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2021年5月15日土曜日

北京建築修業、そしてデビューへ 大雑院の改造 ■山本 雄介(開拓者08)■松本 大輔(開拓者09)■青山 周平(開拓者10)■岡本 慶三(開拓者11)■池上碧(開拓者12)

 進撃の建築家 開拓者たち 第10回 開拓者0812 山本 雄介(開拓者08)松本 大輔(開拓者09)青山 周平(開拓者10)岡本 慶三(開拓者11)池上碧(開拓者12 北京建築修業,そしてデビューへ 「大雑院の改造」『建築ジャーナル』 20176(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第10回 開拓者0809101112                   建J  201706

 

 北京建築修業、そしてデビューへ

大雑院の改造

山本 雄介(開拓者08松本 大輔(開拓者09青山 周平(開拓者10岡本 慶三(開拓者11池上碧開拓者12

 

布野修司 

 

若い建築家がデビューするのはいつの時代も容易くはないが、近年ますます難しくなりつつある。とりわけ、新築が少なくなっていく日本でチャンスがさらに少なくなるのは当然である。かつては親や親戚の住宅設計の仕事を得て「新奇」なデザインでデビューするケース(「父を殺し、母を犯せ」(磯崎新))が考えられたが、現在身近なのはリノべーションの仕事である。社会がますます複雑化し、建築設計の諸手続きが高度化することで、実績のない若手が参加できるコンペは少なくなったし、アトリエ派の建築家のところで修業して独立するケースもめっきり減った。

日本のそうした建築環境が大きく変わる中で建築家として生きていくとしたら、①建築のメンテナンス、コンヴァージョン、リノべーションの技術・技能を身につける(アーキテクト・ビルダー、建築職人)こと、②まちづくりへと展開する(コミュニティ・アーキテクト)こと、③建築需要の多い海外へ行くこと、の3つの道が考えられると繰り返し書いてきた[1]。実際、魚谷重則(前号、前々号)の場合もそうであるが、2014年に吉岡賞を受けた403architecture [dajiba]ど、リノべーションの仕事を出発点とする建築家は少なくない。③については、いきなり中東産油国やアフリカが難しければ、中国、そしてインドだろう、と言ってきた。人口が多いし、これから市場が開かれる可能性があるからである。中国人留学生に僕はどうすればいいですかと聞かれて、日本で修業してすぐ中国に帰りなさい、と苦笑いしたことがあるが、中国は21世紀の最初の10年熱気にあふれていた。そうした中で、中国に渡った若い建築家たちがいる。

 中国建築ブーム

中国が国内総生産GDP(名目)で日本を抜いて世界2位となるのは2009年である。2008年に北京オリンピックを成功裏に終え、2010年の上海万博を迎えようとする時である。この間、中国の建築シーンは活気に溢れていた。ザハ・ハディド、レム・コールハウス、ヘルツォーク&ド・ムーロンといった世界的に著名な建築家たちが数々の話題作[2]をものする一方、プリツカー賞を受賞した王澍や海外でも活躍するMAD Architectsを率いる馬岩松など世界的にも認められる中国人建築家も育ってきた。そして、日本人建築家も中国に招かれ、活躍することとなった。

僕が中国を最初に訪れたのは19953月である。阪神淡路大震災の後で滞在中に地下鉄サリン事件が起きたことを覚えている。その後、『日本当代百名建築師作品選』(布野修司編,布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,1997年、中国国家出版局優秀科技図書賞受賞)を出版し、それが縁で外務省主催の講演会「日本の現代建築」[3]を北京と広州で行ったのは1999年である。その頃、中国の建築界はまだそう沸いてはいなかった。しかし、その予兆はあった。華南理工大学(広州)での僕の講演には500人を超える学生たちが集まったのである。日本の現代建築への関心には並々ならぬものがあった。その後まもなく、布野研究室出身の孫躍新、段煉孺、韓一兵も様々な仕事の話を持ち掛けてくるようになるのである。韓一平の母親は、中国十大建築師の一人張錦秋で、西安を拠点に、陝西省博物館など数々の作品がある。空海最寄りの青龍寺の記念碑、玄宮園の阿倍仲麻呂記念碑のデザインでも知られる。

