもあるらしい。
大柵欄―北京デザインウィーク
大柵欄といえば、北京外城の繁華街、北京の観光地である。内城のグリッドは崩れているが、基本的には四合院と店屋(ショップハウス)で構成される。北京デザインウィークBJDWは、2011年より毎年国慶節に北京市で開催される国際デザインイベントである。毎年2000人以上のデザイナー、機関運営者、各種専門家が参加し、 500万の来場者がある(図⑥ab)。街を舞台にした実に興味深い取り組みである[8]。日本の各都市でもやったらいい、むしろお手本にすべきである。
大柵欄で、興味深かったのはZAO/standardarchitecture標準営造が四合院につくった図書館など小さなコミュニティ施設「No.8 Cha'er Hutong微杂院」である(図⑦abcd)。訪れた時は工事中というか、それこそ大雑院そのものの印象であったが、胡同再生の提案として面白いと思った。このZaoにUAAから移籍したのが、東京理科大の宇野求研究室出身の池上碧くんである(図⑤)。Zaoの事務所を案内してもらった(図⑧abcd)。中庭の広い優雅な事務所である。張飼是[9]には会えなかったが、若い建築家が蝟集するアトリエである。スタッフの方書君FANG Shujunさんは、上海交通大学卒業して、スイス連邦工科大学ETHチューリッヒ校修了でスイス連邦認定建築家である。2014年よりZaoに勤める中国女流建築家のホープである。帰国後しばらくして「No.8 Cha'er Hutong微杂院」がアガ・カーン賞(2016年)を受けたと聞いた。北京のZaoで若い建築家たちが議論しながら仕事する。しかも、微胡同Micro Hutongについて考え、提案する。可能性に満ちた場があると思う。
アイコン建築批判
北京オリンピック、上海万博で盛り上がり、数々の建設プロジェクトが動いた。そして多くの外国人建築家が招かれた。多くの建築家を参加させる大規模プロジェクトは「集群設計」と呼ばれるが、その象徴が「オルドス100」と呼ばれるプロジェクトである。内モンゴル自治区の江源水工程有限会社の事業で、アイ・ウェイウェイとヘルツォーク&ド・ムーロン(スイス)がマスタープランを担当、日本からは五十嵐淳、藤本壮介が招かれた[10]。劉さんはオルドスの出身で、区政府と強いパイプを持っていたけど、あまりにもバブリーな仕事であった。
UAAは、上述のように既にない。
そして、時代の流れは変わった。習近平体制が発足したのは2013年03月である。そして、前胡錦涛体制期の文芸政策を批判する講和を行う(2015年9月)。「中国中央電視台CCTV」を「巨大なパンツ」と称し批判したというが、いかにもお金のかかりそうな「アイコン建築」は要らない、ということである。市川紘司が『a+u』誌の2003年12月号と2016年3月号の2回の中国建築特集号を比べて指摘しているが[11]、中国での建築の主役は外国人建築家から大勢の若い中国人建築家に取って代わっている。また、大都市を中心に国家事業として建設されるアイコニックな巨大建築から、中国全土に満遍なく展開される小中規模のものへと様変わりしている。
開拓者
■青山 周平(建築家/B.L.U.E.建築設計事務所) あおやま・しゅうへい
1980年広島県生まれ。建築家。B.L.U.E.建築設計事務所主宰、北方工業大学非常勤講師。大阪大学卒業。東京大学大学院修了。清華大学博士課程在籍。修士(環境学)。SAKO建築設計工社を経て、現職。
■岡本 慶三(建築家/odd設計事務所) おかもと・けいぞう
1980年静岡県生まれ。建築家。odd設計事務所共同主宰。工学院大学建築都市デザイン学科卒業。デルフト工科大学大学院修了(Urbanism)。2006年来京,Graft 北京事務所を経て、現職。
■松本 大輔(建築家/FESCH) まつもと・だいすけ
1980年滋賀県生まれ。建築家。FESCH Beijing代表。東京理科大学工学部建築学科卒業。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司を経て現職。
■山本 雄介(建築家/フリーランス)やまもと・ゆうすけ
1989年新潟県生まれ。建築家。フリーランス。長岡造形大学卒業。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司、北京巨方合众建筑規划設計有限公司を経て、現職。
■池上碧(ZAO/standardarchitecture標準営造)いけがみ・あお
1986年東京都生まれ。建築家。ZAO/standardarchitecture標準営造。東京理科大学工学部一部建築学科卒業。2010年〜2013年 北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司2013年より現職
青梅市タウンマネージャー。1976年広島県呉市生れ。慶応義塾大学経済学部、東京理科大学工学部二部建築学科卒。日本銀行にて統計企画専門職を経て建築系へ転向。三分一博志建築設計事務所にて犬島アートプロジェクト担当後、北京市のローカル都市計画建築設計会社で国際プロジェクト部長をつとめ、日中協同チームの編成、プロジェクト責任者として内モンゴル、西安等の遺跡エリアの都市計画に参画。2010年より都市研究ユニットhclab.=市川創太、新井崇俊と共同主宰。2013年より現職。
[1] 拙稿「建築職能リノヴェーション時代」(日本建築学会編(2004)『建築を拓く』鹿島出版会)。