2002年に北京を訪れた時には、山本理顕の「北京建外SOHO」(2003)の現場が始まっていた。その現場にいたのが、その後まもなく独立して中国で活躍する迫慶一郎である。迫は、2004年に独立、SAKO建築設計公社を設立している。そして、『北京パンプス』(2008)『北京モザイク』(2009)『金華キューブチューブ』(2010)『北京ピクセル』(2012)など集合住宅を中心とする作品を次々に実現することになった[4]。その活躍ぶりは日本のTV番組でも何度も取り上げられた[5]。この時北京大学に籍を置いていて中国で仕事をすることを決意していた、そしてまもなく日中を股にかけるスターになったもうひとりの建築家に会ったけれど、その後の彼については省こう。

その後、まさに中国が世界2位の経済大国になった頃、中国に渡った多くの若い日本人建築家たちがいる。リーマンショック(2008年)の余波もあったと思う。日本で就職するより仕事の機会があったのである。滋賀県立大学布野研究室の川井操(現滋賀県立大学助教)くんは、西安工程大学(段煉孺工作室研究生)に留学し200510-200610)、西安旧城地区について学位論文(2010年)を書いた後、北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司UAAUrbanization Architecture Atelier)に勤めた(20111-20131月)。その縁で、北京に活躍の場を求めた若い建築家に会う何度か機会があった[6]。東京大学に留学経験がある劉域によって設立されたUAAは、山本理顕設計の北京建外SOHOに事務所を置いて多くの日本人を受け入れていたのである。東京大学で同じ鈴木博之研究室で学んだパートナーである鏡壮太郎くんはUAA Tokyoの責任者でもあった。

しかし、UAAはいまやない。出身のオルドス(内蒙古モンゴル自治区)で大きなプロジェクトを得て景気はよかったのであるが、建設市場が飽和に達し、下降し始めると撤退を余儀なくされたのである。

 

大雑院に住む

 彼らの多くは、当初、北京の東北方面、二環(第二環状道路)から三環にかけて、マンションを共同で借りて住んだ。しかしまもなく、北京のマンションの値上がりは激しく、都心から遠い場所に住処を求めざるを得なくなったという。北京のマンションの価格地図をみると空港に向かう東北が高く、値上がりも激しい。そして、同じお金を払うのであれば、折角北京に住むのだから、郊外に住むよりも改造も比較的自由な都心の大雑院に住んだ方がいい、ということになった。

UAAをやめてフリーランスになった山本雄介くん(図①)は、望京エリアにあるマンションに同僚の松本大輔くん(図②)と一緒に住んでいたけれど、割と安い値段で単身用の部屋を借りられるという話を聞いて、旧城エリアに引越した。リビングとベッドルームが路地を介して分かれている、なんともユニークな住居だ(図①ab)。もともと綺麗好きで雑院には住めないなと思っていたけれど、生まれた時から公共トイレを使っていた、シャワーを浴びるときは外に出ていた、と思うようになった。今はもう全然抵抗ないという。

松本大輔くんも、UAAをやめて事務所を立ち上げ、旧城地区の大雑院に引越した。なかなかセンスがある。最小の空間をうまく使っている(「WZN56」図②abc)。興味深かったのは、改修とともに下水管の敷設も提案している点である。大雑院に共住する中国人居住者の反対でうまくいかなかったというけれど、大雑院全体の居住環境全体の改善への一歩である。




中国版ビフォー&アフター

  青山周平くん(図③)は、SAKO建築設計工社を経て事務所を立ち上げ、やはり、旧城地区に移り住んだ(図③de)。そして今や四合院改造のスターである。きっかけは『夢想改造家』という上海のテレビ局の番組関係者からの依頼だったという[7]。テレビ局側がボロボロで劣悪な居住環境の雑院を探してきて、リノヴェーションの過程を番組にする。中国版ビフォー&アフターである。中国でも人気番組だという。見せてもらったのは「二家族のための三つの家」という雑院にそれぞれ仕掛けを組み込んだ小さな3つの空間である。仕掛けが楽しい。要するに狭い空間を広く使うために、晴れた日には家具を引き出す、ベッドの下などありとあらゆる隙間を収納にする、床を上げ下げする、様々な工夫がビルドインされているのである(図③abc。放映のタイトルは「首位外籍花美男設計師改造6.8平学区房与奇葩隣居同吃同住」である(『梦想改造家』第二季第四期2015811日放送、放映局:東方工視放映動画)。どうも人気の秘密は「イケメン」「外国人建築家」ということもあるらしい。








 岡本慶三くん(図④)は、2006年に北京にきて,Graftというドイツ系の会社を経て、oddという事務所を立ち上げた。勤めていたGraft胡同の中に四合院を改修して事務所をつくり、四合院の環境が快適なので住んでみたいと思うようになっていたという。移り住むきっかけは、2013年頃のマンションの家賃の急騰で、雑院に先に改修費を投資すれば、綺麗かつマンションと同じ価格で住めるんじゃないかと考えたという。今は家族で雑院に住む。大家さんとの関係も良好で行き来もあるという(「keizo house」図④ab)。その後、旧城地区で2件の住宅と1件のレストランを設計し、北京デザインウィークにも参加し始め、大柵欄地区で「猫の家」という、胡同のもう一人の住民である猫を視覚化する設計を試みた。家族とともに北京の建築家として、生活していく基盤が既に築かれつつある。



大柵欄―北京デザインウィーク

 大柵欄といえば、北京外城の繁華街、北京の観光地である。内城のグリッドは崩れているが、基本的には四合院と店屋(ショップハウス)で構成される。北京デザインウィークBJDWは、2011年より毎年国慶節に北京市で開催される国際デザインイベントである。毎年2000人以上のデザイナー、機関運営者、各種専門家が参加し、 500万の来場者がある(図⑥ab)。街を舞台にした実に興味深い取り組みである[8]。日本の各都市でもやったらいい、むしろお手本にすべきである。


大柵欄で、興味深かったのはZAO/standardarchitecture標準営造が四合院につくった図書館など小さなコミュニティ施設「No.8 Cha'er Hutong」である(図⑦abcd)。訪れた時は工事中というか、それこそ大雑院そのものの印象であったが、胡同再生の提案として面白いと思った。このZaoUAAから移籍したのが、東京理科大の宇野求研究室出身の池上碧くんである(図⑤)。Zaoの事務所を案内してもらった(図⑧abcd)。中庭の広い優雅な事務所である。張飼是[9]には会えなかったが、若い建築家が蝟集するアトリエである。スタッフのFANG Shujunさんは、上海交通大学卒業して、スイス連邦工科大学ETHチューリッヒ校修了でスイス連邦認定建築家である。2014年よりZaoに勤める中国女流建築家のホープである。帰国後しばらくしてNo.8 Cha'er Hutong」がアガ・カーン賞(2016年)を受けたと聞いた。北京のZaoで若い建築家たちが議論しながら仕事する。しかも、微胡同Micro Hutongについて考え、提案する。可能性に満ちた場があると思う。 




 






アイコン建築批判

 北京オリンピック、上海万博で盛り上がり、数々の建設プロジェクトが動いた。そして多くの外国人建築家が招かれた。多くの建築家を参加させる大規模プロジェクトは「集群設計」と呼ばれるが、その象徴が「オルドス100」と呼ばれるプロジェクトである。内モンゴル自治区の江源水工程有限会社の事業で、アイ・ウェイウェイとヘルツォーク&ド・ムーロン(スイス)がマスタープランを担当、日本からは五十嵐淳、藤本壮介が招かれた[10]。劉さんはオルドスの出身で、区政府と強いパイプを持っていたけど、あまりにもバブリーな仕事であった。 UAAは、上述のように既にない。

 そして、時代の流れは変わった。習近平体制が発足したのは201303月である。そして、前胡錦涛体制期の文芸政策を批判する講和を行う(20159月)。「中国中央電視台CCTV」を「巨大なパンツ」と称し批判したというが、いかにもお金のかかりそうな「アイコン建築」は要らない、ということである。市川紘司が『a+u』誌の200312月号と20163月号の2回の中国建築特集号を比べて指摘しているが[11]、中国での建築の主役は外国人建築家から大勢の若い中国人建築家に取って代わっている。また、大都市を中心に国家事業として建設されるアイコニックな巨大建築から、中国全土に満遍なく展開される小中規模のものへと様変わりしている。

  そうしたなかで、若い日本人建築家が胡同にじっくりと根を下ろしながらしっかりした活動を開始しつつある。歴史を振り返ってみて、かつて大陸へ渡った日本人建築家の位相とはもとより異なる。そして、バブリーな資本がアイコン建築を求めて海外建築家を求める位相とも異なる。国際的建築家の草の根レヴェルの全くあらたなあり方の萌芽と言っていいと思う。求められているのは地域レヴェルの経験交流である。池上碧くんのパートナーで、UAAで国際プロジェクト部長として日中共同チームの編成を行った國廣純子さんは、2013年から青梅市でタウンマネージャー[12]を務めた後、いずれ北京で仕事するという。もちろん、中国-日本の関係について予断は許されない。しかし、中国で奮闘する若い建築家たちの今後に大いに期待したいと思う。