[2] ポール・アンドリュー「国家大劇院」、OMA(L.コールハウス)「中国中央電視台CCTV」、ヘルツォーク&ド・ムーロン「北京国家体育館(鳥の巣)」
[3] 19990831-0909:中国 北京・西安・広州:外務省主催 布野修司講演「日本の現代建築」(北京,広州):同行 孫躍新・韓一兵・鄧奕。
[4] 2004年 南大門センターコース、北京フェリシモ。2005年東京湾岸ストレージ、明洞セルバフォンテ、北京ポプラ、天津カレイドスケープ(東方設計公社と恊働)、2006年 北京シーボル、北京フェリシモ2、杭州ロマンチシズム、2007年 天津ポプラ2、金沢ビーンズ、杭州ロマンチシズム2、バルセロナ イマジナリウム。2008年 済南ストライプス、北京モザイク、北京イフィニ、長春ブランチ、ウランバートル ゴビ、深圳ハニカム、北京ラチス、原宿フラットフラット、上海ポプラ4、越谷フロンテージ、成都イフィニ2、北京ステップス、北京バンプス。2009年 杭州ロマンチシズム3、蘇州ジーンズウエスト、北京ヴォイド、無錫ジーンズウエスト2、北京フォワード、北京ピクセル・モデルハウス、北京アウェイクニング。2010年 、北京マテリアリティ、北京マルコ&マリ、北京ラジアル、北京マラバータ、金華キューブチューブ、深圳タンジー、武漢ジーンズウエスト3、北京リップルズ、廈門アポドン、北京フィレット、豊洲ブラッサム。2011年 、上海ラビリンス、上海ゴボ、銀川スパイラル。2012年北京グリッド、天津ループ、天津ジグザグ、麗水ニッキー、北京アスタリスク、北京トリプル、広州グリッド2、新郷フォレスト、上海コクーン、北京ピクセル。2013年 北京シェルブズ、上海グリッド、北京ファミリーボックス、北京シルク、福岡アトリエ、博多ピンク、小松ツリーズ。2014年 北京チェッカーズ、北京パティオ、深圳ファミリーボックス2、成都ヘキサゴン、小倉アトリエ、名古屋アトリエ、渋谷アトリエ
[5] 『情熱大陸』2008年1月13日(毎日放送)『ANA WORLD AIR
CURRENT』2010年2月6日(J-WAVE)『体験北京ペキンPeKING!』2010年6月27日 (旅チャンネル), 2010年11月14日(チャンネル銀河)『クローズアップ現代』2011年1月17日(NHK)『地球テレビ エル・ムンド』2011年4月12日(NHK BS1)『ワールドビジネスサテライト』2011年8月26日(テレビ東京)『NHKスペシャル』2012年1月1日(NHK総合)『サンデーモーニング』2012年1月22日(TBS)『NEWSアンサー』2012年3月6日(テレビ東京)『ニッポン創造』2012年7月21日(日本テレビ)『ガイアの夜明け』2012年9月18日(テレビ東京)『Beyond Borders』2013年8月31日(NHKワールド)『J-Architect』2014年1月30日(NHKワールド)『SWITCHインタビュー 達人達』2014年4月19日(NHK)
[6] 布野修司講義「都市フィールドワークの開拓」2011年8月日布野修司講義「スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生」中国環境都市建築研究会、建外SOHOB座3001 UAA会議室、2012年8月20日
[7] 設計費はないが、家族が出すのは総工費のほんの一部で、施工費のほとんどはテレビ局のスポンサーから出る。北京だと四合院、上海だと石庫門、重慶だと高層ビルといったように、全国各地の特徴的な物件を取り上げる。週1回の放映という。
[8]これまでに主会場となったのは、大柵欄地区、798芸術区、751芸術家区、三里屯地区の4地区である。
[9] 張飼是 ZAO/standardarchitecturewww.standardarchitecture.cn創設者。北京世界大学卒。ハーバード大学大学院デザインスクール修了。受賞:China Museum Architecture Award, Winning Prize, 2013/ Good Design
Award (Ming Tray for Alessi), 2012GQ designer of the year, 2012/International
Award Architecture in Stone, Verona Italy, Winner, 2011/Design Vanguard of the
World (Architecture Record),2010/Chernikov Prize, Special Mention (top ten
young architects in the world), 2010 WA Chinese Architecture Award, Winning
Prize, 2010/China Architecture Media Award (CAMA), Best Young Architect Prize,
2008 WA Chinese Architecture Award, Winning Prize, 2006
[10] この間の建築事情については、市川紘司編(2014)『ねもはEXTRA 中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』(フリックスタジオ)が詳しい。
[11] 市川紘司「MAD
Architectsとは誰か―中国で継承されるアンビルドの想像力」『建築討論』008号(2016年5月)。
[12] 國廣純子「都市空間の中に写す経済のかたち」『建築討論』009号(2016年7月)