 

 

開拓者

青山 周平(建築家/B.L.U.E.建築設計事務所) あおやま・しゅうへい

1980年広島県生まれ。建築家。B.L.U.E.建築設計事務所主宰、北方工業大学非常勤講師。大阪大学卒業。東京大学大学院修了。清華大学博士課程在籍。修士(環境学)。SAKO建築設計工社を経て、現職。

岡本 慶三(建築家/odd設計事務所) おかもと・けいぞう

1980年静岡県生まれ。建築家。odd設計事務所共同主宰。工学院大学建築都市デザイン学科卒業。デルフト工科大学大学院修了(Urbanism)2006年来京,Graft 北京事務所を経て、現職。

松本 大輔(建築家/FESCH) まつもと・だいすけ

1980年滋賀県生まれ。建築家。FESCH Beijing代表。東京理科大学工学部建築学科卒業。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司を経て現職。

山本 雄介(建築家/フリーランス)やまもと・ゆうすけ

1989年新潟県生まれ。建築家。フリーランス。長岡造形大学卒業。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司、北京巨方合众建筑規划設計有限公司を経て、現職。

池上碧(ZAO/standardarchitecture標準営造)いけがみ・あお
1986
年東京都生まれ。建築家。ZAO/standardarchitecture標準営造。東京理科大学工学部一部建築学科卒業。2010年〜2013 北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司2013年より現職

 

 

青梅市タウンマネージャー。1976年広島県呉市生れ。慶応義塾大学経済学部、東京理科大学工学部二部建築学科卒。日本銀行にて統計企画専門職を経て建築系へ転向。三分一博志建築設計事務所にて犬島アートプロジェクト担当後、北京市のローカル都市計画建築設計会社で国際プロジェクト部長をつとめ、日中協同チームの編成、プロジェクト責任者として内モンゴル、西安等の遺跡エリアの都市計画に参画。2010年より都市研究ユニットhclab.=市川創太、新井崇俊と共同主宰。2013年より現職。

 



[1] 拙稿「建築職能リノヴェーション時代」(日本建築学会編(2004)『建築を拓く』鹿島出版会)。

[2] ポール・アンドリュー「国家大劇院」、OMA(L.コールハウス)「中国中央電視台CCTV」、ヘルツォーク&ド・ムーロン「北京国家体育館(鳥の巣)」

[3] 199908310909:中国 北京・西安・広州:外務省主催 布野修司講演「日本の現代建築」(北京,広州):同行 孫躍新・韓一兵・鄧奕。

[4] 2004 南大門センターコース、北京フェリシモ。2005東京湾岸ストレージ、明洞セルバフォンテ、北京ポプラ、天津カレイドスケープ(東方設計公社と恊働)、2006 北京シーボル、北京フェリシモ2、杭州ロマンチシズム、2007 天津ポプラ2金沢ビーンズ、杭州ロマンチシズム2、バルセロナ イマジナリウム。2008 済南ストライプス、北京モザイク、北京イフィニ、長春ブランチ、ウランバートル ゴビ、深圳ハニカム、北京ラチス、原宿フラットフラット、上海ポプラ4、越谷フロンテージ、成都イフィニ2、北京ステップス、北京バンプス。2009 杭州ロマンチシズム3、蘇州ジーンズウエスト、北京ヴォイド、無錫ジーンズウエスト2、北京フォワード、北京ピクセル・モデルハウス、北京アウェイクニング。2010 、北京マテリアリティ、北京マルコ&マリ、北京ラジアル、北京マラバータ、金華キューブチューブ、深圳タンジー、武漢ジーンズウエスト3、北京リップルズ、廈門アポドン、北京フィレット、豊洲ブラッサム。2011 、上海ラビリンス、上海ゴボ、銀川スパイラル。2012北京グリッド、天津ループ、天津ジグザグ、麗水ニッキー、北京アスタリスク、北京トリプル、広州グリッド2、新郷フォレスト、上海コクーン、北京ピクセル。2013 北京シェルブズ、上海グリッド、北京ファミリーボックス、北京シルク、福岡アトリエ、博多ピンク、小松ツリーズ。2014 北京チェッカーズ、北京パティオ、深圳ファミリーボックス2、成都ヘキサゴン、小倉アトリエ、名古屋アトリエ、渋谷アトリエ

[5] 情熱大陸2008113日(毎日放送)『ANA WORLD AIR CURRENT201026日(J-WAVE)『体験北京ペキンPeKING!2010627日 (旅チャンネル, 20101114日(チャンネル銀河)『クローズアップ現代2011117日(NHK)『地球テレビ エル・ムンド2011412日(NHK BS1)『ワールドビジネスサテライト2011826日(テレビ東京)『NHKスペシャル201211日(NHK総合)『サンデーモーニング2012122日(TBS)『NEWSアンサー201236日(テレビ東京)『ニッポン創造』2012721日(日本テレビ)『ガイアの夜明け2012918日(テレビ東京)『Beyond Borders2013831日(NHKワールド)『J-Architect2014130日(NHKワールド)『SWITCHインタビュー 達人達2014419日(NHK

[6] 布野修司講義「都市フィールドワークの開拓20118月日布野修司講義「スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生」中国環境都市建築研究会、建外SOHOB3001 UAA会議室、2012820

[7] 設計費はないが、家族が出すのは総工費のほんの一部で、施工費のほとんどはテレビ局のスポンサーから出る。北京だと四合院、上海だと石庫門、重慶だと高層ビルといったように、全国各地の特徴的な物件を取り上げる。週1回の放映という。

[8]これまでに主会場となったのは、大柵欄地区、798芸術区、751芸術家区、三里屯地区の4地区である。

[9] 張飼是 ZAO/standardarchitecturewww.standardarchitecture.cn創設者。北京世界大学卒。ハーバード大学大学院デザインスクール修了。受賞:China Museum Architecture Award, Winning Prize, 2013/ Good Design Award (Ming Tray for Alessi), 2012GQ designer of the year, 2012/International Award Architecture in Stone, Verona Italy, Winner, 2011/Design Vanguard of the World (Architecture Record),2010/Chernikov Prize, Special Mention (top ten young architects in the world), 2010 WA Chinese Architecture Award, Winning Prize, 2010/China Architecture Media Award (CAMA), Best Young Architect Prize, 2008 WA Chinese Architecture Award, Winning Prize, 2006

[10] この間の建築事情については、市川紘司編(2014)『ねもはEXTRA 中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』(フリックスタジオ)が詳しい。

[11] 市川紘司「MAD Architectsとは誰か―中国で継承されるアンビルドの想像力」『建築討論』008号(20165月)。

[12] 國廣純子「都市空間の中に写す経済のかたち」『建築討論』009号(20167月)

2021年5月14日金曜日

 アーバン・ディレクターと持続可能な街区システム  住宅リノベーションの作法 魚谷繁礼(開拓者06)+魚谷みわ子(開拓者07)

 進撃の建築家 開拓者たち 第9回 開拓者0607 魚谷繁礼・魚谷みわ子(後編) アーバン・ディレクターと持続可能な街区システム 「嶋原のシェアハウス」『建築ジャーナル』 20175(『進撃の建築家たち』所収)


 

 アーバン・ディレクターと持続可能な街区システム 

住宅リノベーションの作法

   魚谷繁礼(開拓者06)+魚谷みわ子(開拓者07


布野修司

 


「京都の旧市街ともいえるようなエリアをくまなく歩き廻った。建物に囲まれた街区の中央のようす窺うため、ありとあらゆる路地や建物間の隙間、建物の非常階段などから侵入を試みた。アスファルトの上を車が行き交う街路からは想像もしえないような、植物が生い茂り、猫が走り回り、低層町家の屋根の上にテラスが架けられ洗濯物が干された混沌とした風景を街区の中央に見出したとき、心が躍った。」(魚谷繁礼「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」)。

心が躍った、というのは、何となくわかる。カンポンにシンパシーを抱く僕も同じタイプなんだと思う。1990年代前半の京都には、まだまだ甲斐扶佐義[1]さんの撮るような京都(図①)は残っていたし、今でも、路地の奥の奥、いわゆる「アンコ」の部分にかつての「京都」は残っている。

街区中央の空閑地を塀で取り囲み市中の山居を見出した近世の京町家」よりも、街区中央の空閑地に公衆便所や共同の物干し場などが設置された「中世の京町家」を参照する視点が有効ではないかと魚谷君はいう。問題は、それはいかに可能なのか、である。その後の数多くのリノベーションの作品群をみると、必ずしも「京都型住宅モデル」が前提とされているようには思えない。京都といっても、場所によって敷地の条件が異なるから当然と言えば当然である。そして、そもそもいわゆる「京町家」のみがターゲットにされているわけではない。日本の都市における在来木造住宅(広義の町屋)の再生、そして都市の更新システムを視野に収めることにおいて、もしかすると、その仕事の射程はより広く長いと言えるのではないか。



 

「田の字」地区―巨大マンションの出現

修士論文の成果は、今のところ2本の論文[2]として発表されている。

20世紀末から21世紀にかけて、京都の都心「田の字」地区ではとんでもない事態が進行していくことになった。京都都心部の在来の木造住宅はこの間一貫して減少してきた。木造住宅の建設を許さない法的規定のもとではそれは当然の流れであり、日本中どんな都市でも同様である。少子高齢化が進行する多くの地方都市の木造住宅は空き家として放置され朽ち果てる運命にある。地価が上昇する場合、収益を求めて、あるいは相続税が払えず、売却するか土地を一部分割せざるを得なくなるというのが一般的なパターンである。すなわち、土地は細分化、分筆されるのが普通であるが、「田の字」地区では、土地が合筆され、巨大なマンションが林立し始めたのである。論文はその過程に焦点を当てるものであった(図②a)。

同じ巨大マンションの居住者の学区が異なる事態は異常である。この変化は、京都の歴史始まって以来の大変化といっていい。その歴史において、戦乱や火災で大きく変容を遂げてきた京都であるが、曲がりなりにも維持してきたグリッドの街区パターンが大きく変わる事態だからである。魚谷・池井・正岡チームによる「京都型住宅モデル」の提案は、この事態に対する解答であった。すなわち、京都を京都として成り立たせてきたものは、街区パターンであり、町割りのパターンである、という提起である。「京町家」の意匠、デザイン・ヴォキャブラリーではない、少なくとも、拘りはない。むしろ、危機感に駆り立てられているのは、街区中央(「アンコ」)の「心が躍る」「混沌とした風景」の喪失である。

 

住宅リノベーションの作法

 「京都型住宅モデル」が構法システムの提案を含んでいることは前述のとおりである。その後「型」としての展開はない。むしろ、個別事例に対する実践的解答が試みられてきた。といっても、ただ単に個別的条件における個別的対応(作品)が積み重ねられてきたわけではない。常に「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」が念頭に置かれている。『住宅リノベーション図集』には26の事例(図③)が収められているが、プランニング、構造、諸室展開、ディテールについて一般化可能な作法が見事に整理されている。


 残すところと変えるところを定める。当然の作法であるが、洗面、風呂場など近年になって手を入れた水回りが痛み、モルタルで包んだ柱が腐食したり、蟻にやられたりというのは現代の建築技術そのものが全体的なシステムを失っていることを示す。全事例を通じて、白いバスタブをそのまま開放的に見せているのが印象的であるが、水の流れ、溜まりを可視化する意図がある。場合によっては、減築し、通風、日差しの確保のために、中庭、坪庭を設ける。これも当然の作法であるが、「京町家」の基本構成を無視する形で増改築がなされてきたことを示している。さらに、原型を留めない場合、一旦裸(スケルトン)にした上で、組み立てなおす。「壬生東檜町の住宅」(図④)や「森中町」は小住宅を構成しなおした例である。また、「元本満寺の住宅」の場合、柱が細く補強することになり、「町家らしからぬ」分厚い壁が生まれることになった。もとの町家をそのまま復元するのではなく、新たな空間を提起することもリノベーションの作法のひとつである。


 そして、興味深いのが複数の住宅を合わせてリノベートする作法である。

 「晒屋町の長屋群」、袋路に沿って建てられた4軒の住宅を3軒の住宅にする「深草開土町の住宅群」、路地奥の平屋と2軒長屋を1軒の住宅にする「頭町の住宅」、同様に3軒を1軒にする「永倉町の住宅」(図⑤ab)、2軒の連棟町家を1軒にする「新釜座町の町家」などの他、大規模の町家やお茶屋、長屋をシェアハウスや宿泊所にする「東福寺のシェアハウス」「嶋原のシェアハウス」(図⑥abc)「十四軒町のシェアハウス」「宮川町の宿」「御所西の宿群」など、住居集合の単位が様々に生み出されているのである。

 

在来木造構法の自由

 数多くのリノベーションの事例をみながら、第一に思うのは、在来木造建築の自在さである。先頃、A-Forumhttp://a-forum.info/)の「アーキテクト/ビルダー研究会」[3]で、日本の在来木造がほぼ解体の危機に瀕しているという衝撃な報告を聞いた。プレカットが90%を超えるというのはともかく、構法がガタガタで、ツー・バイ・フォーとさして変わらない実態なのである。京都の場合、古都ということもあって、数多くの木造住宅が残されてきたのであるが、東京のような大都市圏では、在来の軸組工法は最早絶滅危惧種という。ということは、在来木造住宅のリノベーションの取組は、間違いなく歴史的な意義をもっていることになる。そして興味深いのは、それを必要とする歴史的条件がとりわけ京都において出現したということである。

 ひとつは、制度の隙間が突破口になった。1950年の建築基準法制定以前の木造住宅は既存不適格であるが、大規模な修繕や増改築、特殊な建物へ用途変更を伴わなければ、改悪がない限り、現行法の遡及はない。すなわち、新築では建設できない建築もリノベーションだと可能になるのである。例えば、防火規定のかかる地区でも現状の開口部が木製であれば、引続き木製建具を用いることができるのである。この突破口については、かつて「京町家」再生の制度手法や防火手法を検討した時には、全く視野外に置かれていたものである。1990年代半ばには、必ずしも木造住宅一般をリノベーションする発想はなかった。「京町家」再生という場合、良質の町家をレストランやカフェ、ホテル、ブティークなどに用途転用するという発想が主であった。

 そして、時代の要求がある。外国人観光客の増加に対応するための宿泊施設の需要がすさまじい(旅館業法の許可申請は2012年には3件であったが、2015年には260件を超えたという)。また、学生の街として、また、少子高齢化社会に対応するシェアハウスの需要もある。1995年の阪神淡路大震災以降は、耐震補強が課題になりこそすれ、再利用の需要の流れがないから改修も大きな流れにならなかったし、それどころか、巨大なマンションが出現したのである。 

都市をリノベートする

 「都市をリノベートする」のだと魚谷君はいう。既存のストックの有効利用は、伝統的な環境を維持しながら空家対策にもなる。既存不適格であれ、その空間を住み継いでいくことが、都市そのもののリノベーションにつながる、というのが魚谷君の戦略である。京都の地割のシステムと在来木造の軸組構造システムがそれを支える。魚谷君をはじめとする若い建築家諸君の京都における住宅リノベーションの試みは、ぎりぎりのタイミングで、その2つのシステムを再生することの有効性を示していると思う。

もちろん、2つのシステムの存続も、京都の将来についても、楽観的予断は許されない。宿泊施設の増加は京町家街区の攪乱要因にもなりつつあるからである。古都京都のグローバル観光化については、「町家改修のように外見は残しながら、中の人はグローバルに流動する。表層としては持続しているように見えて、そこで暮らしを営んできた人が抜けていくことで社会や地域を持続させてきた文化やスキルがどんどん失われている。」といった指摘もなされるのである(「古都のグローバル化と建築家の展開」森田一弥、魚谷繁礼、木村吉成、文山達昭、阿部大輔。司会:川勝真一http://touron.aij.or.jp/2016/12/3110)。

しかし、投資を目的とした町家やビルの買い上げ、グローバル観光地化による宿泊施設の増加、それによる土地価格の上昇といった新たな状況への対応ということであれば、京都は一貫してそうした経済(景気)動向に左右されてきたのであって、失われていくものを嘆いているだけでは力にならない。問題は、大きな需要と投資の流れを捉えて、持続可能な街区更新の仕組みを構築できるかどうかということである。

京都で巨大なマンションが建ち始めた頃、ライデンで開かれた「都市変化のディレクター」をめぐる国際シンポジウム(2002年)での議論を思い出す。「果てしない東京プロジェクト:破滅か再生か:コミュニティ・デザインの時代をめざして」[4](「東京:投機家と建設業者の楽園」[5])と題してしゃべったのだが、比較としてアムステルダムが取り上げられた。アムステルダムは、ここ何十年来、人口も一定、観光客も一定で、ボアリングだ、東京はエクサイティングというので、アムステルダムにはサステイナブルな仕組みがある、都市に必要なのはその仕組みではないか、と返したのである。京都が目指すべき方向は間違いなく後者であろう。

 

アーバン・ディレクター

都市変化、すなわち都市をリノベートするディレクターは誰か(というのが上記のシンポジウムのテーマであり、実は、発展途上国の開発独裁の国の大統領ファミリーなどにも焦点を当てるものであったのだが)。魚谷君の頭にあるのは、「アンコ」の部分を共有地とする街区居住者たちである。

少し前になるけれど、魚谷君の事務所近くの五条楽園を案内してもらったことがある。観光客のみならず投資目的の外国人が急速に増えていることについて、この土地はどうでこの建物はこうでと実に詳しい。歩いていると、そこら中の喫茶店やレストランのオーナーやスタッフから声をかけられる。「地回りやくざ」みたいだねと笑ったのであるが、そのネットワーク力はすごい。みわ子さんに聞くと、ちょっと出かけてくる、といって事務所を出ると、いつ帰ってくるかわからないという。

魚谷君は、デビュー以前から都市居住推進研究会、そして現代京都都市型住居研究会を活動の核にしてきた。そして今や経済産業省中心市街地商業等活性化支援業務有識者検討会」の委員をはじめとして、国、自治体の数々の委員会の委員を務める。一方で、街歩きを続けながら街区居住者とのネットワークを拡大し続けている。魚谷君の人当たりの良さ、組織力は、問題点ばかり指摘する僕にはとてもまねのできない天性のものだろう。かと思うと、「アンコ」の部分の共有性を担保するためには公的なガイドラインは必要だからという一方で、だけど制度対応には限界があるでしょ、といったりする。したたかでもある。

 

建築表現の力

今回は、「京町家」そして京都における住宅のリノベーションの仕事に焦点を絞らざるを得なかったけれど、その仕事は住宅以外、京都以外へと広がりつつある。海外からの声もかかる。魚谷君が今回見せたがった(ように思えた)のはを「日本建築家協会関西建築家新人賞」(2012)を受賞した「京都西都教会」である(図⑦)。たまたま夕刻になったのだけれど、自然の光の扱いに意を巧んだ賞に値する作品と思ったけれど、住宅リノベーションの仕事とのつながりについては、ピントはこなかった。気になったのは、京都では「地の建築に拘る」(すなわち京都の地割とリノベーションに徹する)という言い方である。「地」とは「図」に対する「地」であるが、見るところ魚谷君には「図」としての建築への思いが捨てがたくあるように見える。加子母木匠塾の神社の拝殿、そして町家をスケルトンにして箱を入れ子に貫入させるいくつかの作品にそれを感じる。「彦根の基地」「守山中学校設計競技応募案」などもそうである。

魚谷君の精密な住宅リノベーションの個々の解答を確認しながら、山本理顕さんを思い浮かべていた。理顕さんの計画学には若い頃から寄り添ってきた。しかし、不遜にも山本理顕には表現論がない、と書いたことがある(『建築少年たちの夢』第四章「家族と地域のかたち」)。正確には、表現論として理顕さんが書いたものがないということであるが、理詰めのその建築方法論が受け入れられる背景には、表現の力があるからであり、それが必要だということである。そして、僕がさらに見たいのは、京都を拠点にしながら、世界を股に掛ける魚谷君の展開である。欲張りであろうか。



[1] 1949年大分生まれ。写真家、エッセイスト、翻訳家、ほんやら洞(京都市上京区、2015121日閉店)、八文字屋(京都市中京区)の経営者。「地図のない京都」径書房, 1992、「美女365日」東方出版, 1994、「Kids」京都書院, 1998、「京都猫町さがし」中公文庫, 2000、「路地裏の京都」道出版, 2008、「ほんやら洞日乗」風媒社, 2015など。

[2] 魚谷繁礼・丹羽哲矢・渡辺菊眞・布野修司「京都都心部の街区類型とその特性に関する考察」、日本建築学会計画系論文集 第598号、2005年。魚谷繁礼・丹羽哲矢・渡辺菊眞・布野修司「京都の都心部における大規模集合住宅の成立過程に関する考察」『日本建築学会計画系論文集、第591号、2005年。

[3] A=Forum アーキテクト/ビルダー(「建築の設計と生産」)研究会 日本建築学会『建築討論』共催4回 建築職人の現在―木造住宅の設計は誰の責任なのか?コーディネーター:安藤正雄+布野修司+斎藤公男。(a)  木造住宅設計の問題:直下率と安全性 村上淳史村上木構造デザイン室)。 (b)  工務店と大工育成問題:蟹沢宏剛(芝浦工業大学)。日時:平成29113日)。

[4] Never Ending Tokyo Projects Catastrophe? or Rebirth? Towards the Age of Community Design International IIAS workshop MegaUrbanization in Asia Directors of Urban Change in a Comparative Perspective International Institute for Asian Studies (IIAS) Leiden University Leiden 1214 December 2002

[5] Shuji FunoTokyoParadise of Speculators and Buildersin Peter J.M. Nas(ed.)“Directors of Urban Change in AsiaRoutledge Advances in AsiaPacific StudiesRoutledge2005